宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

短歌で読む哲学史3

ルネサンスの哲学
○対立の一致を映すこの世には神の命が貫かれている
ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)はマイスター・エックハルトのドイツ神秘思想と
近接性を持っています。さらに、古くからのディオニュシウス・アレオパギタやエリウゲナ経由のプラトン主義の立場に立ち、ピュタゴラスに似た数学的比喩で神学を表現しました。『学識ある無知』によると、神は極大なものですが、その極大は極小との比較ではなく、同時に極小でもある絶対的極大であるとクザーヌスは言います。神は極大と極小の統一であり、神の本質はあらゆる対立の結合、「対立物の一致」だと述べています。このような神はただ無知の自覚のなかで触れられるものであります。その意味でクザーヌスの神学は、積み重ねの上に成り立つ「学識ある無知」にほかなりません。すべてを内包する神の性格が、空間と時間において展開されたものが、この世界です。「対立物の一致」の時空での展開である世界は「形相」と「質料」から成り、両者を結びつけるのは愛という万物の運動のはたらきです。世界は神の展開である以上、それぞれのものが、すべてを束ねる神の本質を宿しているとクザーヌスは言います。すべてのものが個別に神を映していて、すべてはお互いに調和した関係にあります。そのなかで人間は自覚的に神を映す、万物の尺度であります。そしてひとの魂は知るはたらきの極限で、神との一致に至り得るとクザーヌスは言います。絶対的な極大なる者としての神と制限された極大なる者としての世界を兼ね備えた存在で、神の全一性を備えた人間こそ、イエス・キリストだとクザーヌスは考えます。このキリストへの信仰と愛によって信仰者が結びつくことで教会が成り立っています。クザーヌスの神学の特徴は「世界は神の展開であり、神の生命に貫かれている」として、いたるところに神がいるという考えであります(野田又夫『西洋哲学史』を参考にしました)。

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短歌で読む哲学史2

教父哲学
○ギリシアの賢人たちもキリストのロゴスの種に与かっていた
ユスティアヌス(100-165年頃)
パレスティナのサマリア人ユスティアヌスはストア派からアリストテレスを祖とするペリパトス派、ピュタゴラス派を経てプラトン哲学に出遭いましたが、キリスト教に出遭ってはじめて真の哲学を見つけたと感じました。哲学者たちは真理のいくつかを発見したけれども、それは神によって知性に種まかれたロゴス(ことばのはたらき、ことわり)による作用だとユスティアヌスは考えました。完全なるロゴスはキリストに他ならないので、知性に与かって行為する者はキリストに与かって行為するのであり、イエス以前の賢人は、信仰者
アブラハムだけでなく、ギリシアの哲人たちもまた、キリスト以前のキリスト教徒だとユスティアヌスは考えました。あらゆる真理は一つであり、哲学的な知とキリスト教の信仰は別物ではないと考えました。というのも古今の賢人は神的ロゴスであるキリストに与かって知性を発揮したからです。古代哲学を知ることはキリストの神的ロゴスを知る助けとなり、
決して異教徒の本を読むことがキリスト教理解の妨げにはならないのだとユスティアヌスは考えました。

