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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

想像と論理の間で――カイヨワ『蛸』を読む

『戦争論』などで知られる20世紀のフランスの思想家、ロジェ・カイヨワ(1913-1978)が書いたこの書物は表題の通り、蛸について書かれた書物である。私たちはこの生き物について何を知っているだろうか。イカなどの仲間で頭足類と呼ばれ、真っ赤な身体に複数の吸盤のついた8つの足(腕)があり、大きな頭部(正確には胴部)に特徴的な目をもつ。日本では広く食用され、刺し身やたこ焼き、唐揚げなど飲食店で広く提供されているものも多い。あるいはたこ焼きの屋台に描かれるねじり鉢巻をつけた蛸に徳利を持ち酔っぱらい赤くなった蛸、はたまた春画に描かれる性的なモチーフとしての蛸だろうか。西洋における悪魔的な蛸のイメージをお持ちの人もいるかもしれない。人によってはそれを持ち出し、蛸は西洋で恐れられており、日本では食用として広く親しまれている、という対比をする人もいるかもしれない。しかしそうした恐ろしい生き物としての蛸のイメージと、同時に西洋においても地中海沿いを中心に蛸が食用されているというイメージの間には乖離がないだろうか。ヨーロッパにおいても蛸は食用として親しまれてもいるのだ。

カイヨワの『蛸』は多様な資料に裏付けられた蛸についての書物ではあるが、生物学的な書物ではない。この本は副題の「想像の世界を支配する論理をさぐる」が示すように、人間の想像力、イメージを主題としている。その探求の際に、「蛸」という生き物が人間にどのようにイメージを押し付けられ認識されてきたか、そしてイメージの論理と合理的とされる理性との間で衝突が生じた場合に、どのようなことが起きたかの歴史を辿る書物である。

 

「ポスト・トゥルースの政治」ということが言われやや久しくなった。政策の詳細や客観的な事実よりも個人的な信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成されるという政治のことである。しかしここでいう「トゥルース」は真実、真理ではなく、むしろ「ファクト」、事実の方が近いだろう。なぜなら客観的な事実を参照していない人々も彼らが真と思うものに沿って突き動かされているのであるから、感情的だから、とかその時々の事実に立脚していないという理由だけでその認識に「トゥルース」がないと言うことはできない。そして彼らがその「トゥルース」を参照していないと指摘する人が立脚している「客観的な」事実もまた、恒久普遍的な真理ではなく、新たな事実の発見や価値観の転換によって容易に真理でも事実でもなくなりうるものである。いずれにせよ、人間の認識は理性や思考の論理によってだけ決められるものではなく、感情や必ずしも正確ではないイメージによって大きく左右されるものである。もちろん「ポスト・トゥルース」という言葉は現代の政治的状況を表すのに象徴的な枠組みであるが、認識が事実のみから成り立っているのではないことは現代に限った話ではない。

 

地中海地方では古代ギリシャ・ローマの時代から蛸は親しまれており、その生き物は絵や彫刻の中にも描かれる他、蛸の刻印がある貨幣も多く発見されている。蛸についての知見も古いからといって不正確なものではなく、プリニウスが既に『博物誌』において、一般に蛸は飢えると自分の腕を食べると信じられているが、実際に蛸の腕を食べているのはアナゴであり、一般の俗説が誤りであると指摘している。しかしそうした「科学的な事実」があったとしても、蛸が自らを食べるという伝説が消えてなくなることはない。そこから蛸が「自らの財産を浪費する放蕩者」を象徴するというイメージが生まれてくるのである。

この書物で大きな転機とされるのは、時代は下って18世紀、ドニ=モンフォールの『軟体動物の博物誌――総論と各論』の出版である。そこで蛸は執念深い凶暴な生き物として描かれる。その前の時代にも島ほどの大きさもあり船を沈めることがあると報告されていたクラケンの伝説があったのだが、クラケンが害を及ぼすのはその意に反してだったのに対して、ドニ=モンフォールはむしろその伝説と対比させ、攻撃的な蛸を描き出すのである。そこでは数々の蛸による「被害」が列挙される。蛸に襲われた友人を助けたが切り取ったその腕は25ピエ(およそ5メートル)ほどもあった、1782年、カリブ海でイギリス海軍のロドニイ提督はフランスの軍艦6隻を捕獲し、これらをイギリスの4隻の軍艦が護送したのだが、その日のうちにそれら10隻の船はすべて海中に呑み込まれてしまう。これをドニ=モンフォールはあらしではなく大だこの襲撃によるものだとしているのである。もちろんこうした明らかな作り話も、当時の人々によって真に受けられていたわけではない。しかし蛸に特有の凶暴さを印象づけるという点において、彼の試みはなぜか成功してしまう。彼の蛸に対する執念が何に由来するものか知ることはできないが、興味深いのは迷信や俗説に対して対置されることも多い「科学」がこうした俗説を生みだしてしまったことである。もちろんここまでの作り話では「科学」の名に傷をつけるということにもなろうが、アカデミズムの中からもこうしたものが生まれでたということは象徴的である。

このカイヨワの著作の中で論文のように結論らしい結論というのは出てこないが、それでも蛸のイメージをめぐる問題についての一つの結論と言えるのは、それがロマン主義文学と結びついて作られた、比較的新しいイメージだということである。彼はミシュレ、ユゴー、ロートレアモン、ヴェルヌといった文学者たちによってどのように蛸のイメージが利用され、あるいは創作されてきたかを詳細に辿る。ここでその分析を説明はしないが、1つ重要なことは、その蛸にまつわる様々のイメージが「作られた」ものだということである。これは悪意を持ったイメージ操作ということを必ずしも意味しない。文学者たちがいかに蛸を恐れたかということではなく、既存のイメージを創作に活かし、利用している側面の方が強いだろう。イメージや神話は作られ、それも容易に形を変える。しかしそれはいわゆるエビデンスがあれば反証されるというような形の変え方なのではなく、想像の次元での論理に沿って形を変えるのである。それゆえ、理屈では分かっていてもそのイメージの縛りから逃れられないということが日常的にもしばしば起こる。

 繰り返しになるが、本書は蛸についての書物である。それは想像の世界の論理に蛸の表象が、ひいては蛸の存在そのものがどのような影響を被ったかの歴史書でもある。もちろんこれは蛸がカイヨワにとって想像の論理を辿る上で好例だったという話で、蛸に限られた話ではない。地上に存在する生き物、そして存在しない生き物も全て、理性の論理と想像の論理の狭間で揺れ動いているのであり、どちらかのみであるのではない。むしろ蛸の例が示すことは、実在するはずの蛸が押し付けられたイメージによって、実在と非実在の間を行き来していることである。島ほどの大きさもあるいかにもな空想の怪物と同一視される蛸は、それが真実だと受け取られることがなくともイメージとして人々に残る。実在する現実の蛸はイメージによって非実在へと移行する。その領域でのイメージとしての蛸は単純に実在とも非実在とも切り分けることのできないものだと言える。本書が提起する想像の論理、イメージの力の問題は半世紀近く経とうとする今でもなお、示唆に富んでいる。
(2019年11月21日)

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