宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

チェリー・ピッキングに抗するラカン読解――向井雅明「ジャック・ラカンの理論的変遷」書評

 チェリー・ピッキングという言葉をご存知だろうか。チェリー、つまりサクランボの中から熟したものをえり好みして、自分が気に入るものだけをピックアップする、という意味で、数多くの事例の中から自分の説に有利なものだけをピックアップすることである。
 人文系の学問では、フィールドワークやサンプリングの際に問題になりそうなやり方である。「全ての凶悪犯はパンを食べている。パンは危険である」、ということも主張できてしまう。
この場合、えり好みというのは、何と何を関連付けるかということをも意味している。たとえば、犯罪の発生率の低下を説明する際に、ある者は政策によって警察官が増員されたことと関連付けて考えるかもしれないし、別の者は景気回復などの経済的要因と結びつけて考えるかもしれない。どの観念とどの観念が関連付けられて世界観が形成されていくのかという過程についての考察や、そのとき一見すると単なる観察者のように思われる、人間の側からの働きかけがあってこそ世界観が生み出されているという観点は、ジャック・ラカンの精神分析にとって重要な考察対象のひとつであろう。
 また、サンプリングやフィールドワークとは無関係で、テクスト読解を中心とする哲学研究や思想研究でも、このチェリー・ピッキングは起こりうる。なぜなら、たいてい哲学や思想についてのテクストは、難解で晦渋だからだ。
「哲学者Aは○○を重視していないが、哲学者Bは○○を重視している」。こうして二者の対立を際立たせる際に、ある種のえり好みが行われることは大いにありうる。
 論敵との対立を明確にするために、相手の論点を誤解してみせたり、あるいは誇張したりすることをストローマン論法と呼ぶそうだ。ストローマンとはわらで出来た人形のことで、架空の存在を作り上げるという含意がある。相手の論点を誇張して架空の存在を作り上げている、ということである。日本語では「わら人形論法」と訳すようだが、日本でわら人形と言えば、丑三つ時に釘を打ち込まれるマジックアイテムなので、この訳語はなんだか別のイメージが付加されてしまって、あまり適切ではないように思える。
 ストローマン論法は、方向性は逆でも、えり好みという点でチェリー・ピッキングと同じことをしている。

 さて、ジャック・ラカンの思想、あるいはテクストは、これまで凄まじいほどにチェリー・ピッキングされ、また、論敵にはストローマンにされてきただろう。
 なぜならば、ラカンの語り口というのはとてつもなく晦渋で、その理論たるやとてつもなく難解だからだ。哲学者の内田樹は以下のように述べている。

 ラカンは一九五〇年代には精神分析の新しい方法論として臨床医たちを驚愕させ、六〇年代には時代を領導する精神的導師として五月革命世代の人々を熱狂させ、そして八〇年代以降は世界の大学院生たちの表象読解のための必読文献になった。これはひとつの思想のたどった旅程としてはかなり特異なものである。
 その汎用性の高さは、「ラカンがほんとうはなにを言おうとしていたのか、だれにも確定的なことが言えない」というラカン理論の超絶的な難解さに裏づけられている。あまりに難解であるために、だれにでも使える理論というものがこの世には存在するのだ。(1)

 また、英国で文化理論について研究するキャサリン・ベルジーは以下のように述べている。

ラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。賞賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテクスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。(2)

 このように語られる難解さと複雑な文体のせいで、ラカンを読み解き、そして、何かを論じる際に概念的ツールとして用いるとなると、恣意的なえり好みにならざるをえないのだ。ラカン理論の全容を把握した、と言い得る者はいるまい。
 また、ラカン自身も、この難解さと語り口には、狙うところがあったようだ。あまりに難解であれば、聞く者は、真剣に耳を傾け、自分がその意味を捉えたかどうか、自問自答を繰り返さざるをえない。こうして、ベルジーが述べているように、聞くものの中で、ラカンが蔵する知への欲望が生まれる。これこそが、「想定的知の主体」に対する転移関係である。このようなラカンの語り口について、「プラトンの時代から、口述による伝達が愛を生じせしめるということ、愛と知識は無関係ではないということは明らかだった。(…)彼〔ラカン〕はまた、生徒たちの中に、自分で吹き込んだ転移性の愛を切望し、それを強力に進展させるようにも見えた。」(3)と精神分析の臨床家であるブルース・フィンクは述べている。
 また、ラカン自身が、多産的な誤読を許容していたとも言える。多産的な誤読、と言ってしまうと、どこかに正解があるような印象になってしまうので、それは精密な言い方ではない。「想定的知の主体」の持つ知をあてにして、これが正解だと誰かに保証してもらうという期待から決別して、我々は我々自身の責任において思考し、決断(結論)せねばならない。ゆえに、向井雅明がこの連載の第五回で示しているように、「ラカンは、それぞれの精神分析家は自分自身で精神分析を作り上げなければならない、と言った」(第五回p.202.)のである。
 さて、前置きが長くなりすぎたが、ようやく本題に入ろう。
この、向井雅明「ジャック・ラカンの理論的変遷」という連載は、チェリー・ピッキング的で恣意的な読解に陥らず、かつ、自分自身で精神分析を作り上げるという、そのせめぎ合いを受け止め、いかにラカンのテクストに真摯に向き合うかという、苦闘が結実したものである。
 そのために向井は、ラカンの理論の歴史的変遷を丁寧に追っていく。向井は以下のように述べる。

その理論展開は常に常に矛盾に満ちたパラドクシカルなものであり、これがラカン理論だ、と言えるような、体系的にまとまった一つの理論的コーパスとして提示することはできない。ラカンの考えを把握するには、やはり年代を追って、その変遷を追っていくしかない。
(第五回p.197.)

