宇波彰現代哲学研究所

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チェリー・ピッキングに抗するラカン読解――向井雅明「ジャック・ラカンの理論的変遷」書評

 チェリー・ピッキングという言葉をご存知だろうか。チェリー、つまりサクランボの中から熟したものをえり好みして、自分が気に入るものだけをピックアップする、という意味で、数多くの事例の中から自分の説に有利なものだけをピックアップすることである。
 人文系の学問では、フィールドワークやサンプリングの際に問題になりそうなやり方である。「全ての凶悪犯はパンを食べている。パンは危険である」、ということも主張できてしまう。
この場合、えり好みというのは、何と何を関連付けるかということをも意味している。たとえば、犯罪の発生率の低下を説明する際に、ある者は政策によって警察官が増員されたことと関連付けて考えるかもしれないし、別の者は景気回復などの経済的要因と結びつけて考えるかもしれない。どの観念とどの観念が関連付けられて世界観が形成されていくのかという過程についての考察や、そのとき一見すると単なる観察者のように思われる、人間の側からの働きかけがあってこそ世界観が生み出されているという観点は、ジャック・ラカンの精神分析にとって重要な考察対象のひとつであろう。
 また、サンプリングやフィールドワークとは無関係で、テクスト読解を中心とする哲学研究や思想研究でも、このチェリー・ピッキングは起こりうる。なぜなら、たいてい哲学や思想についてのテクストは、難解で晦渋だからだ。
「哲学者Aは○○を重視していないが、哲学者Bは○○を重視している」。こうして二者の対立を際立たせる際に、ある種のえり好みが行われることは大いにありうる。
 論敵との対立を明確にするために、相手の論点を誤解してみせたり、あるいは誇張したりすることをストローマン論法と呼ぶそうだ。ストローマンとはわらで出来た人形のことで、架空の存在を作り上げるという含意がある。相手の論点を誇張して架空の存在を作り上げている、ということである。日本語では「わら人形論法」と訳すようだが、日本でわら人形と言えば、丑三つ時に釘を打ち込まれるマジックアイテムなので、この訳語はなんだか別のイメージが付加されてしまって、あまり適切ではないように思える。
 ストローマン論法は、方向性は逆でも、えり好みという点でチェリー・ピッキングと同じことをしている。

 さて、ジャック・ラカンの思想、あるいはテクストは、これまで凄まじいほどにチェリー・ピッキングされ、また、論敵にはストローマンにされてきただろう。
 なぜならば、ラカンの語り口というのはとてつもなく晦渋で、その理論たるやとてつもなく難解だからだ。哲学者の内田樹は以下のように述べている。

 ラカンは一九五〇年代には精神分析の新しい方法論として臨床医たちを驚愕させ、六〇年代には時代を領導する精神的導師として五月革命世代の人々を熱狂させ、そして八〇年代以降は世界の大学院生たちの表象読解のための必読文献になった。これはひとつの思想のたどった旅程としてはかなり特異なものである。
 その汎用性の高さは、「ラカンがほんとうはなにを言おうとしていたのか、だれにも確定的なことが言えない」というラカン理論の超絶的な難解さに裏づけられている。あまりに難解であるために、だれにでも使える理論というものがこの世には存在するのだ。(1)

 また、英国で文化理論について研究するキャサリン・ベルジーは以下のように述べている。

ラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。賞賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテクスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。(2)

 このように語られる難解さと複雑な文体のせいで、ラカンを読み解き、そして、何かを論じる際に概念的ツールとして用いるとなると、恣意的なえり好みにならざるをえないのだ。ラカン理論の全容を把握した、と言い得る者はいるまい。
 また、ラカン自身も、この難解さと語り口には、狙うところがあったようだ。あまりに難解であれば、聞く者は、真剣に耳を傾け、自分がその意味を捉えたかどうか、自問自答を繰り返さざるをえない。こうして、ベルジーが述べているように、聞くものの中で、ラカンが蔵する知への欲望が生まれる。これこそが、「想定的知の主体」に対する転移関係である。このようなラカンの語り口について、「プラトンの時代から、口述による伝達が愛を生じせしめるということ、愛と知識は無関係ではないということは明らかだった。(…)彼〔ラカン〕はまた、生徒たちの中に、自分で吹き込んだ転移性の愛を切望し、それを強力に進展させるようにも見えた。」(3)と精神分析の臨床家であるブルース・フィンクは述べている。
 また、ラカン自身が、多産的な誤読を許容していたとも言える。多産的な誤読、と言ってしまうと、どこかに正解があるような印象になってしまうので、それは精密な言い方ではない。「想定的知の主体」の持つ知をあてにして、これが正解だと誰かに保証してもらうという期待から決別して、我々は我々自身の責任において思考し、決断(結論)せねばならない。ゆえに、向井雅明がこの連載の第五回で示しているように、「ラカンは、それぞれの精神分析家は自分自身で精神分析を作り上げなければならない、と言った」(第五回p.202.)のである。
 さて、前置きが長くなりすぎたが、ようやく本題に入ろう。
この、向井雅明「ジャック・ラカンの理論的変遷」という連載は、チェリー・ピッキング的で恣意的な読解に陥らず、かつ、自分自身で精神分析を作り上げるという、そのせめぎ合いを受け止め、いかにラカンのテクストに真摯に向き合うかという、苦闘が結実したものである。
 そのために向井は、ラカンの理論の歴史的変遷を丁寧に追っていく。向井は以下のように述べる。

その理論展開は常に常に矛盾に満ちたパラドクシカルなものであり、これがラカン理論だ、と言えるような、体系的にまとまった一つの理論的コーパスとして提示することはできない。ラカンの考えを把握するには、やはり年代を追って、その変遷を追っていくしかない。
(第五回p.197.)

