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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

講演:〈近代の超克〉批判序説



   【目次】  第一章 回想の橋川文三
         第二章 なぜファシズムか、そしてファシズムとは何か
         第三章 日本のカリガリ博士

第一章 回想の橋川文三
 
本日の演題は〈近代の超克〉批判序説ですが、そのテーマで話すことになったそもそもの発端は私が橋川文三という人に出会ったことにあります。そこでまずはじめに枕として橋川文三の回想をお話しします。ただし本格的な橋川文三論ということではなく橋川文三の個人的な回想にとどめます。

橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきました。追悼雑誌の中の橋川文三の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶しています。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉でした。

第二次世界大戦では六千万人の死者が出たといわれています。私の親族にも戦争の犠牲者がひとりいます。母方の叔父が戦死しています。母は6人兄弟の長女で弟を亡くしました。戦地はボルネオで戦闘中に亡くなったのではなく餓死であろうと推測されています。私が大学生になって父と母が上京した際に三人で靖国神社にお参りに行ったことがあります。その時の母の哀れな嘆きの様子は思い出すたびに今でも私の心は震えます。

橋川文三ゼミの入室試験時のテーマは「日本のファシズム」でした。橋川文三はこの試験に関して「形式は自由とします。論文でもいいし、エッセーのような形でもいいです」と解説しました。12名の募集に応募者は10倍越えて、明治大学政治学科では最大の競争率のゼミでした。入室試験に私は次のような書き出しで解答しました。父が上京の際に残したメモを、自分に対する重要なメッセージだと思って日記帖に貼りつけていまして、内容も記憶していたのでまずそれを書いたのです。

『僕がまだ大学一年生の時のことである。戦友との同窓会のために上京した父は、次のメモを残して帰っていった。「今日靖国神社の社頭に祈念して、大東亜戦争で散華した二六〇万の青年・壮年の英霊に対して涙にくれた。其人達の中には何十万という高校大学の学徒出陣の人達もいる。彼等は決して日本の軍部にだまされたのでも無く、資本家の犠牲になったのでもない。唯一路、父のため母のため兄弟のため郷土のため日本民族のため何等迷うことなく青春多感の命を捧げたのである。一路勉学に励まれんことを家族一同願っている」』

この父のメモ書きにコメントを付けまた当時読んでいた参考文献などを列挙して入室試験の解答としました。同期の映画研究会のサークルに属していた人は藤純子論を日本のファシズム論として提出したと言っていました。優等生的な回答では合格は不可能で独創性を示さなければ橋川ゼミに入室することは難しかったのです。私の場合父のメモのおかげで合格できたようなものです。

ゼミに入って意外だと思ったのは橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたことです。当時橋川ゼミに集まった学生はほとんど全共闘シンパでした。新左翼にとって丸山眞男は「欺瞞的なブルジョア民主主義の権化」であり軽蔑の対象でした。しかしそれまで「丸山」と呼び捨てにして対話していたゼミ員が、橋川に感化されいつの間にかカフェでの会話の中でも全員が「丸山さん」と敬称をつけて話すようになっていたのです。これは驚くべき変化です。橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたこと。これはあまり知られていないだいじな事実ですのでここで述べておきたいと思います。

橋川文三の講義の圧巻は詩が引用される時でした。その詩の引用は講義のクライマックス部分でおこなわれます。詩人橋川文三の本領が発揮される瞬間を何度もわれわれは体験しました。これは誰も真似できない橋川文三という天才的な個性のみがなしえた講義のスタイルだと私は考えています。

『日本浪曼派批判序説』について講義していただいたことがあります。そのリクエストはじつは私が出したのですが。その講義の最後のところで『批判序説』の後書きの中から次の個所を橋川文三は朗読してくれました。

《そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか? 私の体験に限っていえば、それは、
 命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の
 隠白檮が葉を、鬘華に挿せ、その子
というパセティックな感情の追憶にほかならない。それは、私たちが、ひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを要約している。私の個人的な追懐でいえば、昭和十八年秋「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン派の名で呼ばれたのである。(橋川文三『増補日本浪曼派批判序説』375P)》

