宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

短歌で読む哲学史3

ルネサンスの哲学
○対立の一致を映すこの世には神の命が貫かれている
ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)はマイスター・エックハルトのドイツ神秘思想と
近接性を持っています。さらに、古くからのディオニュシウス・アレオパギタやエリウゲナ経由のプラトン主義の立場に立ち、ピュタゴラスに似た数学的比喩で神学を表現しました。『学識ある無知』によると、神は極大なものですが、その極大は極小との比較ではなく、同時に極小でもある絶対的極大であるとクザーヌスは言います。神は極大と極小の統一であり、神の本質はあらゆる対立の結合、「対立物の一致」だと述べています。このような神はただ無知の自覚のなかで触れられるものであります。その意味でクザーヌスの神学は、積み重ねの上に成り立つ「学識ある無知」にほかなりません。すべてを内包する神の性格が、空間と時間において展開されたものが、この世界です。「対立物の一致」の時空での展開である世界は「形相」と「質料」から成り、両者を結びつけるのは愛という万物の運動のはたらきです。世界は神の展開である以上、それぞれのものが、すべてを束ねる神の本質を宿しているとクザーヌスは言います。すべてのものが個別に神を映していて、すべてはお互いに調和した関係にあります。そのなかで人間は自覚的に神を映す、万物の尺度であります。そしてひとの魂は知るはたらきの極限で、神との一致に至り得るとクザーヌスは言います。絶対的な極大なる者としての神と制限された極大なる者としての世界を兼ね備えた存在で、神の全一性を備えた人間こそ、イエス・キリストだとクザーヌスは考えます。このキリストへの信仰と愛によって信仰者が結びつくことで教会が成り立っています。クザーヌスの神学の特徴は「世界は神の展開であり、神の生命に貫かれている」として、いたるところに神がいるという考えであります(野田又夫『西洋哲学史』を参考にしました)。
○天上の愛にもとづき神の美を観照できるプラトンの道
マルシリオ・フィチーノの主な関心はプラトン主義でした。フィチーノの主著『プラトン神学』はプラトン哲学とキリスト教神学の結合を主張しました。彼によれば、異教の哲学者もまたキリスト教が示す真理を部分的にではあっても保有していました。キリスト教は初めにロゴス(ことわり)があり、このロゴス(ことわり)はキリストであると言いますが、古代人もロゴスのことを神の子と呼び、それを理性やことばと呼びました。彼らがこうしたことを述べることができたのは、神の助力があったからであり、神は古代人にも啓示をしていたと説きます。フィチーノによれば、異教の哲学者がキリスト教に似た説を唱えたのは(これは歴史的には間違いですが)彼らが旧約聖書から知識を得ていたからであり、プラトンは旧約の秘蹟を詩的な寓話に込めた「ギリシア語を話すモーゼ」にほかなりません。フィチーノによれば哲学者は神の観照によって智者となり、神の善への愛に燃えて宗教者となります。宇宙を構成するものは『プラトン神学』では神、天使的知性、魂、質料、物体だと語られています。神、天使的知性、魂とフィチーノが呼んだものはプロティノスの一者、ヌース(叡智)、魂をキリスト教的に読み替えたものです。フィチーノによれば異教の天の神を意味するカエルス(Caelus)が至高の神を意味し、プラトンの言う天上の美の女神が天使的知性の理解力を、世俗の美の女神が宇宙の魂の産出力を意味します。天のウェヌスがつかさどる天上的な愛は神的な美の観照へひとを促すと言います。世俗的な愛から天上的な愛に目覚めた魂は、一そのものである神の無限の美に到達します。フィチーノが言うには、ひとは愛の導きによって恵み深い神全体を感得し、愛の炎によって万物を愛し、永遠の愛によって神全体を受け取るのです。神への愛によって結びついた人々の友愛をフィチーノはプラトン的愛と呼んでいます。このようにマルシリーノ・フィチーノはプラトン・プロティノスの教説をキリスト教の神の美への観照と結びつけた人文主義者でした。
○感覚と理性と叡智それぞれを行き来するのがひとの両翼
アリストテレスの影響から出発し、新プラトン主義の世界観を加えたピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)は世界を地上界、天界、霊界の三つに区分けします。地上界は月のもとに有って暗く、天界は遊星や恒星の世界で明暗があり、天使や神のいる霊界という光の世界があります。三つの世界は感覚的な生、理性的な生、叡智的な生に対応し、ひとは自由ゆえにこのいずれにも出入りできる特別な者で、その意味でひとりひとりが小宇宙だとピコは考えます。創造のときに神は地上界に生物を作り、天界には霊を住まわせ、霊界には天使を住まわせました。そのあとで神は世界の調和と美を感嘆する者を創ろうと欲し、神自身をモデルに人間を作り、被造物が持つすべての性質を与え、各世界を出入りする特別な自由を与え、世界の中心に置いたとピコは言います。それゆえひとは獣の生にも天使の生にも出入りでき、一なる神との合致にも至りうるとピコは言います。ここにおいてキリスト教と新プラトン主義の同化がくふうされています。ピコは神とは一者であり存在そのものであると言い、「最高の善なる存在」を頂点に考えるプラトンの説とアリストテレスの「神は一者であり不動の動者である」という説の橋渡しをして、それらと神学との融合すなわち「哲学的な平和」の実現を図りました(野田又夫『西洋哲学史』を参考にしました)。
○知ることを妨げる罠を乗り越えて事例を集め法則をつかむ
フランシス・ベーコン(1561-1626)はイギリス近世の経験論哲学を切り開いたひとです。経験に根差した知識をもとに考えていこうという経験論哲学はイギリスで発達しました。ベーコンの哲学はのちの自然科学の方法を予見するものでした。ベーコンは学問の「大刷新」という巨大な書物を構想しました。「大刷新」は来るべき学問の分類や方法を論じる本で、アリストテレスを越えようとする壮大な書物となる予定でした。けれども完成したのはそのなかの『学問の進歩』と『新機関』だけでした。『学問の進歩』で記憶は史学になり、想像は詩学になり、理性は哲学になると言い、精神の三機能で学問の三分類をしています。そして、史学、詩学、哲学に当てはまる細かい学問分類をしています。彼は哲学を自然神学と自然哲学に分け、そのうち理論的な自然学を自らの課題としました。
ベーコンの『新機関』はアリストテレスのオルガノンすなわち論理体系に対抗する新体系というほどの意味で、アリストテレスの論理学とは異なる新たな方法を提示しようとしました。それに先立ちベーコンは学問の妨げになる四つの偶像(イドラ)として、有名なイドラ論を述べています。第一は「種族の偶像」で、人間という種族に特有の認識能力や感情の限界から来る偏見です。人間にはどうしてもそう見えてしまうという、ひとに共通の偏見です。
第二は「洞窟の偶像」で、狭い洞窟に居て外が見えない、個々人の偏り、生まれ、育ち、境遇から来る偏見です。第三は「市場の偶像」で、市場でのやり取りになぞらえたことばの取り違えや恣意的な意見などの偏見です。第四は「劇場の偶像」で哲学史の舞台で繰り広げられる学説上のドラマを真実と取り違えるという偏見です。哲学者が哲学史を劇場のドラマと風刺する、何とも手痛い皮肉です。
ではこれらの偏見を乗り越えた新しい学問とはどのようなものだとベーコンは考えていたのでしょうか。ベーコンは知恵こそが人間の力であると考えました。そしてベーコンは、「自然はそれに従うことにより征服できる」と言いました。これは、自然をありのままに知ることで、初めて理解できるということです。
自然現象の観察と実験により、自然の原因を知ることを彼は目指しました。彼は原因のうちでも形相因すなわち種類の特徴を重視しました。彼は事例をたくさん集めて比較検討して
特徴を取り出すという帰納法を科学にふさわしい方法と考えました。彼の方法を知るのに
役立つのが探究のための三つの表です。第一は現存表と言って、熱を知るためには太陽や炎など熱が実際にある事例を集めた表を作ります。第二が欠如表と言って、熱の場合、熱のない例、氷や零下を挙げます。第三は「比較と程度の表」と言って様々な例の関係を、水は熱を失うと凍るなどと挙げていきます。この表を検討することで、熱という現象の特徴を取り出せるとベーコンは考えました。ベーコンはアリストテレス的な形相を求める、種類の特徴を求めるという意味で中世的な学問を引き継いでいますが、経験と観察によってできる限り少ない法則を取り出すという帰納法の基礎を固め、自然科学の地場作りの仕事をしました。ベーコンの方法には量的にものを計って法則を得ようという視点が欠けていますが、帰納法の科学への適応に寄与しました。
○万人がその戦いを放棄して自分の権利を国に預ける
トマス・ホッブスは自然、人間、社会を因果関係に基づく機械論的な方法で理解して、単純な事実から出発して複雑な社会を説明することを試みました。自然を運動に還元し、人間を
外界への反応としての感覚の運動である心像とその連結である思考で説明しました。人間は感覚の作り出す心像に名まえを与え、複雑な思考操作が可能になりました。外界の経験を重んずるという意味でホッブスはイギリス経験論の系譜にいます。さらに、自然の運動、人間の感覚の運動のうえに人間相互の社会的運動の作用を説明しようとして、主著『リヴァイアサン』は書かれました。リヴァイアサンとは旧約聖書に出てくる最強の水棲動物の名まえから取った国家という怪物を表わす呼び名です。自然状態の人間を想定すると、「万人が万人に対する戦争状態」で「ひとはひとに対して狼」だとホッブスは言います。それぞれが、他をしのぐ快楽を求めて争い合い、殺し合います。けれども生きることは人間の権利であり、自己保存が最優先される自然権を放棄して、契約によってひとは君主や議会や国家に権利を譲り渡します。そこで生まれる権力が個人の生存権を保障します。こうして契約により国家は成り立っているという説をホッブスは説きます。国家を誰もが利用する郵便局のような機関と考え、国家をシステムと考える市民社会の骨格をホッブスは示しました。彼の考える理想の国家は絶対君主制でしたが、彼の契約の理念は三権分立や議会政治の成立を先取りしています。
○生まれつき持つ観念は何もなく白紙の心に感覚が刻む
ジョン・ロック(1632-1704)はイギリス経験論の父と言われています。
彼はあらゆる知識や思考の源泉は感覚であると説きました。
そして生まれつき持っているような観念はひとつもなく、生まれたばかりの心は白紙の紙だといいました。
これはのちにロックのタブラ・ラサ、何も書かれていない板として有名になります。
彼はすべての観念は感覚と内省から生じると言いました。
観念には単純観念と複合観念があります。複合観念は様相、実体、関係の三つに分かれると言いました。様相は事物の有様、実体は、物がそこに有るという確証、関係は事物どうしの絡み合いです。
単純観念のうち、幅を占めていること、運動、固さのような物それ自体にかかわる性質を第一性質とし、色、音、匂いのような単一の感覚から成る第二性質とを区別しました。
伝統的に重要視された、「物が確かにそこに有る」という実体の確証も単純観念の複合体に他ならないとしました。
知識や思考の源泉を感覚という経験に還元したジョン・ロックの観念理論は『人間知性論』にまとめられ、経験論の堅固な土台を築きました。
