宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

辻昌宏『オペラは脚本から』(明治大学出版会)

                    イタリア人は歌っている

イタリアに行くと、電車の中、レストランの中、人々の会話はすべて歌っているように聞こえてくる。なんで、こんなオーバーな身振りと、しゃべり方をするのか、と最初は不思議に思えるが、でもそのしゃべり方の音調を聞いていると、だんだん心地よい気分になる。それで、ほとんどの会話において語尾が上がるイントネーション↗を聞くと、なるほどイタリア人は楽天的、快活だと実感させられる。なんといっても、イントネーション↗は楽観的な(感動的な)、↘は悲観的な(冷静な)心情を物語っていることは、イタリア人と話していて得心するから。マキアヴェッリの原書読書会にこの間参加しており(注)、あのマキアヴェッリにも、語調におけるリズム感(響き)、それに伴う感情表現の巧みさがあって、しばしば当然韻を踏んだ文章にもお目にかかる。そうすると、下手くそな僕のイタリア語でも、文章を音に出して諳んじたい気分になる。このリズム感の心地よさ、感情表現の巧みさはイタリア人(イタリア語)ならではある。もともとイタリア語の表現(音調)は、音楽的だと否応なく思い知らされる。日本語にもそうした長所があるのは間違いないのだが、なにぶんにも、短歌、俳句をはじめとして、そうした国語力が弱体にして、日本語の表現力の深さに思いをはせることができない。もしかしたら、「君が代」にも音楽的な意味合いという点では、イタリア語と同等の長所があるのかも…
(注)マキアヴェッリ原書読書会は、7年間にわたって読み進めてきた『ディスコルシ-ローマ史論』を読了し、今後は『戦争の技法L’arte della guerra 』に移行します。関心のある方は、吉沢明meisan46@kind.ocn.ne.jpまで。

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windows8 搭載パソコン顛末記

パソコンなんてド素人同然の僕が、この界隈の素人の皆さんに何かの参考になればと思い、今回のwindows8 搭載のパソコン立ち上げに伴う顛末をお伝えします。

これでもインターネットで「YOU TUBE」なんてやるものだから、我がwindows XPのパソコンのCPUが「ゴミ付着」等もありかなり性能低下をきたし、常に「CPUのパーフォマンスが限界」という警告をセキュリティソフトNortonから受けており、CPUの容量の高いパソコンへの「買い替え」時期だと思っていたら、大手家電量販店のY電機の土・日のバーゲン広告で「windows8搭載lenovo(“リェノヴォ”)ディスクトップ、39,800円」を見つけ、その安さに釣られて、購入したのが、この顛末記の発端である。
この中国製パソコンは、経済的には極端に合理主義で、ドライな中国の経済事情を反映してか、安さを売り物に、もちろんWORD、EXCELはついておらず、取扱説明書、バックアップCDなどもついておらず、中身はガラガラ同然、「値段は安くしたのだから、後は購入者がやってくれ」というシロモノである。もっとも、ガラガラゆえに、店の「アドバイス」もあり、必要なレジストリーの追加に13,000円何某かを払い、結局約5.5万円になったが…(これも、一見の「安さ」で消費者を釣るお店の作戦かも…)。
それでも、「このlenovoを購入してもいい」と思ったのは、lenovoはあのIBMのThinkPad(パソコン部門)を買収したぐらいだから、かなりの技術力をベースに、高性能・低価格商品を追求しているに違いないと、判断したためである。
余談になりますが、「Microsoft OFFICE」(通常29,800円)にあたる「マガイモノ」が、 堂々と「Kings OFFICE」(中国製)という名で売られていて(4,980円)、 思わず失笑、ドライで、あざとい中国(国家)の風潮を見事に反映していると感心してしまった(当然、lenovoパソコンにはこの「マガイモノ」WORD、EXCELが試用期限付としてついている)。かく言う僕も、値段に釣られて、折角安いパソコンを購入したのだから、「この際は」と思い、便乗して購入した。まだ、本格的に使いこなしていませんが、「マガイモノ」とはいえ、WORD、EXCELとの互換性もあり、それに相当する機能は果たしているように見受けた。以前ならMicrosoftの対応からしても、こんなこと考えられなかった、これもビックラこいた! まあ、中国のやることにはとにかく恐れ入りました。

ご承知のように、windows8は、最新のMicrosoftのOSで、使い勝手は、後に述べることにして、まずは立ち上げに伴うトラブルの状況をお伝えします。windows8は、インターネット環境に対応し、そのため、セキュリティの意識はもともと高いのだが、インターネットに対し開放されているため、以前のXPの時代に比べると、逆にそれに相応してウィルス、スパイウェアの侵入のやり方もすさまじい。隙あらば、立ち上げ中のパソコンに侵入し、無理やり「ウィルス」の類を貼り付け、そこに居座ろうとする。それが滅茶苦茶凄い。

僕がもっとも気を使ったのは、立ち上げの際のセキュリティの確保である。ただ、随分気を使ったつもりでも、やはり落ち度はあった。購入パソコンには試用期限付のセキュリティソフトがついているのだが、これまでNortonを使用してきており(旧一台はNorton)、異なるセキュリティソフトをインストールすると、セキュリティが働かないので、購入時に付設のソフトを解除してもらった。これが最大の誤り、Nortonにコンタクトし、そこからダウンロードしようとしたのだが、その際、インターネット→インターネット・エクスプローラー→検索(ダウンロード)の無防備のままの手順が、スパイウェアの侵入を用意してしまった(どうも、インターネット・エクスプローラーの門である「言語」辺りから侵入するらしい)。これからが大変、十数のスパイウェアが侵入し、「あなたのパソコンは不正レジストリーでシステムが破壊されようとしている。当方のソフトを購入して解決しなさい」と警告を発し、ご丁寧にクレジットの支払いを指示してくる。絵に書いたようなマッチポンプ。ニョキニョキ、次々と立ち現れ、その表示を消しても、また執拗に現れる。コントロールパネルで、そのレジストリーをいくつか消去したが、それでも、消えないスパイウェアがあり、それは頑強に抵抗する。ただ、マッチポンプの存在ゆえに、パソコンを破壊することもありうるが、破壊してしまうと、お金が取れなくなるので、金を取れるまで、執拗に脅迫してくるだけという判断はあった(注:金を取ると、そのままドロンらしい)。それでも、完全な妨害行為であることに変わりない。そこで、Nortonのパッケージを購入・インストールし、「駆除」をはかったのだが、一度潜入されると、除去できないことがほぼ分かった。

