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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

映画「私の知らないわたしの素顔」を見る

 去る2019年11月2日に,私はサフィ•ネブー監督のフランス映画「私の知らないわたしの素顔」(2019年)を試写で見た。ジュリエット•ビノシュ主演の映画である。会場でもらったパンフレットによると、監督のサフィ•ネブーはフランス生まれであるが、父はアルジェリア人、母はドイツ人だという。

 この映画では、主役の女性は、パリの高級マンションに二人の息子たちと住む知的エリートである。日常の現実生活では、彼女は大学で文学を教えていて、ラクロの小説の魅力を語ったりしている。学生たちはパソコンが設置された教室で、あるいはそういう設備のない教室でおとなしく彼女の講義を聴いている。また男と会っているときは、リルケの詩を読んでいたりする。彼女と離婚した夫は若い女性と暮らしていて、二人の息子はときどき父親のところへ行く。これが彼女の現実の生活である。

 しかし彼女には「第二の生活」がある。「第二」といっても、序列があるわけではないが、それは、SNSでつながっている男との関係である。この領域では、彼女は中年の大学教授ではなく、26歳の美貌の女性である。相手の男もそう信じている。これはいわゆる「仮想の世界」であり、実際の現実とは異なった領域で人工的に設定された想像的世界である。40年前ならば、ボードリヤールのタームを使って「シミュラークル」といったであろう。それは現実に対応するもののない「記号だけの世界」であった。

 道具はSNSだけではない。SNSという領域とは別に、もうひとつの世界がある。彼女は小説も書いていて、それが彼女にとっての「第3の世界」になる。その小説も映画のなかで映像化されているし、さらに彼女は精神分析医の治療を受けている。要するにこの映画は限りなく複雑であり、いくつもの世界が混在している。これはダーウィンが『種の起源』の終わりに近い部分で述べた「雑踏の堤」的状況である。

 相互に差異のあるものが集まって「雑踏の堤」を形成する。それがその堤の活力になる。ダ-ウィンは次のように書いている。「いろいろな種類の多くの植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞う。湿った土の中では虫たちが這い回る。このような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生み出されたものであることを熟考するのは、興味深い。」(『種の起原  下』八杉竜一訳、岩波文庫、1990,p.261,訳文は少し変えてある。なお、原文はネットでも読めるが、この拙稿の末尾に「付録」として添えておく。)これは今日言うところのダイバーシティである。つまり、多様な生物の存在が「進化」の源泉であるという考え方であり、「雑踏の堤仮説」(tangled bank hypotheses)と呼ばれているものである。イギリスの週刊科学雑誌「ネイチャー」(2019年10月31日号)に、50万種近くあるという緑色植物についての「多様性の起源」(Roots of diversity)という論文が載っている。その表紙には、多数多様な植物が群生している写真が使われているが、それについて日本語による解説は「表紙は、ダーウィンが『種の起原』の結びで、種間の複雑な相互作用を表す例えとして用いた<雑踏する堤>の例である」と書いている。論文それ自体には「雑踏する堤」というタームは使われていないが、多様なものが生物の存在そのものの根底にあるという考えが示されている。「ネイチャー」の論文はきわめて専門的で難解であり、私には十分には理解できなかったが、しかし「私の知らないわたしの素顔」とのつながりは、明確に確認できた。

 他方、私はいまフランスの社会学者マルセル•モース(1872~1950)の『贈与論』を森山工のすぐれた翻訳(岩波文庫,2014)で再読したところであるが、その「訳者解説」で、森山氏はモースという社会学者自身がひとつの「混じり合い」だと述べている。モースが単なる「社会学者」ではなく、非常に多くのものを混合させているひとだということである。モースは社会学の対象が「全体的な社会的事象」(fait social et total)であることを反復して述べたが、森山工は、そのことを踏まえて次のように来書いている。「モースという人は、この<全体的社会的事象>という用語に擬するならば、<全体的学術的事象>であり、さらに言ってよければ<全体的思想的事象>であって、そういう事象が顕現する<場所>なのである。(中略)モースは全体的な社会的現象について述べていたことばをそのまま援用するならば、『贈与論』というこの著作について、<あらゆることがここで混ざり合っている>と言えるのではないだろうか。」(p.476)。モースを「混じり合い」の世界として見ようとする森山工の見解は注目すべきものである。

 映画「私の知らないわたしの素顔」は、まさに「雑踏の堤」の映画であり、「混じり合い」の映画である。(2019年11月14日)


「付録」

 ‘It is interesting to contemplate an entangled bank, clothed with many plants of many kinds, with birds singing on the bushes, with various insects flitting about, and with worms crawling through the damp earth, and to reflect that these elaborately constructed forms, so different from each other, and dependent on each other in so complex a manner, have all been produced by laws acting around us.’



