宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

ヒロシマを描く―四國五郎とガタロの絵

 9月の終わり、後期の講義の最初の日だったと思う。「フランス語史」というタイトルの自分にとっても、多分、学生にとっても詰まらない講義を終え、私はとても疲れていた。警備員がいつも歩哨のように見張っている校門を急ぎ足で出て、向かい側の道に素早く渡った。しばらく歩くと、ギャラリー古藤という小さな画廊が目に入った。画廊の前には「四國五郎・ガタロ師弟展」(2017923 () から1022 () まで開催された) と書かれたフライヤーが貼られている。名前の知らない二人の画家。「ガ + + ロ」という音が少しだけ引っ掛かった。疲れているとき、私はよく、ある建物に無意識的に入ってしまう。その時も何故かは判らずに画廊の入り口で入場券を買い、広くはない画廊の中にいつの間にか入っていた。
 入り口近くのパネルを読んで、四國五郎 (1924~2014) は峠三吉の『原爆詩集』の初版の表紙の絵を描いた画家であり (この版はガリ版印刷であった)、長年、広島の街を描き続けていたことが判った。ガタロ (1949~) は四國を師と仰ぎ、清掃員をしながらアウトサイダー的存在性を持つオブジェに注目した独特の絵を描いている画家である。小さな画廊に展示された二人の作品で、最初に目についたものは四國が描いた「相生橋」というタイトルの風景画だった (この橋が原爆投下目標であったことも注記しておこう)。向かって右側に本川沿いに広がったバラックの家が立ち並び、その向こうに相生橋が見える絵である。河川沿いにあった街並みが「原爆スラム」と呼ばれていたことは後で知った。次に目を引いたのはガタロが描いたモップや棒ズリなどの清掃具の絵だった。決して緻密でも、構図がいいとも思わないが、迫力があり、強いメッセージ性を感じた。そこに展示されていたガタロの絵で、大きさと迫力で言うならば「途上の牛」の方が遥かに強烈な印象を見手に与えるかもしれないが、私はそれよりも清掃具を描いた何枚かの油絵とスケッチが気になった。もう一つ気になったものがあった。それは絵ではなく、四國がシベリア抑留時代に着ていたというズタ袋で作ったボロボロのコートだ。四國は終戦のとき満州にいて、ソ連軍の捕虜になり、シベリアに送られ、1945年から1948年まで約三年間強制労働をさせられ、帰国した経験があったが、強制労働時代に着ていたコートである。このコートを着て四國は故郷の広島に帰ってきたのだろうか。ボロボロのコートを着た四國が見たものは、何もなくなってしまったグランド・ゼロとしてのヒロシマ。私はそんな想像をした。
 このテクストでは今述べた「原爆スラム」と「清掃具の絵」、それに加えて、戦後間もない頃、広島の街角に何枚も貼られていた反体制的なメッセージが書かれていた「辻詩」という三つの問題について書いていこうと思う。なぜなら、これらの問題はどれもが戦争と深く関係するものであるが、いつかはじっくりと考えてみようと思っていながら、私が今までまとまった時間を取って真剣に体系立てて考えたことがなかった問題だからである。もしも今何かを書かなければ、また長い期間これらの問題を考えずに時間だけが流れてしまう。そう思い、私は筆を執った。 

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映像の中の身体性

 空間的にも時間的にも隔たりのある異なる二つの言表であっても、そこに何らかの共通点、類似点、補足点といった連関性が見出されるならば、その二つの言表は対話関係を構築する。これはミハイル・バフチンが強く主張した考えである。ジュリア・クリステヴァはバフチンの主張をテクスト間の問題として捉え直し、間テクスト性という概念を提唱した。しかし、こうした関係を構築できるものは言語記号だけではない。ある絵画と他のある絵画、ある写真と他のある写真、ある映画と他のある映画においても見出し得るものである。もちろんこの関係を、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの用語に従って横断性と呼ぶことも可能であるが、どのような用語で呼ぶかは重要ではない。ここで探究しようと思う事柄が、以下で詳しく検討する映像作品の考察を通して想起された問題だからである。 

