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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

責任と贖罪:虐殺の記憶を語ること

  1月13日、文京区区民センターで憲法を考える映画の会が企画した「自主制作・上映映画見本市#3」が行われ、総計7本のドキュメンタリー映画が上映された。私はその中で「靖国・地霊・天皇」(2014年)、「9条を抱きしめて―元米海兵隊員が語る戦争と平和―」(2013年:以後サブタイトルは省略する)、「反戦を唱う女たち」(1988年)という三本の映画を見たのだが、ここで書こうと思う事柄は「9条を抱きしめて」と関係する問題である。映画の完成度から言うならば、この映画よりも他のニ本の方が完成度は高かったが、この作品が提示する問題について考察する必要性を私は強く感じたのだ。それには以下の理由があった。
 この上映会の数日前、私はある大学の図書館で多木浩二の『進歩とカタストロフィ:モダニズム 夢の百年』という本を見つけた。この本の冒頭で多木は、「ニ〇世紀を後にしたわれわれは、その歴史を書かねばならない。それはほとんど義務といってよい。それには政治、経済、社会関係、文化などが複雑に組織化された領域を横断せねばならない」という言葉を書いている。この言葉を読みながら、私は20世紀について何かを語ることの一つの大きな意味は、世紀の変化と共に忘れ去られようとしている小さな出来事をもう一度確かな目で見つめ直すことではないかと思ったのである。
  そして、私は「9条を抱きしめて」を見た。この映画の元海兵隊員の物語とその物語に関係した歴史性について何かを書くことも、歴史の波間に消え行こうとする問題に再び光を灯すことではないだろうか。そう考えたのである。それゆえ、このテクストでは最初にアレン・ネルソンという元海兵隊員の人生に関して検討する。それに続いて、やはりアメリカの軍人で、ヒロシマの原爆投下にゴーサインを送った先導機の機長だったクロード・イーザリーについて書いていく。そして二人の元アメリカ軍人が引き受けようとした戦争責任と彼らの行為の歴史的意味という問題について考えていきたい。 

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そこにアフリカはあるか?:異なる世界を見つめる視線について

 アフリカ開発会議 (TICAD) は日本政府の主導の下、国連、国際連合開発計画、アフリカ連合委員会、世界銀行の協賛を得て、1993年から開催されている国際会議である。この会議は現在、三年に一度開かれており、第7回である今回は横浜で8月28日から30日まで開かれた。ここではTICADの意義や問題点について話そうという訳ではない。今回の開催と連動して都内にある某大学の八王子キャンパスで11月13、14、15日にアフリカ映画祭という企画が行われたのだが (最初の日はマイケル・マシソン・ミラー監督の「ポバティー・インク~あなたの寄付の不都合な真実」、二日目は小林茂監督の「チョコラ!」、最終日はティエリー・ミッシェル監督の「女を修理する男」が上映された)、この企画についてのポスターを13日にその大学に出講していた私が発見したのだ。ここで考察する事柄はこのことと関係する。
アフリカ映画祭と銘打った企画にはフライヤーがあり、そこには「××大学は国際化を推進するため、キャンパス全体をグローバルな学びの場とすべく「インターナショナル・ウィーク」を開催しています。今年のテーマは「アフリカとアジア途上国」。有望なビジネス市場として注目される一方、世界の最貧困層の半数強がサブサハラ・アフリカ地域に集中するなど、多くの人々が未だ根深い貧困に喘いでいる地域です。私たちに何ができるのでしょうか。まずはアフリカの姿を一歩知ることから始めてみませんか?」と書かれてあった。文科省のお達しに迎合するお決まりの「国際化」、「グローバル」、「インターナショナル」というプラスチックワードが並び、最後に「アフリカを知るための第一歩」という言葉。鼻につく文面だ。だが、この映画祭の二日目、つまりは今日上映される「チョコラ!」という映画に興味が沸いた。小林茂監督が2009年に、ケニアのナイロビ近郊の小都市でゴミ拾いをして暮らすストリートチルドレンを撮ったドキュメンタリー映画である。日本人が見つめたアフリカとは何かその点が気になったのである。
 一月程前、私は多摩美術大学美術館で開催されていた「エターナル・アフリカ*森と都市と革命―アミルカル・カブラルの革命思想とジョージ・リランガの芸術―」という展覧会でリランガが制作したヒロシマに関するパネル作品を見た。それは日本人が捉えることが決してできないであろう被爆地ヒロシマのイメージを表したものであった。創造的精神は自らとは異なる歴史や社会や文化の中で起きた大きな出来事を同一空間内の共同性を超えて表現することができ、異化効果によって、その創造された作品はわれわれに確かに語り掛けることが可能である。リランガの作品はそうした認識を強く抱かせるものであった。偶然にも一月後に、リランガとは逆に日本人がアフリカというものをテーマとした小林の映画が上映される。この点に私は強く引き付けられ、詰まらない講義をいつもよりも早く切り上げて上映会場に急いだのである。
 このテクストで問題となる探究視点は三つある。一つ目は現在のアフリカという問題、二つ目はドキュメンタリー映画の困難さという問題、三つ目は異文化を見つめる目という問題である。この三つの視点からの探究によって異なる社会や文化をどのように捉えることが可能かという問いに対して答えていこうと思うのである。では、それぞれの視点からの考察を開始しよう。 

