宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

過去の物語は誰が作り上げるものなのか?

 太宰治は『弱者の糧』の中で「映画を好む人には、弱虫が多い」と述べている。私は映画が格別好きではないが、嫌いでもない。でも、弱虫である。自慢のできる話ではないが、権力とりっぱに戦ったためしもなく、週に何度も映画館に通うということもしたことがない。弱虫の凡人である。そんな私でも、偶然知った映画が気にかかり、映画館に入ることがある。
 片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を見ようと思ったきっかけは、偶然見たテレビ番組で、映画制作のために、この監督に質問を受けた一人の男性が語っていた言葉であった。男性の両親は広島市で理髪店を経営していた。彼には兄と姉がいた。昭和20 (1945) 86日、原爆が投下された日、男性は田舎に疎開していた。廃墟になった街で懸命に家族を探したが、家族の遺体は見つからなかった。彼のその理髪店が映画の中にほんの僅かな瞬間だけ映る。片渕は、広島と呉のかつての街並みを当時のままに近い形で再現しようとしたと番組の中で話している。男性の住んでいた理髪店の前で、両親と兄と姉とが歓談している。そのシーンのために、彼は三度映画を見た。この逸話を聞いて、私はヴァルター・ベンヤミンが主張していた過去の救済という問題を思い浮かべた。しかし、本当にこの映画はベンヤミンの主張と関係するものであろうか。その思いが私を映画館に向かわせた。 

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ヴァン・ショー

 ホット・ワインはフランス語でヴァン・ショー (vin chaud) と言う。フランスでは日本の卵酒と同様に風邪のとき、薬の代わりに飲む。だが卵酒よりもはるかに美味い。だから、寒い冬の日にカフェで一杯やって、体を温めてから仕事に戻るといった飲み方もされている。ホット・ワインは英語だと思うかもしれないが、実は和製英語だ。英語ではマルド・ワイン (mulled wine) と言う。ワインを温めて飲むという方法は現在のドイツが発祥のようだ。ドイツ語ではグリューヴァイン (Glühwein)。この飲み方はドイツからヨーロッパに広がり、とくに東欧ではポピュラーなものとなった。もちろん、フランスでも誰もが知っている飲み物となっている。
 しかし、ヴァン・ショーはいつから飲まれるようになったのか。そう思い文献を調べてみる。ヴァン・ショーの歴史は古く、いつから飲まれるようになったかは定かではないが、中世ヨーロッパでは、すでにかなり飲料されていたようだ。1420年頃に作られたヴァン・ショー用の金メッキされた銀の杯が、ドイツのカッツエンエルンボーゲン伯爵 (Graf von Katzenelnbogen) の城に残されている。この伯爵は当時ライン川流域に大きな勢力を持っていた貴族だ。わざわざヴァン・ショー用の杯を城主が作らせたということは、当時すでにヴァン・ショーが少なくとも上層階級の人間にとってはポピュラーな飲み物だった証明になるだろう。 

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松本竣介とジョージ・グロッス

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館で10月8日から12月25日まで開かれていた「松本竣介:創造の原点」と題された展覧会に11月の終わりに行ってきた。絵だけではなく、彼の撮った写真や手紙といった松本竣介についての貴重な資料が数多く展示された、極めて示唆に富んだ優れた展覧会であった。多くの興味深い展示物の中で、とくに私の関心を引いたものは、竣介によるジョージ・グロッス (George Grosz) の人物画に登場した多くの顔の模写であった (二人の名前の表記問題に関しては後述する)。すぐに何かを書きたいと思いながらも雑事に追われた私は、松本竣介の絵画におけるジョージ・グロッスの影響という重要な問題をじっくりと考えることができなかった。展覧会が終わってやっと時間ができた私は、今更このテーマについて書くのは止めて別のテーマについて書こうかと思った。しかし今書かなければ永久にこのテーマについては書けないという強い予感があった。絶対に何かを書くべきだ。そう決意した私はペンを握った。

