宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

書評:重田園江「ミシェル・フーコー 近代を裏から読む」(ちくま新書)

この数ヶ月来、権力が知を動員し知が権力のおこぼれに与るという図式があからさまとなった。あきれるほどに、である。もちろん、これほど素朴な権力と知の共犯関係と、フーコーが「知-権力」という用語でもって表現しようとしたものとは、異なっているのかも知れない。とはいえ、「知-権力」という言葉遣いが妙なリアリティを獲得していることも事実である。

そのような状況のなか、フーコーの権力論を論ずる新刊がでた。重田園江氏の『ミシェル・
フーコー――近代を裏から読む』である。本書は、『監獄の誕生』をとっかかりとして、フーコーの「ポテンシャルの中心に近づ」(p.11)こうとするものである。「知‐権力」に焦点を絞っている訳ではいないが、今日の日本における「知‐権力」状況を捉えるにあたって、フーコーの仕事が有益なことを示唆しているように思われる。

三点ほど指摘しておきたい。

まず、通常考えられているのとは異なり、規律・訓練を中心テーマとした作品として『監獄の誕生』を捉えていない点である。むしろ本書における古典主義時代の重要性が繰り返し論じられる(p.84,p.170)。というのも、フーコーの近代像にせまる鍵は古典主義時代にあると著者が見ているからである。

だから「国家理性という16世紀末から17世紀の新しい考え方」(p.169)を巡る議論を参照することで、『監獄の誕生』が系譜学的に明らかにする権力技術論と、近代国家史論が結びつけられることを指摘する。16世紀末から17世紀は、古典主義時代と呼ばれる時代におおむね一致するのだから、著者はいわばミクロな権力論とマクロな権力論の節合点を古典主義時代に見出しているのである。これにより『監獄の誕生』の射程が拡大する。

国家理性論が発展してきた時期は「『生権力時代』の始まりと考えてよいし、生が政治の第一の関心事となる出発点ととらえてもよい」(p.169)。生権力は、園田氏が指摘しているとおり「不快な権力」(p.212)である。現存秩序の政治性を隠蔽しつつ、安心・安全を強要してくるからである。

しかし、いまの日本では、本当に人々の生が政治の第一の関心事となっているのか。国家権力の名において宣言される安全は、その額面のとおりに受け取るとしても、直ちに影響を与えるものではないというレベルに過ぎない。安全の言説は、人々の安全ではなく、むしろ現存秩序の安全を目指しているとしか思われない。

つぎに、初読の印象ではあるが、やや読みにくいことが二点目である。とはいえ、必ずしも分かりにくいという訳ではない。丁寧に文章をおっていけば、著者が言っていることを把握するのはさして難しくない。ただ、著者(あるいはフーコー)がなぜそんなことを言っているのか、その理由や趣旨が、なかなか腑に落ちないのである。

その主たる原因は、フーコーの哲学実践に固有のものである。実際のところ、フーコーの目論見は、価値を変えること――価値を逆さまにひっくり返すのではなくて――、価値の体系自体を変えることであった。「フーコーがつねに心がけたのは、世の中で当たり前だと思われていることを、自分の著述に接したあとではとても当たり前とは思えなくさせることだった。・・・見えているものを違った仕方で見せることを望んだ」(p.20)のである。

今までと違った仕方で世界を見ることは、並大抵のことではない。常識的な価値観をいちど壊さねばならないからである。「価値の変更や視点の転換は、あらかじめしつらえられた社会的に通用する枠に揺さぶりをかけ、それを震撼させ変えてしまうようなきっかけがあってはじめて可能になるもの」(p.23)である。

しかし、常識としての「社会的に通用する枠」が揺さぶられたからといって、その枠が変更されるとは限らない。人は、あまりにも強烈なショックを受けると、ショックを受けているという事実自体をなかったことにしてしまうというのが、防衛規制の健全な働きだからである。

そのため、常識的な価値観を知らず知らずのうちに身につけている人が、フーコーの作品を読み、すぐにその意味するところを理解するということはないだろう。フーコーにそって自分なりの思索をつづけていった先に、ある時、その意味にふと気づくだけである。

3点目としては、著者はややストレートに表現しすぎるきらいがある点である。一方で、著者自身も自覚しているようだが、著者のフーコーへの愛情が随所に感じられる。これは、表現の構えとして賛否の分かれるところだろうが、好みの問題である。しかし、他方に、より重要な問題がある。それは、生権力に対する嫌悪感の表明(pp.212-214)である。こ
の点、もう少し説明が必要ではなかろうか。

