宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

忠臣というフィクション:富岡鉄斎の「南朝忠臣図」について

 早稲田大学構内にある會津八一記念会館で510日から616日まで「【富岡展示】近代の日本画」という企画展が開催されていたが、そこに富岡鉄斎の描いた「南朝忠臣図」が展示されていた。これは12枚で一つのシリーズを構成する作品で、一枚の絵に一人ずつ、総計12名の忠臣が描かれたものである。鉄斎の絵の代表作ではないが、この作品は明治期の知の巨人の一人である鉄斎と当時の思想状況を考える上で重要なものであると共に、「忠臣」という歴史的フィクションを考える上でも興味深いコーパスとなるものである。それゆえ、ここでは鉄斎の忠臣図から派生していく歴史的、イデオロギー的な問題を中心として考察していこうと思う。
 

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フラハティの「モアナ」を見る

 去る2018年6月20日に、私は試写でロバート・フラハティの「モアナ」を見た。これはフラハティが数年かけて撮り、1926年に公開したサイレント映画であるが、今回上映されたのは、音声を加えた新版である。1920年代のサモア人の生活を描いたドキュメンタリー映画とされている。しかし、試写の会場でもらったパンフレットに載っている、きわめてわかりやすい金子遊氏の解説によると、この映画は「実在の家族や人物をそのまま記録するのではなく、キャスティングした現地の人々を使って劇化し、昔ながらのサモアの姿を再現して描いた作品」である。
 サモアとはどういうところか?手元にある古い百科事典(1965年版の『アメリカーナ』)などで調べてみると、サモアに最初にやってきたヨーロッパ人は、オランダのロッゲフェーンという人で、1722年である。その後、19世紀末の「帝国主義」の時代に、サモアはドイツとアメリカの植民地になった。1899年のことである。遅れて成立した「国民国家」であった当時のドイツ帝国にとって、征服すべき植民地として残っていたのは、アフリカの一部と、南太平洋の島々だけだった。
 同じころ、サモアでフィールドワークを行なったアメリカの人類学者マーガレット・ミード(1901~1978)は、1928年に『サモアの思春期』(Coming of age in Samoa)を刊行した。(金子遊氏もこの著作に言及している。)彼女はそのあと、ニューギニアでイギリス生まれのアメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソン(1904~1980)と知り合い、結婚する。二人で書いた『バリ島人の性格』は写真を多用した著作で、映像人類学の先駆的な業績だとされている。
 「モアナ」を見ると、主食であるタロ芋は無尽蔵にあり、魚はいくらでも釣れる。ヤシの実はふんだんにあり、『アメリカーナ』がsemiwild pigとしている、イノシシに近い野豚も罠をかけて捕まえることができる。桑の樹皮から服を作り、ウミガメの甲羅からは装身具を作るであろう。何よりも平和であり、スクリーンに登場する少年はいつも笑っている。「モアナ」のサモアは「楽園」そのものではないか。
 ところで私は、たまたまエンゲルス(1820~1895)の『イギリスにおける労働者階級の状態』(大月書店、国民文庫、1971)を読み直したところである。エンゲルスはロンドンの貧民居住地区について次のように書いている。「完全な窓ガラスなどはほとんど見当たらないし、壁はくだけ、入り口の戸柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板を寄せ集めてうちつけてあるか、あるいはまったくつけてない。汚物と塵埃の山があたり一面にある。」(p.93)およそ人間の住むところとは到底いえないそのあたりは、「貧民のなかのもっとも貧しい者」、つまり「不潔と貧乏によって堕落した多くのアイルランド人」が住んでいるところである。また英訳で読んだエンゲルス選集では、1844年のマンチェスターの貧民街に住んでいるのも、「アイルランド系の一群の労働者たち」である。(F.Engels,Selected writings,Penguin Books,1967,p.30) エンゲルスが描写する1840年代のロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たちとその家族の生活に比べると、「モアナ」で描かれたサモア人の日常は,極楽そのものである。実際、この映画のサブタイトルは「最後のアルカディア(理想郷)」である。
 アイルランドでは、1845年から1852年にいたる大飢饉があって、多くのアイルランド人が死亡した。すでにその前からアイルランドはイギリスの徹底的な植民地政策によって極度の貧困状態にあったが、主食であったジャガイモの「胴枯れ病」(blight)で、いわゆる「ジャガイモ飢饉」となり、「ウィキペディア」によると、当時のアイルランド人の20%が死亡、10~20%がイギリス、アメリカに移った。しかし、アイルランド人は、この飢饉の前からも、すでにイギリスに職を求めて移住していたのである。エンゲルスが見た、悲惨な生活をしているロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たたちは、はやくからアイルランドに見切りをつけていた。テリー・イーグルトンの『ヒースクリフと大飢饉 アイルランド文化の研究』(Terry Eagleton,Heathcliff and the great hunger ,studies in Irish culture,Verso,1995 )によると、1847年までに、リヴァプールには30万人のアイルランド人が押し寄せた。いまでいう「難民」である。エミリー・ブロンテが『嵐が丘』を書き始めたのはそのころであり、イーグルトンはヒースクリフがアイルランド人であった可能性が高い(quite possibly Irish)と書いている(p.3)。
 Antonio Napolitano,Robert Flahaty,La Nuova Italia,1975によると、フラハティの祖父は、1850年にアメリカに来たアイルランド人であるとしているが、フランスの映画事典によると最初はケベックに来たと記してある。それはおそらく彼がカトリックのアイルランド人であったという宗教的な理由であろう。フラハティは1884年にミシガンで生まれているが、彼には「アイルランドの記憶」が祖父母、両親から与えられていたと見ることができる。
 フラハティが「モアナ」で作った世界は、確かにサモアの現実の描写ではなかったかもしれない。しかし、彼はこの映画で「人工楽園」を作り出したのである。エンゲルスが告発した、19世紀半ばのアイルランド人の極度の窮乏生活とは正反対の世界をスクリーンに描き出したのが「モアナ」である。(2018年6月29日) 