仕方がなく、購入先のY 電機にいき、事情を説明したら、「立ち上げの際、ダウンロードでインストールすると、そのときウィルス並びにスパイウェアが潜入し、それが邪魔してそのために立ち上げができないお客さんが相当数いて、ウチに持ってくる。そのお客さんに対しては、3万8千円の費用(注:費用は正確でない)をいただきその自宅に赴いて、全部サラにし、再度立ち上げるお手伝いをしている。お客さんのほうで、不正レジストリーを消去できなければ、その方法しかない」と言われた。事情はよく分かったが、その際思ったのは、途方もない「リスク社会」に自分も入っていること、自分の身は自分で守らなければいけないという実感であった。つまりリスク=保険社会、中国製パソコンの安さに釣られて購入したのだが、結局、全ては消費者のリスク負担になる。それにしても、インターネット環境の匿名性・浸透性→ 不特定性(相手が識別不可能)ゆえに「犯罪性」の度合(意識)が希釈されて、何でもできてしまう薄気味悪さを実感した。そのリスクの取り方が問題、いきなりインターネットの環境に投げ出されて、一般の消費者が対応しようとしても所詮無理な話なところはある。その際のY電機の担当者の言い分がやや振るっている:「だから、今は、インターネット環境は素人では対処できなくなっている。だから企業は皆専門家を配置している」。それが分かっているのなら(しかも自分のお客にそういう被害者がいることが分かっているのなら)、「そんなパソコン売るなよ」と、こちらも八つ当たり気味に言いたくなってきた。ここが責任の帰属の大きな問題、ただ売ったY電機に全面的な責任を帰するわけにもいかないので、その線引きはたえず曖昧で、結局それは消費者のリスク負担という名の費用負担になる。

立ち上げなければいけないが、低価格パソコンを購入した意地にかけても、白旗を揚げて、3万8千円の費用を払いY電機のお世話にはなりたくなかつたので、とにかくNorton(シマンテック)の「ノートンウィルス診断・駆除サービス」にコンタクトを取った。その結果、彼らの遠隔操作(僕のパソコン(画面)に直接介入、費用7千円強)により、駆除になんとか成功した(検出されたスパイウェアは6個、新型?)。この中で一番悪質なのは、おそらくMc Pc back up、マッチポンプそのものなのだが、その遠隔操作中も「敵の駆除操作」が分かるのか、「バックアップしないとシステムが破壊される」と、火の玉炎上マークで絶えず脅迫し、カードによる支払いを要求してくる。それがすさまじい。現在は駆除のおかげで、なんとかインターネット・エクスプローラーは無事作動している(セキュリティソフトが侵入を防止?)。今後どうなるか分からないが…とにかく、油断はできない。

そこで、参考までに僕の拙い経験の「教訓」をこの界隈の素人の皆さんのためにお伝えしておきます。
とにかくスパイウェアの侵入を事前に防止することが全て(一度侵入されると、頑強に居座るのでアンインストールもきかないし、通常のセキュリティソフトでも検知・除去できない)。
1. マイクロソフトのメールアカウントの取得
2. そのアカウントに基いて、セキュリティソフトのパッケージをインストール(注:試用期限付のソフトをそのまま使用するつもりであれば、それでもよい)
3. それでセキュリティ環境をとにかく確保
エクスプローラー→検索(ダウンロード)が極めて危険なので、セキュリテイを確保して、エクスプローラーを開くことが肝要です。もし、スパイウェアに侵入されたときは、上記の「ウィルス診断・駆除サービス」とコンタクトを取り、除去してもらうのが、費用的にも賢明な方法であると捉えています。

このwindows8は、僕はスマホをやっていないが、どうもfacebook、ツィッターに対応すべく、アプリを基軸にプログラムソフトが作動する仕掛けになっているみたい、今しばらく慣れるのに時間がかかる印象をもっています(なにせ、電車の中でひたすら「シャカシャカ」やっている「スマホ・アプリ人間」ではないので)。それと、プログラムが多様化しすぎて、「統合」の機能が必要なのだが、その「統合」ゆえに、逆に分かりにくくなっている面があり、それも慣れが必要だと受け止めています。

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松本卓也「人はみな妄想する」について

ラカンとガタリの着想の親近性

『現代思想』6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也氏の「人はみな妄想する-ガタリと後期ラカンについてのエチュード」は、僕にとっては待望していた、画期的な論文、僕自身、ラカンとガタリの着想の親近性(ガタリは滅茶苦茶ラカンの影響を受けており、発想、概念構成自体がラカンの嫡子という印象すら受けていた)をもう少し読み取るべきだと思っていたので、かなりスッキリしたところがあり、まさに体内に詰まっていた「残糞」を一気に吐き出してくれた感じであります。

このように論じる論者は少なくとも日本の「ドゥルーズ・ガタリ派(研究者)」にはほとんどいなかった。今さらいっても仕方がないけれども、ラカンとの「精神療法」の捉えかたの親近性(及び差異)を検討することなくガタリを語っても、ガタリの「実践者」、「運動家」としての実像には迫れない。また、この論文でドゥルーズ・ガタリの『アンチ・オイディプス』のあまりに「品の悪い」精神分析批判(それに基く資本制批判)に基いた、これまでの歪んだ理解はだいぶ矯正されるでしょう。

