宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

言葉なんて覚えるんじゃなかった β0.61

唐突だけど僕はアニメが大好きだ。自慢じゃないが、本当に自慢じゃないがここ20年間アニメを見なかった日はない。だから、どうしてそんなに好きなの?とよくたずねられるがそのたび適当にごまかすようにしている。私がどうしてそれを好きなのか?を考えることはそれこそ哲学であると思うのだけれど、それについて考えること、ましてや何らかの答えを出すことは自分の楽しみを奪われてしまうような気がするのであまり考えないようにしてるのだ。そしてここからが書きたいことだけれども、どうも僕はアニメの顔が苦手なのだ。前頭結節までえぐりこむ巨大な眼球、肥大した頭蓋、下顎骨にいたってはあるのかどうかも疑問なあの変形した造形。どう考えてもグロテスクなそれを僕はどうやら愛しているらしい。今日はそんなことを書いていこうと思う。
まずは噂話から入っていこう。哲学者ルネ・デカルトが娘、フランシーヌの死後その名をつけた精密な人形(オートマタ)を携帯していたという伝説だ。これらは全く荒唐無稽な話だけれども、根拠のない話でもない。フランシーヌは彼の奉公人、ヘレナ・ヤンスに生ませた娘であり、彼が認知した唯一の私生児であった。また当時としてはかなり高齢(35歳)で生ませた子だけあって溺愛といって過言ではない愛し方をしていた。しかしフランシーヌはわずか5歳で亡くなってしまう。論敵が多く女好きかつ博学で攻撃的なデカルトは当時から社交界の有名人であり行動はいつも秘密主義的な性格もあいまって彼にはいくつもの噂や伝説、あるいは誹謗中傷がささやかれていた。またドイツらしいロマンティックな神話をモチーフにした精巧な人形を世に送り出していた同時代の伝説的オートマタマスター、ハンス・シュロットハイムの作品の作品をデカルトはかなり気に入っていたようで、その証拠に彼ないし彼の周囲のマイスターが作ったと思われるオートマタについてデカルトは『知能指導の規則』の中で触れるほどであり、そうした嗜好もこの噂話にもっともらしさを付加していたのだろう。さらにデカルトは青年のころ傭兵として享楽と血の生活を送っていたのだが、そうした戦場でしばしば略奪を繰り返していた。もっともそれは彼の性格からによるものではなく、当時の傭兵の報酬は主に戦場での略奪品であったからなのだけども。実際もうひとつ伝説を挙げさせてもらうとヨハンネス・ケプラーの師であるティコ・ブラーヘが制作したというすべてのものを測ることが出来るという錬金術的な触れ込みを持つ照準機(la machine)をプラハで略奪し所有しているという噂もあった。それは彼が炉部屋で瞑想していたの傍らにあり、「驚くべき学問の基礎」はそれによって発見された、という。なかなかロマンティックな噂だけども、これは後日改めて書くことにしよう。いずれにせよこうした冒険主義者デカルトの行為がこれら伝説の素地になっている。
話を人形に戻そうか。さてこの人形伝説は同時代人にとってあまりにスキャンダラスでエロチックで退廃的であったらしい。そりゃそうだ。そもそもキリスト教では人形は忌むべき旧世界の象徴であり、「偶像」であり、しかも亡き娘が動きしゃべる、つまり死者の復活を連想させる行為は反キリスト的、悪魔的だといっても過言じゃない。復活はイエス・キリスト以外やっちゃいけないのだ。おそらくこの伝説は彼が薔薇十字団員を自称していたり、貴族相手にベッドからベッドへ飛び回ったり、決闘マニアだったりという様々な奇行や攻撃的な性格が人々の好奇心でシンセサイズされてこうなったのだろうけど、僕が面白いなと思うのはこのの伝説がネットでは事実のように語られることが多いことだ。実際、周りの友人にこの話を本当だということにして話してみると実に反応がよく話している僕も嬉しくなってしまう。何がこんなに僕らの心をとらえて離さないのだろう?おそらくそれは人形が見られるだけに存在することに原因があるんじゃないか?
ジャック・ラカンは「視的欲望」という言葉を使いこう説明している。赤ん坊は最初「見られる」という受動的欲望で世界を確認するが言語の習得により「自我」が世界を「見る」という能動的な所有の欲望に変化していくんだと。だから人間は他者に対して所有しよう、しあおうという欲望は持てても、所有する、されるという欲望は実現しないのだと。けれども僕らは人形に「見る」という欲望を純粋かつ完全に投影することが出来る。何しろ人形は僕らを見ることが出来ないからね。言い方を換えるとこういうことだ。「見えない」という虚構は「見る」という有限な欲望を格納することがいくらでも出来るのだと。なるほど、人に意味も無く見つめられていると僕らはなんとなく息苦しくなるけども無機物の人形相手にそれを感じたことがない。人形には確かに眼はある。しかしその眼は虚構なのだ。一方な欲望が可能になる。これほどの快楽はそうはない。アニメの眼がでかいのは大きければそれだけ虚構へのアプローチが楽だからだろうし、僕らの欲望に最適化している証なんだろう。映画は動いているものを動いているかのように再現することがその始まりだった。