宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

現代フランスのメディア状況

水道橋駅に近いアソシエホール(ホールといっても広くはないが)で、「アルチュセールを読む」というゼミ風の研究会を12005年から始めてか2年が経過した。最初は「フロイトとラカン」を読んだ。ラカンは難解であるが、アルチュセールのこのラカン論はきわめて明晰である。ラカンの主著『エクリ』は、早くから邦訳があるが、この訳で読んでもどうもよくわからないといわれている。もともとフランス語の原文がよくわからないものであり、彼のセミネールも、何が語られているのかわからなかったという。特に1973年頃からは、ボードにトポロジー(図表)を書いて黙っていることが多かったとエヴァンスが『ラカン精神分析事典』(Dylan Evans,An introductory dictionary of Lacanian psychonalysis,Routledge,1996)のなかで書いている。(ラカンに関する辞典は何点か刊行されているが、このエヴァンスのものは高い評価を得ている。近く邦訳がでるというジジェクの『ラカン入門』Slavoj Zizek,How to read Lacan,Granta Books,2006の巻末にある参考文献リストを見ると、ショーン・ホーマーのラカン論Sean Homer, Jacques Lacan,Routledge,2005がベストであるとされているが、このホーマーのラカン論には、エヴァンスの辞典は「単なる辞典に以上のものであり、ラカン研究には本質的なもの」と記されている。またラバテのラカン論であるJean-Michel Rabate,Jacques,Lacan,Palgrave,2001でも、参考文献として特に注目されている。)
「アソシエ」(19号)に掲載された拙稿「アルチュセールの星座」でその中間報告をしておいたように、私たちはアルチュセールの理論を単に純粋な机上の理論として「学問的に」検証しようとしたのではない。つねに内外の社会・政治の現実的動きと関連させて考えてきたつもりである。アルチュセールは、マルクスの考えに従い、次のように書いている。「社会構成体は生産を行うのと同時に生産の諸条件の再生産を行わなければ、一年といえども生きながらえることはできない」(SS.85)。(アルチュセール、伊吹浩一他訳『再生産について』平凡社、2005,SSと略記し、そのあとに引用のページ数を示す。)このばあいの「生産の諸条件」には、生産設備だけではなく、労働者も含まれる。そして資本主義社会において労働力の再生産が、資本家階級が労働者に賃金を支払い、そのことによって労働力を再生産する(具体的には、労働者の家族が労働者になる子供を産んで育てる)という「生物学的」構造だけを基礎としているものではないことが論じられている。労働者を支配階級にとっての労働者らしく再生産する仕事が、資本主義の体制のなかで作られている。古典的な概念では「上部構造」と呼ばれているものが、下部構造に逆に力を及ぼすプロセスが少しずつ見えてきたともいえる。それがアルチュセールの「イデオロギー的国家装置」という考え方の基盤である。イデオロギー的国家装置は、抑圧的国家装置と連動しているが、両者の関係はけっして単純ではない。この関係を考えるためにも、現実の状況を考察することが不可欠である。2007年夏の自民党の総裁選挙にあたって、候補者のひとりとなった麻生太郎は「自虐的史観には与しない」といった。この「自虐史観」という概念は、日本のマスコミというイデオロギー的国家装置が「呼びかけて」きて作られたものである。そしてこの問題を考えるときには、アルチュセールの思考を支えるラカンの思想を前提とすることが不可欠でることもわかってきた。つまり「呼びかけ」(interpellation)という概念は確かにアルチュセールのものではあるが、その背後にはラカンの言語論・記号論があるからである。つまりラカンはシニフィアンとシニフィエの直接的なつながりという伝統的な記号についての概念を否定し、シニフィアンがシニフィエを作ると考えたからである。S(シニフィアン)をs(シニフィエ)の上に置くラカンの図式は、アルチュセールによるパスカルからの引用とつながる。「教会に行き、跪いて祈りなさい、そうすれば自ずから神を信じることができる」というパスカルの教えほど恐ろしいものはない。日の丸を掲げ、君が代を歌っているあいだに、いつのまにかわれわれは右への道を歩んでいることになるからである。「再生産」には、そのような要素も含まれている。アルチュセールはわれわれにそのことを教えているのであり、その仕組みを理解し、批判すべきであろう。そしてこの仕組みは日本だけのもではない。
いまアメリカとフランスのマスメディアの世界で起こりつつあることにも注目すべきである。この小論は「フランス左翼の凋落」をテーマにするものではあるが、その問題は「グローバル」に考えるべきである。2007年にマスメディアに関して世界中で話題になっていたのは、オーストラリア出身のメディア界のドンであるルパート・マードックが経営するニューズ・コーポレーションが、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の発行元でもあるダウ・ジョーンズを買収したことであった。「メディア王」と呼ばれるこのルパート・マードックは、アメリカの市民権を持っているオーストラリア人である。(私はマードックというと、イギリスの作家アイリス・マードックを想起する。友人から贈られた彼女の分厚いサルトル論はいまも手元にある。)ユダヤ人ではないが、イスラエルに親近感を持つ人物としても知られている。マードックが経営する大メディア産業ニューズ・コーポレーションは、アメリカのフォックステレビ(共和党寄りの立場を鮮明にしているテレビ局で、政府からの情報を最も早く入手できるといわれているし、またこのテレビの番組を見ている視聴者が保守的になるという調査もある)やイギリスのタイムズなどをはじめとして、新聞・テレビ・映画などの100以上のメディアを所有する巨大な産業組織である。アメリカではメディア産業が新聞・テレビ・映画だけではなく、ばあいによってはプロ野球の球団やプロレスの団体をも傘下に置くのが日常化している。このニュー・コーポレーションが、アメリカの経済紙を代表する「ウォール・ストリート・ジャーナル」などを持つダウ・ジョーンズを買収したのであるが、それは単に大きなメディア産業がさらに大きくなったというだけの話ではなく、また抽象的な編集権の問題の次元ではなくなっている。 毎日新聞は2007年8月3日の社説「複合化がメディア再編のカギだ」においてこの問題を取り上げてはいるが、マードックの思想的・政治的立場の分析・批判にまでは立ち入っていない。「毎日新聞」(8月12日)は、ロンドン市立大学のグリーンズレイド教授が、イラク戦争開始時にマードックグループのメディアが、いっせいにブッシュの軍事行動を支持したことを批判したと伝えている。しかしそれ以上のマードック批判は見ることができない。マスメディアは本質的にどこかで国家権力とつながっているから、マスメディアの自己批判はなかなか成立しない。またすでに7月19日の日経も社説「メディアの将来占う米DJの買収」で論じてはいるが、このできごとを「デジタル時代の日本のメディアや報道機関のあり方を占う試金石」として捉えようとしているにすぎない。もっともそれ以上を日本のマスメディアに望むのは「無い物ねだり」になるであろう。それにもかかわらず、こういうマスメディアの姿勢に対してあらゆる機会を捉えて批判することは不可欠の作業である。マードックのような保守的・反動的で戦争好きな経営者が、世界の「世論」を形成することには、いたるところで異議をとなえなければならない。フランスの週刊誌「レクスプレス」(7月26日号)は、「共和党よりのふフォックステレビを支配する」マードックがヒラリー・クリントンにも選挙資金の提供をしようとしているとし、彼の「左への旋回」ではないかと記しているが、これは表面的な動きにすぎない。
権力・財力・メディア力が結合するというアメリカでの状況が、いまフランスでもまさに「再生産」されている。サルコジがドイツに出かけて、核兵器の共有をメルケルに提案して断られたが、こういうことが平気で行われるのは、メディアの批判的な力がすっかり弱くなっているからである。アメリカでのマードックの行動を模倣しているのが、ベルナール・アルノーが会長を務めるLVMHグループによるフランスの経済紙「レゼコー」の買収計画である。「レゼコー」は発行部数は14万部と少ないが、アメリカでいえば「ウォール・ストリート・ジャーナル」、日本でいえば「日経」のような有力経済紙である。現代の新聞は発行部数だけで、その影響力を判断できなくなっている。それは単にその新聞のクオリティの問題ではない。今日ではテレビ・ラジオが新聞を「引用」する機会が非常に多くなっているからである。つまり、「情報の再生産」という現象が進行しつつある。新聞記事をボードに張り付けて読むことが「ニュース番組」の形式になりつつある。もちろんフランスと日本でとでは状況が異なるが、「レゼコー」のばあいも、発行部数だけで規定できない要素があると見るべきであろう。それでなければ400億円近い費用を投じて買収する価値はない。アルノーが支配するLVMHという企業は、この略号ではわかりにくいが、「ルイ・ヴィトン」などの会社といえば了解されよう。Hはヘネシーであり、要するにアルノーはファッション・香料などを扱う大企業の経営者である。マードックのような「メディア王」ではない。そしてアルノーは、アメリカの経済誌「フォーブス」のランキングによると世界第7位の富豪であり、フランスではトップの金持ちである。彼の新しい邸宅の設計はフランク・ゲーリーに依頼されたとフランスの週刊誌「マリアンヌ」(6月30日~7月6日号)が伝えている。(フランク・ゲーリーはスペインのビルバオに建てられたグッゲンハイム美術館の設計者としても知られている。しかしニューヨーク、ヴェネチアなどにあるグッゲンハイム美術館の資金の源泉が、ユダヤ人の有能な経営者で、メキシコの鉱山労働者を使った搾取的経営で財をなし、映画「タイタニック」のなかで「従容として死んでいった人物」として描かれていたグッゲンハイムであったことを忘れてはならない。)またアルノーはピカソ、セザンヌ、マチスなどの美術品も所有しているという。要するに桁外れの「大富豪」である。最近(2007年12月)私は日本橋三越の隣にある三井記念美術館で「安宅英一コレクション展」を見たが、現在は大阪市立東洋陶磁美術館に収められている安宅産業の経営者だった人のコレクションの質の高さに驚くばかりであった。国宝も重要文化財もあるからである。どのようにしてこのコレクションが成立したのかは、別に考えなければならない問題であるが、とにかく高価な美術品が「富豪」を示す記号としての価値を持つものであることが、改めて認識できた。
このベルナール・アルノーはサルコジの親しい友人である。フランスではかつては左派の代表的新聞であった「リベラシオン」が、銀行家エドーワール・ド・ロスチルドによって買収されている。ロスチルドとはユダヤ系の銀行経営一家ロスチャイルドをフランス語で発音した名前である。いわゆる「左派」のメディアはまったく退潮の状態である。わずかにここで引用する「マリアンヌ」が、すこしばかり反権力的論調を示しているにすぎない。アルノーはすでにその傘下にフランス第二の経済紙「ラ・トリビューヌ」(発行部数9万部)持っている。しかしこの新聞が赤字なので、それを売って「レゼコー」に乗り換えようとしていると伝えられている。そうするとこの買収の目的は、直接的には利益の確保であるように見える。しかし、フランスでも日本と同じように「格差」が深刻化している。「マリアンヌ」(7月7~13日号)によると、過去7年間にフランスの最も富裕な3500人の収入が43%増加したのに対して、一般的な3000万人の収入の増加は4.6%にすぎなかったという。日本と似た状況である。しかし問題は単に貧富の「格差」に留まるものではない。富裕な階級、「支配階級」が、その支配を続行するためのイデオロギーを、意識的・無意識的に被支配階級のひとたちに「呼びかける」イデオロギー的国家装置を手に入れ、それを管理しようとしているのである。この見方が図式的であるという批判があるかもしれない。しかし、そうした現実をとにかく見据え、理論的な境位に立って現実の状況を分析しなければならない。
アメリカのマードックとフランスのアルノーとでは、マードックが「メディア王」であり、アルノーが世界第7位の「大富豪」である点に違いがあるとはいえる。しかし両者にとってメディアの世界への進出は、権力装置に従順な労働者の「再生産」に荷担することである。この構図をよく理解しなければならない。アメリカやフランスで起こっていることは、かたちを変えて日本でも起こっていることである。