○有るということは知覚をされること知覚の外はひとに知り得ぬ
ジョージ・バークリ(1685-1753)はイギリス経験論のジョン・ロックの観念理論をさらに徹底し、『人知原理論』のなかで、「有るということは知覚されることだ(エッセ・エスト・ペルキピ)」という説を説きました。
私の目の前にあるこの机は、私によって知覚されることで存在することが確かめられます。私がそこに居ないとき、誰かが知覚しています。誰もいないとき、神が知覚しています。ここで神を出してくるのは苦肉の策でしょうか。
知覚の外に物質や実体はなく、仮に有ったとしても知覚の外へ出ることはできず、心の外を述べることは空論です。外界の存在は観念のなかにあるのです。ジョン・ロックが行ったような、幅を占めること、運動・固さのような実体にかかわる第一性質と色、匂いなどの第二性質の区別も無用であると考えました。心の外に実体があるという考えそのものが無用であるからです。
有るということは知覚されることであるというバークリの徹底した経験論は、外界の存在を無条件に認める人々に大きな疑問符を投げかけました。
バークリは知覚によって知り得る精巧な世界のなかに、全てのもののなかに働いてすべてのことをなさる神の精神の働きを認めました。その意味で無信仰とはほど遠い、心のなかの万有に神は宿ると考えた聖職者でした。
○外界も内にも堅固な基盤なく心はまさに知覚らの束
デヴィッド・ヒューム(1711-76)は徹底した懐疑論者で知られています。ジョン・ロックは外界の実体と心の実体を認め、ジョージ・バークリは外界の実体を認めず、心の実体のみを認めましたが、デヴィッド・ヒュームは外界にも心にも実体と言われるものはないと語りました。
ヒュームは心に現れる知覚を印象と観念に分けて説明しました。印象と観念の違いは、刺激の鮮烈度の違いだとしました。印象が観念を作り、観念も印象を作ります。この二つの区別に、単純か複雑かという違いを加えて心を説明しました。
ヒュームによれば、心は知覚の束、または集合体に還元できます。心は絶えず移り変わる知覚の寄せ集めだとヒュームは考えました。
またヒュームは原因と結果の必然的な結びつきを否定しました。原因と結果の結びつきは、経験的にそうなるという積み重ねから来る信じ込みであり、決して必然が働いているのではないと考えました。因果律の否定は伝統的な哲学の思考の前提を大きく揺さぶるものでした。
道徳的には理性は情念を支配できないが、理性の抑制的効果は認めると考えました。ヒュームにとって道徳は広範囲に及ぶ他者への共感という人類が持つ経験的な道徳感覚に由来しています。
○疑ってすべてを疑い尽しても疑っているわれは消えない
ルネ・デカルトは「われ思うゆえにわれ有り」ということばで有名です。これはデカルトの『方法序説』のなかの決定的なことばです。デカルトは、町を一から区画するように、家を丸ごと建て直すように、頭のなかの建て替えをしよう、諸学の基礎は哲学なのだから、哲学の考えを一から洗い直そうとしました。世間的には中庸とされる意見を表向きは採用して、生活に支障がないように注意しながら、デカルトは徹底した方法的な懐疑を行いました。全て今まで信じてきたことは、人は間違えることがあり、夢のなかでは奇妙なことも当たり前に思い込むのだから、自分が夢のなかにいるのではないと言い切れない以上、すべてを疑わしいものとして退けようと決心しました。そうやってすべてを疑い尽しても、その疑っている何者か、すなわち私の考えは消えることがありません。だから、われ思う、ゆえにわれ有り、は疑いようのない事実に思われました。デカルトはここを疑い尽したあとの砦と考えました。疑っている私は疑いなくいる。人間の思惟の実在は疑いようがない。それからデカルトは神のことを考えます。より完全なものは、無からも自分からも生まれえないのではないか。より完全なものが考えうる以上、それは無でも自分の創作物でもなく、確かに存在する。デカルトは伝統的な神学の思考に従い、神の存在は証明されたとします。この神が欺く欺瞞者だとは考えにくいので、理性によって明晰かつ判明に真であると認められるものは、真として妥当ではないか。ということで、数学の定理や、外界の物体の存在は今や認めても構わないと思うに至ります。神のことを別にすれば、この世に実在するのは、「われ思う」のわれの考え(思惟)と物体の空間的広がり(延長)の二つに還元できるとデカルトは言います。物心分離、物心二元論が打ち立てられます。こう敢えて言うことで、「物の観念的なモデル」のような伝統的な哲学の物と心の混同を断ち切りました。世界の根本は物心分離ですが、人間に目を転じると、物質としての体を持ち、考える心を持っていることも認められます。だから人間に限っては物心合一的な存在だと言えるでしょう。ここで人間が再発見されるわけです。「われ」の考えと数学的に説明できる物質の空間的な広がりの実在を宣言したことで、西洋哲学は科学的思考の基礎を手に入れました。デカルトは近代科学の基礎を切り開きました。
○人間と自然は神の様態で神は自然の隅々に有る
オランダに移住したユダヤ人のスピノザ(ベネディクトゥス・デ・スピノザ1632-77)の『エチカ』によれば、自然は神という実体の様態です。神以外に実体はどこにもありません。神こそが自らの自己原因であり、能動的に存在することを本質としています。神以外のものは、神から生まれた、神の様態です。人間を含めて自然は神の様態です。自然すなわち神という汎神論をスピノザは展開します。神の人が知り得る属性は思惟と延長です。神は考え、無際限に永遠に場所を占めている、すなわち延長しているとスピノザは考えます。神の延長はすなわち全宇宙です。神は自然を超越しておらず、神は自然に内在し、自然の根本原因であります。神は万物の姿に様態を変え、自然のなかに神は様態として偏在します。神の属性として思惟と延長を持って来たのは、実体を思惟と延長としたデカルトの影響です。人間の思惟(考え)と延長(身体)は、神の思惟と延長の様態です。思惟の観念の対象は身体や延長物であり、心身は平行して神の様態として成り立っています。思惟のなかでは想像知が劣り、知性と直観知が優れています。人間の至福は神への知的愛です。それは自然の個物や自己の本質をよく知ることで、個物や自己の本質が神に由来するものであることを知り、「永遠の相のもとに」神を愛するに至ります。神への知的愛が人間にとっての救済であり、解脱であります。人間は自然の一部であり、自然にとってすべては神の必然です。ひとは理性によって、神の必然を自然から学び、自然の必然に満足して生きることを学びます。ひとは神を知的に愛し、神は自己愛の一部として人間を愛して止みません。愛し返されることを期待してはいけませんが、神は神自身を愛するがゆえに、神の様態である人間も愛しています。スピノザの神は人格神ではなく、能産的自然であり、真の存在者であり、万物の根本原因です。自分以外に原因を必要としないのは神だけで、万物は神という原因の上に成り立っています。スピノザの考え方は、主知主義的な汎神論と言われています。
○散らばった窓を持たない単子たち自発作用で調和している
G・W・ライプニッツ(1646-1716)の『単子論(モナドロジー)』によれば、絶対的な実体は神であり、神の創造によって有限な微小な実体としての単子(モナド)がこの世界を構成しています。
この単子はそれぞれに異なっていて、変化への欲求や自分をあらわす表象の力を持っていて、ひとつひとつの単子の中に全宇宙を映す力が内在しています(モナドは宇宙の鏡)。
単子は別の単子の介入を受けず、何物かが出たり入ったりする窓を単子は持ちません。
単子は個々の自発作用によって動いていて、全体として宇宙では神があらかじめ決めたやり方で単子どうしの動きの調和が保たれています(「予定調和説」)。
単子はそれ以上分割できない極小の実体です。
神の創造と終末以外には単子を生じさせたり消滅させたりすることはできません。
神は無限な実体であり、単子はその存在を神に支えられた有限な実体であります。
単子は変化への欲求と自己をあらわす表象作用を持っており、広い意味で単子は魂に似たものです。
けれども厳密に魂を持っているのは人間と動物だけであり、それは記憶や意識を持っています。
単子が神の意志に逆らって消滅しない以上、単子は永続的であり、厳密な意味での死というものはありません。
このように宇宙の万物は単子によって作られていて、宇宙は神の決めたやり方で調和しているという説をライプニッツは説きました。デカルト、スピノザ、ライプニッツの三人の哲学を大陸合理論というふうに呼んで、イギリス・アイルランドの経験論哲学とともに近世哲学の二本柱と考えられています。
○生まれつき理性によって何ができまたできないか洗い直そう
カントは理性批判ということを試みます。『純粋理性批判』は理性を批判するのではありません。理性に何ができて何ができないのか、その範囲を見極めようというのです。経験から得られるものを全て度外視したとき、理性を用いてどれだけのことができるのか書き記そうというのです。生まれつき持っている認識能力を吟味するというのです。生まれつき持っている純粋理性を見極めることはあらゆる哲学の確かさの基準になります。生まれつき持っている悟性(理解力)および理性は、一切の経験に関わりなく何をどれだけ知り得るかを問い直そうというのです。わたしたちが物を何の知識もなく理解するのは対象が生まれつき知り得る概念に従って頭に入るからです。このように先天的な能力で知り得るのは私たちが見聞きする現象であって、それは物それ自体をじかに知ることではありません。物それ自体は知り得ず、感性的直観の的となるのは現象としての物なのです。私たちの知る力は対象が呼び覚ます経験から生じるのではありません。では理性はどのような先天的な、認識の原理を生まれつき持っているのでしょうか。延長および形態という空間を知ることがまず、理性による純粋直観に数えられます。空間がまったく存在しないと考えることは絶対にできません。空間の直観は一切の経験の前に先天的に私たちの心に備わっています。これこそ、対象を外にあるものとして知る基礎となります。次に考えられる理性の純粋直観とは、時間というものです。
時間は経験から導き出されたものではなく先天的に理性に与えられているものです。時間と空間は二つの先天的な認識の源泉です。空間と時間の純粋直観を軸に、理解(悟性)の枠(カテゴリー)が成り立ち、論理学の思考が可能になります。このような論理学は先天的な能力で成り立っています。カントは純粋理性から出発して、実際の行為の良し悪しを規定する『実践理性批判』を書きます。そこでは真に道徳的な行為は義務から意志によってなされなければならない、という考えが展開されます。続く『判断力批判』によれば、人や動物のような有機体は自然の産物であり、各部分が有用な全体を成すため、合目的に作られています。そのように自然が合目的に作られていることから、反省的判断力は叡知的存在者=神の創造を確信します。創造の究極目的は道徳法則のもとに立つ人間であり、実現が期待される最高善だとカントは考えます。
○神という精神が自己を顕わして歴史のなかで展開をする
