宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

髑髏のある風景―中村彝の自画像について

 大正期を代表する洋画家の一人である中村彝は1887 (明治22) 年に茨城県仙波村で生まれた (この村は現在水戸市となっている)。彼の最もよく知られている絵は、1920 (大正9) 年に描かれた盲目のロシア人作家・エスペランティスト、ワシリー・エロシェンコの肖像であろう (エロシェンコの出身地は現在ウクライナの一部となっている)。ボリュームのある金色の髪。瞳には光がないために神秘的とも形容できる目。表情を読むことはとても難しいが、真っ白なシャツを着て、斜め前を向いたエロシェンコ。そのエキゾティックな姿は、大正時代の日本人にとって、実に魅力的なものであったに違いない。

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シャセリオー展を見て

 去る2017年4月16日に,私は上野の国立西洋美術館で「シャセリオー展」を見た。テオドール•シャセリオー(1819~1856)は、私の知らなかったフランスの画家である。19世紀前半に活躍した人であり,作品はロマン主義といってもまだ写実の段階にある。しかし、作品を見ていると、なんとなく時代を先取りしているような雰囲気がある。トックヴィルの肖像も展示されていたが、これはしばしば写真で見たもので、それがこの画家の描いたもであるとは知らなかった。
 彼がサント•ドミンゴの生まれであるということに私の関心がある。サント•ドミンゴは現在のドミニコ共和国の首都であるが、あの辺りはイギリス、スペイン、フランスなどが争奪を繰り返したところであり、シャセリオーが生まれた1819年はスペイン領だった。彼の父はフランスの外交官であったというが,母は植民地で生まれた白人の女性であった。つまり、シャセリオーは19世紀ヨーロッパの帝国主義•植民地主義の最先端の場に生まれたということである。サント•ドミンゴが、クライストの作品「聖ドミンゴ島の婚約」の舞台であることも付言しておきたい。(クライスト,種村季弘訳『チリの地震』河出文庫、1996に所収。)
 今回の「シャセリオー展」では、1846年ごろに彼が描いたアルジェリアをテーマにした作品が何点か展示されている。それはアルジェリアのアラブ人女性と,ユダヤ人女性を描いたものである。同時代のドラクロワもアルジェリアの女性を描いているが、それはアラブ人の女性である。シャセリオーがユダヤ人を描いているところに私は関心を持った。というのは,フランスがアルジェリアの侵略を始めたのは1830年であり、それ以降フランスはこの北アフリカの広い地域を「植民地」として支配し始めたのである。
 かつては北アフリカは多くのユダヤ人が暮らしていたところであった。アンドレ•シュラキの600ページ近い大著『北アフリカのユダヤ人の歴史』(André Chouraqui,Histoire des Juifs en Afrique du Nord Hachette,1985) は,彼らについての詳細な研究である。これを読むと,北アフリカのユダヤ人が、オスマントルコの支配下でいかに差別され、迫害されていたかがわかる。そのため、1830年から始まったフランスによる北アフリカの侵略•植民地化は、そこにいたユダヤ人にとっては「侵略」ではなく「解放」として見られている。「フランスは自由というメッセージを持ってきた」とシュラキは書いている(p.288)。北アフリカのアラブ人の立場からは、まったく受け入れがたい見解である。
 また、画家であり、作家でもあったウジェーヌ•フロマンタン(1820~1876)の『サハラの夏』(川端康夫訳、法政大学出版局、1988)は、シャセリオーと同じ時代のアルジェリア紀行の傑作である。この本の訳注で、訳者はフランソワーズ•ルノドーの『アルジェリアにおけるフランス人歴史』に触れ,アルジェリアについて書いたゴーティエ、フローベールなどの作家、ラフェ、シャセリオーなどの画家の名を挙げたあと、彼女が「フロマンタンだけが別ものだ、彼はアラブ人しか愛していない」と書いていることを紹介している(p.276)。(ちなみに,この『サハラの夏』の訳文はすばらしいものである。)
 シャセリオー展を見て,あちこちに連鎖的に考えることになった。
    (2017年5月7日)