(付記。本稿は「アソシエニューズレター」2007年10月号に掲載されたもの大幅に改稿したものである。2007年12月22日。)

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読書会のお知らせ

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いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

きたる12月19日(水)、明治学院大学言語文化研究所において、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

参加費は無料です。
当研究所の研究員も多数参加しております。
関心のある方はぜひご参加ください。
覗いてみたいという方も大歓迎です。

参加を希望される方は当日いきなり来られても結構です。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
ブログ管理担当の稲見uicp@marinenet.jpまでご連絡ください。


ブログ管理担当@稲見

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米盛裕二『アブダクション』を読む

「アブダクション」(abduction)は、19世紀末から20世紀初頭まで活躍したアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パース(1839~1914)の認識論・記号論のなかで重要な役割を演じている概念である。私が最近の著作『記号的理性批判』に収めたパース論のタイトルも「アブダクションの閃光」である。つまり、私自身もアブダクションをパースの思想の中心になる概念として考えているということである。パースは科学的・学問的な(scientific)認識の基本になる方法として演繹・帰納・アブダクションの三つをあげているが、本書で特に論じられているのは帰納とアブダクションである。それは両者が対立した思考方法であるからである。著者はこの二つの方法に関するパースのことばを反復して引用するが、それによると「帰納」は「われわれが事例のなかに観察したものと類似の現象の存在を推論すること」であり、集めた事実・材料から推論することである。これに対して「アブダクション」は「われわれが直接観察したものとは違う種類の何ものか、そしてしばしばわれわれにとって直接には観察不可能な何ものかを仮定すること」である。わかりやすくいうと、アブダクションは結論を先に提示して、あとからその原因を推論する方法である。したがってそれは遡及法といわれることもあり、本書では「仮定」とほぼ同じ意味で使われている。あらかじめ結論を推定するのであるから、その作業を実行するときには、ばあいによっては「閃光」(flash)のようなひらめきがかかわることもある。私がパース論に「アブダクションの閃光」というタイトルを付けた理由である。(パース自身が「閃光」ということばを使っている。)
「アブダクション」(abduction)という英語は、もともと「拉致・誘拐」を意味することばであり、結論を一気に持ってくる思考の方法である。そのため、ばあいによってはその推論が間違っていることもありうるのであり、またパースの認識論そのもが、きわめて特異なものであり、認識には誤りがありうるとする「可謬性」(fallibilism)の概念さえも提示した。またその推論があいまいで、ファジーなものになることも認めていた。哲学において、誤りやあいまいさを最初から容認する考えは、厳密な学問的立場からいえば、「異端」のそしりを免れないであろう。パースは大学で教えたこともあったが,正規の教授にはなれなかった。それには、彼の人格的な問題も絡んでいたといわれるが、哲学思想としての異端性も理由であろう。
最近、パースとラカンの関係が論じられているが、このアブダクションは、フロイト、ラカンから、さらにデリダへと継承されている「事後性」の概念とつながっている。「事後性は」は現在が過去を構成する操作である。本書第6章で示されている「仮説が事実を作る」という考えは、「事後性」の概念にきわめて近い。
本書はパース論であるが、著者の考察はパースひとりに限定されてはいない。帰納・アブダクションを論じていくプロセスのなかで、ミル、フランシス・ベイコンなど、関連する哲学者の思想に言及し、さらに現代の科学哲学の成果にも触れている。また、言語・記号の役割を無視するデカルトの思想に対する批判も展開されている。つまり、本書では、認識論・言語論の基本的な問題が、哲学の著作としては例外的なほどきわめて平易なことばで語られていて、読者は単にパースの思想だけではなく、関連する多様な哲学的問題へと導かれていくであろう。
米盛裕二はすでに1982年に『パースの記号論』を公にし、また同時にパースの重要な論文の邦訳も行ったが、それはわが国におけるパース研究の先駆的な仕事であった。2006年に雑誌「大航海」がパースの特集を組んだとき、原典に当たらずに邦訳だけに頼ってパース論を書く研究者がいることに、私は疑問を感じたが、逆に考えれば、米盛裕二の翻訳の価値が大きいということにもなるであろう。しかも米盛裕二は、その仕事の多くを沖縄において行っていた。アカデミシャンの多くが「東京へ」をスローガンのようにしている今日においては、きわめて注目すべき態度である。いまパースは、アメリカにおいて21世紀半ばごろまでに完成が予定されている膨大な年代順著作集の刊行、レヴェルの高い多くのパース研究によってしだいに再評価されつつあり、伝記も書かれている。フランスでもパース研究はしだいに深まりつつあり、たとえば、2005年に刊行されたロランゾ・ヴァンシゲーラ(著者はイタリアのピサの生まれというから、ヴァンシゲーラではなく、ヴィンチゲラかもしれない)の『スピノザと記号』(Lorenzo Vinciguerra,Spinoza et le signe,Vrin,2005)は、スピノザの思想をパースの記号論を媒介にして解釈しようとする試みである。ただし、このスピノザ論においてパースが十分に理解されているか否かについては、判断を留保しておきたい。フランスにおけるパース研究は、まだアメリカのパース研究のレヴェルに達してはいないように思える。また、ジョン・マラーのように、アメリカのラカン研究者のなかにはラカンの三領域論をパースの三分法と関連させて考えるひともいる。この『アブダクション』をひとつの媒介にして、パースへの関心の高まることを期待する。