日本武尊の歌を板書し註釈を施してからその歌を橋川文三が朗唱した時、日本武尊とは何者なのか、日本浪曼派とは何か、そして橋川文三とは誰なのか、われわれは瞬時にことごとくすべてを理解したのです。

もうひとつブログへの記載例を紹介させて下さい。『史記』の講義で列伝の荊軻(けいか)について語られた模様です。

《先生は手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。(「ブラームスを聴きながら」 ブログ『ダンボールの部屋』)》

橋川文三は学者・知識人との対談より学生との対話の方が好きでした。さらに言えば大学院生との対話より学部学生との対話の方を好みました。橋川文三の西郷隆盛研究の旅は学生のふと漏らした感想がきっかけでなされています。ゼミの学生が西郷隆盛の最後の配流地である沖永良部島に旅行しました。そして橋川さんに「沖永良部島に行ってこれで西郷がわかった気がする」と感想を述べたのです。その言葉が気になった橋川さんは自分も実際に沖永良部島に旅して学生が得たその直感を確かめています。この旅で得た感想を核にして橋川文三の晩年の傑作『西郷隆盛紀行』は書かれました。

橋川文三の『西郷隆盛紀行』は竹内好の「日本のアジア主義の展望」の最終章の問題意識を引き継ぐものであり維新史の認識を根底から問い直す思想史の傑作です。しかし橋川文三による日本近代の根底的な歴史認識の問い直し作業はいまだ日本の学界・ジャーナリズム・一般読書人にほとんどといっていいくらい浸透していません。橋川文三の仕事が見直されるのはしたがって今後の課題ということになります。橋川文三の仕事が真に評価される日は必ずやって来ます。そう断言しておきます。

 

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ソンタルジャ監督の映画「巡礼の約束」を見る

 去る2019年11月14日に,私はソンタルジャ監督の中国映画「巡礼の約束」(2018年)を試写で見た。この映画では、ソンタルジャ監督自身が主役の男を演じている。男には妻がいるが、彼女は前の夫と死に別れ、二度目の結婚であり、男の子を連れての再婚である。この「連れ子」は新しい父親、つまり継父にまったくなじまず、反抗的であり、自分の部屋に閉じこもっていたりする。その子役の少年の演技はすばらしいものである。もちろんそれは監督の指導にもよるであろうが、少年の一瞬の鋭い目つきに私はたじろいだ。

 妻は、実は病気をかかえているのだが、どうしてもチベット仏教の聖地ラサへ行きたいと主張する。監督はチベット人であるが、この映画の舞台は、四川省西部である。映画のなかで「成都」とか「四姑娘山」といった四川省にかかわる地名が出てくる。そしてそこからラサまでは500キロメートル以上もあるらしい。当然のことながら、彼女はチベット仏教信者の伝統的な「五体投地」で進む。この宗教的な身体技法では、一日にせいぜい5キロメートルしか進むことができない。夫は彼女のために「五体投地」で使う木製の手袋状のものを松の木を削って作る。彼らは車や鉄道で行くのではない。粗末なテントを担いで歩いて行き、文字通りの「路傍」で野宿を重ねる。もちろん食事はレストランや食堂でとるのではなく、持参した鍋での自炊である。

 この映画には、さまざまな物語•歴史•思想が含まれている。妻は前夫と死別したのだが、二人で撮った写真は離さずに持っている。巡礼をする3人の相互関係はなんとなくぎごちない。そのほかに家に残してきた足の悪い夫の老父もいる。したがってこの映画は、まず第一に「家族の劇」である。妻はなぜ「巡礼」をしようと思い立ったのか? 亡くなった前夫の「供養」のためかもしれないし、チベット仏教の信者ならば、一生に一度はラサに行くのが義務かもしれない。いずれにしてもその理由は「宗教的なもの」としかいいようがない。私はいまフランスの社会学者マルセル•モース(1872~1950)の『贈与論』(森山工訳、岩波文庫、2014)を読み返したところであるが、彼の贈与論の中心は、「贈与することと、その返礼」という交換の作用が社会を作っているということである。これは単に物の贈与•返礼というプロセスに限定されるものではない。今村仁司が『交易する人間』のなかで説いたように、われわれの存在そのものが、ある絶対的なもの(神とか佛など)によって「贈与」されたものであり、人間はその贈与に対して返礼をしなくてはならない。『巡礼の約束』の妻は、自らに与えられたものを、佛に「返礼」しに行こうとしたのではないであろうか?

