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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

弁証法的アナクロニズムと絵画

7月25日から8月3日まで神奈川県民ホールで開催されていた「プレイバック ザ・カナガワビエンナーレ!:カナガワビエンナーレ国際児童画展開催20回記念特別展」内企画展示「《帰国した80年前の児童画たち》について」という展覧会に足を運んだのには以下のような理由があった。
上野の東京都美術館でクリムト展が開かれていた時のことだった。この展覧会を見終えた私は、地下の展示室が偶然目に入ってきた。そこでは都美セレクショングループ展2019「星座を想像するように――過去、現在、未来」が開催されていたが、その一つとして日独伊親善図画という展示があった。80年以上前に描かれた児童画を私はその時初めて目にしたが、飾られていた絵の多くに函館市弥生尋常高等小学校という表示がなされていた。その小学校は叔母が30年程前に勤務していた学校のかつての名前であり、その学校の近くにあった市立函館病院には祖父が入院していた。祖父はそこで亡くなったが、火葬場は小学校の近くにあった。弥生小学校の傍を火葬場に向かうわれわれ家族を乗せたバスが通り過ぎて行ったおぼろげな記憶がある。だが、80年前の親善図画と弥生小学校とを結びつけるものが私に思い浮かばなかった。展示場にはこの関係性を示す詳しい情報は何もなかった。受付の女性に尋ねてみると、連絡先を教えてもらえれば、この展示の企画者から何らかのコンタクトがあるようにするという答えが返ってきた。私は名刺を置いて会場を出た。
 10日程してから、企画者の東京芸術大学院生の田中直子さんからメールがきた。そこには彼女がこの児童画と出会ったきっかけや展覧会を行うようになった経緯などが書かれてあった。しかし、弥生小学校と日独伊親善図画との関係性は判らなかった。メールには「カナガワビエンナーレ国際児童画展開20回記念特別展」での親善図画の展示について、さらには80年前に描かれた児童画をもっと多く、約200点展示するということについても書かれていた。運悪く編集プロダクションからきた原稿書きの仕事のため、私はなかなか時間が取れなかった。しかし、展覧会が終わる二日前に何とか最後の原稿を書き上げ、翌日、展覧会に行くことができ、田中さんにも直接会うことができた。これから述べようと思う事柄は以上のような背景の下に書かれるものである。それゆえ、ここで行う考察はある歴史的出来事を巡る学術的な厳密な研究といったものではなく、個人的な問題を多く含んだ試論と言うべきものであることを先ず断っておかなければならないだろう。 

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かでるでテラヤマを観る

 風蝕異人街の「青森県のせむし男」を札幌の「かでる」で見てきた。
まず目に入るのが中央の日本画風の母子像。これが印象的。
その両側に「てのひらに百遍母の名を書かば生くる卒塔婆の手とならんかな」と
「まなざしのおちゆく彼方ひらひらと蝶になりゆく母のまぼろし」という
寺山の短歌。母子の情を書いた短歌だが、それを家という大きな文字で読めないように
覆っている。その下は赤い格子。この格子が縦横無尽に動いてこの劇では大活躍する。
これはこの世のものならず…と言って三途の川の賽の河原で一つ積んでは母のため、
と石を積んでは鬼に崩される地獄の光景が語られる。
 母恋い地獄。これがこの劇の主題である。
 卒塔婆を背負った黒子の村人が時折、大正家の噂話をする。
 大正家の御曹司は女中のマツに手を着けて子どもを産ませた。
 生まれた子どもは背にこぶがあり、引き取られて行方知れずとなった。
それから30年後、50になったマツ(堀きよ美)は大正家の未亡人として、旅人や奉公人を
 もてなして暮らしていた。そこにコソ泥として捕まったせむし男の松吉(三木美智代)が
未亡人のマツと対面する。
 松吉に思いを寄せている女学生(私の回では、柴田詠子)が松吉とマツの母子の
顛末の目撃者として語る。
 松吉はマツを訪ねて母恋しくてここへたどり着いた 松吉をマツは近くの土手に連れ込んで、他人として、そして男として扱った。
 見るに耐えない禁断の場面を、女学生は目撃してしまった。
マツを責める女学生にあの子は松吉なんかじゃない、
 松吉はこの手で草刈り鎌で赤子の時に間引きした、
そもそも私はあの土手で御曹司に手籠めにされた、
 私は仏に生れてくる子に私の肉の墓を建ててくださいと祈った、とマツが言う。
 果たして松吉はマツの実子なのか、真相は闇の奥。
マツに向かって仏壇から身を乗り出してくる松吉がこの世の地獄を呪う。
 女学生が熱演で、未亡人マツも鬼気迫る。
だが、松吉が身の毛もよだつ異形の者として、迫真で自分の業を演じ切る。
 凄すぎる演出(こしばきこう)と芝居と歌と踊りだった。お勧め!
 