付記
この書評は、2007年12月14日付の「週刊読書人」に掲載されたものに大幅な加筆訂正を行った「研究所版」である。(2007年12月12日)

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現代建築と江戸城天守閣~権力の象徴をかたちにする設計者の意識~(2)

権力者の目で見た「江戸空間」

江戸時代の国家権力が、江戸という都市、あるいはそれを取り巻くもっと広い地域を一望のもとに支配しようとして、そのイデオロギーを確保するためにつくった装置が、江戸城の天守閣である。江戸に江戸城天守閣がることによって、江戸という都市それ自体がパノプチコンとして成立していたのである。しかし、東京都政の責任者たちも、菊竹清訓も、これについて意識していなかったようである。というのは、菊竹清訓の「江戸東京ひろばの模型によるスタディ」(「AT」1993年4月号)に付されたメモでは、江戸城天守閣を「江戸町民文化のシンボル」として規定しているからである。この規定自体に問題があると考えなくてはならない。つまり、天守閣は、つねに権力の象徴であり、そのためにこそ可能な限り高くつくられたからである。「偉大な都市づくり」とは、権力者のための都市づくりにほかならなかった。そうでなければ、都市を見下ろすための天守閣は不要だったはずである。もしも、建築家自身がいうように、江戸東京博物館が、江戸城天守閣を写したものであるとするならば、それは結果としては、江戸という巨大なパノプチコン装置の監視塔としての天守閣を再生産したことになる。もちろんそれは象徴的な意味でいっているのであるが、江戸における江戸城の役割が何であったのかをよく考えた上での発想であったのか、疑わざるをえない。
日本橋を渡ると江戸城の天守閣が見えるという発想が菊竹清訓の「スタディ」のドローイングにも見えているが、天守閣はあくまでも「高さ」によって存在しているのであり、「登城」という日本語はそのことをよく表わしていることばである。『記号の帝国』(邦訳タイトル『表象の帝国』)で述べられているロラン・バルトの東京論では、東京は中心が空虚な都市として考えられている。このバルトの意見は多くのひとによって言及され、引用されているから、いまさら取り上げる必要もないかもしれないが、ヨーロッパの都市では、中心のあたりに広場があって、その周辺に政治の中心である市庁舎、宗教の中心であるカテドラルがある。バルトは、そのようなヨーロッパの都市をモデルに考えているのであるが、江戸にとっての江戸城も、東京にとっての皇居も、ひとびとが集まってくる場所という意味での中心ではありえない。
最近私は、メキシコを訪れる機会があったが、メキシコシティの中心には、リベラの壁画で有名な国立宮殿も、少し傾いている巨大なカテドラルもあり、それらの建築物が広場を取り囲んでいる構造になっている。おそらく、その近くには銀行もあるはずであり、バルトがいうように都市の中心が、同時に政治・経済・宗教などの中心になっていることがよくわかる。そして、この広場にはメキシコ特有の色とりどりのテントが張られているが、それは地方から陳情にやって来たひとたちのものだという。つまり、メキシコのひとたちは、首都であるメキシコシティの中心にあるこの広場に来ることによって、政府への「陳情」ができるのであり、そのような場所がメキシコシティには存在しているのだ。それは、欧米のほかの都市についてもいえることであろう。

監視塔が町民文化のシンボルか

しかし、江戸時代の民衆は、江戸城の天守閣に「陳情」にいくことができたであろうか。江戸城も、皇居も、一般の民衆にとっては接近できない特別な領域であり、バルトのいうとおり空虚な中心にほかならない。私は、子どものころに「少年講談」で読んだある場面を想起する。それは、江戸幕府の転覆をもくろむ由井正雪の仲間が、堀の深さを測ろうとして水に石を投げているシーンである。ここでは、江戸城ははるか遠くにある、秘密の場所にほかならない。したがって、江戸の中心にあった天守閣を、「江戸町民文化のシンボル」と考えること自体に無理がある。江戸東京博物館の発想それ自体に問題があるといわなくてはならないであろう。
江戸城の歴史を調べてみると、このことに関して興味ある事実が浮かび上がってくる。村井益男氏の『江戸城・・将軍家の生活』(中公新書)によると、江戸東京博物館のモデルである江戸城天守閣は、1606年に土台の石垣が築かれ、その翌年に五層の楼閣が完成したあと、何度も修復されたが、1657年のいわゆる振袖火事(江戸東京博物館には、この火事についての資料が展示されている)によって焼失した。天守閣再建の案が議せられたとき、将軍家綱の叔父で、補佐役であった保科正之は、「天守は今やさほど重要ではない、ただ遠くまで見渡すためにだけ莫大な財貨を使うのは無駄だ」と主張したという。江戸東京博物館をつくったひとたちは、この保科正之のことばを知っていたのであろうか。江戸時代の政治家は、江戸城天守閣をパノプチコンの監視塔として使うことに早くから疑問を感じていたのである。

権力のアナロジーがかたちに

枝川公一は、『東京はいつまで東京でありつづけるか』のなかで次のように書いている。「江戸東京博物館は、きわめて政治的な施設であり、時の東京の権力者が、過去の素材を借りて、都市の未来のためのプロパガンダを行なっている」。枝川氏は現実の問題として語っているのであるが、私は、この博物館の発想のなかに、意識としてのパノプチコン的構造への志向があるように考える。実際にこの博物館に入ってみると、高さ62メートルにする必然性はないとしか思えないからである。
私は、本誌9月号で、熊本アートポリスの再春館.製薬女子社員寮(妹島和世設計)が、企業の論理をそのまま生産したパノプチコン的構造を持ったものであることを指摘しておいた。しかし、実をいうと、私はこの再春館製薬女子社員寮のばあいは、建築家が経営者の主張に負けてあのようなものをつくらされた稀なケースであり、責任は建築家よりもむしろあのような建築を依頼した企業の経営者の側にあるように感じていたのであって、日本の建築家たちが、前近代的な企業のロジックに因えられていることなどはありえないと考えていた。しかし、私は江戸東京博物館を見て、日本の建築家たちの意識の底には、どこかでパノプチコンを容認するものがあるのではないかと疑うようになったのである。

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現代建築と江戸城天守閣~権力の象徴をかたちにする設計者の意識~(1)

