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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

インド映画「ガンジスに還る」を 見る

    去る 2018 年 8 月 9 日に,私は試写でシュバシシュ・ブティアニ監督のインド映画「ガンジスに還る」を見た。ブティアニは、1991 年にコルカタで生まれた若い監督である。死期の近いことを自覚した老人(78 歳ということになっている)が、ガンジス川のほとりにある「解脱の家」で、解脱(死)を待つという話である。「解脱の家」には、15 日間だけ滞在が認められているが、名前を変えれば更新できるので、18 年間もいる女性も現われる。死を待つ老人の物語であるが、少しも暗いところがない。むしろ喜劇的でさえあり、試写室で隣席に座っていた女性は、しばしば大声で笑っていた。
    解脱を待つ老人には、息子が付き添っている。その息子は、かなりのエリート・ビジネスマンであり、解脱の家にいても、携帯電話を使って仕事に励んでいる。彼には年頃の娘がいるが、その結婚話がこわれたりして、「家族の物語」の要素もある。しかし、それととともにガンジス川の悠々とした情景が写されていて、それを見るだけでも意味がある。もちろん現代のガンジス川であるから、観光の場所にもなっていて、そのことも瞥見できる。
    いまのインドの人口は 13 億 5 千万だという。インドの経済成長は目覚ましいといわれているが、「貧困」がこの国の重要な課題であることは想像できる。この映画に登場する家族は恵まれた方であり、おそらく一般の「庶民」は「解脱の家」などに滞在できないであろう。それでも現代インドの一端を見ることは可能である。
   ガンジス川は、「聖なる川」である。インドの神話では、元来は天にいた女神ガンガーが、地上に降りてきたのがガンジス川だということらしい。インド神話の最高神シヴァがガルーダという巨大な鳥を乗り物に使っていたことはよく知られているが(ガルーダの変形は京都の三十三間堂にもあるし、またインドネシアの代表的航空会社はガルーダ航空である)、立川武蔵によると、女神ガンガーが乗り物として使っていたのは、「伝説上の海獣マカラ」である。マカラはワニに似ているが、鳥・蛇にも似ていて、「クムビーラ」と呼ばれることもあるという。立川武蔵によれば、「日本の金比羅(こんぴら)はこの語の音訳であり、香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)もクムビーラを祀っている」し、名古屋城の金の鯱も「マカラの一変形」である(立川武蔵『ヒンドゥーの神話と神々』せりか書房、2008、p.309)。つまりガンジス川は、日本とも繋がっているのである。
  ユングの有名な概念の一つに「共時性」(シンクロニシィティ)がある。「偶然の一致」と関連する考え方である。この映画を見た数日後、若い友人が読んだあと毎号送ってくれるイギリスの週刊科学雑誌「ネイチャー」の 8 月 9 日号を読んでいると、"Indian scientists race to map Ganges river in 3D"(「インドの科学者たちが、ガンジス川の 3D マップを作ろうと競っている」)という記事が目についた。これこそまさに共時性ではないかと思った。その記事にはガンジス川で沐浴しているインド人たちの姿と、川岸のおびただしいゴミとを写した写真が添えられているが、そのキャプションは「世界で最も汚染されている川のひとつ」である。その記事によると、6億人のインド人がガンジス川の水を使っているという。汚染されたガンジス川を浄化するため、まずその地図を作ろうということである。「聖なる川」は、同時に「汚染された川」でもある。

(2018 年 8 月 17日)

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希望の光はもう消えたのだろうか―『立ち上がる夜:‹フランス左翼› 探検記』を読む