というのも、世の中の大多数は、いわゆる普通の人――そもそも、大多数の人を普通の人と呼ぶのだ――、「安全への際限のない欲望」を抱く「善良な市民」なのである。著者と「善良な市民」の距離は遠く、著者の不快の叫びは届かない。届いたとしても、自分たちとは異なる「危険人物」の戯言としてしか受け取られず、常識を揺さぶる力が働かない。

したがって、真っ向勝負は得策でない。むしろ戦略を立てることが重要である。それは、「善良な市民」を装い、市民社会の中に浸透しながら反撃の機会をうかがうことである。「善良な市民」にも訪れる一瞬の隙をついて、揺さぶりをかける方が効果的ではなかろうか。規律権力が「ちょっとした工夫」(p.130)を寄せ集める技術論だとすれば、それに対抗するには、いっそうのせせこましく「ちょっとした工夫」を編成していくことが必要だろう。

特徴と思われる点を三点ほど上げたが、本書は、総じて、フーコーの権力論のポイントを的確にまとめている。フーコーとともに考えを進めていくときに、参考になる本である。

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フーコー読書会報告

 宇波彰現代哲学研究所の主催によるフーコー『言葉と物』読書会(第3回)が、8月30日(火)、31日(水)の二日にわたり開催されました。駅からバスで20分ほどの奥湯河原の閑静な温泉宿を会場とし、のんびり温泉につかったり、おいしい料理を頂いたりしてリラックスしながらも、しっかりとした議論が展開されました。
 今回は、主に古典主義時代を対象とする第1部を読み終え、近代が問題となる第2部に入りました。すなわち、第6章「交換すること」(一部)、第7章「表象の限界」、第8章「労働、生命、言語」(一部)を読みました。ここでは、古典主義時代から近代への転換期が問題となります。
 この転換は、突然に起こったとフーコーはいいます。しかし、なぜ突然に変化するのかという問いには回答を用意していません。知の考古学にとっては、この転換は、分析の対象ではあるとしても、説明の対象ではないからです。考古学は、「いかにして」という問いに答えようとはしますが、「なんで」という問いには答えてくれません。なので、歴史についても「なんで」という問いを立てがちな私にとっては、少々モヤモヤとしたものが残ってしまいます。
 ちょうど今回は、古典主義時代と近代のエピステーメーを対照することで、「表象」のあり方を自分なりには明確なものとすることができました。古典主義時代におけるいては、物の体系は表象それ自身のうちに根拠をもっていたが、近代に入るとこの表象は「外部から支配され」ます。言わば、表象(の体系)の自立性が失われ、表象が表象だけで完結しなくなるのです。そこに登場するのが、欲望あるいは人間です。今回は、まだ近代の導入部ということで予告的に扱われているだけで、人間は次回以降のテーマとなります。
 私の感想としては、表象の自立性(それとも自律性か?)という視点で古典主義時代を再検討する必要を感じています。今までは個別の論点を追うので精一杯でしたが、総括的な観点から、第1部を読み直してみようと思っています。最後になりましたが、参加されたみなさん、お疲れさまでした。次回もよろしくお願いします。(千葉義仁記す)

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フーコー読書会報告

 宇波彰現代哲学研究所の主催によるフーコー『言葉と物』第2会読書会が、11月19日(金)、20日(土)の二日にわたり開催されました。会場を東京の中野に移し、前回よりも2名多い9名の参加をえて、活発な議論が繰り広げられました。
 今回の範囲は、第4章「語ること」、第5章「分類すること」、第6章「交換すること」でした。すなわち、古典主義時代におけるエピステーメーが主題です。これは、分節化、指示、転移、主辞=属辞関係定立という4頂点からなるあの有名な四辺形によって表されるもので、一般文法、分類学、富の分析を具体例として説明されています。
 さて、今回の読書会での私なりの収穫は、この四辺形の4頂点について、少し理解が深まった点です。これらは、一般文法の言葉で概念化されていますが、分類学や富の分析においても同型の四辺形が確認されるのであり、重要な概念です。しかし-―だからこそ--、理解するに難しい概念ですが、今回の報告では、言語学を援用しながら分かりやすく説明していただきました。やはりフーコーを読むには、背景となる知識が必要なのだと痛感させられました。
 次に、古典主義時代のエピステーメーを論じるフーコー自身の立脚点を忘れてはならないことも確認できました。フーコーの博識さや絢爛な文体に引きずられて、ついつい古典主義時代を単独でクローズアップしたくなりますが、むしろ近代との比較のなかで理解しなければなりません。フーコーはあくまでも近代的エピステーメーのなかで古典主義時代を語っているのであり、そのようなフーコーの語り口が、近代的エピステーメーをほんのりと浮き彫りにしており、本書の趣旨からしてこちらの方が重要です。というのは、ボルヘスの笑い当惑から生まれた本書は、思考の不可能性を問うことによって思考の可能性を問題とようとするものだからです。
 次回からいよいよ近代がとりあげられることになります。今回の成果を踏まえて、いわば近代に古典主義時代をぶつけてみた場合、思考の可能性と不可能性の境界がどのように浮かび上がってくるのか、楽しみです。
 最後に、参加されたみなさん、ありがとうございました。また次回もよろしくお願いします。

