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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

遮蔽想起としてのレ・シャルメット―ルソー『告白』を読む(前編)

 機会があって、ジャン=ジャック・ルソー著『告白』を読んだ。ルソーは、言うまでもなく、社会思想、教育、文学など様々な分野に「近代」を用意した思想家、作家として知られ、日本においても、民権思想、近代告白文学(私小説)に大きな影響を与えているが、今回、私は、(恥ずかしながら)はじめて『告白』を読み、改めて、それが近代文学の起源に位置するものであると同時に、特定のジャンルに分類されることを拒む「奇妙な自伝」(桑瀬章二郎)であることを確認することとなった。
 何より、①フランス革命以前にこのような<私>に重きを置いた特異なエクリチュールがあったということ、②そのような<私>は、18世紀フランスの啓蒙期に、同時代の哲学者、公衆など公共的世界との対立をへて析出し(水林章)、「孤立と引き換えに自己を唯一無二の存在として樹立しようと」(野崎歓)して形成されたものであること、③一方で、このような、同時代の公共的世界に見放された自己は、未来の読者という想像的他者を要請することでかろうじて<私>を形成するような寄る辺ない自己であり、近代の病である精神病を随伴していたようにも読めること、④こうした自己の生み出した<私>の思想はフランス革命とその後に影響を与えたが、その女性観やテレーズとの関係は、革命後すぐにフェミニズムの先駆者であるメアリ・ウルストンクラフト(『女性の権利の擁護』)によって批判されている(水田珠枝)こと、など、今更のように驚きをもって読み、思考を刺激させられた。
 しかし、これらについては、まだ言葉が追いつかないので、今回は、近代ロマン主義者たちの想像力の源流となったレ・シャルメットの回想(自然に溶け込む体験をしたサン=ピエール島での体験も、ルソーはレ・シャルメットを思い起こさせる、と書いている)に注目し、それについて一つの視点を与えることで、この特異なエクリチュールにとりあえずのアプローチをすることにしたい。

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書評:堀江秀史著『寺山修司の一九六十年代 不可分の精神』

 寺山修司は、俳句からはじまり、短歌、ラジオドラマ、映画、演劇、評論、随筆、…と多ジャンルを横断し、各ジャンルで独自の成果をあげた作家だが、今回とりあげる堀江秀史著『寺山修司の一九六十年代 不可分の精神』は、寺山のそうした多ジャンルにわたる活動の行動原理(活動理念)を「ダイアローグ」、作品の主題を「<私>論」であると規定し、膨大な資料をもとにそれを跡付けた労作である。タイトルに一九六十年代とあるが、読後に見えてくるのは、1950年代から1980年代初頭にいたる期間に様々に変貌を遂げたかに見える寺山の活動のみごとなまでの一貫性である。副題の「不可分の精神」とは、そうした寺山の一貫したありようを示す言葉であろう。

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小泉明郎作『縛られたプロメテウス』を観劇して

去る2020337日、芸術公社主催「シアターコモンズ’20」において、小泉明郎作、VR演劇『縛られたプロメテウス』が上演された。昨年101014日(12日は中止)、「あいちトリエンナーレ2019」において上演され、好評を博した作品の再演である。前回は台風に見舞われ、中止を余儀なくされた日もあったが、今回は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、慎重な防止対策をとった上での上演となった。
 初演のあと、私は、市原佐都子作『バッコスの信女ホルスタインの雌』の劇評をこの欄に公表したが、その際、小泉のこの作品にもふれ、作品に仕掛けられたトリックを公にすることのデメリットに言及し、再演を考慮してここでは扱わないことを書いた。しかし再演が終わり、とりあえずそうした制約がなくなった今、記録の意味をこめて、初演の「あいちトリエンナーレ2019」後に書いておいたレビューを公表することにする。
なお、「シアターコモンズ’20」における再演については、諸般の事情で私は見ることができず、配布資料など、初演から一部変更があった可能性はあるが、それをフォロウしていないことをあらかじめ断っておく。また、この劇を再現、記録するにあたり、一回限りの観劇だったため、詩的テキスト(ナレーション)の再構成が難しかったこと、そして私自身の記憶のあいまいなところは、他のレビュアーの記事を参考にして補ったが十分とはいえないことも記しておきたい。 