 ラカンの案出した用語は、ひとつひとつがかなりの幅を持つ。その幅広さの中で、ある概念は別の概念と重なり合い、近似的な意味を持つ。かと思えば、どこにアクセントを置いて理解するかによって、さっきまで近いものとして並立していた諸概念が、まったく異なる相を見せて反発する。
 ラカンが思考の主要な軸としているかに見えた図式や、対立構図が、ある時期を過ぎると重視されなくなるということもあれば、それに変わって別の区分が導入されたりもする。
 なぜこうしたことが起きるかと言えば、それはラカン自身が自らの理論体系を疑問に付し、大胆な再構築の運動を決して止めなかったからである。著者はこうしたラカンの姿勢を砂の城を作っては崩す子供にたとえており(第一回p.8.)、ラカンが70代になり、晩年と呼ぶべき年齢にさしかかっても、「最も大きな地殻変動」と呼ぶべきものが起き、それは、「それまでの理論とのギャップのせいで、ラカンを学ぼうとする者を困惑させ、しばしば途方に暮れさせてきた」(第五回p.197.)。
 このようなラカンの理論に真摯に取り組むために、著者は、運動し続けるラカンを追跡していく。
 ラカンに対するこうしたアプローチは数多くあるが、一例を挙げれば、ラカン派の哲学者であるスラヴォイ・ジジェクは処女作『イデオロギーの崇高な対象』で、1950年代から、1970年代に至るまでに、「トラウマ」がラカン理論においてどのように扱われているかの変遷に手短に触れている。(4)本邦における比較的最近の例では、『現代思想』2013年6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也「人はみな妄想する」という論文も、1950年代と1960年代以降で、ラカンにおける精神病の概念がいかに変遷しているかを丁寧に追う好例であり、その帰結としてラカン理論がドゥルーズ=ガタリと単純な対立関係にあるものではないことを示している。
 向井雅明は、かつて1988年に上梓した『ラカン対ラカン』(金剛出版)から既に、ラカンの運動を通時的に追っていくという姿勢を表明しており、今回完結した連載「ジャック・ラカンの理論的変遷」は、あらためてその姿勢を鮮明に打ち出したものだ。
 ある概念について、ときに日常的で分かりやすい例を持ち出しながらも、時代を経てその概念がいかに変化していったか、他の概念との整合性はどうなるのか、そうしたことを著者はその場その場で丹念に問い続ける。
 たとえば、ファルスΦについて検討する際は、「後で出てくる対象aとの差別化が難しくなる。」(第二回p.44.)と他の概念とのすり合わせを考えている。また、ラカン理論における重要な概念である「対象a」については、

 ところが、これほど彼〔ラカン〕が入れ込んでいた概念であるにも関わらず、またもや砂のお城のように、ある時あっさりとそれは崩され、その地位を失ってしまう運命にあるのだ。
(第二回p.62.)

 と述べる一方で、「異次元のものをつなげるという機能はずっと残されているのだ」(同p.63)と、継続された要素についても記す。
 また別の箇所では、ある時期までのラカンが享楽(ジュイッサンス)と、快(プレジール)をはっきりと区別し、享楽は〈もの〉に由来し、快はシニフィアンに由来しているとしていたことを説明するが、後期ラカンにおいてこの図式が結局捨てられてしまうという流れを示唆する(第三回p.167~168.)。著者によると、ラカンにとって享楽とシニフィアンは相容れないものであったはずなのに、後期に至ってシニフィアンと享楽を直接結び付けようとする。そして続く連載第四回、第五回で、そのためにどのように理論が練り直されていったかを追っていく。
 ラカンは自分がフロイト主義者だと述べていたが、著者はこの、フロイトとラカンとの関係にも丹念にメスを入れる。フロイト理論とラカン理論がどのように接合されるのかは大きな問題だが、著者はチェリー・ピッキング的な無理やりの接合を試みずに、通じ合う部分と相違点を峻別していく。連載第三回では、現実原則/快楽原則の二項の扱いについて、フロイトとラカンではどのような違いがあるかについて述べられ、また、著者は、1964年の『精神分析の四基本概念』の講義のあたりの時期をもって、ラカンの「フロイトへの回帰」は幕を閉じたとしている。
 向井が『ラカン対ラカン』の劈頭で示したところによれば、フロイトのテクストを読むためにラカンを参照するとなれば、フロイト対ラカンという構図になるが、では、ラカンを読むために誰を参照すべきかといえば、それはラカン自身の変遷を追うことによって、その時々の思想的な特徴と差異を捉えるほかない。すなわち、ラカン対ラカンである。
 ラカンとフロイトを比べたとき、たしかに、ラカンのような、意図された蠱惑的な難解さや、どこまで本気かわからない洒落のような表現、そういうものはフロイトには少ないように思われる。しかし、フロイトの文体もまた、分かりづらいものだし、読解に苦労させられる。フロイトもまた、自らの着想を疑い、逡巡しながら筆を進めていくからだ。三歩進んで二歩戻る、百歩進んで九十九歩戻る、というような文体であると私は思う。つまり、フロイトもまた、思考の運動を決して緩めなかった人だ。
 永遠の事物というものは無い。概念や観念ですら永遠ではない。しかし、それらの案出にかかわる思考の運動こそは永遠なのである。少なくともラカンの精神分析においては。
 向井雅明が1988年出版の『ラカン対ラカン』から、2008年に始まり2014年に完結した「ジャック・ラカンの理論的変遷」まで一貫して追求し続けている姿勢は、この運動の永遠性、終わらなさを示しているとも言えるだろう。
 ラカンは、『精神分析の四基本概念』において、「すでに出来上がった概念」と、「形成途上の概念」との対比を前景化し(5)、「無意識には一つの知があるが、それは仕上がって完結した知とは決して考えるべきではない」(6)と述べている。
 しかし、治療としての分析は終わりを迎えることもありうる。終わりなき分析もあれば、終わりある分析もあるだろう。運動の副産物にしかすぎなかったとしても、症状が寛解し、患者の苦しみが軽くなることはあるのだ。また向井は、分析を受けずとも、より実り豊かなものを産出した例として、ラカンが文豪ジェイムス・ジョイスを挙げていることについても述べている。
 症状との折り合いがつくときに何が起こっているのだろうか。そうしたことを考えるために、この連載を読み、ラカンを読み、自分自身で精神分析について考えるために、読者ご自身が運動の中に身を投じてみてはどうだろうか。
(文中敬称略)
(文責 土佐巌人)