松本論文は、ラカンの発言の含意-とりわけ70年代ラカン-を的確におさえることで、ガタリの問題意識の優れたところを見事に引き出してくれています。次の指摘などはその白眉でしょう。「60年代のラカン理論では、対象aは自由の機能を担う「分離」と関わっていたが、そこで得られる自由は、「自由か死か」のどちらかを選ばされた際に、自分が自由であることを示すために死を選ぶような強制的な選択(疎外)という不自由性を前提とした括弧つきの自由であった。いわば、対象aは因果性の安全装置の役割を担っていたのである。一方、ガタリの機械-対象aは、因果性のなかの爆弾であり、そのような自由とはまったく異なる自由をもたらす。機械の本質は「因果性の切断としての一つのシニフィアンが離脱すること」であると述べている。つまりガタリは、因果性を切断する機能を機械-対象aの中に読み込んでいるのだ」(P116、著者の傍点省略)、並びに「ガタリは、意味作用を生産するようなプラス方向の解釈とは反対に、数学において用いられるような無意味性を特徴とする記号を重視する(記:まさに『分裂分析的地図作成法』はその典型である)。つまり、患者の語りの意味作用を支えていたシニフィアンを削り取り、「記号を墓から「掘り起こす」ことを目指すのである。すなわち、スキゾ分析は精神分析の解釈とは反対に、意味作用をマイナスの方向に向かわせる。後に、ガタリはこの方向性を非シニフィアン的記号論と名づけ、現実界を取り扱うことが可能な理論として位置づけている」(P120、著者の傍点省略)という論述は全てを言い当てている。対象a をめぐる両者の、理解の同質性(差異)の指摘により、ガタリが特異性の臨床-集団的アジャンスマンを強調する意味合いがそこからよく見えてくる。また、松本論文で、オイディプス的な主体の問題を過度に強調する旧来のラカン認識には抵抗感を覚えていた僕にはその点でもスッキリしたところがあり、両者のつながるところがよくわかった感じです。

「ひとはみな精神病である」(ラカン)という本論文の紹介は、「分析家とは一体何ぞや」という、去る5月4日-5日の第三回ラカン読書会での古川さんの突っ込みに対する、特別ゲスト・向井雅明さんの応答と見事に符号しています。この論文が、旧来の「ラカン派」と「ドゥルーズ・ガタリ派」の不毛な垣根を取っ払ってくれた感じで、後者の旧来の論者に、もう少しきちんとした勉強の刺激剤になることを願っています。

なお、ラカンとガタリの着想の親近性という点では、同上の対談「分裂分析哲学-ガタリは何を解放したのか」の中の千葉雅也さんの、江川隆男さんに対する問いかけ、応答に、松本論文と通底するシンパシーを覚えたことを記しておきます。

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武田 好『マキャベリ-君主論』(NHK出版 2012年8月)

武田 好様
 
ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(8月10日-23日開催)から8月26日帰ってきたら、貴著『マキャベリ-君主論』が届いていました。早速読んで今日に至りました。ありがとうございます。

感想を述べる前に、ペーザロのことを一言。
オペラは猛烈によかった。言うことなし。オペラの感想の一端は、イタリア近現代史研究会の辻昌宏さんのブログ「イタリアに好奇心」で垣間見ることができます。ご覧ください。

一回しか会っていないのに、それも数分間の立ち話なのに、昔からの友人という錯覚を覚えました。それは、まずは、NHKのラジオ「イタリア語講座」をテープにとって聞いていたから、その独特の「甘苦しい」口調が文体に滲み出ていて、凄く親しい存在に感じたこと、マキアヴェッリ像が僕のそれとほとんど一致していて、限りない親近感を覚えたこと、武田さんが故藤沢道郎氏の弟子であることがわかって僕とかなり近い距離にあること、によります。

マキアヴェッリ像のことは後で触れるとして、故藤沢道郎氏とはお目にかかったことはないけれども、合同出版刊行の『グラムシ選集』、デ・フェリーチェの翻訳、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』(中央公論社)でかなりの「学恩」を彼には感じています。それと、武田さんも参加された『外交使節報告relazioni』の翻訳作業です。今、イタリア近現代史研究の仲間とともに「手垢にまみれたグラムシ像」の再構成を目指して、著作にまとめることを試みてみます。僕のテーマは「1922年-24年におけるグラムシのファシズム認識の問題点」です。それは、上述のデ・フェリーチェの論述から示唆を受けたのですが、当時のグラムシは、その認識がやや揺れ動く(ジグザクする)ところがあって、ファシズムの登場の評価に対して結果的に甘いところがありました(やや「甘く」見ていた…)。それは、その後左派陣営がファシストに付け込まれ、蹂躙されることに繫がったと受け止めています。もちろん、グラムシの責任などとは到底いえないが、ファシストとのやり取り・抗争の動態の中で、それを多少とも明らかにすることが目的です。その点では、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』が何かと役立つでしょう。

さて、マキアヴェッリ像ですが、10年近くにわたって、『君主論』に始まり、『ディスコルシ』の原書読書会をやっていて(文京区・男女平等センター、第3金曜日18:30)、我々はかなりの程度マキアヴェッリ主義者machiavellistaで、彼のことを「マキアヴェッリ先生」と呼んでいるくらいなので、武田さんがマキアヴェッリに惚れ込むモチーフはほとんど理解できます。今、『ディスコルシ』第3部第8章まで読了したので、原文のマキアヴェッリ節、文体の魅力はかなりの程度体得していると受け止めています。その多少の知識から本著の感想を述べることにします。

