■NAGI MOCAの思想
この美術館は「招待客」のための分厚い「旅券」をつくった。この「旅券」は磯崎新による解説を含んでいるが、それを招待状とはしないで、「旅券」にしたことに意味を見いだすべきであろう。つまり、この美術館を訪れるひとは、「外国」から来た遠来の客であり、ここはひとつの異国として考えられているのである。もちろんそれは、この奈義町が、辺境の土地にあるという空間的・地理的なことも意味しているが、それと同時に、あるいはそれ以上に、この美術館そのものが、日常的な世界から遠いところにあって、「旅券」がなければ訪れることの不可能な場所であるということを意味していると見なさなければならない。アクセスの悪さに対して、「旅券」という発想があることに注意しておくべきである。
この発想については、問題がないわけではない。というのは、このような考え方にしたがうと、奈義町現代美術館は、すべてが外に向かってだけ開かれた美術館になってしまい、奈義町の住民のことが無視されてしまうからである。これは、美術館は、市庁舎のような住民に対するサービスと直接に結びつく公共建築物とは異なっていると考えられているために生じてくる問題である。
さてこの「旅券」にも、奈義町現代美術館はルーブル美術館・東京国立博物館のような「かつて設置されていた場所から引き剥がされて、一堂に集められた」作品を展示する第一世代の美術館ではなく、また、ポンピドゥー・センター、ニューヨーク近代美術館のような、第一世代の「権威に反抗する姿勢を持って」、19世紀末からつくられた第二世代の美術館でもなく、「第三世代の美術館」であるとする磯崎新の見解が示されている。
「1960年代以降、現代美術の作家たちはさらに新しい思考をつづけます。平面・立体といった物体の枠を越えて、それらが配置された空間(あるいは部屋)そのものが作品として構成されています。そのような作品を展示する美術館はこれまでありません。そこで、在命中の作家の構想する空間をそのまま建築化して、これをあえて美術館と呼ぶのです。・・・・第三世代美術館。(いわゆるMOCAと呼ばれている施設に、いま断片的にこの傾向が見え始めている)」。つまり、ここではあえて美術館と呼ばれてはいるが、実はいままでの美術館とはまったく違ったものだという一種の「第三世代美術館宣言」がなされていると考えるべきであろう。第一世代の美術館は、王侯貴族のコレクションを出発点としており、第二世代の美術館は、一般大衆に美術作品を展示して見せるものである。ところが第三世代の美術館は、「旅券」に記されているように、「建築家とアーティストが共同制作した空間的作品」そのものにほかならないのである。
このように考えてくると、この美術館の思想が見えてくる。たとえば、東京からこの美術館を訪れるためには、かなりの距離の旅行をしなければならない。通常、観光用のパンフレットなどには、交通の便利なことを強調することがあるが、磯崎新は、アクセスの悪さを、観客がわざわざ足を運ぶことによって、よそでは得られないような体験が与えられるという考え方に逆転させている。(逆にいうと、この美術館の近くに住んでいるひとはどのように考えればよいのかという問題が出てくる)。「辺境」の土地にあるということがかえって意味を持つように考え直しているのである。
また、この美術館では、荒川修作、宮脇愛子、岡崎和郎という3人の作家の作品を、1点ずつ、しかも永久に展示することになっている。したがって、たとえば「ゴッホ展」というような催しは、この美術館では行なわれない。作品が固定されていても、季節や時間によって、その作品は変化があるはずだというのが磯崎新の考え方であるという。つまり、作品が固定されてしまっているということは、通常は変化がないためにマイナスなものと考えられるのを、磯崎新は作品と美術館の不可分性という考え方に逆転させてしまう。いままでの美術館でも、美術館そのものが変化することはなかったのであり、建築は少なくともかなり長いあいだにわたって不変なものであると考えられている。
磯崎新は、建築の不変性を美術作品の特性のひとつに変換してしまおうと考えたのである。いたるところに見られるこのような考え方の逆転もまた、この美術館の特性であると見ることができるかもしれない。
■建築家と住民の意識の隔たり
私は、以前から磯崎新の建築を同時代の思想との関係のなかで考えてきたつもりである。この奈義町現代美術館においても、磯崎新は単なる「箱」としての美術館を否定しようとした。「箱」としての美術館では、「作品」は一定の順序にしたがって、決められた空間に「展示」され、「鑑賞」されるであろう。それは、作品というものについての秩序の存在を前提としている。しかしここでは、もはやそのような秩序は存在しない。この美術館によって、磯崎新がわれわれに対して示そうとしているのは、いままでの美術館そのものに対する批判にほかならない。したがって、この美術館は、メタ美術館と呼ぶこともできるであろう。
また、この美術館では、作品と美術館が一体化していて、両者を分割することはできない。このような発想それ自体も、きわめて現代的な考え方に基づいている。私が示唆しているのは、作品と美術館との相互浸透、あるいは、重層的構造ということである。実はそれらの概念もすでにしだいに色あせてきたのであって、いま現代思想はどの方向に向かえばいいのかを、暗中模索しているように思われる。同時代の思想に敏感であり、また、逆に同時代の思想に絶えず刺激を与えてきた磯崎新が、世界に向かって発したメッセージがこの奈義町現代美術館にほかならない。そのメッセージを、奈義町とその周辺の地域の住民が、どのように受け取るのかという問題が残されていると私は考える。
そしてこの美術館は、単にこのような思想性の問題だけではなく、地方自治体と公共建築物の関係という問題、さらに、ここで述べてきたような建築家の意識と住民の意識の隔たりという問題をも内包している建築ということができるであろう。
(付記。本稿は「建築ジャーナル」1994年4月号に掲載されたものであり、ここにアップしたのは初出のままである。ここで論じている磯崎新の建築は、きわめて不便なところにあり、しかもその周辺には豊かな自然以外にほとんど見るべきものがない。見るべきものがないために高名な建築家の作品を建てようとしたともいえる。
私はこの論文で磯崎新の批判をしようとしたのではない。地方自治体がどのように自らを運営していくかというプロセスに関心があった。今日、多くの地方自治体が財政難に陥り、そうすると夕張市の例にあるように、まず美術館・図書館を廃止することから始めることになる。奈義町もそうするのであろうか。立派な道路が出来ても、そこに美術館も図書館もないような市町村は、人間の住むところではなくなるであろう。2008年5月26日)
この美術館は「招待客」のための分厚い「旅券」をつくった。この「旅券」は磯崎新による解説を含んでいるが、それを招待状とはしないで、「旅券」にしたことに意味を見いだすべきであろう。つまり、この美術館を訪れるひとは、「外国」から来た遠来の客であり、ここはひとつの異国として考えられているのである。もちろんそれは、この奈義町が、辺境の土地にあるという空間的・地理的なことも意味しているが、それと同時に、あるいはそれ以上に、この美術館そのものが、日常的な世界から遠いところにあって、「旅券」がなければ訪れることの不可能な場所であるということを意味していると見なさなければならない。アクセスの悪さに対して、「旅券」という発想があることに注意しておくべきである。
この発想については、問題がないわけではない。というのは、このような考え方にしたがうと、奈義町現代美術館は、すべてが外に向かってだけ開かれた美術館になってしまい、奈義町の住民のことが無視されてしまうからである。これは、美術館は、市庁舎のような住民に対するサービスと直接に結びつく公共建築物とは異なっていると考えられているために生じてくる問題である。