大きな建築物は、多くのばあい権力・財力を持っている者たちと何らかのつながりがある。そのことを豊富な例を挙げて実証してみせたのが、デイアン・スジックの『巨大建築という欲望』(紀伊国屋書店、2007)である。この現代建築批判論の書評を、私は紀伊国屋書店から刊行されている雑誌「SCRIPTA」の最近号に書いた。しかしこの本は主として欧米の建築についての批判である。わが国にも建築批評というものがないわけではない。しかしその多くは、建築物のかたちの美しさ、機能の優秀性を称賛するばかりで、それらの建築を背後から支えているイデオロギーの領域に踏み込むことがない。そのなかで私が注目し続けてきたのは、飯島洋一と中川理である。彼らの仕事は建築を成立させる「時代精神」の批判に及んでいるからである。
かつて私の同僚であり、それ以上に私の師であった中山公男は、「今日の美術批評がダメなのは、批評の対象とすべき美術作品がダメだからです」といっていた。これは建築についても妥当する。しかし、それと同時に、ダメな建築についてはきちんと批評する必要がある。以下に公開するのは、「建築ジャーナル」(1993年10月号)に掲載された東京江戸博物館批判の拙稿である。哲学がどのように「哲学の外へ」向かって出ていこうとしたのか示そうとしたものである。(2007年12月1日記)


―・―・―・―・― 以下本文 ―・―・―・―・―


ひとつの建築は、そこにどのようにして入っていくかということがきわめて重要な要素になる。安藤忠雄が、熊本装飾古墳館をつくるときに、駐車場から古墳館までかなりの距離を設定したのは、その建築物を、そのあたりの、古墳群のなかでのひとつの要素にしようとする考え方に基づいているといわれる。この江戸東京博物館の場合は、狭い東京のなかであるから、熊本装飾古墳館のようにはいかないが、それでも、この建築へのアプローチは国技館を意識しているように思われる。つまり、この博物館は、国技館という江戸的・伝統的なものを伝える場所に隣接した位置に置かれているからである。
 
つくられた「江戸的なるもの」

「江戸東京400年の歴史を一望に集めて」(「都政研究」1993年3月号)によると、この博物館の建設については、すでに昭和30年代から用地の熱心な誘致計画があったが、両国に決定したのは、次のような理由からであるという。「(1)旧江東市場跡地(都有地)を中心にして、隣接した旧国鉄用地を買収し、約3ヘクタールの面積を確保できること。(2)交通が便利であるとともに、この地域は回向院、吉良邸宅跡、北斎生誕地などがあり、江戸東京の歴史にゆかりが深いこと、つまり、「江戸・東京的」な地域であることが、用地決定の大きな要素になっていたのである。
「日経アーキテクチュア」(1993年4月26日号)で紹介された三島叡による空中写真をよく見ると、たしかに隅田川・国技館・江戸東京博物館と並ぶと、そこに江戸的なものが浮き上がって見えてくるようにも思われてくる。しかし、それはあくまでも「空中写真」による印象である。われわれは両国というとただちに国技館、隅田川、花火等と連想する。そしてそれらが「江戸文化のシンボル」だと考える。
しかし、同時にわれわれは、両国もまた時とともに変化しつつあることに注意しなくてはならない。国技館では、相撲だけをやっているわけではない。時にはそれはプロレスの舞台にもなる。試合の終わったあとの両国駅のあたりは、興奮のさめやらない若いファンたちの熱気と声で満たされる。また両国駅を挟んで、国技館と反対側にある回向院の近くには、新しくつくられたシアターカイがある。そこで私はヴィトケーヴィッチや、ヤン・ファーブルの演劇を観たことがある。プロレスやシアターカイがつくる雰囲気はもはや「江戸的・伝統的」なものではない。国技館に隣接して江戸東京博物館をつくっても、その領域そのものは、博物館の存在とは関係なしに変化していくであろう。それは、都市のなかの建築がつねに意識しなくてはならない問題である。設計者は、東京のこのような変化を十分視野に入れてこの建築を設計したといっている。そうすると、問題はこの博物館の「かたち」ということになるが、菊竹清訓は、「江戸東京博物館の<かたち>」(「波」1993年7月号)において、この博物館のかたちが、外国や日本の伝統的な建築から借りてきたものではないことを強調している。この文章には不明瞭なものがあってわかりにくいが、広いピロティをつくる必要があったこと、自然採光をしようとしたために斜面の屋根をつくったこと、江戸城の天守閣と同じ高さにしたこと、この三つの要因が「かたち」を決めたのだと書いている。このなかで、三番目に挙げている要因がもっとも重要であり、決定的な意味を持っていると考えられる。というのは、この博物館を見て最初に感じたのは、なぜこのような大きな建物が必要なのかということであったからである。そしてこの問いのなかに、江戸東京博物館のもっとも重要な問題点がふくまれているのだ。すでに言及した三島叡による空中写真は、江戸東京博物館・国技館・隅田川、さらに筑波山も一望に収めたもので、それぞれの位置関係がよくわかる。そしてこの博物館の大きさをはっきりと示している。

権力の象徴としての62メートル

この博物館の総工費は590億円であるといわれている。そして、建築物の高さは、江戸城の天守閣の高さと同じ62メートルであるという。「江戸城を築いた当時は、関東一円を眺められるように高さを定めたのだろうと考えた菊竹氏は現代の東京のシンボルとして、その天守閣と同じ高さにすることに決めたのである」(真部保良「日経アーキテクチュア」1993年9月26日号)。また菊竹清訓自身も、「江戸東京博物館の<かたち>」(「波」1993年7月号)で、次のように書いている。「展示室の天井が異常に高いのは、江戸城の天守閣を復元・展示するためである。16世紀から17世紀にかけてのわずか50年の間に木造の超高層建築が日本全国の城下町に次々とつくられていったり、偉大な都市づくりの時代を江戸の天守閣は象徴するものである」。
この博物館には、日本橋のコピーがあって、それを渡って行かないと内部に入れない構造になっている。菊竹清訓は、『日本橋を渡ってその向こうに江戸城天守閣があるという構図」を考えていたという。枝川公一は「東京はいつまで東京でありつづけるか』(講談社刊・
1993年)のなかで、「入館者はこれを渡って、江戸の時間に誘い込まれる仕掛けである」と書いている。問題は、入館者が誘い込まれるという「江戸の時間」が、どのような性質の時間かということである。
この博物館の高さを江戸城天守閣と同じにしたということと、日本橋のまがいものを渡って江戸城に入ることというこの二つの象徴的な行為によって、われわれはこの博物館と江戸城天守閣とが、一種の鏡像的関係にあることを知らされる。これは、江戸東京博物館と江戸城天守閣とを同一化し、博物館によって江戸城を再生産しようとするものである。ここに博物館の基本的な姿勢がある。

博物館というイデオロギー装置

清澄通りのバス停を降りてこの博物館に行こうとするときは、階段を上がらなくてはならない。上がったところはすでに三階であり、そこに入場券売り場がある。この三階の部分は、広大な広場になっているが、そこにある赤いエスカレーターにのって六階の入口に向かうことになる。この三階の部分が空虚になっていて、これは不要な空間であると感じられる。圧縮すれば、もっと小さくて低い構造にすることも可能であったと思われるのであり、62メートルという高さを設定するために、無理に空間をつくったのではないかと勘ぐりたくなる。巨大な建築ではあるが、密度に欠けているのである。
江戸東京博物館がこのように巨大なものであるのは、すでに述べたように、それが江戸城天守閣の再生産を求めたからである。「再生産」という耳慣れない用語を使ったが、それは「複製」と同じことであり、「コピー」といってもいいであろう。たまたま私は、ルイ・アルチュセールの仕事を再検討する機会があったが、アルチュセールのいうイデオロギーという概念に重要な意味が含まれているのを知った。アルチュセールが1969年に発表した「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」という論文があるが(三交社刊『アルチュセールのイデオロギー論』に収められている)、それによると、国家は抑圧装置であり、またイデオロギー装置である。抑圧装置としての国家は、暴力や強制によって機能しているが、イデオロギー装置としての国家は、学校・政党・組合・家族など私的なものを媒介にして機能している。博物館もまた、このようなイデオロギー装置のなかに入れることができるであろう。それはいわゆる「社会教育」の場所であり、そこで国家の持っているイデオロギーが再生産されることになる。アルチュセールのばあいは、国家というものにアクセントを置き過ぎる傾向があり、私はそこに企業のイデオロギーもつけ加える必要があると思うが、いずれにしても、博物館もまた「イデオロギー」の再生産の場所として、つねに機能する可能性を持っているのである。
また、アルチュセールのイデオロギー論で注目しておきたいのは、イデオロギーの領域ではいつも同じものが反復され、複製(再生産)されているということである。アルチュセールは、イデオロギーの領域を超えて、認識論的切断をすることを求めているのであるは、このイデオロギー論は、江戸東京博物館の問題を考えるときにも、きわめて有効であるように思われる。

