宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

楊韜『メディアというプリズム』を読む

 楊韜の近著『メディアというプリズム』(晃洋書房、2018)は、注目すべき論集である。この本は,序章を含めて12の章から成るが、各章はぞれぞれがひとつのまとまった論文である。
 序章の「カール・クロウが見た中国と日本」は、「戦前に中国と日本で暮らしたアメリカ人の記者」カール・クロウが、「アメリカ人」という視点から、どのように当時の中国・日本の「庶民の日常生活」の報告をしていたかを論じている。中国人と日本人をどのように「差異」として見ていたかが論点となる。
 本書は「第一部 近代篇」と「第二部 現代篇」とに分かれている。第一部の第1章「近代上海における日本語メディアの一考察」は、20世紀前半に上海で刊行されていた日本語の雑誌「上海」についての考察である。この雑誌の成立過程、掲載された言説の内容のみならず、どういう広告が掲載されていたか、表紙はどうなっていたのかといった、通常は論点いになりえないことにも著者は注意を怠らない。それらを著者はすべて「メディア」として把握する。そしてそのプリズムとしての機能を十分に理解して考察する。そのようなプロセスを経て,著者は「近代上海の社会情勢」を描き出す。雑誌「上海」というメディアを時代を解読させるプリズムとして見立てる方法が駆使される。
 当時の上海には中国政府の行政権が及ばない「租界」があり、著者は雑誌「上海」の分析を通して、国民政府を租界との関係をも明らかにする。「1930年代末、上海の租界では抗日・排日活動」が頻発していたが、日本の立場の代弁者であった「上海」がそのような状況にどう対応していたかが論じられる。ここで注目しなくてはならないのは、当時の上海においては、国民党政府、租界、日本という、少なくとも三つの相対立する勢力がいかにからみあっていかを、「上海」というメディアの分析によって明らかにしたことである。
 第2章「近代湖南における雅礼協会の活動 湘雅病院の状況を中心に」は、中国湖南省長沙にアメリカ人が作った、「最初の西洋医学型の病院」である湘雅医院を考察したものである。この病院の中国人医師の多くは,日本の千葉医学専門学校(千葉大学医学部の前身)の出身であった。ここでも、アメリカ・中国・日本がからんでいる。
 第3章は、戦争中の中国でどのように紙幣が印刷・発行されたかを考察した,きわめてユニークな論文である。戦時下であるから、紙幣を印刷するための印刷機もインクも紙も不足していた。それを当時の中国人がどのように工夫をこらして紙幣を印刷していたかを調べたものである。
 第4、5章は,戦争中の中国の演劇・映画の分析である。戦争末期の中国は、国民党・共産党・日本軍という三つの勢力の争いの場であった。そのような状況のなかでの演劇・映画はどういうものであったか、それが時代を解読させるための素材として、緻密な分析がなされる。
 第6章からは「第二部 現代篇」になる。その「現代」とは、中国・台湾・日本の現代である。第6章は,台湾のテレビドラマをテーマにしているが、そこでは「眷村」の問題が取り上げられる。「眷村」とは、台湾にある外省人(中国本土から来た中国人)の集落のことである。つまりテレビドラマというメディアを通して、外省人と内省人の対立という現代台湾の政治的・社会的問題を考えようとする。
 第7章は、現代中国の人気テレビドラマ「裸婚」によって,現代中国の家族問題・社会問題に迫ろうとする。「裸婚」とは、車・ダイアモンド・マンションのない男性が「愛情だけ」で結婚することである。テレビドラマ「裸婚」というメディアの分析によって,現代中国の多様な問題が浮かび上がる。
 第8章は、中国のブログ、第9章は日本の携帯電話についての考察であり、きわめて今日的な問題への接近である。第10章は,3・11大震災とメディアの関係を論じ,第11章は,中国の大亜湾原発の安全性についての中国メディアの報道の分析である。
 
 本書のおよその内容を紹介したが、全体を通じて感じたことは,著者が現代の社会学的・記号論的・映像学的・哲学的な思考をよく理解し,その方法を駆使していることである。そのため著者の考察は,単に中国・台湾・日本のさまざまなメディアをメディアでのレベルでのみ考察するのではなく、その分析を通して、政治・社会の状況を解読するに至る。雑誌の広告、戦時中の演劇、テレビドラマなどに、政治的・社会的状況が明確に描かれているのではない。著者は、そこに描かれてはいないこと、隠されていることを発見していくのである。ラカンはかつてそのような作業がフロイトによってなされていたと指摘し、それを「シャンポリオン的解読」とした。本書の著者の作業にもそれと共通するものがある。私にとって,本書はまさに「読み応え」のある著作であった。(2018年2月22日) 