さてこの「旅券」にも、奈義町現代美術館はルーブル美術館・東京国立博物館のような「かつて設置されていた場所から引き剥がされて、一堂に集められた」作品を展示する第一世代の美術館ではなく、また、ポンピドゥー・センター、ニューヨーク近代美術館のような、第一世代の「権威に反抗する姿勢を持って」、19世紀末からつくられた第二世代の美術館でもなく、「第三世代の美術館」であるとする磯崎新の見解が示されている。
「1960年代以降、現代美術の作家たちはさらに新しい思考をつづけます。平面・立体といった物体の枠を越えて、それらが配置された空間(あるいは部屋)そのものが作品として構成されています。そのような作品を展示する美術館はこれまでありません。そこで、在命中の作家の構想する空間をそのまま建築化して、これをあえて美術館と呼ぶのです。・・・・第三世代美術館。(いわゆるMOCAと呼ばれている施設に、いま断片的にこの傾向が見え始めている)」。つまり、ここではあえて美術館と呼ばれてはいるが、実はいままでの美術館とはまったく違ったものだという一種の「第三世代美術館宣言」がなされていると考えるべきであろう。第一世代の美術館は、王侯貴族のコレクションを出発点としており、第二世代の美術館は、一般大衆に美術作品を展示して見せるものである。ところが第三世代の美術館は、「旅券」に記されているように、「建築家とアーティストが共同制作した空間的作品」そのものにほかならないのである。
このように考えてくると、この美術館の思想が見えてくる。たとえば、東京からこの美術館を訪れるためには、かなりの距離の旅行をしなければならない。通常、観光用のパンフレットなどには、交通の便利なことを強調することがあるが、磯崎新は、アクセスの悪さを、観客がわざわざ足を運ぶことによって、よそでは得られないような体験が与えられるという考え方に逆転させている。(逆にいうと、この美術館の近くに住んでいるひとはどのように考えればよいのかという問題が出てくる)。「辺境」の土地にあるということがかえって意味を持つように考え直しているのである。
また、この美術館では、荒川修作、宮脇愛子、岡崎和郎という3人の作家の作品を、1点ずつ、しかも永久に展示することになっている。したがって、たとえば「ゴッホ展」というような催しは、この美術館では行なわれない。作品が固定されていても、季節や時間によって、その作品は変化があるはずだというのが磯崎新の考え方であるという。つまり、作品が固定されてしまっているということは、通常は変化がないためにマイナスなものと考えられるのを、磯崎新は作品と美術館の不可分性という考え方に逆転させてしまう。いままでの美術館でも、美術館そのものが変化することはなかったのであり、建築は少なくともかなり長いあいだにわたって不変なものであると考えられている。
磯崎新は、建築の不変性を美術作品の特性のひとつに変換してしまおうと考えたのである。いたるところに見られるこのような考え方の逆転もまた、この美術館の特性であると見ることができるかもしれない。
■建築家と住民の意識の隔たり
私は、以前から磯崎新の建築を同時代の思想との関係のなかで考えてきたつもりである。この奈義町現代美術館においても、磯崎新は単なる「箱」としての美術館を否定しようとした。「箱」としての美術館では、「作品」は一定の順序にしたがって、決められた空間に「展示」され、「鑑賞」されるであろう。それは、作品というものについての秩序の存在を前提としている。しかしここでは、もはやそのような秩序は存在しない。この美術館によって、磯崎新がわれわれに対して示そうとしているのは、いままでの美術館そのものに対する批判にほかならない。したがって、この美術館は、メタ美術館と呼ぶこともできるであろう。
また、この美術館では、作品と美術館が一体化していて、両者を分割することはできない。このような発想それ自体も、きわめて現代的な考え方に基づいている。私が示唆しているのは、作品と美術館との相互浸透、あるいは、重層的構造ということである。実はそれらの概念もすでにしだいに色あせてきたのであって、いま現代思想はどの方向に向かえばいいのかを、暗中模索しているように思われる。同時代の思想に敏感であり、また、逆に同時代の思想に絶えず刺激を与えてきた磯崎新が、世界に向かって発したメッセージがこの奈義町現代美術館にほかならない。そのメッセージを、奈義町とその周辺の地域の住民が、どのように受け取るのかという問題が残されていると私は考える。
そしてこの美術館は、単にこのような思想性の問題だけではなく、地方自治体と公共建築物の関係という問題、さらに、ここで述べてきたような建築家の意識と住民の意識の隔たりという問題をも内包している建築ということができるであろう。
(付記。本稿は「建築ジャーナル」1994年4月号に掲載されたものであり、ここにアップしたのは初出のままである。ここで論じている磯崎新の建築は、きわめて不便なところにあり、しかもその周辺には豊かな自然以外にほとんど見るべきものがない。見るべきものがないために高名な建築家の作品を建てようとしたともいえる。
私はこの論文で磯崎新の批判をしようとしたのではない。地方自治体がどのように自らを運営していくかというプロセスに関心があった。今日、多くの地方自治体が財政難に陥り、そうすると夕張市の例にあるように、まず美術館・図書館を廃止することから始めることになる。奈義町もそうするのであろうか。立派な道路が出来ても、そこに美術館も図書館もないような市町村は、人間の住むところではなくなるであろう。2008年5月26日)
■辺境のまちと「磯崎新」という記号
奈義町現代美術館は、岡山県勝田郡奈義町の町立美術館である。1994年4月25日に開館が予定されているこの美術館は、たとえば最近刊行された『朝日キーワード 94〜95』にも取り上げられている話題の建築であるが、話題になっているのは単にそれが磯崎新によって設計された、きわめて特異なかたちの建築であるからだけではない。いままでの普通の美術館とはかなり異なった考え方でつくられているからである。普通の美術館はしばしば「箱」といわれていて、その入れ物のなかに、何か目玉になるようなヨーロッパの名画を購入したり、また何かひとつのテーマにしたがって、よそから借りてきた美術作品を、一定の期間展示するというシステムで運営される。ところが、この奈義町現代美術館は、そうした既存の美術館とはまったく異なった考え方でつくられ、運用されようとしている。つまりそれは「箱」ではなく、あとで述べるように、美術館それ自体がひとつの作品として存在しているような美術館である。
このような考え方について検討する前に、奈義町とこの美術館の関係について考えてみたい。奈義町は人口8000人弱の山あいの町で、岡山から津山線に乗って、津山で降りたあと、バスでおよそ1時間足らずでこの町に着く。津山まで戻れば、吉田喜重の映画「秋津温泉」の舞台である奥津温泉に行くこともできる。奈義町は鳥取県に接した町で、那岐山の南にあり、自然に恵まれた静かなところである。那岐山はなだらかな稜線をもった美しい山で、奈義町現代美術館を南から見ると、この山がその背後に見えることになる。ただし、美術館の北側には、雇用促進事業団による高層住宅が一棟あって、那岐山の全景は見えない。逆にこの高層住宅に住んでいるひとたちは、いつも南側に磯崎新の建築作品を見ることができる。
しかし、奈義町にはこれといった産業も観光地もなく、宿泊できるところも多くない。そのため、町の「活性化」をめざして、町長を始めとする町の行政にたずさわるひとたちが、何かをしなければならないと考えたのは当然のことであろう。元来この町では、書道美術館をつくる予定であったが、さまざまな事情で、現代美術館を建てることになったと聞いている。そのときに、設計を磯崎新氏に依頼することになったのであるが、それは「磯崎新」という「記号」を用いようとしたからに違いない。大分県の湯布院町では、JR湯布院駅の設計を磯崎新氏に依頼したのであるが、駅にある表示によると、そのためにこの駅の乗降客がかなり増えたということであった。もちろん、湯布院町はその駅だけではなく、そのほかにも見るべき建築物があり、それに何といっても温泉の町であるから、磯崎新という名前だけがひとびとを引き寄せる記号としての価値をもっているわけではない。しかし、建築家の名前と仕事が、魅力をもっていることは確かである。