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S.クラカウアー「サラリーマン―ワイマール共和国の黄昏」(1930年)を読んで

まず本書表題ともなっている「サラリーマン」Die Angestellte(直訳すれば、被雇用者)についてであるが、本文では残念ながらサラリーマンとはいかなる社会的存在か、適確な社会学的ないし経済学的定義が見いだされず、1920年代末で350万人という数字だけが提示されている。訳者あとがきを参考にすると、英語でいうwhite-collar workerに当たるものであろう。工場での現場労働に従事する労働者階級とは区別された、技術者やオフィスの事務員や商業施設のサービス従事者、つまり管理業務者から秘書、経理士やタイピスト、ブティック店員にまで至る新中間層や公務員層を指すものと理解していいだろう。

 

本書紹介の序文(1959年)によれば、サラリーマンがナチス党に占める率は、労働人口にサラリーマンが占める割合に比べ極めて高かったそうである。第一次大戦後のハイパー・インフレで資産を失った旧中間層(小商店主、小地主などの小資産家)がワイマール政治から疎隔され、やがてナチス党に合流するにいたった歴史的事実とある種パラレルな関係にあることがうかがわれるだろう。いずれにせよ、都市化・大衆社会化のなかで急増するサラリーマンという新しい階層の動向・状態にクラカウアーが着目したことには、先見の明があったというべきであろう。しかも彼の手法が当時珍しかった直接現場に赴き、自分の目で観察し、聞き取りを行なうというものであり、その成果が本書だという。

当時の急進左翼やインテリ階級は「観念的な進歩信仰」や理性信仰にあぐらをかきドイツ観念論の伝統!-、生身の人間との接触を欠いていたという。我々は「生存権」を人類史上初めて謳ったワイマール憲法下、社会政策はお手のものだったと思いきや、しかしサラリーマンの職場の生々しい報告はめずらしかったようだ。社会民主党の官僚主義化や急進左翼(共産党?)の現実乖離のため、諸党の理論政策にサラリーマンの動向が反映されていなかったのである。そして放置された脱落サラリーマンたちは、命がけの飛躍でナチスに活路を求めていくのである。

やや脱線する話だが、1930年代の負の経験をドイツ・ジャーナリズムは踏まえているのだろうか。ドイツのいわゆる高級紙(quality paper)と日本の三大紙を比べてみた場合、一番大きな違いを感じるのは、前者の、現場と事柄の直接性・具体性に徹する姿勢である。例えば、インドの僻村でアレバ社による原発の巨大プロジェクトが計画されているとき、その影響を受ける村々の住民のひとりひとりに生活の苦難や事業による地域生活の激変の様子を語らせ、安易な一般化は行なわない。たとえて言えば、住民の顔が見え、記者の聞き取りの姿勢が直に伝わる血の通った記事を書く。日本では記者クラブ制の弊害が言われて久しいが、記事が加工されていて生身の素材の持つ迫力が感じられないのと対照的である。

 


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カブラルの遺産とリランガの絵画

アフリカは歌う。アフリカは踊る。アフリカは跳躍する。アフリカは喜びを、あるいは、悲しみを爆発させ、新しい希望の光となり輝く。アフリカのリズムは軽快だ。深さを求め、根底を求め、沈潜しようなどとはしない。上空へ、魂の住処へ向けて飛翔する。アフリカの色は鮮やかで、ダイナミックだ。アフリカの線は強く、逞しい。アフリカは抑圧され、搾取され、虐げられてきた。だが、アフリカはもう一度光輝く。新たな芸術の創造と共に。

727日から1014日まで、「エターナル・アフリカ*森と都市と革命―アミルカル・カブラルの革命思想とジョージ・リランガの芸術―」という展覧会が東京都多摩市にある多摩美術大学美術館で行われていた。カブラルはアフリカの多くの国の独立運動に大きな勇気を与えたギニアビサウの作家・革命家である。彼はアフリカの多くの国々の独立運動の精神支柱であっただけではなく、伝統文化とそれに基づくこれからのアフリカ文化の発展の意義を強調し、独立闘争の混乱期にアフリカの希望の声となった人物である。リランガは現代アフリカ絵画における大きな潮流の一つであるティンガティンガ派を代表する画家であり、彼の作品は世界中で極めて高く評価されている。

この展覧会では現代アフリカ美術に多大な影響を与えた二人の人物を関連づけながら、リランガの作品と彼の周辺に位置する現代画家の絵画を展示していたが、その中でも一際異彩を放つ作品はやはりリランガのものであった。それゆえ、このテクストではカブラルの意志を継ぎ、独立運動以降に花開いたアフリカ現代絵画におけるリランガの位置とその特異性、さらには、アフリカ絵画の可能性と彼の作品の魅力について考察していきたい。

