宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

意外性の言語学

 アメリカの言語学者ノーム•チョムスキー(1928〜)は、反戦運動家としても知られている。言語学者としては、すでに1950年代までに「生成文法」の理論によって言語学に革命をももたらしたといわれている。「生成文法」について、『広辞苑』(第5版)は次のように説明している。「人間は生得的に文法にかなった文を限りなく生成する能力を持っているとし、その生成の仕組みを文法と考えるもの(以下略)」。チョムスキー自身は「生成文法」についてさまざまないい方をしているが、最近では「言語を得る人類特有の能力」(W.1)とも規定している。
 チョムスキーの言語理論には、通常の認識とはまったく異なるものがあり、それが少なくとも私にとっては、彼の魅力である。アルチュセールはマキャヴェリの思想に、アントニオ•ネグリはスピノザの思想に「驚き」を感じたというが、私にとってもチョムスキーの考えには「驚く」ほかはないものがある。それは彼の考えの特異性•意外性というべきものであるが、その中で私は特に次の三点に注目したい。

 まず第一にチョムスキーは、「文法の優位、言語の副次性」という考えを示す。生成文法とは言語を生成する(作り出す)文法のことであり、この定義そのものから、チョムスキーにとってはこの文法が主要なものであって、言語は「副次的」とされる。彼は『生成文法の企て』においても、言語は文法に対しては「副次現象」であるとしている(SK.257)。文法に対して、言語は極度に軽視され、ついには「言語に価値はない!」(SK.256)とまでいうことになる。これでは「言語学」ではなくなるのではないかと思わせるほどである。

 次にチョムスキーが、言語とコミュニケーションの関係について述べていることも、きわめて「意外」である。通常われわれは、言語の機能はコミュニケーションであると考えている。しかしチョムスキーはそうではないという。言語は「自分自身に向けて話しかけること」に使われるのであり、(GK.101)「言語の大半は内面的」である(GK.32)。「言語の最も大きな用途は内的なもの、つまり思考のためである。」(W64)言語は自分で考えるために役に立つものであり、コミュニケーションは衣装や身振りなどによってもできる。「内的言語の優位」(W.81)がチョムスキーの基本的な立場であり、コミュニケーションには副次的な位置しか与えられていない。  

 三番目に、チョムスキーが「言語の進化」について考えていることが、私にとってはたいへんな「驚き」である。私がチョムスキーの言語理論に接したのは1970年頃であるが、最近になって再びその後の彼の活動を知るに及び、生成文法理論が新たな方向に展開しつつあることがわかってきた。それは、人類はいつ生成文法を獲得したのかという問題への取り組みである。具体的には、チョムスキーに対して2004年、2009年に行われたインタビューの記録である『言語の科学』と、2016年に刊行されたバーウィックとの共著『Why only us, language and evolution』(『どうしてわれわれだけなのか 言語と進化』)において、その展開を見ることができる。
 簡単にいえば、「言語の起源」の問題であるが、チョムスキーは「言語を得る人間特有の能力」(W.1)という言い方をしていて、「言語」の起源ではなく、「生成文法」の起源が問われる。『なぜわれわれだけなのか 言語と進化』では、リンネ、ダーウィンに反対の立場が示される。ダーウィンの『種の起源』には、natura non facit saltum(自然は飛躍をしない)という原則があったが、チョムスキーはそれを否定する。およそ6万年前のアフリカで、人類に「突然で劇的な変容」(W.57)が起こった。それが生成文法の獲得という「飛躍」(leap)である。
 この「飛躍」をなしとげた人類が、アフリカを出て世界各地に広がっていく。それをチョムスキーたちは「the trek from Africa」(W.65)とか、exodus from Africa(W.54)と呼ぶが、それは現代の古生物学、人類学に共通の認識で「out of Africa」という表現は、人類史の書物のいたるところに見ることができる。チョムスキーはそれを「生成文法」の獲得と結びつけたのである。「6万年前に人類は、アフリカで言語を作り出す能力を得た」というのは、もちろん「仮説」である。しかしチョムスキーはその仮説の立証のためにあらゆる努力を払っている。私ががチョムスキーの著作に接して驚くのは、彼が若い時に考えた「生成文法」の概念を、人類の歴史のなかに位置づけしようとする彼の強固な意志である。また私はそこにパースの「アブダクション」の概念が働いているように考える。実際、チョムスキーは、批判を交えつつも、パースの思想を高く評価している。チョムスキーとパースの関係については、改めて論じたいが、今回はチョムスキーの思想の「意外性」について述べてみた。

引用した文献

チョムスキー、福井直樹訳『生成文法の企て』岩波現代文庫、2011、SKと略記
チョムスキー、成田広樹訳『言語の科学』岩波書店、2016、GKと略記
Berwick,Chomsky,Why only us,language and evolution,MIT Press,2016, Wと略記

(2016年9月10日)

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対象の束と歴史的動き:『「大正」を読み直す』私論


 時代は新たな希望を作り出すものであると共に、時代は掛け替えのないものを抹殺するものでもある。それが、子安宣邦氏の『「大正」を読み直す――幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店、2016、以下サブタイトルは省略する) に対して最初に抱いた感想であった。日本の歴史も思想もまったく知らない私がこの本について書こうと思ったのは、時代とは何か、時代的精神とは何かという問題を熟考する必要性を感じたからである。だが、そこには一つの大きな難問が横たわっていた。天皇の交代によって決定される時代区分を持つ日本において、明治、大正、昭和、平成という近代以降の変遷を考えることは、ある特異性について考えることのように思われたからである。西暦による連続性を断ち切るようにして出現する元号による時代区分は、新時代の幕開けを明示すことができる一方で、時代的連続性を覆い隠してしまう危険性を内包するものでもある。最初に述べた二つの対立する印象と同様に、そこには時代という事象が持つ二面性がある。この書評ではこうした二面性に関して、それが歴史的動きの中で如何なる連続性や変更性をもたらすものなのかという点を中心として考察していきたいと思う。