この本を読む限りでも、武田さんがsincera(注:「裏表のない」、「真摯な」を示すイタリア語で、この場合女性形)であることに限りない共感を覚えました(僕の知り合いのイタリア政治史研究者のメールアドレスがsinceroであり、それが彼の生(ナマ)がたくて、率直な気質を物語っているように…)。マキアヴェッリの表現、彼の職業上の役割からマキアヴェッリ像の再構成を試みていることに、bravissima !と叫びたい気持ちです。「権力(オトコ)の美学」の観点からマキアヴェッリのイメージをもっぱら喚起する塩野七生さん(70年代には彼女の役割は大きかったと評価しますが…)や、「権謀術数」の書として読み込む俗流解釈と異なり、真摯にマキアヴェッリの足跡を位置づけ、マキアヴェッリの含意を抽出する姿勢にまず共鳴します。
『君主論』が「再就職活動のための書」であるという見立てはその通りでしょう。技術的なことから言うと、図解はすでに読んだ(学んだ)者からすると、逆に、皆素晴らしい。P69のマキアヴェッリ先生の訓戒の図解の箇所はその通りで、『ディスコルシ』を読んでいるとき、常にそのことを念頭においています。我々が学んだ、マキアヴェッリ思想(哲学)の諸点は、「狐とライオン」の逸話を初めとして、実に目配りよく網羅されている。第25章のvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)の解説はその通りで、ここを強調するのが最大の主題ですが、僕は『君主論』ではこの箇所がもっとも気に入っています。それと、原文を引用することを意識的に避けているけれども、論法(記述)の特徴として、「~か、あるいは[oppure]、~か」を指摘しているのは、嬉しくなりました。「これは読者に選択の余地を与えるものです」(P106)。その通りです。それと同様に、マキアヴェッリが「Anche se …, nondimeno」(注:「…ではあるけれども、だがしかし」の意味)を多用するのは、一旦、読者の、あるいは従来の主張を認めながら(それを活して)、自論を展開していく、彼一流の議論のテクニックであり、その意味で「ディスコルシdiscorsi」なのでしょう。

以上、述べたように武田さんのマキアヴェッリ論にはほとんど賛意を表するのですが、ただ、「「政治思想の書」ではなく「政治実践の書」である」という主張には、やや留保したい気持ちです。確かに『外交使節報告relazioni』の読解から「政治実践の書」をあえて強調したい気持ちはよく分かります。しかし、その一方で、『君主論』は政治哲学上の含意に溢れている。「慎重であるより果敢であれ」とは、まさに『君主論』が「決断」の政治哲学の書であり、それがvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)及びoccasione(好機)と一体のものであることに言及する必要があると感じています。それは、ある意味カール・シュミットの決断(主義)の考え方にも繫がるものがあります。ご指摘のような「時代の流れと自分のやり方を一致させること」は、実践家(軍事アドバイザーでもある)・マキアヴェッリの真骨頂です。その一方で、occasione(注:好機)あるいはopportunità(注:時宜に適すること)、necessità(注:必然性-運命)の考え方とも繫がっている、と思うのです。その点、僕もわからないところがあるのですが、もう少しその点に言及してくれればよかった、というのが率直な印象です。

いずれにしても、本著は極めて平易なスタイルで書かれているけれども、その指摘は急所を捉えており、僕のマキアヴェッリ仲間にも是非推奨したいと思います。ありがとうございます。

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コミュニズムの観念The Idea of Communism

フーコー『言葉と物』読書会の最終章(第10章)の2日間の合宿(本年3月18日-19日実施)では、時間が少し余るという事情もあり、この界隈で少し話題になっている『コミュニズムの観念The Idea of Communism』(Costas Douzinas & Slavoj Žižek編 Verso 2010年)を取り上げました。同著は、2009年、名だたる「左翼」の曲者たち15名(注1)が、「コミュニズムがここまで「馬鹿」にされてたまるか」という「左翼」の意地を共通項にロンドンに集結し、改めて「コミュニズムの何たるか」に関して報告、議論した会議の収録集です。報告・議論は、基本的にはアラン・バディウAlain Badiouの「コミュニズムの観念The Idea of Communism」という報告が中心軸に展開されており、この著書のタイトルにもなっています。
(注1)その曲者たちとはAlain Badiou, Judith Balso, Bruno Bosteels, Susan Buck-Morss, Costas Douzinas, Terry Eagleton, Peter Hallward, Michael Hardt, Jean-Luc Nancy, Antonio Negri, Jacques Rancière, Mark Russo, Alberto Toscano, Gianni Vattimo、Slavoj Žižek。

合宿の読書会では、英語原文ゆえに(英語を母国語としない論者が多いために、とてつもなく難解な英語表現にぶつかる)、しかも曲者たちの論稿だけに論点を参加者が私も含めて十分読解できたかどうかは甚だ疑わしく、議論そのものはやや低調でしたが、このままやり過ごすのも癪なので、問題の所在を見極めるべく、自分なりに論点を整理してこの界隈の議論に資すれば、と思います。