向井氏の著作以外での参考文献・引用箇所は以下の通り。
(1) 難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書、2004), p.282
(2) Belsey, Catherine, Poststructuralisme : A Very Short Introduction, (Oxford University Press, 1984), p.62. 邦訳『1冊でわかる ポスト構造主義』(岩波書店、2003), p.95.
(3) Fink, Bruce, “Reading ‘The Instance of the Letter in the Unconscious’ ”, Lacan to the letter : reading Écrits closely, (University of Minnesota Press, 2004), p.68.
(4) Žižek, Slavoj, The Sublime Object of Ideology, (Verso, 1989, Fifth impression1995), p.162. 邦訳『イデオロギーの崇高な対象』(河出書房新社、2000)p.247.
(5) Lacan, Jacques, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, (Seuil, 1973), p.15. 邦訳『精神分析の四基本概念』(岩波書店, 2000),p.14.
(6) 同書p.122. 邦訳p.176.

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2014年6月の近況報告

 去る5月中旬に、3泊4日で熊本県の山都町に出かけた。1854年に造られた「通潤橋」という石造の水道橋を見るのがおもな目的であった。あらかじめ山都町の観光係に連絡して、資料をお願いすると、たくさんのパンフレットなどが送られてきた。この水道橋は、温度差で石が伸縮することなどを計算に入れて造られたものだそうで、当時の技術水準の高さに感心した。
 九州には、多くの石橋があるらしく、山都町の「通潤橋資料館」に事務局がある「日本の石橋を守る会」の会報「日本のいしばし」(84号)には、九州で1500の石橋を訪ねた方のエッセーが載っている。
 山都町には幣立(へいたつ)神宮というちょっと変わった神社もあると聞いていたので、宿の人にお願いして連れて行ってもらったが、なかなか面白い神社だった。山都町の観光協会に立ち寄ると、全員が親切に応対してくれた。山都町はおいしい矢部茶の産地でもあることを知って新茶を買ってきた。

 ところで、私は1996年に『映像化する現代』という著作を刊行したが、今回その中国語訳が四川大学出版社から刊行された。中国でのタイトルは『影像化的現代』である(定価25元)。訳者は李璐茜さんという日本語に堪能な女性で、四川大学大学院の院生である。
 また、南京大学副学長の張一兵教授の著作『マルクスへ帰れ』(中野英夫訳、情況出版、2013)について、私は雑誌「情況」にコメントを書いたが、今回それが中国語に訳され、中国の学会誌「学海」の創刊号に掲載された。おもいがけず、中国とのつながりが重なった感じである。(2014年6月4日)

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辻昌宏『オペラは脚本から』(明治大学出版会)