 ラカンの案出した用語は、ひとつひとつがかなりの幅を持つ。その幅広さの中で、ある概念は別の概念と重なり合い、近似的な意味を持つ。かと思えば、どこにアクセントを置いて理解するかによって、さっきまで近いものとして並立していた諸概念が、まったく異なる相を見せて反発する。
 ラカンが思考の主要な軸としているかに見えた図式や、対立構図が、ある時期を過ぎると重視されなくなるということもあれば、それに変わって別の区分が導入されたりもする。
 なぜこうしたことが起きるかと言えば、それはラカン自身が自らの理論体系を疑問に付し、大胆な再構築の運動を決して止めなかったからである。著者はこうしたラカンの姿勢を砂の城を作っては崩す子供にたとえており(第一回p.8.)、ラカンが70代になり、晩年と呼ぶべき年齢にさしかかっても、「最も大きな地殻変動」と呼ぶべきものが起き、それは、「それまでの理論とのギャップのせいで、ラカンを学ぼうとする者を困惑させ、しばしば途方に暮れさせてきた」(第五回p.197.)。
 このようなラカンの理論に真摯に取り組むために、著者は、運動し続けるラカンを追跡していく。
 ラカンに対するこうしたアプローチは数多くあるが、一例を挙げれば、ラカン派の哲学者であるスラヴォイ・ジジェクは処女作『イデオロギーの崇高な対象』で、1950年代から、1970年代に至るまでに、「トラウマ」がラカン理論においてどのように扱われているかの変遷に手短に触れている。(4)本邦における比較的最近の例では、『現代思想』2013年6月号(特集フェリックス・ガタリ)掲載の松本卓也「人はみな妄想する」という論文も、1950年代と1960年代以降で、ラカンにおける精神病の概念がいかに変遷しているかを丁寧に追う好例であり、その帰結としてラカン理論がドゥルーズ=ガタリと単純な対立関係にあるものではないことを示している。
 向井雅明は、かつて1988年に上梓した『ラカン対ラカン』(金剛出版)から既に、ラカンの運動を通時的に追っていくという姿勢を表明しており、今回完結した連載「ジャック・ラカンの理論的変遷」は、あらためてその姿勢を鮮明に打ち出したものだ。
 ある概念について、ときに日常的で分かりやすい例を持ち出しながらも、時代を経てその概念がいかに変化していったか、他の概念との整合性はどうなるのか、そうしたことを著者はその場その場で丹念に問い続ける。
 たとえば、ファルスΦについて検討する際は、「後で出てくる対象aとの差別化が難しくなる。」(第二回p.44.)と他の概念とのすり合わせを考えている。また、ラカン理論における重要な概念である「対象a」については、

 ところが、これほど彼〔ラカン〕が入れ込んでいた概念であるにも関わらず、またもや砂のお城のように、ある時あっさりとそれは崩され、その地位を失ってしまう運命にあるのだ。
(第二回p.62.)

