宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

第三回ラカン研究会「報告」

5月4日と5日の両日、駒澤大学会館246にて、宇波彰現代哲学研究所主催による、第三回ラカン読書会が開催された。前回に続き、『精神分析の四基本概念』第Ⅷ章から第XI章までを読解しようとした。今回のまとめは筆者の記憶違い・理解不足がかなり有り、不備を想像力で補って読んで貰わざる得ないものとなります。()の文章は、概ね、筆者の推測の文章となります。

 最初に「前回のまとめ」を古川さんが行った。このセミネールでは、いつも1つのことが言われており、それは「出会い」である。(出会うことが不可能でありながら、人として在るために必要不可欠な出会い?)その後、この本の最初から辿り直し主要な文節を読み合わせ、その「出会い」を出会わせてみせた。(この方法は、筆者には、ラカンの娘婿ジャックアランミレールが推奨するラカンを読む方法「ラカン対ラカン」を実践していると思わせた)その後、精読しているうちに疑問がまざまざと沸いて来たと、まさにラカン流に幾分芝居がかって(ヒステリー化のように)、おそらく「言わんとする意思」を感じさせて、いったい分析家の「仕事」とはなんなのか?妻との関係を良好にしたい(原因の)ために分析に訪れて、まったく逆の結果になったりする。そしてそれが、「分析」を受けようとしたこと自体が、その原因だとすれば?いったい「分析」の存在理由とはなんなのか?という問いが出された。とは言え、このラカンの本は一生に一度といっていい本で、アリストテレスの定義した学問の方法どおりを実践した本であることも確かだと付言した。その問いかけに対して、向井さんは、「分析家の仕事」は「治療ではない」。そもそも(ラカン派の?)精神分析にとって、人間というものに「病気」というものは無い。精神病は病気ではない、(神経症・倒錯・)精神病は、人の「生き方」でしかない。もし「仕事」を維持する原因となるものを挙げるとすると「(その症状、その主体の在り方への)関心」であると発言した。そこで古川さんが「スケベ根性が仕事なのか?」と問うたが、それについては、分析が元々、主体の欲動(リビドー、性的な情動/細胞の生死の流れ??)の動きや固着をどう動かすか、が関心事であるため、そうであっても問題は全く無い(もしスケベ根性を一切根絶やしにすると、欲動の変化は一切望めないためで、安易に流されずしかし流されて、その根性を維持するという(陽性転移と陰性転移をどちらも排除せず維持するという)臨床的態度(関心)が必要不可欠になる)と答えることもできなくもない。ラカン派の分析家は、ラカン的臨床は無い(一般的な病院での治療という意味での臨床が無い)と言ったりするが、もし「臨床=仕事」とは何かに答えるとすると、「人間が存在したという根本的原因に基づいた欲望の可能性をもっと生かそうとすること」だと言える(向井)。分析する者(患者)に最も合った欲望(根本原因の決定(選択))は、分析家が恣意的に決定(捏造)したものではないか?つまり、分析はペテンと紙一重ではないか?という疑義も出された。これらへの応答でもあるものとして、二日目の古川さんの不在時、向井さんが下記のように話した。ラカン後期の、四つの言説(分析中の分析家と分析する者(患者)が、それぞれの言説の内部に居るとき「どの位置を占めるか」を示した四形式四項目の図)の一形式である「分析家の言説」が出される。
a → S/(エスに斜め線…主体の欲動に言語の線が入り去勢されていくものの意?)
