FC2ブログ

宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

青春の書としての『資本論』

資本論は私にとって青春の書である。「資本論を読んでいない頭は子供の脳である(中江丑吉)」という意見もあるくらいだが、すくなくとも私にとって資本論は青春の書であったし、いまでもその認識は変わらない。
一年間の自宅浪人をした後に明治大学政治学科に合格した。合格発表を見たすぐその足で神田神保町に行って、向坂逸郎訳岩波書店発行の大型本の『資本論』を買い求めた。それから帰省して4月7日の大学の入学式に出席するため上京するまでの約40日間、故郷の自宅で資本論だけを読み続けた。一日約10時間40日間読み続けたので合計400時間くらいを資本論読書に費やした勘定になる。資本論を読んでいる間に19歳の誕生日を迎えた。3月13日が私の誕生日であった。
資本論は気迫を込めて三度読みを実行した。資本論全三巻の内、第一巻と第二巻はその三度読みによって完全に理解したと思ったのだが、時間切れで第三巻まで読み進めることはできなかった。しかしこの第三巻こそは資本論の核であり中枢である。中江ではないけれども資本論第三巻を理解できていない間は子供の脳であ...るということはたしかであろう。資本論は私の青春の書であると最初に述べた。しかし資本論第三巻を完璧に読み終えて理解できてはじめて子供の頭脳を卒業し大人の頭脳に成長できるのだと私は思っている。
蛇足だが、時事問題にさして興味が持てない理由は、こういう課題を私は抱えているからである。

※参考:向坂逸郎訳『資本論』第三巻冒頭の文章の引用※
「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべてまた度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が呈示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。
この流通過程が、第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。
この第三巻のかかわるところは、この統一について、 一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。
その現実の運動においては、諸資本は、直接的生産過程における資本の態容と流通過程における資本の態容が、ただ特殊の因子として現われるにすぎないような、具体的な諸形態において、相互に相対している。
したがって、われわれが、この巻で展開するような資本の諸態容は、社会の表面に現われ、種々の資本の相互に相対する行動、すなわち、競争のうちに現われ、そして生産担当者自身の普通の意識に現われるときの形態に、 一歩一歩近づくのである。」

(2020年5月20日)

PageTop

講演:〈近代の超克〉批判序説



   【目次】  第一章 回想の橋川文三
         第二章 なぜファシズムか、そしてファシズムとは何か
         第三章 日本のカリガリ博士

第一章 回想の橋川文三
 
本日の演題は〈近代の超克〉批判序説ですが、そのテーマで話すことになったそもそもの発端は私が橋川文三という人に出会ったことにあります。そこでまずはじめに枕として橋川文三の回想をお話しします。ただし本格的な橋川文三論ということではなく橋川文三の個人的な回想にとどめます。

橋川文三が亡くなった翌年、ゼミ卒業生有志が編集した追悼の雑誌が帰省中の実家に送られてきました。追悼雑誌の中の橋川文三の写真を母が見て、「やさしい顔をした人だ」と評したのを、印象深く記憶しています。やさしい人。それは私が二年間親しく膝突き合わせて研究した橋川文三先生の人間像を端的に示す言葉でした。

第二次世界大戦では六千万人の死者が出たといわれています。私の親族にも戦争の犠牲者がひとりいます。母方の叔父が戦死しています。母は6人兄弟の長女で弟を亡くしました。戦地はボルネオで戦闘中に亡くなったのではなく餓死であろうと推測されています。私が大学生になって父と母が上京した際に三人で靖国神社にお参りに行ったことがあります。その時の母の哀れな嘆きの様子は思い出すたびに今でも私の心は震えます。

橋川文三ゼミの入室試験時のテーマは「日本のファシズム」でした。橋川文三はこの試験に関して「形式は自由とします。論文でもいいし、エッセーのような形でもいいです」と解説しました。12名の募集に応募者は10倍越えて、明治大学政治学科では最大の競争率のゼミでした。入室試験に私は次のような書き出しで解答しました。父が上京の際に残したメモを、自分に対する重要なメッセージだと思って日記帖に貼りつけていまして、内容も記憶していたのでまずそれを書いたのです。

『僕がまだ大学一年生の時のことである。戦友との同窓会のために上京した父は、次のメモを残して帰っていった。「今日靖国神社の社頭に祈念して、大東亜戦争で散華した二六〇万の青年・壮年の英霊に対して涙にくれた。其人達の中には何十万という高校大学の学徒出陣の人達もいる。彼等は決して日本の軍部にだまされたのでも無く、資本家の犠牲になったのでもない。唯一路、父のため母のため兄弟のため郷土のため日本民族のため何等迷うことなく青春多感の命を捧げたのである。一路勉学に励まれんことを家族一同願っている」』