 と述べる一方で、「異次元のものをつなげるという機能はずっと残されているのだ」(同p.63)と、継続された要素についても記す。
 また別の箇所では、ある時期までのラカンが享楽(ジュイッサンス)と、快(プレジール)をはっきりと区別し、享楽は〈もの〉に由来し、快はシニフィアンに由来しているとしていたことを説明するが、後期ラカンにおいてこの図式が結局捨てられてしまうという流れを示唆する(第三回p.167~168.)。著者によると、ラカンにとって享楽とシニフィアンは相容れないものであったはずなのに、後期に至ってシニフィアンと享楽を直接結び付けようとする。そして続く連載第四回、第五回で、そのためにどのように理論が練り直されていったかを追っていく。
 ラカンは自分がフロイト主義者だと述べていたが、著者はこの、フロイトとラカンとの関係にも丹念にメスを入れる。フロイト理論とラカン理論がどのように接合されるのかは大きな問題だが、著者はチェリー・ピッキング的な無理やりの接合を試みずに、通じ合う部分と相違点を峻別していく。連載第三回では、現実原則/快楽原則の二項の扱いについて、フロイトとラカンではどのような違いがあるかについて述べられ、また、著者は、1964年の『精神分析の四基本概念』の講義のあたりの時期をもって、ラカンの「フロイトへの回帰」は幕を閉じたとしている。
 向井が『ラカン対ラカン』の劈頭で示したところによれば、フロイトのテクストを読むためにラカンを参照するとなれば、フロイト対ラカンという構図になるが、では、ラカンを読むために誰を参照すべきかといえば、それはラカン自身の変遷を追うことによって、その時々の思想的な特徴と差異を捉えるほかない。すなわち、ラカン対ラカンである。
 ラカンとフロイトを比べたとき、たしかに、ラカンのような、意図された蠱惑的な難解さや、どこまで本気かわからない洒落のような表現、そういうものはフロイトには少ないように思われる。しかし、フロイトの文体もまた、分かりづらいものだし、読解に苦労させられる。フロイトもまた、自らの着想を疑い、逡巡しながら筆を進めていくからだ。三歩進んで二歩戻る、百歩進んで九十九歩戻る、というような文体であると私は思う。つまり、フロイトもまた、思考の運動を決して緩めなかった人だ。
 永遠の事物というものは無い。概念や観念ですら永遠ではない。しかし、それらの案出にかかわる思考の運動こそは永遠なのである。少なくともラカンの精神分析においては。
 向井雅明が1988年出版の『ラカン対ラカン』から、2008年に始まり2014年に完結した「ジャック・ラカンの理論的変遷」まで一貫して追求し続けている姿勢は、この運動の永遠性、終わらなさを示しているとも言えるだろう。
 ラカンは、『精神分析の四基本概念』において、「すでに出来上がった概念」と、「形成途上の概念」との対比を前景化し(5)、「無意識には一つの知があるが、それは仕上がって完結した知とは決して考えるべきではない」(6)と述べている。
 しかし、治療としての分析は終わりを迎えることもありうる。終わりなき分析もあれば、終わりある分析もあるだろう。運動の副産物にしかすぎなかったとしても、症状が寛解し、患者の苦しみが軽くなることはあるのだ。また向井は、分析を受けずとも、より実り豊かなものを産出した例として、ラカンが文豪ジェイムス・ジョイスを挙げていることについても述べている。
 症状との折り合いがつくときに何が起こっているのだろうか。そうしたことを考えるために、この連載を読み、ラカンを読み、自分自身で精神分析について考えるために、読者ご自身が運動の中に身を投じてみてはどうだろうか。
(文中敬称略)
(文責 土佐巌人)

向井氏の著作以外での参考文献・引用箇所は以下の通り。
(1) 難波江和英・内田樹『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書、2004), p.282
(2) Belsey, Catherine, Poststructuralisme : A Very Short Introduction, (Oxford University Press, 1984), p.62. 邦訳『1冊でわかる ポスト構造主義』(岩波書店、2003), p.95.
(3) Fink, Bruce, “Reading ‘The Instance of the Letter in the Unconscious’ ”, Lacan to the letter : reading Écrits closely, (University of Minnesota Press, 2004), p.68.
(4) Žižek, Slavoj, The Sublime Object of Ideology, (Verso, 1989, Fifth impression1995), p.162. 邦訳『イデオロギーの崇高な対象』(河出書房新社、2000)p.247.
(5) Lacan, Jacques, Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, (Seuil, 1973), p.15. 邦訳『精神分析の四基本概念』(岩波書店, 2000),p.14.
(6) 同書p.122. 邦訳p.176.

PageTop

二つの無限――スピノザの無限とレヴィナスの無限

「無限」ということについて考えてみたい。様々な哲学者や思想家が、「無限」という言葉を用いたが、その中でも今回は特に、スピノザとレヴィナスの二人について考えてみたい。なぜこの二人かといえば、同じ無限という言葉を用いながらもその意味は徹底的に違っていて、かみ合わない。そのかみ合わなさをあえて対置してみようと思う。

 スピノザは第一部定義6において、神を「絶対無限の存在者」と定義している。その定義6の説明では、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」と述べている。この、「絶対無限」と「自己の類において無限」との対比に注目して、この言葉にたどり着くことをとりあえずの目的として考えを進めてみたい。
 スピノザの世界観は機械論的な因果の連鎖によってできあがる世界である。その姿勢は徹底している。

あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在をもつあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし、また作用へと決定されることができる。さらにこの原因も同じように有限で限られた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることなしには、存在することもできないし、また作用へと決定されることもできない。このようにして無限に進む。
(第一部:定理28)

 その本性からある結果が生じてこないようなものは、何一つ存在しない。
(第一部:定理36)

 全ての個物が外的原因によって作用を受け、また他の個物の原因となって作用をもたらしている。この機械論的な世界観は、実体の定義と照らし合わせたとき、大きな意味を持つ。「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。」(第一部:定義3)のだから、それぞれの個物は実体ではありえないことになる。では何が実体と言えるのだろうか。次の箇所を参照してみよう。

 個物とは、有限であり、限られた存在をもつもののことである。もし多くの固体〈あるいは個物〉が、すべて同時にある一つの結果の原因であるかのように、一つの活動において協働するならば、そのかぎりにおいて私はそれらすべてを一つの個物と見なす。
(第二部:定義7)

