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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

藤田嗣治あるいは戦争画の巨匠

 彼女は頬杖をつきながら、一人カフェで手紙を書いている。大きなインク染みがある手紙。インク壺を倒したのか。苛立って文字を消したのか。どちらの予想も外れているだろう。何故なら彼女の表情は朧気で、視点は定まっていないからだ。片方の目はそこに、もう一方は向こう側に向けられている。いや、そうではない。この絵をしっかりと見つめると、彼女が斜視であることに私は気づいた。藤田嗣治が1949年に描いた「カフェ」という作品を、私は7月31日から10月8日まで東京都美術館で開催されている「藤田嗣治展」で初めて、実際に目の前で見た (「カフェ」には三つのバージョンがあるが、彼女の斜視が一番はっきりと判るものは今回展示された作品である)。この絵に描かれた彼女が斜視であったこと、それが藤田の戦争画に関する謎を説く一つの手がかりになるのではないか。私はこの発見によって、一般的に見れば、「カフェ」という絵とは直接には関係しないであろう藤田の戦争画 (展覧会には戦争画である「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」とが展示されていたが、この二点の戦争画は異端的なものとしてぞんざいに、その意味を厳密に問うこともなく展示されていたことも注記しておこう) について改めて真剣に考えてみたいと思ったのだ。
 藤田や彼の描いた戦争画が論じられているテクストは多数存在している。藤田の絵について特別に研究している訳ではない私でも、菊畑茂久馬の『フジタよ眠れ』や『天皇の美術:近代思想と戦争画』(副題のあるものは、二度以上表記する場合、副題を省略して示す)、田中比佐夫の『日本の戦争画』、田中穣の『藤田嗣治』、司修の『戦争と美術』、近藤史人の『藤田嗣治:「異邦人」の生涯』、河田明久監修の『画家と戦争:日本美術史の空白』、柴崎信三の『絵筆のナショナリズム:フジタと大観の“戦争”』、平山周吉の『戦争画リターンズ:フジタ嗣治とアッツ島の花々』、富田芳和の『なぜ日本はフジタを捨てたのか?:藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949』などには一度は目を通した。これらのテクストを読むと、藤田の戦争画の問題は極めて複雑な様相を呈していることが理解できる。藤田は、元々は良家の末っ子として生まれ、甘やかされ、自分の名を売ることに長け、確固とした思想基盤はなく、軽妙に世の中を渡り歩いた画家であった。だがこうした個人的側面に反して、彼の描いた絵画、特に戦争画には軍部への追従と率先して軍国主義プロパガンダに協力した側面が多々ありながらも、現存する作品では『アッツ島玉砕』以降、鬼気迫るものがあり、さらには神聖な威厳さえ感じさせる力がある点を、どのテクストも一致して強調していた。
 しかし、何故このような戦争画を藤田が描いたのか。また、戦争画制作以前の藤田の作品と戦争画との関係性、戦争画と戦後の彼の作品の関係性とは何かという問題について詳細に考察しているテクストは見つけられなかった。それゆえここではこの問題について以下の三つの側面から検討していこうと思った。最初の側面は藤田の戦争画を前期と後期に分けてその特質を探るというものであり、第二のものは藤田の戦争画と無残絵の巨匠である月岡芳年の浮世絵との連続性を考察しようとする側面である。第三のものは冒頭で語った「カフェ」と藤田の戦争画との関係を探ろうとする側面である。

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希望の光はもう消えたのだろうか―『立ち上がる夜:‹フランス左翼› 探検記』を読む