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短歌で読む哲学史1

○万物にある共通のみなもとの正体探り哲学始まる
「万物のもとは水である」とイオニアのミレトスのタレス(B.C.585頃活躍)は言いました。それが西洋の哲学の始まりだと言われています。万物のもとは水とは一見、突飛な迷言に見えますね。なぜ、タレスの一声が哲学の産声となったのでしょう。それは万物というありとあらゆるもの、森羅万象をひとくくりにしたこと、それらには共通のエレメントがあると見抜いたことが、世界の洞察の学問としての哲学の基礎と考えられたのです。なぜ、水なのか、他のものではだめなのかと疑問に思いますね。水は命を育むものだからとか、水なしには生きていけないから、とか形が自在に変わる中立的なものだからとかいろいろ説明されますが、タレス以降の人々も、森羅万象のエレメントをあれこれ想像してみました。
○万物のもとは水だと言うけれど無限定ではなぜいけないか
タレスの後のアナクシマンドロス(B.C.610-546/5頃)は「万物のもとは無限定なものである」と主張しました。
すべてのもののもとであるなら、はじめは性質が限定されていないものに違いない、水では
まだ不十分だ、正確には無限定なもの(ト・アペイロン)でなくては説明ができないと言い出したのです。すべてがそこに帰って行き、そこから生まれてくるものは運動しているうちに暖められて火になり、冷たい状態では空気や水や土になる。無限定なものは自ら運動する
活力のあるものですから、これはうごめくモノがいきている、と考える、すなわち物活論の一種です。
○万物はすべて不正を償ってそのみなもとへと帰り消えゆく
「すべてのものは、もとのものへと必然の定めによって消滅してゆく。」ここまでは何とかわかりそうです。けれども「万物はその犯した不正のゆえに、秩序にしたがって、罰をうけるのだから」とアナクシマンドロスは言っています。何やら宗教的であり、法の起源みたいな話です。いろんな方向に広がってゆく話です。すべてのものがもとのものへと帰って行くのは不正の償いなのだというこのことばは、自然学と倫理学や諸学が未分化のまま説明原理として出されている、と言えるでしょう。

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「三蔵法師、経を読む人類学者」 前田耕作『玄奘三蔵 シルクロードを行く』書評

前田耕作氏の岩波新書「玄奘三蔵、シルクロードを行く」は渾身の力作である。前田氏は玄奘の生い立ちに始まって『具舎論』『摂大乗論』など玄奘が若き日に読んだ経まで微に入り細に入り辿りなおし、玄奘がこれらの経を読んだが漢訳ゆえに真義に至らないもどかしさで天竺への求法の旅へ駆り立てられたことを伝える。玄奘三蔵は当時の中国仏教界のアヴァンギャルドなのだ。唐代の初めに長安を出てシルクロードを行く玄奘が見たもの、聞いたものを前田氏はありありと追体験してゆく。他者の意識に物事が立ち現われる瞬間を先入見なしに記述できるかは現象学の根本的な問いであるが、若き日に現象学研究会の中心的メンバーであった前田氏は今や当然のごとくに玄奘の眼を借りて見、玄奘の耳で聞く術を会得している。寄り道の多い長年の学究と知見の賜物である。玄奘は鳩摩羅什の故国、トカラ語を話す亀茲で男根切断と男根復活の伝説を人類学者さながらに書き記している。難関の凌山を越え、キルギス領に入り、イラン系ソグド人の地で拝火教やネストリウス派キリスト教の景教徒もいる「諸国商胡雑居」のタラスを経て拝火教のサマルカンドで説法をして仏法の足跡を刻み、アレクサンドロス大王も東征で訪れた突厥の南端の鉄門を抜け、西洋世界に名高い古代バクトリアの地に足を踏み入れる。ヘレニズムとペルシア文化の影響の上に仏教が伝来していたバクトリアのテルメズで仏寺を巡り、仏縁に感激の涙を流した。大雪山を越えてようやくバーミヤンに至る。バーミヤンで歴史的に貴重な三体の大仏を仰ぎ見て、カーピシー、ランパーカを経て仏都ガンダーラへ出るところでこの書は幕を閉じる。中野美代子氏の「西遊記、トリック・ワールド探訪」では、女性を知らないが故に神聖な長寿の源として三蔵法師の肉体が道教の魔物たちの食欲・性欲の欲望の的になっている構図が描き出されているが、そのような西遊記のフィクションとしての面白さに加えて、前田氏の追体験する大唐西域記の玄奘のリアルさも大いに魅惑的だ。見るもの、聞くものを無心に書き記す、経を読む人類学者、三蔵法師の面目躍如たる姿を著者は活写している。エノケン演じる孫悟空に夢を馳せた私の父にも読んでほしい一冊である。

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