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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

ジョージア映画「聖なる泉の少女」を見る

 去る2019年9月27日に,私はザザ・ハルヴァシ監督のジョージア・リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」(2016年)を東京神田神保町の岩波ホールで見た。タイトル通りの映画で、「聖なる泉」を守っている一人の「少女」の物語である。「少女」というよりは、もう少し年長の女性が、泉のそばの家で父親と暮らしている。彼女はその聖なる水で村人の心身の病気を治療してきたが、ついに先祖伝来のその仕事を捨てる決意をするというのが、話の大筋である。彼女の意識の変化が、泉の上流で作られつつある水力発電所の工事の大音響と重なる。泉はやがて水源を失うであろう。私にとっては、そのような物語の筋とともに、この映画で写されているジョージアの自然が、非常に魅力的であった。

 私は普通の人が無視したり、些細なことだとして言及しないことにこだわることがある。この映画についても、なぜそれが「ジョージア・リトアニア合作」なのかが気になった。以前に見たジョージア映画「みかんの丘」で、みかん畑を作っていたのは、二人のエストニア人であった。この二人は、最後のシーンでは、故国のエストニアに還っていく。しかし、なぜ彼らは故国から遠いジョージアにきていたのか?

 劇場にあった「聖なる泉の少女」のフライヤーによると、「本作の舞台は、黒海に面した(ジョージア)西部のアチャラ地方」である。16世紀以降はオスマントルコの支配下にあり、イスラム教徒が多い地区だという。つまり、ロシア帝国はオスマントルコと戦ってこの地域を支配下に置いたのであるが、イスラム教徒が多かったので、バルト地域からキリスト教徒を移民させたということが、ちらっとネット情報に出ている。また、1941年から1951年ごろまで、バルト地域ではソ連の支配に抵抗する動きがあり、ソ連はそのような「反政府運動」をする人たちを「人民の敵」と規定して、シベリア、カザフスタンなどに流刑にし、また女性や子どもを強制的にシベリアなどに「移民」させた。ネットの情報であり、また反ソ連的な立場を反映しているものかもしれないが、私がPC の画面上で見つけた資料では、1944年から1955年まで、ソ連はリトアニア人245,000人、ラトヴィア人136,000人。エストニア人124,000人をシベリアに追放した。「シベリア」がどこを指すのか不確実であるが、とにかく当時のソ連は「異民族」「人民の敵」を強制的に「移住」させたのである。シベリア東部にいた朝鮮人たちが、1938年にウズベキスタンに「強制移住」させられたことはよく知られている。私はウズベキスタンで多くの木槿(むくげ)の花を見たことがある。(木槿は韓国の国花でもある。)ジョージアとバルト三国のひとたちとのかかわりには、そのような歴史的経緯があるのではないだろうか? それでなくても、ジョージアはペルシャ、トルコ、ロシアなどの強国に挟まれて、非常に苦難の歴史をたどってきた国である。そういう背景が、この映画にあるように見える。

 それはさておき、「聖なる泉の少女」には、三人の兄がいるが、彼らは「ジョージア正教の神父、イスラム教の聖職者、無神論者の科学の教師」である。科学の教師は、なぜか自分でノートに何か書きながら、まだ幼い女の子ひとりを相手にむずかしい「講義」をしている。私は「毎日新聞日曜版」に連載されている「藤原帰一の映画愛」を毎週楽しみに読んでいるが、この映画についての文章も非常に面白かった。藤原帰一は、この三兄弟について、次のように書いている。「このお兄さんたちが独特なんですね。ひとりはキリスト教、もうひとりはイスラム教徒、最後の一人が宗教を認めない。同じ社会でそんなにたくさんの宗教に分かれるなんてずいぶん無茶な設定にも見えますね。」その通りで、この設定は「ずいぶん無茶」である。しかし私は、そこに、ハルヴァシ監督の巧みな意図を見出したように思った。現実には、そのようなことは起こりえない状況であり、監督はそのような「ありえない話」「全くの意外性」を映画のなかに作り出そうとしたのではないか。ジョージア映画では、ときどきそうした「あり得ない話」「奇想天外」な場面が作られるのであり、私はそれがジョージア映画のひとつの特徴だと考える。