 1987年7月7日夜、パリ=シャルル・ド・ゴール空港に着く。今迄に海外に出たことは一度もなかった。それに加えて英語もフランス語も覚束ない私は、何とかRER (地域急行鉄道網) の駅まで行く停留所を見つけ、バスで駅に向かった。駅の切符売り場でパリ行きの切符を買ったはずだが、フランス語で言ったのか英語で言ったのかはっきりとした記憶はない。電車に乗り込むことができた時は夜の9時半を過ぎていたが、日はまだ落ちてはいなかった。私はその時初めて真夜中まで日の落ちない夜というものを経験したのだが、感動はなかった。言葉も地理も判らない外国に来て、3ヵ月間のビザはあったが、語学学校にしばらく通った後のことはまったく決めていなかったからだ。
RERの車両には乗客の姿は殆どなかった。窓の外には広大な農地が見え、人家はポツポツと点在しているだけだった。この電車は本当にパリに向かっているのだろうか。私は不安で仕方なかったが、そのことを確認するためのフランス語が思いつかず、黙って座っていた。それから十数分して建物の数が増えてきて、さらに何分かして、モンマルトルの丘の上に建ったサクレ・クール寺院が見えた。確かにパリに向かっているのだ。サン=ラザール駅に着いたが、人影はまばらだった。夜の10時を過ぎてはいたが、パリという大都会の中心駅の一つが、このように閑散としているとは意外であった。だが、そんなことよりもまずは今夜のホテルを探さなければならない。私は駅を出て明るい夜に包まれたパリの道を歩き始めた。
30年も前の個人的な詰まらない経験を最初に書いたのには訳がある。1987年は第一期フランソワ・ミッテラン政権が終わろうとする年であった。翌年の4月の大統領選挙では最終的に社会党のミッテランとRPR (共和国連合) のジャック・シラクとの決選投票になるだろうと予想されていた (実際にそうなり、二人による決選投票が同年5月に行われた)。左右二大陣営が政権を争うという構図はフランスの伝統的な選挙戦の構図であるが、左派の中心政党は社会党 (PS) であった。私はミッテラン政権時代の数年間を外国人として、パリで過ごした。だが、これから検討しようと思う村上良太の『立ち上がる夜:‹フランス左翼› 探検記』(以下『立ち上がる夜』と表記) の中で示されているパリやフランスの様相があまりにも30年前と異なっているように感じられた。それがこの本についての何かを書こうと思った理由の一つである。
この本の中心テーマである「立ち上がる夜 (Nuit debout)」という社会運動それ自身も大変興味深い運動である。だが、日本人である私はほぼ同時期に日本で起きたSEALDsによる安部政権の安全保障関連法案に対する国会前での抗議運動との比較を行いたいと思った。二つの運動は多くの相違点がある一方で、新自由主義と右傾化する世界への抵抗運動という類似点を持っている。それゆえ、この二つの運動を比較することで世界の現状が見えてくるのではないかと考えたことが第二の理由である。
また、立ち上がる夜も、SEALDsの運動も、ある特定期間に起き、消えていった大規模な社会運動であったが、それが何故起き、何故消えていったのか、二つの運動の遺産はどのように受け継がれようとしているのかという点にも大きな関心がある。この点もこのテクストについて書こうと思った理由の一つである。前書きが長くなってしまったが、ここでは今述べた点を中心にしながら、『立ち上がる夜』というテクストの中で示された論点を考察することによって、フランス及び世界の現状について探究していきたい。 

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忠臣というフィクション:富岡鉄斎の「南朝忠臣図」について

 早稲田大学構内にある會津八一記念会館で510日から616日まで「【富岡展示】近代の日本画」という企画展が開催されていたが、そこに富岡鉄斎の描いた「南朝忠臣図」が展示されていた。これは12枚で一つのシリーズを構成する作品で、一枚の絵に一人ずつ、総計12名の忠臣が描かれたものである。鉄斎の絵の代表作ではないが、この作品は明治期の知の巨人の一人である鉄斎と当時の思想状況を考える上で重要なものであると共に、「忠臣」という歴史的フィクションを考える上でも興味深いコーパスとなるものである。それゆえ、ここでは鉄斎の忠臣図から派生していく歴史的、イデオロギー的な問題を中心として考察していこうと思う。
 

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中村研一の戦争画

 そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
 駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
 このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。 

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映像の向こう側にあるマルクス像

 220席ある映画館は満席だった。だが、ぐるりと見まわすと、ほとんどの観客が65歳以上であることがすぐに判った。20代、30代と思われる観客は数えるほどしかいない。この映画館の前回上映作品、キルギスのアクタン・アリム・クバト (ラテン字表記:Aktan Arym Kubat) 監督の「馬を放つ (原題ラテン字表記:Centaur)」は名作だと私は思ったが、そのときの入場者数は30名足らずだった。それとはまったく対照的な光景。何故この映画を見るためにシニア世代の多くの人々がここ、岩波ホールに集まっているのか。それがこの映画を見る前に私が抱いた大きな疑問であった。映画のタイトルは「マルクス・エンゲルス (原題は“Le jeune Karl Marx”であり、直訳すれば「若きカール・マルクス」)」。ハイチのラウル・ペック (Raoul Peck) 監督が制作し、2017年から劇場公開が開始された作品である。若き日のマルクスとエンゲルスに自らの青春を重ね合わせるために、多くの観客はここに集まったのだろうか。そうであるならば、あまりにも感傷的で、回顧的な行為ではないだろうか。映像を見る前に、私は作品の内容とはまったく関連のない詰まらない事柄が妙に気になった。
 映画はあっという間に終わった。興味深い作品であった。だが見終わったとき、私は映像そのものについてではなく、この映像を見ることを通して思った以下の三つの事象について検討してみようと考えた。最初の検討課題はマルクスが用いたレトリック (もちろん、フリードリッヒ・エンゲルス (Friedrich Engels) においても同様であるが) の問題であり、二番目のものはマルクス哲学における理論 (Theorie) と実践 (Praxis) の連続性に関係する問題である。三番目のものはマルクスの生きた時代と現代との時代精神の差異を巡る問題である。それゆえ、映画の物語性についてはここではほとんど触れないつもりである。この考察方向性からも判るように、私の探究はテクストクリティックというものでも記号学的なものでもなければ、マルクス主義経済学の範疇に属するものでもマルクス主義哲学の原理を問うものでもない。「マルクス・エンゲルス」という映画を基軸として、異なる様々な時代的な断層や学問的な領域を横断することが問題となる。 

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