 修ちゃんはそんなにハツが嫌いなの?母子の情が胸を打つのさ
2019.813

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政治空間内のブラックホールについて

 「現代ビジネス」の7月4日の記事としてネット配信された政治学者の中島岳志とフリーライターの武田砂鉄による「「安倍首相は空虚である」自民党政治家を徹底分析して見えた「実像」」という対談には、安倍晋三の政治家としてのイマージュについての考察がなされていた。私は政治学も、経済学も、社会学も専門外ではあるが、この対談の中で語られている安倍空虚説に強い興味が沸き、この説を更に深く検討していこうと考えた。それがこのテクストを書こうと思った動機である。それゆえ、これから行う論述の中で私は安倍晋三という考察対象を分析していくが、それはこの人物の個人史を追うためのものでもなければ、彼の政治イデオロギーについて解明していくためのものでもない。ここで私は考察対象の政治的言説及びそれに伴った言表的行為を言語学的及び記号学的視点から観察することを通して、日本における政治的無責任性への暗黙裡の了解と非合理性への憧憬という問題について明確化していこうと考えている。 

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寺山修司と逃走線―『レミング』再考

 寺山修司(1935-1983)率いる天井桟敷の演劇活動において最後の公演となったのは、1983年5月、大阪八尾、西武ホールにて上演された『レミング―壁抜け男』である。1979年、晴海東京国際貿易センターで初演された『レミング―世界の涯まで連れてって』の改訂版であった。最終公演だったから、というわけではないが、今から振り返ると、やはり「集大成」といった感じを受ける。作品としての代表作は『奴婢訓』であろうが、この劇には、寺山の演劇活動、ひいては自身の全創作活動の要諦がメッセージとして込められているようにみえるからである。
 1970年代後半、寺山は、山口昌男、三浦雅士との出会いがあったからでもあろう、現代思想、とりわけフランス現代思想に傾倒していた。中でもフーコーを読んでいたことはよく知られているが、本稿でとりあげたいのは、ドゥルーズ=ガタリに対する寺山の態度である。1970年代におけるドゥルーズ=ガタリの邦訳といえば、豊崎光一訳『リゾーム』(1977年)、宇波彰訳『カフカ―マイナー文学のために』(1978年)のみであるが、二人の訳者はともに、寺山が出版していた『地下演劇』に寄稿、ないしは対談を行っており、寺山とつながりを持っていたことが確認される。とりわけ宇波彰との対談は、文字どおり、ドゥルーズ=ガタリについてであったし、『カフカ―マイナー文学のために』については、読売新聞において匿名で書評をしている(1978年9月10日朝刊)ことから、参照できる文献は少ないものの、寺山がかなり好意的にドゥルーズ=ガタリを受容したのではないかということが推測される。
 そもそも、ドゥルーズ=ガタリの思想を象徴する語で広くいきわたっている概念のひとつに「ノマドロジー」、「ノマド」があるが、寺山の演劇活動は、既成の劇場を飛び出し、固有の演劇空間を定めず、そのつど新たな演劇空間を創出していくというものであり、まさしく遊牧民的、ノマド的だったといえるだろう。それゆえ、寺山が、それを、数少ない文献から直観的に、自身の活動を説明してくれる思想だと考えたとしてもおかしくはないのだが、本稿では、より具体的に、『レミング―世界の涯まで連れてって』とその改訂版『レミング―壁抜け男』という作品に沿って、ドゥルーズ=ガタリ受容の痕跡を探りたい。
 『レミング』は、とりあえず「壁」のドラマだということができる。
 舞台は、都市の片隅の一角、たとえば品川区五反田駅前。劇は、中国料理の見習いコック王(改訂版はコック1,2)が住むアパートの一室で突然壁が消失し、隣室が丸見えになるところから始まる。隣室が丸見えになって自己同一性を揺るがされた王(コック1,2)は、当初は揺るがされた同一性を確保しようとして、自ら壁を招きよせて市民生活を維持しようとするものの、様々な来訪者を受けるうちに、いつの間にかこの部屋が、遊戯療法を行っている精神病院や、監獄などに変貌し、否応なく他者に巻き込まれてゆく…。
 扇田昭彦は、初演時に「寺山修司がこの新作劇のなかで批判的に描いたのも、現代の私たちに深く浸みこんでいる個への信仰、それを体現する個室=壁への信仰である。むろん、神なき劇詩人である寺山修司の場合、個的な壁をとりはらった彼方に見えてくるのは、世界に秩序をもたらす「神」ではなく、あらゆるものが混交する劇的な無秩序と偶然の世界だ」(『美術手帖』1979年7月号)と書いているが、観客が「舞台」だとみなす空間で演じられているのは、まさしくこうした世界であったといえる。