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キルギス映画「馬を放つ」を見る

 去る2017年12月に、私は試写でキルギス映画「馬を放つ」を見た。現代の日常生活では、馬が話題になることは競馬を除いてほとんどない。さらに、「馬車馬のように働く」というような馬に関連する言語表現は、「馬車馬」が存在しない今日では、もはや使いようがなくなりつつある。馬に限らず、比喩に用いられていた対象そのものが存在しなくなったために、その対象を用いた表現が消えつつある。2018年1月に中国を訪れたフランスの大統領マクロンが、習近平主席にフランスの馬4頭を贈ったというニュースは ニュースの価値のあるものであった。「馬を放つ」は、われわれの視界から消えつつある馬が登場する貴重な映画である。
 この映画の元のタイトルは「ケンタウロス」で、それはこの映画の主人公の綽名でもある。「馬を放つ」という日本での上映タイトルは、村上春樹が訳したジョン・アーヴィングの小説『熊を放つ』(Setting free the bears)から借りたものかもしれないと、若い友人に教えられた。しかし「馬を放つ」というタイトルは、この映画の内容をピタリと言い当てている。
 「馬を放つ」というのは、つながれている状態の馬を解放するということである。この映画の主人公ケンタウロスの欲望は、「馬を放つ」ことであるが、彼はそれによって何らかの利益を得たり、馬を自由にしてやって喜んでいるわけではない。「馬を放つ」のは、彼の純粋な欲望以外のものではない。しかし、それは現実には「馬を盗む」行為であって、「社会的規範」に反することであり、「犯罪」である。共同体の「掟」と、彼の「欲望」との決定的な矛盾・対立がこの映画のテーマである。
 それでは「馬を放つ」というのはどういう欲望なのか? 映画の中で,主人公ケンタウロスが語る印象に残ることばがある。「イスラム教の始祖ムハンマドは、文字を知らなかったので、馬に乗って天上に昇り、そこで神から直接に教えを受けたのだ。」ケンタウロスによる、このような馬への絶対的・献身的な欲望には、なにか宗教的なものがある。ギリシア神話では、半人半馬のケンタウロスは天に昇って星座のひとつになる。これは翼を持つ馬であるペガサスにおいても同じである。映画「馬を放つ」のなかで、主人公が馬を放ちたいと願ったのは、実は天に向かって放ちたかったのではないか。しかし、それはあくまでも彼の宗教的・想像的領域の問題であり、ラカンの概念を借りるならば「ル・レエル」の領域のことにほかならない。実践の世界、具体的には彼が障害のある妻・こどもと暮らしている村落共同体という現実の領域では、彼のこのような「幻想」は通用しない。彼は「馬泥棒」として逮捕され、その処分は村民の会議にまかされる。それは一種の直接的民主制のようにも見えるが、彼はそのような「世俗的」な解決に従うことができない。
 私にとって、この映画はきわめて「哲学的」な作品であった。
 
 この映画を見たあと、ふと想起されたのは、ケンタウロスと馬頭観音の関係を考えていた丸山静のことである。彼の考察の一端は、『熊野考』(せりか書房、1989)に収められている「馬頭観音」において示されている。この論文にも「馬を放つ」話が出てくるが、丸山静は熊野を歩いていて、補陀落山寺の観音堂で背丈80センチの馬頭漢音を見いだし、「馬頭観音,あれは何だろう?」と自問する。そして、次のように書いている。「古代のギリシアには、ケンタウロスというものがいた。デューラーがしばしば描き、フッサールも好きで、議論のなかによく引き合いに出したあれである。またインドにはガンダルヴァ、イランにはガンダレウァというものがいたし、北方のスラブ諸民族のあいだには、ゴディというものがいた。それらはいずれも半人半馬の怪物であったといわれている。」(p.71)
 この映画の舞台になっているキルギスは、中央アジアの国で、中国の西隣りに位置している。玄奨三蔵もインドへの往復にキルギスを通って行ったのである。古くから馬の産地として知られたところであり、馬にまつわる神話・伝説もあるはずである。ケンタウロスというと、いかにもギリシア神話風に聞こえるが、実際は中央アジアがその起源かもしれない。
 日本に馬が渡来したのは、4世紀後半であるといわれる。古墳時代であり、埴輪にも馬が登場する。聖徳太子が馬に乗っていたことは、伝承にも見えることである。数年前、静岡県立近代美術館で「富士山の信仰と芸術」という展覧会があって行ってみたが、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を登って行く絵が展示されていたと記憶する。聖徳太子が富士山という高い山に馬に乗って登るということが重要である。聖徳太子はリクリエーションとして富士山に登ったのではなく、「高いところ」を目指して、つまり何か宗教的なものを求めて登ったはずである。(2018年1月19日) 