 協働するかぎりにおいて、一つの個物と見なされるような、多くの個物。これこそが実体に他ならない。つまり、この世の個物とその連鎖反応の合計、それら全てをひっくるめたものが「実体」なのだ。そして、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの」が実体なのだから、この定義は「自己原因」としての神の定義と重なり合う。神は他に依存することの無い完全者であり、他から産出されるものではないのだから、実体=神でしかありえない。
 そうなると、この世の因果の連鎖の総体、この世を構築するネットワークの全体こそが、神ということになる。
 創造者としての神があり、被造物としての世界が存在するのではないのだ。そういう二項対立はありえない。この定義は、絶対無限にして完全な神の定義とも一致する。造物主としての人格神を想定すれば、それは、神と、神によって創られた世界があるということになる。これは、神は自らが創った世界から隔てられているということになる。神に外部があるということになる。ゆえに、絶対無限の完全者である神の定義と反してしまう。だからこそ、世界の総体こそが神であるという定義は合理的である。
 そこで次のような定理が導き出される。

 神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない。
(第一部:定理18)

 これは、神の外部を否定したということに他ならない。そして、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」(第一部定義6)という定義に立ち返ろう。「絶対無限(absolute infinitum)」であって、「自己の類(suo genere)において無限」ではないのだ。なぜ、類における無限が否定されなければならないのか、ここまでの議論で明確だろう。あるひとつの類において無限であっても、他の類があれば、外部が存在するということになる。すなわち、スピノザにおける無限とは、外部性の否定に他ならない。
 外部を持たない、内的に完結した自己原因。これこそがスピノザにおける「無限」である。

 いささかスピノザに紙幅を割きすぎた。次はレヴィナスに話を移したい。
 レヴィナスの主著『全体性と無限』のタイトルからも明らかなように、レヴィナスにとって「無限」は全体性と対置されるもの、すなわち外部性に他ならない。レヴィナスの他者論、自己と他者の関わりについて述べる内容を考慮すれば、単純に外部と言うのは無防備かも知れないが、とりあえずは全体性に含まれないもの、外部としての無限という姿勢で話を進めてみたい。
 この場合の無限は、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての無限である。これは、レヴィナスが他者(autrui、他人)について考える際の根本となる図式である。他者の他性について徹底的に考える。つまり、私とあなたは違う、ということを徹底的に突き詰めて考えれば、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての他者が現れる。この結果として、レヴィナスは「存在の一義性」を拒絶する。私も存在、あなたも存在。こうした思考は、すでに自己と他者を「存在」というものに回収して一緒くたにしてしまったという点ですでに暴力的なのだ。

 少し唐突だが、ここでレヴィナスからもスピノザからも離れて、孔子の『論語』衛霊公(えいれいこう)篇にある、有名な箇所を見てみよう。弟子の子貢に「一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや(一生涯実行すべき一語がありますか)」と問われた孔子は答える。「其れ恕か。己の欲せざる所を、人に施すこと勿れ。(それは恕(じょ)である。自分がして欲しくないことを、他人にしてはならない)」。
 これは中学校の教科書に載るほどに有名な箇所である。自分がされて嫌なことは他人にするな、というのはしごく真っ当で常識的な道徳観だろう。

 しかし、レヴィナスにとってみれば、それすら暴力だろう。目の前の他者を、「もう一人の自分」としてとらえることは、すでに他者から他性を収奪している。他者はつねに考量不可能で比較不可能な無限であり、その中で関わりを持ち、選択し決断していくことが、人間の自由と責任である。その答えの無さを引き受けることがレヴィナスの倫理である。正解の無い状況で決断をする私には、私の固有性が出現する。「他者だけが私に意味を与える」とはそういう意味で解されなければならない。
 レヴィナスの倫理学に照らし合わせれば、多数決による民主主義はすでに不可避の暴力をはらんでいる。無限Aと無限Bは比較することができない。無限はそもそも量的に決定することができないからだ。しかし、無限であるはずの他者を、一人一票という形で等値化してしまっているのだ。

 外部性の無さ、内的な完全性を持って「無限」としたスピノザ。外部性、他者の他性を徹底するために「無限」という表現を用いたレヴィナス。
 この二つの「無限」は、まったく交わらないように見える。同じ「無限」という言葉を用いながらも、絶対に架橋不可能な、比較することすら馬鹿げた距離があるように思える。しかし、この文章ではその無茶を少しばかりやってみよう。

 スピノザの因果の連鎖としての世界観は、以下のように人間の自由意志の否定へと通じる。

 自分が自由であると思う〈すなわち、彼らが自由意志によってあることをなしたり、またしなかったりすることができると思う〉人がいるとすれば、その人は誤っている。このような意見を述べることは、ただ、彼らが自分の行動を意識し、自分がそれへと決定される諸原因を知らないからである。それゆえ彼らの自由の観念は、彼らが自分たちの行動の原因を何も知らないことにある。なぜなら、彼らが人間の行動は意志に依存するというならば、それはたんにことばだけにすぎず、その意味については何も理解していないのである。なぜなら彼らはみな、意志が何であるのか、また意志が身体をいかにして動かすかを知らないからである。そして、それを知っていると口ばしり、魂の座席や住居を考えだす人は、嘲笑か不興を買うのが常である。
(第二部:定理35:注解)

