宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

書評;『未来のための江戸学』 失われた環を求める旅

あるTV番組で、NY在住の若きクリエイターはこう言った。
「消費するより、何かを作るほうが楽しい」
彼が作るのは、ハイテクおもちゃである。路上に散らばる粗大ゴミが材料だ。見ていて、私も手を動かしたくなった。電話や書類を置いて、空の下に出て行きたくなった。歌は聴いていると歌いたくなるし、歌詞が分からないなら一先ず自分で作詞してしまえば良い。
この番組が記憶に残ったのは、田中優子著『未来のための江戸学 この国のカタチをどう作るのか』(小学館101新書、2009年10月6日)を読んだからだ。
250ページ位のごく平均的な厚さの新書だったので、二時間もあれば読み終わると思っていた。しかし、なかなか進まない。斜め読みを許さないのは、少し進むごとに必ず江戸と現代がリンクするという特性のためだ。少し読み進むたびに、今の自分の生活への態度を省みてしまうのだ。それは私が地に足を着けて暮らしていないという証明でもある。
持続可能な社会を築く。よく聞く言い方であるが、この本はそのための提案は拍子抜けするほど書かれていない。環境に良い生活の指南本ではないらしい。読んでいてだんだんこれがなぜなのか分かってくる。

江戸文化の本質は「循環(めぐること)」の価値観であり、「因果(原因と結果)」を考える方法にあるという。人に勝って高い賃金を得て、高額商品を求めるという直線的な価値観ではなく、自分がした行為はまた自分に戻ってくるという環を描く価値観である。この本は、自由競争の直線から循環と因果の環へ「引き返す方法を探る」本なのだ。
自分の行動が何をもたらすか、考えることで因果関係を知る。その先には、新しい社会の形と新しい生き方が見えてくるはずだ。もっとも知ろうとしても壁はあるだろうし、何を信じていいのか分からなくなりそうだという怖れはある。ただ知る意志の継続と行動は止めてはいけない。

 話が変わるようだが、私は著者の文章を男性的だと感じることがある。怒涛のように紡がれる描写がものすごく冷静であり、舌鋒が針みたいに鋭いときだ。あとは手っ取り早く次の話題に移るとき、その切り替えの早さである。文章をだらだら書かない。私が連想するのはイタリア人作家、ナタリア・ギンズブルグである。ギンズブルグの翻訳を手がける須賀敦子の「あとがき」によると、若い頃のギンズブルグは「男のように書かねばならない」と自らに言い聞かせ、自分本来の感性は封じ込めていたという(『ある家族の会話』、白水Uブックス、1997)。しかし長い文学修行を経た後に、自分に課した制約を解き放って書いた作品『ある家族の会話』で一躍有名になったのだ。著者にも「男のように」と意識するときがあるのだろうか。

田中優子の文体は、基本的には自分が読み取ったことをずんずん勢いよく並べていく「列挙」の連なりである。その連なりから理解したこと、理解に至る過程をも流れのままに陳列する。有無を言わさず並べていって数珠つなぎに綴っていく。気がつくと近世の周りを、思想や書物の環が取り囲んでいる。本に書かれたことを読むのではなく、ものの動きを見ているからできる「わざ」なのではないかと思う。読む人ではなくて見る人だ。筆は武器だが目も武器になるとは知らなかった。しかも目は一つではない。顔にある目で品物を吟味し、頭の中のたくさんの目で世界を見張っている。著作は博物学的になるに決まっている。
「未来のための江戸学」とは、著者が今まで取り組んできた研究成果の社会への還元であり実践である。そして実践は始まったばかりである。読めば誰もが、この新書一冊で終わる内容ではないと思うだろう。考える人と実践する人が同じであれば、説得力も魅力も増す。まだまだ田中優子は旅を続けることになる。
著者は、現代ももちろんだが江戸時代も完璧な社会だとは思っていないし(その文化を非常に好んではいる)、「いま」を希望ある時だと考えているからこそ、知を力に変える方法をつかもうと試みる。 方法は、一人一人が意識して鍛えていくものなのだ。人間の知が力になるなら、一人でも多くの人が考えた方が、未来も明るくなるだろうから。それを教えてくれた本だった。
冒頭で挙げたNYの若者の知=技術はネットでの公開がきっかけとなって彼の周りにたくさんの仲間を集め、活動している。彼の知を一つの方法として認め、人がゴミを増やしてしまうような行為を見つめなおせていたら良いと思う。

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