流動するものの中にある連続性と変更性 
 パリ第5大学名誉教授で、言語学者・哲学者であるフレデリック・フランソワは、『話すことの実践 (Pratiques de l’oral)(Nathan, 1993:以下、訳書がない場合は原題、出版社名、出版年を記す) の中で、ディスクール展開においては、テーマ、語り口、コード化の方法、言説的位置などの連続性と変更性が大きな問題となると述べている。しかし、この問題は特定の対話関係にあるディスクールの動きにおいて重要となるだけではなく、歴史の流れにおいても重要となるものである。もちろん、後者の動きは言語的なレベルを超える事象を含んでいる。それゆえ、前者の動きをミクロ連鎖として、後者の動きをマクロ連鎖として区別することはできるが、どちらにも連続しようとする力と変更しようとする力とが作動していることには変わりはない。
 元号の変化による時代区分は、イントロダクションでも触れたようにその変化によってもたらされる何ものかがある一方で、その変化によって覆い隠される何ものかがある。『「大正」を読み直す』では、自由・平等・博愛 (フランス革命の三大精神の一つであるFraternitéは「博愛」ではなく「友愛」と訳した方がよいが、ここでは幸徳秋水の訳語に従う) を求める民主的な近代化の必要性を叫ぶ思想と、特別な国としての日本の国家主義体制を最重視する思想という二つの異なるイデオロギーが対比されている。幸徳秋水や大杉栄などの社会主義者、アナーキストは直接行動主義的民主主義者として、河上肇や津田左右吉はリベラル派の研究者として前者の極の代表であることが示されている。それに対して、和辻哲郎や大川周明は思想的変遷があったが、最終的には天皇を中心とした伝統的日本精神の擁護者となった者として、つまりは後者の極の代表者として示されている。この二つの対立する極はタイトルの「そして」という接続詞による前の四人と後ろの二人との分離によっても表記されているように思われるが、問題は二つの極がある時期に前の極が時代の前面に出て後の極を覆い隠し、また別のある時期にはその逆となるという点にある。たとえば、大正期は前の極が後の極を覆い隠しており、昭和前半期は後の極が前の極を覆い隠した (この点に関する詳しい分析は次のセクションで行う)。子安氏の本の大きな探究課題の一つがこうした対立する思想のパワーバランスによってもたらされる歴史的動きを分析することにあるように思われる。
 この動きを考察する時に忘れてはならない点がある。それは二つの対立する極が明治期にその源流を持つということである。子安氏は「「大正」を読み直すことは、「昭和」を、戦前の「昭和」だけではない、戦後の「昭和」をも読み直すことになるのである」と述べているが、研究対象となった六名の思想家は、幸徳秋水が明治4 (1871 [以下 ( ) 内は西暦]) 年、大杉栄が明治18 (1885) 年、河上肇が明治12 (1879) 年、津田左右吉が明治6 (1873) 年、和辻哲郎が明治22 (1889) 年、大川周明が明治19 (1886) 年というようにいずれも明治の生まれであり、明治期の様々な近代化の影響によって思想形成がなされていった人物である。それゆえ、この対立する二つの極が日本近代史に現前していなかったならば彼らの思想形成もなかったと言えるのではないだろうか。たとえば、国体という問題に関しても、明治期のリベラリストの代表である福沢諭吉と権力側の重視する点は大きく異なる。子安氏は『日本のナショナリズムの解読』 (2007、白澤社) の中で福沢の『文明論之概略』を精読し、権力者側の国体論に対する福沢の主張に対して、「日本の近代史の展開はむしろ皇統優位の国体観をもってその原則を転倒させていったのではないだろうか。「体を殺して眼を存する」というイギリスによる植民地支配の事例は、血統にこだわる国体論者への痛烈な皮肉である」と語っている。このように二つの極の対立は明治期にすでに存在していたのだ。それゆえ、大正を読み直す作業は昭和へと通じるだけではなく明治へも通じている。この対立図式による思想史上の変遷は大きな意味を持っているのである。
 しかしながら、問題は二つの極のパワーバランスが変化していったことにあるだけではない。二つの極が常に存在し、対立するイデオロギーを構築し続けたという点にもある。スイスの論理学者ジャン=ブレーズ・グリーズは、『論理と言語 (Logique et langage)(Ophrys, 1990) の中で、対象の束 (faisceau d’objet) という概念を提唱している。この概念はディスクールの展開や関係性の中で示されるパラディグマティックな意味の広がりを表す。「エッフェル塔がある」、「セーヌ川が通っている」、「20区からなる都市である」といった文の連続はパリという対象の束を形成することができる。そこにはディスクールの流れにおけるテーマ構築の問題が内包されているが、この概念とヴァルター・ベンヤミンの星座 (Konstellation) という概念との関連性について述べることも可能である。何故なら、グリーズは対象の束をディスクール概念として提示しているが、時代的なイデオロギーの変遷や連続もマクロレベルでのテーマとして捉えられるものであり、それを対象の束と見なすことができるからである。それと同時に、一目見ただけでは秩序なく無関係に見える星の集合体が、意味づけられた繋がりによって星座として浮かび上がるというベンヤミンの主張する概念とも関係概念としての共通性を持つからである。対象の束や、星座という概念を導入することで、『「大正」を読み直す』の中で提示された二つの極を二つの異なるテーマ展開として探究することができ、歴史的動きの中での二項対立問題の様相をはっきりと顕在化できるようになるのである。

二項対立的動きと近代化
 明治維新による変化は激烈なものであったが、それによって誕生した日本という国家にとって自国の近代化をどのような形で完成させるか、それが大問題であった。だが、性急な近代化は多くの矛盾を生んだ。まずは政治・法律的な側面として、憲法という国家の基本原理を定めた法律について見てみよう。国家の三大要素と呼ばれるものの中に主権という要素があるが、一般的に言って近代化を担う国民国家における主権は国家の構成員である国民にある。だが、明治憲法下における主権は、天皇にあるとする立場と国民にあるとする二つの異なる立場があり、どちらか一方に決定することができずにいたのである。それだけではない。統帥権という問題においても明治憲法では統帥権は天皇が持つとされたが、軍政における軍部の権限と国務大臣の権限との範囲が明確ではなく、時代的趨勢によってどちらか一方の力が強くなり他方を圧する結果となった。とくに満州事変以降、統帥権の名の下に天皇の軍政の代理をする陸軍参謀本部と海軍軍令部の力が国務大臣の介入を不可能にしていった歴史的流れがある。このように政治・法律的な大きな矛盾が存在していたのである。
 また、社会・文化的な側面として、たとえば身体性の問題についても、衣装と政治という側面から、和服と洋服という対立に関する研究を行うことができる。家永三郎は『日本人の洋服観の変遷』の中で国家に強制された衣装としての洋服の着用から個人的合理観に根差した洋服の着用への変化、伝統主義者の和服尊重主義の歴史的後退などについての研究を行っている。そして、洋服が必ずしもリベラルなものの代表とはならず権力と結びついた歴史的動きと関係した場合もあったことが語られており、近代の成立によって発生した二項対立的な事象が西洋的なものがリベラルであり、伝統的なものが保守的・権力迎合的であるというように単純に二分化できない点が強調されている。食という文化的視点においても、和食対洋食という単純な対立図式によってだけでは厳密な分析は不可能である。何故ならこの二項対立は明治、大正、昭和前期の歴史的流れの中で階級による違いが激しいものだったからである。大塚力は『「食」の近代史』において、洋食は明治以降急速に導入されていったが、和食の典型として考えられる一汁一菜の和食でさえ庶民階級に至るまで行きわたったのは昭和初期になってからであり、洋食を庶民階級が口にすることはめったになかったと述べている。また、昭和の前半まで徴兵令によって庶民階級も軍隊に編入された結果、軍隊生活によって洋食を初めて食べたという庶民が少なからず存在していたのである。西洋的なものは支配階級にとってはまずは富国強兵のための道具として重要であったことの一つの証明となるものであろう。西洋の近代的なものと日本の伝統的なものという対立軸はこの視点から見ても、一概に西洋的なものがリベラルなもので、伝統的なものが体制寄りの保守主義的なものであるとは言えず、多角的な分析が必要になることが理解できる。
 こうした複雑さは大川周明の日本精神に対する子安氏の分析の中にも提示されている。日本の近代化はヨーロッパ的システムによってもたらされたものであるが、そのシステムは民主主義的なもののみを含むものではなく、資本主義経済の発展を背景とする西洋中心主義と帝国主義とが混在したものである。こうした相反するイデオロギー的パワーの相克は第一次世界大戦という大惨事を招く一因となった。そこにはヨーロッパ的原理の失敗があると大川は主張した。大正11 (1921) 年に刊行された『日本文明史』において、彼は第一次世界大戦によって明確になった「諸国家内部に於ける階級争闘」と「国際間に於ける民族争闘」という二つの根本的な問題をどう解決するかが世界史の大きな課題であると書いている。子安氏はこうした問題に対して「近代の ‹ヨーロッパ的原理› が社会的格差の拡大と階級対立の激化、そして最後に世界戦争に至り着く形で自らを否定してしまった後に、‹社会主義› という人間社会救済のための方程式が示された」と述べ、大川の考えを要約している。しかし、このヨーロッパ的原理が成功するかどうかは疑問であると大川は考えた。それゆえ、欧米列強の植民地から立ち上がろうとするアジアの復興にはアジア的原理が必要だと説いた。その盟主となるのが日本である。何故なら、伝統的精神とヨーロッパの近代精神を共に有する日本精神によってアジア諸国を導くことができるからである。だが、彼の思想はファシズムへと転落していった。革新的な思想からファシズムへの変遷。「()「日本」が「世界史」の主題的意味をもって、そして「アジア」の盟主の位置から語り直される時、大川はもはやアジア主義的革新者ではない」という子安氏の言葉は重く響く。
 前のセクションの最後で対象の束と星座という二つの概念の類縁性について指摘したが、『「大正」を読み直す』の探究テーマを考えた場合、六人のそれぞれの思想家のイデオロギー的連関性が民主主義的なもの (A) と国家主義的なもの (B) との二つの対象の束として分割できる。この軸を設定することによって、明治、大正、昭和の前期との歴史的な流れは以下のように動いたことが理解できる。明治期はABとがせめぎ合っている。しかし、明治43(1910) 年に大逆事件が起き、BAを圧倒し、Bを主張する勢力によってAが覆い隠されそうになる。その後大正に元老を中心とした藩閥政治に対するAを主張する勢力による反撃があり、第一次民権運動が起こり、大正デモクラシーの時代となる。この時代、Bの勢力はAの勢力に圧倒されそうになる。だが、大正12(1923) 年に関東大震災と権力者による大杉栄の虐殺が起き、大正14 (1925) 年の治安維持法の制定、昭和3 (1928) 年の改正という流れの中で、天皇中心の国体論を叫ぶBの勢力によってAの勢力の声はかき消されていく。そういった歴史的展開の下で、前述したようにAの勢力としての幸徳、大杉、河上、津田が形作る星座と、Bの勢力としての和辻と大川が形作る星座とが構築されていったと述べ得るであろう。こうして二つの対立勢力が対象の束を作り近代思想史の二大テーマとして変遷していったのである。