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映画『希望の灯り』を見て

先日、ある上映会で、ドイツ映画『希望の灯り』(2017年)を見る機会があった。原題は、「通路にて」。
舞台はライプツィヒ近郊。巨大スーパーマーケットの在庫管理倉庫での「通路」で起こる様々な出来事が描かれる。時代はベルリンの壁崩壊後十年後くらいの設定か。ドイツ再統一後における旧東ドイツの単純労働者の話である。
腕と背中にタトゥがある新入りの飲料担当クリスティアン(27歳)が主人公。彼に仕事を教える中年男性ブルーノ(54歳)、クリスティアンが淡い恋心を寄せる菓子担当の既婚女性マリオン(39歳)、そしてゆるやかに連帯する夜シフトの仕事仲間たちが脇を固め、話は進行してゆく。
話は進行してゆくといっても、前半とくに際立ったことは起こらず、映像は、クリスティアンが毎日、制服を引っ張って手や首のタトゥを隠す(も隠しきれない)シーンを何度も繰り返し、わけありの過去から「社会」に参入せんとする日課を印象付ける。また、うずたかく積み上げられた商品の出し入れをし、通路を縦横無尽に行き来するフォークリフトの動きを美しくとらえ、巨大倉庫の遠近感のある絵柄なども印象的に映し出し、舞台となる倉庫のありようを反復的に印象付ける。
そうした反復される日課の中で、クリスティアンは、フォークリフトの扱いや飲料の在庫担当の仕事をじょじょに覚えていくのだが、彼に仕事を教え、彼を父のように見守るブルーノは、以前は長距離トラックの運転手をしていて、再統一後、トラック人民公社を買収したこのスーパーに仲間たちとともに採用されており、旧東ドイツ時代への郷愁はことのほか深く、鬱屈を抱えている。また、クリスティアンは、隣の列で勤務しフォークリフトを見事に操るマリオンに思いを寄せ、休憩室でコーヒーを一緒に飲みながら距離を縮めてゆくのだが、マリオンにはDVの夫がいるらしいことがわかる。
みな、心の傷を抱え、孤独であるかにみえるが、お互い深入りはせず、遠巻きにいたわりあう。そんな彼らの関係性を、映画は丹念に描いており、そのディーテイルひとつひとつがいとおしい。彼らはある意味でシステムの歯車にすぎないが、人間らしさは失っていないことがわかる。途中、クリスティアンがマリオンの家に侵入したり、昔の悪い仲間たちと遊んだりする場面があって、ひやりとするものの、結局クリスティアンは、ルーティーンに戻ってきて、映像は、巨大倉庫の労働を反復的に映し出す。
しかし終盤、話は意外な展開をする。昔を懐かしんでいたブルーノが唐突に縊死してしまうのだ。仲間たちは悲しみ、葬儀に参加するが、ここでもとりたてて深入りはしない。クリスティアンの驚きと悲しみも、倉庫で見せるちょっとした表情や、ブルーノの家を訪れるシーンでさりげなく示されるだけだ。しばらくして、技術を習得したクリスティアンが飲料担当の責任者になり、皆に祝福され、クリスティアンは以前より大人びた男となってマリオンにやさしく接するようになる…。

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市原佐都子版『バッコスの信女』を観劇して

 去る1013日、「あいちトリエンナーレ2019」の最終シーンをかざる市原佐都子作・演出の『バッコスの信女―ホルスタインの雌』と小泉明郎作・演出の『縛られたプロメテウス』の上演に立ちあうことができた。どちらも傑作だったが、小泉の作品は、作品に仕掛けられたトリックを公にすることで鑑賞者の受けるインパクトが減少すると思われることから、その再演を考慮し、ここでは、傑作であり問題作でもある、市原の作品についてだけ述べようと思う。

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