ここでの論点の整理は、バディウ、ボスティールスBosteels、ジジェクŽižekの掲載論文を手掛かりにおこなう。この15人の中で特筆すべき論者は、バディウの弟子にして、彼の主要著書の英語訳を手がけ、「ロマンス語」の研究者で、コーネル大学教授のボスティールス(ベルギー出身、1969年生まれ)である。実際、彼の論文「左翼の仮説:テロの時代におけるコミュニズムThe Leftist Hypothesis:Communism in the Age of Terror」はこの中ではかなりの長論文であり、他の大御所の論者に比べると若さゆえに粗削りだが、良くも悪くもコミュニズムの具体的な地平に切り込む意欲的な論点に富む。そこがなかなか魅力的で、それゆえにというべきが、突っ込みどころも多く、この会議の問題の所在を確認するには格好の素材であった。彼の議論(論点)を通じて、私は、彼が影響を受けているバディウの論理との比較・対照からコミュニズムの論じ方のある種の問題性に気付かざるをえなかった。それを指摘するのが、私の主要なテーマである。
そこで、まず各論者にとって核心的位置を占めるバディウの「コミュニズムの観念The Idea of Communism」の論理構造を図式化することで、議論の手がかりをえたいと思う。バディウの「コミュニズムの観念」は、その図式を参照する限りは、哲学的に優れた含意があるか別として、あくまでも哲学上の真理獲得の行為そのものを指し、何も「コミュニズム」である必要はない。それほどまでにコミュニズムの概念を普遍化しようとしたのかもしれない。
図式の詳細は紙幅の関係で省くが、ここでは、事実-出来事-真理のトリアーデにおける真理獲得が哲学的な目的であり、その核心的行為は「主体的な(イマジナリーな)オペレーション」にある。そこで「身体を通しての真理の体現a body of truth」、「(個人の)主体化subjectivation」がなされる。その真理は、国家が外観上占有してきた歴史へと送り返され、新たに「もう一つの歴史的形象another historical figure」、「集合的な再記憶collectively re-membered」に書き換えられる。

図


バディウは、従来の「コミュニズム」の構成要件であった「国家」、いかなる国家機構の存在をも「コミュニズムの観念」から除外する。それが、ここで強調されている「国家を消滅させることwithering away of the State」、「国家から控除されるsubtracted from the State」という視点である。
この認識の特徴は、ボスティールスが述べているように、彼の思想的変遷と大きく関わっている。

ボスティールスによれば、「1976年の彼の小冊子『イデオロギーについてOf Ideology』では、バディウは、最初、彼が繰り返えし主張している一連のイデオロギー的な反-所有、反-権威、反-位階の諸原則としてコミュニスト不変式communist invariantsの観念を導入した。とはいえ、この最初のコミュニスト仮説communist hypothesis提出の目的のある部分は、また、イデオロギーレベルでのコミュニスト不変式と、新しいタイプの党によって組織されるさまざまな階級アクターとの歴史的弁証法のための申し立てを含んでいた。この新しいタイプの党は、さまざまな度合で変化する成功を伴い、さまざまな政治のレベルでこれらの不変式を実現している。しかしながら、『主体の理論Theory of the Subject』、『サルコジの意味The Meaning of Sarkozy』という決定的なセミナーによる著作では、コミュニスト仮説は次第に大衆、階級、党の弁証法[の性格]が薄れていき、その結果、今問題になっている観念Ideaをいわば強制国家に抗い、あるいは距離を置く、自律的な大衆行為として純粋に一般的な不変式の剥き出しの美しさのもとで再三出現させることになる。バディウの表現では「平等性の純粋な観念Ideaとして、コミュニスト仮説(注2)は、疑いなく、国家の存在の初めから実際の国家practical Stateの状態で存在してきた。大衆行為が平等的な正義の名において国家の強制と対立するや否や、我々はコミュニスト仮説の端緒あるいは断片を現出させている」(バディウ)。68年5月の結果及びその好ましくない余波はもっぱら国家からのコミュニズムの分離を強調することになったのであろう。[そこでバディウはこう述べる]「68年5月及びその後の5年間においてさらに、正真正銘のコミュニスト仮説、常に国家から距離を保つ仮説のための新しいシーケンスを開始した」[バディウ](注3)。だとすると、レーニンばかりでなく、皮肉なことに30年前にバディウ自身によっても診断されたような左翼コミュニズムの図式に立ち戻るのか?」(P53)。
(注2)バディウの「コミュニスト仮説」なる概念に関しては、『New Left Review』(No49 2008年)掲載の「コミュニスト仮説communist hypothesis」という論文で詳しく知ることができる。
(注3)「ロンドン会議でのバディウの発言が掲載されている版では、疑いもなく最終日に剥き出しで表面化したポレミークな議論のいくつかの対応する形で彼の補足がなされている[以下のバディウの議論の内容は省略]」(P53 注45)。

長々とボスティールスの記述を引用したが、以上で見たようにバディウのコミュニズムの言説は、明らかに68年を境に大きく変化する。それでも76年当時は、彼は「新しいタイプの党によって組織されるさまざまな階級アクター」の弁証的役割をまだ強調している。しかしごく最近の著作ではそうした階級アクターの意味は薄らぎ、それと同時に国家からの距離の確保が強調される。バディウのロンドンの会議での「コミュニズムの観念」は最新の言説である。
その際、ボスティールスは、バディウの「コミュニスト仮説」に対して、30年前の「左翼コミュニズムの図式に立ち戻る」危惧を抱きながらもその役割(その精神soul)を肯定する。それは、「左翼思想が、テロと危機の、テロとしての危機のこの時代において、常に魅力的な、倫理的-道徳的な優位を提供している。実際、左翼仮説のアピールは、敗北の内面化の成果に大いになりうる。敗北の内面化により、また後悔や背教の諸背景を飛び越えることを追求することになる」(P53)という理由による。ただし、ボスティールスに言わせると、その一方で、左翼思想そのものが「コミュニスト仮説」の精神soul、つまり「国家の強制と対立する」動機を欠くとき、それは「コミュニズムの美しい精神」、「中身のない殻empty shell」、「身体のお粗末な申し立てpoor excuse of a body」に過ぎなくなる危険性を孕んでいる。彼はそこで、ボリビアの、投獄された経験もある元ゲリラ活動家にして、現在は副大統領の要職にあるガルシア・リネラGarcía Lineraのコミュニズム言説を取り上げ、その問題性を指摘することで、「コミュニズムの何たるか?」を見極めようとする。このボスティールスの指摘の妥当性を検討するのが、私の主要なテーマである。この点は後述する。