 すなわち、人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているが、その行為を決定する原因については無知であるという、ただそれだけのことにある。(…)したがって、精神の自由な決意によって、しゃべったり、あるいは沈黙したり、あるいはまた他のことをする自由があると信じこむ者は、目を見開いたままで夢を見ているようなものである。
(第三部:定理2:注解)

 これは無意識を発見したフロイトの精神分析にも通じるようなところがあり、それをさらに徹底したラカンの「欲望とは〈他者〉の欲望である」というテーゼにも通じるように思われる。また、ラカンは自らの講義録(セミネール)の中でスピノザをしばしば高く評価している。
 我々は無限の因果の連鎖の流れの中にいるのだが、人間個人の知性は有限である以上、自らの行動の原因について無知である。その結果として、自らに自由意志があると思い込んでいるにすぎない。この無知から逃れ至福へと至る方法をスピノザは『エチカ』の中で示してもいるが、それをここで述べることはよそう。

 スピノザは自由意志を否定し、自らを自由だと思う人間の無知を指摘する。レヴィナスはその他者論において、把握不可能なもの、また把握が許されないものを示した。
 両者は共に、人間の思い上がりを否定しているように思われる。
 いささか詩的な言い方だが、哲学や倫理学に「魂の成熟」という目的があるならば、それは幼い万能感を捨て去る過程を含むだろう。暴論ではあるが、幼稚な万能感を捨てるという観点で見れば、すり合わせることが不可能に思えた二つの「無限」に、どこか通じるものが見出せないだろうか。これが本論の一応の結論である。

 しかし、この論旨と姿勢はスピノザからもレヴィナスからも許されはしないだろう。二者間の考えを調停しようという立場は、自らを特権的なメタ・レベルに置いている。スピノザの見地からすれば、それは存在しえないはずの外部だし、レヴィナスからすれば他者を把握しようという暴力をふるっているということになる。
 この文章は蛇足になることも許されていないのだ。無限は厳しい。

(文責 土佐巌人)

PageTop

書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(3)

 ここまで来て、ようやく本題に入ることができる。ここから語ることが、この書評の核心であり、問題提起したかったことだ。
 確かに、インターネットの発達などによって我々も「装置」を手に入れたのかも知れない。このブログだって、そういうもののおかげで発信できている。我々は、受信する一方だったのが、送信することも可能になったのだ。
 しかし、我々はオリジナルのメッセージを発信することができているのだろうか? 結局のところ、我々は国家や企業、別の誰かの端末になっているのではないだろうか? 端末という言葉が難しければ、子機だ。
 たとえば、こんなものを買っちゃった、とブログで書くのは、ある企業の子機になっている。その企業の素晴らしさを代弁しているのだから。岡田もそこは当然、予測している。しかし、それはとても楽観的な未来像だ。様々な価値観があり、人はそのメッセージを信じたり信じなかったりする自由がある。そして、色々な価値観をちょっとずつ、つまみ食いするように組み合わせていく。ここで、アルチュセールの視点と比べてみよう。

国家のあらゆるイデオロギー装置は、いかなるものであれ、すべて同じ結果、生産諸関係の再生産、すなわち資本主義的な搾取の諸関係の再生産をめざす。*(6)

 国家のイデオロギー装置が個人のものになっても、果たして変化は訪れるのだろうか? これが、この書評を読むみなさんに考えていただきたいポイントだ。さっきのブランドの例で見た通り、「何かが欲しい」という欲望は、「すでに持っている何者か」と自分の格差をせっせと維持することにしかならない場合がある。というか、全ての「何かが欲しい」という欲望、「自分はこんな人間になりたい」という思いは、すでにそれを持っている誰かが得するために、私たちに埋め込まれたものでしかないのではないか、ということだ。そもそも誰かから埋め込まれたものでない、「自由な欲望」なんてものがあるのだろうか? 無いなら無いで、誰か他者から与えられた欲望しか持てない、という私たちの人生を、私たちは受け入れなければならない。
 だから、自分が子機に成り下がっているのではないかという問いは重要だし、「当たり前」=「イデオロギー」を疑うことが重要だ。そういう意味では、日常生活で全く役に立たない哲学というものも、これからウェイトを増してくるのかもしれない。

「俺にもよこせ」という思いはどんなに強くても、世界を変える力にはならない。駄々をこねるような「暴動」の原因にはなるかもしれない。しかし、世界中の人たちの考え方も欲望も、その日を境にいっせいに変わってしまった、という「革命」の原因にはならないだろう。
「俺にもよこせ」「自分も勝ち組になりたい」という欲望は、すでに持っている者、すでに勝っている者に、「君を一番ひいきしてあげよう」と言われたら、あっという間に満足して消えてしまう欲望なのだから。
 完全オリジナルの欲望なんて、我々は産み出せるのだろうか? そんなものが無いとすれば、我々はどんな風に生きていけばいいのだろうか。