  (2019年10月5日)


付記 過日アップした「少女は夜明けに夢をみる」の拙稿のなかで、イランでは女性がサッカーを見ることが禁止されていると書いたが、その後イラン政府は女性のサッカー観戦を認めることになったと、ある友人から教えられた。ただし、女性専用の席が設けられるらしい。

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オスコウイ監督のイラン映画「少女は夜明けに夢をみる」を見る

 去る2019年9月3日に、私はメヘルダード・オスコウイ監督のイラン映画「少女は夜明けに夢をみる」(2016年)を試写で見た。非行・犯罪を犯したために収容(監禁)されている少女たちをドキュメンタリー的に写した映画である。この映画に登場する少女たちは、非行・犯罪を犯したようには見えない。ごく普通の、しかもどちらかといえば穏やかな感じを与える少女ばかりである。性的虐待を受けて家出した少女、強盗や売春、薬物の使用・所持でつかまった少女、さらには父親を殺した少女もいる。オスコウイ監督は、ひたすら彼女たちに問いかけ、話を聞くだけである。見る者に判断を任せる映画である。

 オーストリア生まれで、アメリカで活躍している脳神経学者のエリック R.カンデルは、その分厚い著作『芸術 無意識 脳』(須田年生、須田ゆり訳、九夏社、2017)において次のように書いている。「すべての画像がそうであるように、絵画における像も、現実を表すというよりは、見る人の知覚や想像、期待、他の像の知識(記憶から思い起こされる像)を表している。」(p.211) カンデルはここで絵画について論じているのであるが、このことは映画についても妥当する。私は「少女は夜明けに夢をみる」を、純粋にそのものだけとして見るのではない。今までに見たイラン映画をはじめとする多くの映画、イランについてのさまざまな情報、イランの歴史など、さまざまな「記憶から思い起こされる像」がかかわっている。

 しかし「さまざまな情報」といっても、イランというと、私がただちに想起するのは政治的なことばかりである。つまり、イランはアメリカと対立している中東の国家であり、そこからさらに、一方にイラン、シリア、ロシア、中国を、他方にアメリカ、サウジアラビア、イスラエルなどを置いて、その対立関係の複雑さを考える。マスメディアが伝えてくるイランについての情報は、ほとんどがこのような政治的・国際的なものであるが、われわれが入手するイランに関する情報の多くはアメリカ発信であり、どこかに歪みがあることは否定できない。たとえば、私はある友人の配慮で、アメリカの書評紙「ニューヨーク・レヴュー・オブ•ブックス」(ユダヤ系のメディア)を読んでいるが、必ずしも書評専門のメディアではない。その2019年8月15日号に載っている「Iran;the case against war」という記事を読むと、そこではシリアの大統領アサドは、「シリアのシーア派民兵組織を援助し、パレスチナのハマスを支持し、レバノンのヒズボラに武器を提供することによってイスラエルの安全を脅かしている野蛮な独裁者(brutal dictator)」とされている。そのシリアの背後にあるのが、イランであるという立場である。これは典型的な「イスラエル的立場」であり、シリアはイスラエル、アメリカの安全を脅かす国家として規定されている。要するにイランは「アメリカの敵」として考えられている。しかし、このような「情報」は、政治的・国際的なものにほかならない。

 つまり、イランの「民衆」の状況が伝えられることは稀である。しかし、2019年9月13日の毎日新聞には、男性の服装をしてサッカーの試合をひそかに見に行こうとしたイランの女性が逮捕され、禁固6ヵ月の刑に処せられかかり、自殺したという記事が載っている。イランでは、女性がサッカーの試合を見ることは「犯罪」なのだ。「少女は夜明けに夢をみる」を見たあと、私は急にイランについての情報に気がつくようになった。

(2019年9月30日)

