宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

青い空のかなたに消えた特攻隊のM少尉

 羽田から鹿児島を経て、徳之島に出張した。私は鹿児島で一泊することにした。知覧の特攻隊記念館をどうしても訪れたかったのである。
 66年前、敗戦前年の早春の或る日、浜松市の私の小学校に、凛々しい制服姿の一人の若い陸軍将校がやってきた。胸にプロペラのマークがあったから航空隊と知れた。これがM少尉だった。浜松市外の天竜川の河川敷に急造された飛行場で戦闘機の操縦訓練をうけていたのである。航空士官学校を出たばかりの若きエリートであった。私の小学校に在学したことがあるので、訓練が休みの日に、なつかしい母校を訪れたのである。彼は、ハンサムでいつも笑みを絶やさない、おだやかな好青年だった。私たちは彼を囲み、教室に迎えて飛行機の話をしてくれるようにせがんだ。その後も、彼は2~3回、母校を訪ねてくれた。私たちも、彼の飛行場に遊びにいった。その時、もう街から消えてしまったチョコレートを彼からいただいた覚えがある。
 こんなことが4ヶ月程続いたあと、或る日、突然手紙が来た。曰く、「南方へ行く命令が出た。もう会えないと思う。しっかり勉強するように」と。私たちはやさしい兄を失うような淋しさにおそわれた。彼に手紙を書くにはどうするのか。しかし、連絡先が知らされることはなかった。そして、その年の12月の或る朝、新聞はM少尉の属する特攻隊(八紘隊)が、某方面で壮烈な戦死を遂げたと報じた。やさしいM少尉とはもう会えないのだ。私は深く嘆息した。その日、学校の朝礼では先輩のために長い黙祷がささげられた。
 以来、66年、私は彼がどこで、いつ亡くなったのか、正確に知りたく思っていた。今回、知覧を訪れ、特攻隊記念館のデータから、彼が、1944年11月27日、マニラ近くのファブリカから、隼機に乗って出撃し、帰らぬ人となったことを知った。この頃、マッカーサーの指揮する米軍がフィリピンに再進攻してきたのである。特攻隊が迎撃した。そして、日本のエリートが失われた。享年22。あまりにも若い死。

 鹿児島から徳之島に向うJAL機の窓から眺めると、空はどこまでも青く澄み、かなたに白い積乱雲が輝いていた。下方を見るとおだやかな東シナ海を一隻の客船が白い航跡をひいて北上するのが見えた。トカラ列島、奄美諸島の島影が次々と現われ、遠ざかった。平和な風景だった。M少尉はフィリピンに赴く際、このルートを通って南下した筈である。彼はこの青い空と海を眺めながら、何を考えていたのだろうか。エリートとは「神に選ばれた人」の意である。キリストの様に人の為に死ぬ用意ができている人なのだ。しかし、彼の死は、無駄な死だった。私は、あらためて、M少尉の冥福を祈りながら、青い空のかなたに輝く、白い積乱雲を眺めていた。

(付記。この文章は、私の小学校時代からの友人である小林武夫さんが書いたものである。小林さんは、耳鼻咽喉科の医師で、専門書のほかに中公新書『耳科学』などの著作がある。私宛の私信に、この文章が添えられてあったので、小林さんの了解を得て、このブログに転載させて頂くことにした。なお、小林さんは「追伸」でこの「M少尉」について、次のように書いてきた。「森本秀郎、大正12年生まれ、陸士57期、フィリピン レイテ湾 ファブリカより出撃し、昭和19.11.27戦死。」
 当時、私の家にも、進藤大尉という士官がしばらく宿泊していた。軍の命令であった。彼もフィリピンで富嶽隊という特攻隊の一員として戦死した。偶然にも、彼が出撃するシーンがニュース映画に写されていると近所の人に教えられ、映画館に見に行った記憶がある。66年前のことである。 2010年8月19日 宇波彰)

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