追記:この書評は、別のブログに寄稿する予定だったものでしたが、そちらは柔らかい文体のサブカルチャー評論などが中心のブログだったため、雰囲気とそぐわず、この書評は宙に浮いていました。今回、宇波彰先生のご好意によって、こちらの「宇波彰現代哲学研究所」に掲載させていただける運びとなりました。文体などは改めましたが、内容・スタイルともに脇の甘いところがあるやも知れません。ご容赦いただけると幸いです。
 お暇な方はよろしければ、当初に寄稿する予定だった別のブログ「おはよう倦怠感。」(http://looseboys.blog40.fc2.com/)の方もぜひ覗いていただけると幸いです。

(文責  土佐 巌人)

引用一覧
(1)岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、1998年初版、朝日文庫、p.81
(2)同書p.89
(3)同書p.112
(4)Terry Eagleton, Ideology : An Introduction, Verso, 1991,p .58~59
『イデオロギーとは何か』テリー・イーグルトン著 大橋洋一訳 平凡社ライブラリー 1999年初版、p.136
(5)Louis Althusser, Sur la Reproduction, PUF, 1995,p. 282
『再生産について イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』ルイ・アルチュセール著 西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今野晃・山家歩 平凡社 2005年初版,p. 336
(6)同書p.276 邦訳p.345

PageTop

書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(2)

 これから、アルチュセールの社会分析理論との比較に入れる。
岡田斗志夫は「モノ」や「時間」や「情報」が不足したり余ったりする状況が、人間の意識に影響を与えている過程を描いてきた。この、人間を取り巻く状況が人間の思考や欲望を決定するというのは、哲学で言えば「構造主義」の考え方に近い。
 しかし、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」という「やさしい情知」があらかじめ、どんな人間にも備わっているというのは構造主義的ではない。岡田が描くのは、あくまで人間の意識と、人間を取り巻く構造との相互作用である。
 アルチュセールは構造主義的マルクス主義者である。岡田は「モノ」が不足したり余ったりする中で、人間に備わった「やさしい情知」がそれと結びつき、その時代その時代の「当たり前」が変化していく歴史を描いた。しかし、アルチュセールには、「モノ」しかない。モノが人間の意識の全てを決定しているのである。岡田(もとは堺屋太一)が人間にあらかじめ備わっているとした「やさしい情知」も、アルチュセールからしたら、モノがどんな状況かによって、人間に与えられたり与えられなかったりする派生物、でしかないだろう。人間にあらかじめ備わった意識など、厳密に構造主義的立場に立てば、ありえないのである。
 アルチュセールがこの世の基盤=下部構造(infrastructure)としたのは「物質的諸関係」であり、岡田が「モノ」と呼んだものにかなり近い。しかし、岡田が「モノが不足したり余ったりする」という変化にだけ注目したところを、アルチュセールは物質の流れ、人間と物質との関係性にまで広げて見ている。たとえば、原始狩猟制の社会なら、獲物はみんなで平等に分配することになる。日本の鎌倉時代なら、土地と領主の関係は将軍によって保証され「御恩と奉公」によって結ばれている。アルチュセールが実際に挙げた具体例ではないが、こうした「物質的諸関係」が私たちの社会の実態、つまり土台=下部構造である。現代においては、経済的諸関係、つまり工場で作られる製品やその原材料、そこで働く労働者、賃金として支払われたり商品の代金として支払われたりする貨幣の流れ、雇用者と被雇用者の労使関係、それらの関係性や流通の過程を全て含む。マルクス主義者であるアルチュセールにとっては、そこには「搾取される者と搾取する者の関係」も当然含まれる。
 それに対して、上部構造(superstructure)と呼ばれるのが、国家(つまり国の仕組みそのもの)、法律、イデオロギーである。ここで注意を払わなければいけないのがイデオロギーである。これは世界観のことであるとアルチュセールは明言している。
つまり、「世界はこういうふうなものだ」「こういうあり方が人間としてまともだ」という、我々にとっての「当たり前ってのはこういうことだ」という思い込みのことだ。それらは当たり前すぎて、普段ならいちいち確認もされないし、疑問にも思われない。イデオロギーから外れたことや人に出会ったときに、「あんなのありえない!」と我々は初めて自分のイデオロギーをむき出しにする。岡田がパラダイムという言葉で呼んだ、その時代その時代での人々にとっての当たり前、これとイデオロギーは似た意味を持っている。
アルチュセールから見れば、真の科学や哲学を学んでいる者から見れば、イデオロギーなどというのは「未開の部族の神話」、つまり原始人の思い込みと大して変わらない。これは、人間は真面目に労働するのが当たり前だとか、派手に遊んでない奴はイケてない、というこれらの世界観(イデオロギー)は、土台を維持するために我々に埋め込まれるものだ。派手に遊んでいない奴はイケてない、という思い込みは世の中にお金を回していくために必要だ。今の時代、遊ぶことは結局、消費活動なのだから。だからその前に、それぞれの人間は金を稼がなければならない。だから、人間は真面目に労働するものだ、という思い込みも必要になる。ブランド物のバッグを買えば、買う前より自分はマシな人間になれる。あるいは、みんなが持っているんだから、自分も持たねば。このとき起こっていることは、長時間かけて稼いだ金を、貧乏人がすでに金を持っている者(ブランドを販売する企業)にせっせと渡して、格差を維持するために貧乏人みずからが努力しているという現象だ。全ての思い込み、イデオロギーは、この世を再生産するために必要だからという理由で、我々に埋め込まれたものにすぎない。
現代思想の解説者として有名なテリー・イーグルトンはこう語っている。