S2  S1
分析家は、図のaの位置にいてaを体現しているように見える(振りをする)。このaは、主体の原因(欲望の原因)となるもの。aの作用(去勢運動?)を受ける分析する者(患者、S/)。このaとの出会いにより、分析する者(患者)の主体が分裂する。(S2(S1を代理する言葉)とS1(性的外傷、始原的言葉・痕跡)に分裂??あるいは自分自身がaとなったつもりになり、そのaとS/の分裂??)この「作用」、「出会い」が転移の始まり。こっちの見方、あっちの見方と知らずに語る。普通にしゃべっているときに、自分でも知らないことを言っていると分析家は指摘する。異質なもの(S1)が語られる。主体は分裂する。自分に「そんな主体があったのか?!」と気付く。二種類の転移がある。①苦しみを持って分析へ行く(分析の場への、ひとつの知があると思っていく)→②自由連想が始まって知が想定される。知が想定されると「いつも同じ問題が問題になる(語られる)」…オイディプス(父殺害と母との近親相姦)とか、何か法則性があるらしい(母は調和と非調和が混在、父の名が調和をもたらす手がかり)。その法則を体現してくれる人がいる、それ(父)を愛する(転移の成立?)。分裂があったため、なぜ分裂したか?その原因は?といった、それを説明するための知が想定される。知が想定されると「人間はものを考え出す」(想定が創られないとものを考えない)。(無意識的な自身の根源的欲動の動きを、言葉に代理して思考しえるかどうかが分析を進められるかどうかの分かれ目??)本当の出会いは、人間を死に至らしめる。出会い損なって痕跡が残る。1つの絵に、二つの主体がある(「使節たち」、プチジャン(些細なジャン)=aと人間?という二つの主体??)、これが出会い(まなざし=テュケー)。アナモルフォーズ(歪像)=aの周りに現実がある。aという痕跡を元に転移を考えること。二つのものの出会い(人間の二つの因果律の出会い)が分析の始まり。自分の過去の自分を決定付けている「トラウマ(性的外傷)=まだ言葉になっていないもの=出来事(痕跡、存在しないもの、あるのかないのか分からないもの、メーオン、概念化できないもの)」=aは、それ以後の人生の様々なトラウマが瘡蓋(かさぶた)のように重なってその局面、局面でさまざま意味が変わる。言葉になっていないaという異質なもの(主体=特異性)を、想起ではなく(概念化されておらず想起不可能なため)「創り出す」(語り出す??)のが分析。

 2日目を先取りしたが、「線と光」の3名の内1番目、言語学専門の髭さんの発表では、このセミネールには表立って出てこない、ラカン後期のラカン造語「ララング(幼児の喃語のようなもの)」と「シニフィアン連鎖(概念化できない性的外傷を、いかにその主体に合った形で、表象し、それを代理しという比喩の運動(換喩)を創造することを展開(欲望)し、「語る存在」である人間が外傷に圧倒されず(抑圧し抑圧されず)より機能しているかどうかを測る基準運動=パロール(語り)??)」について述べられ、その後「ある言説の位置、言語ゲーム」により主体がいかに語ることによって「変化」するかが語られバフチンの対話理論などとの分析との接合の可能性が問われた。最も分析は対話というよりモノローグといった面が強いため、バフチンの対話と接合できるのかは難しいかと思われる。前記の「ララング」は、向井さんによると「言語の前提として必要なもの。コミュニケーションの道具ではない。享楽の道具、私が今使っている全ての言語(の構造、ラングとランガージュ)を外れたもの。言語からすべての法則を無視したもので「恐い世界」を作り出すもの」とのことで、喃語のように語り分析を進める者もいると言われるため、「一般的な対話」と異なる分析における「道具=a=まなざしを孕んだ言葉、恐いもの、S1(始原的・資源的、無意味に指し示す創設的言葉)とaの混合物」と言えるか?それに伴い?向井さんは、(目と対立しつつ重なり合っている??概念の)まなざしについて「常に見られるもの」という法則があり、精神病者に注察妄想というものが見られるように、メルロポンティの相互的・想像的な間主体的関係、恐くない鏡の関係とは反対に、まなざしと主体は、非対称的関係にあり、(母から常に見られ)子供はそれに対し面白いと喜んだり怒ったり(恐ろしくもあり、それによって生きられるものでもあり)と、両義的であると言い、非対称的だから観る人に1つの場所を与える。