(次回へ続く)

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アルチュセールの星座へ~読むという行為~(2)

<二つの装置の関係>
 
ひとつは、抑圧的国家装置とイデオロギー的国家装置の相互的な関係という問題である。もちろんこの問題はアルチュセール自身が意識していた問題である。それは、伝統的・古典的なマルクス主義では、下部構造と上部構造の関係というかたちで提示される。そして、上部構造は下部構造の「反映」だということになる。二番目の問題は、「呼びかけ」(interpellation)のあり方についてである。三番目の問題は、このようなアルチュセールの考え方とデリダの思想がどのようにかかわるかということである。デリダがフロイトから導入してきた「事後性」の概念を、アルチュセールとからませることができるのではないかとうのが、私の仮説である。
さて、アルチュセールは、抑圧的国家装置とイデオロギー的国家装置の関係について次のように問題を提示する。(引用は西川長夫、伊吹浩一他訳『再生産について』平凡社、2006による。)この二つの「装置」という考え方の起源は、もちろんマルクスにある。「土台の最終審級における決定によって決定されたものとしての、上部構造の階の効力(あるいは決定)の指標は、マルクス主義の伝統においては、次の二つのかたちで考えられている。1 土台との関連において上部構造の<相対的自律性>が存在する。2 土台に対する上部構造の<反作用>が存在する。」(p.328) これをアルチュセールの用語で言い換えると、イデオロギーにはある程度の自律性があり、そればかりか、イデオロギーは抑圧的国家装置に対して影響を与えることがあるということになる。「相対的自律性」、「上部構造の反作用」ということばに注意すべきである。

<スピノザの影>

「講義」ではほとんど触れることができなかったが、アルチュセールのイデオロギー的国家装置論にはスピノザの影がある。これは「イデオロギーとイデオロギー的国家装置」では明確に示されはいないが、『未来は長く続く』(宮林寛訳、河出書房新社、2002)を読むと、スピノザに対するアルチュセールの熱狂的・絶対的な敬意、驚き、賞賛を感じないわけにはいかない。アントニオ・ネグリのスピノザ論『野生のアノマリー』を読むと、「驚くべきことだが・・・」ということばが目に付く。ネグリはスピノザの思想に驚きつつ、その驚きをもとにしてスピノザ論を書いたのである。アルチュセールのスピノザに対する態度にも、ネグリと似たものがある。アルチュセールは、ヘーゲルがスピノザを「最高の哲学者とみなしたのは偶然ではない」とのべたあと、(『神学政治論』において)「スピノザがイデオロギーの性質をめぐる驚異的な意識に達した」と確信したと書いている(p.292)。スピノザの思想は、アルチュセールにとっては「驚き以外のなにものでもない」(p.293)のである。それはスピノザが「イデオロギー的国家装置」の概念にすでに到達していたからである。アルチュセールは、「ユダヤ民族の宗教的イデオロギーと、寺院、神官、供犠、戒律、典礼、など、イデオロギーの物的存在との関係をめぐるスピノザの概念形成に舌を巻いた」(p.293)のである。ここで「舌を巻いた」と訳されているフランス語は「adomiration」である。それは「驚き」であり、「感嘆」である。ひとりの思想家が、過去の思想家に対して「驚き」の感情をもって接していることに、私は深い感銘を覚えた。 ここでアルチュセールが「イデオロギーの物的存在」といっているものは、イデオロギー的国家装置にほかならない。アルチュセールは、イデオロギー的国家装置として、教会・学校・家庭・文化などをあげているが、スピノザはすでに早くからそうした装置の重要性に気付いていたのであり、アルチュセールはそのようなスピノザの鋭い眼を理解できる哲学者であった。スピノザに対するアルチュセールの敬意と似たものは、ラカンにも存在していた。ラカンが若いときからスピノザに傾倒していたことは、ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』に明確に示されている。そうすると、スピノザを中心にして、アルチュセール、ラカンを含んだ「星座」を作ることができる。「星座」の概念はベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』の冒頭で示されているが、そのばあい星座を構成するそれぞれの「星」は、ベンヤミンのことばを借りれば「思考像」(Denkbild、thinking image、thought-image)である。(「思考像」については、最近「モルフォロギア」29号に書いた拙稿「像と言語」を読んでいただきたい。)それらの思考像を集めて「星座」を作るときに作用するのは「ラプソディー」のようなもの、つまりきわめて非合理的なものである。それは、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースの推論の方法であるアブダクション(結論を先に提示する方法)についてもいえることであり、そこには一瞬の「閃光」が介入する。(パースのこの方法については、拙著『記号的理性批判』に収めた「アブダクションの閃光」で詳説した。)

<アルチュセールの諸概念の星座>

そのベンヤミンの謎に満ちた論文「翻訳者の使命」について鋭い分析をしているポール・ド・マンは、晩年にアルチュセールに深い関心を抱いていたといわれる。そのことについて少し触れているのがクリストファー・ノリスの『ポール・ド・マン』であるが、そのノリスは『スピノザと近代の批判理論の起源』のなかで、アルチュセールの重要な概念のひとつである「構造的因果性」がスピノザに由来するものであると指摘する。スピノザはアルチュセールにとって「真の構造主義者」である。「構造的因果性」は、アルチュセールのもうひとつの重要な概念である「重層決定」と重なる。「因果的諸関係の全体の秩序を知覚すること」が求められる。それは「単なる偶然的な時間・空間の限界を超えた、純粋で(実際に神にも似た)理性的な知性に対して現れてくる因果的諸関係」(Christopher Norris, Spinoza and the origins of modern critical theory, Blackwell,1991,p.37)にほかならない。それがまさに「構造的因果性」である。ノリスはこのアルチュセールの概念にスピノザの『エチカ』で示されている思考そのものを見出している。スピノザが求めた「必然的な真理」(p.38)が、アルチュセールにおいては「構造的因果性」となる。なお、付言しておくと、ロランゾ・ヴァンシゲラの『スピノザと記号』(Lorenzo Vinciguerra,Spinoza et le signe,Vrin, 2005)はスピノザとパースとを星座的に結ぼうとするスピノザ論である。
また、アルチュセールは『資本論を読む』のなかで、スピノザの思考の方法の画期的な新しさについて次のように述べている。「スピノザは、デカルトの観念論のなかに潜在するドグマティックな経験主義と呼ぶべきものに反対して、認識の対象あるいは本質はそれ自体で、現実的対象から絶対的に区別され、異なっている都とわれわれに警告した。なぜなら、彼の有名な言葉を借りて言えば、二つの対象、すなわち認識の対象である円の観念と現実的対象である円とを混同してはならないからである。」(『資本論を読む 上』,p.74)これはきわめて重要な見解であり、『資本論を読む』はこの思想にもとづいて書かれているといっても過言ではない。アルチュセールのマルクス読解の基本である「認識論的切断」は、このスピノザの考えの適用である。
こうして、スピノザ、マルクス、アルチュセールの三人が作る星座が輝き始める。また、アルチュセールの提示した概念である「構造的因果性」「認識論的切断」「重層決定」などが、けっしてばらばらに存在するものではなく、それらの概念そのものが、一種の「思考像」としての役割を持ち、相互に結合して星座を形成する。アルチュセールを読む作業を通じて、彼の作ったさまざまな概念を相互に星座に形成することができるのであり、この星座によって、ふたたびそれらの概念の力を認識できる。星座はこのような力を持つものである。 

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アルチュセールの星座へ~読むという行為~(1)

はじめに

このアルチュセール論は、アソシエ21の「アソシエ」19号(2007年8月)に、ゼミ風の研究会「アルチュセールを読む」の紹介文として書かれたものである。しかし、それは同時にアルチュセール論にもなると思い、ここに公開することにした。初出では17枚ほどであったが、この「研究所版」は加筆・訂正をしたので20枚近くになっている。「初出」での誤記・誤植も直した。特に、スピノザの仏訳者としてピエール・マシュレーの名をあげたのは私の思い違いで、ロベール・ミスライであった。ここでお詫びして訂正させていただく。(2007年12月3日)