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桜井哲夫『世界戦争の世紀』を読む

 桜井哲夫の『世界戦争の世紀』( 平凡社, 2019 )がついに刊行された。「ついに」というのは、この著作は、800ページを超える大著だからである。これは実に多くの意味で「重い」著作である。著者は本書の序章に当たる「開幕 20世紀の<思想>と<戦争>」の最後のところで、この著作を書こうとした意図について次のように書いている。「本書は、二つの<世界戦争>という政治現象を柱にしつつ、その流れのなかに翻弄され続けたヨーロッパ知識人の思想と行動をからめながら、20世紀の歴史と思想を跡づけようとするものである。」(p.24) まことに壮大な試みと言うべきである。
 この著作のタイトルにあるように、著者は20世紀を「世界戦争の世紀」として捉えている。死者・行方不明者は第一次世界大戦では1600万人、第二次世界大戦では6000万人であった。それは人類の歴史のなかで突出した「戦争による無数の死者たちの世紀」である。
 著者の基本的な方法は、いままでの著作にも示されていたが、とにかく資料を丁寧に読み込むというところにある。そのために、たとえば1920年代後半にフランスで刊行された「マルクス主義雑誌」「エスプリ」「哲学」を、著者は「すべてマイクロフィルムからのコピーを手元にもっている」( p.373 )のである。そうした非常に多くの文献•資料を徹底的に読み込むことによって、本書は書かれている。
 そして本書では、著者自身の考えがいたるところに示されていて、それが本書を単なる「引用のモザイク」にしていない基盤になっている。たとえば、第一次世界大戦について、「今日に至るまで、誰もが納得しうる戦争勃発の決定的要因は、定まっていない」としながら、著者はホブズボームの見解などを参考にしつつ、自分の意見として「諸国間が織りなしている様々な関係の網の目が、いつしか機能不全となって切断されるに至った」ことが重要だと述べている( p.34 )。
 本書の最大の魅力は、単に歴史上の事実を並べるのではなく、生きた人間たちと、その人たち相互の関係を生き生きと描いているところにある。たとえば、アンドレ•ブルトンは、ナジャという統合失調症の女性に「強くひかれた」にもかかわらず、「病んだ彼女に精神的に依存されつづけて、耐えきれず逃げだしてしまった」のであるが、著者は「ブルトンの唐突な共産党入党は、ナジャに対する<贖罪>の意味を持っていたのではなかったろうか」と推測する( p.356 )。また、互いに気があわないように見えるジョルジュ・バタイユと、無愛想なシモーヌ・ヴェイユが、ぶつかりあいながらも頻繁に会っているシーンなどは、きわめて印象に残る。
 また、ドイツ軍の兵士は「ドラッグ漬け」だったのであり、彼らはドラッグの力で、一睡もしないでも戦場に赴くことができたという。(戦争末期の日本軍の飛行士たちもヒロポンを使ってB29を攻撃していたという。)最近、ヒトラー自身もドラッグ依存症だったという報道があったが、独裁者も兵士もドラッグに依存していたのだ。本書では、いたるところにこのような記述があって、読んでいて倦むことがない。とにかく、これは実に刺激を与えてくれる、文字通りの大著である。
 (2019年9月10日)