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中村研一の戦争画

 そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
 駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
 このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。 

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映像の向こう側にあるマルクス像

 220席ある映画館は満席だった。だが、ぐるりと見まわすと、ほとんどの観客が65歳以上であることがすぐに判った。20代、30代と思われる観客は数えるほどしかいない。この映画館の前回上映作品、キルギスのアクタン・アリム・クバト (ラテン字表記:Aktan Arym Kubat) 監督の「馬を放つ (原題ラテン字表記:Centaur)」は名作だと私は思ったが、そのときの入場者数は30名足らずだった。それとはまったく対照的な光景。何故この映画を見るためにシニア世代の多くの人々がここ、岩波ホールに集まっているのか。それがこの映画を見る前に私が抱いた大きな疑問であった。映画のタイトルは「マルクス・エンゲルス (原題は“Le jeune Karl Marx”であり、直訳すれば「若きカール・マルクス」)」。ハイチのラウル・ペック (Raoul Peck) 監督が制作し、2017年から劇場公開が開始された作品である。若き日のマルクスとエンゲルスに自らの青春を重ね合わせるために、多くの観客はここに集まったのだろうか。そうであるならば、あまりにも感傷的で、回顧的な行為ではないだろうか。映像を見る前に、私は作品の内容とはまったく関連のない詰まらない事柄が妙に気になった。
 映画はあっという間に終わった。興味深い作品であった。だが見終わったとき、私は映像そのものについてではなく、この映像を見ることを通して思った以下の三つの事象について検討してみようと考えた。最初の検討課題はマルクスが用いたレトリック (もちろん、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels) においても同様であるが) の問題であり、二番目のものはマルクス哲学における理論 (Theorie) と実践 (Praxis) の連続性に関係する問題である。三番目のものはマルクスの生きた時代と現代との時代精神の差異を巡る問題である。それゆえ、映画の物語性についてはここではほとんど触れないつもりである。この考察方向性からも判るように、私の探究はテクストクリティックというものでも記号学的なものでもなければ、マルクス主義経済学の範疇に属するものでもマルクス主義哲学の原理を問うものでもない。「マルクス・エンゲルス」という映画を基軸として、異なる様々な時代的な断層や学問的な領域を横断することが問題となる。 

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一枚の肖像画を巡る眼差しの歴史

 展覧会の入り口を通過すると、この会場に飾られている絵画作品のコレクターの大きな写真が目に飛び込んできた。自分の集めた絵に囲まれて一人椅子に座っている男。彼は長い時間をかけて収集した宝の前で満足そうな笑みも浮かべずに、ただ座っていた。男の名前はエミール・ビュールレ (Emile Bührle)。1890年にドイツ南部のプフォルツハイムで生まれ、1936年にスイスに帰化し、1956年にチューリッヒで死去した実業家であり、もちろん美術収集家である。
 彼のコレクションの一部が今日本に来ている。「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というタイトルで、六本木の国立新美術館で214日から57日まで開かれている展覧会で、コレクションの中の64点が見られるのだ。2008年に盗難事件に遭ったポール・セザンヌ (Paul Cézanne) の「赤いチョッキの少年 (Le Garçon au gilet rouge)(1888-1890)、エドガー・ドガ (Edgar Degas) の「リュドヴィック・リュピック伯爵と娘たち (Le Comte Ludovic Lepic et ses filles)(1871年頃) 、クロード・モネ (Claude Monet) の「燕 (Les hirondelles)(1873年頃)、フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) の「花咲くマロニエの枝 (Branches de marronnier en fleur)(1890) という4枚の絵や、エドゥアール・マネ (Édouard Manet) の「べルヴュの庭の隅 (Coin de jardin de Bellevue)(1880)、ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)の「贈り物 (L’offrande)(1902)、ジョルジュ・ブラック (Georges Braque) の「ヴァイオリニスト (Le violoniste)(1911)、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) の「イタリアの女 (L’italienne)(1917) といった名作が目の前で見られるという意味で非常に興味深い展覧会である。だが、私はこのコレクターの人生と一枚の絵の運命とに引き付けられ、会場へと向かった。その絵はピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir) が描いた「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢 (Portrait de Mademoiselle Irène Cahen d’Anvers)(1880) である。 

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