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草間彌生展を見て

 草間彌生展を観てきました。
好きか嫌いかは別にして、草間作品はどれもすごくインパクトがあり、思わず引き込まれると言うか、少なからず心に影響を受けますね。絵だけで何らかの感情を人に起こさせる、それがインフルエンスする、それだけでもすごい才能だと思います。
 幼い頃から幻覚や幻聴に悩まされてきて、それを何とか解決しようとして、視えるもの聴こえてしまうものを絵に吐き出すことで正気を保つ。。。それはそれは辛い人生ですよね。
 たとえ人からは天才と評価されもてはやされようと、毎日世界がこんなふうに視えてしまう能力と引換に、神様が絵の才能を与えたのなら、一体神様は残酷なのか公平なのか、分からないですね。
 私ならこんな才能要らないから視えないほうがいいと思ってしまいますが、それは凡人の考え方で、天才の思考からすると、どちらも天から授かった能力だからそれを活かさねば、という使命感なり、視えるのがつらいからとかそんな理由付けは関係なしに描かずには居られない衝動なり、またはもっと計り知れない脳の働きがあるのかも知れません。一般庶民には到底分からないことですね。
 第2展示室の若い頃の作品群は、暗く心の苦しみや叫びをそのまま描いたことがストレートに伝わるものが多く、暗い色彩に浮き上がるドキッとさせるもの(顔なのか魑魅魍魎なのか)などが印象に残りました。
 それが、年を経れば経るほど、一見明るく幸せな絵と見紛うほど鮮やかな色彩、鮮烈な手法、斬新で大胆な構図になっていくのにも関わらず、テーマはそれに反比例するかのように益々重く暗く沈んでゆき、頻りに死を意識し、しかも死を暗い悲しいものとだけ捉えるのではなく新しい始まり、または死=愛と言うのか、二つを同列に捉えているのでは?と思える作品もありました。
 多分自殺願望が常にあるんだろうな、魂を削って描いてるんだな、制作中にのめり込んでそのまま死んでしまうんじゃないかな?とこちらが思わず心配したくなるようなタイトルと、あまりに明るく無垢な絵とのギャップが、余計に明るい色彩に潜む暗さや無常感を浮き立たせて鑑賞者にショックを与えるというのか、つい引きずられてしまい、気持ちが弱っている人が観たら共感してふらっと向こうの世界に行ってしまいそうな危うさみたいな、考えさせられる作品が多かったように思います。 
 たとえそういう作者の精神上のバックグラウンドを全てとっぱらって、先入観無しに、単に視覚的なデザイン、色の配置、構図、だけを観ても、ほんとに才能溢れるアーティストなんだなとわかります。
 そのギャップを楽しむも良し、単に溢れる豊かな色彩を楽しむもよし、いろんな見方ができて、想像を掻き立てられる、そういう意味でもやはり後世に残る天才なんだなあと思いました。
 私は、ミロ、ピカソ、カンディンスキー、シャガールなどの影響を作品に感じました。これらはみな私の好きな画家なのですが、それらに似ているからではなく、草間彌生さんの作品はそれらを吸収してなお強烈な個性を放ち独自性を持ちどれも心打たれるものでした。(2017年3月30日)
 

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温的紹興酒 (ウェンドゥシャオシンジュウ) 

 紹興を舞台にした魯迅の作品である『孔乙己』(コンイーチー) の中には、「労務者たちが、昼か夕方の仕事をおえたあと、銅銭四枚出して酒を一杯買い(…)、カウンターにもたれて立ったまま熱いところをひっかけて息をいれる」(竹内好訳、『阿Q世伝・狂人日記』) という一文がある。ここに書かれている燗酒は当然紹興酒であろう (余談ではあるが、この酒のアルコール度数は14度から18度である)。清の時代に、紹興酒を熱燗で飲むことはすでに一般的だったようであるが、中国で温めた酒を飲む習慣はいつ頃から始まったのだろうか。

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川口義晴さんを悼む

 川口義晴さんが、さる2017年2月12日に亡くなった。謹んでお悔やみ申し上げる。川口さんは、長らく音楽関係の仕事に携わり、多くのLP.CDを製作し、演奏会を組織し、またオーケストラ団員の処遇改善にも尽力された。会社(コロンビア)を辞めたあと、私が働いていた明治学院大学で非常勤講師として学生の教育にも熱を込めて下さった。私のゼミの合宿にもしばしば参加され、またゼミ生の卒論の指導もして頂いたことがある。また私が組織したいくつかの研究会にも積極的に参加され、その温泉合宿にもしばしば来て下さった。
 私は2007年から2015年まで、明治学院大学で「記号哲学講義」というタイトルで、およそ80回の特別講義を行なったが、川口さんはほとんど無欠席でそれに参加し、ときには私の話を修正したり、補足してくださった。また、川口さんは「季刊オーケストラ」にエッセーを連載していたが、最近はユダヤ教にも関心を向け、2016年冬号では、プラハでのカフカについての経験などをまじえた興味ある文章を載せた。その続編が読めないのは、まことに残念である。
 あるとき川口さんは新しい名刺を私に渡したが、その肩書きは「宇波彰現代哲学研究所研究員」であった。また彼が雑誌などに書くときも、ブログでも、その肩書きが使われるようになった。そこで私は若い友人に頼んで、そういう名前の研究所のブログを作ってもらい、また「研究員」も決めた。現在そのブログは多くのひとが書き、また多数の読者がいる。私もしばしば書いているが、その始まりは川口さんの名刺である。
 昨年(2016年)、私は今日の反動的傾向を裏で動かしているように思える「日本会議」に注目し、若い友人たちを誘って「日本会議研究会」を作った。目下、月に一度のペースで会合を開き、報告•討議を行なっているが、川口さんは、私の誘いに応じてそこにも参加された。これから彼にも報告をして欲しいと期待していたが、それもならず無念である。彼はいつも現実の問題に眼を向けていた。
 彼はよく本を読むひとであった。彼が特に好きな作家は石川淳であった。またウンベルト•エーコにも強い関心を持っていて、やはりエーコを読んでいた私とこの記号学者•作家についてしばしば話をした。昨年もエーコの大作『プラハの墓地』についてふたりで語り合った。
 先日、私はヤナーチェクの「弦楽四重奏曲」の中古のCDを買ってきたが、川口さんがその製作にかかわっていたことがジャケットでわかった。彼の悲報はそのすぐあとに伝えられた。長年の友人を、しかも私よりはるかに若い人を失って本当につらい思いである。
(2017年3月8日) 

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