宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

熊谷守一と長谷川利行


 昭和の初め、池袋モンパルナスと言われたコミューンがあった。そこは、当時、怪しげな格好をし、奇声を発し、エキセントリックな行動をする、常軌を逸した異端者と思われていた画家たちにとってのパラダイスであった。この特殊なコミューンの中に一際異彩を放つ二人の画家がいた。一人は「仙人」や「天狗」などと呼ばれていた熊谷守一。もう一人は、その仙人から「ゴッホなんかより長谷川利行の絵の方がいい」と言われた浮浪の画家、長谷川利行である。今、東京で、この二人に関係する展覧会が二つ開催されている。一つは昨年の12月1日から3月21日まで東京国立近代美術館で行われている「熊谷守一 生きるよろこび展」である。もう一つは2月24日から4月15日まで板橋区立美術館で行われている「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」と名付けられた展覧会である。
 ここでは、後期日本近代美術の二つの特異なる星である熊谷守一と長谷川利行の作品とを、今挙げた二つの展覧会に出品されている絵画を中心として考察していこうと思う。何故なら、この二人の画家のそれぞれの作品を比較検討することで、日本における近代から現代へと大きく変遷していった絵画的動きの一つの側面を、明確に理解することが可能であると思われるからである。熊谷守一も長谷川利行も彼らの絵の独自性が語られる以上に生き方が語られることが多い。自分の生活のリズムを守り通し97歳まで長寿を全うした守一と、49歳のとき路上で行き倒れ、窮民施設の医療病棟に収容され、誰も看取る者もなく、一人死んでいった利行。二人の生も死もまったく異なるが、画家という職業の特殊性と尋常ではない生活という点が注目され、語られることが多いのだ。また、この二人の浅からぬ交流についても様々な人々が証言している。こうした点は非常に興味深い問題を内包している。しかしここでは、多大な紙面を要する二人の画家の人生という問題にはあまり触れずに、二人の絵画にとって重要な位置を占める彼らの油彩の作品にだけ焦点を当てて、論述していく。なおこの考察は、「熊谷守一:モノの存在性」、「長谷川利行:乱舞する線」、「生の息吹を表わすタッチ」という三つの探究視点に従って行っていこうと思う。

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永遠からの贈り物 ― パレスチナについて

    パレスチナについて何か書こうと思った直接の理由は、1月31日から2月4日まで江古田にあるギャラリー古藤で開かれていた「パレスチナ、平和を願う色彩展」を見たからであった。だが、パレスチナ問題について、私は以前にも何度か、時間をかけてしっかりと考えてみようと思ったことがあった。1970年代の後半、私は初めて、パレスチナの作家、ガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』という小説を読んだ。そのとき、パレスチナ人という存在の複雑さ、不条理さ、担わされた歴史の重さについてしばらく考えた。1980年代の後半に、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が話題となったとき、西洋中心主義の歴史観に強烈な一撃を与えたこの本を夢中で読んだ。そして、われわれは大文字で書かれた歴史にどれほど激しく汚染されているのか、パレスチナ人とは何かという問題を考えた。だが、最初のときも後のときも、何の結論も出ないままに時間だけが過ぎ去っていった。パレスチナはあまりに遠く、私の思考能力はあまりに貧しかったのだ。
    ギャラリー古藤での展覧会。このギャラリーで前回行われた展覧会「絵本から見る子どもの権利―スウェーデンの画家からの贈り物―」を訪れたとき、パレスチナに関係する次の展覧会のフライヤーを見た私は、フライヤーに写っていたパレスチナの織物に引き付けられた。この鮮やかな布がパレスチナで作られているとは信じられなかったのだ。私の知らないパレスチナを見てみたい。そう思った私は「パレスチナ、平和を願う色彩展」に向かい、展覧会を見て、「虐殺はなかった」、「そこにも日常はある」、「織物と刺繍」という三つの視点からパレスチナについて書いてみようと思った。