実際の場所ではないが安住の奥行きを与える場所である。まなざしは形が無く世界全体であり、それを絵に集極化(実際には無い光点に収束される)することができる画家が良い画家なのであり、イメージとシミの組み合わせ、イメージをいかにシミとしてオーガナイズ(組織化)するかが画家の腕前で、腕の落ちる画家は奥行きが無いなどと語った。もしシニフィアン連鎖からララングを語る分析に移行したり併走したりするなら、ララングが入ることで、より欲動の根源的幻想の動き(シナリオ=構造)に、縁を回転する動きに沿った(合った)=触れえぬ性的外傷の代表象の反復の強度に沿った、つまり「鎮静化作用のある良い絵そのものに分析空間がなる」ような分析が出来かかっているのかもしれない。
 また、今の言語学では、コーパス(資料体、材料)と言えるものが必ずあるが、ラカンの文章は全く無いので、(テクストを分析するのに?)非常につらい。という提言があり、それについては「ジャン・ラクロワ「現代フランス思想の展望」(人文書院、1969、原書67年)P.234、…は引用者省略、()は引用者付け加え」に応答めいた文章があるため、以下引用。「精神分析における意味の諸法則は、言語学の意味の法則に還元されえない…欲望が言語にたいしてもっている関係の曖昧さは、取りのぞかれえない…バンヴェニストは、無意識の象徴は、厳密な意味では、言語学的現象ではないということを明らかにし、それは、特定の言語の意義を担うことなく、いくつもの文化に共通であり、心象の水準で行われる移転(移動)や凝縮(圧縮)のような現象をしめしているのであって、音韻論的ないし意味論的な分節をあらわしているのではない。…古い修辞学の形態そのものがある…《言語》にかかわるというより、《言葉》のうちにしめされている主観(主体)のもろもろの態度にかかわるのである…《そうあったところに私は存在すべきである》…患者が「そう」と呼ばれる無名の話の場所にふたたび落ちついたとき、真の主観(主体)が回復される…」。と言われ、精神分析が「言語」を問題にするのではなく、「言語が現れるか否か」の瀬戸際、何かが創設する局面(曖昧な欲望の原因・対象)、主体が言語に表象され代理されるかどうか危うい
状況であるところから、いかに始原的言語(S1(自身を決定付ける最初の言葉、自我理想))に根源的に合った形で基づかせ、語ることが出来る(言語に表象代理される=シニフィアン連鎖が始まる)ようになるかを問題にしており、上記を既に既知の物として、それ以後の「言語ゲーム」を問題にする「言語学」とは、問題にする対象が違うのでは?ということを言っているのでは??と感じます。

 続いて小倉さんの発表では、丁寧に本文に沿って読んでいく形がとられた。が、筆者はこの辺りの意識が怪しく、気になったレジュメからの抜粋で、通らさせて頂く。「遠近法における「実測」」について、見る側の目の構造から、「実測」とみなされているものは実はそれじしんが眼球の構造から現実を歪んでしか再現できないということも古代から知られていた。(パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』)」と、ラカンもここで強調している同内容をパノフスキーはのべていると思った。「…画家と鑑賞者との関係とは、表象の供給者と需要者との関係として一般化できるとすると、そこに、「制度」の関与をみないわけにはいかないだろう。「絵画」あるいは眼差しにかかわる問題は、「騙し絵」というゲームだとすると、この騙し絵は、その結果として、見る者の「意識」のみならず無意識に働きかけるゲームでもありうるだろう。これを制度の側による自己維持の機能と関わらせてみるとき、このゲームは見る者の無意識を飼い馴らすゲームということもできるのではないか。制度のための秩序の学としての精神医学や、フロイトの意図とは正反対の方向をとる制度のための精神分析が、人間の解放を抑制する科学となるのは、まさにここにおいてではないか。