イデオロギーが存在するとき、かならず、語ることはおろか、思考することすら禁じられたものが存在する。ただ、そうした禁じられた思考が存在することを、わたしたちがどうしたら察知できるかは、論理的にみてやっかいな問題をはらむ。たぶん、わたしたちは、考えるべき何かがあるということをうすうす感ずるのだろう。ただし、それがなんであるか皆目見当もつかないとしても。*(4)

 岡田斗司夫のもうひとつの柱、洗脳社会について考えてみよう。アルチュセールによれば、人々にイデオロギーを与えるための道具(岡田の言葉を使えば「洗脳装置」)は国家のためのものでしかなかった。巨大な存在だけがイデオロギー装置(=洗脳装置)を持っていたのである。アルチュセールは「国家のイデオロギー諸装置」(Les Appareils idéologiques d’Etat、略してAIE)という呼び名を与えている。それらは様々なものがある。宗教的AIE(さまざまの教会制度)、学校的AIE(さまざまの公的私的な「学校」制度)、家族的AIE、法的AIE、政治的AIE(政治制度、さまざまな政党)、組合的AIE、情報的AIE(新聞、ラジオ‐テレビ、等々)、文化的AIE(文学、美術、スポーツ、等々)……。*(5)
 岡田によれば、インターネットの発達などによって、誰もが「洗脳装置」を使うことができるようになったということになる。これは、「国家のイデオロギー装置」が「個人のイデオロギー装置」になったということだ。

PageTop

書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(1)

 現在、岡田斗司夫と哲学者・内田樹がTwitter上で議論し、それが書籍化されそうな動きがあるということだ。その内容とかかわりがあるかどうかは分からないが、岡田斗司夫の著作について書評したい。

 岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』を読んで、哲学者アルチュセールを連想した。
 正確に言えば、似ていると思わせるところと、正反対なところが交互に混じりあっている。どこが似ていて、どこが違うか整理してみれば、より両者の内容が分かりやすく見えてくるのではないだろうか。
 では、まず岡田斗司夫の著作『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)の概略を紹介したい。