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「怖い絵展」を見る

 去る2017年11年20日に,私は東京上野にある「上野の森美術館」で「怖い絵展」を見た。東京とその周辺では、駅などにこの美術展の大きなポスターが掲示されている。それはこの美術展で展示された、ドラローシュの「ジェーン・グレイの処刑」を使ったポスターである。といっても、私はこの画家のことを何も知らなかった。この展示では,そのほかにも私の知らない多くの画家の作品が展示されている。しかし、ターナーの「ドルバダーン城」、セザンヌの初期の「殺人」など、著名な画家の作品もあり、なかなか面白かった。
 しかし,「怖い絵」とは何であろうか? 確かに「ジェーン・グレイの処刑」は、これから斬首されようとしている若い女性を描いているというが、それはそうした説明があって始めて「怖い絵」だと認識するのであり,絵そのものが怖いというわけではないであろう。絵が語る物語が「怖い」のである。
 この展覧会はたいへんな人気で、私が行ったときも、入り口には「80分待ち」と書かれてあったが、私は70分待って入ることができた。観客の多くは若いひとたちであったが、それも女性が大半を占めているように見えた。若い女性が「怖い絵」を見に来る理由は何であろうか? 老齢のひとはあまりいなかったが、おそらく寒空の下を、長時間にわたって立って待つことが、老人にはつらいことだからであろう。私は、昨年(2016年)の1月上旬にソウルにいたが、そのときの日中の気温はマイナス10度よりも低かった。そのとき、ソウルの繁華街を歩いていると、どうも老人の姿をあまり見かけないので、「慰安婦像」のある日本大使館の近くで、たまたま声をかけてきた韓国人の青年に尋ねてみると、「寒いので老人は家にいるのです」という答が返ってきた。冬の東京もソウルと同じなのかもしれない。
 さきほどの問いの反復になるが、なぜこの展示に多くの若い女性が「殺到」しているのか? それは単に「ほかの人たちが見ているから」とか、「上野に来たら並んでいたから」といった理由からではないように思われる。
 11月21日の毎日新聞朝刊に、「座間事件 深層に若者の孤独」という,この新聞論説委員である野沢和弘が書いた記事が載っている。それによると、「日本の自殺死亡率(人口10万人当りの自殺死亡者数)は、世界ワースト6位、女性だけだと3位だった」という。自殺者は減少してはいるが、「若年層は減り幅が小さい」のであり、しかも「15〜34歳の自殺死亡率は、事故による死亡率の2.6倍」だという。若い人たちは非常に孤独なのである。野沢和弘は、「(座間の)事件の猟奇性だけでなく、深層に<居場所>がない若い世代の孤独や不安が漂っていることを直視しなければならない」と書いているが、「怖い絵」の超人気と、自殺に走る若い女性たちの「孤独と不安」には、関係があるように思えてならない。(2017年11月22日) 

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映画「苦い銭」を見る

去る20171110日に,私は王兵監督の香港-フランス合作映画「苦い銭」(2016)を試写で見た。中国南部の雲南省の若い人たちが、2200キロ離れた中国東部の浙江省湖州市へ出稼ぎに行く話である。試写の会場でもらったパンフレットによると、湖州市には、18000の縫製工場があり、各地方から来た30万人以上の労働者がそこで働いているという。労働者の数に対して「工場」の数が極度に多いのは、それが通常の工場ではなく、それらの「工場」のほとんどが、個人経営の小さな仕事場に過ぎないことを示している。出稼ぎ労働者は湖州市の人口の80%を占めているというから、この都市のもともとの人口は10万に満たなかったということになる。
 実際、この映画で写されている「縫製工場」も,工場というより「作業所」といった感じであって、雑然とした室内に数台のミシンが並べられているにすぎない。出来高払いらしく、一日の労賃は手際のいい人は170元(3000円弱)だが、70元しか賃金がもらえない若い男は、能率が悪いといって解雇されてしまう。それも、たいへんな長時間労働のように見える。彼らが住んでいるアパートは、狭くて汚れている。もちろんエレベーターはない。中国の衣料産業が、地方出身の労働者たちの低賃金労働によって支えられていることが少しはわかる。われわれがユニクロなどの中国製衣料を安く入手できる理由の一端が見えてくる。
 「苦い銭」は、2016年のヴェネチア映画祭で「脚本賞」を受賞したという。しかし、この映画は俳優に「演技」させて作った映画ではない。実在する人物の行動をそのまま撮った映画である。若い夫婦が派手に喧嘩する場面も「やらせ」ではなく、あったままを撮ったらしい。見ている側は、あの夫婦はあのあとどうなるのかと心配しないわけにはいかなくなる。そうした意味で、この映画はきわめて特別な作り方になっている。映画のなかの人物が、カメラマンに向かって声をかける場面さえある。
 最近,私は映画のなかで写されている情景に特に関心を持つようになった。パキスタン映画「娘よ」では、パキスタン東北部の広大な大自然の姿をたっぷりと見ることができた。イタリア映画「はじまりの街」では、ポー河が流れる北イタリアのトリノの街がよく写されていた。カリウスマキの「希望のかなた」はヘルシンキが舞台で、わずかばかりではあるが,ヘルシンキの街を見せてくれた。「苦い銭」は、湖州市という、私がまったく知らない現代中国の都市の一角を写している。労働者たちが暮す汚いアパートの階段から見下ろすと、湖州市の雑然とした、ゴミが溢れている街の一角が見える。交通事故があって,救急車、パトカーがやってくる。非常に印象に残る湖州市の夜景である。
(2017年11月12日) 

