宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

『サピエンス全史』を読む

 ユヴァル•ノア•ハラリの『サピエンス全史』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016)は、高く評価しなくてはならない著作である。毎日新聞(2016年12月18日号)の読書欄に「今年の三冊」の二回目が載っているが、そこでも二人がこの本をあげている。この『セピエンス全史』に私が注目するのは、それが単なる客観的な人類史ではなく、人類が犯してきた悪行を反省し,批判しているからである。
 ダーウィンは、「自然は飛躍をしない」という古いことばを重視したとチョムスキーが『言語の科学』のなかで述べている。チョムスキーは、このダーウィンのスローガンに反対して、人類が7万年前に「生成文法」を獲得して,言語を使うようになる「飛躍」(leap)を行なったと説いた。(邦訳では「大躍進」と訳されている。)チョムスキーのこの考えはハラリにも受け継がれているようにみえる。
 『サピエンス全史』では、ホモ•サピエンスは三度の革命を行なったとされている。7万年前の認知革命、1万2千年前の農業革命、5百年前の科学革命である。認知革命とは言語の獲得のことであり、それは人間にとって「新しい思考と意思疎通の方法の登場」(上p.35)であった。それによって人間は「想像上の現実」を作り出す能力を得た。神話も国家も資本主義もすべて認知革命から始まる。
 人類が7万年前にアフリカを出て、世界各地に広がったのは、認知革命と深い関係があることである。4万5千年前に人間はオーストラリアに,1万6千年前にはアメリカに住み始める。しかし,ハラリは人間がそれらの新大陸で、大きな動物たちをたちまちのうちに殺戮してしまったことを強調している。オーストラリアには体重2•5トンのディプロドトンという有袋類がいたが、たちまち殺されてしまった。アメリカ大陸でも同じであった。
 農業革命は,人間を定住させ,共同体を作らせた。しかし、ハラリは農業によって人間の暮らしが楽になったとは考えない。農業によって「より楽な暮らしを求めたら、大きな苦難を呼び込んでしまった」(上、p.116)。人間は農業を始めたために、急に忙しくなったのである。それが現代にも引き継がれ、われわれは自分で自分を忙しくしているのである。
 科学革命は、産業を機械化し、生産力を向上させた。今まで不可能と思われていたことを次ぎ次ぎに現実化している。遺伝子工学で3000万ドルかければ、ネアンデルタール人の復元も可能だという。しかし科学革命は農村を破壊し,家族•共同体を崩壊させた。1945年の原爆の実験をハラリは「過去5百年間で最も瞠目する決定的瞬間」だと規定する(下p.56)。人間が人間を殺戮する最大の武器が作られたからである。「人類は、今までになく無責任になっている」(下p.265)のである。著者はさまざまな統計を駆使しているが、2000年に、戦闘での死者は31万人、殺人による死者は52万人、交通事故の死者は126万人、そして自殺者が81万人だったと書いている。2002年の自殺者は87万人であり、現代世界でいかに自殺者が多いかがわかる(下p.202)。生きていても仕方のない時代なのだ。このように、本書は確かに人類の歴史ではあるが、その歴史がけっして明るいものではなかったことを説いた異色の著作である。
                         (2016年12月22日)

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意外性の言語学

 アメリカの言語学者ノーム•チョムスキー(1928〜)は、反戦運動家としても知られている。言語学者としては、すでに1950年代までに「生成文法」の理論によって言語学に革命をももたらしたといわれている。「生成文法」について、『広辞苑』(第5版)は次のように説明している。「人間は生得的に文法にかなった文を限りなく生成する能力を持っているとし、その生成の仕組みを文法と考えるもの(以下略)」。チョムスキー自身は「生成文法」についてさまざまないい方をしているが、最近では「言語を得る人類特有の能力」(W.1)とも規定している。

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今村仁司『交易する人間』を再読する

 すぐれた思想家であった今村仁司(1942~2007)が亡くなって、まもなく10年になる。彼が2000年に刊行した『交易する人間』が、最近になって講談社学術文庫として再刊された。この機会に本書の意義を考えたい。