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映画「テルアビブ オン ファイア」を見る

 去る2019年8月28日に、私はサメフ・ゾアビ監督のイスラエル・ベルギー・ルクセンブルグ・フランス合作映画「テルアビブ オン ファイア」(2019年)を試写で見た。イスラエルの都市テルアビブに住むパレスチナ人の男が、仕事場のあるパレスチナ自治区のラマッラー(以前は「ラマラ」と表記されていた)に毎日通っているうちに、検問所のイスラエル軍の責任者の将校と知り合うようになり、その男の意見を入れて、人気テレビドラマの脚本を書いて行く。そのテレビドラマがスクリーンに写されるから、観客は、映画の話とテレビドラマの話という二つの物語が交錯して進展するのを見ることになる。きわめて巧妙な展開の仕方である。タイトルが示唆するものとは全く異なる、コメディ、娯楽映画として十分に楽しめる。
 しかし、同時に私はこの映画がわずかに垣間見せているものに注目した。そのひとつは、イスラエルとパレスチナ自治区とを隔てるために作られた、とてつもなく高く長い壁である。いま、世界のあちこちに「壁」が作られているが、この映画でちょっとだけ写されているような巨大な壁は、多分ほかには存在しないであろう。この映画の主役であるパレスチナ人は、その壁を見ようともしない。強固なその壁は非常に高く、非常に長く作られている。それを乗り越えて行くことも、そこに穴を開けることも全く不可能である。李白ならば、「その壁は高く、天との間は一尺しかない」というであろう。
 「壁」というと、われわれは「ナマコ壁」のようなものを想像しがちであるが、英語のwall,
フランス語のmur,ドイツ語のMauerなどには、もっと大きな障壁の意味がある。英語でGreat wall は「万里の長城」のことである。「ベルリンの壁」も想起される。9月1日の毎日新聞には、モロッコと西サハラとの間には「砂の壁」があるという記事があが、この「壁」には地雷が埋められているのだ。もちろん「壁」は物理的な「隔離」を目的として作られるものであろうが、壁には象徴的・記号的な意味を持つにすぎないものもある。万里の長城も、ハドリアヌスの壁も完全な「隔離」を可能にしていたとは思えない。これに対して、「テルアビブ オン ファイア」のスクリーンには収まりきれないような巨大な「壁」は、完全な隔離、非情な分離を直接的に行なっている。
 たまたま私は、フランスの美術史家ジョルジュ・ディディ-ユベルマンの新著『欲望する 服従しない』(Georges Didi-Huberman,Désirer désobéir, Minuit, 2019) を読んだところだが、その「壁を背にして」の章には第二次大戦中のワルシャワで、ユダヤ人を閉じ込めるために作られた「壁」の写真が何点か載っている。壁の前で餓死しつつある子どもの写真もある。この壁は、戦争中にドイツがユダヤ人に建設の費用を負担させて作ったものである。映画「テルアビブ オン ファイア」に写っている壁はその延長線上にある。実際、この著作にはイスラエルとパレスチナとを隔てる小規模の壁の写真も収められている。つまり、ワルシャワとイスラエル・パレスチナとが、通時的に結びつけて考えられている。
 
 映画「テルアビブ オン ファイア」では、境界にある検問所のイスラエル軍の責任者と、テレビドラマの脚本を書く男とが交流するという話になっている。実際にそうあればいいのだが、おそらく現実は映画とは全く異なるものだと考えなくてはならない。最近、私はミシェル・アジェ『移動する民』(吉田裕訳、藤原書店、2019)を読んだ。これはいま話題になっている、ヨーロッパへの難民・移民の問題を、なんとか「歓待」という考えなどによって解決できないかという意見を示したものである。この原書のタイトルはLes migrants et nous, comprendre Babel(CNRS, 2016)で、「移民たちとわれわれ バベルを理解する」という意味である。(この原書は5ユーロのパンフレット状のもので、邦訳にはほかの論文も加えてある。)難民・移民とヨーロッパ人は、「バベルの破壊以後」的な状況、つまり言語・意志が相互に通じない状況にあり、その対立を改める方法が求められる。20世紀後半から激化したイスラエル人とパレスチナ人との対立状況は、これよりもはるかに過激である。対立というよりもむしろ「敵対」であろう。この映画では、その「敵対」が具体的に描かれているわけではない。しかし、「1967年」「インティファーダ」「オスロ合意」「ホロコースト」といったことばが瞬間的に出て来ることは確かである。他方、イスラエル軍の将校と、パレスチナ人のシナリオライターとは、「バベル以後状態」を脱して、コミュニケーションが可能となったようにも見える。しかし、この映画はあくまでも「イスラエル・ベルギー・ルクセンブルグ・フランス合作映画」であり、イスラエル側の考えが無視されているとはいえない。「歓待」は、実は不可能ではないかと考えざるをえない。
 内藤正典の『ヨーロッパとイスラーム』(岩波新書、2004)は、難民・移民の問題を考えるための基本的文献のひとつである。その結論と見えるものは、次の数行に要約されるであろう。(ヨーロッパとイスラ-ムという)「両者の規範が異なることは、すでに明らかとなった。本書で例に挙げたドイツ、オランダ、フランスという三国の状況は、イスラーム的規範と西洋文明の規範が、いかなる局面においてぶつかりあうかを示している。」(p.199)内藤正典は、両者の規範が「ぶつかっている」と考えているのである。ヨーロッパにおいてさえ、「衝突」の状況であり、パレスチナ・イスラエルでは、それは「敵対」の状況にほかならない。映画からは離れたかもしれないが、見たあとの私の感想を述べた。
(2019年9月4日) 