けれどアニメーションはもともと動かないものを動かすのがその始まりであった。事実フェナキスティスコープやゾーイトロープ、その進化したプラキシノスコープでの主なコンテンツはカートゥーンであり、現実の再現やドラマを鑑賞する快楽より無機物が動くという驚きに観客(あるいはユーザー)は重きを置いていたのだ。映画の諸行為が「見る」という主体的行為に集約されるのに対し、アニメーションの諸行為は「見られる」に、幻想にこそ本質があるんじゃないだろうか?実際、巨大な眼球以外にも非現実な頭部と現実的な肉体を接続し人間だと了解させる映画や写真には不可能なシステムも受動のみであれば可能になるのだ。それは僕らが清潔な欲望を欲望しているともいえるだろうね。
ここで唐突にメイドの話をしてみたくなった。何せこの文章思いつきで書いているので若干の構成破綻は勘弁して欲しい。けれど理由はある。メイドというシステムをアニメやマンガに導入したのが誰か僕は知らないけども、実に視的欲望に最適化したシステムだと思うのだ。メイド服を着用することでメイドだと自動的に認識される諸サービス、これらはあまりに暴力的で美しく本来ならばイデオロギー論として論じるべきなのだけど、ここでは本論に関連していることを短く指摘するのみにしたい。それはメイド服を着用したものが短く発する「ご主人様」についてである。彼女たち(あるいは彼ら)がそれを他者に向けて発する第一義は比較的はっきりしている。私の所有者であり上位の方、である。私はあなたの欲望を受動しますので、あなたは能動的に私を欲望してくださいね。しかしここで注目したいのが「ご主人様」が特定の個人を指さないタームであることだろう。実際メイド服を着ている多くのものにとっては「私」はだれかの所有物ではないし、奉公人でもない。まして能動的な視的欲望の対象だと思ってもいないだろう。むしろ自らへの視線を所有したいという能動的な欲望がメイド服を着るという動機を支えている。しかし発話される側にとってそれは致命的である。それをクリアするための方法論が「ご主人様」の発話を生み出したと考えられる。すなわち私の所有者であり上位の方でありながら交換可能な複数の主体をさす語としてこれ以上都合のいいタームはないだろう。「ご主人様」は互いが「見られる」という幻想を了解して初めて成立可能なシステムである。そしてこのシステムは全く異なる欲望を複雑に自在に接続しているのだ。
かつて世界が単純であったころ、記述が少なく伝達手段も限られていたころから僕らは世界を所有したいという欲望を抱いていた。世界が解ることは世界の所有者になることであって僕らの能動的欲望の究極だからだ。しかしその頃でさえそれは不可能な欲望だったが可能性があるようには思われていた。多くのイデオロギーが世界を説明し信じてさえいればある程度はその欲望は「気散じ」できたものだ。しかし現代においてそれは大変難しくなっている。利用可能な情報量を1年から2000年までと2000年から2005年までで比較するとほぼ同一量だといわれており、全ての情報にアクセスするどころか編集することすら困難である現代において、もはやほんの数十年前まで可能であった「気散じ」が僕らには不可能になっている。だからといって能動的欲望が減ったわけでもなく、むしろこうした情報オーバーロード(Information Overload)によって不可能な所有が増大したからこそ、よりその欲望を満たそうとして利用価値の最適化を志向し強度の強いディスクールや人形を作り出している。ネット右翼なんてのはまさにその象徴ですよ。彼らのディスクールが非常にスキゾフレニックで小児的なのは偶然ではなく必然なのだ。少なくとも理性じゃない。だって所有したいという欲望がかなえられないんだもん。そんな世界、あまりにつらすぎるっしょ。
ブーレーズ・パスカルはパンセの冒頭で「幾何学的精神」と「繊細の精神」との違いを述べている。正確で明白な唯一の答えを求めるのが「幾何学的精神」であり「繊細の精神」とは答えを求めることを前提としながらも原理は使用のうちから直感的に紡ぎだされる微細で多数なこと、そのものだと。そして「繊細の精神」とは「すべての人の目の前に」(devant les yeux de tout le monde)あるのだと。なるほど情報の爆発の中もはや僕たちは正確で明白な唯一の答えに接近すらできず、反動として正確で明白な唯一の答えを欲望し、捏造し続ける。言語、暴力、技術、翻訳、ファシズムetc。だから僕は言いたい。もう答えなんて求めるのはやめようと。廃品の中に星座を見つけ夜空を渡ろうじゃないか。言葉にできないもの、伝えられないこと、硬くなった答えから新しいことはやってくるものだ。絶望もあるだろうけど、希望もその中にあるのだ。正しいか?正しくないか?とは違う形で長く続く未来のなかでずれ続けることこそが僕らと欲望が共存できる唯一の方法じゃないかと思うのだ。

さあ、端末のスイッチを切って僕と一緒に夜の街で遊ぼうよ。


(参考文献略)

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