宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

草間彌生展を見て

 草間彌生展を観てきました。
好きか嫌いかは別にして、草間作品はどれもすごくインパクトがあり、思わず引き込まれると言うか、少なからず心に影響を受けますね。絵だけで何らかの感情を人に起こさせる、それがインフルエンスする、それだけでもすごい才能だと思います。
 幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされてきて、それを何とか解決しようとして、視えるもの聴こえてしまうものを絵に吐き出すことで正気を保つ。。。それはそれは辛い人生ですよね。
 たとえ人からは天才と評価されもてはやされようと、毎日世界がこんなふうに視えてしまう能力と引換に、神様が絵の才能を与えたのなら、一体神様は残酷なのか公平なのか、分からないですね。
 私ならこんな才能要らないから視えないほうがいいと思ってしまいますが、それは凡人の考え方で、天才の思考からすると、どちらも天から授かった能力だからそれを活かさねば、という使命感なり、視えるのがつらいからとかそんな理由付けは関係なしに描かずには居られない衝動なり、またはもっと計り知れない脳の働きがあるのかも知れません。一般庶民には到底分からないことですね。
 第2展示室の若い頃の作品群は、暗く心の苦しみや叫びをそのまま描いたことがストレートに伝わるものが多く、暗い色彩に浮き上がるドキッとさせるもの(顔なのか魑魅魍魎なのか)などが印象に残りました。
 それが、年を経れば経るほど、一見明るく幸せな絵と見紛うほど鮮やかな色彩、鮮烈な手法、斬新で大胆な構図になっていくのにも関わらず、テーマはそれに反比例するかのように益々重く暗く沈んでゆき、頻りに死を意識し、しかも死を暗い悲しいものとだけ捉えるのではなく新しい始まり、または死=愛と言うのか、二つを同列に捉えているのでは?と思える作品もありました。
 多分自殺願望が常にあるんだろうな、魂を削って描いてるんだな、制作中にのめり込んでそのまま死んでしまうんじゃないかな?とこちらが思わず心配したくなるようなタイトルと、あまりに明るく無垢な絵とのギャップが、余計に明るい色彩に潜む暗さや無常感を浮き立たせて鑑賞者にショックを与えるというのか、つい引きずられてしまい、気持ちが弱っている人が観たら共感してふらっと向こうの世界に行ってしまいそうな危うさみたいな、考えさせられる作品が多かったように思います。 
 たとえそういう作者の精神上のバックグラウンドを全てとっぱらって、先入観無しに、単に視覚的なデザイン、色の配置、構図、だけを観ても、ほんとに才能溢れるアーティストなんだなとわかります。
 そのギャップを楽しむも良し、単に溢れる豊かな色彩を楽しむもよし、いろんな見方ができて、想像を掻き立てられる、そういう意味でもやはり後世に残る天才なんだなあと思いました。
 私は、ミロ、ピカソ、カンディンスキー、シャガールなどの影響を作品に感じました。これらはみな私の好きな画家なのですが、それらに似ているからではなく、草間彌生さんの作品はそれらを吸収してなお強烈な個性を放ち独自性を持ちどれも心打たれるものでした。(2017年3月30日)
 

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温的紹興酒 (ウェンドゥシャオシンジュウ) 

 紹興を舞台にした魯迅の作品である『孔乙己』(コンイーチー) の中には、「労務者たちが、昼か夕方の仕事をおえたあと、銅銭四枚出して酒を一杯買い(…)、カウンターにもたれて立ったまま熱いところをひっかけて息をいれる」(竹内好訳、『阿Q世伝・狂人日記』) という一文がある。ここに書かれている燗酒は当然紹興酒であろう (余談ではあるが、この酒のアルコール度数は14度から18度である)。清の時代に、紹興酒を熱燗で飲むことはすでに一般的だったようであるが、中国で温めた酒を飲む習慣はいつ頃から始まったのだろうか。