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藤島武二と戦争画

 日本の近代絵画史を考える上で、西洋画の黎明期に大きな足跡を残した画家の一人として、藤島武二の名前を挙げることに多くの美術専門家は賛成するであろう。彼が日本におけるロマン主義的絵画の確立に多大な貢献をしたことは否まれない事実であるからだ。たとえば、高階秀爾は8月9日の毎日新聞夕刊に掲載された練馬区立美術館で7月23日から9月18日まで開催されている「藤島武二の生誕150周年記念展」に関する記事の中で、「藤島武二 (1867~1943年) は、日本近代洋画の歴史における重要な存在としてよく知られている。そのことは、彼が残した名品の数々や、多くの洋画家たちを育て上げた指導者としての役割を思い出してみれば、十分に納得ゆくものであろう」と、さらには藤島の作品について、「(…)藤島芸術の特質を「洋画」のみならず、深く伝統的なものともつながる近代日本の美的感性、ないしは「美意識」の歴史のなかに位置付ける視点が必要」であると語り、藤島の絵画のオリジナリティーを高く評価している。だが、私は「ロジェストヴェンスキーを見舞う東郷元帥」、「蒙古の日の出」、「蘇州河激戦の跡」、「窓より黄浦江を望む図」という彼の四枚の油絵を見るためだけにこの美術展に足を運んだ。何故この四枚だけなのか。その理由は簡単である。今挙げた高階の言葉からも判るように、多くの美術評論家が藤島の作品を非常に高く評価しているが、私は彼の絵をまったくよいとは思っていないからだ。ロマン主義的な豊饒な感覚を持ったと形容される藤島の前期の人物画を見ても、古ぼけた過去の黴臭い臭いが感じられるだけである。また後期の風景画の中にしばしば描かれる日本を象徴するオブジェに対しては、顔を顰めたくなる国家主義的イデオロギーが充満しているとしか感じられない。一言で言うならば、私は藤島の絵が嫌いなのである。そうであるにも係わらず今挙げた四枚の絵には、日本の戦争画の持つプロパガンダ性、ナショナリズム、ロマン主義的病魔といった私が真剣に向き合わなければならないと考えている問題に対して大きな示唆を与えてくれるに違いないキータームが隠されている。そう思った私は展覧会に向かったのである。
 前述したように、このテクストにおける私の関心は藤島武二という画家自身にも、甘美と称されている彼の人物画にも、力強さが全面に表れていると評価されている風景画にも向けられてはいない。私の問題意識は日本の戦争画にある。しかし、戦争画をどう定義づけるかという問に答えることは簡単であるように思われがちだが、実は極めて難解な事柄である。それゆえ以下の考察においては、最初に「戦争画とは何か」という問題に対する検討を行う。次に、藤島武二の作品における彼の描いた戦争画の位置について考えていく。さらに、藤島の戦争画の象徴性と画家の戦争協力に係わる問題に対する考察を行っていき、最後にこれらの考察を総合していく。このようにここでは藤島武二の作品と絵画制作姿勢というものを分析装置としながら、戦争と絵画、国家プロパガンダと画家の立場という問題に関する探究を行っていこうと思う。 