 一方、扇田は、客席後方の作業用の台から劇を見たために、黒いネズミのような男女の群れや、壁抜けを繰り返す小人の劇など「観客席の真中にいては見えない多くのドラマがそこここで同時多発的に展開していた」のを目撃し、「この劇は、本舞台だけに閉じこもろうとする観客の意識そのものが『壁』であること、個我意識の壁の外にはさらに多様な劇が渦巻いていることを、劇構造として巧みに示していたのである」(『美術手帖』)と記し、この劇が、登場人物の内面の壁だけでなく、観客の内面の壁を問題にしていることを指摘していた。『レミング』がとりあえず壁のドラマだというのは以上のような意味である。
 実際、寺山自身も、「「レミング」の主題は、ひとことで言えば、壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証である」と書き、壁は「資本主義の作り出した亡霊」であるという三浦雅士の文章を引き合いに出して、内面の壁を問題化し、同時に「観客席という内面を発生する装置」を問題化していたことを思えば、とりあえず、扇田の劇評は、『レミング』をよく解説しているといってよいし、「観客の受け取った印象をほぼ代弁している」だろう。
 しかし、本稿で問題にしたいのは、寺山が、「今回の劇は、「壁」というのではなく、『レミング』というタイトルなんです。レミングというのは、集団自殺するために出てゆく旅鼠なんだけど―その鼠と壁とをつきあわせる「台」(ターブル)、すなわち舞台がいま問題だと思う」(『地下演劇14』)と言っていることである。
 どういうことだろうか。そもそも、寺山の言う「レミング」とは一体何だろうか。
 寺山は「歴史的には「天変地異が起きたとき、その一年前には、かならず打物を片手に道を踊り歩く人々の姿が見られた」(ええじゃないか)ことは、壁を抜けて集団自殺に向かう旅ネズミ(レミング)との類似性において論じられてきた。壁とその消失、そして方向を失った大家の群れを描こうというのが、この作品のねらいだったとも言える」(『寺山修司戯曲集3』)と書いている。ここからわかるのは、壁の消失によって次々に他人の夢に巻き込まれてゆく王(コック1,2)が、いわば「レミング」ないしは「レミング予備軍」として描かれていたということである。
 もちろん、「レミング」は壁を抜けつつも、最終的には集団自殺してしまうネガティヴなイメージをもつものだし、ファシズムのにおいすらするものである。しかし、寺山が「鼠が集団で突然、狂走する、というのは「ええじゃないか」や「お蔭まいり」などの一種の集団舞踏、つまり踊狂に換喩できると思うわけです。人間の内面化が、あるぎりぎりのところで、裏側から皮膚をしめつけ、せり上り、揺れはじめて踊り出す。何かが内側からバリバリと皮膚を破ってあふれ出す。壁破りだと考えていた」(『地下演劇14』)と発言しているように、「レミング」とは、壁にせき止められた生を開放するものでもある。そこで、寺山はこれに積極的な意味を授けた。隣室の兄妹の妹(改訂版は隣室の夫婦の妻)と母が密約を結んでできた合言葉「とび出すネズミがたった一匹!」と「レミング」を抱きわせることによって。「レミング」ないしは「レミング予備軍」である王(コック1,2)は、この合言葉によってレミングすれすれの場から逃れ、生き延びるのである。
 つまり、「レミング」とは、結論を先取りすれば、ドゥルーズ=ガタリの「逃走線」、「国家装置」から逃れる逃走線である。浅田彰の『構造と力-記号論を超えて』が出たのは1983年秋、『逃走論-スキゾ・キッズの冒険』が出たのは翌1984年、いずれも寺山の死後であり、寺山自身は、ニューアカデミズムブームを知らなかったが、1979年の初演、1982年、1983年の再演を通して、寺山が追求していたのが、この「逃走線」という概念であった。すでに1975年、『疫病流行記』において、寺山は、父の死を意味するセレベス島というトラウマティックな固有名を隠し持つ反復強迫の空間で発生するネズミの群れに「レミング」という言葉を用い、そこから死と背中合わせの逃走を図ってかろうじて生き残る男というビジョンを造形し、神経症圏から分裂症圏への脱出、いわば反オイディプス的逃走を企図していたが、『レミング』では、それを再度問題化し、概念として練り直しているのである。
 注意したいのは、「とび出すネズミがたった一匹」という合言葉が、レミングを否定して逃走する、という意味ではないことである。逃走は、むしろ『疫病流行記』同様、レミングと不即不離であり、この言葉は、いわば、自らレミングとなって死へと無へと突き動かされるも、(「分裂的エロス」によって)わずかに偏倚し、「創造的逃走線」を構成する、といった意味だということである。「動物への生成変化」といってもよいだろう。もっとも『カフカ―マイナー文学のために』を読んでいた寺山は、『変身』において引かれた家族の三角形からの逃走線、つまりグレゴールの毒虫への変身(動物への生成変化)が、最終的にグレゴール=毒虫が死ぬことによって、新たに妹を核とした再オイディプス化を帰結し、家族の三角形が閉じられることの危険をつよく意識してもいた(『闘技場のパロール』)。そもそも、逃走線は、常に破滅の線と隣り合わせである。それゆえ、それを横目で見ながら反動的に「壁」を招き寄せる危険とも常に背中合わせなのだ。寺山がその邦訳を目にすることはなかった『千のプラトー―資本主義と分裂症』において、ドゥルーズ=ガタリは書いている。「創造する逃走線か、それとも破壊線に転化する逃走線か。たとえ少しずつでも構成されていく存立平面か、それとも組織と支配の平面に転化してしまう存立平面か」。こうしたドゥルーズ=ガタリのビジョンと連動するような、「レミング」と不即不離の逃走線のイメージを提出しているところに、寺山の慧眼があるといってよいだろう。