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カブラルの遺産とリランガの絵画

アフリカは歌う。アフリカは踊る。アフリカは跳躍する。アフリカは喜びを、あるいは、悲しみを爆発させ、新しい希望の光となり輝く。アフリカのリズムは軽快だ。深さを求め、根底を求め、沈潜しようなどとはしない。上空へ、魂の住処へ向けて飛翔する。アフリカの色は鮮やかで、ダイナミックだ。アフリカの線は強く、逞しい。アフリカは抑圧され、搾取され、虐げられてきた。だが、アフリカはもう一度光輝く。新たな芸術の創造と共に。

727日から1014日まで、「エターナル・アフリカ*森と都市と革命―アミルカル・カブラルの革命思想とジョージ・リランガの芸術―」という展覧会が東京都多摩市にある多摩美術大学美術館で行われていた。カブラルはアフリカの多くの国の独立運動に大きな勇気を与えたギニアビサウの作家・革命家である。彼はアフリカの多くの国々の独立運動の精神支柱であっただけではなく、伝統文化とそれに基づくこれからのアフリカ文化の発展の意義を強調し、独立闘争の混乱期にアフリカの希望の声となった人物である。リランガは現代アフリカ絵画における大きな潮流の一つであるティンガティンガ派を代表する画家であり、彼の作品は世界中で極めて高く評価されている。

この展覧会では現代アフリカ美術に多大な影響を与えた二人の人物を関連づけながら、リランガの作品と彼の周辺に位置する現代画家の絵画を展示していたが、その中でも一際異彩を放つ作品はやはりリランガのものであった。それゆえ、このテクストではカブラルの意志を継ぎ、独立運動以降に花開いたアフリカ現代絵画におけるリランガの位置とその特異性、さらには、アフリカ絵画の可能性と彼の作品の魅力について考察していきたい。

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岩田専太郎と小川原脩の戦争画

 201964日から1020日まで、東京国立近代美術館のMOMATコレクション展で、5点の戦争画が展示されている。藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」(1944年:以後初出時に制作年をタイトルの後に表記する)、中村研一の「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」(1945)、岩田専太郎の「小休止」(1944)、小川原脩の「成都爆撃」(1945)、三輪晁勢の「ツラギ夜襲戦」(1943) である。MOMATコレクション展では、戦争画が3点しか飾られないことが一般的であるが、今回は終戦記念日を挟む期間の展覧だからであろうか、5点飾られている。