 この映画を見あと、私はチベットに関する2冊の本を読んだ。多田等観『チベット』(岩波新書,1942)、青木文教『秘密の国 西蔵遊記』(中公文庫、1999、初版は1920年刊)である。多田等観と鈴木文教は、いずれもチベット仏教の研修のためにチベットに滞在した仏門のひとたちである。彼らが見て報告しているチベットは、辛亥革命直前の1910年頃のチベットであり、もちろん現在のチベットではないが、しかし、この二冊によって私は当時のチベットの状況をかいま見ることができた。それは清との関係を断って独立した国家を目指した当時のチベットの状況をかすかに反映している。辛亥革命によって成立した中華民国は、チベットの独立を認めなかった。その歴史的過去が、この映画の裏にある。

 2019年11月28日の東京新聞は、次のように報じている。「チベット亡命政府のあるインド北部ダラムサラで27日、チベット仏教の高僧が集まる会議が開かれ、チベット仏教最高指導者ダライラマ14世(84歳)の後継者選出方法はダライラマだけが決められるという決議を採択した。」それは中国政府が決めてはいけないという意味である。「中国政府はダライ•ラマに対し、チベット独立を図る<分裂主義者>と批判、後継者の決定権を主張している」のである。また同じ11月28日の毎日新聞には、「プラハ市 北京市と仲違い」という記事が載っている。プラハの市長が台湾びいきのため、北京市との姉妹都市関係を解消したという報告である。プラハの市長は就任後、市庁舎にチベット亡命政府の旗を掲げたという。それはあからさまな反中国的行動である。つまり「チベット問題」があちこちで見えつつある。もちろんこの「巡礼の約束」では、政治的なものは全く見えない。しかし、何も見えないという状況こそ、真実を示すものであろう。この映画が「中国映画」であり、上海の映画祭で賞を得たということには「裏」の意味があるのだ。(2019年12月4日)

 

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想像と論理の間で――カイヨワ『蛸』を読む

『戦争論』などで知られる20世紀のフランスの思想家、ロジェ・カイヨワ(1913-1978)が書いたこの書物は表題の通り、蛸について書かれた書物である。私たちはこの生き物について何を知っているだろうか。イカなどの仲間で頭足類と呼ばれ、真っ赤な身体に複数の吸盤のついた8つの足(腕)があり、大きな頭部(正確には胴部)に特徴的な目をもつ。日本では広く食用され、刺し身やたこ焼き、唐揚げなど飲食店で広く提供されているものも多い。あるいはたこ焼きの屋台に描かれるねじり鉢巻をつけた蛸に徳利を持ち酔っぱらい赤くなった蛸、はたまた春画に描かれる性的なモチーフとしての蛸だろうか。西洋における悪魔的な蛸のイメージをお持ちの人もいるかもしれない。人によってはそれを持ち出し、蛸は西洋で恐れられており、日本では食用として広く親しまれている、という対比をする人もいるかもしれない。しかしそうした恐ろしい生き物としての蛸のイメージと、同時に西洋においても地中海沿いを中心に蛸が食用されているというイメージの間には乖離がないだろうか。ヨーロッパにおいても蛸は食用として親しまれてもいるのだ。

カイヨワの『蛸』は多様な資料に裏付けられた蛸についての書物ではあるが、生物学的な書物ではない。この本は副題の「想像の世界を支配する論理をさぐる」が示すように、人間の想像力、イメージを主題としている。その探求の際に、「蛸」という生き物が人間にどのようにイメージを押し付けられ認識されてきたか、そしてイメージの論理と合理的とされる理性との間で衝突が生じた場合に、どのようなことが起きたかの歴史を辿る書物である。

 