『ぼくたちの洗脳社会』(以下、『洗脳社会』と書く)ではまず、堺屋太一の「人間のやさしい情知」という考え方に注目する。その「やさしい情知」とは、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」*(1)だそうだ。つまり、たくさんあるものは派手にバーッと使う。足りないものは大事にする。そのやり方を正しいと思うのは、人間(人類)にとって時代も場所も問わず普遍的なのだという。
 この「やさしい情知」という感じ方・考え方に、その時代や場所で、何が豊富で何が不足しているか、という状況が結びついて人は文化を作っていく。文化といったが、『洗脳社会』では特にパラダイムという言葉が使われている。パラダイムとは、考え方の基準であり、私たちが「世界はこういうものだ」「まともな人間はこうでなければならない」という、これこそが当たり前だと考える基準のようなものだ。
『洗脳社会』では、具体的に例をあげて人類の歴史の発展と、それにともなってパラダイムが変化していく様子を説明している。
 原始狩猟社会。この時代は、「モノ不足・時間余り」の時代である。人々はその日食べる食料にも事欠き、食料以外にもあらゆる物資が不足していた。しかし、時間はある。その時間を人々は思索に費やした。そして、カミの概念が生まれ、素朴な芸術が生まれ、原始的な宗教が生まれた。
 次に、農耕社会。農業のおかげで、食糧事情が飛躍的に改善され、人口が爆発的に増加した。すると、食糧の管理、翌年の収穫のための種籾などの管理、農地の整備、増えた人口に対してどのように食糧を分配するか、など、マネジメントが必要となってくる、こうして、必然的に管理社会が生まれ、それにともなって役割分担が必要となり、身分社会が生まれてくる。原始的な封建社会の誕生である。この「モノ余り・時間不足」の時代にあっては、労働こそが善であり、また身分を持っているとは、社会の一員として保証されているということでもあっただろう。この時代の人間からすれば、身分を持たない人間は「蔑むべき未開人」でしかない。我々現代人から見たらこの時代の人間は「身分に縛られた不自由な人たち」に見えるとしても。
 この時代はなにせ物資が余っているのだから、これを管理することが大事だったと著者は主張する。今の時代から見れば、年貢を取り立てるのは悪い領主、というイメージだが、著者によれば、この時代の実態はそういうものではない、ということだ。食料が余っても領民の間で揉め事のタネになるだけだし、下手に食料を与えて人口が激増したら数年後には飢饉になるかもしれないし、余った食料や労働力を用いてバカでかい城や墳墓を作った方が上手い管理の仕方であった、というのが著者の主張である。*(2)
 しかし、農業がもたらしたこの発展も行き詰まりを見せる。開拓できる領土には限りがあるからだ。どうやっても農地にならないような荒地や熱帯雨林など、どんな国も領土の限界にぶち当たる。それまで無限の発展が約束されていたような状態から、今まであるものを大事に使いながら現状を維持していく状態への転換が求められる。これが成熟した封建制であり、中世の時代である。同じ農業革命以降でも、中世になれば、また「モノ不足・時間余り」の時代になったというわけだ。著者によればこの時代の人々は何かと理由をつけて休んでばかり。働かないことよりも、休むべきときに働くことの方が悪だったのだという。しかし遊ぶわけでもない。遊ぶ、というのは食べたり飲んだり着飾ったり旅行したり、とにかく消費をともなうからである。モノ不足のこの時代にそんな余裕はない。そんなわけで、この時代の理想像は「清貧な思想家」である。修道院にでもこもって質素な生活をして、神について考えをめぐらしている神父様などが立派な人だったのである。他にも、詩人だとか。
 そして、産業革命の時代がやってくる。この時代は科学が神に取って代わった。かつて農業が狩猟に取って代わったように。それは、「合理的思考」と「定量化」の思考をもたらした。それまでは、全ての自然現象も病気も人生の出来事も「神様の思し召し」でしかなかったのが、「物事には必ず原因があり、ゆえに予測もできる」というように考えられるようになる。もう一方の「定量化」は、すべての労働はお金に換算できて、そのお金は何にでも交換できるという発想を生んだ。ある量の何かをきちんと測れば、別の量の何かと交換できるのだ。一時間の労働はある量のパンと交換でき、ある量のパンはある量の布と交換できる、というように。
 こうして、誰もが労働力として換算可能な存在になり、都市に出かけてさまざまなものを手に入れることが可能になった。身分によって社会の中での位置を保証される必要はなくなり、誰もが金持ちになれる可能性、色々なものを所有できる可能性がでてきた。蒸気機関などの発達もあり、「モノ余り・時間不足」の時代がやってくる。これに科学への信頼が加わり、近代のパラダイムは決定された。自由経済競争社会である。
 この時代の人々から見れば、中世の人々の「当たり前」は哀れなものにしか映らない。「身分制度と無知が支配していた暗黒の中世」「『本当の自由』を知らない、かわいそうな貧乏人たち」*(3)である。
 この時代は、つい最近の我々の時代まで続いていた。科学万能主義、自由な自我の確立。神様の代わりに自由な自我を手に入れた我々は、様々なストレスにさらされることになった。それまでは、自分が何者であるかも、運命も、一生の仕事も、神様が決めてくれたのだ。しかし、いまや原因と結果に基づく合理的思考と、自由がある。自分は自発的に立派な人であり続けなければならないし、自分の人生の責任は全て自分にのしかかっているのだ。こうして私たちはさまざまな社会的ストレスにさらされることになった。
 そして、現代にまで続く「大量生産・大量消費」もこの時代の特徴である。「モノ余り・時間不足」がかつてないスケールで到来したのだ。我々は、勤勉な生産者であると同時に、消費者でもある。よく働き、よく遊ぶのが正義なのだ。
 しかし、著者によれば、この時代も変革期に差し掛かっているのだという。著者は、我々が科学への信頼を失いつつあることを手がかりにこの推論を進めていく。
 様々な公害や戦争、環境問題によって、科学は人を幸せにするわけではないということが見えはじめてきた。治せない病気もある。そして、資源が有限であるということも見えてきた。
 この有限感が、再び「モノ不足・時間余り」の時代をもたらすのだという。そしてさらに、著者は「情報余り」という事態を指摘する。メディアの発達によって、ある一つの事件が報道される際、それはあっという間に世界を駆け巡り、その事件についての価値判断、「解釈」もとてつもない量でばら撒かれる。これは一つの事件を中心に、無数のイメージが飛び交うことになる。我々は知らず知らずのうちに、そのイメージのどれかを選択し(選択させられ)ている。また、ソニーやアップルのような、実際の製品以上に、企業イメージを売り物にしている会社の例を挙げている。その企業の新製品ならとりあえず買うという、企業を応援するサポーターのような消費者はイメージを購入しているのだという。
 そして、我々はイメージや解釈を受信するだけではない。インターネット(『洗脳社会』発表当時はまだパソコン通信が主流だが)の発達によって、我々はある事件や物事についてのイメージや解釈を、自ら発信することができるようになったのだ。従来はマスメディアや政府や大企業のものでしかなかった「洗脳装置」は、我々にも使えるものになりつつあるのだ。こうして、我々は、相互にイメージや解釈を発信しあい、お互いの価値観に干渉しあう。
著者はこれを「自由洗脳社会」と名づけている。「経済から洗脳へ」、これが我々の直面している変化なのだという。そこでは、我々にとっての「当たり前」は今までに無い変化をこうむるだろう。
ここまでが、『洗脳社会』の大枠を説明である。

PageTop