全体主義と知識人
 日本の近代化は国民国家が歪な形で形成されたために民主主義的側面がどんどん失われ、軍国主義の下で破滅的戦争に向かったという見解は間違ったものではないであろう。だがそれだけではなく、先ほども触れたように西洋における近代化自身にも矛盾するイデオロギーが対立し、民主的なものと国家主義・全体主義的なものが西洋諸国の中にも混在していたのだ。一例を挙げよう。1894年に起きたドレフュス事件では、アルフレド・ドレフュス大尉の冤罪問題を巡ってフランスの世論が二分された。愛国主義に名を借りた反自由主義的、反民主主義的な行動を取った知識人も少なくなかった。そうした知識人の代表的な団体がフランス祖国同盟 (Ligue de la partie française) である。この組織にはアカデミー会員で作家のモーリス・パレスや詩人のフランソワ・コペーなどが参加しており、会員にはジャーナリストのレオン・ドーデ、画家のエドガー・ドガ、音楽家のヴァンサン・ダンディなど多くの知識人が名を連ねていたが、彼らは軍部と国家の尊厳を守ることをドレフュスの無実の罪よりも優先しようとしたのだ。それゆえ、日本の近代化のモデルとなった西洋においてもリベラルなものと国家主義的なものの対立が存在していたのである。この視点から見るならば、問題は反動主義的なものを克服し、正義や自由の精神を如何に貫いていくかということにあるだろう。ドレフュスは1906年に無罪判決を勝ち得るが、それは自由と正義を叫んだリベラル派の勝利でもあった。
 これとはまったく逆の流れとなったものが大逆事件である。大逆事件については詳しく触れないが、この事件の判決に対して起きた大逆事件の再審請求について語る必要がある。この再審請求の棄却という問題は明治憲法下の全体主義的体制が戦後も続いていることの典型的な一例だからである。大逆事件への再審請求は1961年に被告の坂本清馬と大逆罪で処刑された森近運平の妹の栄子が東京高等裁判所に対して行った。しかしながら、その請求は1965年に東京高裁によって棄却、坂本らはすぐに最高裁に抗告をするが1967年最高裁は高裁の再審請求棄却判決を支持し、抗告が却下された。『「大正」を読み直す』に引用された高裁の判決文には「坂本は検事調書、公判供述を通じ一貫して大逆の犯意を否定しているが、明治四一年(一九〇八)十一月「平民社」で幸徳から逆謀を告げられて同意し、決死の士を集めることを同意したという事実は、幸徳らの予審調書などを総合してこれを認めることができる」という言葉があるが、これは当時の検察側のでっち上げであり、客観性を大きく欠いた判断を真実とする異常さが示されている。また、高裁の裁判官の最終審議後の合議が行われていない可能性が高いにも係らず高裁は請求を棄却した可能性が極めて高いのだ。それにも係らず、最高裁は高裁の審議に関する問題点をまったく検証せずに判決を認めたとしか考えることができない。司法機関によるこの審議請求の検討の杜撰さと不誠実さには目を覆いたくなる。正義や真実を抹殺するのは政治だけではなく、司法においても起きることがこの審議によってもはっきりと示しされている。明治の体制が戦後の昭和にまで引き継がれている恐ろしい実例である。
 ここで『「大正」を読み直す』の大きな主題の一つである知識人という問題について考えてみたい。北河賢三の『戦争と知識人 (日本史リブレット65)』には昭和5 (1930) 年頃から 昭和16 (1941)年にかけての知識人が全体主義体制に協力していく姿が端的に書かれているが、そうした萌芽が大正期にあったことを子安氏は鋭く見抜いている。大正デモクラシーの陰に隠れた全体主義的な自由の抑圧。それが典型的に現れたのは大正14 (1925) 年の普通選挙法と治安維持法の制定である。それはまさに飴と鞭のセットであった。民主的政治運動の抑制装置としての治安維持法は、その後、リベラル派の知識人を激しく弾圧するようになる。こうした歴史の流れを踏まえて知識人とは何かという問題に答えなければならないが、まずはこの問題に対するいくつかの意見を提示する必要性があるだろう。エドワード・サイードは『知識人とは何か』(平凡社、大橋洋一訳) の中で「知識人は、() 権威に対してたち上がり、権威に対して言葉を返せるような空間を確保しておかなければならない。なんといっても、今日の世界では、疑問の念をもたずに権威に隷属することが、活動的で道徳的で知的な生活に対する最大の脅威のひとつなのだから」と述べている。また、モーリス・ブランショは『問われる知識人:ある省察の覚書』(月曜社、安原伸一朗訳) の中で、「知識人は、判断を下したり態度を決めたりしなくてはならないだけでなく、身を晒し、必要とあらば自分の自由と実存という代償を払ってこの判断の責任を負うのだ」と述べている。民衆に代わって権力の虚偽を暴き、権力者の暴力に抵抗し、民衆を教化すること、それがまさに知識人の仕事なのだ。では、大正期の日本の知識人はこうした務めを真摯に行ったであろうか。この点には大きな疑問が残る
 子安氏は『「大正」を読み直す』の中で、「私がその中に産み落とされた「昭和」の全体主義は、これを生み落とした「大正」から見ることによって、記憶の中の心象を脱して解読可能な歴史的構成体になったのである」と語っているが、この昭和の全体主義を押し進めたのが軍国主義政府であるという事実は動かし難いが、それを支えるために多くの日本の知識人が権力に屈服し、支持し、協力した事実も忘れてはならない。先ほど挙げた北河の『戦争と知識人』には『日本学芸新聞』の19386月号の杉山平助の談話の中で語られたいくつかの言葉が掲載されている。杉山は、そこで、「この戦争に勝たねば平和はこやアしない。平和なんていゝ言葉だが、それは要するに最早寝言である」と言ったことが示されている。このような発言をした杉山は、大正期にはリベラル派の文芸評論家として有名だった人物なのだ。『「大正」を読み直す』の後半部で書かれた和辻や大川の変節は彼らだけのものではなく、多くの知識人が行ったことなのだ。そうした意味で、この段落の冒頭で示した言葉はとても重いものだ。