この父のメモ書きにコメントを付けまた当時読んでいた参考文献などを列挙して入室試験の解答としました。同期の映画研究会のサークルに属していた人は藤純子論を日本のファシズム論として提出したと言っていました。優等生的な回答では合格は不可能で独創性を示さなければ橋川ゼミに入室することは難しかったのです。私の場合父のメモのおかげで合格できたようなものです。

ゼミに入って意外だと思ったのは橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたことです。当時橋川ゼミに集まった学生はほとんど全共闘シンパでした。新左翼にとって丸山眞男は「欺瞞的なブルジョア民主主義の権化」であり軽蔑の対象でした。しかしそれまで「丸山」と呼び捨てにして対話していたゼミ員が、橋川に感化されいつの間にかカフェでの会話の中でも全員が「丸山さん」と敬称をつけて話すようになっていたのです。これは驚くべき変化です。橋川文三が丸山眞男を深くリスペクトしていたこと。これはあまり知られていないだいじな事実ですのでここで述べておきたいと思います。

橋川文三の講義の圧巻は詩が引用される時でした。その詩の引用は講義のクライマックス部分でおこなわれます。詩人橋川文三の本領が発揮される瞬間を何度もわれわれは体験しました。これは誰も真似できない橋川文三という天才的な個性のみがなしえた講義のスタイルだと私は考えています。

『日本浪曼派批判序説』について講義していただいたことがあります。そのリクエストはじつは私が出したのですが。その講義の最後のところで『批判序説』の後書きの中から次の個所を橋川文三は朗読してくれました。

《そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか? 私の体験に限っていえば、それは、
 命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の
 隠白檮が葉を、鬘華に挿せ、その子
というパセティックな感情の追憶にほかならない。それは、私たちが、ひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを要約している。私の個人的な追懐でいえば、昭和十八年秋「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心をひかれたのであった。ともあれ、そのような情緒的感動の発源地が、当時、私たちの多くにとって、日本ロマン派の名で呼ばれたのである。(橋川文三『増補日本浪曼派批判序説』375P)》

日本武尊の歌を板書し註釈を施してからその歌を橋川文三が朗唱した時、日本武尊とは何者なのか、日本浪曼派とは何か、そして橋川文三とは誰なのか、われわれは瞬時にことごとくすべてを理解したのです。

もうひとつブログへの記載例を紹介させて下さい。『史記』の講義で列伝の荊軻(けいか)について語られた模様です。

《先生は手振りを交えて荊軻の性格や経歴を語られた。そいてついに荊軻は始皇帝暗殺に出発する。「風蕭々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」と荊軻が詩を詠む段に至った時、僕らは時空を超えて中国の壮大な世界のその日その時を、まざまざと見るかのような臨場感を味わったのであった。あの日の先生は、始皇帝刺殺を企てる哀しき荊軻の心に感情移入したもう一人のテロリストであった。(「ブラームスを聴きながら」 ブログ『ダンボールの部屋』)》

橋川文三は学者・知識人との対談より学生との対話の方が好きでした。さらに言えば大学院生との対話より学部学生との対話の方を好みました。橋川文三の西郷隆盛研究の旅は学生のふと漏らした感想がきっかけでなされています。ゼミの学生が西郷隆盛の最後の配流地である沖永良部島に旅行しました。そして橋川さんに「沖永良部島に行ってこれで西郷がわかった気がする」と感想を述べたのです。その言葉が気になった橋川さんは自分も実際に沖永良部島に旅して学生が得たその直感を確かめています。この旅で得た感想を核にして橋川文三の晩年の傑作『西郷隆盛紀行』は書かれました。

橋川文三の『西郷隆盛紀行』は竹内好の「日本のアジア主義の展望」の最終章の問題意識を引き継ぐものであり維新史の認識を根底から問い直す思想史の傑作です。しかし橋川文三による日本近代の根底的な歴史認識の問い直し作業はいまだ日本の学界・ジャーナリズム・一般読書人にほとんどといっていいくらい浸透していません。橋川文三の仕事が見直されるのはしたがって今後の課題ということになります。橋川文三の仕事が真に評価される日は必ずやって来ます。そう断言しておきます。

 