『精神現象学』のなかでG.W.F.ヘーゲル(1770-1831)は、感性で「いま、ここ、これ」を捉える意識の出発点から、絶対者である神を知る、絶対知までの道のりを辿ります。この道を意識は小説の主人公のように、自ら成長しつつ辿って行きます。意識がどのような考えによって何を知るかに応じて、知性のあり方が変化して行きます。個人の意識の遍歴が、人間精神の歴史に重ね合わせられて、論じられます。個人の意識の発達と同じく、歴史は絶対精神である神の自己展開の場でもあります。ヘーゲルは神の自己意識が人間の神意識と等しく、神のなかでの人間の自己意識にも等しいと考えます。神が自分を自己認識することが、人間が神を知る歴史であり、人が神という絶対知に至ることでもあるのです。神は自己を分裂させて自己とは別の物となり、主体として自己を改めて知り、自己を回復します。哲学は意識を神の知という絶対知へ導く、真の精神すなわち神の自己展開の場であります。
神は歴史と哲学の場において自らを開示するとヘーゲルは考えます。歴史がナポレオンに至り、哲学がヘーゲルに至る時点で神の自己展開は頂点に至ろうとしているとヘーゲルは考えていました。
○単独で実人生の方向を選び取りつつ絶望を抜ける
デンマークのコペンハーゲンに生まれたセーレーン・キルケゴール(1813-1855)は単独者、例外者として生きた哲学者です。キルケゴールの著作『イロニーの概念について』では、「ソクラテスは皮肉屋という生き方を選び取った人物であり、絶えず物事に対してほんとうにそうかと問い直し続けた人物でもあって、自分はそこの所がロマン派の世間への離反と通じるようで好きである」と言います。それに加えて、「不安と絶望に向き合うことで、ひとは自分らしく生きて行く道が開ける」という見方がキルケゴールにはあります。世間と折り合いをつけずに、不安と絶望に向き合って単独者として生きようとするのです。
また、『反復』という著作は、婚約を破棄したキルケゴールが恋人レギーネとの恋をもう一度やり直そうという希望を込めて書かれた本です。反復とは、日々を新たに生き直そうとする願いです。自分が望まなくても、ひとの暮らしのなかで何度も同じものがひょっこり顔を出すということもあるから、「人生のなかの反復」というのは考えてみると広がりのある切り口です。
また、『不安の概念』では、不安とは「自由のめまい」だと言われています。それから、不安や絶望に向き合うことで自分に目覚める、とも言います。これはハイデガーの『存在と時間』に影響を与えました。
主著『死に至る病』は、絶望の考察です。抽象的な観念ではなく、絶望という、一人ひとりの現実の人生(実存)に根を下ろすテーマを取り上げたという意味で、彼は実存主義の先駆けと見なされています。死に至る病とは絶望であり、絶望と向き合うことで自分らしい生き方を探しはじめるのです。ここまでは、ハイデガーに影響を与えた話の運びです。それに加えて、キリスト教的な着地点が見出されます。絶望とは神への罪である、信仰に救いがある、と結論づけます。キルケゴールの文章は、「詩人とは罪である」とか、「真理とは主体性(自分で選び取った人生の決断)である」とか、単独者の旅と追憶が生んだ断言が光っています。これもまた、キルケゴールの持ち味です。
○現れるこの世の中の本質は生を目指した盲目な意志
アルトゥール・ショーペンハウアー(1788-1860)の主著は『意志と表象としての世界』です。これは若きショーペンハウアーが多分に直感に基づいて書き上げた大著です。それでは「意志と表象としての世界」とは一体何でしょうか。著書の初めでショーペンハウアーは「世界は私の表象である」と言います。これは、知覚によって私に現れてくるものが世界であるということです。私が意識で知り得ることが私の世界であるとも言えます。これだけでも大きな断言ですが、ショーペンハウアーはさらに言います。表象としての世界を貫いている根源があるというのです。世界を根底から成り立たせている根源は意志だと言うのです。表象であるこの世界は本質的に、自己を増大し、維持しようとする盲目的な生への意志によって貫かれているとショーペンハウアーは言います。万物が自己を増大し、維持しようという意志に貫かれている。意志こそが世界を成り立たせている根本的な力です。カントは主観の外にある物それ自体は知り得ないと言いましたが、ショーペンハウアーは物それ自体とは意志であると言い切ります。万物が自己の増大と維持のためにせめぎ合い争い合っているこの世界は、考えうる限りで最悪の世界だとショーペンハウアーは言います。その意味でショーペンハウアーは極端にペシミズム(悲観主義)的な哲学者です。各自の意志による闘争が世界の本質です。生とは苦しみ以外の何物でもありません。生きとし生けるものが互いに相手の苦しみに共感する、そのことが倫理の原点になります。他者の苦しみへの共感、すなわち共苦が何をなすべきかの基本となります。これがショーペンハウアーの倫理学です。生の苦しみから逃れるには二つの解脱の道があるとショーペンハウアーは言います。ひとつは芸術による美的な法悦による解脱の道、もう一つは生への意志を諦めることによるいわば宗教的な解脱の道です。インドのヴェーダ聖典に影響を受けたショーペンハウアーは、涅槃に至る解脱の道を最終的な解決策としました。世界を生への意志として捉えたショーペンハウアーはキルケゴール、ニーチェとともに、生の哲学の提唱者と言えます。
○人間は乗り越えられる生き物だ その超人の到来を告げよう
○万物はみな自らを乗り越えてより強くなる意志を備える
○繰り返しこの人生を生きたいと言い切れるほど強く生き切れ
○行く道と今来た道は輪になって繋がっている耐え難き永遠
苦楽を経て歓喜に至るディオニュソス的な生こそ、ギリシア人の示した有るべき生き方だとフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は言います。ディオニュソス的な生を表現するためにアポロン的な明朗な造形美が悲劇では活用されたのです。ギリシア人が示したディオニュソス(生の陶酔)的なものとショーペンハウアーが示した生への意志を重ね合わせ、それを肯定したところに、ニーチェの『悲劇の誕生』の独創性はあります。『道徳の系譜』や『善悪の彼岸』によれば、この世を否定してあの世(イデア界、天国)に価値を置くプラトニズムやキリスト教などの既存の道徳は弱者による怨み(ルサンチマン)に基づく価値転覆の試みであり、ニーチェは今や神は死んだ、と説きます。神という絶対者の死のあと、何の目的もなく、正しいものは何もないというニヒリズム(虚無主義)の時代を私たちは生きています。このニヒリズムの乗り越えとなるのが、永劫回帰と運命愛、それに超人の到来です。永劫回帰とは、一切は過去に無限回繰り返されてきたし、一切は未来も無限回永遠に繰り返され続けるという一種の啓示です。その人生一切を無限回繰り返すことにお前は耐えられるか、とニーチェは各自に問いかけます。永劫回帰の思想は生々流転のこの世界、生成の世界に永遠の刻印を押すものだとニーチェは言います。この人生を苦楽も含めて肯定し、よし、もう一度、と言えるぐらい強く生き切れとニーチェは言うのです。ニーチェは苦楽をディオニュソス的に肯定する「運命愛」を来るべき価値とします。ニーチェによれば万物にはさらなる強さを目指す力への意志があります。すべては力への意志に従っていて、この世界の根底の有り方は力への意志だとニーチェは言います。ひとはこの力への意志に根差したディオニュソス的な人生の肯定を何度でも選び取る超人の到来を祝福すべきだとニーチェは考え、『ツァラトゥストラ』の主人公ツァラトゥストラにその超人のイメージを託して美しく語りました。主著となるはずの『力への意志』の断片を残してニーチェは正気の世界から遠い人となって晩年を送りました。

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短歌で読む哲学史2

教父哲学
○ギリシアの賢人たちもキリストのロゴスの種に与かっていた
ユスティアヌス(100-165年頃)
パレスティナのサマリア人ユスティアヌスはストア派からアリストテレスを祖とするペリパトス派、ピュタゴラス派を経てプラトン哲学に出遭いましたが、キリスト教に出遭ってはじめて真の哲学を見つけたと感じました。哲学者たちは真理のいくつかを発見したけれども、それは神によって知性に種まかれたロゴス(ことばのはたらき、ことわり)による作用だとユスティアヌスは考えました。完全なるロゴスはキリストに他ならないので、知性に与かって行為する者はキリストに与かって行為するのであり、イエス以前の賢人は、信仰者
アブラハムだけでなく、ギリシアの哲人たちもまた、キリスト以前のキリスト教徒だとユスティアヌスは考えました。あらゆる真理は一つであり、哲学的な知とキリスト教の信仰は別物ではないと考えました。というのも古今の賢人は神的ロゴスであるキリストに与かって知性を発揮したからです。古代哲学を知ることはキリストの神的ロゴスを知る助けとなり、
決して異教徒の本を読むことがキリスト教理解の妨げにはならないのだとユスティアヌスは考えました。
○神をより深いところで知るために情念を越え賢明に生きよ
アレクサンドレイアのクレメンス(150-215年頃)はグノーシス派を退けつつ、グノーシス派への恐れから学問から信仰を守ろうとする反学問の人々にも反論しました。信じる者は
信仰で得た真理を知的に洞察して自らを深めます。つまり信仰者は自ら真偽を区別する認識者としても成長すべきなのです。知性は神に由来する神的ロゴスに由来します。クレメンスはこうした考えに基づいて信仰理解のために古典哲学を自由に活用します。プラトンやフィロンの考えを取り入れたクレメンスは、人間精神は神を汲み尽すことはできませんが、神への直観へと近づくことができると考えました。けれども、神を知るためには倫理的な完成が求められ、人は神の恵みに支えられながら、自らの情念を支配しなくてはいけません。クレメンスはストア派が唱える自然の摂理に従った人生を受容しました。自然の摂理に従った人生とは、神が創造の際自然に与えた目的に沿った人生であり、神の意に沿った人生であるとクレメンスは言うのです。
○形相と質料は神が善意から創造をした被造物の一部
○魂は肉を離れて最後には善なる神のふところへ帰る
オリゲネス(185-254頃)の思想はキリスト教の学問的な整理に大きく寄与しました。オリゲネスはキリスト教の教えとギリシア哲学に大きな一致があることを評価する一方で、ストア派の運命論やアリストテレスの形相(かたち)と質料(素材)の 二元論を退けています。形相と質料は被造物を作る要素に過ぎず、被造物は神が善意によって無から創造したものだとオリゲネスは説明します。魂の創造について、初め神はすべての魂を、肉体を持たない純粋な精神として創造したけれども、それぞれの魂が犯した罪の程度によって質料のなかへ落ち、肉体を持つに至ったと彼は言います。けれどもオリゲネスは神が人を善へと立ち返らせるための教育の場として肉体を考えています。けれども善なる神は最終的にすべての魂を自らのもとに還帰させ、永遠の救いを与えるとオリゲネスは考えました(「万物の回帰」の説)。神へ帰る道において人は福音の教えの掟を守らなければいけません。この福音の掟はストア派の自然の摂理にも、モーゼの律法にも一致しています。福音の掟を守りながら、 ひとは感覚的な生を善そのものへと結びつけ、自らの霊を救いへ至らしめ、神に帰って行きます。このように東方のギリシア教父たちは神との神秘的一致、神化(テオーシス)を最終目的としますが、西方のラテン世界では信仰の基礎とその意味を説明することに力を注ぎました。
○自らを神の灯りに照らされて神の愛へと遂に目覚める