「ポスト・トゥルースの政治」ということが言われやや久しくなった。政策の詳細や客観的な事実よりも個人的な信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成されるという政治のことである。しかしここでいう「トゥルース」は真実、真理ではなく、むしろ「ファクト」、事実の方が近いだろう。なぜなら客観的な事実を参照していない人々も彼らが真と思うものに沿って突き動かされているのであるから、感情的だから、とかその時々の事実に立脚していないという理由だけでその認識に「トゥルース」がないと言うことはできない。そして彼らがその「トゥルース」を参照していないと指摘する人が立脚している「客観的な」事実もまた、恒久普遍的な真理ではなく、新たな事実の発見や価値観の転換によって容易に真理でも事実でもなくなりうるものである。いずれにせよ、人間の認識は理性や思考の論理によってだけ決められるものではなく、感情や必ずしも正確ではないイメージによって大きく左右されるものである。もちろん「ポスト・トゥルース」という言葉は現代の政治的状況を表すのに象徴的な枠組みであるが、認識が事実のみから成り立っているのではないことは現代に限った話ではない。

 

地中海地方では古代ギリシャ・ローマの時代から蛸は親しまれており、その生き物は絵や彫刻の中にも描かれる他、蛸の刻印がある貨幣も多く発見されている。蛸についての知見も古いからといって不正確なものではなく、プリニウスが既に『博物誌』において、一般に蛸は飢えると自分の腕を食べると信じられているが、実際に蛸の腕を食べているのはアナゴであり、一般の俗説が誤りであると指摘している。しかしそうした「科学的な事実」があったとしても、蛸が自らを食べるという伝説が消えてなくなることはない。そこから蛸が「自らの財産を浪費する放蕩者」を象徴するというイメージが生まれてくるのである。

この書物で大きな転機とされるのは、時代は下って18世紀、ドニ=モンフォールの『軟体動物の博物誌――総論と各論』の出版である。そこで蛸は執念深い凶暴な生き物として描かれる。その前の時代にも島ほどの大きさもあり船を沈めることがあると報告されていたクラケンの伝説があったのだが、クラケンが害を及ぼすのはその意に反してだったのに対して、ドニ=モンフォールはむしろその伝説と対比させ、攻撃的な蛸を描き出すのである。そこでは数々の蛸による「被害」が列挙される。蛸に襲われた友人を助けたが切り取ったその腕は25ピエ(およそ5メートル)ほどもあった、1782年、カリブ海でイギリス海軍のロドニイ提督はフランスの軍艦6隻を捕獲し、これらをイギリスの4隻の軍艦が護送したのだが、その日のうちにそれら10隻の船はすべて海中に呑み込まれてしまう。これをドニ=モンフォールはあらしではなく大だこの襲撃によるものだとしているのである。もちろんこうした明らかな作り話も、当時の人々によって真に受けられていたわけではない。しかし蛸に特有の凶暴さを印象づけるという点において、彼の試みはなぜか成功してしまう。彼の蛸に対する執念が何に由来するものか知ることはできないが、興味深いのは迷信や俗説に対して対置されることも多い「科学」がこうした俗説を生みだしてしまったことである。もちろんここまでの作り話では「科学」の名に傷をつけるということにもなろうが、アカデミズムの中からもこうしたものが生まれでたということは象徴的である。

このカイヨワの著作の中で論文のように結論らしい結論というのは出てこないが、それでも蛸のイメージをめぐる問題についての一つの結論と言えるのは、それがロマン主義文学と結びついて作られた、比較的新しいイメージだということである。彼はミシュレ、ユゴー、ロートレアモン、ヴェルヌといった文学者たちによってどのように蛸のイメージが利用され、あるいは創作されてきたかを詳細に辿る。ここでその分析を説明はしないが、1つ重要なことは、その蛸にまつわる様々のイメージが「作られた」ものだということである。これは悪意を持ったイメージ操作ということを必ずしも意味しない。文学者たちがいかに蛸を恐れたかということではなく、既存のイメージを創作に活かし、利用している側面の方が強いだろう。イメージや神話は作られ、それも容易に形を変える。しかしそれはいわゆるエビデンスがあれば反証されるというような形の変え方なのではなく、想像の次元での論理に沿って形を変えるのである。それゆえ、理屈では分かっていてもそのイメージの縛りから逃れられないということが日常的にもしばしば起こる。