…」制度化=抑圧というのは、後で、向井さんから話された、分析家の「暗示療法」への退行により成り立つと思われるが、「主人の位置に立ってしまう」「逆転移で分析家の方が身動きがとれなくなる」といったことは、様々な分析学派で良く耳にし、常にこの罠を、意識/無意識を、研ぎ澄ましておく必要があるということか?「絶対的な懐疑主義あるいは不可知論だろうか?対象を理解するとか、認識するといった主体の側の対象に対する絶対的な優位を徹底して否定する。様々な程度を伴ったディスコミュニケーションの錯綜しもつれあった関係と、さらにこうした関係にさえ捕えられることのない無意識の領野。このカオスの全体が人間が織り成す「社会」の秩序をつねに虚構とみなさざるをえないものにしている。フロイトの時代が機械と力学的な世界のなかに有機的な心身の構造を位置づけるものであったとすれば、ラカンの時代は、サイバネティクスと代数(関数)の時代としてのそれだった。その後のカオスや複雑性、情報一元論の時代にフロイト=ラカンはどのように反撃の拠点となりうるか?」と小倉さんの提言があるが、小倉さんの言う「捕えられない無意識」は、おそらくフロイト=ラカンは扱っておらず、言語のような構造においての無意識を捕えていこうとしているのでは?無意識を実体的にあるものとして見ず、何かの拍子に垣間見えるものとして、裂け目としてとらえるという形で、カオスの全体が社会=主体?を「虚構とする」というより、そのカオスの全体に、シミという些細かつ恐ろしくもある「現実的なもの」の手ごたえを見いだすことで、対象(まなざし)の絶対的優位との主体の関係を問おうとしているとは言えるか??つまり、虚構としての主体という秩序が、再創造され、その主体が参入(行為)することで、若干、社会(現実的なもの)の秩序も変わっていくという…。その後に、向井さんが話したことが以下。P122の三角形の図。上の図、主体的ポジションの図。下の図、対象aの図。光点=母のまなざし、生まれてきたばかりの状況=世界が全部私を見ている。母にとって私はなんであるかは母の目に要約される。目は1点だが、全世界・全てでもある。対象を見るときは、まなざしを消してしまっている=まなざしを置くこと。実測的世界、世界が透明に見える。目が一番ダマシの機能を持つ。無視(メコネイッサンス)の機能。点である主体、実測的。像である主体、シミ??夢の世界ではまなざしが私をとらえている。起きてるときは私がまなざしをとらえている。世界がシミ、どっかにカバーの穴がある。割れ目。言葉では決して言い表せないが、唯一それを表してくれているのがシミ。常にファンタスム(幻想)でカバーされている。良い絵画、現実界、シミの振りをする。振りというのは、本来の人間社会には無い物だから。精神病者はワナを作れなかった。偽のワナで生きていて、もろい。
 続いて、筆者の発表ではほぼ、小倉さんの発表で、「線と光」の章はほぼ辿られたとし、
ほんの少しの発表で終了した。擬態という在り方が、分析空間における、分析家の在り方そのものなのでは?と言い、対象aの振りをする、ということが「カモフラージュ(偽造・隠蔽)」、「仮装(女装・扮装・歪曲)」、「威嚇」の三つの擬態の機能を良く表しているのでは?擬態した分析家、時に分析する者(患者)が「擬態としての対象a」と成ったり、外れたりを繰り返すのが、分析で独白し続けることの空間的様態なのでは?とした。擬態化(転移空間の成立)することが、その分析そのものが絵となり、絵にもっともうまく合ったところが、その主体の欲望の根本的原因(=外傷=一の印=原光景(S1をファンタスム化したものが原光景(向井))=まなざし=シミ=割れ目=a)となっているところであり、その擬態性という像=スクリーンが剥がれ落ちた時に、分析空間での擬態はゴミとして捨てられ(分析家が捨てられ)、分析社会外部の社会(日常)における、もうひとつの擬態?=人間化(主体化)、もうひとつの絵の成立に至る(分析の実行)=社会人と言うシミを幻想(物語)で覆った主体の成立?などと連想した。