 上記した論述だけで十分な検討ができたと言うことは難しいが、私がこの書評の中で語りたかったことは一通り書くことができたと思う。それゆえここでこの書評のまとめを行いたい。子安氏は明治、大正、昭和という日本の近代化の流れを歴史的連続性と変化を追いながら二つの対象の束を構築し、その二つを支柱として二つの知識人の星座を浮かび上がらせていったと理解できるだろう。それは日本の近代化の思想的な動きとそこに孕まれていた全体主義性を実に見事に描き出した作業である。だが、ここで最初に指摘した難問に答えなければならない。それは年号による変化は西暦による連続性を断ち切る可能性があるのではないかという問題である。19世紀の西欧社会は資本主義と市民社会の確立によって、前近代的な絶対主義王政国家とはまったく異なる国家を作り上げた。だが、19世紀後半から20世紀前半にかけては各国が植民地獲得競争を広げる帝国主義を展開した。そこには民主主義的な自由や平等の精神はまったく反映されていなかった。こうした世界史的な大きな流れと日本の近代化の流れとを比較する必要性もあるように思われる。日本の近代化は明治政府による上からの改革によって推進されたものである。そのため、富国強兵のスローガンに表明されているように西洋の持つ民主主義的なものよりも、経済力と軍事力の強化が近代化の第一の目的であった。市民社会における自由や平等といった目標は二の次であったのだ。そこに急ぎ過ぎた近代化による市民社会の未成熟さを見出すことは容易である。
 しかしながら、西洋の近代化においても国家主義的、全体主義的側面はどこの国にも存在していた。そうした側面がファシズムの温床となったように考えられるが、ファシズムを支える神話性の尊重というイデオロギーは絶対主義王政に起源を持っているように思われる。それは、ルイ14世の「朕は国家なり (L’état, c’est moi)」という言葉に代表される王権神授説に求めることができると思われるのだ。何故なら、この理論には神話的側面と国家的側面を統合する王の存在が見られるが、近代社会の主人公である市民の姿はまったく見えないからである。前近代社会における王の位置はまさにファシズムにおける独裁者が理想とする位置にあるのではないだろうか。このモデルは近代日本における天皇の存在性に対しても、とくに軍国主義の坂を転げ落ちるだけだった時代の国家思想に大きな影響があったように思われる。国体の中心となり得る天皇の存在があったからこそ戦前の全体主義は可能であったからである。
 以上の考察によって、『「大正」を読み直す』における日本近代思想の分析装置として用いられた二つの対象の束は、世界史上の歴史展開に対しても有効な分析装置であることが理解できたであろう。もちろん対象の束によって形成されるリベラルな思想家と国家主義的・全体主義的思想家の二つの異なる星座の対立に関しても同様である。しかし、明治、大正、昭和と続く日本の歴史展開には特異性が存在している。それは子安氏がこの本の中で暗黙裡に語っている知識人の支配体制への反抗の弱さと民衆への教化の弱さという問題点があったからである。この二つの弱点は日本の知識人の大きな問題点として常に存在していた。大正デモクラシーは一つの反例として考えることも可能であるが、子安氏の分析はそこにもこの二つの弱点があったことをはっきりと証明した。それだけではなく、ドレフュス事件はリベラル派が国家主義的保守派に勝利し、ドレフュス大尉は無罪を勝ち得たのに対して、大逆事件は客観的に判断すれば冤罪であるにも係らず、戦後の再審請求さえも棄却され、正義の声が司法によって抹殺された事実があったことに注目する必要がある。二つの対立する勢力は戦後も続き、日本においてはリベラル派の力は戦後においてさえも確固としたものであると言うことはできないのだ。『「大正」を読み直す』はこの点を強調することも忘れてはいない。 
 最後にこの本の成果と平成という時代について一言だけ述べ、この書評を終わりたいと思う。この本には平成については語られていない。だが、子安氏は平成の持つ薄気味の悪さを十分に意識しているように思われる。二つの対立する対象の束が戦後も引き続き存在したことは先ほど述べたが、平成においてそれが消滅したとは考えられない。全体主義や国家主義の時代は過去のものであるとするのが一般的な意見であろうが、果たしてそうであろうか。津田左右吉を弾劾した国粋主義組織の原理日本の考えと平成に設立された日本会議の考えに類縁性はないだろうか。軍国主義時代の国体論はまだ死んではいないのではないだろうか。そうしたイデオロギーはただ隠されているだけではないだろうか。そのベールを剥ぎ取る必要性がある。子安氏はこうした問題性も射程に入れながら、この本において厳密な考察を行っていった。しかし、忘れてはならないことがある。それはこの問題は子安氏だけではなくわれわれも探究しなければならないという事柄だという点である。『「大正」を読み直す』はその探究をしっかりと導いてくれる優れた概説書でもある。

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不気味なエクリチュール

 6月11日から7月3日まで三鷹市美術ギャラリーで太宰治資料展Ⅱが開催されていた。展示物の中に「水仙」と名づけられた太宰の油絵があった。それは薄気味悪さや違和感を覚えるものである一方で、哀れさと儚さを内包しているような不思議な印象を抱かせるものであった。「この絵を描いた一年後に太宰は短編小説『水仙』を発表した」。解説文に書かれていた言葉が気になった。小説の存在を知らなかった私は絵と小説との連関性を探ってみたいと考えた。だが雑事に追われ、すぐにこの作品を読むことができず、7月の終わりになり、やっと『水仙』を手にすることができた。強く惹きつけられるような魅力ある作品ではなかったが、探究すべきいくつかの重要な問題が内在している。そう感じた私はこのテクストを書き始めた。
  『水仙』が雑誌『改造』に掲載されたのは1942年5月のことであるが、そこに描かれている物語は歴史の中に埋もれた小さな出来事をテーマとしている。静子という名の上流婦人が周囲の人間の言葉を信じ、天才画家と思い込むが、それが嘘であると判り、絶望し、自分の絵を捨て去る。彼女の周りの人間は本当に嘘をついていたのかと疑問に思った主人公の小説家が、それを確かめようとする。しかし、事実を確かめる前に夫人が天才であることを証明するはずの一枚だけ残されていた水仙の絵を引き裂く。その後、耳が聞こえなくなっていた夫人は自殺する。
 これだけの内容のものであれば、私は関心を持つことはなかっただろう。だが、小説を取り巻く間テクスト性、言語と行為との関係、真か偽かを巡る問題が、考察すべき課題として頭に浮かんできたのである。『水仙』に係る間テクスト性は冒頭で述べた絵と小説との間にあるものだけではない。この作品は画家の林倭衛の夫人だった秋田富子が太宰に送った手紙を基にして書かれたもので、そこには手紙と小説との間の結びつきも存在している。さらに、『水仙』の最初の部分で太宰は菊池寛の『忠直卿行状記』について言及している。三つの大きな間テクスト性がこの作品と関係しているのである (もちろん細かな繋がりに関しては際限なく語ることが可能であるゆえにここでは取り扱わない)。次に言語と行為との関係は以下の問題を提起する。ある言表は発話されただけでその役割を終える訳ではない。それ以前の言表とそれ以降のものとの連続性に依拠しながら何らかの行為へと向かって行く。このことに対する検討はディスクールの動きを考える上で欠くことのできないものとなる。最後に『水仙』という作品の中には真と偽を巡る問題が存在する。それは論理学的な真偽値の問題ではなく、他者の言説を信じることとは何かについての分析を必要とするものである。以上三つの問題はテクスト構築とも、言語行為論とも、確信や信念とも密接に関連する重要な探究課題である。それゆえ以下のセクションではこの三つの問題を順次考察していきたいと思う。

間テクスト性
 先程も述べたように『水仙』には注目すべき三つの間テクスト性が存在している。そこには手紙と小説、絵と小説、小説と小説という差異があるだけではない。最初のものは作者が異なるだけではなく、どちらも言語記号を用いてテクスト生産がなされているが手紙と小説というジャンルの違いがある。二番目のものは作者が同一であるが表現手段 (用いている記号) が異なるものの繋がりが問題となる。三番目のものは言語という同一の記号を用い、小説という同一のジャンルの下に構築されたものであるが、作者が異なる (もちろんそこには文体の違いや、プロットの違いなどが内含されている)。では、『水仙』の創作方法やテーマと深く係るそれぞれの間テクスト性について詳しく検討していこう。
 秋田富子の手紙と小説との関係は娘である林聖子の証言に基づくものであるが (『風紋二十五年』参照)、手紙そのものはもはや残ってはいない。そのためこの間テクスト性の詳しい分析は不可能である。しかしながら、モチーフとしての手紙の存在は小説の背景となっている時代性や人間関係を思い起こさせるだけでなく、太宰の描いた水仙の絵と富子との結びつきをも想起させるものである。
 小説に水仙の絵が登場するのは終わり間際になってからである。主人公の「私」は唯一残った夫人の描いた水仙の絵を引き裂き、細かく千切り、捨て去るのであるが、その絵は「バケツに投げ入れられた二十本程の水仙の絵」であると書かれている。太宰が描いた絵は八本程の水仙にしか過ぎず、小説に描かれたものとは異なり、「水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった」というようなものではない。だが、太宰の絵は静子夫人のようではないだろうか。冒頭で示したように、薄幸の夫人の姿に重なり合う哀れさと共に薄気味悪さが内包されているからである。そこにはテーマ的類縁性が存在している。
  『忠直卿行状記』は菊池寛の小説であるが、太宰は小説のタイトルだけを記して、作者に関してはまったく何も記していない。つまりは曖昧性を帯びた間テクスト性の問題が見出されるのである。菊池の小説のあらすじが述べられている箇所の終わりには、「殿様は、狂いまわった。すでに、おそるべき暴君である。ついには家も断絶せられ、その身も監禁せられる」という言葉がある。しかし、それは『忠直卿行状記』のストーリーとは異なる。六十七万石の大大名から、一万石に国替えさせられるが、「御身はよろず、お慎み深く、近侍の者を憫み、領民を愛撫したもう有様、六十七万石の家国を失いたる無法人とも見えずと人々不審しく思うこと今に止まず候」と記載された史料が挙げられ、忠直卿の後半生が示されているからである。監禁されたという訳でも、狂ったままであった訳でもなく、よき君主として領民に慕われ、穏やかな後半生を送ったことになっているのだ。太宰は昔の記憶だけを頼りにこの小説を作品の中に挿入しているような書き方をしているが、この曖昧性を帯びた間テクスト性の導入は以下のように解釈できるのではないだろうか。すなわち、真か疑かを問うことが重要なのではなく、他者の言葉を信じたり、疑ったりすることによって人生が一変することがあり得るということが重要なのだ。そこにはこうした暗示がある。私にはそう思えるのである。この問題は後続するセクションで考察する事柄と深く関連する。