                    イタリア人は歌っている

イタリアに行くと、電車の中、レストランの中、人々の会話はすべて歌っているように聞こえてくる。なんで、こんなオーバーな身振りと、しゃべり方をするのか、と最初は不思議に思えるが、でもそのしゃべり方の音調を聞いていると、だんだん心地よい気分になる。それで、ほとんどの会話において語尾が上がるイントネーション↗を聞くと、なるほどイタリア人は楽天的、快活だと実感させられる。なんといっても、イントネーション↗は楽観的な(感動的な)、↘は悲観的な(冷静な)心情を物語っていることは、イタリア人と話していて得心するから。マキアヴェッリの原書読書会にこの間参加しており(注)、あのマキアヴェッリにも、語調におけるリズム感(響き)、それに伴う感情表現の巧みさがあって、しばしば当然韻を踏んだ文章にもお目にかかる。そうすると、下手くそな僕のイタリア語でも、文章を音に出して諳んじたい気分になる。このリズム感の心地よさ、感情表現の巧みさはイタリア人(イタリア語)ならではある。もともとイタリア語の表現(音調)は、音楽的だと否応なく思い知らされる。日本語にもそうした長所があるのは間違いないのだが、なにぶんにも、短歌、俳句をはじめとして、そうした国語力が弱体にして、日本語の表現力の深さに思いをはせることができない。もしかしたら、「君が代」にも音楽的な意味合いという点では、イタリア語と同等の長所があるのかも…
(注)マキアヴェッリ原書読書会は、7年間にわたって読み進めてきた『ディスコルシ-ローマ史論』を読了し、今後は『戦争の技法L’arte della guerra 』に移行します。関心のある方は、吉沢明meisan46@kind.ocn.ne.jpまで。
イタリアオペラの魅力は、そうしたイタリア語の音楽的な特性に、音楽そのものが合体していることにあると考えるのが妥当なのだが、辻さんの本著はその合体の構造とそこでの脚本のもつ意義を解き明かしており、僕としては最大の称賛を惜しまない。
一級の「趣味人」でもある辻さんは毎年GWに開かれるイタリア映画祭のほとんどの作品を見ており(その評は彼のブログ「イタリアに好奇心」を参照ください)、映画のなかで使われる表現、言い回しに着目して僕にも解説してくれ、その指摘が嚆矢を得ていて、感心したことがある。日頃から、何事にも、表現、言い回しには格別の配慮を払ってきたはずであり、それは、英文科卒の、エリオットにはじまる詩(言葉)の構造に対する認識(関心)にもよっている。その認識(関心)は、子供のころからのピアノの素養、イタリア語、並びにイタリア近代史の知識と結びついて、今回のオペラの脚本(リブレット)の読解に見事に結実した。
本著の中で格別興味を惹かれるのは、プッチーニとドニゼッティにおけるリブレットと作曲との連携とせめぎあいを論じる辻さんのやや強引とも思える読みである。この読みは、読み込みすぎという向きもあるかもしれないが、でも僕にはこれが断然 面白かった。ここではドニゼッティの言及箇所を中心に論じていくことにしよう。
第3章ドニゼッティの「愛の妙薬」の箇所で、「アディーナがベルコーレの求婚を軽くいなす部分に付したドニゼッティの音楽は絶妙としかいいようがない。ドニゼッティの魔術がすべて詰まっているといい個所なので、細かく見ていこう」と語るところは本著の頂点である。「魔術」と読み取り、推理小説よろしくその種明かしをすることが、もっともやりたかったことではないか、それが本著の見せ所であり、彼の腕力を感じさせるところでもある。
ドゥルカマーラが登場する場面、「Certo, certo egli è un gran personnagio…確かに、確かに、お偉いさんだ…」、このcertoを2回も連呼すれば、「怪しげな(不確かな)」響きをもつことは明らかなのだが、ここからの読みが素晴らしい。音調の揺れとcertoという言葉のつなぎの分割(cer・to)というドニゼッティの絶妙な手腕を論じて、「こういう微妙な認識のずれ、ゆらぎをユーモラスに表現するために、以上三つのレベルにわたって、精妙な工夫が凝らされているのだ」と、その手法を明らかにしている。一方で、ここで「「祖国への熱い熱」といったロマン主義(注:ヴェルディに典型)と強く結びついた概念が、インチキ薬の叩き売りの場面で登場することにも注目が必要だ。このオペラではロマン主義、あるいはそれと結びついた概念が無条件に讃えられるのではなく、痛烈なアイロニーを持って語られているわけだ」という、辻さんの視点が導入される。この「痛烈なアイロニー」という読みは、全篇の絶えざる視点で、一筋縄ではない、作曲家の含意を明るみにする意味で効いている。掛け合いにおけるセリフの押韻の仕方の分析も秀逸である。アディーナとドゥルカマーラの力 関係の逆転劇、つまり「ああ、先生よ。彼女はあまりに抜け目ない。/お前さん(注:自分に呼びかける)より上手だよ」とのドゥルカマーラの告白を押韻のパターンから分析している。少なくとも、知る限りこれまでこのような指摘はなかった。「オペラ・ブッファ史上最大の逆転劇」と小見出しで論じる、「ノー天気男」の主人公・ネモリーノがアリア「人知れぬ涙」の推理・分析も、しかりである。詩型-音節の分析を通して、ドゥルカマーラ-アディーナ(辻さんの語法では「ゲーム的恋愛観」の持ち主)とネモリーノ(「ロマン主義的恋愛観」の持ち主)の心情の対比が描かれる。当時主流であったゲーム的恋愛観に対して「ドニゼッティは、もうオペラも終わりに近いところに([…])、このロマン主義の時限爆弾をそっと置いた。当初は、案の定、ロマーニ[ドニゼッテイオペラ作品の脚本家]やその夫人たちのように多少の拒絶反応があったが、時代の判定はどうだろう。今や、《愛の妙薬》の中で、もっとも有名で、もっとも愛されているのは、この「素朴なおばかさん」ネモリーノが心情を吐露するアリアなのである」と、ドニゼッティの、単なるオペラ・ブッファの作曲家ではなく、それでいて、ロマン主義に対してはアイロニーを持って物語を表現する作曲家の側面が語られる。
《愛の妙薬》は、ネモリーノの最適役は「ノー天気な」美声の持ち主であるパバロッティであると思っていた(また、一見「ノー天気」に見えるこの物語の展開が好きな)僕に、そう単純なオペラ・ブッファでないことを今回教えてくれた。本著の、脚本の読み方の紹介により、ドニゼッティにとどまらず、作曲家の音づくりと言葉との連関の内奥の構造を垣間見せくれたことに大いに感謝したい。やはり、我々日本人が理解している以上に、イタリア人は、歌心の絶妙なポイントをよく掴んでいることを改めて教えてくれる。

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Jacques LACAN 『Autres écritsもう一つのエクリ』 (éditions du Seuil, 2001) 読書会のご案内