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アメリカのラカン研究者ブルース・フィンク(Bruce Fink)はラカンを「研究」しているだけではなく、ラカンの理論を使って、いわゆるセラピー(治療)もしているし、その実践的・臨床的な経験を踏まえ、ラカンについていままでのところ3冊の著作を刊行している。そのうちの一冊『ラカン的主体』(The Lcanian subject,Prinston University Press,1995)の裏表紙にスーザン・バック=モースが推薦文(advance praise)を書いている。「ブルース・フィンクはラカン理論の受容において、あまりにも忘れたれてきたことを想起させてくれる。つまりラカンの理論は、精神分析の実践に由来するものであり、またそれを記述したものだということである。」(スーザン・バック=モースは、ベンヤミンの『パサージュ論』研究である『見ることの弁証法』の著者として著名であり、アドルノ研究でも知られている。)フィンクのラカン論を読むと、彼がアメリカでの精神分析医の養成に大きな不満を抱いていることがわかる。それはアメリカでのラカンの受容の仕方に問題があるということでもある。そうした疑問を提示できるほど、フィンクは自分のラカン解釈に自信をもっている。フィンクのラカン論の出発点は、ラカンがフロイトの読解に使った方法、つまりフロイトのテクストを厳密に読むという方法をラカンに対して用い、『エクリ』『セミネール』を丁寧に読むことであった。「ラカンを精神分析する」ことがフィンクのラカン論の基本的態度である。
またラカンの著作『エクリ』の英訳は、いままでシェリダンによる抄訳と、単発的に雑誌などに掲載されたものしかなく、その抄訳には有名な「盗まれた手紙についてのセミネール」も含まれていなかった。フィンクは英語圏におけるそのような欠如を補うべく、エロイーズ・フィンク(フィンクの夫人であろう)、ラッセル・グリッグの協力を得て全訳を刊行した(J.Lacan,Ecrits, translated by Bruce Fink,W.W,Norton &Company,2006)。その序文には「もし誤訳を発見したならば、出版社気付けで知らせて欲しい」と書いてある。ラカンを徹底的に読むために、フィンクは『エクリ』の翻訳を試みたのである。そのサブタイトルには「最初の完全英訳版」と記されてある。またフィンクが2004年に発表したラカン研究は「文字通りにラカンを読む」という意味のタイトルである(Bruce Fink,Lacan to the letter,reading Lacan closely,University of Minnesota Press,2004)。サブタイトルは「ラカンを厳密に読む」であるが、このラカン論の序文にも、「一行ずつ読む」(a line-to-line reading)という表現を見出すことができる。そしてフィンクは、「ひとつのテクストの読解は、精神分析に似ている」というラカンの見解に同意する(p.43)。フロイトの方法をラカンがフロイトについて用い、それをまたフィンクが使うという構図である。
われわれが2005年5月から始めた「アルチュセールを読む」は、3年目に入った。2007年は、ヘーゲルの『精神現象学』刊行後200年にあたる。フランスで1933年から39年まで『精神現象学』を講じていたアレクサンドル・コジェーヴの仕事は、きわめて影響力の強いものであったとされている。バタイユ、メルロ=ポンティ、ラカンなどが出席していたこの講義の記録の一部は、『ヘーゲル読解入門』(上妻精、今野雅方訳、国文社、1989)によって読むことができる。(この翻訳はきわめてすぐれたものであるが、残念なことに全訳ではない。)ベンヤミンやアドルノもコジェーヴの講義を聴いたことがあるらしいが、『ヘーゲル読解入門』を読むと、コジェーヴがいかにヘーゲルのテクストを慎重に、丁寧に、しかも熱を込めて「読解」しようとしたかがわかる。ヘーゲルの書いたものを一字一句、厳密に読んでゆくだけではない。いわばヘーゲルがコジェーヴにのりうつったかのような、コジェーヴがヘーゲルの「いたこ」になったような気配さえ感じることができる。コジェーヴは「魔術師」とも呼ばれたひとで、彼の講義が終わると、受講者は茫然とするばかりであったという。そこにはコジェーヴの「演劇的な」身振りも一役演じていたらしいが、それにしてもヘーゲルに対する徹底的な敬意、熱中が、彼の「一行ずつの読解」を支えていたことは確かであろう。コジェーヴの仕事の重要性はわが国でも一部では認識されているが、まだ不十分である。ヘーゲルの『精神現象学』刊行200年を記念する論文集に掲載予定の拙稿「コジェーヴからヘーゲルへ」を読んでいただければ幸いである(社会評論社より近刊)。ラカンもコジェーヴから大きな影響を受けたひとりであるが、ルディネスコの『フランス精神分析の100年史』によると、コジェーヴの訃報を聞いたラカンは急いで彼の家に弔問に出かけ、その書斎からコジェーヴの書き込みのある『精神現象学』を持ちだしてきたという。
また、ジャック・デリダはハイデガー、ベンヤミンのテクストを読み、その報告は、ハイデガーについては『精神について』、ベンヤミンについては『法の力』などで知ることができるが、それらもまたきわめて厳密なテクスト読解である。ベンヤミンの書いたものをフランス語に訳したひとりがモーリス・ド・ガンディヤックであるが、デリダはこの訳者に対する敬意を示しつつ、ベンヤミンの原文と照らして解読している(ガンディヤックは学生のころ、フランスの右翼団体であるアクシオン・フランセーズに属していて、その指導者であったシャルル・モーラスに心酔していたらしいが、エリザベート・ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』(藤野邦夫訳、河出書房新社)には、しばしばラカンとともに登場しいているし、ベンヤミンの仏訳のほかにも、ヘーゲルの『精神哲学』の仏訳などもしているし、新プラトン主義の研究者としてもすぐれた仕事を残したという)。さらにラカンの一連の『セミネール』などを読むと、彼がどれほど綿密にフロイトのテクストのドイツ語原文を読み込んでいたかがわかる。要するに、目の前にあるテクストに価値があるならば、それに対しては一字一句をおろそかにしないで読む作業が必要である。ロベール・ミスライによるスピノザの『エチカ』の翻訳も熱のこもったものである。その序文には、スピノザに対するミスライの敬意が溢れている。もちろんその場合、「木を見て森を見ず」にならないように注意すべきではあるが、一本一本の樹木の存在がどうなっているかをきちんと見ておくことが必要である。
アルチュセールについても私はこの方法をとることにした。それはアルチュセールがマルクスのテクストを読むときに用いた方法である。『資本論を読む』の冒頭でアルチュセールは次のようなきわめて印象的な考えを述べている。「いつかはきっと、『資本論』を文字通りに読まなくてはならない。テクストそのものを、四巻全体を、一行一行読むこと、第二巻の荒寥として平坦な高原から、利潤・利子・地代の約束地に辿り着く前に、第一巻の最初の章、単純再生産と拡大再生産の図式を何度も繰り返し読むこと。いやそれどころか、『資本論』をフランス語版で読むだけですますのではなくて、少なくとも基本的な理論的諸章や、マルクスの鍵概念があふれているすべての章は、ドイツ語のテクストで読まなくてはならない。」(今村仁司訳『資本論を読む』ちくま学芸文庫、1996、p.18)これはきわめて重要な一節である。およそ何らかのテクストを「読む」ときには、可能な限りこのアルチュセールの方法に従うべきであろう。
このアルチュセールのマルクスを読む方法を、アルチュセール自身の著作について使うことが求められる。われわれの「アルチュセールを読む」においては、邦訳を使うのはいうまでもないが、フランス語の原文と、可能なばあいは英訳も参照して、一語一語を検討した。フィンクのいう「一行ごとの読解」(a line –by-line reading)の実践である。
2005年5月からは、アルチュセールの「フロイトとラカン」を読んだ。(ついでながら、「フロイトとラカン」の英訳者は『巨匠たちの聖痕』『革命と反復』などの著者ジェフリー・メールマンである。)アルチュセールには、ラカンの大きな影響があるといわれているが、それが具体的にどういうことなのかを考えようとしたのである。アルチュセールはラカンのテクストを厳密に読んでいるとは思えない。ラカンの具体的なテクストが指示されてはいない。(ラカンの『エクリ』の刊行が1966年であったことが改めて想起される。)それにもかかわらず、アルチュセールの読解には、ラカンの思想の本質をつくものがあることがわかった。そこで論じられたことで、いまもなお重要な論点は、「動物としての人間から人間としての人間へ」という移行の問題である。それは具体的には「言語」の習得にかかわることであり、ラカンの三領域論のなかの「ル・サンボリック」の問題である。この「ル・サンボリック」の問題が、イデオロギー的国家装置論と直接に関連するものであることが、しだいにわかってきた。また、ジジェクがこの問題に関心を持っていることもわかった。
こうした「フロイトとラカン」の解読のあと、2006年度は、「イデオロギーとイデオロギー的国家装置」を読んだ。これは「フロイトとラカン」をある程度まで理解したあとの作業であるということに意味があると思う。ゆっくり丁寧に読んだから、2007年12月になっても、実はまだ半分も来ていない。しかし、これまで読んで来た部分にも、多くの、そして重要な問題がある。ここでは、そのうちのいくつかを次回に取り上げて考えておきたい。