言語と行為との関係
 ジョン・ラングショー・オースティンの言語行為論においては、あらゆる言表が三つのレベルに分割可能な行為を表明できるとされている。このことを端的に示しているフランスの言語学者オズワルド・デュクロが語っている例を挙げよう。一人の客がレストランでウエイターに、「この魚は不味い」と言ったとする。その客がただ単に自らの感想を述べたとするならば、それは発語行為となる。だが、「料理を変えろ」という要求のためにこの言表を発したならば、発語内行為となる。もしもこの言表を述べることで実際に料理を変えさせたのならば、発語媒介行為となる。では、同じ言葉が語られたとしても、どのような場合に、発語行為にとなり、発語内行為となり、発語媒介行為となるのか。それは、その言表が如何なる言表連鎖の中で、いつ、何処で、誰によって、誰に対して語られたのかによって、すなわち発話された状況やコンテクストによって決定されるのである。
  『水仙』における言語行為はどうなっているだろうか。夫人に対して語られた称賛の言葉は作品の中にまったく書かれていないが、その言葉が如何なる言表行為として機能したかは理解できる。夫人の作品を褒め称えた言説はただ単に発せられただけではなく、発言への同意を求めるというように作用し、さらには夫人がその言葉を強く信じるようにも作用した。その作用によって彼女は周囲の人間が語った事柄を狂信してしまった。そこには発語媒介行為があると同時に語られた言表から行為への連続があり、それが静子の死まで繋がっている。言表が行為を生み、行為が別の行為を生み、自殺にまで至ったのだ。
 こうした展開を不条理と呼ぶことは容易である。しかし、語られた言表によってもたらされる行為がどこまで続くのか、どのような行為がどのような行為をもたらすのかといった連続性は、前もって予想できない。ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは『確実性について』の中で、「言語ゲームはいわば予想不可能な何ものかであることを君は心に留めておく必要がある。それはそこには根拠がないという意味のものである。それは道理に適ったものではないのだ (また、道理に適っていないものでもないのだ)」と述べているが、予想不可能なのはディスクール展開に限定されるものではない。ある発言がある行為に対してどのように影響するのかも予想可能ではないのだ。ある行為の根拠を問うことには意味がある側面がある一方で、他の側面から見れば意味がないだ。言表行為には論証的問題として処理できない暗部が存在している。それゆえ発話されたものには不気味さがつきまとう。

言葉を信じるということ
  「この本は厚い」、「フランスの首都はパリである」、「関東大震災は1921年に起きた」といった言表はそれぞれのものが指し示している現実との係りに基づき、言表が真か疑かを決定することができる。それだけであれば形式論理学の考察対象に過ぎないが、真か偽かが明確に判断できない場合でも、われわれは他者の言葉を信じたり、疑ったりすることができる。たとえば「ジャンは親切だ」という発言は、もしも聞き手がジャンを知っていれば真偽値の判断はできるが、知らなかったならば、話し手の発言を信じるか疑うかの判断は聞き手に委ねられる。人間が嘘や、冗談を言うことができる以上、聞き手は受信したメッセージの真偽値が不明な場合でも、それを信じることも可能であるが、疑うことも可能なのである。問題は何故信じたり、疑ったりできるのかという事柄である。
  『水仙』の話に戻ろう。静子夫人は、夫や画塾の教師、生徒などが語る自分の絵に対する称賛の言葉を信じ、自分は絵の天才であると強く思った。ところが、ある時それに疑いを抱き、遂には自殺する。しかし、夫人はどのような発言を信じたのか。前述したように彼女が信じた発言は作品にはまったく書かれていない。自分が信じた言葉が本当かどうか確かめるために彼女は小説の語り手である「私」を訪ねるが、絵を見ることを拒否される。「私」は耳が聞けなくなった静子から自分は天才などではなかったという手紙を受け取り、絶望しきった彼女に会いに行く。ここでも何故夫人が周囲の言葉を信じなくなったかその理由が明確には示されていない。作品の物語展開を考えるならば、前のセクションでも指摘したように、他者が実際に何を語ったのか、何故その語りを信じるようになったか、あるいは、疑うようになったのかは重要な事柄ではない。信じたり、疑ったりすることによって何かが決定的に変わることがこのテクストにとっては重要なことなのだ。  
 サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという謎の人物の到着を信じることによってある場所から動くことができなくなった二人の男の物語である。男たちは何故ゴドーの到着を信じ続けるのか。その訳は語られない。男たちは何度も話し合うが、最後には、「もう行こう」、「だめだ」、「なぜだ?」、「ゴドーを待つんだ」という言葉が発せられるだけである。そこには理由がない。信じることに理由はいらないのだ。だからこそ信じるという行為は理性的であるよりもはるかに狂気に近いものとなるのではないだろうか。では疑うという行為はどうであろうか。デカルト的懐疑であれば理性的なものであろう。だが強く信じていたものに対して疑問が湧いたならばどうか。静子夫人は他者の言葉を強く信じ、そして、強く疑った。不安と絶望。懐疑から生まれた絶望も理性の道にではなく、狂気の道に通じている。