 1987年7月7日夜、パリ=シャルル・ド・ゴール空港に着く。今迄に海外に出たことは一度もなかった。それに加えて英語もフランス語も覚束ない私は、何とかRER (地域急行鉄道網) の駅まで行く停留所を見つけ、バスで駅に向かった。駅の切符売り場でパリ行きの切符を買ったはずだが、フランス語で言ったのか英語で言ったのかはっきりとした記憶はない。電車に乗り込むことができた時は夜の9時半を過ぎていたが、日はまだ落ちてはいなかった。私はその時初めて真夜中まで日の落ちない夜というものを経験したのだが、感動はなかった。言葉も地理も判らない外国に来て、3ヵ月間のビザはあったが、語学学校にしばらく通った後のことはまったく決めていなかったからだ。
RERの車両には乗客の姿は殆どなかった。窓の外には広大な農地が見え、人家はポツポツと点在しているだけだった。この電車は本当にパリに向かっているのだろうか。私は不安で仕方なかったが、そのことを確認するためのフランス語が思いつかず、黙って座っていた。それから十数分して建物の数が増えてきて、さらに何分かして、モンマルトルの丘の上に建ったサクレ・クール寺院が見えた。確かにパリに向かっているのだ。サン=ラザール駅に着いたが、人影はまばらだった。夜の10時を過ぎてはいたが、パリという大都会の中心駅の一つが、このように閑散としているとは意外であった。だが、そんなことよりもまずは今夜のホテルを探さなければならない。私は駅を出て明るい夜に包まれたパリの道を歩き始めた。
30年も前の個人的な詰まらない経験を最初に書いたのには訳がある。1987年は第一期フランソワ・ミッテラン政権が終わろうとする年であった。翌年の4月の大統領選挙では最終的に社会党のミッテランとRPR (共和国連合) のジャック・シラクとの決選投票になるだろうと予想されていた (実際にそうなり、二人による決選投票が同年5月に行われた)。左右二大陣営が政権を争うという構図はフランスの伝統的な選挙戦の構図であるが、左派の中心政党は社会党 (PS) であった。私はミッテラン政権時代の数年間を外国人として、パリで過ごした。だが、これから検討しようと思う村上良太の『立ち上がる夜:‹フランス左翼› 探検記』(以下『立ち上がる夜』と表記) の中で示されているパリやフランスの様相があまりにも30年前と異なっているように感じられた。それがこの本についての何かを書こうと思った理由の一つである。
この本の中心テーマである「立ち上がる夜 (Nuit debout)」という社会運動それ自身も大変興味深い運動である。だが、日本人である私はほぼ同時期に日本で起きたSEALDsによる安部政権の安全保障関連法案に対する国会前での抗議運動との比較を行いたいと思った。二つの運動は多くの相違点がある一方で、新自由主義と右傾化する世界への抵抗運動という類似点を持っている。それゆえ、この二つの運動を比較することで世界の現状が見えてくるのではないかと考えたことが第二の理由である。
また、立ち上がる夜も、SEALDsの運動も、ある特定期間に起き、消えていった大規模な社会運動であったが、それが何故起き、何故消えていったのか、二つの運動の遺産はどのように受け継がれようとしているのかという点にも大きな関心がある。この点もこのテクストについて書こうと思った理由の一つである。前書きが長くなってしまったが、ここでは今述べた点を中心にしながら、『立ち上がる夜』というテクストの中で示された論点を考察することによって、フランス及び世界の現状について探究していきたい。 

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忠臣というフィクション:富岡鉄斎の「南朝忠臣図」について

 早稲田大学構内にある會津八一記念会館で510日から616日まで「【富岡展示】近代の日本画」という企画展が開催されていたが、そこに富岡鉄斎の描いた「南朝忠臣図」が展示されていた。これは12枚で一つのシリーズを構成する作品で、一枚の絵に一人ずつ、総計12名の忠臣が描かれたものである。鉄斎の絵の代表作ではないが、この作品は明治期の知の巨人の一人である鉄斎と当時の思想状況を考える上で重要なものであると共に、「忠臣」という歴史的フィクションを考える上でも興味深いコーパスとなるものである。それゆえ、ここでは鉄斎の忠臣図から派生していく歴史的、イデオロギー的な問題を中心として考察していこうと思う。
 