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映画「ゴーギャン」を見る



 去る2017年10月31日に,試写でエドゥアルド・デルック監督のフランス映画「ゴーギャン」(2017)を見た。ゴーギャンに扮した俳優ヴァンサン・カッセルはたいへんな「熱演」であった。当日,会場でもらったパンフレットによると,この映画はゴーギャン晩年の生活を必ずしも正確に描いてはいないという。しかし、私の見た限り、この映画はゴーギャンのタヒチでの作品をかなり意識して作られていると思われた。あえて言えば,この映画はゴーギャン晩年の作品を映画化したものである。多少ずれているかもしれないが、映画「ゴーギャン」は,タヒチをテーマにしたこの画家の作品の「活人画」(タブロー・ヴィヴァン)である。つまり、ゴーギャンの絵で描かれている人物を俳優に演じさせている。たとえば、この映画に出演しているタヒチの17歳の女優は、彼の描いたタヒチの女性とよく似ているし、映画の中で、ゴーギャンが彼女にとらせるポースは,作品で描かれているものとほとんど同じである。2016年に東京都美術館などで開かれた「ゴッホとゴーギャン展」に、ゴーギャンの「川辺の女」(1892)が展示されていたが、そこでは二人タヒチの女性が洗濯をしているシーンが描かれている。映画でもそれとまったく同じ情景が写されていた。
 この映画と直接の関係はないが、ダーウィンの『ビーグル号航海記』(島地威雄訳、岩波文庫、1961)のタヒチの部分の記録を読むと,この映画の遠い背景がいくらかわかる。タヒチの自然と人間を、ダーウィンがよく観察しているからである。ダーウィンは、島に到着すると,島民の案内で、山に入り,野宿する。そして動植物の観察を怠らない。島民が入れ墨をしていることにも注目している。
 ゴーギャンは、1848年に生まれ,1903年に亡くなっている。それはフランスの帝国主義の時代である。フランスによるアルジェリアの侵略は,1830年に始まっている。新大陸アメリカとインドでの「侵略」が挫折したフランスは、最初はアフリカに、そして間もなく太平洋の島々に眼をつけた。
 タヒチはオーストラリアと南米大陸の間にある島である。それはヨーロッパ人が来るまで,女王が支配する王国の中心であった。1835年に、ダーウィンがビーグル号に乗って来たときも、女王がいた。(彼女についての描写もある。)そこにはすでにイギリス人の宣教師がいて、プロテスタントの教会も存在していた。てもとにある『小学館万有百科事典』(1975年)には次のように記述されている。「19世紀の前半にはタヒチ島は超部族的国家ポマーレ王朝の所在地であったが、1842年以来フランスの支配下にはいった。」つまりイギリス人のあとにフランス人がやって来て、この島を「征服」したのである。イギリス人宣教師が作ったプロテスタントの教会はどうなったのだろう。とにかく,ゴーギャンがこの島に来た1883年に、この島は完全にフランスの植民地になっていたのである。そうなると、以前にこのブログに書いた,フランスの画家シャセリオーのことを想起しないわけにはいかない。シャセリオーは、1830年にフランスがアルジェリアを植民地化し始めると、すぐにアルジェリアに赴いて描いていたのである。(2017年11月7日) 


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