 『水仙』の終わりの箇所で小説の語り手は夫人が実は天才画家であったのではないかと考え、「(…) 奇妙な疑念にさえとらわれて、このごろは夜も眠られぬくらいに不安である。二十世紀にも、芸術の天才が生きているのかもしれぬ」と語る。その不安には不気味さが漂っているが、そこには二つの異なる側面が存在している。
 一つ目は静子夫人の変化を巡る不気味さである。夫人は他者の言説を信じて自分を天才だと思ったが、それだけではなく自分が天才ならば、すべてが可能であり、すべての人間が自分に跪かなければならないと考えたのではないだろうか。だからこそ、物語の書き手である「私」を訪ね、絵を見せ、「私」を平伏させようとした。しかし、周囲の言葉を信じられなくなった夫人は退廃的な生活によって耳が聞こえなくなり、絶望し、自殺してしまう。虚構が真実となったり、真実でさえも虚構に思えるようになってしまう状況の中に投げ入れられた時、われわれは大きな不安を抱き、その状況に不気味さを感じる。不気味さはしばしば自己という堅固な城を破壊するのではないだろうか。
 フロイトは『不気味なもの』の中で「不気味なものとは慣れ親しんだものが一度抑圧され、それが再び戻ってきたものである」というように述べている。すなわち、それは無意識の中に沈殿していた幼少期のあるコンプレックスが何らかの原因で突如意識に現れたものであると説明されているのだ。この考えに従うならば、静子夫人は自分が他者とは違う特別な人間であるという思いを無意識の中にずっと隠し持っていたのであるが、他者の発言によってそれが意識の上に顕在化していったと解釈することができるだろう。さらに夫人は特別というだけではなく、特別であるのだから他者が自分を畏怖し、拝跪することを強烈に望んだ。だが、その欲望と現実との大きなギャップに耐え切れずに自己破壊の道へと進んでいった。こう分析することが可能であろう。自己破壊に至る欲望は悲劇を感じさせる以上に不気味さを、人間の心の暗い闇の部分で蠢いているドロドロとしたものを感じさせる。
 もう一つの不気味さは真実を明確に語ることができなくなった時代性と関係する。この小説は最初に述べたように第二次世界大戦中の1942年に書かれた。日本国内は連戦連勝に湧き、来るべき敗北の予兆はまだ見えていなかったであろう。しかしながら、太宰は自分の生きている時代に対して不気味さを覚えていたのではないだろうか。この小説が5月に『改造』に掲載された約一月後にミッドウェー海戦が起き、日本海軍は大損害を受け、その後戦況は悪化する一方となり、敗戦へと突き進んで行く。そのような状況下で、何が本当で何が嘘かを問うことを許さない時代的雰囲気があったはずである。理性的な行為は否定され、非合理な行為が強制される。狂気の時代。そう形容しても間違ってはいないだろう。歴史的展開を知るわれわれは静子夫人をそうした時代のシンボルと見なすことができる。夫人の耳が聞こえなくなったのは生殖不可能性の隠喩となっているではないだろうか。生み出すことができず、朽ちていくだけの姿を表していると考えられるのである。それと同時に、彼女の姿は不毛な時代性を、何も作ることができず崩壊へ向おうとする不気味さを内包する時代性を表しているとも考えられるのではないだろうか。
  「天才である誰かがさらに少なくとも二つの天分を有さない限り耐え難い人間となる。その二つとは感謝の念と純粋さである」とフリードリッヒ・ニーチェは『善悪の彼岸』の中で語っている。静子夫人は天才であったかもしれないが、彼女は感謝の心も、純粋な精神もまったく持ち合わせてはいなかった。それゆえに、彼女の自殺は当然であったとも語り得るだろう。だが、問題はそうなってしまうような強い欲望が彼女の無意識の暗い奥底に潜んでいたことである。それはまさに不気味な怪物が心の中に隠れ住んでいたようなものである。それだけではない。その怪物は天才の天才性を破壊するものとして時代の中にも住み着いていた。絵の中に描かれた水仙の薄気味の悪さと小説の中に示されていた不気味さ。その連関性は個人的な欲望を超えて、時代が絶望的色彩に染まっていく予兆を示していたのではないだろうか。不気味な時代が不気味なエクリチュールを生んでいった。私にはそう思われるのである。

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今村仁司『交易する人間』を再読する

 すぐれた思想家であった今村仁司(1942~2007)が亡くなって、まもなく10年になる。彼が2000年に刊行した『交易する人間』が、最近になって講談社学術文庫として再刊された。この機会に本書の意義を考えたい。
 「交易」は物の交換・売買を意味するが、今村仁司はそれをもっと広い意味で使っている。基本にあるのは、贈り物とその返礼というかたちの交易である。それは単に人間相互の交易に限られるものではない。本書を通じて感じられるのは、宗教的な意味での交易の重要性が論じられていることである。
 今村仁司は、フランスのインド思想研究者シャルル・マラムーが、「古代インドの人々にとっては負目は人間の本性と見なされている」と述べたことに注目する。「人間は現世のなかに到来した瞬間から<負の目的に、負目として>ある。」人間は、生まれてきたことそれ自体が、超越的なものに対する負目であり、それを返していくのが人間の生活である。
 「交易する人間」は、単に物や情報を他者と交易して生きているのではない。今村仁司のことばを借りれば、「人と超人間的存在との交易こそが、他の交易のすべてを規定する」のである。「交易する人間」は、政治的人間、経済的人間でもある。しかしその根底にあるのは「聖なるもの」に動かされている人間である。「人間自身の存在も、神々からの贈与」にほかならず、人間はこの贈与に「お返し」をすることによって「交易する人間」となる。
 今村仁司は多くの著作を残したが、この「交易する人間」には、特に魅力的なものがある。
(2016年8月12日)

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日本会議について

 近代国家が成立して以降、どんな時代にも、どんな国の中にも、愛国心の重要性を叫ぶ思想は存在していた。また、愛国心をイデオロギー的中核とし、自国中心主義を主張する思想も存在していた。それゆえ、日本における反共産主義を基盤とした右翼思想に言及する発言には目新しさはない。だが、今までマスコミにほとんど取り上げられることがなかった日本会議という謎の右派組織について語るとなると事情は大きく異なる。
 今年の4月以降、日本会議に関する本が続々と刊行されている。主なものを挙げると、4月30日に菅野完の『日本会議の研究』(扶桑社) が、5月18日に上杉聰の『日本会議とは何か:「憲法改正」に突き進むカルト集団』(合同出版) が、6月17日に俵義文の『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』(花伝社) が、7月8日に青木理の『日本会議の正体』(平凡社) が、7月15日に山崎雅弘の『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社) が発刊された。なぜこのように突如として、日本会議を考察する本が次々と出版されるようになったのか、それがこの小論を書こうと思った第一の動機であった。また、日本会議とはどのような組織で、何を目指しているのかを知りたいと思ったことが第二の動機であった。第三の動機はこの組織の運営方針や活動の問題点が何かを探る必要があるというものであった。もちろん、この小論の中で、こうした事柄すべてを網羅的に、厳密に論述することは不可能である。ここでは日本会議が掲げる「皇室の尊重」(1)、「新憲法制定」(2)、「靖国参拝」(3)、「愛国教育」(4)、「国防の充実」(5)、「世界各国との共存共栄」(6) と要約できる6つスローガンにおいて、(1) と (3)、(2) と (5)、(4) と (6) の枠組みの中で、これらのスローガンに内包されている問題の危険性を分析し、そこから見えてくる日本会議のブレーンたちが持つ戦前の軍国主義体制への強烈な回帰願望について検討していきたいと思っている。

日本型ナショナリズムの大組織
 『サンデー毎日』の7月17日号に、「日本会議の正体を暴く!」のタイトルで、前述したジャーナリストの青木理と歴史研究家の山崎雅弘が日本会議に関して対談している記事が掲載されていた。短い記事であったが、日本会議を巡る問題が端的に指摘されていた。山崎は「日本会議に代表される今の政治的潮流の方向性は、戦前の価値観に近い」と語り、青木は日本会議の政治的特徴を「宗教とナショナリズムが結びついた全体主義」と語っている。両者に共通する認識は、この右派組織が宗教的な繋がりをベースとして結合した復古主義的で、国家主義的なイデオロギー色が極めて強い団体と見なす点にある。また、日本の戦後民主主義全体を否定する野望を抱いているだけではなく、安倍晋三を首相とする現政権を下支えし、政権に絶大な影響力を及ぼしている団体という点でも一致している。
 ところで、この組織はどのように誕生したのか。公的には1997年5月に反共色の強い宗教人が中心となって作った日本を守る会と保守系文化人が中心となって作った日本を守る国民会議が統合されてできたものである。だが、日本会議の根幹を形成する事務総長の椛島有三、政策委員の伊藤哲夫 (政治評論家)、高橋史郎 (教育学者)、百地章 (法学者) といったメンバーが生長の家学生会全国総連合 (生学連) の運動員であったことは、日本会議について研究しているすべての本に書かれている事実である。生長の家は、谷口雅春によって1930年に創設された新興宗教で山梨県北杜市に本部がある。あらゆる宗教はその根本において一致すると考える「万教帰一」を説いているが、戦中は日本が国家的使命として遂行した戦争を全面的に支持した。また、日本の中心は万世一系の皇室であり、天皇であるとする「日本国実相顕現」を主張し、戦後も妊娠中絶反対、憲法改正、靖国神社の国家護持などを強く訴えた。こうした谷口雅春の見解は、現在の生長の家においては継承されていないが、前述した日本会議の中核にいる旧生学連メンバーたちは、未だに、谷口の思想を完全に継承する発言を行っている。
 もちろん日本会議は生長の家と深く繋がっていた関係者によってのみ構成されてはいない。神社本庁、伊勢神宮、明治神宮、靖国神社などの神道系の団体、霊友会、佛所護念会教団、国柱会などの仏教系の団体、諸教系では解脱会や崇教真光などが日本会議に参加し、活動しているとされている。日本会議の活動資金の多くはこうした宗教団体が出資している。また、宗教界以外でも、現会長は杏林大学名誉教授の田久保忠衛で、副会長に声楽家の安西愛子などが、顧問に石井公一郎ブリヂストンサイクル元社長などが、代表委員に石原慎太郎元東京都知事、城内康光元警察庁長官、横倉義武日本医師会会長などが名を連ねている。さらには現在の閣僚のうち安倍晋三、麻生太郎など12名が日本会議を支援する超党派の国会議員連盟の一員であり、その連盟には2015年9月時点で281名の議員が参加している。その他にも、地方議会の多数の議員も日本会議を支援している。この団体はいわば日本の右派メンバー大集合組織なのだ。
 右翼の大組織であるだけではなく、日本会議はその行動方針においても特徴がある。それが草の根右翼運動である。日本会議の設立以前から、この団体の事務総長の椛島が中心となり組織したキャラバン隊が保守系の全国の地方議員団を訪問し、元号の法制化、建国記念日の祝日化、国旗国歌法の制定、教育基本法の改正といった日本会議が重視する政治問題を地方議会で国政の場での緊急討議必要議題として決議するように働きかけた。そして、その地方議会の請願決議文が国会議員に強い圧力をかけたのである。ボトムアップ方式に見せかけた下からの圧力を最大限に生かした保守系組織の市民運動が草の根右翼運動であり、その方法は日本会議が最も得意とする政治方法である。こうした特色を持つ日本会議の問題点について、前述した三つの視点から以下のセクションでは考察していく。