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川口義晴さんを悼む

 川口義晴さんが、さる2017年2月12日に亡くなった。謹んでお悔やみ申し上げる。川口さんは、長らく音楽関係の仕事に携わり、多くのLP.CDを製作し、演奏会を組織し、またオーケストラ団員の処遇改善にも尽力された。会社(コロンビア)を辞めたあと、私が働いていた明治学院大学で非常勤講師として学生の教育にも熱を込めて下さった。私のゼミの合宿にもしばしば参加され、またゼミ生の卒論の指導もして頂いたことがある。また私が組織したいくつかの研究会にも積極的に参加され、その温泉合宿にもしばしば来て下さった。
 私は2007年から2015年まで、明治学院大学で「記号哲学講義」というタイトルで、およそ80回の特別講義を行なったが、川口さんはほとんど無欠席でそれに参加し、ときには私の話を修正したり、補足してくださった。また、川口さんは「季刊オーケストラ」にエッセーを連載していたが、最近はユダヤ教にも関心を向け、2016年冬号では、プラハでのカフカについての経験などをまじえた興味ある文章を載せた。その続編が読めないのは、まことに残念である。
 あるとき川口さんは新しい名刺を私に渡したが、その肩書きは「宇波彰現代哲学研究所研究員」であった。また彼が雑誌などに書くときも、ブログでも、その肩書きが使われるようになった。そこで私は若い友人に頼んで、そういう名前の研究所のブログを作ってもらい、また「研究員」も決めた。現在そのブログは多くのひとが書き、また多数の読者がいる。私もしばしば書いているが、その始まりは川口さんの名刺である。
 昨年(2016年)、私は今日の反動的傾向を裏で動かしているように思える「日本会議」に注目し、若い友人たちを誘って「日本会議研究会」を作った。目下、月に一度のペースで会合を開き、報告•討議を行なっているが、川口さんは、私の誘いに応じてそこにも参加された。これから彼にも報告をして欲しいと期待していたが、それもならず無念である。彼はいつも現実の問題に眼を向けていた。
 彼はよく本を読むひとであった。彼が特に好きな作家は石川淳であった。またウンベルト•エーコにも強い関心を持っていて、やはりエーコを読んでいた私とこの記号学者•作家についてしばしば話をした。昨年もエーコの大作『プラハの墓地』についてふたりで語り合った。
 先日、私はヤナーチェクの「弦楽四重奏曲」の中古のCDを買ってきたが、川口さんがその製作にかかわっていたことがジャケットでわかった。彼の悲報はそのすぐあとに伝えられた。長年の友人を、しかも私よりはるかに若い人を失って本当につらい思いである。
(2017年3月8日) 

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過去の物語は誰が作り上げるものなのか?

 太宰治は『弱者の糧』の中で「映画を好む人には、弱虫が多い」と述べている。私は映画が格別好きではないが、嫌いでもない。でも、弱虫である。自慢のできる話ではないが、権力とりっぱに戦ったためしもなく、週に何度も映画館に通うということもしたことがない。弱虫の凡人である。そんな私でも、偶然知った映画が気にかかり、映画館に入ることがある。
 片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を見ようと思ったきっかけは、偶然見たテレビ番組で、映画制作のために、この監督に質問を受けた一人の男性が語っていた言葉であった。男性の両親は広島市で理髪店を経営していた。彼には兄と姉がいた。昭和20 (1945) 86日、原爆が投下された日、男性は田舎に疎開していた。廃墟になった街で懸命に家族を探したが、家族の遺体は見つからなかった。彼のその理髪店が映画の中にほんの僅かな瞬間だけ映る。片渕は、広島と呉のかつての街並みを当時のままに近い形で再現しようとしたと番組の中で話している。男性の住んでいた理髪店の前で、両親と兄と姉とが歓談している。そのシーンのために、彼は三度映画を見た。この逸話を聞いて、私はヴァルター・ベンヤミンが主張していた過去の救済という問題を思い浮かべた。しかし、本当にこの映画はベンヤミンの主張と関係するものであろうか。その思いが私を映画館に向かわせた。 

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ヴァン・ショー

 ホット・ワインはフランス語でヴァン・ショー (vin chaud) と言う。フランスでは日本の卵酒と同様に風邪のとき、薬の代わりに飲む。だが卵酒よりもはるかに美味い。だから、寒い冬の日にカフェで一杯やって、体を温めてから仕事に戻るといった飲み方もされている。ホット・ワインは英語だと思うかもしれないが、実は和製英語だ。英語ではマルド・ワイン (mulled wine) と言う。ワインを温めて飲むという方法は現在のドイツが発祥のようだ。ドイツ語ではグリューヴァイン (Glühwein)。この飲み方はドイツからヨーロッパに広がり、とくに東欧ではポピュラーなものとなった。もちろん、フランスでも誰もが知っている飲み物となっている。
 しかし、ヴァン・ショーはいつから飲まれるようになったのか。そう思い文献を調べてみる。ヴァン・ショーの歴史は古く、いつから飲まれるようになったかは定かではないが、中世ヨーロッパでは、すでにかなり飲料されていたようだ。1420年頃に作られたヴァン・ショー用の金メッキされた銀の杯が、ドイツのカッツエンエルンボーゲン伯爵 (Graf von Katzenelnbogen) の城に残されている。この伯爵は当時ライン川流域に大きな勢力を持っていた貴族だ。わざわざヴァン・ショー用の杯を城主が作らせたということは、当時すでにヴァン・ショーが少なくとも上層階級の人間にとってはポピュラーな飲み物だった証明になるだろう。 

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