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仄暗い闇の底から ―柿木伸之著『ヴァルター・ベンヤミン―闇を歩く批評』書評― 

 本書は、『ベンヤミンの言語哲学』(岩波書店、二〇一四年)につづく柿木伸之氏の二冊目の著書である。本書の狙いはつぎの一文に要約されている。「批評の言葉を生きたベンヤミンの思考の足跡―それは書のかたちで刻まれている―を、彼の生涯のなかに浮かび上がらそうとする本書は、ある面ではベンヤミンが生きた時代よりも深まった現在の闇に読者自身が立ち向かう思考の契機となるべく差し出されている。息苦しい闇のなかに、死者を置き去りにすることなく生き、他者と息を通わせる隙間を切り開く思考への誘い。本書は、これがベンヤミンが書き残した言葉に含まれていることを示そうとしている」(二百六十頁)

本書はベンヤミンの伝記的要素に沿うかたちで彼の言語哲学、美学、歴史哲学を精緻に展開しており、ここに柿木氏によるこれまでのベンヤミン研究および巻末に載せられた国内外の大量のベンヤミン研究書からの知見が濃縮されているということを踏まえると、本書は今後のベンヤミン研究(とくに言語哲学、歴史哲学)にとって極めて重要な書物である。

 本書の魅力は、著者がベンヤミンとともに、これまで人類に絶えず犠牲を強いてきた「神話」や、殺戮と野蛮のドキュメントに他ならない「歴史」の暴力を一貫して痛烈に批判している点にある。また、本書「インテルメッツォ1」において著者は、ベンヤミンとクレーにおける「思想的な呼応」を感知し、両者が「クレーの詩に語られる「死者たちのところや、未だ生まれざる者たちのところ」へ赴こうとしたのではないか」(五十八頁)と指摘している。この一節は非常にアクチュアルなものである。なぜなら、たとえば現代医学の領域で施行されている出生前診断において、異常が認められた極微な胎児たちは文字通り「未だ生まれざる者」として、そして永遠に生まれざる者として、強制的にその生を完結させられているからである。ベンヤミンはかつて神話とテクノロジーにおける秘められた照応関係に言及したことがあったが、まさにこの出生前診断において「どこか腐ったところがある」神話的暴力が、ネオリベ的論理に支えられ最新テクノロジーを纏った現代医学に受肉して回帰しているのではないか。つまり、現存する諸権力体制を純粋に強化することのみを自己の目的とみなす神話的暴力が「せむしの小人」となっている資本制や国家権力における暴力の行使は、すでに死んでしまった者たちだけではなく、異常を認められてしまった未だ生まれざる者たちに対しても及んでいるのである。歴史や言語の最内奥部に潜在する微かな徴候としての死者や未生的存在をその完全な実在性とともに救済しようとするベンヤミンの認識論を真に受けるならば、現代文明におけるベンヤミンのアクチュアリティは死の問題だけではなく出生の問題にまで及ばなければならない。そのようなことを評者はこの一節から汲んだ。

 柿木氏が「あとがき」で述べているように(二六一頁)、本書では、新書という性格の諸制限から言及することが難しかったとのであろうと理解できるベンヤミン思想の部分が幾つかある。とくに本書との連関でいえば、ベンヤミンの想起Eingedenkenと追想Erinnerungという記憶をめぐる問題系に関する厳密な概念的検討が必要とされるであろう(ベンヤミンの想起Eingedenkenについては2016年にStefano MarchesoniWalter Benjamins Konzept des EingedenkensKadmos.2016,Berlin.を刊行した。参照されたい)。この問題系を深めることで、本書において柿木氏がベンヤミンとともに託した「息苦しい闇のなかに、死者を置き去りにすることなく生き、他者と息を通わせる隙間を切り開く思考」を継承し、この思考を希望なき者たちのための希望の火花として掻き立てつづけなければならない。

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市原佐都子版『バッコスの信女』を観劇して

 去る1013日、「あいちトリエンナーレ2019」の最終シーンをかざる市原佐都子作・演出の『バッコスの信女―ホルスタインの雌』と小泉明郎作・演出の『縛られたプロメテウス』の上演に立ちあうことができた。どちらも傑作だったが、小泉の作品は、作品に仕掛けられたトリックを公にすることで鑑賞者の受けるインパクトが減少すると思われることから、その再演を考慮し、ここでは、傑作であり問題作でもある、市原の作品についてだけ述べようと思う。

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