機械仕掛けの天皇と靖国参拝問題
 日本会議は日本の中心が天皇であると主張しているが、その中心となる天皇とはこの組織のメンバーにとってどのようなものなのだろうか。天皇は実際に存在する人間として位置づけられる以上に、抽象化され、個人性を排除された機械人形のようなモデルとしての存在性が強調されているものではないだろうか。
 1992年10月の訪中の際に開かれた楊尚昆主席主催晩餐会で、天皇は、「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたって、平和国家としての道を歩むことを堅く決心して、国の再建に取り組みました」と述べた。しかし、訪中前、日本会議現政策委員長の大原康男 (宗教学者)、同組織現顧問の宇野精一 (国語学者)、日本会議国会議員懇談会現会長の平沼赳夫などが当時の官房長官だった加藤紘一に対して、天皇訪中中止を求める強い圧力をかけていた。天皇の個人的意見よりも、自分たちの要求を通すことが如何に重視されているかを端的に示す出来事である。
 また、2013年12月の80歳誕生日記者会見の中で天皇は、「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています」と述べている。だが、日本会議のメンバーたちの考えは異なる。青木は『日本会議の正体』の中に、1993年に日本協議会・日本青年協議会の『祖国と青年』に椛島が書いた「天皇が国民に政治を委任されてきたというのが日本の政治システムであり、西洋の政治史とは全く歴史を異にする。天皇が国民に政治を委任されてきたシステムに、主権がどちらにあるのかと二者択一論を無造作に導入すれば、日本の政治システムは解体する。現憲法の国民主権はこの一点において否定されなければならない」という言葉を載せている。そして、それが今も日本会議の中心的イデオロギーの一つであることを示しているが、こうした意見は近代国家の条件である国民主権を完全否定すると共に、日本会議のメンバーが最大の敬意を払うべき対象としている天皇の平和主義思想をも否定するものである。日本会議のメンバーは自分たちの思うようになるデウス・エクス・マキナとしての天皇のみを必要とし、主体的に考え、正しいと思うことを個人として発言する天皇を必要としていないのではないだろうか。
 靖国神社問題に関しても、追悼機関が靖国神社でなければならない絶対的な理由はあるのだろうか。2001年12月に小泉内閣は国立の宗教性のない追悼施設の必要性を議論し始めたが、日本会議は猛反発した。椛島は2002年7月号の『祖国と青年』に掲載した論文の中で、「今回の「国立追悼施設」建設の策動は、中国・韓国の外圧に屈し、靖国神社が体現してきた「君民一体」の国体を破壊しようとするところに、最大の問題がある」と書いているが、軍国主義時代の国家神道政策が未だに続いているようなこの言葉はアナクロニズム以外の何ものでもなく、日本会議の政治運動が戦後民主主義を無視した運動であることがはっきりと示されている。また、菅野は『日本会議の研究』の中で、「(…) 日本会議にとっては、A級戦犯合祀の是非という「歴史認識」より、いかにして宗教性を保ったまま靖国神社で慰霊行事を行うかという「政治と宗教」の問題こそ重要ポイントだと言えまいか」と語っている。このように考えるならば、日本会議の、一宗教法人に過ぎない靖国神社を公的追悼施設として認めさせようとする要求、終戦記念日の首相による靖国神社参拝の要求などは、靖国神社を宗教的に特別視し、現憲法に明示されている政教分離の原則を破壊しようとするものと思わざるを得ない。

改憲と国防
 日本会議と安倍政権の最大の目標が改憲である。日本会議と深い関係にある改憲組織であり、政治ジャーナリストの桜井よしこが代表を務める「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会 (民間憲法臨調) の第15回大会 (2013年5月3日開催) の「民間憲法臨調緊急提言」の中には、「日本国憲法が制定されて以来、すでに六十六年が経過した。占領下において制定されたという異常な立法経緯を有しているにもかかわらず、日本国憲法はこの間一度も改正されず、その結果、国家社会の現実と憲法とのギャップは拡大の一途をたどってきた。そして外交や防衛・安全保障といった国家主権、国民の生命・財産にかかわる重要問題においてすら与野党間に共通の土俵が形成されないまま、わが国の国益は損なわれ続けてきた」と書かれているが、現憲法は本当にGHQによって押しつけられただけのものなのか。さらには、基本的人権の尊重、国民主権、戦争放棄の三大原理を中心とした現在の憲法は本当に国益を損なってきたものなのか。こうした問いに対して日本会議は明確な説明を行ってはいない。さらに、青木は『日本会議の正体』の中で、「天皇中心主義の賛美と国民主権の否定。祭政一致への限りない憧憬と政教分離の否定。日本は世界にも稀な伝統を持つ国家であり、国民主権や政教分離などという思想は国柄に合わない――そんな主張を、たとえば日本会議の実務を取り仕切る椛島は、平気の平佐で口にしてきた」と語っているが、それは現在の憲法を無視し、日本会議の野望である明治憲法の復活を端的に表しているものであろう。この危険性は限りなく大きい。青木はさらに続けて、「それは同時に、日本会議の運動と同質性、連関性を有する安倍政権の危うさをも浮き彫りにする」とも書いており、日本会議が現内閣に与えている絶大な影響力に関する強い懸念も示している。
 集団的自衛権の行使が現在の憲法においても解釈上可能であると述べている憲法学者は、菅義偉官房長官によれば、長尾一紘中央大学名誉教授、西修駒澤大学名誉教授、百地章日大教授の三名にしか過ぎない。僅か三人。それも問題ではあるが、三人はいずれも日本会議と深い関係にある美しい日本の憲法を作る国民の会と民間憲法臨調の役員であることを菅野は『日本会議の研究』の中で指摘しているが、これは大問題である。政府が特定の政治組織に属する憲法学者の意見のみを聞き、他の多くの憲法学者の意見を聞かないのは甚だしく不合理である。憲法第九条の規定に基づけば、外国への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国に対して武力を行使しようとする場合、その根拠を明確に示す必要が出てくる。九条があらゆる交戦権を認めないとするならば、個別的自衛権も日本は持っていないことになるが、国民の生命、財産などが脅かされている場合に自衛措置が認められていると考えれば、現憲法においても個別的自衛権を有しているという解釈が可能となる。しかしながら、現憲法の何処を読んでも、日本の国益を守るために、さらには、同盟国を援助するために交戦可能性の高い外国に自衛隊を派遣することができると解釈することは論理的に不可能である。論理性も、客観性もない憲法解釈を行う三名の憲法学者の意見のみを尊重している集団自衛権に対する政府の解釈は異常であり、日本会議の意向のみに耳を貸していると言わざるを得ない。