ジジェクは旧「コミュニスト国家」に属していたこともあり、コミュニスト観念communist Idea がこだわるものをよく理解している。「ポストモダン左翼の密呪mantraは中央集権化した専制権力の「ジャコバン・レーニン」パラダイムを結局無視するだろう」が、「このパラダイムの服用は今日左翼がまさしく必要としているもの」であり、その意味で「バディウが「永遠的eternal」コミュニズムの観念あるいはコミュニスト不変式と呼ぶものに今までになくこだわるべきだ」という認識は妥当性をもつ。これらの概念自体は、「いかなる新ポストモダン派あるいはポスト産業派によっても「取って代られる」ものではない。しかしながら、今日まで、現在の歴史的時点まで、この永遠的観念は、持続し、あらゆる敗北の後で何回も立ち戻る、まさしく純理的観念として機能した。[それゆえに]ここで見失われるものとは-純理的な観念を超然的・神学的な用語で位置づけるために-この永遠的観念にとって優先される、ある特異的な歴史的時点とのつながりである」(P217)。この「ある特異的な歴史的時点とのつながり」の認識こそ、バディウのコミュニズムの観念あるいはコミュニスト不変式にある共鳴を覚えつつも、そこに欠落している視点だ、というのがジジェクの見方である。
それは現代資本主義の布置状況の認識に関わる。つまり「現代資本主義がこだわりの抵抗のこの論理のための問題を[自ら]提起している」(P218)からである。ここで重要な視点は「資本主義権力の動態と抵抗の動態とのある種の収斂」(同)[注:引用されているBrian Massumiの発言]であり、そこに現代資本主義の内在的側面を見て取っている。したがって、「平等・解放の「脱領土化」はもちろんポストモダン・資本主義的な見解と同じでないにせよ、解放闘争の国家の意味合いを根本的に変化させる。敵はもはや国家に関する既定の位階的秩序ではない。だとすると、当の[資本主義の]原則が絶えず自己革命しつつある秩序をどのように我々は革命化すべきなのか?」という問題が我々に課せられる。それは、「市場-国家の枠組みの境目を読みほどくという難しい課題であるが、それに対する素早い処方formulaは手付かずである」(P219)。そうした現状にあって、ジジェクの見立ては次のようなものである:「もし、現代の動態的資本主義が、まさに「ボーダーレスの世界」である限りで、あらゆる既成秩序の絶えざる分裂状態を引きこすならば、反乱と[秩序への]再登録の悪循環を打ち破る、言い換えれば事態が正常に復帰した後でもその結果生じるパターンにもはや従わず、グローバルな資本主義無秩序に対する新しい秩序の仕事を引き受ける革命のための空間を切り開くとはどういうことか? 反乱から、我々は恥もなく新しい秩序を実施すべきであろう(これは、現在継続中の金融のメルトダウンの教訓の一つではないのか)。これが、コミュニストの観念を我々が再び実現したいのなら、資本主義にフォーカスすることが決定的である理由である。つまり、「ボーダーレス世界の」動態的資本主義がコミュニストの闘争の当の座標を根本的に変化させる-敵は兆候として捩れを生じているために弱体化しているはずの国家にあるのではなく、絶えず自己・革命化しつつある[資本主義の]流れにある」(同)。以上見たように、ジジェクは、実に現実的かつしたたかに、「純理的な観念」としてではなく、「現代資本主義の内在的側面」の認識に立って「コミュニストの観念」を把握している。現実の地平でコミュニズムを語るならこんなものであろう、というのが私の印象であり、それは妥当な認識であると思う。
だから、「あなたが国家に取って代えたいとする事柄に関してアイディアをもてないのなら国家を控除する/消滅させるsubtract/withdraw権利をもたない。距離を保つことで国家を消滅させるのではなく、本当の仕事は、国家自体が非-国家をとる形になるようにすべきだ」(同)ということになる。そもそも国家自体が、現代資本主義に内在的な性格を有する(しかし、それはもちろん現代資本主義=国家ではない)がゆえに、国家だけを単独に切り離し、消滅させることなどはできない。ここが、ジジェクの主張の最大ポイントである。ただ、この「非-国家をとる形」の具体的な姿はあまりよくは分からないが、それでも、バディウのように、国家を「純理的な観念」上の敵として捉え、それを結果として認識の枠組みから外してしまうために、コミュニズムが今日問題にすべき、国家を射程に収めたこの世界-社会の実態を捉える視点を喪失してしまうあり方に対する批判として一応評価したいと思う。まさにその意味で、「コミュニズムは、市場-国家の枠組みの境目を読みほどくという難しい課題という問題の名前そのものである」(P219)。ジジェクの動態的資本主義の認識パラダイムは、ネグリ・ハートの認知的資本主義のそれにほぼ準拠していると言ってよい。ここではその紹介は割愛する。

そこでまた、ジジェクの動態的資本主義の認識パラダイムを踏まえて、ボスティールスのガルシア・リネラのコミュニズム言説の問題性の指摘に立ち返ろう。ボスティールスは、バディウのコミュニズム仮説の検討で、「コミュニズム仮説を我々は絶えず積極的に歴史化することが第一の仕事」であり、このコミュニズム仮説は、「公理的な不変式」によって定義されるものの、「その一方で、歴史的に、さまざまな度合で変化する成功あるいは失敗により例のコミュニスト不変式を遂行する具体的な政治的アクターによって定義されている」(P59)ことを重視する。「この捉え方のキー概念は、[…]むしろ全く内在的な規定性におけるコミュニスト仮説に関するさまざまなシーケンスの捉え方である。それは、コミュニスト仮説が、失敗の評価の見地から生じる全てを伴い、失敗と呼ばれる事象に関する、及びあるシーケンスから別のシーケンスへと引き継がれる未解決の問題の遺産(継続)に関する当の性格の評価を含んでいる」(同)。「[…]コミュニズムは、事態の現状を廃止する現実の運動として原働化され、組織化さなければならない。[…]永遠性の歴史化のあとで、これは我々の現状におけるコミュニスト仮説の刷新のための第二の仕事になるであろう」(同)。ボスティールスによれば、それはバディウが『Of an Obscure Disaster』で述べている通りである。つまり、「思考の要請により自らが国家から控除され、この控除を存在に書き込む地点が政治の現実なるものthe real of a politicsを構成する。政治組織は、「勝ち取った一歩一歩を持ち続ける」こと、つまり集合的に記憶されることで、政治の現実なるものの基礎をつくる不服従の公然たる仕草を見出すことができるようになった、あの思考に対して身体を援助すること以外にゴールはない」(バディウ)。ここで、「政治の現実なるものの基礎」を拠りどころに、ボスティールスなりにバディウの議論を発展させてコミュニズムの現実の地平に切り込む視点を何とか見出そうとしている。「しかし、もちろん、コミュニズムが組織化され、体現される方法は、まさしく、全ての大きな疑問や不同意をこの会議の参加者も含めて見出すことのできる場でもある」(P60)。