■まちの「活性化」と公共建築
一般的にいって、地方自治体のさまざまな事業には、共通したいくつかの問題がからんでいる。それは、ここで論じている美術館だけではなく、音楽・演劇のための「文化ホール」の建設についてもいえることである。地方の都市が、莫大な費用を使って建てた音楽ホールが、カラオケ大会にしか使われなくなってしまったというような話はいたるところにある。これは、公共建築物だけの問題ではない。いわゆるリゾート開発についても同じことがいえるはずである。北海道のカナダ村や三重県のスペイン村、新潟県のロシア村など、いまの日本にはいたるところに「異国」がつくられているが、それは、日常的な世界に異国的なものを人工的につくることによって、何とか人を引き寄せようという考え方の表現である。ところが、それらの施設の建築には、地方自治体がからんでくることが多く、美術館や「文化ホール」と同じ問題を抱えている。せっかくつくっても、来る人が少なくて経営難に陥るとういう問題である。
東京新聞(1994年2月25日夕刊)によると、昨年新設もしくは建設中の文化ホールは全国で38あり、43ホールの計画が進行中であるという。それらの公共建築物の建設が、県や市長村の住民のためになっているかどうかは、一概には規定できない。ただし、そうした建築物についての批判の多くは、この東京新聞の記事にも紹介されているような、人口3万人の都市に30億円の費用をかけて文化ホールを建てるといった「身分不相応」が問題とされるのである。最近でも、日本経済新聞(3月7日)によると、1993年に神奈川県平塚市は300億円をかけて市庁舎の新築をしようとしたが、市民団体「フレッシュひらつか21」などの反対によってその計画は凍結されたという。その年の平塚市の一般会計予算は700億円であり、300億円で市庁舎を建設すれば、「行政サービスに支障が出る」という意見が強かったとその記事は報じている。そうすると、人口8000人で、年間の予算が43億円の奈義町に、工費16億円以上の美術館をつくることが、少なくともたいへんな冒険であることが推測できるであろう。もちろん、その建設の費用はすべてを町が負担したのではなく、国からの補助金などが使われたと聞いているが、それにしても、このような建築物は、ただ単に建てればいいというものではなく、その維持・管理に多くの労力が要求されるはずである。したがって、この美術館は、地方自治体と公共建築物の関係という問題を内包しているのであって、単にユニークな美術館ができたといって話題にして終わらせるべきものではない。
■どこにもない「超美術館」
しかし、見方を変えれば、この美術館は、それだけの費用をかけてもつくる価値があるものとして考えられたものであるということになる。つまり、それだけ費用をかけても、あとから十分にそれを回収するだけの価値があると考えるか、あるいは、一切の採算を無視するか、少なくとも軽視して、「芸術」のためには金を惜しまないと考えるかのいずれかである。いずれの場合も、この美術館にそれだけの価値があるのかどうかという問題に戻ることになる。公共建築物の問題は、それを避けてはならないはずである。
そうなると、なおさらこの美術館の特性について考え直す必要があることになる。それによって、初めてその建築の「価値」の問題を考えることができるであろう。「価値」が発見されることがもっとも重要であり、それがあらゆる議論の出発点である。この美術館の特性のひとつは、「日本の現代美術の展示」ということである。つまり、いままでの美術館のように、外国の作品を購入したり、借りてきて展示するという考え方が最初から排除されている。もうひとつは、荒川修作、宮脇愛子、岡崎和郎という3人の作家の作品を「永久に展示する」ということである。(町の住民たちの作品を展示するスペースもあるが、それは広くはない)。
また、磯崎新という建築家の「名前」が大きな意味を持つ建築であるということもつけ加えるべきである。さらに、この美術館が、岡山県勝田郡奈義町という、交通の不便な小さな町の「活性化」のためにつくられたものであるということも忘れてはならない。この美術館には、このような多層的な特徴がある。「BT」(1994年1月号)は、この美術館を「超美術館」として紹介した。この「超美術館」について、一般にもっとも言われているのは、いままでの美術館と異なって、それがよそから借りてきた美術作品を入れるための「箱」ではなく、それ自体がひとつの芸術作品として存在しているという考え方である。
この考え方を知るためには、設計者自身の見解に当たるべきであろう。磯崎新は「奈義町現代美術館コンセプト」(「奈義町現代美術館資料」に収められた磯崎新の談話)の冒頭で、この美術館が「可動性・可変性さえも一切排除したサイト・スペシフィック作品だけの美術館」であると規定している。わかりやすく言い換えれば、よそから作品を持ち込んでくることはなく、作品の展示変えをすることもないということである。そして、磯崎新は次のように述べている。「ほとんど辺境と呼んでいいような岡山県境の町に、観客はわざわざ足を運ばねばならない。そして、この特別に組み立てられた部屋の内部を体験することだけが要請される」。つまり、この美術館は、絶対の存在であり、ほかのものによっては置き換えられないものである。都会からは遠く離れたところにあることそれ自体が、逆にこの美術館のひとつの特性として強調されているのである。「観客」は、自分でその場所に行って、この美術館という作品の存在そのものを直接に体験しなければならない。磯崎新は次のように書いている。「これは美術館の始まりであったコレクションではなく、美術作品がその始原として示していた特性を回復しつつあるといっていい」。美術館は、作品のコレクションを展示する場所ではない、というのがこの建築家の基本的な発想である。この美術館によって、「ミュージアムという制度」が終焉を迎えるであろうとまではいわれていないが、この美術館が既存の美術館を対象化しようとしていることは明らかである。
(つづく)
奈義町現代美術館は、岡山県勝田郡奈義町の町立美術館である。1994年4月25日に開館が予定されているこの美術館は、たとえば最近刊行された『朝日キーワード 94〜95』にも取り上げられている話題の建築であるが、話題になっているのは単にそれが磯崎新によって設計された、きわめて特異なかたちの建築であるからだけではない。いままでの普通の美術館とはかなり異なった考え方でつくられているからである。普通の美術館はしばしば「箱」といわれていて、その入れ物のなかに、何か目玉になるようなヨーロッパの名画を購入したり、また何かひとつのテーマにしたがって、よそから借りてきた美術作品を、一定の期間展示するというシステムで運営される。ところが、この奈義町現代美術館は、そうした既存の美術館とはまったく異なった考え方でつくられ、運用されようとしている。つまりそれは「箱」ではなく、あとで述べるように、美術館それ自体がひとつの作品として存在しているような美術館である。
このような考え方について検討する前に、奈義町とこの美術館の関係について考えてみたい。奈義町は人口8000人弱の山あいの町で、岡山から津山線に乗って、津山で降りたあと、バスでおよそ1時間足らずでこの町に着く。津山まで戻れば、吉田喜重の映画「秋津温泉」の舞台である奥津温泉に行くこともできる。奈義町は鳥取県に接した町で、那岐山の南にあり、自然に恵まれた静かなところである。那岐山はなだらかな稜線をもった美しい山で、奈義町現代美術館を南から見ると、この山がその背後に見えることになる。ただし、美術館の北側には、雇用促進事業団による高層住宅が一棟あって、那岐山の全景は見えない。逆にこの高層住宅に住んでいるひとたちは、いつも南側に磯崎新の建築作品を見ることができる。
