宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

髑髏のある風景―中村彝の自画像について

 大正期を代表する洋画家の一人である中村彝は1887 (明治22) 年に茨城県仙波村で生まれた (この村は現在水戸市となっている)。彼の最もよく知られている絵は、1920 (大正9) 年に描かれた盲目のロシア人作家・エスペランティスト、ワシリー・エロシェンコの肖像であろう (エロシェンコの出身地は現在ウクライナの一部となっている)。ボリュームのある金色の髪。瞳には光がないために神秘的とも形容できる目。表情を読むことはとても難しいが、真っ白なシャツを着て、斜め前を向いたエロシェンコ。そのエキゾティックな姿は、大正時代の日本人にとって、実に魅力的なものであったに違いない。

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温的紹興酒 (ウェンドゥシャオシンジュウ) 

 紹興を舞台にした魯迅の作品である『孔乙己』(コンイーチー) の中には、「労務者たちが、昼か夕方の仕事をおえたあと、銅銭四枚出して酒を一杯買い(…)、カウンターにもたれて立ったまま熱いところをひっかけて息をいれる」(竹内好訳、『阿Q世伝・狂人日記』) という一文がある。ここに書かれている燗酒は当然紹興酒であろう (余談ではあるが、この酒のアルコール度数は14度から18度である)。清の時代に、紹興酒を熱燗で飲むことはすでに一般的だったようであるが、中国で温めた酒を飲む習慣はいつ頃から始まったのだろうか。

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過去の物語は誰が作り上げるものなのか?

 太宰治は『弱者の糧』の中で「映画を好む人には、弱虫が多い」と述べている。私は映画が格別好きではないが、嫌いでもない。でも、弱虫である。自慢のできる話ではないが、権力とりっぱに戦ったためしもなく、週に何度も映画館に通うということもしたことがない。弱虫の凡人である。そんな私でも、偶然知った映画が気にかかり、映画館に入ることがある。
 片渕須直監督作品「この世界の片隅に」を見ようと思ったきっかけは、偶然見たテレビ番組で、映画制作のために、この監督に質問を受けた一人の男性が語っていた言葉であった。男性の両親は広島市で理髪店を経営していた。彼には兄と姉がいた。昭和20 (1945) 86日、原爆が投下された日、男性は田舎に疎開していた。廃墟になった街で懸命に家族を探したが、家族の遺体は見つからなかった。彼のその理髪店が映画の中にほんの僅かな瞬間だけ映る。片渕は、広島と呉のかつての街並みを当時のままに近い形で再現しようとしたと番組の中で話している。男性の住んでいた理髪店の前で、両親と兄と姉とが歓談している。そのシーンのために、彼は三度映画を見た。この逸話を聞いて、私はヴァルター・ベンヤミンが主張していた過去の救済という問題を思い浮かべた。しかし、本当にこの映画はベンヤミンの主張と関係するものであろうか。その思いが私を映画館に向かわせた。 

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ヴァン・ショー

 ホット・ワインはフランス語でヴァン・ショー (vin chaud) と言う。フランスでは日本の卵酒と同様に風邪のとき、薬の代わりに飲む。だが卵酒よりもはるかに美味い。だから、寒い冬の日にカフェで一杯やって、体を温めてから仕事に戻るといった飲み方もされている。ホット・ワインは英語だと思うかもしれないが、実は和製英語だ。英語ではマルド・ワイン (mulled wine) と言う。ワインを温めて飲むという方法は現在のドイツが発祥のようだ。ドイツ語ではグリューヴァイン (Glühwein)。この飲み方はドイツからヨーロッパに広がり、とくに東欧ではポピュラーなものとなった。もちろん、フランスでも誰もが知っている飲み物となっている。
 しかし、ヴァン・ショーはいつから飲まれるようになったのか。そう思い文献を調べてみる。ヴァン・ショーの歴史は古く、いつから飲まれるようになったかは定かではないが、中世ヨーロッパでは、すでにかなり飲料されていたようだ。1420年頃に作られたヴァン・ショー用の金メッキされた銀の杯が、ドイツのカッツエンエルンボーゲン伯爵 (Graf von Katzenelnbogen) の城に残されている。この伯爵は当時ライン川流域に大きな勢力を持っていた貴族だ。わざわざヴァン・ショー用の杯を城主が作らせたということは、当時すでにヴァン・ショーが少なくとも上層階級の人間にとってはポピュラーな飲み物だった証明になるだろう。 

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松本竣介とジョージ・グロッス

 神奈川県立近代美術館鎌倉別館で10月8日から12月25日まで開かれていた「松本竣介:創造の原点」と題された展覧会に11月の終わりに行ってきた。絵だけではなく、彼の撮った写真や手紙といった松本竣介についての貴重な資料が数多く展示された、極めて示唆に富んだ優れた展覧会であった。多くの興味深い展示物の中で、とくに私の関心を引いたものは、竣介によるジョージ・グロッス (George Grosz) の人物画に登場した多くの顔の模写であった (二人の名前の表記問題に関しては後述する)。すぐに何かを書きたいと思いながらも雑事に追われた私は、松本竣介の絵画におけるジョージ・グロッスの影響という重要な問題をじっくりと考えることができなかった。展覧会が終わってやっと時間ができた私は、今更このテーマについて書くのは止めて別のテーマについて書こうかと思った。しかし今書かなければ永久にこのテーマについては書けないという強い予感があった。絶対に何かを書くべきだ。そう決意した私はペンを握った。

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