 「絵とは何か」では、西本さんのみの発表となった。原稿を読み上げるスピードについて行けず、半理解も無いかもしれませんが、まとめます。レジュメから「この美の機能としての創造は、初めて自我が生成し、私の存在が始まり、欲望が生成し、意味が生成した創造の過程と同じ行程を辿る。そして、この美の機能が、昇華から創造の行程、「昇華としての創造」である。ここにおいて、美の機能の創造とは、人間に「無からの創造の意思、再出発の意思」を生成することになる。つまり、原初の自我の再生によって、減退のない人間の言動する力の再生(=差異性?引用者)が行われ、その力による「世界の意味の創造」が行なわれるのである。」ここで、精神分析の実行とは何かが描かれているかと思われます。筆者は、芸術作品としては実行されているかもしれないが、それを創る主体(画家)は、実行されてないことも有り得る、と発言したが、反対に、主体(言表行為の次元で)は実行されてないが、作品(言表内容の次元で)は実行されていることも分析の実行と言っていいのでは?精神分析が実際に行なわれたか否か、しかしその「実際」とはどんな現実か?も問われている、とも思いました。作品で成就されていさえすれば、とても困難な分析の実行=昇華する(自身により思っても観なかった自身(対象=主体)の在り方が飛翔でありつつ地に足が着いた(地の塩、世の光??)在り方として構造的(象徴的)に引き受けられる)ことが行なわれたと言えるのでは?フロイトが「文化への不満」で言うように仮に文化的に解決(昇華)されても、完全な無意識の満足=ララング(近親相姦言葉?)?はその削除しきれない残りのものとして、不満として残る??と言う??ように、人間の欲望の対象・原因が、「部分」欲動として機能しており、その欲動は、カップという器官=眼(枠)から溢れる過剰な「まなざし」という苦痛として、いくら美というベール(覆い布=存在しないのに存在する振りをする女性性?)でも完全に覆うことはできない「人間のどうしても言わなければならない(男性中心の言語(ファルス)により人間という身体(女性性??)が)殺された物(喪の)の叫び」=統合性・統一性・全体性の欠如が、部分として、なおも語ろうと(シニフィアン連鎖しようと)している、殺され窶(やつ)した(尽した)「部分=個別性=主体」の痕跡の主張(=昇華)なのでは?そして、それをラカンは晩年「サントーム」(個別的人間を根本で支える症状?)と言おうとしたのでは?と妄想(臆測)します。ラカンにとり「絵」とは?に西本さん「ネタでしょう」と言うように、その対象は、人間の表現=証言であれば「彫刻」でも「演劇」でも在り得るようです。それに伴い太宰治論らしきネットで読める文章「小説という〈象徴形式〉としての透視図法序説」(大國眞希)「能のシテは、この薄暗い空間の中で謡曲に謡われる物語世界を濃縮化してゆく。儀式めいた舞台の象徴性が絡み合い、影を強める世界に没入するとき、観客は松を背にした空虚な能舞台に、シテの濃密な内面世界が展開されているのを見る。シテは演技の成就の証として、このまなざしを獲得する。それはある反転(斑点?引用者)の出来事である。…景色はまずシテの内面に発生する。この強烈な象徴空間は、面のペルソナの視覚として、その網膜に映し出される。観客は面の覗き穴を通して、この眼底のスクリーンを覗くが如く舞台を映像化する。内面と外界とが反転する。…」から連想して、能の成立=成就は絵の成立=分析空間の創設(昇華=去勢(象徴的法の内面化)への道の設定??)であり、能面はラカンの図式の「スクリーン=像」であろうし、時に、対象a=まなざしの振りもしているだろう、と思いました。大國さんの文章でも名が出ている増田正造も「これほど必然を追いながら、偶然に賭けられた芸術を、私は知らない。能の技法面はたしかに精密な設計図がひかれている。だが、それのすべてを習得し、そうして、それをつきぬけた独創性にこそ価値があるのだ。この二律背反の兼ね合いに、能の逆説の魔術と深い心がある。両極端の存在が、ひとつのものに止揚されたときにのみ、人間が可能な限りの高い舞台を実現しうる…」(「能の表現」(中公新書、1971年、まえがき))と言うように、主体のもっともやりたいこと、それは社会的にみて取るに足らない(というより不快なもの?である)ことで在り得るが、主体にとり、生=性を賭けた必要不可欠な、個別という緊張感で、制度=国=共同体=家族と十分に距離をとった、最初の設計=理論的詰めを徹底して忘却したところに現れる根源的幻想の横断(塵芥の物語の構造を引き受ける)を行為する主体、偶然=出来事に直面して尚も欲動をドライブする(動かす)死の欲動という零度のまなざしを自分の目として進み行くという根源的絵の成立が分析の実行なのかもしれないと妄想します。あるいは、分析臨床においては一切の理論を捨てなくては暗示になり、分析の邪魔になる、と言われることと同じことが、能でも実践されていると言えると思った(すべてを習得し(=理論化)、それをつきぬけた独創性(一切の理論の廃棄)を分析中、維持するのが、精神分析の臨床という)。