愛国心という名の全体主義
 日本会議の論理展開は二項対立概念を提示して、そのどちらか一方が正しいとするものである。そこには対立する二つの事項を止揚しようとする意図はまったく感じられない。Aが正しいか、Bが正しいかの二つに一つの選択があるだけである。こうした二項対立図式に基づく極めて単純な論理展開には潜在的ファシズム性が内在している。ここでは、まずこの事柄について検討し、さらに愛国心や他国との関係といった問題について分析していきたい。
 日本会議が強く訴えているものを、よいとされるもの [A] と悪いとされるもの [B] に分割してみると以下のようになる。[A]:男系男子継承による天皇制 (1)、戦前の政治体制 (2)、伝統主義・国粋主義 (3)、直系家族主義 (4)、靖国神社公式参拝 (5)、集団的自衛権 (6)。[B]:女系天皇 (7)、戦後の政治体制 (8)、共産主義 (9)、夫婦別姓 (10)、国立の宗教性のない追悼施設建設 (11)、個別的自衛権 (12)。(1) と (7)、(2) と (8)、(3) と (9)、(4) と (10)、(5) と (11)、 (6) と (12) は、ほぼ二項対立関係にあると言ってよいだろう。これらの対項目の中で、一番目のものと三番目のもの以外はすでに検討した事柄を多く含むため、ここではこの二つに連関する問題を中心的に考えていく。
 (1) と (7) の二項対立事象は日本会議の主張する男性中心主義的直系家族的な社会重視の立場をよく表している。女系天皇について、日本会議と日本会議国会議員懇親会が2006年3月に主催し、日本武道館で行われた皇室の伝統を守る一万人大会の決議文において、「我が皇室は、百二十五代、二千年以上にわたって断絶することなく男系によって皇位を継承し、その淵源が神話にさかのぼる世界に比類なき存在である。しかるに今般、政府は、「皇室典範に関する有識者会議」の報告に基づき、女系天皇の導入及び長子優先主義の採用という、皇位継承の伝統に重大な変更をもたらす皇室典範改正を行おうとしている」と述べているが、こうした考えはまさに男女平等や、国民の平等性を根底から否定し、皇室の特殊性だけが強調されている民主主義とはまったく無縁のイデオロギーを示している。
 (3) と (9) の対立図式も日本会議にとって重要なものである。日本会議は夫婦別姓に強く反対しているが、これも男女平等の意識からはほど遠い考えであり、この問題と反共産主義が融合したものとして、青木は『日本会議の正体』の中で椛島が『祖国と青年』1996年3月号で書いた、「旧ソ連が何故家族制度の廃止に取り組んだのか (略)、それはソ連政府が家族を革命遂行の最大の敵の一つと見なしたからである (略)」という言葉を引用している。日本会議がこれまでに語ってきた言説を考えれば、この言葉は家族を守る伝統主義対共産主義の二項対立図式を提示し、共産主義は家族制度を破壊する敵であり、家族を守れるものは日本の伝統的な制度しかないと断言していると解釈できるものである。
 こうした二項対立図式に基づく愛国心とは具体的にはどのようなものだろうか。国旗国歌法に基づく国歌斉唱の義務、美しい日本を尊ぶ愛国教育の実践、自虐的歴史観によって作られた戦後教育や制度の否定、戦後を象徴する現憲法の改正などが重視されるものではないだろうか。それはまさに日本会議が強く求めているのである。2006年12月に教育基本法が改正されたが、同年4月14日の『琉球新報』には、「沖縄は多数の住民が犠牲になった戦争体験をした。「愛国心」を植え付ける動きには「戦前の歩みを連想させる」と警戒したり、批判したりする人が多い」と書かれている。愛国心という言葉には、復古主義的ニュアンスがこびりついているだけではなく、実際に日本会議が希求し、実現しようとしている戦前のレジームへの復帰を思い起こさせる事象が数多く内在している。今示した『琉球新報』の文章の後には、「法律で「愛国」を求めるべきではない」と述べられているが、国家としての愛国心の強制はまさしく戦前の教育を彷彿させる。それだけではなく、愛国心はしばしば自国中心主義を激しく要求するものである。そこには (2) を尊び、(8) を否定する姿勢がはっきりと現れている。さらにそこには他国との共存共栄よりも、自国のシステムに他国を服従させようとする力が働いている。戦前の八紘一宇の思想は元々他国との協調による世界平和を目指すはずのものであったが、侵略の戦争の口実となっていった。日本会議の持つ敗戦前の体制への憧憬はこうした危険性を常に宿している。

 日本会議の主張している政治イデオロギーの様々な疑問点に関して論述してきたが、この小論のまとめとして、日本会議が否定する近代西洋社会が確立したシステムが、本当に今の日本社会にとって必要のないものなのかという重要な問題について考察してみたい。
 大澤真幸は『近代日本のナショナリズム』(講談社、2011) の中で、「ナショナリズムとは、普遍主義と特殊主義との共存と交叉によってこそ特徴づけられる (…)」と語っているが、それは以下のような理由による。世界的な近代化の波の中で、普遍的である国民国家設立の志向性が強く打ち出される。特殊性を示す民族性は国民国家と異なる性質のものであるが、一旦、国民国家への志向性がしっかりと根付き、国民国家が完成へ向かって動き出すと、国民国家を具体化する大きな要素として民族性がクローズアップし、ナショナリズムが生まれるのである。だが、普遍主義と特殊主義とが融合されたものはナショナリズムだけではない。大澤は宗教的原理主義者やオタクと呼ばれる人々の考えの中にも同質的な融合を見ている。そして、こうした異なるレベルの特質が融合された思想を有する集団が誕生した理由として、「かつて普遍的であると信じられていた、啓蒙思想に由来する近代的理念も、特殊に西洋的な――つまりはローカルな――ものに過ぎないと見なされている。要するに、普遍性は、今日では、不可能なのだ。人権や平等といった、近代的な「普遍概念」が、攻撃的な印象を与えるのはこのためである」と書いている。さらに、「普遍性が不可能であるとするならば、そこにできあがった空白は、普遍性をあからさまに否定し、蹂躙するような価値によってこそ埋められるであろう。「普遍性が不可能であること」、これだけが、残された唯一の普遍性だからである。(…) ナショナリズムや呪術的な信仰は、まさに、そうした「普遍性の代理」として機能する特殊性に他なるまい」という指摘は、青木がカルト的特質を持つ組織として、菅野が生長の家原理主義の団体と見なした日本会議の考えに対しても同様に述べ得る事柄である。
 しかし、デカルトが方法的懐疑によって真理の探究を開始し、コギトを中心として確立した西洋近代の思想にはもはや普遍性がないとはっきりと断言できるものなのだろうか。大澤は普遍性のレベルについては論述してはいない。普遍性は一つのレベルによって成り立つものではなく、正と誤、善と悪、信と疑といった異なるレベルのものが結合することによって成立するものである。西洋近代主義が作り出した概念が否定されるのは、真理のレベルとしてではなく (善悪のレベルもあまり考慮されてはいないだろうが、ここでは真理のレベルに注目したい)、信じられないというレベルからではないだろうか。何故なら真理は客観的、合理的、論理的といった条件がなければ真理として認められないが、信仰は主観的、非合理的、非論理的であっても構わないからである。それゆえ、大澤が語っている普遍性から特殊性への移行にはレベルチェンジがある。真理は信仰とは異なり、今示したような条件を含むゆえに個人の主観性を超えることができる。個人は主観性を持ち、変化し続けていくために、真偽を判断するには絶えず反省しなければならない。思想的真理の探究は、数学のように真が一度決定したならばそれで終わりとなるものではなく、問いを繰り返したり、考え直したりする必要性がある。信じることは主観性に身を任せるだけでも成立し、思考停止をして、何があっても疑わずに信じ続けることも可能なものである。だが、それは永遠に問い続けなければならない真理を安易に放棄してしまう危険な行為ともなり得る。普遍的なものがなくなったのではない。真偽値の領域のものとして究明すべきものにさえ、主観的な信か疑かによる判断がなされるようになったのである。
 日本会議の主張する事柄にも今述べた問題性が明確に存在している。真を信に変えて普遍を追求するとき、そこには狂信という特殊性が現われる。真偽値を確定しようとする探究を放棄した狂信者にとっては、それこそが普遍となるのである。われわれは狂信者やナショナリストに従うのではなく、もう一度デカルト的な方法的懐疑の試みを断固として再開しなければならない。もしもそうしなければ、ファナッティックなものだけが普遍的であると思える恐ろしい世界が到来してしまうから。近代性の回復と修正。それこそが今のわれわれにとって重要なことなのではないだろうか。

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