私たちは、この間ラカン『セミネールⅪ』(邦訳『精神分析の四基本概念』小出浩之他訳岩波書店)を、宇波彰先生を中心に同一章の3人発表制をもとに6回にわたって(2日制のセッション形式)読み進めてきましたが、5月3日‐4日をもって読了しました。引き続きこのやり方に沿って『Autres écritsもう一つのエクリ』読み進めてきますので、ご案内します。
『セミネールⅪ』から通常の流れとしては 『エクリ』に移行しますが、その『エクリ』は、ラカン自身の表現(およびレトリック)の難解さもあり、邦訳はなかなか理解しにくいものでした。ただ、誰が手掛けてもその翻訳作業は難しいといえるでしょう。
そこで、翻訳の問題に踏みとどまっていたのではラカン読解は進まないので、思い切って、翻訳は刊行されていないものの、『Autres écritsもう一つのエクリ』をテキストにラカン読解を進めることにしました。幸い、東京精神分析サークルの協力を得て、あくまでも「私家版」ですが、「手作りの翻訳」をご用意する予定ですので、意欲のある方は是非ともご参加ください。

【概要】
期日:8月30日(土)15:00‐21:30、31日(日)10:00‐16:00
会場:駒澤大学会館
テキスト:『Autres écritsもう一つのエクリ』(Seuil) 記:まだ翻訳はありませんが、東京精神分析サークルの協力を得て、翻訳を提供の予定
講師:宇波彰先生
協力:東京精神分析サークル
会費:1,000円/日(会場使用料の負担)

参加者は、同一章(同一箇所)に関して3人発表制に基づき、発表を担当することを一応の原則としています。
運営方法、テキストの詳細は追ってご連絡申し上げます。

連絡先:吉沢明meisan46@kind.ocn.ne.jp militante1946@gmail.com

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ラカン「無意識の位置」『エクリ』メモ

「無意識の位置」と題されたラカンの講演は、無意識の概念をめぐる混乱の根源には、「意識」の定義をまず与えた上で、その定義にあてはまらないものを無意識に配当するという考え方そのものにある、というところからは語り始められている。ラカンは、「黒色」という色の定義を例に出して、まず「黒色」の定義を与え、この定義にはずれる色を「黒ではない色」と定義するという方法の問題を指摘している。言うまでもなく、首尾よく黒色が定義できたとしても(レヴィ=ストロースが指摘しているように、色の概念は、文化によって異なるから、「黒色」一般の定義を、文化を越えて与えることは必ずしも容易なこととはいえないのだが)、そのことによって、黒から排除された黒ではない「何か」の存在を暗示することができるだけであって、これだけでは「黒ではない何か」が何であるのかを説明したことにはならなない。同様に、何らかの方法によって「意識」を定義できたとしても、この定義から外れる精神作用を「無意識」と呼ぶことにしかならず、無意識とは何なのかをめぐる議論に貢献できることは何もない。日本語の「意識」に関連して意識に含まれない概念を考えるとすれば、「無意識」以外にも、「前意識」のようにフロイトによって既に定義されているものだけでなく、「未意識」「非意識」「否意識」「被意識」「共意識」などなど様々な意識をめぐる「造語」がありうる。こうした意識にあらざる対象を指示する概念の「開発」は、言語の作用をふまえれば、決して軽視すべきではないし、検討に値する魅力的なことだが、それによって「無意識」の包囲網が緻密になりはしても、「無意識」それじたいを明らかにしたことにはならない。
ここでラカンが批判の対象として念頭に置いているのは、デカルトやヘーゲルの「精神」や「意識」の理解、科学あるいは心理学が前提にする「精神」や「意識」の定義である。ラカンはデカルトのコギトに言及した後で、「科学にとっては、コギトは、反対に、直観によって条件づけられるあらゆる確かさを放棄する」と述べている。これは微妙な言い回しである。デカルトは「われわれの感覚がわれわれの心をときには欺くゆえに、私は、感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定」し、「ほんわずかでも疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえない何ものか」として「私」を救い出す。ここでいう「私」とは、「一つの実体であって、その本質あるいは本性はただ、考えること以外の何ものもな」いという意味での「私」であり、この意味での精神が自己を自己たらしめるとした。しかし、ここでいう精神から、「私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬもの」として除外され、感覚ともども「偽なるものとして投げすて」られる。外部から来るいかなるものも真ではないというデカルトに対して、むしろラカンは外部あるいは他者なしには「私」は真にはなりえないとみるのだが、デカルトの言う「真」とラカンの言う「真」には共通性はなにもない。言い換えればデカルトの「私」とラカンの「私」の間に共通しているのは、シニフィアンとしての「私」だけである。これは、デカルトにとっては許しがたいことだろうが、ラカンにとっては、これこそが「私」の本質(このような概念をラカンは嫌うだろうが)なのである。(注:デカルト『方法序説』、野田又男訳、中央公論社、世界の名著、p.188l)
しかし、ラカンは、デカルトやヘーゲルが理想とした人間の意識のありようとは逆に、精神の現実のなかで意識の配分のされ方は、デカルトならば本来あるべきだと言うかもしれないようなレベルとは異なるレベルに見い出せたり(異所性)、一貫性が見い出せなかったりすることが当たり前のことであるとみなし、これをを重視する。こうしたまとまりのなさのなかで、唯一まとまりがあるかに見えるのが「自我」だが、このような一貫性としての「自我」もまた、鏡を通して得られたイメージに
よって捉えられた錯認にすぎない。
心理学が果している機能は、この現実にある意識の一貫性のなさ、あるいは異所性こそが意識のありようそのものであるのに対して、このようにして存在する「私」が抱えこむ精神的な問題を、同質的で一貫性をもっているかのように「意識」させることを通じて、「私」なるものを現実に適応させるものだ。
心理学は、市場の原理(ビジネス)あるいは消費主義的な意識に寄与するような人格の再構築に寄与するものでしかなく、これを可能にしているのがアカデミズムの権威であるとラカンは指摘している。だから心理学的な「無意識」の概念は、イデオロギーにしかならず、むしろ無意識をめぐる根源的な思想的な営為に敵対するものだとみる。
支配的な心理学では、現存の世界の支配秩序によりそう体制科学であるために、心理学が想定する正しい精神を攪乱し偽の罠に落しいれる要因は、この心理学が偽なるものとして打ち捨てたあれやこれやのがらくたのせいなのだ、という暗黙の枠組を前提している。精神における正しさの基準を、いかに錯乱の中にあろうとも現実の世界に沿って与えようとするのが、支配的な科学の立場だが、まさに心理学はこのような罠に嵌っている。これがラカンが批判してやまない心理学の本質的な限界だということになる。
ラカンにおいては、フロイトを継承して、「精神分析家は無意識の概念の部分であり、その一画をなす」のだが、その理由は、無意識は、分析主体が分析家に差し向ける言葉から構成される以外にないからだ。分析主体の無意識には、分析家と分析主体との間のディスクールが含まざるをえないし、このようなディスクールなしには無意識が「無意識」と呼びうるものとしてその存在を自覚化される(分析家によって、そして多分、分析主体によって、しかしこの両者が了解する無意識の意味するところが同じであるとは限らない)ことはないからだ。

