宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

中村研一の戦争画

 そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
 駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
 このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。 

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映像の向こう側にあるマルクス像

 220席ある映画館は満席だった。だが、ぐるりと見まわすと、ほとんどの観客が65歳以上であることがすぐに判った。20代、30代と思われる観客は数えるほどしかいない。この映画館の前回上映作品、キルギスのアクタン・アリム・クバト (ラテン字表記:Aktan Arym Kubat) 監督の「馬を放つ (原題ラテン字表記:Centaur)」は名作だと私は思ったが、そのときの入場者数は30名足らずだった。それとはまったく対照的な光景。何故この映画を見るためにシニア世代の多くの人々がここ、岩波ホールに集まっているのか。それがこの映画を見る前に私が抱いた大きな疑問であった。映画のタイトルは「マルクス・エンゲルス (原題は“Le jeune Karl Marx”であり、直訳すれば「若きカール・マルクス」)」。ハイチのラウル・ペック (Raoul Peck) 監督が制作し、2017年から劇場公開が開始された作品である。若き日のマルクスとエンゲルスに自らの青春を重ね合わせるために、多くの観客はここに集まったのだろうか。そうであるならば、あまりにも感傷的で、回顧的な行為ではないだろうか。映像を見る前に、私は作品の内容とはまったく関連のない詰まらない事柄が妙に気になった。
 映画はあっという間に終わった。興味深い作品であった。だが見終わったとき、私は映像そのものについてではなく、この映像を見ることを通して思った以下の三つの事象について検討してみようと考えた。最初の検討課題はマルクスが用いたレトリック (もちろん、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels) においても同様であるが) の問題であり、二番目のものはマルクス哲学における理論 (Theorie) と実践 (Praxis) の連続性に関係する問題である。三番目のものはマルクスの生きた時代と現代との時代精神の差異を巡る問題である。それゆえ、映画の物語性についてはここではほとんど触れないつもりである。この考察方向性からも判るように、私の探究はテクストクリティックというものでも記号学的なものでもなければ、マルクス主義経済学の範疇に属するものでもマルクス主義哲学の原理を問うものでもない。「マルクス・エンゲルス」という映画を基軸として、異なる様々な時代的な断層や学問的な領域を横断することが問題となる。 

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一枚の肖像画を巡る眼差しの歴史

 展覧会の入り口を通過すると、この会場に飾られている絵画作品のコレクターの大きな写真が目に飛び込んできた。自分の集めた絵に囲まれて一人椅子に座っている男。彼は長い時間をかけて収集した宝の前で満足そうな笑みも浮かべずに、ただ座っていた。男の名前はエミール・ビュールレ (Emile Bührle)。1890年にドイツ南部のプフォルツハイムで生まれ、1936年にスイスに帰化し、1956年にチューリッヒで死去した実業家であり、もちろん美術収集家である。
 彼のコレクションの一部が今日本に来ている。「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」というタイトルで、六本木の国立新美術館で214日から57日まで開かれている展覧会で、コレクションの中の64点が見られるのだ。2008年に盗難事件に遭ったポール・セザンヌ (Paul Cézanne) の「赤いチョッキの少年 (Le Garçon au gilet rouge)(1888-1890)、エドガー・ドガ (Edgar Degas) の「リュドヴィック・リュピック伯爵と娘たち (Le Comte Ludovic Lepic et ses filles)(1871年頃) 、クロード・モネ (Claude Monet) の「燕 (Les hirondelles)(1873年頃)、フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) の「花咲くマロニエの枝 (Branches de marronnier en fleur)(1890) という4枚の絵や、エドゥアール・マネ (Édouard Manet) の「べルヴュの庭の隅 (Coin de jardin de Bellevue)(1880)、ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)の「贈り物 (L’offrande)(1902)、ジョルジュ・ブラック (Georges Braque) の「ヴァイオリニスト (Le violoniste)(1911)、パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) の「イタリアの女 (L’italienne)(1917) といった名作が目の前で見られるという意味で非常に興味深い展覧会である。だが、私はこのコレクターの人生と一枚の絵の運命とに引き付けられ、会場へと向かった。その絵はピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir) が描いた「イレーヌ・カーン・ダンベール嬢 (Portrait de Mademoiselle Irène Cahen d’Anvers)(1880) である。 