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「皇紀2676年」

 このブログに載せた「扶余の記憶」で、私は戦時中に朝鮮の扶余(プヨ、百済の最後の都のあったところ)に、「扶余神宮」建設の計画があったが実現はされなかったと書いた。しかし、その後数冊の文献に当たってみると、作られたという説、建物はできたが、天照大神・明治天皇の「鎮座」はなかったという説など、諸説があることがわかった。ということは、扶余神宮について関心を持つ人が少ないということかもしれない。 肝心なことは、朝鮮の人々に日本の神・天皇への礼拝を強要したことである。その強要によって、当時の日本の統治者が「内鮮一体」ができると思っていたとすれば、それはまったくの誤りである。一体化とか同一化は、簡単にできるものではない。ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと、近代ドイツでは、「同化ユダヤ人」が大きな問題であったことがわかる。同化ユダヤ人とは、ドイツ人と「同化」したとされるユダヤ人のことであり、「東方ユダヤ人」と区別される。しかし、「同化ユダヤ人」は、ドイツ人になることはできず、強制収容所へ送られたのである。朝鮮の人々に日本の神・天皇を礼拝することを強制して「内鮮一体」が実現されると誰が考えたのであろうか。
 しかし扶余神宮の問題は、当時の日本の統治者たちが「神社」を重視していたことを示すものである。つまり、日常生活のなかでの「神社」の役割を考えていたということである。われわれは日常生活でもまだ「神社」と関係がある。建物を建てるときには神主に「お払い」を依頼するし、結婚式は「神式」が多い。
 2016年3月に私は静岡県三島市にある「三嶋大社」を訪れた。この神社の祭神は、金達寿の『日本の中の朝鮮文化7』(講談社、1983)によると、もともとは百済から「渡来」した神だという(p.22)。この神社にはすでに何回も行ったことがあるが、頼朝が旗揚げした場所だという記念碑、若山牧水の歌碑があることに初めて気付いた。牧水はこのあたりが好きだったらしく、先日早咲きの桜を見に行った伊豆の土肥にも牧水の銅像があった。
 三嶋大社の桜も満開で、見頃だった。この神社で「お明神さま」という小冊子の21号をもらって来て読んでみると、今年の2月11日に「紀元祭を行い、橿原神宮を遙拝した」と記してある。橿原神宮は神武天皇を祭神とする神宮である。一昨年訪れたが、その本殿の入り口に「皇紀2674年」という大きな看板があった。「皇紀」とは、神武天皇即位の年を紀元元年とする年の数え方である。私は山梨県石和の小さな神社でも、同じ「皇紀何年」という表示を見たことがある。日本の神社では「皇紀」を使うのが日常かもしれない。また、東京都内の真言宗豊山派のあるお寺でもらった『豊山宝暦』には、「西紀2016年、皇紀2676年、仏誕2479年」と並記してある。日常生活にもまだまだ「天皇制的なもの」が根付いているのだ。(2016年4月11日)

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小林清親展を見る

 去る3月11日に、町田市立國際版画美術館で、「清親 光線画の向こうに」を見た。小林清親(1847~1915)の作品を年代順に追うことのできる展示である。清親は浜名湖西岸の新井の関所で働いたり、その近くの鷲津の農家の娘と結婚するなど、静岡県と多少のつながりがあり、静岡県立美術館には、彼の多くの作品が収められていると聞く。また、私は1998年に静岡県立美術館で開かれた「明治の浮世絵師 清親」展に行き、そのときに求めた図録が手元にある。
 今回、町田で開かれた清親展で、私が特に注目したのは、「田母野秀顕君之肖像」である。図録に収められている岩切信三郎の解説を引用するならば、この作品は「奇跡的に」この美術館に収められているのだという。この肖像画は、「福島事件」で「国事犯」とされた人物を描いたものである。岩切信三郎のことばを引用するならば、「福島県令三島通庸が、自分の方針を批判し従わない自由党員を弾圧し、河野広中、田母野秀顕、平嶋松尾等6名が政府転覆の国事犯として投獄された」のが福島事件の結末であるが、小林清親は、その「国事犯」のひとり田母野秀顕の肖像を描いたのである。版元の原胤昭は、軽禁固3月、罰金の刑を科された。これは、明らかな言論弾圧である。その当時の小林清親が、出版元の原胤昭とともに、きわめて先鋭な反権力的意識を持っていたことを示している。岩切信三郎の言うように、これは「自由民権運動の資料」であるが、それと同時に、小林清親の作品の政治的なものが見えている。彼は伊藤博文など当時の政治家の風刺画も描いている。現代の「言論弾圧」の時代に、彼らから学ぶべきことが多い。
 この展示は「清親 光線画の向こうに」というタイトルである。「光線画の向こうに」ある、1880年代の清親の政治性、反権力的立場、反骨の思想が明確に示された、高い価値のある展示である。(2016年3月14日)

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