二日目「分析家の現前」は中野さんと土佐さん2名の発表。中野さんは、最初困難だったところも、段々と読んでいくうちに、分かってきたところもあり、と丁寧に読み進め、土佐さんも、ベルナール バース「純粋欲望」(青土社、1995)を下敷きにやはり丁寧に読解。ここも筆者の意識が定かでなく、かなりいいかげんなものとなります。転移が中心主題であり、転移が生じるためには分析家の現前(それ自体が無意識の現れ)が必要だと言い、「再び閉じるためにしか開かない主体の動き…時間的拍動」を起こすもののようです。転移が、無意識の閉鎖(愛)であると同時に開示(憎しみ?=知)であり、無意識は「本性上消え失せる領野」で、「だからこそ分析家の現前が、その消失の証人として…必要」だという。そして、この無-意識という影・消失・喪失に、アメリカの自我心理学が、勝手に自我を投影して勘繰り、妄想を膨らまして(知性化し)事実(=無意識)を抑圧するため、精神分析の振りをして精神分析の肝心な部分を転覆してしまう(可能性を閉ざしてしまう)ものとして批判される。患者の自我の健康な部分を伸ばして転移分析を進めるということが批判され、当人がそれが望ましいと思っている健康な部分そのものが、喪失を喪失として直面させず、鎧として、ただでさえ覆っている無意識を、わざわざ更に覆ってしまう、分析家の現前=転移の成立を不成立化させてしまう、分析家自身を非現前化してしまう行為だと批判される(分析家の不在)。分析家に必要なのは、「あらゆる可能な欺瞞の領域を生じせしめなくてはなりません」「真理はまさに、パロールはたとえそれが嘘であっても真理に呼びかけ、真理を引き起こす」といった事態とされる。無意識が何かを露にする出発点にあるデカルト的確信(確実性)の主体(分析する者・患者)において、転移成立のための役割を持つ「決して騙すことのない神=他者(=分析家)」。その他者が騙される=愛してしまう、折角のaとの出会い(外傷・偶運(テュケー)・原因)を同じaの想像的機能である欲望の対象で埋めてしまう(閉鎖)、そういった動きを、どう分析を進めるために、別の動き(開示)にずらすこと(反復?)が出来るか、が課題となる。この読書会ではない以前の四基本概念の読書会で、向井さんは、他者に関して興味深いことを述べており、以下、メモ。「(この中期ではなく)後期ラカンになると、他者という概念自体が問題になる。人間にそもそも他者性なんか無いんだ。同一性しかない。S1自体、ジュイッサンス(享楽)の場で、他者性はない。
S2も自分で作るしかないから、無意識は他者の言説だと言えなくなる。世の中に他者性が無くなるから不安になる(他者性ができれば、「距離」ができる、だから自閉症者は物理的に壁をつくる)。他者性なしに分析を考えようとした後期ラカン。コミュニケーションも無い、意味も問題にならない、真理も意味的、宗教的なものだから完全に否定される、解釈も想像的(欺瞞的)なものだから意味が無い。「現実的なもの(レエル)」のみを問題化する。他者を擬似的に構築しないと生きていけなくなる。ララングがランダム(無作為)に動いているうちに、それが法になる(それを主体が支えにする??)意味が果たして現実的なものと関係できるか?この次元でサントームの概念が練られる」。このような後期ラカン的な観点からすると、アメリカの自我心理学への批判は、論拠が揺らぐ気がするが、ラカンに影響を受けつつラカンに距離を取っている日本の臨床家も「自我心理学とラカン派の分析は良く似ている。沈黙、傾聴を重視しセッションを時間で区切る。顕著な違いは、時間が短い(ラカン派)か長い(自我派)かだけ」(十川幸司氏)、「(新海安彦氏の添え木療法を解説して)どんな精神療法もやっていることは、それほど変わりが無いんだ」(藤田博史氏)などと言われていることを耳にするため、ラカン派の精神分析が、転移の不成立であると批判する自我心理学(暗示療法)と、実際、どれだけ本当に違うのかを時代別に検討する必要があるのではと思われる。