ボスティールスに言わせると、ガルシア・リネラにもかってマルクスに依拠して、「党の、つかの間であるが、偉大な歴史的意味」を強調した限りで、バディウが『Metapolitics』で述べている党の意味と近接するものがあった。バディウの考えでは「党は、[歴史的必然性の体現である代わりに]予測できない環境の只中で出来事に忠実な柔軟な組織を名指すことにほかならない」(P61)。そしてリネラは、国家に関しても、最終的にマルクスとエンゲルスが完全に表現した考え方を共有している。彼は国家形態に内在する腐敗の潜在的可能性に抗い議論したのだが、しかし、数年後、まもなくボリビアの副大統領になろうとする彼はまた、「「素朴なアナーキズムが夢想するある種の非・国家的地位」と呼ぶものに対して警告する」(P62)。その後に続けてリネラはこう述べる。「社会集団の全体性の強さに応じてこれらの財を位階的に割り当て、国家が行使する強制と、国家が社会のメンバー全体から得る合法性の手段を通してこれらの権力へのアクセスを神聖化することで、国家がいかに社会全体の資源を「活用しながら生きている」かが、このように「忘れられ」あるいは隠されているという現実を省みなかったら、国家の外側の社会のナイーブさは無知な空論同然であろう。国家は、このように単なる「有能な人」あるいは「権力渇望の人」の野望ではなく、全体的な社会関係である。国家は確実に我々の全てを貫き、国家の公的意味が生じる場所である」(リネラの著書のボスティールスによる引用、P62)。国家が我々に強いている[今後も強いる]管理という冷厳なる事実から目を逸らして、「非・国家的地位」を観念上語っても意味がない、また逆にその国家が、我々の生を貫くことで、全体的な社会関係を形成し、そこに公的意味が生じている側面を無視するわけにはいかない、ともかくも、我々は内在的にその国家の中で生かされている(生きている)ことを踏まえれば、「市場-国家の枠組み」の外に逃れることなどはできない、というのがリネラの主張であろう。
ボリビアの国家機構の要職に就くようになると、「ガルシア・リネラは、国家が新しい構成的権力に従うようになるならば、それは内部からコミュニスト仮説を「潜勢力化し」あるいは「エンパワーする」体現物の一つになるかもしれないという可能性を示唆するまで至る。あまりにほとんど古典的なヘーゲル的あるいはウェーバー的な考え方を支持して、トニ・ネグリに対する、彼のより原理一点張りのアウトノミア的忠誠を次第に投げ捨てるようになった現職副大統領からは誰も何物も期待することはないだろうということは確かである。それでも、ガルシア・リネラの言葉は、相変わらず、雄弁で、挑発的である」(P63)。
ご都合主義的で、自己弁護的な弁明という面もないわけではないが、「コミュニズムの何たるか」の論点を探る上で重要だと思われるので、リネラの記述を少し長々と紹介する。
「時代の全般的地平は、コミュ二ストである。そしてこのコミュニズムは、社会が自己-組織化する能力、コミュニタリアン的で、自己-運営する富の発生と分配のプロセスを基礎として、構築されるべきであろう。しかし、この際、これは、平等の獲得、富の再分配、権利の拡大に集中するような直接的な地平ではない。平等は、五世紀にわたる構造的不平等を打ち破るゆえに基本的なものである。それは、社会的な諸勢力が我々の行動を可能にする限りで、時代の目的である。というのは、我々が平等とはそのようなやり方であるべきだと規定するからではなく、我々が見る当のものあるからである。むしろ、我々は、コミュニスト地平に設定される、我々が期待し、願う眼差しをもちながら運動に入る。[…]私が政府に加わるとき、私がすることは、現時点に関するこのような読み取りに応じて国家のレベルで有効性を確認し、機能を開始させることである。だとすると、コミュニズムとは何か?このコミュニスト地平に応じて国家によって何が果たされるのか? それは、社会の自律的な組織的能力の開展をできる限りサポートすることであるが、これは、左翼国家、革命国家ができるものに関してその可能性が及ぶ限りにおいてである。つまり、労働者のベースと労働者の世界の自律性を拡大し、よりコミュニタリアン的なネットワーク、節合、プロジェクトがあるところではどこでも、コミュニタリアン的な経済の諸形態を潜勢力化することである」(リネラの著書のボスティールスによる引用、P63)。
ここで、リネラのコミュニズムに関する主張のポイントは、「このコミュニズムは、社会が自己-組織化する能力、コミュニタリアン的で、自己-運営する富の発生と分配のプロセスを基礎として、構築されるべき」であり、また「社会の自律的な組織的能力の開展をできる限りサポートする」ことに置かれている。
そのリネラの言明に対して、この後でボスティールスは次のように応答・批判する:「コミュニズムと国家の関係の解釈におけるほとんど完全な方向転換-それはどうあろうと、対照的に主流メディアの側の、最大限の共感や同情に常に出会う改悛者の背教とまでは言わないが、党の問題に関する他のコミュニスト思想家の仕事に我々が見出すことができる変節(回れ右)同然のスキャンダラスなものであろう-に応答すると、私は二つの極端で、不埒でもある答えを我々は避ける必要のあることを結論めいたものとして議論しておきたい。つまり、一方での、西ヨーロッパで、そしてソヴィエトコミュニズムとユーロコミュニズム双方の総崩れで、浮かび上がった狭い歴史化を代表する、[バディウに象徴される]コミュニズム仮説と国家のそのような分節化articulation全てに関する大規模な非難、他方での、パリあるいはボローニャにとって悪いこともカトマンズあるいはコチャバンバCochabamba[ボリビアの都市の名]にとっては善い、あるいは逆も同じというような相対主義的な結論のことである。我々は、傲慢な普遍主義も、究極的に卑しむべきパトロン文化主義にも我慢がならない。その代わりに必要なことは、コミュニズム、国家の歴史と理論、政治組織の諸様式の理論との結びつきの、叙事詩あるいは背教ではない、包括的で、集合的な再思考である-政治組織の諸様式の理論には、党だけでなく、党と国家の理論同様、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカの文脈では、党と国家の古き問題と同じではないにせよ、それと同等に少なくとも重要であることは確かな、蜂起的大衆行動や武装闘争の遺産が含まれる」(P64)。
リネラの言明は「コミュニズム仮説と国家のそのような分節化」への批判、[南北格差からする]「相対主義的な結論」という側面を有していると考えられるが、ボスティールスの発言の引用を見て分かるように、彼の批判は激烈な割にはリネラの言説の論拠の有効な批判になっておらず、そもそも彼の立場は不明確である。