*無意識と本能
言語を欠いた動物にも本能はあるが、無意識はない。無意識は言語活動と不可分である。分析経験のなかで語ることは影響を受けるが、隠喩と換喩がもたらす効果によって、ことがらを明確に表明することが回避される。分析経験を通じて表出された言葉を介して、無意識が構成されたものとなる。もし、そうだとすれば、このようにして無意識が言葉となって語られる(隠喩や換喩によるあいまいで不明確な内容として)ということは、それ自体が発話の影響あるいは結果ということなのか。このような発話の契機の背後に、発話を捨象しても存在する無意識と呼びうる何ものかが存在しうるのだろうか。ラカンは、こうした発話として現われる言語を捨象してなおそこに存在するような何ものか(無意識)はないと考えている。
ソシュールをふまえて、言語の効果は、共時態と通時態によって構成される主体に基礎づけを与えることになるとすれば、このことは、主体と大文字の他者との間の分離が形成されるのがまさに、このような言語効果の場であるということでもある。言語は無意識をそれ自体として指し示すことはできないが、無意識は、言語なしにはその存在を私たち(分析者)に示すこともない。同時に、私が語ること、私に語られることとは、他者との分離であり、他者を通して主体が構築されるかのように「私」には了解される過程でもある。これは、とりあえず「私」と呼びうるアイデンティティを形成するが、だからといって、曖昧模糊としてとりとめのない首尾一貫しない説明のしようのない何ものかとしての性質が「私」として統一され凝固した自我を形成することになるわけではない。いや、そのような自我を直観することはありうるし、それこそが、ほとんど多くの「正常」な人々が実感する「私」であるのだろうが、ラカンは、そのような「私」こそが疑うべきものであり、擬制でしかないということを、虚偽意識だとか騙しだとか錯認だとかということではなく、批判に晒そうとしている。
支配的な心理学や精神医学は、むしろ、統一された自我を理想的かつ可能な人間のありかたとして設定し、このような自我を再構築することを目指すとすれば、そのような「科学」こそがむしろ欺瞞であり、不可解で理解を越えるところにある人間を拒否するものだとみている。多分、ラカンにとって、この世界あるいは現実界こそが錯乱の極みであり、これを秩序だった「世界」として見せることとの間にある深淵に自覚的な少数者こそが、分析の主体なのだと言いたいのかもしれない。

*無意識と欲望
無意識に関するもうひとつの重要な問題は、欲望の問題である。ラカンは次のように述べている。
「この第二の偽証教唆は主体のトポロジーを投影することによって第一の効果をつかの間のファンタジーに閉じこめる。つまり、欲望の主体が発話の結果を実現することを許さずに、封印する。言い換えれば、彼がどのような存在なのか他者の欲望を別にして実現することを許さず、これを封印するのである。
これが、なぜ、いかなるディスクールも、ディスクールそのものとしてはその結果に責任を負わないと考えるのかの理由なのである。いかなるディスクールも、教師が精神分析家に語りかける場合を別にして、そうなのである。」
言葉は、欲望をファンタジーのなかに閉じこめる。主体がもつ欲望がどのようなものなのかは、それ自体として明らかではないが、「どのような欲望を持つべきか」「どのような欲望は持つべきではないのか」という欲望をめぐる倫理は、主体によってではなく、分析者とのディスクールのなかで、言葉を介して、主体のなかで構築される。この意味で、主体の欲望は分析者の欲望と不可分である。しかし、こうした欲望は、隠喩と換喩のなかで、はぐらかされあいまいで不明瞭であったり断片的であったりするものとしてしか語られないかもしれない。このようなデイスクールから分析者は、主体の欲望を構築するともいえる。この意味で、主体の無意識の欲望は、分析者を媒介にして、分析者による介入を通じて、言語的な自覚のレベルを獲得するが、このことは、あらかじめ存在するが自覚化されない欲望の自覚化ではなく、言語化されることと同時にそこにおいて生成される欲望である。
もしそうであるとすれば、唯一、分析者は、このような他者と自己の欲望を超越して、その両者を己れの認識の下に統御できる存在なのだろうか。多分そうではなくて、分析者はまた、主体によって、主体化され、主体はこの意味で分析者なのである。これは、主体と分析者のディスクールの現場で入れ替え可能なものとしては成立しないが、これは例外であって、一般的には、いかなる非対称的なディスクールにおいても、常に、「私」は他者の欲望としてあり、「私」の無意識もそのようなものとしてしか存在しない。(だから、「私」は無意識を無意識として認識できない)