アウグスティヌス(354-430)の代表作は、過去の過ちの遍歴を回想し、神を称える『告白』です。アウグスティヌスは神と対話し、キリスト教の眼で見て過去の自分がどう誤っていたのかを振り返り、神を絶えず称えます。彼は善悪二元論的なマニ教に帰依した過去を持ち、懐疑論に耽溺し、敬虔なクリスチャンだった母親との離反に苦しみ、神に帰依するに至った道のりを告白します。
アウグスティヌスの思想の特徴は自己自身への立ち帰りです。自己自身を経験の確実な場所ととらえ、神の灯りとしての知性に助けられて、魂の眼によって、自分を越えたところに、真理であり、不変の光であり、永遠である神と出会います(『告白』第7巻第10章)。彼は「私は有る」、「私は知る」、「私は意志する」という三点の一致を通して、父と子と聖霊の三位一体に類推的に触れることができると考えるに至ります(『告白』13巻11章)。彼は神の恩寵、神の愛にすがりつつ自らへ向き直り、神への信仰を成就するというキリスト教の基本的な態度を確立しました。
○魂は深い所に潜り込み神の光で何も見えない
ディオニュシウス・アレオパギタの著作と称される一連の書物があります。この(偽)ディオニュシウス(480年頃シリアで活躍)が考えるには、万物の根源である神はこの世を越えた一者です。その溢れ出す善から万物が成り立っています。神について語るときには感覚的な象徴で捉えられます。イエスの象徴としての魚、十字架などです(象徴神学)。次に概念で言い表すならば、善、存在、生命、知恵、力、平和、静止と運動、支配者、一者というような完全性を表わすことばで語ることができます(肯定神学)。他方、有限な性格を持つ概念を退けるというかたちで、幻ではない、死すべき者ではないというふうに否定的に語ることができます(否定神学)。このなかでは否定神学が神を語るのに最もふさわしいと彼は言います(『神名論』より)。けれども精神は深化の最終段階では無知の黒い闇に入り込みます。これはただの暗闇ではなく、神の光が多すぎて眼が眩むのです。これこそ神と一致して完成に至る、神と瞑想者の神秘的合一の道です(『神秘神学』より)。ディオニュシウス・アレオパギタの思想は東方教会の神学を基礎づけ、中世西方の神秘思想にも影響を与えます。彼は『天上位階論』では九つの天使の位階を整理して述べ、『教会位階論』では教会を九つの位階で説明しました。
○万物は神の意志から生まれ出て救済されて神の地へ帰る
ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(810頃-877以降)はカール大帝の元のカロリング・ルネッサンスと呼ばれる学芸復興期を代表する思想家です。彼はディオニュシウス・アレオパギタの著作をギリシア語からラテン語に翻訳し、註をつけました。彼は神の予定と人間の意志の問題に踏み込み、神は善にして一なる存在で、神の意志も善であるから、神は予定をもって人間をただ善のみへと動かすと強調しました。神はあらゆる認識を越える一であり、ただ否定的にしか語れないとエリウゲナは述べました。ただし被造物の全体と世界創造のモデルとしての理想界は神が自らを映し出したものに他ならないと言いました。エリウゲナは創造も世界のありかたも一から多への発出と多から一への還帰として語ります。けれども神の創造の業は自由な意志によるはたらきであり、神への還帰はキリストに導かれて被造物を神と再び一致させる行為だと言います。被造物が救済と神化によって完成態に達し、
神に帰って神とひとつになるとき、「創造されない自然」である神は創造の業を終えるとエリウゲナは考えました。
中世神学
○それよりも偉大なものは何もない神は必ず実際に有る
アウグスティヌスに従い、理性と信仰、論理と瞑想、修道院神学とスコラ(神の論証)的神学の最初の結合を成し遂げたのが、カンタベリーのアンセルムス(1033/34-1109)という人物です。彼の神学は信仰によって受け入れられた問題を、聖書や教父の権威によらず、ただ理性のみによって証明しようとします。彼の方法は「知的理解を求める信仰」と呼ばれています。信仰は必然的に知的理解を得ることを求めるとアンセルムスは言います。このような知的理解は来るべき世で与えられる神の直観の先がけとなるものだと言うのです。
アンセルムスは『プロスロギオン(知的理解に向けて)』のなかで神の存在証明を展開します。神は、それより偉大なものが何も考えられない何かであり、それより偉大なものが何も考えられない何かとして捉えられるものは、単に知性において思考されているだけのものではありえず、必ず現実においても実在すると言います。なぜなら思考のうちに留まるならば、思考の外により偉大なものが考えうるという矛盾が生じるからです。このような、神への精神の疑いえない方向性のことを、アンセルムスは精神の真っ直ぐさと呼びました。この
精神の真っ直ぐさが、真理や正義や自由意志を成り立たせるとアンセルムスは説きました。
○各々の個々を離れた普遍とは唯のことばか実のあるまことか
ポルフュリオス(234-305)の『エイサゴーゲー(手引き)』という論理学の本の翻訳を通じて、中世神学は普遍論争という議論を始めました。個々の人やものではなく、「動物」や「人間」というような、広く多くに当てはまる普遍的なものがことばにはあります。この普遍的なものは単なることばだけのものなのか、内容ある概念なのか、内容ある概念ならば事物に内在する本質が対応しているのか、本質は複数なのか単数なのか、普遍的なものはどの程度実在的なのかといったようなことを巡って論争が繰り広げられました。
ロスケリヌス(1050頃-1125頃)は、普遍的なものはただの音声に過ぎず、多数に適応されるが、事物は個別的なのでこの音声には対応する実在や本質は存在しないという、普遍は名前に過ぎないとの立場、唯名論の立場に立ちました。
シャンポーのギヨーム(1070頃-1122)はこれと正反対の実念論を唱えています。ギヨームは普遍的なことばに対応して、普遍的な「もの」が事物側に実在していると説きました。
普遍的な「人間」や「動物」といったものが実在すると考えたのです。
唯名論はひとつのことばを多数のものに用いることの意味を説明できていないし、実念論は同じことばで呼ばれるものが多数の個別的実在だということを見失っています。
○普遍とは単なるものや音でなく知性の捉えた意味を表わす
アベラルドゥス(1079-1142)は、普遍は「もの」でも「音声」でもなく、人間知性に固有のはたらきであり、知性が個々の事物から抽出した本性を表現することばないし意味だという解決策を提示しました。
○神学のもつれを理性で解き明かし体系的に過去をまとめる
アベラルドゥスは教父や他の著作から対立する神学上の意見を集め、理性的な討論によって解決しようとしました。このような問題解決の積み重ねで神学の体系を構築し、この体系から個々の教父や権威者の発言を位置づけることを目指しました。
○神の意に耳を傾け選び取るひとの意図こそ行為を良くする
アベラルドゥスの倫理思想から言うと、行為が善いものとなる理由は、それを導く意志の内的な意図が善いことにあります。その意図の善さは、良心において聴き取られる神の客観的意志を理解して人間の意志が内的に従うことに基づきます。この意図と良心の重視は神の意志に基づくので、ただの考え次第にまかせることではありません。
アベラルドゥスの論理的、批判的な合理主義や個人的主体性の強調は、クレルヴォーのベルナルドゥスなど多くの敵対者を生みましたが、成立しつつあったスコラ学には強い影響と成果を残しました。
○瞑想し乳と蜜とが流れ出し神と人との結婚を祝う
○神を想いわれを忘れて無垢となりまったく神のうちへと移る
クレルヴォーのベルナルドゥス(1090-1153)は、その豊かな弁舌と柔和な人柄で蜜の流れる博士と慕われました。瞑想的で伝統的な修道院の傾向を継ぐ神学者であったベルナルドゥスは、アベラルドゥスやギルベルトゥス・ポレタヌスらの主知主義的で合理的な神学に対して戦い、数多くの甘美な説教を行って宗教性の回復を呼びかけました。
彼は旧約聖書の雅歌に歌われる花婿と花嫁の愛を、花婿キリストに対する花嫁たる信仰者の無垢な愛情と捉え、敬虔な信仰の中心に据えます。
聖母に対する幼子イエスの従順、父なる神に対するイエスの従順、天使のお告げに対する聖母の従順を想い、信仰の糧としました。
ベルナルドゥスは人間の自由について、神の似姿である本来の人間の持つ「自己決定の自由」の意義は、原罪からの許しというキリストの恩寵を受け入れて、善をなすことにあると言います。これを「恩寵の自由」といいます。
そして隣人を愛し、神を敬う善をなすとき、神に近づく者へと高められます。驚くべき仕方によって自己を忘れ、自己を完全に放棄するときに、まったく神のうちに移るとベルナルドゥスは言います。 
神の意志とひとの意志との愛による合一は、「栄光の自由」を約束されています。そこに至って、将来の完全な救済において約束されている永遠の生命の至福においては、何の不安もない完全な善を享受することになります。このようにベルナルドゥスは人間の本性、救済史、至福の追求について、スコラ学の分析とは異なり、人間の動的な全体に光を当てました。
○放射する神の光に照らされて物の道理が明らかになる
ロバート・グロステスト(1170頃-1253)は光の形而上学と言われる哲学を唱えました。世界の創造は光あれという神のことばによって、一点に光が生まれることから始まります。この光があらゆる方向に向かって球状に放射し、広がってゆくことで空間が成り立ちます。この光は天球を形成し、屈折や反射といった運動の法則を決定します。彼の学問は光の運動に基づいた幾何学的、数学的な方法に立ちます。心のありかたを決めるのも、神の光です。ひとの知性は、神の精神的な光に照らされて、ものごとの真理を見極めることができる、とグロステストは言います。
○考えは数学により固まってじき訪れる終末を待つ
ロジャー・ベーコン(1213頃-1291以降)は、グロステストに従い自然のすべてのエネルギーを光に還元できると言い、数学を諸学の基礎と説きます。数学的な方法が優れているのは、無知を取り去るのに最適だからだとベーコンは言います。単なる思考は数学的に定式化されて確かなものとなり、論証は経験に裏づけられて説得力を持つと言います。彼がもくろんだキリスト教的な人間学のためには、アリストテレスの進歩性を活かすための教会での根本的な学問の改革が必要だと説きます。同時代を改革の時代、移行の時代だと言うベーコンの思想は、フィオーレのヨアキム(1130頃-1202)の「キリストの時代が間もなく終わり、最終的な聖霊の時代が来る」という終末論の影響がみられます。
○創造の念頭にある永遠の神のイデアを万物に見る
ボナヴェントゥラ(1217/21-74)は哲学とは神学のなかに位置づけられるべきだと考えました。アウグスティヌス、ディオニュシウス・アレオパギタ、アンセルムス、ベルナルドゥスの瞑想的、信仰的な伝統を踏まえて学問として花開かせようとしました。ボナヴェントゥラはアリストテレス的に、有限なものは質料(素材)と形相(かたち)から成るとしましたが、質料は単なる物質だけでなく、精神的な存在をも規定すると考えました。半面プラトン的な立場に立ち、個々の存在の真の理解のためには、個々の存在をより高いものの影として見ることが必要となると説きました。限りあるものの本質は創造の際神の念頭にあった永遠の原像=イデアに従って作られています。ボナヴェントゥラは永遠の原像というプラトン的な考えを、キリストを介在させて理解します。そしてすべてのものは神の内なるロゴス(ことわり・ことば)であるキリストにおいて、創造に先立って思念されていたのです。それゆえに、キリストは全現実の中心であり、すべての認識の鍵であるとボナヴェントゥラは言います。アウグスティヌスが言うように、キリストは魂の内的な光でありその照らしと教えによってひとは真理を理解できます(照明説)。ひとは、外的自然に神の足跡を見て、見聞きしたことを手掛かりに魂を内に向け、神の神秘の感得に至ります。自然から出発し、魂を経て神に至るこのような立ち帰りは、永遠を求める全人格的な営みであります。魂は神への愛に満たされてひととして成長するとき被造物に神を見て取る知恵を得るのです。魂は神の足跡を見て神の神秘を感得する内的な光を持っているとします。