つづきを表示

PageTop

翻訳されたベンヤミンについて

林完枝氏の論文『「翻訳者の使命」について』(註1)の抜刷がいま私の手元にある。秀逸な論考との評を聞き及んで知人を通じて手に入れたのだ。林氏の論文はベンヤミンの「翻訳者の使命」という文章の読解をその出発点として、諸時代諸言語の翻訳の様々な事例を考察することによりベンヤミンの思想の到達点を検証しようと試みた作品というふうに私には受け取れた。林氏自身の翻訳経験をも踏まえて翻訳者の使命というベンヤミンのコンセプトを探究しようとする研究姿勢とその成果を示した林氏の論文から私はおおいに啓発されたのである。ただ翻訳経験をまったく持たない私などが、さて林氏のこの論文についてなにごとか述べる資格をもっているかどうかはたいへん怪しいのである。がしかし翻って考えるに、翻訳者の使命の第一義は翻訳を提供することにあるだろう。そうであるならば、日本語に翻訳されたベンヤミンを読みそれについて考え、そしてさらになにごとか述べることは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」という作品について考察することになるはずであるし、ひいては間接的ながらも林氏の研究について論じることに繋がるのではないかと思い至った。
※註1:明治学院大学言語文化研究所『言語文化』(第三十六号、二〇一九年)

私の探究はまず林氏の論文とベンヤミンの「翻訳者の使命」を読むことから始まった。ベンヤミンの当該論文はベンヤミンによるボードレール「パリ風景」の翻訳に付した序文であることを知ったので、つぎに彼のボードレール論を読んだ。(1)「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(野村修編訳『ボードレール、他五篇』岩波文庫)(2)「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(出口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫)。この二編を読んで、けっきょくのところベンヤミンは、ボードレールを読み抜き読み破ることからその思想を確立したのではないかという直観を私は得た。この直観はハンナ・アレントの「ヴァルター・ベンヤミン」(『暗い時代の人々』)を読んでその正しさをほぼ確かめられたと思っている。ベンヤミンは思想家であり批評家であるかもしれないが、けっして翻訳を専門とする人ではなかった。アレントは述べている。
≪詩人について語るのは厄介な仕事である。詩人とは引用されるために存在するのであって、語られるためにではない。(阿部斉訳 H・アレント『暗い時代の人々』河出書房新社256P)≫。 ベンヤミンにとっては、≪最大の誇りが、「大部分引用句から成る作品を書くこと——想像し得る限りの気ちがいじみた寄木細工の手法——」(同、196P)≫であった。
ベンヤミンのふたつのボードレール論「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」は引用の量がものすごく多い。ボードレールの引用が多いだけではない。聞いたこともない数知れぬ無名の学者・文学者・思想家・ジャーナリスト・雑誌記事・新聞記事、その他諸々の引用がボードレールの引用文を取り囲み、その中に侵入し、シャッフルされて、ついには巨大な引用のモザイクとなって仕立て上げられているのである。それらの引用された言葉たちは奇妙に懐かしい親密で魅力的な表情をたたえている。ひとことで言って「声」を発しているのである。言葉が生きた声となって復活する。これはひとつの魔術である。ベンヤミンの詩的散文はそれを読み進める私たちの心を打つ。ベンヤミンの文章の秘密をなお詳説せんとするならば、世界が一斉に声となって叫びを上げる、そういう現場に私たちを一気に連れ去って行く事件性にある、その奇跡性にあるのだと言えよう。ベンヤミンはあたかもメシアとなって作品の陰に隠れている。そして廃墟に見捨てられた物としての言葉を生きた声として復活させる。これはひとつの秘儀の実践である。ベンヤミンはこの秘儀をボードレールに沈潜することから学んだのだ。

肝心のベンヤミンからの引用がまだだった。ベンヤミンのボードレール論の冒頭を引用してみる。この冒頭の文章はベンヤミンの方法と思想を他のどこよりも雄弁に物語っている。

≪ボードレールは、抒情詩を読むことが困難だと感じる読者を念頭においていた。『悪の華』の序詩は、このような読者に向けられている。彼らの意志の力など、ということはおそらく集中力にしても、たかが知れている。彼らには感覚的な楽しみのほうがいいのだ。彼らは、関心とか受容能力を失わせてしまう憂鬱(スプリーン)に慣れ親しんでいるからだ。このような読者、つまりもっとも恩知らずな読者をよりどころとする抒情詩人に出くわすと、いぶかしく感じてしまう。もちろん、すぐに思いつく説明も一つある。ボードレールは理解されたかったのだ。自分に似ている人たちに彼の本を捧げているのだから。読者に宛てて書かれた詩は、次のあいさつの言葉で締めくくられている。 