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戦争画から民家のある風景画へ

 北風が冷たい年の瀬。12月28日。この駅に降りるといつも見かける大学生の姿はまったくない。大学はすでに冬休み。人影もまばらだ。改札口で地下鉄の駅員にもらった地図を頼りに大通りを右折した。少し歩き、左折。横道に入る。この辺りは閑静な住宅街。10分ほど歩いて、道を間違えたことに気づく。誰かに道を聞こうと思ったが、通行人がいない。しばらくしてやっと自転車に乗った初老の婦人に出会う。目的地までの道順を丁寧に教えてくれ、無事美術館に着くことができた。
 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館は1993年に開館した。この分館は生前、向井が長年住んでいた自宅とアトリエを美術館にした建物である。2017年も終わろうとしているこの時期にここを訪れようと思った理由は単純だ。昨日、戦争画についての資料を漁っていたとき、『美術手帖』2015年9月号の特集が「絵描きと戦争」であることを知った。今日、急いで、自宅から少し離れた市立図書館でその号を借りて読む。この号では戦時中戦争画を描いた画家の中で、藤田嗣治、宮本三郎、そして、向井潤吉が大きく取り上げられており、三人の画家の戦争画についてのテクストが掲載されていた。向井の戦争画については、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内裕司の書いた「率先して従軍した戦争画の開拓者:向井潤吉」という論文があった (以後、迫内に関する引用はこの論文からである)。この特集号を読んで、戦争画の展示はされていないだろうが、「向井潤吉 1970’s-1980’s 民家集大成」という展覧会が開催されている世田谷美術館分館に行き、彼の絵をじっくりと見たい。そう思ったのだ。
 向井潤吉の絵画について書かれたものの多くは、戦後の「民家の画家」という側面だけが強調され、戦争画家としての側面を正面から論じたものはほとんどない。そういった中で迫内の論文は特異なものであるが、「«突撃» の鬼気迫る表情に兵士の抱える漠然とした不安を見ることが出来るように、また、中国の町並みに日本の戦闘機が影を落とす («影(蘇州上空にて)» (1938) が、どちらかといえば中国側が受ける恐怖感を煽るように、向井の日中戦争の戦争画には、人々が気づかないふりをしていた、事変といいながらズルズル長期化していくこの戦争の闇を浮かびあがらせかねないものが、しばしば見受けられた」といった文章を読むと、向井には反戦的な思想があったような錯覚さえ受けてしまう。だが、それは正しい認識ではない。向井は戦争を熱烈に称賛してはいなかったが、反戦思想からも遠い位置にいた。彼は進んで戦争画を描きたいと考え、戦場に赴き、高揚した心持ちで戦争を記録したのだ。私はこうした向井の絵画制作姿勢が戦後の民家を描いた絵の中にも何らかの形で残っているのではないかと思ったのだ。
 この探究のために、ここでは「向井潤吉の初期作品」、「向井潤吉の戦争画」、「何故民家のある風景を描くのか?」という三つの探究視点からの考察を行う。この三つの視点による考察だけで十分に向井の戦争画問題について論じられるかどうかは判らない。しかしこうした問題を正面から取り上げた論文がない以上、このテクストを書くことも無駄なことではないと信じ、拙論を展開していく。 

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重層的イデオロギー構造の考察

 このテクストで考察したい対象は言語に関する問題ではないが、最初に言語学的概念について触れる必要がある。その理由は、ここでは言語学の分析装置として用いられるいくつかの概念に基づいてイデオロギー的様相 (とくに現代の日本における様相) を分析しようと思うからである。この考察のために以下に述べる三つの導き糸を用いたい。一つ目は今触れた主要分析装置としての言語学的概念であり、後続する探究ではまずこの分析装置について説明する。二つ目は今年の10月に発刊された下斗米伸夫氏の『神と革命:ロシア革命の知られざる真実』(以下ではサブタイトルは省略する) の中で示された考察視点であり、三つめはルース・ベネディクトが『菊と刀』の中で示した考察視点である。この三つの導き糸を通して、イデオロギーの重層性と日本の現代のイデオロギー的様相を考察していくという展開図が、このテクストの大まかな構成である。しかし、分析を始める前にもう一つだけ注記しておかなければならない点がある。それは私自身の研究分野は言語学及び記号学であって、政治学、歴史学、文化人類学、社会学といった学問分野は完全に専門外であるという点である。ではなぜ専門外でありながらも、歴史、政治、社会、民族といった分野と深く関係するイデオロギーという問題を取り上げ、探究するのか。それはここで用いる言語学的概念が他の学問分野の分析にも十分に有効であるにも係わらず、今迄誰もこうした考察を行っていないからである。それゆえ、政治、歴史、社会、民族に関する専門家からすれば一般的ではない考察をこのテクストの中で行う可能性は高い。だが、ここでの探究はあくまで言語学的分析装置 (それは記号学の分析装置でもあるが) に基づき、選択されたある政治・歴史・社会・民族的対象を考察した場合にどうなるかということに重点が置かれている。この点を最初に強調しておく必要があるのだ。だが前置きはこのくらいにして、具体的な探究を開始しよう。