○ひとの知る神の名は有りて有る者でひとの幸とは神をみること
トマス・アクィナス(1225頃-1275)は信仰と理性、福音に帰れという運動とアリストテレスの受容を両立させた最大の神学者です。彼によれば、理性は根本的に信仰に開かれたものであり、理性が踏み出すことのできる最後の一歩は自己を越えて信仰を受け入れることなのです。理性が信仰を受け入れるとき、迷信に落ち込むのではなく、理性は自らを完成し、高次の理性になるとトマス・アクゥイナスは言います。トマス・アクゥイナスは神に由来する「存在」をものごとの「本質」から区別し、神に由来する存在をものごとの本質が分け持
つという「存在」の思想を説きます。ひとが神に由来する「存在」を知るのは、「類比的なことば」からであると彼は言います。被造物は神から存在を分有し、神という究極の原因によって存在すると言います。ものごとには原因がなければなりませんが、それ以上遡れない究極の原因がなくてはならない、それが神であるという神の存在証明を彼は試みています。神は人智を越えたものとしてひとからかけ離れているので、神について語るときは類比でしか語れないと言います。ひとのわかる範囲で最も適切な神の仮の呼び名は「存在」であり、すなわち出エジプト記で神が名乗った「有りて有る者」だとトマス・アクィナスは言います。人間の究極的な至福は、最終的に知性のはたらきで神をみることだと彼は言います。ひとがじぶんを完成させてゆくはたらきは、神からのはたらきかけによって良心として基礎づけられ、助けられ、実りに至るのであり、ひとの究極目的は、恩寵の助けによってのみ達成できる神の知的な直観だとトマス・アクィナスは考えました。
○神を知るひとの力の尊厳を精妙博士固く信じる
ヨアンネス・ドゥンス・スコトゥス(1265頃-1308)は精密な議論ゆえに「精妙博士」と称された、スコットランド生まれの神学者です。スコトゥスが心を砕いたのは、人間のうちに直知と愛による神との一体化に高められるような根元的な可能性があること、そのような高い人間性を確立することでした。自由な人間の意志は知性に対して優位に立つと言ったのもそのためです。人間の知性の扱うものは第一にすべての有るものにほかならぬと彼は言いました。そして人間の知性が、限りある者と無限な神を問わず、すべての有るものに対して根元的に開かれていると説きました。これも高い人間性の確立にかかわります。また、一般的な人間性と個々の人間をひとが知るのはものごとの共通本性と個体化の原理をともにひとが知るからであるという説を立て、知るはたらきの妥当性を基礎づけ、人間の知性の根源的な能力を証明しようと試みました。スコトゥスは「考えられうる限りでの最高のもの」という神概念は矛盾がなく、実際に考えうる以上、神は存在すると言います。このような神の存在証明を精密に展開しましたが、これも人間の知性が神の本質を把握できることを示そうとしたものです。
○剃刀で無用な思弁切り捨てて全能の神の領分を守る
ウィリアム・オッカム(1285頃-1349)は個物だけが実在するという命題を主張し、ひとの認識の全体が個物についての直観的認識に基づくと考え、経験主義的な傾向を示しました。
オッカムの剃刀として知られる思考節約の原理、「必要なしに多くの原理を定立してはならない」は十分な根拠・理由なしにはいかなる命題も主張してはならないことを意味していました。これによってオッカムは、多くの無用な形而上学的思弁を取り除こうとしました。
また概念やそれを表現する名辞(人間など)は普遍的本質や純粋なイデアをとらえて表示しているのではないと彼は言いました。名辞がとらえるのはあくまで具体的な個物です。ただ知性は似たところのある個物を同じ概念でとらえます。その意味で概念は多数のものの記号であり、その意味でのみ普遍と言えます。それ以上に普遍が普遍として実在することは決してないとオッカムは言います(オッカムの唯名論)。オッカムは神の全能をあらゆる理解の中心に据え、あれこれと神を限定する古典的形而上学を取り除こうとしました。無用の形而上学を切り捨てるオッカムの態度は、宗教改革者マルティン・ルターの宗教観に影響を与えました。
○魂が自分を無にして空となり神と人との境が消える
マイスター・エックハルト(1260頃-1327/28)は、魂が自我と無知から離れ、被造物のしがらみから離れて自由になるとき、魂は無に転ずると説きます。この魂の無を神が底から支え、魂を神のうちに保つと言います。すべてを捨て去った貧しさの極限で、ひとは私と神とが一つであることを受容します。神はその独り子を魂のうちに生み出します。ひとが魂のうちで神の独り子となって自分を手放すときに神の本性はひとの魂と一体となります。私が神をいかなる像の助けもなく、じかに経験するとき、神は私となり、私は神とひとつとなってはたらくと言います。「ひとが貧しさとなり無となって神の子と等しくなり、媒介なしに神とひとつになれる」というマイスター・エックハルトの神秘思想はスコラ哲学から危険視されましたが、後のキリスト教の多くの神秘思想に大きな影響を与えています。
(教父哲学、中世神学については参考文献にリーゼンフーバー「西洋古代・中世哲学史」平凡社を用いた。)

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短歌で読む哲学史1

○万物にある共通のみなもとの正体探り哲学始まる
「万物のもとは水である」とイオニアのミレトスのタレス(B.C.585頃活躍)は言いました。それが西洋の哲学の始まりだと言われています。万物のもとは水とは一見、突飛な迷言に見えますね。なぜ、タレスの一声が哲学の産声となったのでしょう。それは万物というありとあらゆるもの、森羅万象をひとくくりにしたこと、それらには共通のエレメントがあると見抜いたことが、世界の洞察の学問としての哲学の基礎と考えられたのです。なぜ、水なのか、他のものではだめなのかと疑問に思いますね。水は命を育むものだからとか、水なしには生きていけないから、とか形が自在に変わる中立的なものだからとかいろいろ説明されますが、タレス以降の人々も、森羅万象のエレメントをあれこれ想像してみました。
○万物のもとは水だと言うけれど無限定ではなぜいけないか
タレスの後のアナクシマンドロス(B.C.610-546/5頃)は「万物のもとは無限定なものである」と主張しました。
すべてのもののもとであるなら、はじめは性質が限定されていないものに違いない、水では
まだ不十分だ、正確には無限定なもの(ト・アペイロン)でなくては説明ができないと言い出したのです。すべてがそこに帰って行き、そこから生まれてくるものは運動しているうちに暖められて火になり、冷たい状態では空気や水や土になる。無限定なものは自ら運動する
活力のあるものですから、これはうごめくモノがいきている、と考える、すなわち物活論の一種です。
○万物はすべて不正を償ってそのみなもとへと帰り消えゆく
「すべてのものは、もとのものへと必然の定めによって消滅してゆく。」ここまでは何とかわかりそうです。けれども「万物はその犯した不正のゆえに、秩序にしたがって、罰をうけるのだから」とアナクシマンドロスは言っています。何やら宗教的であり、法の起源みたいな話です。いろんな方向に広がってゆく話です。すべてのものがもとのものへと帰って行くのは不正の償いなのだというこのことばは、自然学と倫理学や諸学が未分化のまま説明原理として出されている、と言えるでしょう。
○万物のもとは命の息であり空気であると言おう私は
アナクシメネス(B.C.546頃活躍)はもとのものは空気であると考えました。これは古代ギリシアでは自然な考えです。ギリシア語の魂、プシュケは気息と繋がることばです。息をすることで人は生きている。最後の息を吐くと人は死ぬ。ということで魂は息と考えられました。それで万物のもとは息であり、空気であると考えられました。空気は魂であり世界も人間もこの魂により生かされているというのです。空気が薄くなると火になり、濃くなると水になり、土になると考えられました。魂信仰と自然学が結びついて提示されています。これも物活論です。
○天空は調べを奏でその謎は数字の中に込められている
ピュタゴラス(B.C.532頃最盛)は伝説の詩人オルフェウスの秘教の伝統を受け継いで、生き物は死後、生まれ変わるという輪廻転生を信じていました。
彼は宇宙の調和と秩序の根源は数であると説きました。
ピュタゴラスは最初に混沌があったと言いました。けれども、この混沌は、有限と無限に分離して、無限に有限が限定を加えて、一者が生まれたと説きました。
この一者から奇数・偶数の原理で基本の数1,2,3,4が生まれました。それぞれが、点、線、平面、立体を表わしているとピュタゴラスは説きました。
ピュタゴラスは和音が楽器の弦の長さの数学的な比率で説明されることに注目し、宇宙は天空の音楽を奏でていて、数学を学ぶことで宇宙の神秘に触れることができると考えました。
そして菜食主義で厳しい戒律を守り、よりよい転生を望む、ピュタゴラス教団を作りました。
独特の信仰を持ち、経験を越えた数で世界を捉え、一者の存在を説くピュタゴラスの教えは哲学としても宗教としても、後世に影響を与えました。
○流転する万物は燃える火であってこの火は永遠のロゴスそのもの
わかりづらい思想とお告げのような断片を残したため、暗い人というあだ名を持つのが、エフェソスのヘラクレイトス(B.C.500頃活躍)です。
万物は流転する(パンタ・レイ)と説き、万物の本体は永遠に生き続けるロゴス(理法)の火そのものだと言います。
火の一部が優勢になったり、劣勢になったりすることで、万物は流転します。それゆえ万物の成り行きを支える原理は闘争であるとヘラクレイトスは考えます。
この世界は対立するものの戦いで成り立っていますが、その実相は永遠に生きる火であり、対立物の正体は同じものであり、全体としては調和しているとヘラクレイトスは考えました。
○この世にはただ有るとしか言い得ない永遠不変の一者だけ有る
エレア学派のパルメニデス(B.C.515頃-450頃)は、この世界には有るものしかありえないと説きました。
パルメニデスによれば、世界には永遠不変の一者である存在より他のものは有りえません。滅びるものとか不在のものは有るとは言えないのです。移り行くこの世界は迷妄かまぼろしのようなものに過ぎないと彼は考えました。
一者である存在は不生不滅であり、常に全体として今有るのです。
この存在はなぜか球体であるといいます。
これはおそらく完全なもののギリシア的イメージです。
完全な一者のみが存在するというパルメニデスのがちがちの形而上学は、プラトンやのちの神学者にひじょうに大きな影響を与えました。
○自らは不死身と言ってエトナ山火口に焼かれ消えた哲人
○万物は地水火風が愛によりみな結びつきできているはず