(付記。これは、2010年11月19~20日に中野で行われた第二回フーコー研究会のレポートです。二日間にわたる、かなりきびしい日程にもかかわらず、参加者の皆さんは、周到な準備をして、きわめてレヴェルの高い報告をして下さいました。私にとってもたいへんな刺激になりました。フーコーの自民族中心主義の一端も見えました。彼が文字としてのアルファベットの優位を説き、その使用が「思考の進歩」に貢献したと考えていることがわかったからです。
次回は2011年3月の予定です。関心のある方はぜひ参加して下さい。このレポートは、前回と同じく千葉義臣さんにお願いしました。2010年12月19日 宇波彰)

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「地獄のセミネール」の報告

宇波彰現代哲学研究所の主催によるフーコー『言葉と物』読書会が、6月4日(金)、5日(土)の二日間にわたり箱根で行われ、7名が参加しました。会場には温泉があったので、何はともあれ、温泉でリフレッシュしようということになりました。私は熱めの温泉につかりながら、内心はドキドキでした。この読書会のお知らせメールに、「地獄のセミネール」になると書かれていたからです。しかし、スタートしてみれば、和やかに進んでいきました。
 今回の範囲は、序、第1章「侍女たち」、第2章「世界という散文」、第3章「表象すること」でした。これを5名が分担して発表し、あわせて疑問点や問題点などを討議しました。ザックリと言えば、序と第1章が本書のまくらの役割を果たし、第2章と第3章がそれぞれ、ルネサンス期と古典主義時代のエピステーメーあり方の紹介となっています。
 私自身の感想としては、今回の読書会で、本書の難しさを再認識できました。ちょっと大袈裟に言えば、自分が属しているエピステーメーから自由になることは、非常に難しい、あるいは不可能かもしれないということです。
たとえば、ルネサンス期の思考を基礎づけていたのは類似であり、その類型として、適合、競合、類比、共感の4つが紹介されます(第2章)。パッと見て、どこか怪しい項目立てにも見えるのですが、丁寧に読めば、フーコーの説明は理解できなくもありません。しかしだからといって、リアリティーを感じることもないでしょう。むしろ、そこにあるのは、違和感、あるいは「困惑」(序)に他なりません。
 この困惑を出発点として、私たちの思考(の土台としてのエピステーメー)に揺さぶりをかけることが、フーコーの戦略となります。しかし、この困惑は、惰性の思考にとっては、笑いの経験であるどころか、逆に、自らの存立基盤をあやうくする不快な経験なのであり、否定したくなりがちです。この否定への誘惑に、本書の難しさが潜んでいるのだと思います。
そこで、次回以降の課題としては、この困惑の不快さを通じて、自分が属しているエピステーメーの歴史性を再確認することでしょう。さらに、この歴史性の構成要素や動因は何かという問いを立てたくもなるのですが、そもそも、その答えが本書で与えられるかどうか、もう少し深く読み込む必要がありそうです。

(付記。箱根でのこの合宿研究会は、きわめて有意義でした。もちろんひとりで読んだり、考えることも重要ですが、ときには集団で同じ問題を考え、話し合うことがどれほど大切かが、改めて痛感されました。会場は、芦ノ湖に近い森のなかにあり、ホトトギス、ウグイスがしきりに鳴いていました。自然に触れ、いい空気を吸って、頭を鍛えるよい機会でした。参加された方々にお礼を申し上げるとともに、秋に予定されている次回の研究会に期待したいと思います。この報告は、参加者のひとりである千葉義仁さんにお願いしました。2010年6月17日 宇波彰)

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