(続く)

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シンボル論 研究所版

ここに公開するのは、可視化情報学会の機関誌「可視化情報学会誌」(第17巻、66号、1997)に発表した論文である。シンボルの問題はきわめて範囲が広く、また非常に深いものである。私の現在での関心とのかかわりで言うならば、シンボルはイメージの問題のひとつの分野であり、このイメージ(像)の問題はさらに大きいものである。いまの問題意識から私は「像と言語」という論文を「モルフォギア」(第29号)に発表したばかりであり、10年前のこの「シンボル論」とのつながりと断絶とを自分自身で確認しているところである。つまりこの「シンボル論」は、いまならば大幅に書き直されるであろう。しかしとりあえず初出のままここに公開する。なおこの論文は、いままで私が刊行した単行本には収められていない。(2007年11月29日)


―・―・―・―・― 以下本文 ―・―・―・―・―



シンボル論 研究所版         

宇波彰



1 シンボルとは何か

今日、 シンボルということばは、さまざまな領域で使われている。いたるところで「シンボル・マーク」が用いられ、「シンボル・タワー」が建てられる。『シンボル大事典』(大修館)という、世界のさまざまなシンボルを集めた事典さえ刊行されている。県木や県花というのも、その地域を象徴する一種のシンボルとして機能しているように見える。しかし、どのばあいもシンボルという用語の使い方はきわめてあいまいである。手元にあるいくつかの小型の国語辞典を引いてみると、いずれも「象徴・表象、記号・符号」といい直してあるだけでよくわからない。会社や学校、あるいはひとつの都市のシンボル・マ-クということが最近しばしば話題にされはするが、それをたとえば「象徴標識」と訳すことはできないだろう。また、「表象」も、しばしば使われることばではあるが,歴史的にその意味を変化させてきたことばであり、もともとは心理学の用語として、心のなかに浮かぶ、対象の心的なイメージを意味した。普通の辞書にはその意味しか記されていない。しかし現代哲学や現代芸術の世界では、対象や概念を何らかのかたちで具体的に表現したものが表象であるとされる。表象にあたる英語は、REPRESENTATIONであるが、それは(台本の)上演をも意味している。もとにあったものを写し変えたものが表象である。伝統的な芸術はこの表象という概念をもとに成立していた。ところが、のちにも述べるように、20世紀になって、実在や既成の概念をただ表象するだけでは芸術は成立しないのだという主張がなされるようになり、「表象の崩壊」ということさえいわれている。そのため最近では表象を象徴の同義とすることはほとんど不可能になっている。
常識的に考えて、象徴は「鳩は平和の象徴である」という辞書の例文が示しているように、抽象的なものを表す、かたちのある具体的なもののことを意味していることが多いように思われる。フランスの『プチ・ラル-ス』では、シンボルについてはっきりと「概念を表象する形象的記号」という定義が与えられている。この定義では、シンボルが形象(かたち)を持つものであると規定されていると同時に、記号のなかに象徴が含まれると考えられていることがわかる。
しかし他方では、象徴と記号の区別がはっきりせず、訳語にも混乱があることも確かである。シンボルは単純な記号・符号でもある。たとえばシンボリック・ロジックは「象徴論理学」ではなく「記号論理学」と訳すべきものであり、このばあいは、ことばによる論理操作を、記号(シンボル)を使って簡単にしているということである。記号論理学においては、シンボルは単なる記号にほかならない。要するに、象徴も記号もあいまいな定義しかされていないように思われる。シンボルの問題を考えるときに重要な文献のひとつは、フランスの哲学者ジルベ-ル・デュランの『象徴の想像力』(せりか書房)であるが、その冒頭に次のように記されてある。「イマ-ジュ・記号・アレゴリ-・象徴・標識・比喩・神話・形象・イコン・偶像などの用語が、ほとんどの論者によって無差別に使われている。」(p9)また、すでに述べたように、最近では「表象」ということばも使われることが多い。今日では,企業や学校のアイデンティティを示すためにシンボル・マ-クが使われることが多くなっている。それはその企業・学校などの特質を表現したり、単にかたちの美しさだけを求めるばあいもあって、一概に規定できない。しかしそれらのシンボル・マ-クも、いままで使われてきた、伝統的なシンボルと関連するものがあるはずである。基本的には、シンボルは目に見えないものを、かたちのある、目に見えるものとして表現したものである。それはまさに「可視的な情報」を伝達する機能を持つものである。シンボルはいたるところに存在するように見えながら、他方ではその力を失いつつあるようにも感じられる。
最近翻訳された『記号の歴史』(創元社)のなかで、ジョルジュ・ジャンは次のように書いている。「ギリシア人は、ケレス、キュベレ、ミトラ教の秘教に入信した人々が互いを見分けるために使った言葉や記号のことを象徴と呼んだ。今では象徴という言葉はそこから拡大して、本質的な部分が似ていたり、慣用的に同類とされているものによって別個の実体を表現する記号のことを意味するようになった。象徴体系の世界は広大で魅惑的だ。」(p170)はたして今日においても、象徴体系の世界が広大で魅惑的であるかどうかは別に考えなければならない問題であるが、とにかくジョルジュ・ジャンは、象徴が記号のなかに含まれるものと考えているのであって、これが今日の一般的な理解である。またここでジョルジュ・ジャンが「慣用的に同類とされているものによって別個の実体を表現する記号」と書いていることに注意しておくべきであろう。のちにも述べるように、シンボルの機能は「慣用」によって決定されてくるからである。また、根本的にはシンボルは記号のひとつであると考えなければならない。したがって、シンボルについての考察は記号論のなかでなされるものと見ることもできるのであるが、なぜか最近の記号論では、シンボルそのものが直接には論じられることが少なくなっている。たとえば、今日の記号論の教科書的な著作であるロラン・バルトの『記号学の原理』(みすず書房刊『零度のエクリチュ-ル』に所収)でも、またウンベルト・エーコの『記号論』(岩波書店)でも、シンボルについて特に言及していない。それはおそらくシンボルは記号のひとつにすぎないという前提があるからだと思われる。しかしまた、記号論においてシンボルが特別に論じられなくなったのは、のちにも述べるように、シンボルそのものの力が小さくなったからではないであろうか。一般的に言って、論じられる対象の意義が薄れたり、力が小さくなってくると、その対象についての議論が少なくなってくる。たとえば、すぐれた美術作品が制作される時代には、美術批評も活発になる。批評は作品が存在してのみ可能になるからである。それと似たような現象がシンボル論にも生じていると考えることができる。

