宇波彰現代哲学研究所

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書評:考える足―「脳の時代」の精神分析

河野一紀(臨床心理士)
 
 科学技術の進歩は、あらゆるものを可視化する。それは自然現象だけでなく人間をも見透かし、今では頭蓋に覆われた脳の状態や活動までが、まだまだ限定的にではあるが、イメージングによって把握されてしまう。そして、それらのデータをもとにして、人間の思考や行動のメカニズムを解明する試みが進められていく。脳での思考はコンピューターの計算と比較され、人間は与えられた情報から未来を予測し、行動をするようにプログラムされていると考えられるに至る。
 戯画化が過ぎたかもしれないが、人間の精神や身体についての確実な知をもたらす領野として、脳科学への関心と期待はますます高まりつつある。脳科学は、生物学や生理学とともに、人間にとって最も近しい「他者」である身体を器官や機能によって分解し、それを再び統合させることで、そのメカニズムを論理的に明らかにしようとする。このような流れにあって、あらゆる精神疾患は器質的原因に由来すると考えられ、脳や遺伝子の欠損や障害へと容易に還元されてしまう。しかし、そこでは重要なことが見落とされている。それは、人間に固有の「主体」の次元である。
 本書は、フロイト―ラカンの精神分析の立場から、この「脳科学ブーム」にあらわされる「客観科学的イデオロギー」に投じられた一石であると同時に、未だに玉石混交の様相を呈している日本でのラカン派精神分析の理解が新たな段階に進むための布石となる一冊である。著者は既に、『ラカン対ラカン』(1988年、金剛出版)において、ラカンの理論的変遷を段階的に取り上げてその深化を理解していく試みをおこなっているが、そちらはやや専門書的な趣があるのに対して、本書はラカンの思索の要点を押さえつつ、予備知識がなくても読み進めていくことができるよう分かりやすく書かれており、入門書や啓蒙書としての価値は高い。このとっつきやすさは、長年に渡る臨床実践とテクストの読解を通して、著者がラカンの精神分析を自らのものとしていることのあらわれであろう。
 さて、内容の紹介に移りたい。本書は二部から成っている。「脳中心主義への疑問」と題された第一部では、我々が二つの身体、つまり、生理学的身体と「リビドー的身体」を生きているという事実から出発して、イデオロギー化した脳科学的見解に対して批判を試みている。前者は物理的、生物学的次元によって説明される身体であり、後者は人間存在と言語の世界の出会いから生じる身体である。この二つの身体のギャップから生じる現象として、身体の一部が何らかの理由で失われてしまった後も、その部分が存在するように感じる幻肢や、その逆に、身体の一部をあたかもそれが存在しないかのように反応するようになる半側無視が取り上げられ、それらについての脳科学的説明に対して精神分析の立場からの反論がなされている。そして、「リビドー的身体」が生理学的身体へとは決して還元されえないように、我々が生きている二つの世界、すなわち、物理的世界と言語によって創造された世界のあいだには決定的な断絶があると著者は指摘する。他者によって話されている言語のなかに生まれ出る人間は、本能に規定された動物的世界を超えて、言語によって創り出された世界へと参入することを余儀なくされる。だが、この「自然」から「文化」への移行は、自動的になされるのではなく、言語やその創造物、「法、道徳、社会規範、慣習、理想」といったものの「主体的な受け入れ」を人間がそれぞれに異なったかたちで経ることでなされるのである。
 第二部の「精神分析の見つめる身体」では、第一部の考察を踏まえたうえで、「言語という大地」に生まれた人間が「主体」として生成していくプロセスを著者は綿密にたどっていく。他の動物に比べて圧倒的に未熟な状態で生まれてくる人間にとって、「他者」への依存は決定的なものである。だが、この依存関係には、他者による身体への関わりというかたちで、主体の生成の契機が内包されている。例えば、乳児の泣き声をひとつの要求として大人が受け取ることによって、授乳や排泄の世話はなされ、また、その世話を通じて大人から乳児への声かけがおこなわれるように、生物学的必要性から生じる「欲求」を超えた、言語に媒介された「要求」の次元がそこには存在する。さらに、この「要求」は「欲求」へと還元して処理することはできず、両者のあいだにはいつも差異が存在するのだが、まさにそこに「欲望」の次元が開かれるのである。この点に関して、「人間の欲望は他者の欲望である」というラカンのテーゼを著者は取り上げて、人間はその「寄る辺なさ」ゆえに他者を欲望すると同時に、「他者の欲望を取り込んで自分の欲望とする」ということを分かりやすく説明している。このように、主体の生成には他者の存在が不可欠であり、「欲望を持った〈他者〉の呼びかけへの応答として、主体は生まれてくる」のである。