万物は地水火風の四元素ないし四根で説明できると言ったのが今のシシリー島のアクラガスの人、エンペドクレス(B.C.493頃-433頃)です。びっくりする話ですが、彼は自分が神であり不死身であるということを証明するためにエトナ火山の火口に身を投げて最後を迎えたと言われています。彼は『自然について』『浄めの歌(カタルモイ)』という二つの詩を書きました(断片のみ現存)。
『自然について』
万物は地水火風の四元素から成立していると彼は説き、この四元素は愛と憎しみによって
離合集散すると言いました。
四元素こそパルメニデスの説く不変不滅の存在の正体であり、パルメニデスがまぼろしに過ぎないと言う、移り行くこの世は四元素の離合集散する姿であるとエンペドクレスは考えました。
さらにエンペドクレスは、世界が永劫回帰すると説きました。
愛が支配して四元素が完全に結合して完全な球となっている時期がまずあって、
憎しみが混入し、四元素が離合集散する時期が続き、
憎しみが支配し四元素が分離して同じ元素どうしが凝り固まっている時期が訪れ、
愛の支配が回復して完全な球を作るため四元素が離合集散を始める時期が来ます
この四つの時期が繰り返し巡り来ると説きました。
『浄めの歌』
神々の座にいた自分という魂が、憎しみの罪を犯したゆえに追放されて、一万年の間宇宙を輪廻転生していることをこの歌で詩人は嘆きます。この漂泊の魂は、愛の支配する神々の集う故郷を思い出し、予言者や医者を経て最後は神へと帰ります。罪を浄められ神として故郷に帰ると詩人は宣言します。
エンペドクレスは伝説の詩人オルフェウスの宗教やピュタゴラスの教義の影響を受けていたと言われます。神々のところにいた魂が故郷を追われ宇宙をさ迷うという考えは、後のグノーシス派の教義に共通するところがあります。人間の本体は聖なるもので、もとは神の座にいて、その後、神の座を追われもともとの自分とはかけ離れた宇宙の孤児として失楽園の状態を耐えているという考えは、ある種の神秘主義と言え、遠くオルフェウス教やピュタゴラス派に根を持つ考えです。エンペドクレスは単なる哲学者とは異なる神人的な要素が強く、興味深い人物です。
○一粒の種のなかには万物の性質がみな備わっている
次のアナクサゴラス(B.C.500/499-428/7)は、万物のもとは種である、と説きました。この種は無限に小さく分割できるものです。アナクサゴラスはパンが骨になったり血になったりするのはパンの中にすでに骨や血の性質が隠れているからだと考えました。それゆえ、万物を作る種のなかには、万物の性質が備わっていると言いました。全てのもののなかには、全てが含まれるということばをアナクサゴラスは残しました。あたかもミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)のかかわりのようですね。彼は雪もまた黒い、と言いました。白く見える雪も種をのぞけば、黒くなる性質が備わっているのです。万物のもとは種ですが、この種は原初、一つに固まっていて運動していませんでした。この凝り固まった種のかたまりに運動を与えたのが、理性(ヌース)であるとアナクサゴラスは言います。万物のうち、理性を持つものを生き物、理性を持たないものを無生物と区別したのも彼です。理性は全てを知り、一切を秩序づけると彼は言います。けれども彼の言う理性は万物の種の運動の発端というきわめて限られた意味で説明されるのみであります。
○この世とは分割できない様々な原子の粒と空虚から成る
レウキッポス(生没年不詳)とデモクリトス(B.C.460頃-370頃)という初期原子論者たちがいます。彼らは、万物は原子から成っていると説明しました。原子が運動する空間としての空虚があるはずだとも考えました。原子は不可分で、必然により運動しています。
大小それぞれの原子が運動し合い、ぶつかり合うことで多様な世界ができています。
彼らは魂もまた原子であると言っています。また、感覚も原子で説明されます。原子でできた物の幻像(エイドーラ)が眼に入ってものが見えると説きました。
彼らは宇宙のはじまりも原子の運動で説明しました。散らばった原子の渦巻運動で軽いものが遠くに飛ばされ星や太陽になり、重いものが残って大地を形成したと言います。
快楽主義とされるエピクロス(B.C.341頃-270頃)もレウキッポスとデモクリトスを受け継ぐ原子論者でした。彼らにとって良い状態とは明朗快活な状態であり、不必要に惑わされない状態でした。
エピクロスは原子の説明として極微小なものということばを用いました。大きさがある以上また分割可能ではないかという批判にこたえようとしたのです。
それからエピクロスは原子が重みによって落下すると言い、その際原子の運動の偶発的な「傾き」があるから原子どうしがぶつかり合い、作用しあうのだと説きました。この原子の運動の偶発的な傾き(パレンクリシス)は、心の自由意志を説明するのに役立ちました。
全ての原子が必然によって運動するなら自由意志の入り込む余地がないというので、偶発的な傾きが導入されたのです。
○何人も神については知り得ない神は遠くて人生は短い
○物事を計る真理は見当たらず人が全てのものの尺度だ
次にソフィスト(知者)を職業とした人たちを見てみましょう。プロタゴラス(B.C.490頃-420頃)はアブデラの人で、徳の教師を自称した初めての有名なソフィストでした。プロタゴラスはその著『神々について』でこう言っています。「神々については彼らが存在するとも、存在しないとも、またその姿がどのようであるかも、私は知ることができない。なぜなら、それを知ることを妨げるものが多いから。すなわちそれは見ることができないのみならず、人間の命も短いから。」このことばはたいへん正直で率直で真っ当でありますが、当時の国の宗教を信仰していた人々から反発を買い、死刑判決を受けて脱獄し、逃亡の途中で命を落としました。
また「人間は万物の尺度である。あるものについてはあるということの、ないものについてはないということの。」という命題でプロタゴラスは有名です。このことで物事の判断に客観的な真理や基準は存在しないと主張したのです。
プロタゴラスの学説は神については不可知論、認識については相対主義だと言われています。
○何もなく有っても知れず知られても伝えきれない人間の定め
また、シケリア島のレオンティノイの人ゴルギアス(B.C.483頃-376頃)も弁論巧みなソフィストでした。彼の残したことばは、①何物も存在せず、②在っても知られ得ず、③知られても人には伝え得ない、という命題でした。①何物も存在せず、というのはエレア学派を念頭に置いたことばでした。人間のわかる範囲から離れた永遠不動の存在はありえないというのです。いつの世もどこまでも無際限に場所を占めて完璧にあるというのは不可能だ、というのです。②在っても知られ得ず、というのは知るのは在ることの属性でなくてはいけないが、実際にはひとは空想の動物も知っているのであり、ありえないことでさえ知っているのであり、知るは在るに属さないと彼は言います。③知られても人には伝え得ない、というのはことばがものの本性(ピュシス)の模写であるならば、ことばは習慣的(ノモス)であるから人には理解されないという意味です。色を決められた音で表わしても、形を決められた音で表わしても他人には伝わらないと言いたいようです。このようにゴルギアスはニヒリズム(虚無主義)といえるような、徹底的な懐疑論を推し進めた人です。
○人間に役立つものが神であるパンがデメテル酒はバッコス
ケオス島イウリスの人プロディコス(ソクラテスの同時代人)は、神々として信じられているものは、それから利益が得られるために人々がそうするに至ったと言いました。具体的には、人はパンを穀物神デメテルとし、葡萄酒を酒神バッコス(ディオニュソス)とし、水を海の神ポセイドンとし、火を鍛冶屋の神へパイストスとして、その有益さゆえに神々として信じていると言いました。
ここには、伝統的な神々の信仰への疑いや皮肉が込められています。
ソフィストたちの人間中心の価値観やものごとの判断の相対主義、神々への冷めた意識は、神々の定めた運命からは逃れられないと考えていた古代ギリシア人には新鮮で、一種の解放感や自由を感じさせるものだっただろうと思われます。ただ、言い方のくふうひとつで相手を説得する技術が幅を利かせたことは評価が分かれるところだと思います。
○この男自分が無知と知っているその一点で他よりも賢い
○善は何?徳とは何で勇気とは?ところ構わず話す獅子鼻
○青年を論理矛盾に追い込んで無知に気づかせ恥をかかせる
アテナイの広場で青年をつかまえて、善とは何か徳とは何か勇気とは何かなどを盛んに議論するソクラテス(B.C470/469年-399年)は異彩を放っていました。鼻は獅子鼻、目はギョロ目で頭は禿げ、太鼓腹で裸足のソクラテスは青少年と議論するのが大好きです。そんなソクラテスの鋭い論戦のようすと、熱心な話しぶりにアテナイの若者は心を奪われました。彼は、ソクラテスより賢い者は居ないというデルフォイの神託を若者カイレフォンを通して受け、そんなはずはないだろうと国中を議論して回り、有名な政治家と詩人と工芸家たちを相手に自分より賢い人を探して歩きました。けれども、議論で問い詰めてゆくと、誰も知識を持ち合わせていないことが明らかになるばかりでした。みな、自分がほんとうの知識を持ち合わせていないことに気づいていない、私だけは、自分が無知であることを知っているとソクラテスは考えました。その一点でアポロンのお告げは自分を他より賢いと述べたに違いないと考えました。これがソクラテスの無知の知です。ソクラテスは対話者に自分は何も知らないから教えてくれと言って、果たして善とは何だろうかと問い、相手が借りたものを返すことですと言うと、借りた恨みを返すことも善だろうかと問い掛けます。このようにソクラテスは仮の定義を受け入れて話を進めてゆき、その定義が不完全であることに気づかせ、相手の無知を気づかせます。これをソクラテスのエイローネイア(皮肉なやり方)と言います。こうやって次々に仮の定義を立ててはその不備を露呈させ、より本物に近い定義を求めて対話を続けます。このようにしてソクラテスは、知識らしく思えるもの(ドクサ=臆見)を離れて真の知識(エピステーメ)を得るために対話をしました。ソクラテスはこのようなやりかたを産婆術になぞらえています。相手が真の知識を産むのを対話して助けてやる方法だと言うのです。このようなソクラテスの方法は、善らしく見えるものではなく、善そのものがあることを前提としています。徳についても勇気についても、徳そのもの、勇気そのものがきっとあることを前提としています。この方法は相手の無知を露呈するので、識者を自称する者はソクラテスに恥をかかされたことを恨むことにもなります。そこでソクラテスは恨まれた者たちから「国家の信じる神を信じないで、新奇な神霊(ダイモン)を導入し、若者を腐敗させた」という罪で告発され弁論をしましたが却って反感を買い、死刑を言い渡され、妥当な減刑を申し出なかったために死刑が確定しました。刑の執行までの間、デルフォイへの国の使節団が帰国するまで一か月の猶予がありましたが、仲間のクリトンが脱獄の手筈を整えてくれたのに悪法も法だからと言って脱獄を拒み、魂の不死についてなどを議論したあと、クリトンよ、医者の神アスクレピオスに鶏一羽借りがあるから、借りを返しておいてくれという遺言を残して毒人参を食べて70歳で刑死しました。ソクラテスは自分の対話術(ディアロゴス)を人間吟味、自分と他人の吟味だと言いました。ソクラテスはデルフォイの神託所に掲げられていた汝自身を知れということばを座右の銘としていました。汝自身を知れということはとりもなおさず自分自身の無知を知れということであり、ほんとうらしく思えるものを離れて真の知識に自他を導くのに燃えていました。ソクラテスは善そのものを知っていれば、人は必ず善くふるまうものだと言いました。ソクラテスにとって善くふるまうのは幸福そのものであり、善を知っているのに行わないのは冗談にしか思えませんでした。このようなソクラテスの考えかたを知行合一説と言います。このようなソクラテスの人間相手に対話をして定義を続ける哲学は、それまでの、自然の洞察から森羅万象のおおもとを知ろうとする哲学とははっきりと一線を画するものでありました。哲学史では古代の哲学をソクラテス以前とソクラテス以降で時代区分を分けて考えるならいとなっています。
