宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

鉛とちょうちょう:八木重吉と自由民権運動

 
「小さな詩人について語ろう。とてもちっぽけだが、清らかな詩人について。」そう呟き、違うと思った。最初、私は八木重吉と町田市民文学館で開かれているこの詩人に関係するオブジェの展覧会について書くつもりだった。しかし、八木重吉は私にとってあまりにも繊細で、弱過ぎる。出展されていた手紙や日記の文字も、彼の詩と同様に丸く、細かく、脆い。高等師範時代の課題として描かれた写実画も微細ではあるが、脆弱だ。可愛らしいリボンで留められた手作り詩集。重吉ファンにとってはとても魅力的なものであろう。だが、私の目には妙に女々しく陰鬱なものに写った。私は半ば失望して展覧会場を出た。
町田国際版画美術館が近くにある。イギリスの美術家デイヴィッド・ホックニーの版画展がやっているはずだ。そこに行こうかと思ったとき、文学館の棚に置かれた町田市立自由民権資料館のフライヤーが目に入る。「自由民権資料館開館30周年記念特別展:武相民権家列伝」という文字が読めた。この資料館については以前から知っていたが、町田駅から30分ほどバスに乗らなければ到着できない場所にある。こういう機会でなければ行くことはないだろう。私はホックニー展ではなく、特別展に向かった。
まったくの偶然が二つの事象を結びつけた。常識的に考えれば結びつくことがない八木重吉と自由民権運動。この二つの事象の連続性。それを見出した私は、このテクストを書き始めた。

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非在の存在性:岡本太郎と沖縄

  刈り取られ、だだっ広い空間だけが残った耕地。頭の上に大量の干し草を載せて運んでいる農婦。山のように積まれた干し草は農婦の顔を完全に覆っている。空は高く、からっぽの大地の中に一人。こちらに向かい歩いて来る。「岡本太郎の沖縄」という展覧会のビラに使われていた一枚の写真に私の視線が惹きつけられた。7月6日から10月30日まで、青山にある岡本太郎記念館で開かれている返還前の沖縄の写真展。それを知るきっかけとなったのはこの写真だった。

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意外性の言語学

 アメリカの言語学者ノーム•チョムスキー(1928〜)は、反戦運動家としても知られている。言語学者としては、すでに1950年代までに「生成文法」の理論によって言語学に革命をももたらしたといわれている。「生成文法」について、『広辞苑』(第5版)は次のように説明している。「人間は生得的に文法にかなった文を限りなく生成する能力を持っているとし、その生成の仕組みを文法と考えるもの(以下略)」。チョムスキー自身は「生成文法」についてさまざまないい方をしているが、最近では「言語を得る人類特有の能力」(W.1)とも規定している。

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対象の束と歴史的動き:『「大正」を読み直す』私論


 時代は新たな希望を作り出すものであると共に、時代は掛け替えのないものを抹殺するものでもある。それが、子安宣邦氏の『「大正」を読み直す――幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川』(藤原書店、2016、以下サブタイトルは省略する) に対して最初に抱いた感想であった。日本の歴史も思想もまったく知らない私がこの本について書こうと思ったのは、時代とは何か、時代的精神とは何かという問題を熟考する必要性を感じたからである。だが、そこには一つの大きな難問が横たわっていた。天皇の交代によって決定される時代区分を持つ日本において、明治、大正、昭和、平成という近代以降の変遷を考えることは、ある特異性について考えることのように思われたからである。西暦による連続性を断ち切るようにして出現する元号による時代区分は、新時代の幕開けを明示すことができる一方で、時代的連続性を覆い隠してしまう危険性を内包するものでもある。最初に述べた二つの対立する印象と同様に、そこには時代という事象が持つ二面性がある。この書評ではこうした二面性に関して、それが歴史的動きの中で如何なる連続性や変更性をもたらすものなのかという点を中心として考察していきたいと思う。

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不気味なエクリチュール

 6月11日から7月3日まで三鷹市美術ギャラリーで太宰治資料展Ⅱが開催されていた。展示物の中に「水仙」と名づけられた太宰の油絵があった。それは薄気味悪さや違和感を覚えるものである一方で、哀れさと儚さを内包しているような不思議な印象を抱かせるものであった。「この絵を描いた一年後に太宰は短編小説『水仙』を発表した」。解説文に書かれていた言葉が気になった。小説の存在を知らなかった私は絵と小説との連関性を探ってみたいと考えた。だが雑事に追われ、すぐにこの作品を読むことができず、7月の終わりになり、やっと『水仙』を手にすることができた。強く惹きつけられるような魅力ある作品ではなかったが、探究すべきいくつかの重要な問題が内在している。そう感じた私はこのテクストを書き始めた。
 

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