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ヒロシマを描く―四國五郎とガタロの絵

 9月の終わり、後期の講義の最初の日だったと思う。「フランス語史」というタイトルの自分にとっても、多分、学生にとっても詰まらない講義を終え、私はとても疲れていた。警備員がいつも歩哨のように見張っている校門を急ぎ足で出て、向かい側の道に素早く渡った。しばらく歩くと、ギャラリー古藤という小さな画廊が目に入った。画廊の前には「四國五郎・ガタロ師弟展」(2017923 () から1022 () まで開催された) と書かれたフライヤーが貼られている。名前の知らない二人の画家。「ガ + + ロ」という音が少しだけ引っ掛かった。疲れているとき、私はよく、ある建物に無意識的に入ってしまう。その時も何故かは判らずに画廊の入り口で入場券を買い、広くはない画廊の中にいつの間にか入っていた。
 入り口近くのパネルを読んで、四國五郎 (1924~2014) は峠三吉の『原爆詩集』の初版の表紙の絵を描いた画家であり (この版はガリ版印刷であった)、長年、広島の街を描き続けていたことが判った。ガタロ (1949~) は四國を師と仰ぎ、清掃員をしながらアウトサイダー的存在性を持つオブジェに注目した独特の絵を描いている画家である。小さな画廊に展示された二人の作品で、最初に目についたものは四國が描いた「相生橋」というタイトルの風景画だった (この橋が原爆投下目標であったことも注記しておこう)。向かって右側に本川沿いに広がったバラックの家が立ち並び、その向こうに相生橋が見える絵である。河川沿いにあった街並みが「原爆スラム」と呼ばれていたことは後で知った。次に目を引いたのはガタロが描いたモップや棒ズリなどの清掃具の絵だった。決して緻密でも、構図がいいとも思わないが、迫力があり、強いメッセージ性を感じた。そこに展示されていたガタロの絵で、大きさと迫力で言うならば「途上の牛」の方が遥かに強烈な印象を見手に与えるかもしれないが、私はそれよりも清掃具を描いた何枚かの油絵とスケッチが気になった。もう一つ気になったものがあった。それは絵ではなく、四國がシベリア抑留時代に着ていたというズタ袋で作ったボロボロのコートだ。四國は終戦のとき満州にいて、ソ連軍の捕虜になり、シベリアに送られ、1945年から1948年まで約三年間強制労働をさせられ、帰国した経験があったが、強制労働時代に着ていたコートである。このコートを着て四國は故郷の広島に帰ってきたのだろうか。ボロボロのコートを着た四國が見たものは、何もなくなってしまったグランド・ゼロとしてのヒロシマ。私はそんな想像をした。
 このテクストでは今述べた「原爆スラム」と「清掃具の絵」、それに加えて、戦後間もない頃、広島の街角に何枚も貼られていた反体制的なメッセージが書かれていた「辻詩」という三つの問題について書いていこうと思う。なぜなら、これらの問題はどれもが戦争と深く関係するものであるが、いつかはじっくりと考えてみようと思っていながら、私が今までまとまった時間を取って真剣に体系立てて考えたことがなかった問題だからである。もしも今何かを書かなければ、また長い期間これらの問題を考えずに時間だけが流れてしまう。そう思い、私は筆を執った。 

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