ソクラテスは自らのことばを書き残さず、書物もないので、ソクラテスを知るにはほかの人の書き残した文章に頼るしかありません。ソクラテスについて書かれたものはクセノフォンの『ソクラテスの想い出』『ソクラテスの弁明』、プラトンがソクラテスを主人公にして書いた対話篇のうち初期のもの、アリストファネスがソクラテスをソフィストとして茶化して書いた喜劇『雲』その他のソクラテスへの言及、アリストテレスがソクラテスについて触れている部分、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』があります。けれどもクセノフォンは軍人でソクラテスの哲学者としての中身に詳しく触れておらず、クセノフォンの描くソクラテスは因襲的な道徳家として描かれています。その点、哲学者のプラトンのほうがソクラテスの説をよく理解していたかもしれません。けれどもプラトンの描くソクラテスはどこまでが実際のソクラテスに即したことばで、どこまでがプラトン自身の学説を言わせているのか区別ができないのが困ったところです。これは「いわゆるソクラテス問題」と言われています。アリストファネスはソクラテスの言行を反映して喜劇を書いていないし、アリストテレスは実際のソクラテスと付き合うのには遅く生まれすぎました。ディオゲネス・ラエルティオスはソクラテスよりだいぶ後の時代の人で、書いてあることは噂話が多く混じっています。これらの事情を汲んだうえで、プラトンの描くソクラテスに、
ソクラテスの結晶化したすがたを垣間見るより手だてがないようです。
○魂は宇宙を駆けて天界の美そのものをかつて見ていた(イデア論)
ソクラテスの弟子だったプラトン(B.C.427年-347年)は、ソクラテスが対話をして、善らしく思えるもの、勇気らしく思えるもの、徳らしく思えるものから離れて、善そのもの、勇気そのもの、徳そのものの定義を求めたことに深く影響されました。プラトンはソクラテスが倫理の対象に限って善や勇気や徳そのものを想定したのに対して、人間や馬や三角形や机のような広い対象に人間それ自体、馬それ自体、三角形それ自体、机それ自体、という理想的モデルが存在すると考え、それらをイデアと名づけました。人と言っても、千差万別、大きい人も小さな人も、若き人も老いた人もいます。それらの違いを越えた人間そのものというモデルがあるから、人としてそれとわかると考えたのです。美しいといっても千差万別です。それらの違いを越えた美そのものが、美のイデアが存在するとプラトンは考えました。これをプラトンのイデア論といいます。
想起説
人が美しいものを見てその違いを越えて美しいとわかるのは、生まれる前に美そのものを見たことがあるからに違いないとプラトンは考えました。人が美しいとわかるのは生前見た美そのもの、美のイデアを思い出すからだと言うのです。同様に人間そのもの、机そのもの、馬そのものと言ったすべてのモデルを生前見ていたから、人はものを見てそれと分かるのだと考えました。このような考えをイデア想起説といいます。イデアはプラトンの想像では天界に輝いています。『パイドロス』篇という対話篇では、魂が宇宙を駆けて天界の美そのものを見ていた場面が語られます。想起説が成立するためには、魂の不死と生まれ変わり
が前提となります。プラトンは『パイドン』篇のなかでソクラテスに魂の不死を語らせています。魂は前世でイデアの知識を持って現世に生まれてきたとプラトンは考えます。そして前世がある以上きっと来世もあるはずだと確信します。このようにプラトンはピュタゴラス派やオルフェウスが伝えたとされる宗教の教説を受け入れて輪廻転生はあると考えました。
さて、ここにいる馬に馬それ自体の性質があり、美しい人や花に美それ自体の性質があり、
机に机それ自体の性質が備わっているのは、個々のものが自らのイデアを幾らかは分け持っているからだとプラトンは説明しました。これをイデア分有説と呼びます。
プラトンはこのようにイデアの世界と移り行くこの現象界を分離して考えました。美そのもの、馬そのもの、机そのもの等があるイデア界こそほんとうに存在する世界で、生々流転し、移り行くこの世界、花は枯れ、人は老いて逝き、何事も留まらないこの現象界は、ほんとうには存在していない仮の世界だとプラトンは考えました。
これは、哲学史の流れから言うと、永遠不変にあるものだけが存在するとするパルメニデスの「存在」説と、この世の万物は流転すると説いたヘラクレイトスの「生々流転」説をプラトンがともに受入れ、両立を図ったと考えられます。つまりイデア界は永遠不滅の存在の世界で、この世は生々流転する万物が流れる世界だと考えることで、この対立を決着しようと試みたのです。
プラトンはイデアにも上下の階層があると考えました。なかでも最高のイデアとされるのが、善のイデアです。知られるものに真理を与え、知る者に力を与えるのが善のイデアであると『国家』篇第六巻で語られています。そして、善のイデアとはすべてのものの太陽のように万物を照らしているとされています。この善のイデアを後にプロティノスという人は
全てがそこから生まれてくるような一者であるととらえています。
プラトンは知識すなわちエピステーメはイデアについてのみ成り立つのであって、流転する移りゆくこの世界の物事についての知見は臆見、そう思えるに過ぎないことすなわちドクサだと断じました。臆見を離れ、知識に向かう方法を弁証術(ディアレクティケー)と呼び、このうち、いくつもの概念をまとめてゆくのを統合、大きな概念を細かく分けてゆくのを分割と呼びました。統合と分割により概念がいっそう明確に浮かび上がると考えていました。
イデアが見えず、現象界に縛られている人間の状態をプラトンは『国家』篇のなかで洞窟の比喩とよばれるイメージで言い表しました。そのような人間は蝋燭が立てられた洞窟の中で手を後ろに縛られ、振り返ることもできず壁に映った影絵を見て、それこそが本物だと思い込んでいる人々のようなものだと言いました。哲学者とはこの束縛を抜け出して洞窟の外の光溢れる景色を眺め、洞窟に帰って来て壁に映る影絵を実在だと思い込んでいる人々に外の光溢れる景色を教えようとする人物だとプラトンは言うのです。
プラトンはよい政治は哲学者が王になるか、王が哲学者になるかのどちらかによって実現すると考えました。これを哲人王説と言います。プラトンはシケリアのディオニュシオス二世という僭主の教育をその側近のディオンの要請で試みて苦い失敗を経験しています。プラトンはアカデメイアという大学を設立し、学問の府として学生たちを育成しました。アリストテレスもこのアカデメイアでプラトンに学んだ一人です。
○個物とは素材と形でできているそこを離れたイデアなど無い
アリストテレスは諸学の祖と呼ばれ、幅広い学問を講義ノートとして残した哲学者でした。
その幅広い学問はとても短い紙面では紹介することができません。ここでは、そのうち、哲学の学説の、特に重大な要点に限ってお話します。
イデア論批判
アリストテレスは学説上やむを得ず、プラトンのイデア論を批判しています。
私たちは人が老いて死んでゆくことを認識するのだから、老衰のイデア、消滅のイデアもなくてはいけないでしょう。そのような非価値なものイデアを認めないなら矛盾しています。
名詞であれ動詞であれ、ことばである限りのものは、イデアを持つことになるでしょう。
それは言語そのものの写しと何が違うのでしょう。また、非存在のイデア、否定的なイデアも、言語の写しである限りあることになるでしょう。
ソクラテスは人間である、という文の「人間」がイデアであるとしても、ソクラテスもイデアとしての人間も含むような第三の「人間」が必要になります。これでは切りがないですよね。
親しさのイデアとか、仲違いのイデア、対立のイデア、類似のイデアのように、物事の
関係のイデアもプラトンは認めていませんが当然あることになるでしょう。
同一のものにたくさんのイデアが必要になるでしょう。人間について言っても、動物のイデア、二本足のイデア、人間そのもののイデア、足のイデア、手のイデア、頭のイデアと際限なくあるでしょう。それらの関係は不可解で言うに及びません。
大体において個物がまず実体として考えられます。個物はかたち(形相=エイドス)と素材(質料=ヒュレー)の結合体です。プラトンは人間性などを実体と考えましたが、アリストテレスでは個々の人間、個々の物体が実体なのです。
アリストテレスは物事の原因を四つに還元します。
質料因(素材)家ならば石や木材
形相因(形)家ならば家の形
動力因(そのための働き)家ならば大工
目的因(何のためか)家ならば住むこと
これをアリストテレスの四原因説と言います。
可能態と現実態
アリストテレスは生成・運動の現象を可能態=デュナミスと現実態=エネルゲイア・完全現実態=エンテレケイアに分けて説明しました。
例えば種子は木の可能的なもの、可能態であり、木は種子の現実態であり、大木は種子の
完全現実態であるとアリストテレスは例えを挙げています。これは形相がどれだけ実現しているかで生成・運動を言い表すこころみです。
○自らをただ陶然と見つめつつ他者を動かす不動の動者
不動の動者
アリストテレスが言うには、全ての行為には目的があります。歩くのは散歩のため、散歩は健康のため、健康は幸せのため、幸せは心の充足のため…。いくら遡っても目的に終わりがないのではしかたがありません。アリストテレスは究極の目的因を「不動の動者」だと言います。自らはもはや動くことなく、すべてを動かしている、究極の、動かし手です。それは他の何物にも煩わされることなく、ただ自らを観想=テオリアしているでしょう。このように想定される不動の動者をアリストテレスは神と呼びました。
その他アリストテレスは倫理学や自然学においても大きな成果を残しました。
○直接に感覚から来る快楽を受け入れてただ隠れて生きよ
デモクリトスの原子論を受け継いだエピクロスは人生で最善のものは快楽であると考えました。エピキュリアンが快楽主義と言われるのはそのためです。エピクロスが感覚的快楽を良いとしたのは、原子論から言って、原子の直接の接触である感覚の快楽は、思慮という余計な媒介を受けない(アロゴンである)だけ純粋で価値があると考えた結果でした。エピクロスは無節操、無際限な快楽の追求を勧めたのではありません。苦悩を感じない程度に限度を知って快を求めるのを善としたのです。エピクロスの言う幸福はアタラクシアすなわち無苦悩、魂が煩わされないことでした。動物や赤子のように乾けば飲む、空腹なら食べるという基礎的な快が満たされることを幸福の見本としたのです。苦悩を感じない程度であれば快楽は追及されるべきだとエピクロスは考えていました。無苦悩が理想とは随分消極的な快楽主義と言えそうです。エピクロスは無苦悩のために「隠れて生きよ」と言いました。