*言語、哲学、現実世界
言語なしには哲学は成り立たない。対話であれ書かれて伝達される言語であれ、言語によってのみ哲学であれ何であれ学知とよばれるものが成り立たざるをえないということを一体どのように考えたらよいのか。現実の世界は言語を含み言語によって認識されうるものとなるとしても、あるいは、無意識もまた、言語そのものではなく、言語によって、構築されるとしても、しかし、言語は無意識に到達することはできない。そればかりでなく、現実の世界は、言語を大きく越え、逸脱する。ここに学問の決定的な限界があるように見える。学問を入口にして、世界を、あるいは人間を理解することは、あきらかに間違った方法であろう。それが実践的な学としてあたかもその理論が実践的に適応可能であるとみえる場合であっても、そうである。医学や工学の分野はこの罠に完全に陥っており、社会科学はこの罠をめぐってそれ自体が分裂の歴史を歩んできたが、精神医学や精神分析あるいは心理学は、いわばこの罠の縁にあって、あやういところを歩んできたようにみえる。しかしいかに批判的であっても、言語の世界から解き放たれた学の世界は見出されてはいないようにみえる。他方で、「芸術」と呼ばれる別の真理の世界もまた、言語の罠を逃れているわけではない。作品は言語の支配をどこま
で免れているといえるのか。
他方で、現実の人々が構築する世界は、たとえ言語によって取り囲まれているとしても、言語に還元できない世界を生きている。現実の世界は、説明のしようのない混乱(錯乱)のなかにあるにもかかわらず、人々は、この世界に秩序を見ること、あるいは、自己の行動を科学的に説明可能なものとみなすことを当然のように行なっており、逆に、なにひとつ説明可能なことなどありえないような混沌のなかに生きているということを自覚することは、ほとんどない。
真理を説くことができるという考え方は、フロイト以降根源的な疑義に晒されてきたし、ラカンのパラダイムもこのような疑義を前提として、それでもなお、真理への問いを追求しようとするものだといえる。
もし、そうだとすると、欲望を充足することと、上記の述べた、言語行為との関係はどのようなことなのだろうか。語ることによって、欲望は充足されるのではなく、ファンタジーの中に閉じこめられ、欲望の充足の道はむしろ閉ざされる。あるいは欲望はファンタジーとして固定されて、その中で充足されるように促される。欲望の主体は、これを欲望の充足そのものととりちがえることである種の安定を得る(与えられる)。ディスクールとは、このような欲望の特異な充足(の装いのもとに欲望が
巧妙に抑圧されることでしかないのだが)である。このディスクールで私が差出すのは、他者の欲望なのだが、しかし、この他者の欲望はこのディスクールで充足されることはない。それは「ことば」であって欲望が指し示すことがらそのものではないから。そして肝心なことは、このような欲望の流れは、私の肉体を越えて、他者の現実へと至ることがないということだ。言い換えれば、世界は不変なまま、私は自己の欲望を自己へと折り返され、現存する世界の(錯乱した)支配は継続される。ボスは殴られて血をみずに済むというわけだ。これは一体誰にとって得なことかは自明だろう。