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アンジェイ・ワイダ:ポーランドの光と影への眼差し

 ポーランド人としてポーランドを見つめ、ポーランドを語り、ポーランドを撮り続け、ポーランドと共に生きた映画監督アンジェイ・ワイダ (原語に近い表記をすれば、「ヴァイダ」となるがここでは通称に従い「ワイダ」と記す)。彼の遺作である「残像」が神保町の岩波ホールで6月10日から7月28日まで公開されていた。この作品を見た私は、何度も言われてきた問題ではあるが、ワイダとポーランドとの強い関係性について改めて考えさせられた。そして、彼の遺作に関して考察しようと思ったこのテクストの執筆方針を変えた。ワイダの個々の映画について語るのは映画評論家や映画学の専門家に任せればよい。それよりもワイダの映画にとって決して欠くことができないポーランドという根本的なテーマについて語る必要があると思ったのだ。
 ワイダは『映画と祖国と人生と…』(西野常夫監訳:以後彼の言葉の引用はこの本からである) の中で、1926年、ポーランド北東部の都市スヴァウキで、陸軍将校の子として生まれたと述べている。父は第二次世界大戦中の1942年に起きたカティンの森事件でソ連軍に虐殺された。それが後に彼が「カティンの森」を制作する大きな動機となる。少年期は戦争とナチス・ドイツの占領時代だった。このポーランドの悲劇を彼は「世代」、「地下水道」、「聖週間」などの中で描いている。長い戦争が終わった。しかしポーランドは解放されなかった。スターリン体制を信奉する社会主義政権によって自由が奪われたのだ。1945年から1988年までの出来事は「灰とダイヤモンド」、「大理石の男」、「鉄の男」、「残像」などに描かれている。それでもポーランドは自由を求めて新しい時代へと突き進む。そして1989年に民主化に成功。この時代の歴史展開は「ワレサ 連帯の男」などに描かれている。ポーランドの現代史だけでなくそれ以前の歴史についても、ワイダは「灰」、「パン・タデウシュ物語」などの作品の中で取り上げている。このようにワイダの映画作品とポーランドとの関係性は極めて深く、この問題を問うことなくワイダの作品について考察することは絶対に不可能であるのだ。
 しかし、ポーランドは一元的で不動の存在ではない。歴史の中で、消滅し、再び現れ、また消え、さらに現れと様々な動きの中の接点にある存在である。さらに民族的に言っても、ポーランドを故郷としたのはポーランド人だけではなく、ユダヤ人、ドイツ人、リトアニア人、ロシア人といった人々がこの国と深く係わった。それゆえここではワイダとポーランドとの関係性に対する検討を行うために、「ポーランド小史」、「ポーランド派」、「祖国を語り続けたワイダ」という三つの視点を導入しようと思う。なぜならこれらの視点は、この関係性を考察するための導き糸として十分に機能すると思われるからである。 

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滝平二郎ときりえ



 風はいったいどれほどの歳月を吹き続けてきたことだろう。
 ただのいっぺんもこちらの思い通りに吹いてくれたことはないけれど、季節の折り目折り目を吹き分けて、光をはこび、匂いをはこび、人びとの胸にさまざまな思いをはこび、どこへともなく去っていった。

―滝平二郎『母のくれたお守り袋』


 三鷹市民ギャラリーで4月22日から7月2日まで開かれていた滝平二郎展のポスターがある大学の図書館に貼ってあったのを偶然目にした。この図書館には4月半ばから何度も足を運んでいたが、このポスターにはまったく気がつかなかった。展覧会の終わる少し前に私は急いでそのギャラリーに行った。滝平の絵を見ると、彼の絵を初めて見たときのことが思い出される。中学生になったばかりの頃だった。『ベロ出しチョンマ』という妙なタイトルの子供向けの本が家の本棚の中にあるのを発見した。タイトルの不思議さに惹かれ、その本を棚から取り出した。タイトルも奇妙だったが表紙の絵はもっと奇妙だった。江戸時代と思われる封建時代の男の子の人形がベロを出している絵なのだ (後に、版画であることが判明するが)。タイトルの下には斎藤隆介作という文字と滝平二郎絵という文字が書かれていた。
 この発見以降、私は斉藤隆介の絵本を読むようになったのだが、斎藤のほとんどの作品の挿絵は滝平のものだった。最初は版画だったが、それがきりえになっていく。きりえという言葉は昔からあるような錯覚があったが、滝平によると朝日新聞の記者が彼の絵の属するジャンルを示すために1969年に命名したものだそうだ。切り紙でもなく、剪紙でもない新たなジャンルが滝平の絵から生み出されたのだ。だが、こうした新たなジャンルの誕生は絵画史の中で繰り返し起きてきた出来事である。たとえば、ツヴェタン・トドロフは『日常礼讃』(塚本昌則訳) の中で、17世紀のオランダにおいて、画家たちが宗教画という枠組みを取り払うことによって風俗画という新ジャンルを生み出したことについて詳しく論じているが、きりえも同様に切り紙や剪紙からの解放によって確立したのである。枠組みが外されることと新ジャンルの確立との関係性は絵画史を考える上で大きな意味がある問題である。
 しかし、こうした問題の探究は本文で展開するとして、先ずは、このテクストの構成について一言述べておこう。ここでは滝平二郎のきりえに対する考察を行っていくために、彼の生涯と彼の作品の特徴を論述し、さらに、滝平二郎のきりえと深く結びついている斎藤隆介の物語テクストとの連関性に関しても検討していき、最後にこれらの問題をまとめていく。

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