しかし、奈義町にはこれといった産業も観光地もなく、宿泊できるところも多くない。そのため、町の「活性化」をめざして、町長を始めとする町の行政にたずさわるひとたちが、何かをしなければならないと考えたのは当然のことであろう。元来この町では、書道美術館をつくる予定であったが、さまざまな事情で、現代美術館を建てることになったと聞いている。そのときに、設計を磯崎新氏に依頼することになったのであるが、それは「磯崎新」という「記号」を用いようとしたからに違いない。大分県の湯布院町では、JR湯布院駅の設計を磯崎新氏に依頼したのであるが、駅にある表示によると、そのためにこの駅の乗降客がかなり増えたということであった。もちろん、湯布院町はその駅だけではなく、そのほかにも見るべき建築物があり、それに何といっても温泉の町であるから、磯崎新という名前だけがひとびとを引き寄せる記号としての価値をもっているわけではない。しかし、建築家の名前と仕事が、魅力をもっていることは確かである。
■まちの「活性化」と公共建築
一般的にいって、地方自治体のさまざまな事業には、共通したいくつかの問題がからんでいる。それは、ここで論じている美術館だけではなく、音楽・演劇のための「文化ホール」の建設についてもいえることである。地方の都市が、莫大な費用を使って建てた音楽ホールが、カラオケ大会にしか使われなくなってしまったというような話はいたるところにある。これは、公共建築物だけの問題ではない。いわゆるリゾート開発についても同じことがいえるはずである。北海道のカナダ村や三重県のスペイン村、新潟県のロシア村など、いまの日本にはいたるところに「異国」がつくられているが、それは、日常的な世界に異国的なものを人工的につくることによって、何とか人を引き寄せようという考え方の表現である。ところが、それらの施設の建築には、地方自治体がからんでくることが多く、美術館や「文化ホール」と同じ問題を抱えている。せっかくつくっても、来る人が少なくて経営難に陥るとういう問題である。
東京新聞(1994年2月25日夕刊)によると、昨年新設もしくは建設中の文化ホールは全国で38あり、43ホールの計画が進行中であるという。それらの公共建築物の建設が、県や市長村の住民のためになっているかどうかは、一概には規定できない。ただし、そうした建築物についての批判の多くは、この東京新聞の記事にも紹介されているような、人口3万人の都市に30億円の費用をかけて文化ホールを建てるといった「身分不相応」が問題とされるのである。最近でも、日本経済新聞(3月7日)によると、1993年に神奈川県平塚市は300億円をかけて市庁舎の新築をしようとしたが、市民団体「フレッシュひらつか21」などの反対によってその計画は凍結されたという。その年の平塚市の一般会計予算は700億円であり、300億円で市庁舎を建設すれば、「行政サービスに支障が出る」という意見が強かったとその記事は報じている。そうすると、人口8000人で、年間の予算が43億円の奈義町に、工費16億円以上の美術館をつくることが、少なくともたいへんな冒険であることが推測できるであろう。もちろん、その建設の費用はすべてを町が負担したのではなく、国からの補助金などが使われたと聞いているが、それにしても、このような建築物は、ただ単に建てればいいというものではなく、その維持・管理に多くの労力が要求されるはずである。したがって、この美術館は、地方自治体と公共建築物の関係という問題を内包しているのであって、単にユニークな美術館ができたといって話題にして終わらせるべきものではない。
■どこにもない「超美術館」
しかし、見方を変えれば、この美術館は、それだけの費用をかけてもつくる価値があるものとして考えられたものであるということになる。つまり、それだけ費用をかけても、あとから十分にそれを回収するだけの価値があると考えるか、あるいは、一切の採算を無視するか、少なくとも軽視して、「芸術」のためには金を惜しまないと考えるかのいずれかである。いずれの場合も、この美術館にそれだけの価値があるのかどうかという問題に戻ることになる。公共建築物の問題は、それを避けてはならないはずである。
そうなると、なおさらこの美術館の特性について考え直す必要があることになる。それによって、初めてその建築の「価値」の問題を考えることができるであろう。「価値」が発見されることがもっとも重要であり、それがあらゆる議論の出発点である。この美術館の特性のひとつは、「日本の現代美術の展示」ということである。つまり、いままでの美術館のように、外国の作品を購入したり、借りてきて展示するという考え方が最初から排除されている。もうひとつは、荒川修作、宮脇愛子、岡崎和郎という3人の作家の作品を「永久に展示する」ということである。(町の住民たちの作品を展示するスペースもあるが、それは広くはない)。
また、磯崎新という建築家の「名前」が大きな意味を持つ建築であるということもつけ加えるべきである。さらに、この美術館が、岡山県勝田郡奈義町という、交通の不便な小さな町の「活性化」のためにつくられたものであるということも忘れてはならない。この美術館には、このような多層的な特徴がある。「BT」(1994年1月号)は、この美術館を「超美術館」として紹介した。この「超美術館」について、一般にもっとも言われているのは、いままでの美術館と異なって、それがよそから借りてきた美術作品を入れるための「箱」ではなく、それ自体がひとつの芸術作品として存在しているという考え方である。
この考え方を知るためには、設計者自身の見解に当たるべきであろう。磯崎新は「奈義町現代美術館コンセプト」(「奈義町現代美術館資料」に収められた磯崎新の談話)の冒頭で、この美術館が「可動性・可変性さえも一切排除したサイト・スペシフィック作品だけの美術館」であると規定している。わかりやすく言い換えれば、よそから作品を持ち込んでくることはなく、作品の展示変えをすることもないということである。そして、磯崎新は次のように述べている。「ほとんど辺境と呼んでいいような岡山県境の町に、観客はわざわざ足を運ばねばならない。そして、この特別に組み立てられた部屋の内部を体験することだけが要請される」。つまり、この美術館は、絶対の存在であり、ほかのものによっては置き換えられないものである。都会からは遠く離れたところにあることそれ自体が、逆にこの美術館のひとつの特性として強調されているのである。「観客」は、自分でその場所に行って、この美術館という作品の存在そのものを直接に体験しなければならない。磯崎新は次のように書いている。「これは美術館の始まりであったコレクションではなく、美術作品がその始原として示していた特性を回復しつつあるといっていい」。美術館は、作品のコレクションを展示する場所ではない、というのがこの建築家の基本的な発想である。この美術館によって、「ミュージアムという制度」が終焉を迎えるであろうとまではいわれていないが、この美術館が既存の美術館を対象化しようとしていることは明らかである。
(つづく)
変身、或いは分身といったテーマは、文学が古くから持っているテーマのひとつであり、その解読の仕方も多様であるが、私は泉鏡花のばあいについては、それを記号の二重化、記号の自己増殖、記号の自己反映として把握したいと考える。この考え方によると、たとえば「朱日記」に赤のイマージュが多用されていることにも説明が可能になる。「朱日記」は、バシュラール風に言うことが認められるとするならば、《火のコンプレックス》によって支えられている作品ということになるであろうが、私は火そのものよりも、火の色としての赤または緋という色の側を重視して考えたい。赤い猿の群が動き、赤旗を持ち赤合羽(或いは緋の法衣)を着た坊主が登場する。私には、泉鏡花が「朱日記」という作品それ自体を朱筆か赤インキで書いたのではないかとさえ思える。さらには、この作品は赤い文字で印刷した方がよかったのではなかったかとも思う。この作品で赤という色が支配的なのは、猿が赤いこと、火事の火、坊主の赤い合羽が、相互に反映しているからである。換言するならば、記号が相互に反映することによって重層化されるからである。「朱日記」や「陽炎座」というタイトルそのものに赤いものが含まれている。そして、こうした赤いことばが、作品のなかのさまざまな存在を赤く染めていく。記号が記号を反映し、記号が記号に働きかけるところに、泉鏡花の記号的世界の特徴がある。