 繰り返しになるが、本書は蛸についての書物である。それは想像の世界の論理に蛸の表象が、ひいては蛸の存在そのものがどのような影響を被ったかの歴史書でもある。もちろんこれは蛸がカイヨワにとって想像の論理を辿る上で好例だったという話で、蛸に限られた話ではない。地上に存在する生き物、そして存在しない生き物も全て、理性の論理と想像の論理の狭間で揺れ動いているのであり、どちらかのみであるのではない。むしろ蛸の例が示すことは、実在するはずの蛸が押し付けられたイメージによって、実在と非実在の間を行き来していることである。島ほどの大きさもあるいかにもな空想の怪物と同一視される蛸は、それが真実だと受け取られることがなくともイメージとして人々に残る。実在する現実の蛸はイメージによって非実在へと移行する。その領域でのイメージとしての蛸は単純に実在とも非実在とも切り分けることのできないものだと言える。本書が提起する想像の論理、イメージの力の問題は半世紀近く経とうとする今でもなお、示唆に富んでいる。
(2019年11月21日)

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映画「私の知らないわたしの素顔」を見る

 去る2019年11月2日に,私はサフィ•ネブー監督のフランス映画「私の知らないわたしの素顔」(2019年)を試写で見た。ジュリエット•ビノシュ主演の映画である。会場でもらったパンフレットによると、監督のサフィ•ネブーはフランス生まれであるが、父はアルジェリア人、母はドイツ人だという。

 この映画では、主役の女性は、パリの高級マンションに二人の息子たちと住む知的エリートである。日常の現実生活では、彼女は大学で文学を教えていて、ラクロの小説の魅力を語ったりしている。学生たちはパソコンが設置された教室で、あるいはそういう設備のない教室でおとなしく彼女の講義を聴いている。また男と会っているときは、リルケの詩を読んでいたりする。彼女と離婚した夫は若い女性と暮らしていて、二人の息子はときどき父親のところへ行く。これが彼女の現実の生活である。

 しかし彼女には「第二の生活」がある。「第二」といっても、序列があるわけではないが、それは、SNSでつながっている男との関係である。この領域では、彼女は中年の大学教授ではなく、26歳の美貌の女性である。相手の男もそう信じている。これはいわゆる「仮想の世界」であり、実際の現実とは異なった領域で人工的に設定された想像的世界である。40年前ならば、ボードリヤールのタームを使って「シミュラークル」といったであろう。それは現実に対応するもののない「記号だけの世界」であった。

 道具はSNSだけではない。SNSという領域とは別に、もうひとつの世界がある。彼女は小説も書いていて、それが彼女にとっての「第3の世界」になる。その小説も映画のなかで映像化されているし、さらに彼女は精神分析医の治療を受けている。要するにこの映画は限りなく複雑であり、いくつもの世界が混在している。これはダーウィンが『種の起源』の終わりに近い部分で述べた「雑踏の堤」的状況である。

 相互に差異のあるものが集まって「雑踏の堤」を形成する。それがその堤の活力になる。ダ-ウィンは次のように書いている。「いろいろな種類の多くの植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞う。湿った土の中では虫たちが這い回る。このような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生み出されたものであることを熟考するのは、興味深い。」(『種の起原  下』八杉竜一訳、岩波文庫、1990,p.261,訳文は少し変えてある。なお、原文はネットでも読めるが、この拙稿の末尾に「付録」として添えておく。)これは今日言うところのダイバーシティである。つまり、多様な生物の存在が「進化」の源泉であるという考え方であり、「雑踏の堤仮説」(tangled bank hypotheses)と呼ばれているものである。イギリスの週刊科学雑誌「ネイチャー」(2019年10月31日号)に、50万種近くあるという緑色植物についての「多様性の起源」(Roots of diversity)という論文が載っている。その表紙には、多数多様な植物が群生している写真が使われているが、それについて日本語による解説は「表紙は、ダーウィンが『種の起原』の結びで、種間の複雑な相互作用を表す例えとして用いた<雑踏する堤>の例である」と書いている。論文それ自体には「雑踏する堤」というタームは使われていないが、多様なものが生物の存在そのものの根底にあるという考えが示されている。「ネイチャー」の論文はきわめて専門的で難解であり、私には十分には理解できなかったが、しかし「私の知らないわたしの素顔」とのつながりは、明確に確認できた。