 実際、寺山は、改訂版『レミング―壁抜け男』の中で、レミングのこうした三つの帰結をきちんと書き込んでいる。
 一つ目は、破壊線へと転化してしまったもの。「そういえば昨日の夕方も品川駅で、死んだネズミの一杯入った箱を運ぶ駅員を見た。ネズミは、壁沿いに一列に並んで死んでいたそうだ。収容所の恐怖は、何も第二次世界大戦のときばかりじゃないんだ、と駅員さんが言っていた。太陽の黒点が大きくなると、ネズミたちはアパートを出てどこかへ向かって歩き始める。集団蒸発…それがレミングだ。」
 二つ目は、レミングを回避して生き延びたものの、反動的に壁をつくってそこに立てこもるコック1。「近寄るな!」「そこから近づかないでくれ。」「壁が…おまえ、その壁が見えないのか?」コック2に「おまえも、自分の壁を作ってしまったのか。…中略…箱の大きさ分だけに、気苦労や悩みを区切って、その中でひっそりと隠れて暮らそうなんてそう安直にはいかないんだ!」と言われながらも「どこへ行ったって壁はあるぞ」とつぶやく。
 そして三つ目はレミングを生命線へと変容させようとする「壁抜け男」のコック2。「壁をですね。壁を…。」「スーッと…何の抵抗もなく抜けたんです。」「おれは壁抜け男だ。どこへでもズカズカ入っていってやる。」「壁がない俺には、ここから出てゆくことも、ここに残ることも結局は同じことだ。(客に向かって)だけどあんた方は違うんだよな。壁なしじゃやっていけないあんた方は、ここから出たつもりでも結局は又、別の壁に入っていくだけのことだ。…中略…壁なんてのはあんたの心の中にあるんだよ。」コック2の逃走線とて、いつなんどき破壊線へと転化するかもしれないし、コック1はコック2の分身的要素が強いのも事実なのだが、寺山の思想は、とりあえず、コック2に託される。
つまり、寺山にとって内面の壁とは、レミングを回避して自ら壁を招き寄せて形成する国家装置であり、いわばレミングの遮蔽幕とでもいうべきものであり、それゆえ、内面の壁の批判は、壁に閉じ込められた生を危うくも開放する、レミングすれすれの創造的逃走線の形成を示唆することでなされるべきものだったのである。
 ただ、寺山はコック2にその思想を託したといっても、創造的逃走線がいかなるものかは、プロセニアム・アーチの内部で上演される劇の中では語っていない。その答えは、コック2のセリフやアジテーションによって観客の想像力に委ねただけのようにも見える。しかし、寺山は劇の中でも、半分答えを用意していた、と私は思う。というのも、プロセニアム・アーチの内外で上演される『レミング』のスペクタクルは、「イメージの狩人」寺山が、古今東西の書物や絵画から様々なイメージを狩り出してきた引用の織物だったが、それは、「引用」は「逃走」であると言わんばかりに、「驚くほど人の所有欲を免れて、ここで新たに生命を賦与されて劇を生成し、そして消滅していく」ものであり、いわば、「レミングすれすれの危険に晒されたイメージや音が、鮮やかな生成変化を遂げながら、今ここを肯定する晴れやかなスペクタクルを構成しては崩れ落ちていく」(拙著『孤児への意志―寺山修司論』)ものだったからである。それは、スペクタクルといっても、ハリウッド型スペクタクルとは対極にある、マイナーで、見た者を新たに言語の組み換えへといざなうスペクタクルであり、まさに「創造的逃走線」を体現するものだったといえる。
 このように、『レミング』、とりわけ改訂版『レミング―壁抜け男』は、ドゥルーズ=ガタリの「逃走線」という概念の、受容の痕跡が残る作品である。とはいえそれは、彼らの思想の「応用」というわけではない。なによりそれは、寺山が『疫病流行記』において展開したビジョンの概念的練り上げからなるものであったし、また、「家出のすすめ」で「家」からの脱出を若者に呼びかけ、作品制作においては、俳句、短歌、詩、演劇、映画、批評、童話、作詞などさまざまなジャンルを次々に横断し、演劇については、「既成の劇場を飛び出し、固有の演劇空間を定めず、そのつど新たな演劇空間を創出していく」といったように、暗黙裡に人々を区画するさまざまな「壁」をすりぬけ、まさしく創造的逃走線を生きてきた、自身の全活動の理論的総括を意味するものでもあったのである。『レミング―壁抜け男』が「集大成」である、というのはそういう意味であり、三十五年以上の時を経て、グローバリズムの下、別な形で個と社会の分断がすすむ今、同じ主題を具体的他者との応答の中に探った「市街劇」とともに、新たな理論的読解を誘ってやまない。
 