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『サピエンス全史』を読む

 ユヴァル•ノア•ハラリの『サピエンス全史』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016)は、高く評価しなくてはならない著作である。毎日新聞(2016年12月18日号)の読書欄に「今年の三冊」の二回目が載っているが、そこでも二人がこの本をあげている。この『セピエンス全史』に私が注目するのは、それが単なる客観的な人類史ではなく、人類が犯してきた悪行を反省し,批判しているからである。
 ダーウィンは、「自然は飛躍をしない」という古いことばを重視したとチョムスキーが『言語の科学』のなかで述べている。チョムスキーは、このダーウィンのスローガンに反対して、人類が7万年前に「生成文法」を獲得して,言語を使うようになる「飛躍」(leap)を行なったと説いた。(邦訳では「大躍進」と訳されている。)チョムスキーのこの考えはハラリにも受け継がれているようにみえる。
 『サピエンス全史』では、ホモ•サピエンスは三度の革命を行なったとされている。7万年前の認知革命、1万2千年前の農業革命、5百年前の科学革命である。認知革命とは言語の獲得のことであり、それは人間にとって「新しい思考と意思疎通の方法の登場」(上p.35)であった。それによって人間は「想像上の現実」を作り出す能力を得た。神話も国家も資本主義もすべて認知革命から始まる。
 人類が7万年前にアフリカを出て、世界各地に広がったのは、認知革命と深い関係があることである。4万5千年前に人間はオーストラリアに,1万6千年前にはアメリカに住み始める。しかし,ハラリは人間がそれらの新大陸で、大きな動物たちをたちまちのうちに殺戮してしまったことを強調している。オーストラリアには体重2•5トンのディプロドトンという有袋類がいたが、たちまち殺されてしまった。アメリカ大陸でも同じであった。
 農業革命は,人間を定住させ,共同体を作らせた。しかし、ハラリは農業によって人間の暮らしが楽になったとは考えない。農業によって「より楽な暮らしを求めたら、大きな苦難を呼び込んでしまった」(上、p.116)。人間は農業を始めたために、急に忙しくなったのである。それが現代にも引き継がれ、われわれは自分で自分を忙しくしているのである。
 科学革命は、産業を機械化し、生産力を向上させた。今まで不可能と思われていたことを次ぎ次ぎに現実化している。遺伝子工学で3000万ドルかければ、ネアンデルタール人の復元も可能だという。しかし科学革命は農村を破壊し,家族•共同体を崩壊させた。1945年の原爆の実験をハラリは「過去5百年間で最も瞠目する決定的瞬間」だと規定する(下p.56)。人間が人間を殺戮する最大の武器が作られたからである。「人類は、今までになく無責任になっている」(下p.265)のである。著者はさまざまな統計を駆使しているが、2000年に、戦闘での死者は31万人、殺人による死者は52万人、交通事故の死者は126万人、そして自殺者が81万人だったと書いている。2002年の自殺者は87万人であり、現代世界でいかに自殺者が多いかがわかる(下p.202)。生きていても仕方のない時代なのだ。このように、本書は確かに人類の歴史ではあるが、その歴史がけっして明るいものではなかったことを説いた異色の著作である。
                         (2016年12月22日)

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鉛とちょうちょう:八木重吉と自由民権運動

 
「小さな詩人について語ろう。とてもちっぽけだが、清らかな詩人について。」そう呟き、違うと思った。最初、私は八木重吉と町田市民文学館で開かれているこの詩人に関係するオブジェの展覧会について書くつもりだった。しかし、八木重吉は私にとってあまりにも繊細で、弱過ぎる。出展されていた手紙や日記の文字も、彼の詩と同様に丸く、細かく、脆い。高等師範時代の課題として描かれた写実画も微細ではあるが、脆弱だ。可愛らしいリボンで留められた手作り詩集。重吉ファンにとってはとても魅力的なものであろう。だが、私の目には妙に女々しく陰鬱なものに写った。私は半ば失望して展覧会場を出た。
町田国際版画美術館が近くにある。イギリスの美術家デイヴィッド・ホックニーの版画展がやっているはずだ。そこに行こうかと思ったとき、文学館の棚に置かれた町田市立自由民権資料館のフライヤーが目に入る。「自由民権資料館開館30周年記念特別展:武相民権家列伝」という文字が読めた。この資料館については以前から知っていたが、町田駅から30分ほどバスに乗らなければ到着できない場所にある。こういう機会でなければ行くことはないだろう。私はホックニー展ではなく、特別展に向かった。
まったくの偶然が二つの事象を結びつけた。常識的に考えれば結びつくことがない八木重吉と自由民権運動。この二つの事象の連続性。それを見出した私は、このテクストを書き始めた。

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