このように考えると、「朱日記」などの作品に示されている赤いイマージュの過剰は、もはや《火のコンプレックス》といった概念では説明し切れないものであることが理解されるだろう。泉鏡花、泉鏡太郎というこの作家の名前のなかに含まれている鏡の作用ででもあるかのように、作品のなかのひとつの記号表現は、他の記号表現に映り、増殖していく。
このことは、絵画と言語表現、赤いイマージュだけにとどまらない。すでに指摘されてきたように、泉鏡花の作品には、しばしば溢れ出る水のイマージュがある。しかし、それもまた《水のコンプレックス》であるとして片付けられるものではない。水のイマージュが相互に反映し、増殖していくプロセスの方が重要である。「沼夫人」はまったくの水地獄という感じの世界を描いているが、そこにも次のような記述がある。《薄り路へ被つた水を踏んで、其の濡色へ真白に映って、蹴出し褄の搦んだのが、私と並んで立つた姿・・・・そつくり何時見る、座敷の額の画に覚えのあるやうな有様だった・・・・はてな、夢か知らん・・・・と恍惚となった。ざあざあ、地の底を吹き荒れる風のやうな水の音》。ここでも女の姿は絵画のイマージュの反映であり、それに重なるように、水のイマージュと音が加えられる。水が水を反映して増殖していく世界がある。
このような記号表現の二重化は、《教える》という行為のなかにも現われている。「歌行灯」で、三重が恩地喜多八に舞を教えられるシーンがある。《雑木の森の暗い中で、其の方に教はりました。・・・・舞も、あの、さす手も、ひく手も、唯背後から背中を抱いて下さいますと、私の身体が舞ひました。其れだけより存じません》。
ここでは舞を教える側と教えられる側とが瞬間的に一体化している。したがって、舞という側面に関する限り、恩地喜多八と三重とは、同一の存在の分身として現われることになる。そこでは、舞という同一の記号表現が二人の人間に反映し、二重化している。
情報理論では、反復表現もしくは冗長性は、情報の積みすぎとされることがある。文学や、その他の芸術のジャンルでも、反復表現が装飾性として否定的にとられることがある。しかし、泉鏡花の作品においては、記号の反復表現は、記号の相互的な関係性のなかで成立している。その成立の仕方は、いま流行の用語を使うことが認められるならば、パフォーマンス的になっている。つまり、相互に関係することによって記号表現が作られる。泉鏡花の記号的世界は、さまざまなプレテクストを含んでいるが、それもまた記号の二重性、パフォーマンス性の要素を構成していると言える。そして、一般に泉鏡花の文学言語の装飾性と言われているものが、実はこの言語にとっての本質的な記号表現の相互関係性の現われであることが理解されるだろう。
泉鏡花の記号的世界とは言っても、それが文学にかかわるものである限り、この記号的世界は言語の世界である。しかしこの言語の世界は、そのオートノミーを確立するために、その内部で自己増殖する方法を知っている世界であると言えるだろう。この自己反映、自己増殖が、おのずから装飾的な文学言語を生産した。したがって、装飾性こそが泉鏡花の記号的世界の特徴になる。くり返して述べてきたように、この装飾性はけっして否定的にとられてはならない。泉鏡花の記号的世界は、情報の積みすぎによってのみ成立しているからである。
(付記。本稿は「国文学」1985年6月の泉鏡花特集号に掲載されたものであり、その初出のままである。私の今までの論集に収録されていないので、ここにアップすることにした。同誌には、山口昌男と前田愛の対談も掲載されている。2008年5月15日)
このように考えると、「朱日記」などの作品に示されている赤いイマージュの過剰は、もはや《火のコンプレックス》といった概念では説明し切れないものであることが理解されるだろう。泉鏡花、泉鏡太郎というこの作家の名前のなかに含まれている鏡の作用ででもあるかのように、作品のなかのひとつの記号表現は、他の記号表現に映り、増殖していく。
このことは、絵画と言語表現、赤いイマージュだけにとどまらない。すでに指摘されてきたように、泉鏡花の作品には、しばしば溢れ出る水のイマージュがある。しかし、それもまた《水のコンプレックス》であるとして片付けられるものではない。水のイマージュが相互に反映し、増殖していくプロセスの方が重要である。「沼夫人」はまったくの水地獄という感じの世界を描いているが、そこにも次のような記述がある。《薄り路へ被つた水を踏んで、其の濡色へ真白に映って、蹴出し褄の搦んだのが、私と並んで立つた姿・・・・そつくり何時見る、座敷の額の画に覚えのあるやうな有様だった・・・・はてな、夢か知らん・・・・と恍惚となった。ざあざあ、地の底を吹き荒れる風のやうな水の音》。ここでも女の姿は絵画のイマージュの反映であり、それに重なるように、水のイマージュと音が加えられる。水が水を反映して増殖していく世界がある。
このような記号表現の二重化は、《教える》という行為のなかにも現われている。「歌行灯」で、三重が恩地喜多八に舞を教えられるシーンがある。《雑木の森の暗い中で、其の方に教はりました。・・・・舞も、あの、さす手も、ひく手も、唯背後から背中を抱いて下さいますと、私の身体が舞ひました。其れだけより存じません》。
ここでは舞を教える側と教えられる側とが瞬間的に一体化している。したがって、舞という側面に関する限り、恩地喜多八と三重とは、同一の存在の分身として現われることになる。そこでは、舞という同一の記号表現が二人の人間に反映し、二重化している。
情報理論では、反復表現もしくは冗長性は、情報の積みすぎとされることがある。文学や、その他の芸術のジャンルでも、反復表現が装飾性として否定的にとられることがある。しかし、泉鏡花の作品においては、記号の反復表現は、記号の相互的な関係性のなかで成立している。その成立の仕方は、いま流行の用語を使うことが認められるならば、パフォーマンス的になっている。つまり、相互に関係することによって記号表現が作られる。泉鏡花の記号的世界は、さまざまなプレテクストを含んでいるが、それもまた記号の二重性、パフォーマンス性の要素を構成していると言える。そして、一般に泉鏡花の文学言語の装飾性と言われているものが、実はこの言語にとっての本質的な記号表現の相互関係性の現われであることが理解されるだろう。
泉鏡花の記号的世界とは言っても、それが文学にかかわるものである限り、この記号的世界は言語の世界である。しかしこの言語の世界は、そのオートノミーを確立するために、その内部で自己増殖する方法を知っている世界であると言えるだろう。この自己反映、自己増殖が、おのずから装飾的な文学言語を生産した。したがって、装飾性こそが泉鏡花の記号的世界の特徴になる。くり返して述べてきたように、この装飾性はけっして否定的にとられてはならない。泉鏡花の記号的世界は、情報の積みすぎによってのみ成立しているからである。
(付記。本稿は「国文学」1985年6月の泉鏡花特集号に掲載されたものであり、その初出のままである。私の今までの論集に収録されていないので、ここにアップすることにした。同誌には、山口昌男と前田愛の対談も掲載されている。2008年5月15日)
泉鏡花の多様な作品を横に結び付けるもの、おそらくそれは外見の多様性にもかかわらず泉鏡花の作品の根底にあるもののはずである。それが見出されるという保証はないが、私は泉鏡花の作品のなかで、しばしば絵画と言語表現とが結び合わされて記号化されていることに注目したい。ただし、私がこれから言及するいずれのばあいも、泉鏡花は特定の絵画作品について述べているわけではない。
「風流線」「百」の冒頭に次のような部分がある。《五大夫は去ぬる月、粟生の茶店で古襖の大津絵の、若衆と娘とが抜け出して、土間の床机に並んだのを美しく見た夢の、未だ覚め果てぬ?と疑うた》
ここでは、大津絵という視覚的記号表現と、泉鏡花の文学言語とが二重化している。つい最近も私は上野のデパートで開かれていたささやかな大津絵の展覧会を見たばかりであるが、そこで百万円前後で売りに出されていた大津絵は、元来は民衆の美術であり、「風流線」の舞台となっている時代ならば、誰でもが眼にすることのできるものであったはずである。そういう大津絵のイマージュと作中の人物とを重ねて記号表現しようとするところに、泉鏡花の記号的世界のひとつの特徴がある。或いは、それは非常に重要な特徴なのではないだろうか。