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熊谷守一と長谷川利行


 昭和の初め、池袋モンパルナスと言われたコミューンがあった。そこは、当時、怪しげな格好をし、奇声を発し、エキセントリックな行動をする、常軌を逸した異端者と思われていた画家たちにとってのパラダイスであった。この特殊なコミューンの中に一際異彩を放つ二人の画家がいた。一人は「仙人」や「天狗」などと呼ばれていた熊谷守一。もう一人は、その仙人から「ゴッホなんかより長谷川利行の絵の方がいい」と言われた浮浪の画家、長谷川利行である。今、東京で、この二人に関係する展覧会が二つ開催されている。一つは昨年の12月1日から3月21日まで東京国立近代美術館で行われている「熊谷守一 生きるよろこび展」である。もう一つは2月24日から4月15日まで板橋区立美術館で行われている「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」と名付けられた展覧会である。
 ここでは、後期日本近代美術の二つの特異なる星である熊谷守一と長谷川利行の作品とを、今挙げた二つの展覧会に出品されている絵画を中心として考察していこうと思う。何故なら、この二人の画家のそれぞれの作品を比較検討することで、日本における近代から現代へと大きく変遷していった絵画的動きの一つの側面を、明確に理解することが可能であると思われるからである。熊谷守一も長谷川利行も彼らの絵の独自性が語られる以上に生き方が語られることが多い。自分の生活のリズムを守り通し97歳まで長寿を全うした守一と、49歳のとき路上で行き倒れ、窮民施設の医療病棟に収容され、誰も看取る者もなく、一人死んでいった利行。二人の生も死もまったく異なるが、画家という職業の特殊性と尋常ではない生活という点が注目され、語られることが多いのだ。また、この二人の浅からぬ交流についても様々な人々が証言している。こうした点は非常に興味深い問題を内包している。しかしここでは、多大な紙面を要する二人の画家の人生という問題にはあまり触れずに、二人の絵画にとって重要な位置を占める彼らの油彩の作品にだけ焦点を当てて、論述していく。なおこの考察は、「熊谷守一:モノの存在性」、「長谷川利行:乱舞する線」、「生の息吹を表わすタッチ」という三つの探究視点に従って行っていこうと思う。

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永遠からの贈り物 ― パレスチナについて

    パレスチナについて何か書こうと思った直接の理由は、1月31日から2月4日まで江古田にあるギャラリー古藤で開かれていた「パレスチナ、平和を願う色彩展」を見たからであった。だが、パレスチナ問題について、私は以前にも何度か、時間をかけてしっかりと考えてみようと思ったことがあった。1970年代の後半、私は初めて、パレスチナの作家、ガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』という小説を読んだ。そのとき、パレスチナ人という存在の複雑さ、不条理さ、担わされた歴史の重さについてしばらく考えた。1980年代の後半に、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が話題となったとき、西洋中心主義の歴史観に強烈な一撃を与えたこの本を夢中で読んだ。そして、われわれは大文字で書かれた歴史にどれほど激しく汚染されているのか、パレスチナ人とは何かという問題を考えた。だが、最初のときも後のときも、何の結論も出ないままに時間だけが過ぎ去っていった。パレスチナはあまりに遠く、私の思考能力はあまりに貧しかったのだ。
    ギャラリー古藤での展覧会。このギャラリーで前回行われた展覧会「絵本から見る子どもの権利―スウェーデンの画家からの贈り物―」を訪れたとき、パレスチナに関係する次の展覧会のフライヤーを見た私は、フライヤーに写っていたパレスチナの織物に引き付けられた。この鮮やかな布がパレスチナで作られているとは信じられなかったのだ。私の知らないパレスチナを見てみたい。そう思った私は「パレスチナ、平和を願う色彩展」に向かい、展覧会を見て、「虐殺はなかった」、「そこにも日常はある」、「織物と刺繍」という三つの視点からパレスチナについて書いてみようと思った。

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