リネラの言明の内実はともかくとして、少なくとも言明自体は間違ってはおらず、彼はコミュニズムの規定(観念)よりも、現に我々が見る資本主義における実態を重視している。その点では、いわゆる「先進資本主義国」では、常態化している「非正規労働」の問題にどう対応するかは、コミュニスト地平における最優先課題であろう。このパースペクテイブのないところでは、コミュニズムの議論はほとんど空論であるというのが私の考え方である。
現代資本主義の内在的で(国家もそのうちに入る)、ボーダーレスな性格、ボリビアが、植民地主義と大土地所有制度による数世紀にわたる搾取の対象であったという厳然たる事実、を踏まえれば、眼前に現れる「構造的不平等の打破」がとにもかくにも彼には重要なテーマになっており、彼はその実験をおこなっているという見方をしてもよい。だとすれば、ボスティールスのなすべき作業は、ゲリラ活動家であったリネラが、何がしかの有能さを請われて要職に就いたと考えることが自然であれば、なぜ彼が上記のような考え方に至ったのか、その軌跡(理由)を突き止め、同時に、ボスティールス自身の置かれている「存在被拘束条件」とボリビアの経済・社会条件を踏まえて、どこまでリネラがその実験を体現しているのかを検証(評価)することにあるように思える。その作業の中で「政治的にリアルなもの」の内実を突き止めることが「コミュニズム仮説」の豊富化にとって必要であると思う。

そこで、ボスティールスが最終的に言うことは「まさにこの意味において(注4)、現存経済のためのイデオロギー的議論の露頭bassetとして今日まで機能しており、また左翼に対するレーニンのパンフレットにおける未成熟と小児性に関する彼の説得に影を投げかけてさえいる人間性human natureの発動(呼び出し)が、コミュニズム-来るべき理想ではなく、事物の現行状態の破壊としてのコミュニズム-の実践の側として、イデオロギーレベルで取り組まれるべき最初の事柄である」(P65)。
(注4)「この意味において」とは、マルクス(『ユダヤ人問題について』に関する)とランシェールが、現存資本主義において「人間性human nature」の言説が果たす政治的役割を問題にしている箇所を受けている。
しかし、「事物の現行状態の破壊としてのコミュニズム」の役割を強調するこの挑発はこのロンドンの会議ではそんなに受け入れそうもないことを彼は予測している。「これに関して予見してもっぱら悩むことは、イデオロギー闘争が、我々の大半がそうである教師、アカデミック、知識人にとっては嬉しがらせ、気分を和らげるものである以上、あまりに低い公分母を示し、その結果、我々の現在に関する多くの政治的経験をストックし、そこから学ぶことができるようなコミュニズムの構築-数多くの教訓と対話することで今なおある左翼を超える-に実際には寄与しない一般的なコミュニズムの議論を繰り返し数多く呼び出すことだけになるかもしれないことである」(P66)。
このボティールスの指摘は、この会議の議論が何かパッションとしてのコミュニズムの核心に迫れていないという苛立ちを物語っているように思える。また「集合的な表明と議論のための当初の計画にもかかわらず、私の印象は、『コミュニズムの観念』に関してロンドンの会議の背後に横たわっている不一致の多くが、問題解決として充分には決して取り組まれておらず、あるいはそれがオープンな形ですら表明されていない、ということであったし、今でもそうである。コミュニズムが共有の地平を供給するとすれば、それは痛ましいほど不完全なまま残っているがゆえに、なすべき哲学的な自己-明確化の仕事がある。この点に関する次のレーニンのアドバイスは、歓迎される確認事項であったに違いない。つまり「全ての出来事において、裂け目は混乱より、ベターである」」(P36注7)と語る。このようにコミュニズムの「公分母」を愚直なまでに追及するその姿には、共感を覚える面もある。しかし、動態的資本主義におけるコミュニズムの現実的地平を見極めることなしに、「哲学的な自己-明確化の仕事」を推し進めても、「曲者」揃いだけに、「公分母」を得ることはなかなか難しいといえる。その点では、リネラのコミュニズム言説の検証(評価)はその絶好の手掛かりを与えてくれるはずなのだが、その作業をほとんどなしえなかったために、彼の憤激は宙に浮いたままである。

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