《絵から抜け出てきたような》という言い方があるが、通俗的なこうした表現のなかに思いがけない真実が隠されていることがあるのであって、大津絵の人物と作中の人物とを重ねる泉鏡花の手法をよく検討しなければならない。ここでは、イマージュと言語表現とが同一の存在の分身のようになっている。そしていずれもが、記号表現としてのみ存在するのであって、実在を指示対象として持つことがない。
このように、絵画のイマージュと、言語表現による描写とを重ねることは、表現されたもののレヴェルで言うならば、《分身》が存在することになり、表現行為のレヴェルで言えば《反復表現》(記号論では通常は《冗長性》という用語が使われている)が存在している。泉鏡花の記号的世界の最も大きな特色は、この反復表現の多用である。一般的な理解では、この反復表現は泉鏡花の文学における装飾性と言われているものであるが、たとえ装飾性ということばを使うとしても、私はそれをネガティヴな意味で使うつもりはない。泉鏡花がしばしば絵画に言及するのは、この反復表現=装飾性を追及するためである。
「春昼」の語り手である《散策子》は、《三軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八九のと三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿を二人見た》のであるが、それに続けて泉鏡花はこうした女性の姿は《女今川の口絵でなければ、近頃は余り見掛けない》と書いている。「女今川」というのは、元禄のころに刊行された、女性のための絵入りの教訓書のことであるが、ここでも機を織る二人の女性の姿を、江戸時代のイラストと重ね合わせて表現しているのである。
この「春昼」のなかで、語り手である《散策子》が、久野谷の観音堂に参詣するシーンがある。この建物は次のように描写されている。《五段の階、縁の下を、馬が駆け抜けさうに高いけれども、欄干は影も留めない。昔は然こそと思はれた。丹塗の柱、花狭間、梁の波の紺青も、金色の龍も色さみしく、昼の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐絵の画面に似て、然も名工の筆意に合い、眩ゆからぬが奥床しう、そぞろに尊く懐しい》。ここでも、観音堂のリアルな描写よりも、言語表現の運動が先行し、それを土佐絵が支えるという構造がはっきりと現われている。観音堂の描写ではなく、土佐絵を言語で表現しているとさえ言えるだろう。つまり、記号表現相互の運動が優先しているのであり、私はそこに泉鏡花の記号的世界の大きな特徴があると考えたいのである。
「高野聖」にも、《それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿》という表現がある。地獄の絵が反映したところに言語表現がある。換言するならば、こういうばあいの泉鏡花の言語表現は、指示対象を持つものであるよりもむしろ、記号表現を二重化したものであり、それによってそれ自体のオートノミーを保有している。
「草迷宮」にも次のような一節がある。《・・・・巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥かに壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中に縮まつた景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手毬を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔婆を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、最う誰の蔭になつたか人数に紛れて了つた。其だ、此の人は、否、その時と寸分違はぬ・・・・》
ここでも、《極彩色の涅槃の絵》と作品のなかの情景とが重なり合い、渾然としていて、記号が記号を写し、記号が記号を反映するという泉鏡花の文学言語の特徴がよく現われている。
泉鏡花の作品のなかに、時たま変身や分身(ドゥーブル)が見られることも、ここに述べてきた記号の二重化という手法によっていると見ることができるだろう。たとえば、「龍潭譚」では、主人公は斑猫に刺されて美しく変身する。それは虫に刺されてであると同時に、魔(エテ)に憑かれた結果でもあるが、肝心なことはそうした媒介のあり方よりも、むしろ記号的世界のなかの記号的な存在が、この世界のなかで変身するということ、つまり、記号の二重化もしくは多層化である。「夜叉ケ池」でも、晃と学園がドゥーブルとして存在している。
「陽炎座」の登場人物であるお稲は、《今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりの或家の門を、内端な、しめやかな葬式に成って出た》お稲ちゃんとそっくりであり、ここにも分身が存在していると見なくてはならない。
また「女仙前記」でも、谷間で老人が出会ったという女、死んだその女から老人があずかったうさぎを欲しいという女は、いずれも雪という名であり(うさぎもまた同じ名前である)、この二つの作品では、死者と生者が分身として存在している。そしてここで注意すべきことは、この二つのばあいには、お稲、雪という名前が重要な役割を演じていることである。名前の同一性が、存在の同一性を保証するという構造になっている。もちろん、雪という名前が白という色を連想させると言うことは可能であるが、ここで肝心なのはむしろシニフィアンとしての《雪》という名前である。これは、《此処は何処の細道ぢや・・・・》という歌が、その意味内容によってではなく、シニフィアンとして、「草迷宮」と「天守物語」とを結び付けているのと似た構造である。
(つづく)
「風流線」「百」の冒頭に次のような部分がある。《五大夫は去ぬる月、粟生の茶店で古襖の大津絵の、若衆と娘とが抜け出して、土間の床机に並んだのを美しく見た夢の、未だ覚め果てぬ?と疑うた》
ここでは、大津絵という視覚的記号表現と、泉鏡花の文学言語とが二重化している。つい最近も私は上野のデパートで開かれていたささやかな大津絵の展覧会を見たばかりであるが、そこで百万円前後で売りに出されていた大津絵は、元来は民衆の美術であり、「風流線」の舞台となっている時代ならば、誰でもが眼にすることのできるものであったはずである。そういう大津絵のイマージュと作中の人物とを重ねて記号表現しようとするところに、泉鏡花の記号的世界のひとつの特徴がある。或いは、それは非常に重要な特徴なのではないだろうか。
《絵から抜け出てきたような》という言い方があるが、通俗的なこうした表現のなかに思いがけない真実が隠されていることがあるのであって、大津絵の人物と作中の人物とを重ねる泉鏡花の手法をよく検討しなければならない。ここでは、イマージュと言語表現とが同一の存在の分身のようになっている。そしていずれもが、記号表現としてのみ存在するのであって、実在を指示対象として持つことがない。
このように、絵画のイマージュと、言語表現による描写とを重ねることは、表現されたもののレヴェルで言うならば、《分身》が存在することになり、表現行為のレヴェルで言えば《反復表現》(記号論では通常は《冗長性》という用語が使われている)が存在している。泉鏡花の記号的世界の最も大きな特色は、この反復表現の多用である。一般的な理解では、この反復表現は泉鏡花の文学における装飾性と言われているものであるが、たとえ装飾性ということばを使うとしても、私はそれをネガティヴな意味で使うつもりはない。泉鏡花がしばしば絵画に言及するのは、この反復表現=装飾性を追及するためである。
「春昼」の語り手である《散策子》は、《三軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八九のと三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿を二人見た》のであるが、それに続けて泉鏡花はこうした女性の姿は《女今川の口絵でなければ、近頃は余り見掛けない》と書いている。「女今川」というのは、元禄のころに刊行された、女性のための絵入りの教訓書のことであるが、ここでも機を織る二人の女性の姿を、江戸時代のイラストと重ね合わせて表現しているのである。