続いて最後の講、「分析と真理、あるいは無意識の閉鎖」は吉澤さんと古川さんの発表。ここも筆者のこの講の理解不足が多く、ザッと流します。古川さんの発表は、また「ラカン対ラカン」的発表でしたが、しっかり聞かずにいたため、全く述べられません。吉澤さんの発表は、ネット上で取れる「・要約: J.ラカン、セミネールIX巻「同一化」第I講-第 X講」(向井訳)が「大変訳にたった」という問題提起的発表だった。「確信の主体」の「確信」は「確実性」と訳すべき誤訳であるという提起がありました。デカルトの懐疑する主体の存在を保証(担保)する神(他者?)の存在証明が必要であるため、「神(他者)のお墨付き」により主体の存在が「確実なもの」になるという意味で「certitude」は「確実性」とすべきだという論旨で、デカルトの論理は、主体の同定に神(他者)を持ち出さざる得ないところに論理の飛躍があり、ラカンの主体もある意味ではデカルト的主体だが、と同時に、デカルト的主体の袋小路も踏まえ、乗り越えるわけではないが、想像的なaで、点としての主体=コギトを埋めて、思考の可能性を抑圧せず、消失点を消失点のままに留め、分節化出来ない欲望をそれでも分節化された「事実」として思考し続けることが必要なのでは、という論旨ととっていいのかと思った。「確信」の訳については、向井さんから「確実性」でも「確信」でもどちらでもかまわない、という応答があった。神の証明問題において「措定」と「証明」は違う、ため、デカルトは単に「措定」しているだけであるから、ラカンも神の「存在」に対しては説明を求めないので、「疑いの点=措定」は問題ない。問題は、疑っているところの「もの」が「ある」(証明の要求?「自我」(想像的なもの)に戻ってしまう)といったのがデカルトの間違い(お墨付きとしての神を要請してしまう?証明の必要性?)と述べた。つまり、措定という点で留まりさえすれば「主体が確信」しようが「確実性の主体」が現れようが大差無いということか?2番目に、「騙す神・他者」(分析家)の問題が出され、嘘の形で真理の次元が打ち立てられても、真理の次元は揺らがない。嘘はそれ自体で真理の次元内で自身を示すというラカンの文章が引用され、言表内容の主体と言表行為の主体の関係の逆説が問われた。どんなペテン・詐欺の発言であろうと、見分け難い言表行為の次元と言表内容の次元を分けるか分けぬかの瞬間(行為/倫理)、外傷・刻み目の点??言表内容が言表行為に反転している次元の根本的懐疑が進行して現れてくる点・瞬間という「裂け目」であり事態の「包含」でもある真理/虚偽の言、最も分析する者(患者)に合った「語り方(言説)」の創出が現れる点という状況で、「簗というずだ袋の中に包まれた(詐欺にかかった)瞬間(無い)、内側」と「包みきれない口から肝心な性的外傷に沿った(合った)初めの言葉(S1)が光ったように出てくる(語られる・在る)瞬間、外側」の運動を行なう転移空間における無意識の現実の現実化が、事後的に見ると光学図式(他者)の中での光景(絵)の成立(自我理想が複数形で現れた絵の完成)として見られる、というようなことが言われているのか??と今、妄想した。自我理想は、象徴界の点、そこに人が立つ視点・観点で、理想自我は、その観点から見て構成された理想的イメージ…という向井さんからのコメントがあった。また、ラガーシュの光学図式についても説明があったが、トポロジーと絡めて理解しなくてはならないようで、やはりよく分からなかった。他、ポパーのフロイトへの批判「反証不可能性」(ああ言えばこう言う、という分析家の居直りを助長するだけの精神分析理論??)について問われたり、分析の有効性について問われたり(「暗示療法」…医者のように「主人」の立場に立ってしまい(治してあげるという)、分析現場が精神分析の完全な否定になる危険性、いかに「塵芥」の立場になることを恐れないかが問われる??)とか様々議論は活発だったが筆者の本文すら理解できない非力のため、これでまとめを終わらさせて頂く。(2013年5月26日 玉崎 英一)

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