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フラハティの「モアナ」を見る

 去る2018年6月20日に、私は試写でロバート・フラハティの「モアナ」を見た。これはフラハティが数年かけて撮り、1926年に公開したサイレント映画であるが、今回上映されたのは、音声を加えた新版である。1920年代のサモア人の生活を描いたドキュメンタリー映画とされている。しかし、試写の会場でもらったパンフレットに載っている、きわめてわかりやすい金子遊氏の解説によると、この映画は「実在の家族や人物をそのまま記録するのではなく、キャスティングした現地の人々を使って劇化し、昔ながらのサモアの姿を再現して描いた作品」である。
 サモアとはどういうところか?手元にある古い百科事典(1965年版の『アメリカーナ』)などで調べてみると、サモアに最初にやってきたヨーロッパ人は、オランダのロッゲフェーンという人で、1722年である。その後、19世紀末の「帝国主義」の時代に、サモアはドイツとアメリカの植民地になった。1899年のことである。遅れて成立した「国民国家」であった当時のドイツ帝国にとって、征服すべき植民地として残っていたのは、アフリカの一部と、南太平洋の島々だけだった。
 同じころ、サモアでフィールドワークを行なったアメリカの人類学者マーガレット・ミード(1901~1978)は、1928年に『サモアの思春期』(Coming of age in Samoa)を刊行した。(金子遊氏もこの著作に言及している。)彼女はそのあと、ニューギニアでイギリス生まれのアメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソン(1904~1980)と知り合い、結婚する。二人で書いた『バリ島人の性格』は写真を多用した著作で、映像人類学の先駆的な業績だとされている。
 「モアナ」を見ると、主食であるタロ芋は無尽蔵にあり、魚はいくらでも釣れる。ヤシの実はふんだんにあり、『アメリカーナ』がsemiwild pigとしている、イノシシに近い野豚も罠をかけて捕まえることができる。桑の樹皮から服を作り、ウミガメの甲羅からは装身具を作るであろう。何よりも平和であり、スクリーンに登場する少年はいつも笑っている。「モアナ」のサモアは「楽園」そのものではないか。
 ところで私は、たまたまエンゲルス(1820~1895)の『イギリスにおける労働者階級の状態』(大月書店、国民文庫、1971)を読み直したところである。エンゲルスはロンドンの貧民居住地区について次のように書いている。「完全な窓ガラスなどはほとんど見当たらないし、壁はくだけ、入り口の戸柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板を寄せ集めてうちつけてあるか、あるいはまったくつけてない。汚物と塵埃の山があたり一面にある。」(p.93)およそ人間の住むところとは到底いえないそのあたりは、「貧民のなかのもっとも貧しい者」、つまり「不潔と貧乏によって堕落した多くのアイルランド人」が住んでいるところである。また英訳で読んだエンゲルス選集では、1844年のマンチェスターの貧民街に住んでいるのも、「アイルランド系の一群の労働者たち」である。(F.Engels,Selected writings,Penguin Books,1967,p.30) エンゲルスが描写する1840年代のロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たちとその家族の生活に比べると、「モアナ」で描かれたサモア人の日常は,極楽そのものである。実際、この映画のサブタイトルは「最後のアルカディア(理想郷)」である。
 アイルランドでは、1845年から1852年にいたる大飢饉があって、多くのアイルランド人が死亡した。すでにその前からアイルランドはイギリスの徹底的な植民地政策によって極度の貧困状態にあったが、主食であったジャガイモの「胴枯れ病」(blight)で、いわゆる「ジャガイモ飢饉」となり、「ウィキペディア」によると、当時のアイルランド人の20%が死亡、10~20%がイギリス、アメリカに移った。しかし、アイルランド人は、この飢饉の前からも、すでにイギリスに職を求めて移住していたのである。エンゲルスが見た、悲惨な生活をしているロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たたちは、はやくからアイルランドに見切りをつけていた。テリー・イーグルトンの『ヒースクリフと大飢饉 アイルランド文化の研究』(Terry Eagleton,Heathcliff and the great hunger ,studies in Irish culture,Verso,1995 )によると、1847年までに、リヴァプールには30万人のアイルランド人が押し寄せた。いまでいう「難民」である。エミリー・ブロンテが『嵐が丘』を書き始めたのはそのころであり、イーグルトンはヒースクリフがアイルランド人であった可能性が高い(quite possibly Irish)と書いている(p.3)。
 Antonio Napolitano,Robert Flahaty,La Nuova Italia,1975によると、フラハティの祖父は、1850年にアメリカに来たアイルランド人であるとしているが、フランスの映画事典によると最初はケベックに来たと記してある。それはおそらく彼がカトリックのアイルランド人であったという宗教的な理由であろう。フラハティは1884年にミシガンで生まれているが、彼には「アイルランドの記憶」が祖父母、両親から与えられていたと見ることができる。
 フラハティが「モアナ」で作った世界は、確かにサモアの現実の描写ではなかったかもしれない。しかし、彼はこの映画で「人工楽園」を作り出したのである。エンゲルスが告発した、19世紀半ばのアイルランド人の極度の窮乏生活とは正反対の世界をスクリーンに描き出したのが「モアナ」である。(2018年6月29日) 

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中村研一の戦争画

 そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
 駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
 このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。 

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