この「春昼」のなかで、語り手である《散策子》が、久野谷の観音堂に参詣するシーンがある。この建物は次のように描写されている。《五段の階、縁の下を、馬が駆け抜けさうに高いけれども、欄干は影も留めない。昔は然こそと思はれた。丹塗の柱、花狭間、梁の波の紺青も、金色の龍も色さみしく、昼の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐絵の画面に似て、然も名工の筆意に合い、眩ゆからぬが奥床しう、そぞろに尊く懐しい》。ここでも、観音堂のリアルな描写よりも、言語表現の運動が先行し、それを土佐絵が支えるという構造がはっきりと現われている。観音堂の描写ではなく、土佐絵を言語で表現しているとさえ言えるだろう。つまり、記号表現相互の運動が優先しているのであり、私はそこに泉鏡花の記号的世界の大きな特徴があると考えたいのである。
「高野聖」にも、《それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿》という表現がある。地獄の絵が反映したところに言語表現がある。換言するならば、こういうばあいの泉鏡花の言語表現は、指示対象を持つものであるよりもむしろ、記号表現を二重化したものであり、それによってそれ自体のオートノミーを保有している。
「草迷宮」にも次のような一節がある。《・・・・巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥かに壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中に縮まつた景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手毬を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔婆を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、最う誰の蔭になつたか人数に紛れて了つた。其だ、此の人は、否、その時と寸分違はぬ・・・・》
ここでも、《極彩色の涅槃の絵》と作品のなかの情景とが重なり合い、渾然としていて、記号が記号を写し、記号が記号を反映するという泉鏡花の文学言語の特徴がよく現われている。
泉鏡花の作品のなかに、時たま変身や分身(ドゥーブル)が見られることも、ここに述べてきた記号の二重化という手法によっていると見ることができるだろう。たとえば、「龍潭譚」では、主人公は斑猫に刺されて美しく変身する。それは虫に刺されてであると同時に、魔(エテ)に憑かれた結果でもあるが、肝心なことはそうした媒介のあり方よりも、むしろ記号的世界のなかの記号的な存在が、この世界のなかで変身するということ、つまり、記号の二重化もしくは多層化である。「夜叉ケ池」でも、晃と学園がドゥーブルとして存在している。
「陽炎座」の登場人物であるお稲は、《今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりの或家の門を、内端な、しめやかな葬式に成って出た》お稲ちゃんとそっくりであり、ここにも分身が存在していると見なくてはならない。
また「女仙前記」でも、谷間で老人が出会ったという女、死んだその女から老人があずかったうさぎを欲しいという女は、いずれも雪という名であり(うさぎもまた同じ名前である)、この二つの作品では、死者と生者が分身として存在している。そしてここで注意すべきことは、この二つのばあいには、お稲、雪という名前が重要な役割を演じていることである。名前の同一性が、存在の同一性を保証するという構造になっている。もちろん、雪という名前が白という色を連想させると言うことは可能であるが、ここで肝心なのはむしろシニフィアンとしての《雪》という名前である。これは、《此処は何処の細道ぢや・・・・》という歌が、その意味内容によってではなく、シニフィアンとして、「草迷宮」と「天守物語」とを結び付けているのと似た構造である。
(つづく)
数年前に岩波書店から刊行された『鏡花小説・戯曲選』全12巻は、伝奇篇・怪異篇・芸能篇・風俗篇・懐旧編・戯曲篇の六つの部分に分類されている。戯曲は文学の形式であり、他の五つは文学の内容についての分類であるから、この分類の仕方はかならずしも論理的とは言えず、戯曲篇も解体して五つの区分のなかに入れることもできたのではないかと思う。しかし、たとえそうしてみたところで、泉鏡花の数多くそして多様な作品を、伝奇・怪奇・芸能・風俗・懐旧の五つのジャンルに厳密に区分してしまうことは困難であろう。泉鏡花の作品には、このような分類を拒否する要素があるからである。この選集の表紙に付された帯には、《鏡花文学解明の手がかりに----ジャンル別編集》というコピーがある。ジャンル別にすることは、泉鏡花の作品に接近する手がかりになるのだろうか。区別をして見えるようになったものが、対象の真の姿なのではない。区別は必要ではあるが、区別をして終りにすることはできない。
また、泉鏡花の作品のなかには、すでに注釈がなければ読解が困難なものが増えつつある。作品と同時代の社会・風俗・言語についての知識が欠けていると、しばしば意味が不明になる。さらに、泉鏡花のテクストのなかに夥しく引用されている、小野小町やら、「東海道中膝栗毛」やら、俚諺、川柳のたぐいまでのプレテクストを、現代の読者はもはや充分に読み取ることはできない。このように、泉鏡花の作品は次第にわれわれにとってわかりにくいものになりつつある。ここでかりに《記号》という用語を使うことが許されるとするならば、泉鏡花の記号的世界はすでに何らかの解読のためのキーを必要とし始めているのであり、そうだとすれば『鏡花小説・戯曲選』の編集の仕事をしたひとたちが、この世界に伝奇・怪異・芸能・風俗・懐旧といった常識的なジャンル分けを設定したのも、この迷宮的世界に分け入る道を求めようとしてのことであったことが理解される。
しかも、すでに述べたように、このような分離はあくまでも人工的なものであり、あとから付け加えられたものであって、読者はその境界付けによって制約されてはならない。自分自身の眼で見ることができるまでの、暫定的な境界付けであると考えなくてはならないはずである。
このように人工的に区別されたいくつかのジャンルの作品を寄せ集めることによって泉鏡花の文学の世界が構成されると考えるのは誤りである。常識的な理解では、部分の集合によって全体が構成されるが、部分が相互に異質なものであるばあいには、かならずしもそうではない。泉鏡花のそれぞれの作品を全部集めて、それが統一的なひとつの全体になるとは言いにくい。『鏡花小説・戯曲選』の解説の大半を書いている寺田透氏は、長年にわたってバルザックを論じてきたが、バルザックの『人間喜劇』のような統一性は、泉鏡花のばあいには存在しにくいように思われる。泉鏡花の記号的世界のなかで、解読可能なコードを少しずつ見つけ、重なり合い、からみ合っているコードを解きほぐしていくという、地味な作業を積み重ねていくことが必要のように思う。
ところで、泉鏡花の記号的世界とはいったい何のことか。それはまず第一に倫理的な意味を排除した、言語表現の世界のことを意味している。記号論の立場で、機能性と記号性とを区別して考えることがある。文章に関してこの区別を適用してみると、たとえば或る機械の使用説明書の文章は、その機械の動かし方を使用者に伝達するという機能を持っていれば充分であって、その機械の美しさについて書いたりすることは余分なことである。しかし、文学の言語は、こうした機能性とはまったく異なった作用をする。もちろんそれは読者に快楽を与えるという機能を持たなければならないが、そうした機能を生産するものが文学の言語の記号性である。