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目の呪縛からの解放:池田龍雄の絵画について

 京王線仙川駅近くにある東京アートミュージアム (TAM)という小さな美術館で4月6日から6月30日まで、「池田龍雄展―場の位相」が開催されていた。展示されていた作品はオーナー所蔵のものだけで多くはなかったが、ドキュメンタリー映画監督の孝壽聡が制作した「The Painter」と「華開世界起」という映画のビデオが上映されていた。時間の都合で前者の作品しか見られなかったが、このビデオは大変興味深いものであった。
 池田龍雄の絵は昨年の4月から6月まで練馬区立美術館で行われた「戦後美術の現在形:池田龍雄展-楕円幻想」というタイトルの展覧会ですでに見ていたが、そのときは彼の絵画について十分に検討することができなかった。今回は上記した池田の作品制作過程を映像化した「The Painter」を見ることもでき、彼の絵画に関して何らかの考察ができると思い、このテクストを書き始めた。
 「The Painter」の中にはアメリカ軍空母に体当たりする特攻機の記録映像が挿入されている。1928年に現在の佐賀県伊万里市で生まれ、16歳のときに特攻隊員となった池田の過去を示すための挿入である。終戦後、彼は徹底的に戦争反対を訴えるようになる。彼の反戦的主張はその後も変わることはないが、池田の絵画スタイルとテーマは時間と共に大きく変わっていった。彼の絵画スタイルとテーマは、「揺籃期」、「ルポルタージュ絵画期」、「目による呪縛期」、「目からの解放期」というように四つに区分できると私には思われる。第二期と第三期は重なるのではないかという反論や、第三期と第四期との境界を厳密に設定できるのかという批判が出るかもしれないが、この区分は池田の作品を年代的視点から見た区分というよりも、彼の絵画スタイルとテーマとを分類するという探究視点に基づいた区分であり、この分類によって池田の絵画変遷を十分に分析できると思われる。
 最初の「揺籃期」は池田の画家人生の中で習作と呼んでよい絵が描かれた時期である。第二期の「ルポルタージュ絵画期」の作品には戦争の直接的経験と現実の不条理さへの憤怒の感情が大きく反映している。私の意見では、第三期の特徴は目の持つ強烈な語りである。この時期は異常な身体を持つ化け物じみた生物たちを描いた作品が登場する時期であるが、その異様さの中でも、特に目は注視しなければならない強いメッセージ性が込められているように私には感じられる。第四期は目という特異な対象が次第に消えていき、新たな創造世界を構築するように制作方向が転換した時期である。ここではこの四つの時期を追いながら池田龍雄の絵画作品の展開について検討していくが、先ずは画家としての創作の基盤ができた彼が画家になる以前の体験も含めた「揺籃期」について次のセクションで考察することとする。 

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