*結合様式としての、閉じること、入口、縁
閉じることが可能なためには、それが入口であるということが前提されていなければならない。入口であるということは、そこから中へ入ることが予想され、あるいはそこから出ることが予想されるような場所でもあるということだが、同時に、そのような場所は、閉じられること(あるいはその逆に開かれること)も可能性なものとして直観されるような、そのような場所でもある。
ここで閉じることと入口であることは分離しているのではなく、ラカンのいう「結合様式」を有する二つの領域であり、この二つの領域とは主体と他者である。この両者は、無意識によってのみ現実化されうる。「デカルトの言う主体はこの無意識によって前提されていることである」。言い換えれば、主体が無意識の前提なのではなく、無意識が主体の前提なのだということである。そして、このような主体は同時に他者を伴い、他者と主体との結合様式(開かれと入口、あるいは閉じることと出口)と不可分でもある。「他者は、発話が事実を真実として認める、そういった意味での事実によって必要とされる次元」であり、無意識は主体と他者の間にあり、行為においてカットされた部分である。
行為の側から主体と他者を見るとしても無意識はそこには見いだせず、行為には現われえないものなのだが、しかし、主体と他者をこのような現われえないものとして結合する必須の条件をなしている。
ここでラカンがいう「カット」とは、疎外と分離である。リストカットのようなことと言ったらいいだろうか。「疎外は主体そのものの構成要素である。対象の領域において、シニフィアンとの関係と切り離されて疎外を生み出すような関係は考えられない。議論の出発点として、いかなる主体はいかなる理由があろうとも、もし現実のなかで語る存在でないのであれば、現実に存在しえない。」主体が世界にあるのは、シニフィアンが存在するかぎりでのことであるが、このシニフィアンは、それ自体では何も意味しないけれども解釈されねばならないものとしてある。」「主体に対するシニフィアンの優位性を保証しているのは、(中略)機知においてシニフィアンが主体を驚かすかもしれないようなところにまで至って、主体がそのことに気付く前にシニフィアンが演じかつ勝利を収めることによる。」これが「主体の彼自身からの分離」であり、疎外である。このような分離は、シニフィアンの働きそのものから生まれる。ここで重要なことは、シニフィアンが隠喩や換喩の働きを有することにある。これは、動物にもありうる記号表現にはない、人間に固有の働きである。言い換えれば、人間の言語活動がその出発点から有する隠喩と換喩という働きによって、人間は、主体と他者の結合様式とそこに生じる無意識において疎外を抱え込むのである。
ラカンにとって、このような意味での疎外は、普遍的あるいは本質的なものであって、歴史的なものではない。しかし、他方で、心理学や哲学へのラカンの批判は、これらがある歴史的な文脈のなかで支配的な力を持つようになったこと、そしてまた、欲望や言語の社会性、歴史性を前提すれば、無意識も疎外も、主体も他者も、歴史性の次元を免れないように思う。これは政治的な問いであるが、同時に、精神分析が分析主体にとっていかなる意味で、その主体を解放する技術となりうるのかという問いとも無関係ではないと思う。
「カット」に含意された二番目の意味、「分離」は、フロイトが男根的な分裂のうちに位置づけた主体の分裂(対象の分裂)を意味する。ここでは主体は、他者の欲望のなかに、「主体の無意識の主体としてあるものの等価性を見いだす」。これは主体は喪失を通じて自己を実現するが、「フロイトの言う死の欲動に従って、他者のなかに生み出す欠如をとおして、無意識として沸き立たせる」ことになる。
この分離は、記号論理学でいう共通集合によってもたらされる「弁証法的に変形を加えられた論理形式」である。ここでは、主体の側には他者にとっての欠如が含まれ、主体の欠如が他者に含まれるのだが、これら双方の欠如の残余が共通集合をなすが、これは、主体と他者の共通集合が欠如によって支えられているということを意味する。しかし、ラカンは、この記号論理学でいう共通集合が誰からみたものなのかについては明言を避けているようにみえる。そもそも。集合概念は、線による自他の境界の明確化が前提されているが、精神分析における境界は、このような線的なものといえるのかど
うか。むしろ境界は、譬えていえば、紙の上に水に浸した筆で描かれたような筆跡あるいは、統計学でいう離散のような性質のものであり、なおかつ主体の側と他者の側がそれぞれに生じる共通集合と欠如についての図形は一致するかどうかを確証する手立てはないが、しかし、主体が文字通りの意味での他者に出会うとき、双方における図式のずれが、ハレーションを引き起こす。ラカンのこの共通集合と欠如の図式はあくまで、分析者によるものであって、そこには、社会関係のなかで主体が不断に経験する疎外や分離とは異なることがらであるようにも思う。
それはともかくとして、この基本的な構図のなかで、ラカンは「分離」にまつわるフロイトの議論を、クラインの議論を念頭に置きつつ、母あるいは乳房との分離と結合、男根と去勢の弁証法として、エディプスコンプレクスを論じているともいえる。性欲あるいは死の欲動は、こうした主体と他者との欠如をめぐる弁証法によって駆動されるものであるが、ここに主体が囚われること、ここにおいて主体が対象を主体の外にありつつ自身の内部に捉えるメカニズムを配置する。これは、世界との関わりが、理性ではなく欲動に深く根差すということでもある。しかし、同時にこれら全てのことは、我々には、言葉のなかで、言葉によって、言葉としてしか捉えることができないものであり、もし主体と他者がこのようなものであるとすれば、無意識はこうした配置のどこかに存在するようなものではなく、これらの配置、あるいは弁証法的な構造がその支えとするようなものそのものだが、それは指し示すことのできる「何か」であるということではない「何か」である。

*無意識の「位置づけ」
この講演のタイトル「無意識の位置」とは、空間的な意味での「位置」なのではなく、上記のような構造が「位置」を我々に言語を通じて理解しうるものへと押し出す。だから「位置」というよりも「位置づけ」と訳すべきものだろう。位置づけは、あらかじめ或る場所を占めているような座標軸上の配置を意味するのではなく、むしろこのような座標軸そのものである。これは、伝統的な哲学や近代の心理学が、追求してきた意識をめぐる諸問題とはそもそもその位相も問題意識も異なるものだといわなければならない。言い換えれば、哲学であれ医学であれ、これらが解決しようとして解決できなかった「人間」をめぐる謎を、近代という時代がもたらした理解を越える隠喩と換喩によってはぐらかされた意味不明の世界、あるいは主体の喪失の謎に迫るとりあえずの挑戦であるとみることができるかもしれない。

付記:文中のラカン「無意識の位置」は『エクリ』第III巻所収、佐々木孝次訳、弘文堂によるが、
訳文は同じではない。

注記
 去る5月4,5の両日、当研究所主催の「ラカン研究会」が駒澤大学で行われた。ここにアップされたのは、『エクリ』所収の「無意識の位置」についての小倉利丸さんの報告のレジュメである。(宇波)

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