泉鏡花の文学言語は、この意味で高度の記号性を持ち、その文学世界を記号的世界と呼ぶことができるだろう。このような意味での記号性は、普遍的に存在するものではなく、作品と読者との相互的な関係のなかから成立してくるものである。最近、デザインなどの領域で、しばしばテースト(taste)ということが問題にされるが、それはデザインもまた個人の趣向・意識と深い関係があることが意識され始めてきたからであろう。文学作品の記号性というときも、読者の側の意識を無視したものではありえない。だから極端に言えば、いま論じている泉鏡花の文学言語の記号性は、私にとっての記号性にほかならない。たとえば、泉鏡花の文章に見られる過度の装飾性、形容の多用は、私にとってはそれ自体が記号性を高度に示すものであるが、別の読者にとっては、余分なものに見えるかもしれないのである。
ロラン・バルトが『ことばのざわめき』のなかで、《言語のオートノミー》という言い方をしている。バルトはそれが現在ではなくなってしまったことを批判しているのだが、言語表現の自立は泉鏡花の作品では充分に維持されているように思われる。たとえば、「天守物語」の奇怪な登場人物たちは、それだけで一種のサンクチュアリのようなものを構成しているが、泉鏡花のこうした記号的世界はそれ自体で完結しているものであって、それを他の実在に還元しようとする試みは挫折するだろう。
むしろ問題は、それぞれが孤立しているように見える個々の作品の記号的世界を、どのように相互に連絡するかということである。もちろんそれによってひとつの全体を構成することが目的なのではなく、それぞれの記号的世界を相互に結ぶことによって、共通の解読のキーを見出すことが目標である。そのようなキーが簡単に見出されることはないだろう。しかし、たとえば「草迷宮」でくり返して聞こえてくる、《此処は何処の細道ぢや、天神さまの細道ぢや・・・・》という歌が、「天守物語」のなかでも反復されているといった単純なことを手がかりにして考えていくことができるかもしれない。この共通して存在している歌によって、「草迷宮」と「天守物語」とのあいだにつながりができる。そしてこのつながりは、けっして構造や意味内容のレヴェルでのつながりではなく、むしろ意味内容とはほとんど無関係のまま、われわれの意識のどこかに引っかかっているメロディと歌詞、つまりシニフィアンによるつながりであるように思われる。こうしたシニフィアン的なものによるつながりは、泉鏡花のもろもろの作品を横に結合する、思いがけない契機になっているのではないだろうか。もちろんその可能性が大きいと言うことはできないが、そのような可能性を積み重ねていくことが、泉鏡花の世界に近付くためには必要な手順のように見える。
(つづく)
また、泉鏡花の作品のなかには、すでに注釈がなければ読解が困難なものが増えつつある。作品と同時代の社会・風俗・言語についての知識が欠けていると、しばしば意味が不明になる。さらに、泉鏡花のテクストのなかに夥しく引用されている、小野小町やら、「東海道中膝栗毛」やら、俚諺、川柳のたぐいまでのプレテクストを、現代の読者はもはや充分に読み取ることはできない。このように、泉鏡花の作品は次第にわれわれにとってわかりにくいものになりつつある。ここでかりに《記号》という用語を使うことが許されるとするならば、泉鏡花の記号的世界はすでに何らかの解読のためのキーを必要とし始めているのであり、そうだとすれば『鏡花小説・戯曲選』の編集の仕事をしたひとたちが、この世界に伝奇・怪異・芸能・風俗・懐旧といった常識的なジャンル分けを設定したのも、この迷宮的世界に分け入る道を求めようとしてのことであったことが理解される。
しかも、すでに述べたように、このような分離はあくまでも人工的なものであり、あとから付け加えられたものであって、読者はその境界付けによって制約されてはならない。自分自身の眼で見ることができるまでの、暫定的な境界付けであると考えなくてはならないはずである。
このように人工的に区別されたいくつかのジャンルの作品を寄せ集めることによって泉鏡花の文学の世界が構成されると考えるのは誤りである。常識的な理解では、部分の集合によって全体が構成されるが、部分が相互に異質なものであるばあいには、かならずしもそうではない。泉鏡花のそれぞれの作品を全部集めて、それが統一的なひとつの全体になるとは言いにくい。『鏡花小説・戯曲選』の解説の大半を書いている寺田透氏は、長年にわたってバルザックを論じてきたが、バルザックの『人間喜劇』のような統一性は、泉鏡花のばあいには存在しにくいように思われる。泉鏡花の記号的世界のなかで、解読可能なコードを少しずつ見つけ、重なり合い、からみ合っているコードを解きほぐしていくという、地味な作業を積み重ねていくことが必要のように思う。
ところで、泉鏡花の記号的世界とはいったい何のことか。それはまず第一に倫理的な意味を排除した、言語表現の世界のことを意味している。記号論の立場で、機能性と記号性とを区別して考えることがある。文章に関してこの区別を適用してみると、たとえば或る機械の使用説明書の文章は、その機械の動かし方を使用者に伝達するという機能を持っていれば充分であって、その機械の美しさについて書いたりすることは余分なことである。しかし、文学の言語は、こうした機能性とはまったく異なった作用をする。もちろんそれは読者に快楽を与えるという機能を持たなければならないが、そうした機能を生産するものが文学の言語の記号性である。
泉鏡花の文学言語は、この意味で高度の記号性を持ち、その文学世界を記号的世界と呼ぶことができるだろう。このような意味での記号性は、普遍的に存在するものではなく、作品と読者との相互的な関係のなかから成立してくるものである。最近、デザインなどの領域で、しばしばテースト(taste)ということが問題にされるが、それはデザインもまた個人の趣向・意識と深い関係があることが意識され始めてきたからであろう。文学作品の記号性というときも、読者の側の意識を無視したものではありえない。だから極端に言えば、いま論じている泉鏡花の文学言語の記号性は、私にとっての記号性にほかならない。たとえば、泉鏡花の文章に見られる過度の装飾性、形容の多用は、私にとってはそれ自体が記号性を高度に示すものであるが、別の読者にとっては、余分なものに見えるかもしれないのである。
ロラン・バルトが『ことばのざわめき』のなかで、《言語のオートノミー》という言い方をしている。バルトはそれが現在ではなくなってしまったことを批判しているのだが、言語表現の自立は泉鏡花の作品では充分に維持されているように思われる。たとえば、「天守物語」の奇怪な登場人物たちは、それだけで一種のサンクチュアリのようなものを構成しているが、泉鏡花のこうした記号的世界はそれ自体で完結しているものであって、それを他の実在に還元しようとする試みは挫折するだろう。
むしろ問題は、それぞれが孤立しているように見える個々の作品の記号的世界を、どのように相互に連絡するかということである。もちろんそれによってひとつの全体を構成することが目的なのではなく、それぞれの記号的世界を相互に結ぶことによって、共通の解読のキーを見出すことが目標である。そのようなキーが簡単に見出されることはないだろう。しかし、たとえば「草迷宮」でくり返して聞こえてくる、《此処は何処の細道ぢや、天神さまの細道ぢや・・・・》という歌が、「天守物語」のなかでも反復されているといった単純なことを手がかりにして考えていくことができるかもしれない。この共通して存在している歌によって、「草迷宮」と「天守物語」とのあいだにつながりができる。そしてこのつながりは、けっして構造や意味内容のレヴェルでのつながりではなく、むしろ意味内容とはほとんど無関係のまま、われわれの意識のどこかに引っかかっているメロディと歌詞、つまりシニフィアンによるつながりであるように思われる。こうしたシニフィアン的なものによるつながりは、泉鏡花のもろもろの作品を横に結合する、思いがけない契機になっているのではないだろうか。もちろんその可能性が大きいと言うことはできないが、そのような可能性を積み重ねていくことが、泉鏡花の世界に近付くためには必要な手順のように見える。
(つづく)