偽善の読者よ、 私の同類、 私の兄弟よー 

このことは、次のように言い換えて表現してみると、さらに実り多いものとなる。つまり、ボードレールは、読者にすぐさま受け入れられ成功する見込みが最初からほとんどない本を書いたのだ。彼は、巻頭の詩が描いているようなタイプの読者を念頭においていた。これが先を見越した計算であったということは、後になってわかった。彼が考えていたような読者は、後世によって彼に与えられることになったのだ。≫
(ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之編・訳『ベンヤミン・アンソロジー』206P)

ベンヤミンはここでボードレールの詩をたった一行引用しただけなのだが、その一行の引用によってボードレールの本質を語り尽くしていると思う。引用を続けよう。

≪『悪の華』の名声は絶えず広がっていった。もつとも好意的でない読者を念頭におき、また、当初は好意的な読者をそれほど多く見出すことができなかったこの書物は、何十年かたつうちに古典的な書物となった。そしてまた、もっとも出版部数の多い書物ともなったのである。≫(同上、207P) 

ベンヤミンの「翻訳者の使命」は、ボードレールの『悪の華』の中の「パリ風景」をベンヤミン自身が翻訳し、その序文として書かれたものであることは上にも述べた。「パリ風景」の項目は『悪の華』の初版にはなく、再版に於いてはじめて登場する。『悪の華』の再版は1861年の刊行であり、全126篇の詩が収められている。その内「パリ風景」の項は18篇含まれている。「パリ風景」の冒頭を飾る詩は「風景」と題されている。この「風景」は「パリ風景」18篇のモティーフを凝縮している。そしてベンヤミンの見るところ「パリ風景」はボードレールの全詩のモティーフを凝縮しているのである。ベンヤミンは「パリ風景」を翻訳した。「パリ風景」を翻訳しその翻訳の序文として「翻訳者の使命」を書いたのだ。断っておくがここに述べた説明は私の推測を含んでいる。言葉を代えて言えば仮説を述べているに過ぎない。
さて、「パリ風景」の冒頭を飾る詩「風景」は、福永武彦によって、みごとな日本語に翻訳されて「後熱」を発している。引用しておこう。

  「風景」
       ボードレール作  福永武彦訳


 僕自身の牧歌を清らかに制作するために、 
 占星術師のように空に近く身を横たえ、 
 鐘楼のすぐ隣で、夢想に耽りながら、 
 風の運んだ崇厳な鐘の讃歌を僕は聴きたい。 
 両手に顎をのせ、屋根裏部屋の高みから、 
 僕は眺めよう、歌ったりお喋りしたりする工場を、 
 都会の帆柱である煙突とか鐘楼とかを、 
 そして永遠を夢みさせる大きな空を。

      (略)
 
 僕はいくたびの春、夏、秋を見るだろう、 
 そして冬が、単調な雪に包まれて訪れる時に、 
 僕はいたるところの鎧戸をしめカーテンをおろすだろう、 
 夜のなかに僕の妖精の宮殿を築くために。 
 
 その時僕は夢みるだろう、青ざめた地平線を、 
 庭園を、大理石の白い水盤に啜り泣く噴水を、 
 接吻を、朝なタなに囀る小鳥たちを、 
 そして「牧歌」が歌うすべての子供らしいものを。 
 「革命騒ぎ」も、僕の窓硝子の向うで空しく荒れ狂って、 
 僕の頭を一寸たりと机から持ち上げさせることはあるまい、 
 なぜなら、僕の意志をもって「春」を喚び起すという、 
 心の中からーつの太陽を引き出すという、そしてまた、 
 燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、 
 この悦楽のなかに、僕はいつまでも涵(ひた)っていたいのだから。
(福永武彦訳「風景」『ボードレール全集』1・人文書院刊・180P)

ちなみに、『パリ風景』の中において、「風景」の次に収められている詩篇は「太陽」である。「心の中から一つの太陽を引き出すという、そしてまた、 燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、この悦楽」という表現は、「太陽」の詩篇の魅惑的な予告となっている。「近代」を完璧に描き出した書物。それがボードレールの『悪の華』であった。ボードレールは1867年に没している。その年は明治維新の前年であった。ベンヤミンの没した年は1940年。それは日本が米英に宣戦し真珠湾攻撃を決行した前の年である。フランスの近代と日本の近代には「時差」がある。この時差を測る作業に於いてベンヤミンの仕事は必須の検討材料であろう。「近代とは何か」という問題を再考する際において、橋川文三とヴァルター・ベンヤミンは世界史的視野の元に読み較べなければならない思想家であると私は考えている。
            ※
早すぎることを恐れることなく、ベンヤミンの正体を述べておこう。大胆に結論を述べてみよう。ボードレールを模倣して、ボードレールに倣(なら)って、ベンヤミンもまた占星術師となったのである。(完)

PageTop