 私は最初、藤田の暗く重い絵と、中村の青空の下で墜落する三機の軍用機が描かれた絵という極めて対照的な光度の絵が向かい合って展示されている点が気になった。この二枚の絵を巡る問題をじっくりと検討してみたいという欲求もあったが、このテクストでは、それ以上に気になった岩田と小川原の戦争画に関する問題について考察していきたいと思う。何故なら、先ず岩田に関しては、彼は挿絵作家として有名であると共に、美人画作家としてもよく知られていたが、彼の画家としてのそのキャリアと戦争画との関係性を理解することが難しかったからである。小川原に関しては以下のような理由があった。戦後すぐに彼は軍国主義政策に協力したという責任を負わされ美術文化協会から除名処分を受けたが、同じように日本画壇の中心から追放された藤田嗣治とは異なり、小河原が自らの描いた戦争画の責任問題を生涯問い続けた画家であり、この点について詳しく検討していきたいと考えたからである。

 二人の画家は十五年戦争中の戦争画制作を積極的に牽引した画家であったとは言い難い。だが、今回展示されたこの二人の画家の二枚の絵を中心的に見つめながら、彼らの戦争画を考察することによって、戦争画の持つ社会的な、また、歴史的な重さと意味とが浮き彫りにできるのではないかと思ったのである。すなわち、藤田や中村のような当時の戦争画制作活動をリードしていった画家の作品だけでは捉えることができない戦争画の問題点にスポットを当てることができると考えたのである。

 

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弁証法的アナクロニズムと絵画

7月25日から8月3日まで神奈川県民ホールで開催されていた「プレイバック ザ・カナガワビエンナーレ!:カナガワビエンナーレ国際児童画展開催20回記念特別展」内企画展示「《帰国した80年前の児童画たち》について」という展覧会に足を運んだのには以下のような理由があった。
上野の東京都美術館でクリムト展が開かれていた時のことだった。この展覧会を見終えた私は、地下の展示室が偶然目に入ってきた。そこでは都美セレクショングループ展2019「星座を想像するように――過去、現在、未来」が開催されていたが、その一つとして日独伊親善図画という展示があった。80年以上前に描かれた児童画を私はその時初めて目にしたが、飾られていた絵の多くに函館市弥生尋常高等小学校という表示がなされていた。その小学校は叔母が30年程前に勤務していた学校のかつての名前であり、その学校の近くにあった市立函館病院には祖父が入院していた。祖父はそこで亡くなったが、火葬場は小学校の近くにあった。弥生小学校の傍を火葬場に向かうわれわれ家族を乗せたバスが通り過ぎて行ったおぼろげな記憶がある。だが、80年前の親善図画と弥生小学校とを結びつけるものが私に思い浮かばなかった。展示場にはこの関係性を示す詳しい情報は何もなかった。受付の女性に尋ねてみると、連絡先を教えてもらえれば、この展示の企画者から何らかのコンタクトがあるようにするという答えが返ってきた。私は名刺を置いて会場を出た。
 10日程してから、企画者の東京芸術大学院生の田中直子さんからメールがきた。そこには彼女がこの児童画と出会ったきっかけや展覧会を行うようになった経緯などが書かれてあった。しかし、弥生小学校と日独伊親善図画との関係性は判らなかった。メールには「カナガワビエンナーレ国際児童画展開20回記念特別展」での親善図画の展示について、さらには80年前に描かれた児童画をもっと多く、約200点展示するということについても書かれていた。運悪く編集プロダクションからきた原稿書きの仕事のため、私はなかなか時間が取れなかった。しかし、展覧会が終わる二日前に何とか最後の原稿を書き上げ、翌日、展覧会に行くことができ、田中さんにも直接会うことができた。これから述べようと思う事柄は以上のような背景の下に書かれるものである。それゆえ、ここで行う考察はある歴史的出来事を巡る学術的な厳密な研究といったものではなく、個人的な問題を多く含んだ試論と言うべきものであることを先ず断っておかなければならないだろう。 

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