○摂理ある自然の声に従えば動揺しない賢者への道
ストア派の開祖ゼノン(B.C333-262年頃)はキュプロス島のキティオン生まれのフェニキア人でした。アテナイに上京してディオゲネスの系統の犬儒派から禁欲主義を学び、パルメニデスの系統のメガラ学派から論理学を学びました。ストア・ポイキレーという彩色柱廊で教えたことからストア派と呼ばれました。ストア派は実践的な生き方を教えると評判で、その生き方の中心的教えは「自然に従って生きよ」というものでした。ただし、ストア派の自然は摂理つまりはロゴスを備えたもので、ヘラクレイトスに倣って、自然の本性をロゴスであり、燃える火であると言いました。自然の摂理が宿命を決めてゆきますが、その宿命に沿って生きよと教えました。世の中には善いもの、悪いもの、どちらでもないものの三種類があると言います。善いものとは徳であり、自然の摂理に従っていきることです。悪いものは悪徳です。人生の浮き沈みのすべてはどちらでもないものです。訪れては消えて行く人生の浮き沈みによって、「心が動揺しない状態(アパテイア)」に達した人が、ストア派の言う賢者です。また行為にはふさわしい行為と正しい行為があり、常人が行うべきなのがふさわしい行為で、賢者が行うのは道徳的に考え抜かれた正しい行為だと説きました。
○魂は真の知性に憧れて真の知性は一者にみとれる
○一者から真の知性が流出し魂生まれ一者に焦がれる
新プラトン主義の哲学者、プロティノス(AD204-70)の考えは善なる一者を中心とする神秘主義でした。
プロティノスの考えでは善なる一者(ト・ヘン)から真実在としての知性(ヌース)が流出しました。
この知性から魂が生まれ、魂の影として目に見えるこの世界、感性界が生まれました。
魂は感性界の美のとりこになるのですが、感性界は真実在の影にすぎません。
魂は感性界よりも真実在の世界に憧れ、最終的には一者に帰るべきだとプロティノスは説きます。
かなり徹底した神秘主義哲学で、常人にはなかなか想像できない根源としての一者、一者から流出した知性、知性から生まれた魂、魂の影としての感性界が熱心に語られます。
原初の故郷の一者への帰郷に焦がれるプロティノスの神秘主義は、プラトン哲学の徹底した読み直しであり、プラトンの思想から神秘的な解釈や図式的な借用を大胆に行っています。
プラトンよりもさらに一者への希求には切実なものがあり、地上を離れた彼方を想像する想像力の逞しさは余人の及ばないところへいっています。
○旧約の神をギリシアに置き換えて姿見えない最高善と読む
アレクサンドリアのフィロン(B.C.25-A.D.50頃)はヘブライ語からギリシア語に翻訳された旧約聖書を読み、ギリシア的、ヘレニズム的に読み替えた人です。フィロンはユダヤ教の信仰を持ちながらも、ヘレニズム的素養を身に着けており、旧約の信仰とギリシア哲学が一致することを示そうと努めました。彼はヘレニズム世界でよく用いられたアレゴリー(寓意)的解釈で旧約を読み替えました。例えば創世記(3.21)で神がアダムとイブのために洋服を作ったというところは、神が作った人の服とは人に被せた肉や皮を含意している、などと読み替えて、旧約のほんとうに意図するところは表面の描写とは離れた真意があることを説きました。フィロンにとって旧約聖書の物語は精神的な含意の比喩的な描写であって、その真意はギリシア哲学と一致するものでした。旧約聖書の人格的な父なる神も、人には姿の見えないピュタゴラスやプラトンの言う最高善に違いないとフィロンは考えました。創世記はプラトンのティマイオス篇と一致するものと考え、創造の原像は神の精神ないしロゴス(ことば・ことわり)に宿っていたとします。神はロゴスを通じて世界を創造し、ロゴスは神と世界を橋渡しするものです。
○暗黒の現世に落ちた魂は真理を悟り故郷へ帰る
異端信仰と考えられてきたグノーシス派は悪しきこの世界を創造したデミウルゴスを低いものとみなし、それより高い神がいる光の国がわれわれの魂の霊的な部分の故郷であると説明しました。人間の魂は元来の自己の認識へと目覚め、故郷である神的な光の国に上昇する中で体と物質世界から解放され救われると説きました。悪しきこの物質世界と魂の故郷の善なる光の国という二元論で世界を説明したため、プロティノスからも、教会の教父からも危険視され非難を受けましたが、現代では一定の評価を受けています。
○この世では報われることない行いが天の国ではいちばん貴い
○殺される無力な羊キリストが背負ってくれた人の苦悩を
キリストで知られるイエスは、ナザレの大工の子でした。大きくなると洗礼者ヨハネに洗礼を受け、やがて布教活動をはじめました。イエスの信仰の第一は自分が神の子であるという確信です。布教の第一声は洗礼者ヨハネと同じく「悔い改めよ、神の国は近づいた」でした。イエスは「汝の富を天に築きなさい」と説きました。これは、現世ではなく、神の国に富を築きなさいということです。具体的には、現世では報われることない行いを敢えてして、神の国に功徳を積みなさいということです。価値の基準をこの世ではなく天の国に置くことが、キリスト教の価値観の転換でした。イエスは人間を獲る漁師になりなさいと声を掛けて弟子を集め、分かり易い喩えを多く用いて慈愛の教えを広め、奇跡の業を行い、ユダヤ教のファリサイ派やサドカイ派の反感を買い、エルサレムで布教し、陥れられて、十字架に掛けられました。イエスはイザヤ書に書いてある殺される無力な子羊としてのメシアの役割をじぶんで自覚して行動していたと思われます。神の子イエスはイザヤ書に書いてある無力に殺される子羊としてのメシアの役割をじぶんのものとして引き受けて、十字架に掛けられました。そのことで人々の罪を背負い、苦悩を背負い、贖罪の羊となったのです。今書いたことは、福音書作者を含む原始キリスト教の考えを考慮して述べられています。イエスの実像となると確かなことは言えないからです。キリスト教の誕生以降、哲学史の流れは、キリスト教の教えを吟味するものへと主流が移っていきます。

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扶余の記憶

 去る2016年1月下旬に、韓国の扶余(プヨ)に出かけた。扶余は、ソウルから南へ200キロメートル行ったところにあり、6,7世紀に百済の都があったところである。前日まで大雪だったそうで、かなりの雪が積もっていた。またきびしい寒さが続いていて、そのためか観光客の姿はほとんどなかった。扶余の観光地で最も有名なのは、百済時代に建てられた定林寺の跡である。  
 私は出かける前に、小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』(六興出版、1986)を読んだが、この本の著者は終戦まで平壌博物館の館長だった方である。著者は最初1922年に扶余を訪れるが、そのとき見た定林寺跡について、次のように書いている。「かなり広い寺跡で、南に五層の石塔が聳え、北に離れて大きな石壇上に座像の焼けただれたような石仏が存在していた。」(p.181) つまり、1922年には、定林寺跡には、石の五重塔と大きな石仏しかなかったのである。しかもそのときは、その寺が何という寺なのかも不明であったという。小泉顕夫によると、1943年になってようやく「定林寺」であることがわかったが、それは藤沢一夫という研究者の努力によってであった。藤沢一夫の名は現地の説明文にも記されてある。
 百済の史跡を訪ねるのは、もちろんたいへん興味のあることであったが、私はそれ以上に『朝鮮古代遺跡の遍歴』で記されている「内鮮一体化運動」が気になった。「内鮮一体化」とは、日本が朝鮮の植民地化を進めるときのスローガンであった。日本人と朝鮮人とを同一化しようとするものであるが、同一化といっても朝鮮人を日本人に同一化させようとするものにすぎない。
 当時の日本は、朝鮮人を日本人に「同化」させるために、いわゆる「皇民教育」を行なった。その一環として「神社参拝」が強制された。ソウルにあった朝鮮神宮は有名であるが、ピョンヤンにも「平壌神社」があった。朝鮮神社の祭神は、天照大神と明治天皇であり、朝鮮の民衆とは何の関係もない。趙景達『植民地朝鮮と日本』には、平壌神社に参拝させられる朝鮮人の「陸軍兵志願者」の写真が収められている(P.205)。
 そして当時の朝鮮総督府は,1940年ごろ、扶余にも「扶余神宮」を造ろうとしていたことが、小泉顕夫の著作からわかる。それは遺跡を破壊して造られる予定であったらしく、著者たちがその破壊の進む前に、調査をしようと努力したことがわかる。しかし戦争が激しくなり、扶余神社を建てることなど不可能になって、やがて終戦になる。現実に扶余神社は建てられなかったが、当時の日本は、「内鮮一体化」と称して,実は日本の「神」への信仰を強制したのであり、それはけっして「一体化」にはなりえなかった。(2015年1月30日)

参考文献

小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』六甲出版、1982
趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

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金時鐘『朝鮮と日本に生きる』とチェジュ島

 2015年の大佛次郎賞は、金時鐘の『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)に決まった。大いに慶祝したい。この本は,岩波書店の雑誌「図書」に連載されていたものをもとにしている。私は「図書」連載中、毎号欠かさずに読んだ。
 本書は、韓国チェジュ島(済州島)において、1948年に始まった,いわゆる「4・3事件」を重要なテーマにしている。チェジュ島に「皇国少年」として育てられた金時鐘の体験と、政治的事件とが重なって記述される。個人の記憶と集団の記憶が交錯し、極度の緊張感が伝わってくる。
 4・3事件は、チェジュ島の民衆の反権力の闘争である。本書を読むと、権力の力と民衆の力の衝突がわかってくる。ソレルは,その『暴力論』で、「力が上から下へと働くときは権力であり,下から上へと働くときは暴力である」と述べたという。(寺山修司は,このソレルのことばを繰り返して引用している。)4・3事件は、まさに権力と暴力の激突した事件であった。最近刊行されたムン・ギョンス『新・韓国現代史』(岩波新書)でも論じられている。
 しかし、「4・3事件」がどういう事件であったかを知っているひとは多くないであろう。数年前、チェジュ島を訪れたとき、タクシーで「4・3記念公園」に行ったが、運転手に「どうして日本人のあなたがこの事件のことを知っているのか」と、何度も聞かれた。私が金石範の長編小説『火山島』を読んで知ったと答えると,それは韓国でも訳されていると教えてくれた。
 4・3記念公園は、公園という名称であるが,実は博物館でもある。日本語のパンフレットも置いてある。庭には、ベルリンの壁の一部分が置かれてある。南北朝鮮の統一を願うという意味かもしれない。この公園は,進歩派であったノ・ムヒョンが大統領の時代に作られたものである。
 チェジュ島に行く機会があるひとには、金時鐘の本書を読んでおくことをおすすめしたい。また、4・3記念公園をぜひ訪れてほしいと思う。(2015年12月30日)

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