 他方、私はいまフランスの社会学者マルセル•モース(1872~1950)の『贈与論』を森山工のすぐれた翻訳(岩波文庫,2014)で再読したところであるが、その「訳者解説」で、森山氏はモースという社会学者自身がひとつの「混じり合い」だと述べている。モースが単なる「社会学者」ではなく、非常に多くのものを混合させているひとだということである。モースは社会学の対象が「全体的な社会的事象」(fait social et total)であることを反復して述べたが、森山工は、そのことを踏まえて次のように来書いている。「モースという人は、この<全体的社会的事象>という用語に擬するならば、<全体的学術的事象>であり、さらに言ってよければ<全体的思想的事象>であって、そういう事象が顕現する<場所>なのである。(中略)モースは全体的な社会的現象について述べていたことばをそのまま援用するならば、『贈与論』というこの著作について、<あらゆることがここで混ざり合っている>と言えるのではないだろうか。」(p.476)。モースを「混じり合い」の世界として見ようとする森山工の見解は注目すべきものである。

 映画「私の知らないわたしの素顔」は、まさに「雑踏の堤」の映画であり、「混じり合い」の映画である。(2019年11月14日)


「付録」

 ‘It is interesting to contemplate an entangled bank, clothed with many plants of many kinds, with birds singing on the bushes, with various insects flitting about, and with worms crawling through the damp earth, and to reflect that these elaborately constructed forms, so different from each other, and dependent on each other in so complex a manner, have all been produced by laws acting around us.’



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S.クラカウアー「サラリーマン―ワイマール共和国の黄昏」(1930年)を読んで

まず本書表題ともなっている「サラリーマン」Die Angestellte(直訳すれば、被雇用者)についてであるが、本文では残念ながらサラリーマンとはいかなる社会的存在か、適確な社会学的ないし経済学的定義が見いだされず、1920年代末で350万人という数字だけが提示されている。訳者あとがきを参考にすると、英語でいうwhite-collar workerに当たるものであろう。工場での現場労働に従事する労働者階級とは区別された、技術者やオフィスの事務員や商業施設のサービス従事者、つまり管理業務者から秘書、経理士やタイピスト、ブティック店員にまで至る新中間層や公務員層を指すものと理解していいだろう。

 

本書紹介の序文(1959年)によれば、サラリーマンがナチス党に占める率は、労働人口にサラリーマンが占める割合に比べ極めて高かったそうである。第一次大戦後のハイパー・インフレで資産を失った旧中間層(小商店主、小地主などの小資産家)がワイマール政治から疎隔され、やがてナチス党に合流するにいたった歴史的事実とある種パラレルな関係にあることがうかがわれるだろう。いずれにせよ、都市化・大衆社会化のなかで急増するサラリーマンという新しい階層の動向・状態にクラカウアーが着目したことには、先見の明があったというべきであろう。しかも彼の手法が当時珍しかった直接現場に赴き、自分の目で観察し、聞き取りを行なうというものであり、その成果が本書だという。

当時の急進左翼やインテリ階級は「観念的な進歩信仰」や理性信仰にあぐらをかきドイツ観念論の伝統!-、生身の人間との接触を欠いていたという。我々は「生存権」を人類史上初めて謳ったワイマール憲法下、社会政策はお手のものだったと思いきや、しかしサラリーマンの職場の生々しい報告はめずらしかったようだ。社会民主党の官僚主義化や急進左翼(共産党?)の現実乖離のため、諸党の理論政策にサラリーマンの動向が反映されていなかったのである。そして放置された脱落サラリーマンたちは、命がけの飛躍でナチスに活路を求めていくのである。

やや脱線する話だが、1930年代の負の経験をドイツ・ジャーナリズムは踏まえているのだろうか。ドイツのいわゆる高級紙(quality paper)と日本の三大紙を比べてみた場合、一番大きな違いを感じるのは、前者の、現場と事柄の直接性・具体性に徹する姿勢である。例えば、インドの僻村でアレバ社による原発の巨大プロジェクトが計画されているとき、その影響を受ける村々の住民のひとりひとりに生活の苦難や事業による地域生活の激変の様子を語らせ、安易な一般化は行なわない。たとえて言えば、住民の顔が見え、記者の聞き取りの姿勢が直に伝わる血の通った記事を書く。日本では記者クラブ制の弊害が言われて久しいが、記事が加工されていて生身の素材の持つ迫力が感じられないのと対照的である。

 


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