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グザヴィエ•ボーヴォア監督の映画「田園の守り人たち」を見る

 去る2019年5月2日に、私は試写でグザヴィエ・ボーヴォア監督のフランス•スイス合作映画「田園の守り人たち」を見た。第一次大戦中のフランス農村を舞台とするこの映画は、男性がいなくなったフランスの田園・農村の状況を描いている。100年前のフランスの農村での麦蒔き、麦刈り、脱穀、乳搾りなどの情景が展開される。これはまさに「動くミレー」であり、それだけでもこの映画を見る価値がある。
 この映画の原タイトルはLes gardiennes(「レ・ガルディアンヌ」)であり、「守る女たち」という意味である。つまりこのタイトルは、「田園の守り人たち」がまず第一に「女性たち」の行動を描いた映画であって、主役が女性であることを示している。次に、その女性たちが、田園を「守った」ということを示している。田園とは、陶淵明のいう田園であり、農業が行われている場、つまり農場・畑のことであが、それと同時に、あるいはそれ以上に、彼女たちが守ろうとしたのは「家族・家」にほかならない。 実際にこの映画では、舞台となる「家」のイメージが、その家が保有している農場のイメージとともに、極度に反復されているし、さまざまなかたちでの家族の絆が強調されている。その家族の中心に位置しているのが、ナタリー・バイが演じるこの大農家の寡婦オルタンスである。オルタンスの「存在感」の重さがひしひしと伝わってくるのは、この女優のすぐれた演技を引き出したボーヴォワ監督の力量である。
 しかし、「守る」というのは、敵対するものがあって、それに対して「守る」ということである。この映画におけるその「敵」とは、国家にほかならない。国家は、本来は国民を守るものであるが、戦争となると、それは「家族にとっての敵」という側面をあらわにする。ポーランド生まれのイギリスの社会学者ジクムンド・バウマンは、現代の国家・社会が「液状化」したと指摘した。戦争のときには、国家は個人を「戦力」とみなし、兵士として徴集する。国家は、個人・家族を守ってくれなくなるばかりか、その「敵」になる。この映画は、そのような意味での「敵」である「国家」に対して、自分の家族を守ろうとして行動した女性の物語である。
 オルタンスの長男は戦死、次男は戦場に赴いたが、戦後は帰還する。オルタンスの長女の夫はドイツ軍の捕虜になるが、彼も帰還する。オルタンスの「家族」は、崩壊寸前だったのである。彼女の使命は、そのようにして、国家によって崩壊されかかった「家族」を守ることにある。その意味では、この映画を「反戦映画」として見ることも可能であろう。しかしボーヴォア監督は、けっして声高には語らない。戦場の場面もごくわずかしかスクリーンに写されていない。監督は、見る者に密かに語りかけているように思われる。
 この映画のさらなる魅力は、オルタンスが雇った若い女性フランソワーズの存在と行動である。彼女は「田園の守り人たち」のひとりとして、農耕にも、牛たちの世話にも、きわめて有能である。雇われた身であるにもかかわらず、彼女は次第にオルタンスの家族の一員へと変化していく。そのプロセスは、きわめて演劇的・映画的であり、観客は彼女がどういう運命をたどって行くのかと、はらはらせずにはいられないであろう。ボーヴォア監督によるその紆余曲折の描き方は、並のものではない。(2019年5月8日)

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