主体の生成にはまた、「精神分析の要」としての欲動が深く関連している。フロイトは欲動を「心的なものと身体的なものとの境界概念」として位置づけ、欲動の目標をその満足とした。しかし、フロイトの欲動理論は同時に、「欲動の直接的満足を回避するメカニズムの体系化」でもあった。このような矛盾を整合的に理解するため、先の議論との関連から、欲動が作用するという事態を、「主体が身体を通して〈他者〉と交わり、〈他者〉の欲望に触れ、〈他者〉の欲望を満たすことによって生じる「享楽」と関係することである」と著者は説明している。ここから、主体の生成にとって他者の欲望は不可欠であるが、身体によって他者の欲望をどこまでも満足させようとすること、つまり、「享楽」=「欲動の満足を直接的に目指すことは、主体の存在を奪うことにつながるという事態が明らかになる。それゆえ、他者の呼びかけに対する主体の応答とは、それに「否」を突き付けるというかたちを取るのであり、その様相の違いが主体の在り方を特徴づけていると考えられる。このように、欲動にはその満足を求めると同時に、直接的満足を阻む働きがあるという矛盾のために、一般には難解とされるフロイトの欲動理論を、ラカンの理論と接合することによって著者は明快に説明している。
さて、人間が主体として生成される過程においては、このような「言語化」が生じるわけであるが、「人間が生きているという事実」は決して「言語化」されないと著者は指摘する。つまり、この事実に対しては、「正当な根拠や理由」といった支えを究極的には与えることができないのである。しかし、このことは決して否定的にのみ理解されるべきではない。確かに、「言語化」されない生の事実は、「答えのない問いを抱えて自らの存在を正当化しようとする」ことを我々に強いる。しかし、それは同時に、「言語による一般化に抗して、自らが固有の存在として生きている」ということのあらわれなのである。そして、この点において、精神分析は固有の力を持つ。精神分析は、「人間存在にとって真の「出来事」」である「言語との出会い」の痕跡に対して、それぞれが固有の解釈によって、「自分だけの正解、自分だけのを創造してゆく」ことによって、主体と関わるのであると著者は述べている。そこで問題となっているのは、既存の知によって出来合いの意味や説明、すなわち「答え」を与えることではなく、「患者が自分の人生を捨てず、引き受けられるようにする」こと、つまり、人間を「主体」として扱い、その固有の存在の支えを見出していくことを可能にすることなのである。この主張には、精神分析が単なる技法(テクニック)に還元できないものであり、倫理的な問いと直結していることが示されている。「道なきところになお一歩足を進めて新しい道を創る者」としての人間が、「未来が予測できない場所へと踏み入る」ような「真の「思考」」をおこなうための精神分析の営みは、著者が指摘するように「悟りを開く修行のようなものでは決してない」が、現状への適応や順応に終始するニヒリズムを超える手がかりを与えてくれるだろう。
以上から理解されるように、本書には実に様々な論点が含まれているのだが、あえて一貫したテーマを挙げるとするなら、「考える足」というタイトル、そして、終章における「身体という人間にとって最も身近な、そして最も深遠な問題に対して、新たな一歩を踏み出すこと」という今後の展望にあらわされているように、精神分析的視点からの身体についての考察と評者は考える。今日にあって、脳科学や精神薬理学の発展、さらに精神衛生をめぐるポリティクスは、予防や治療というかたちで我々の身体をその管理下に置くことを推し進めている。しかし、身体的な快苦を過剰なまでに制御しようとする様々なケアからまるで逃れていくように、現代医学においては原因を特定できない身体的症状や不調が報告され、臨床においても問題になっている。本書で著者が指摘しているように、精神分析は時として、それらの問題に対して「驚くほどの効果」を発揮することがある。この点に関しては、本邦においては理論的にも臨床的にもさらなる議論が必要であろうが、本書に加えて、著者が監訳を務めた、「天使の食べものを求めて―拒食症へのラカン的アプローチ」(2012年、三輪書店)や、モニック・リアールの「精神分析と心身医学」(Monique Liart, Psychanalyse et Psychosomatique― le corps et l'écrit. L'Harmattan. 2012.)などの文献はその嚆矢となるだろう。
本書はまた、脳や遺伝子をめぐる問題に興味を持ちつつも、人間存在やその生の苦悩をそこへと還元してしまうことに何らかの「居心地悪さを感じている人々にもお勧めしたい一冊である。この居心地悪さについて立ち止まって考える時、精神分析はきっとその役に立つだろう。もちろん、著者も注意を促しているように、科学技術の進展がもたらす成果に対して、精神分析は全面的に反対するわけではないが、この潮流に便乗することは決してない。相互理解と対話は確かに必要不可欠であるが、精神分析はその固有の問題、すなわち、「主体」の問題を決して手放すことはないのだ。この点において、本書は、極めてアクチュアルな問題に精神分析がいかに取り組んでいくのかという問いへと踏み出す力強い一歩であり、著者の「考える足」としての在り方を体現した非常に興味深い一冊である。

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