2 パースのシンボル論について

このような状況から考えると、シンボルについて考えるためには、記号論についての考察が必要になるはずである。今日の記号論には、フランスを中心として、主としてロラン・バルトによって展開されたフランスの記号論と、プラグマチズムの伝統を受け継いだアメリカの記号論という大きな二つの流れがあると考えられるが、アメリカの記号論が哲学者チャ-ルズ・サンダ-ス・パ-スから大きな影響を受けていることはよく知られた事実である。そのパ-スの哲学と記号論が、最近になって再評価されつつあるが、それはシンボルについて考えるためには、シンボルの価値が高く認められていたらしい100年前にさかのぼって考え直す必要があるということかもしれない。いまパースの年代順の全集が刊行されつつあって、この特異な哲学者の思想が徐々に解明されつつあるが、30巻からなるという全集の刊行が終了するのはかなり先のこととされていて、パースの研究者は草稿にあたって調べることもあるらしい。広い範囲にわたって活躍したこの哲学者の仕事はわが国でもかなり多くの研究者が論じてはいるが、まだ決定的なパース論はでていないように思われる。ただ、最近のアメリカではパースに関する著作や論文集が次々に刊行されているし、ドイツでは哲学者のオットー・アーペルが積極的にパースを評価する仕事をしていて、それはすぐに英語に訳されてもいる。またフランスでも、1993年にクロディーヌ・ティエルスランの『パースとプラグマチズム』(Claudine Tiercelin,Peirce et pragmatisme,PUF)というパース論が現われているのであって、パースの再評価が国際的に進んでいると見ることができる。
すでによく知られていることであるが、パ-スは、1885年に発表した「論理学の算数について」などにおいて、記号には三つの種類があるという考え方を示し、その考え方をその後も維持し続けた。パ-スの記号論は、論理学と密接にかかわるものであり、記号論はほとんど論理学と同じものとされている。そのためパ-スによる記号の分類では、記号と実在(現実)との関係のあり方が基準になっていて、記号はイコン(類似記号)、インデックス(指標記号)、シンボル(象徴記号)の三つに分類される。米盛裕二氏の『パ-スの記号学』(勁草書房)によると、対象と類似しているものがイコンであり、ティエルスランによると、生地の断片がその生地全体の色などの見本になっているとき、その断片はイコンとして機能していることになる(p67)。また,対象と「事実的に連結し、その対象から実際に影響を受けることによってその対象の記号となる」ものがインデックスである。風見鳥はインデックスの例としてよくあげられる。煙は火のインデックスである。そしてシンボルは精神・心的連合・解釈思想といった「第三のものの媒介によってその対象と関係づけられている」ものである。(p144)類似性、事実的直結、解釈項の存在が、この三つの記号のそれぞれの特徴である。パ-スによるこの分類は、今日しばしば言及されるものであるが、もちろんそれについては異論もあるのであって、たとえばパ-スから大きな影響を受けているイタリアの記号学者ウンベルト・エ-コは、この三分法に反対であるという。しかし、一般にはパ-スが記号のなかでシンボルを最も重視していたのもよく知られていることである。
パ-スの理論は、19世紀の後半に作られたものであり、今日では批判があるのは当然であるが、それが今日あらためて問題にされるのは、パ-スの理論が時代を超えて有効なものを持っているからにほかならない。それは、パ-スの記号論はつねに記号とそれ以外のものとの関係を視野に入れていたからである。アメリカ思想の伝統に忠実であり、またそれを新しいかたちで展開させたパースの記号論は、シンボルを中心とする記号を実践的なものと関連させて考察している点で、きわめてアメリカ的であるといえよう。1996年にパ-スの記号論について現代の立場からか考察した論文集が刊行されたが、そのなかに収められた「パ-スのシンボル論」において、ジョン・J・フィッツジェラルドは、「記号についてのパ-スの論文の多くはシンボルを論じている」と書いている。(Peirce's doctrine of signs,Mouton de Gruyter,p161) その上で、フィッツジェラルドは、記号とその対象と解釈項という、記号の意味作用を形成する三つの要素について論じている。この三つの要素は、「解釈項は記号を通して対象と関係する」という関係にある。このフィッツジェラルドのパ-ス解釈はシンボル論にとっても重要である。というのは、ここで記号について論じられていることは、そのままシンボルに当てはまるからである。シンボルが何を表現しているのかが対象との関係の問題であり、それをどのように解釈するのかは解釈項の問題だからである。シンボルについて考えるときには、シンボル・対象・解釈項という三つの要素を視野に入れておかなくてはならないというパ-スの指摘は今日でも十分に通用する。ス-ザン・ランガ-が『シンボルの哲学』(岩波書店)のなかで、「普通のサインの機能には、三個の買うべからざる項、すなわち、主観、サイン、および対象がある」(p76)と書いているのは、パ-スの理論を意識し、また解釈項を人間と見てのことである。ランガ-が「主観」といっているのは、「解釈者」のことと考えられるからである。シンボル論は、この三つ要素の関係の考察である。バルトの記号論では、記号はあくまでもシニフィアン・シニフィエの関係の中で意味を持つものであり、第三項の介入は考えられてはいなかった。したがってバルトの記号論では「解釈項」「主観」という要素が欠けているように思われる。
ただし、ここで少しつけ加えておくと、パ-スの記号論に人間的な要素があると考えることについては、ウンベルト・エ-コは批判的である。たとえばエ-コは『記号論1』(岩波書店)のなかで次のように書いている。「パ-スが解釈項というもの(それは最初の記号を翻訳し、説明するまた別の記号であったし、それは無限に反復される過程である)を想定される解釈者の心の中での心的な出来事でもあると考えていたことを否定しない。ただ私が主張したいのは人間中心的」ではない形で解釈することも可能だということなのである。」(p21)しかし私は,いまパースの思想を再評価するときには,そこに含まれる人間的なものを視野に入れる必要があると考える。パースの思想の再評価の大きな理由のひとつが、彼の記号論に含まれる人間的・実践的な要素であると考えられるからである。すでに述べたように、構造主義の時代には、人間的なものは意識的に排除されていて、そのためにバルトのように「作者の死」を唱えたり、ミシェル・フーコーのように、「人間の死」について語る必要があった。しかしその時代が過ぎたいま、われわれはどこかで人間的なものの回復を望んでいるように思われる。ロシアの文学理論家ミハイル・バフチンの仕事も、今日徐々に再評価され、再検討されているが、バフチンがながいあいだにわたって抱き続けていた重要な考え方のひとつが、「アーキテクトニクス」である。それは「システム」に対立するものであるが、システムが均質的で、中心を持たないのに対して、アーキテクトニクスはバフチンによって,「具体的で、個別的な部分と局面とを、焦点があり、不可欠で、勝手ではないやり方で配分し、関連させること」として規定されている。(Rethinking Bakhtin, Northwestern University Press,p21) これは、ある点に焦点があるので、均質な構造ではなく、建築の構造のように,どこかに柱のような中心になるものが想定されている。アーキテクトニクスは、パースの記号論のばあいと同じように,バフチンがポリフォニー(多声的構造)やカーニバル(異質なものが混合して存在する状況)の理論とともに、長年にわたって培った概念である。舞台は異なるとはいえ、これは現代思想において人間的なものの回復が求められているひとつの証拠と見ることができるだろう。
通常,シンボルについて積極的な考察をしてきたのは,宗教学と精神分析であるといわれる。ただしフロイトのばあい,シンボルはつねに性的な意味をもたされていて、そこには一種の還元主義がある。ユングにおいてもシンボルの象徴性は神秘的なものとつながる。さらにラカンの思想においては、シンボルの世界は言語の世界である。しかし、通常の理解では、シンボルは言語そのものであるよりも具体的な形象性を持ったものである。簡単な例をあげると、東ヨ-ロッパのいわゆる東方正教会で用いられているイコン、ギリシア正教の信者の家で信仰の対象にされているイコン、ギリシアの土産屋で売られている安っぽいイコンなどにおいてのみならず、欧米の美術作品でしばしば使われる「聖ゲオルギウスとドラゴン」というテ-マがある。聖ゲオルギウスはキリスト教もしくは正義の象徴であり、ドラゴンは悪の象徴として、大地の底から現れたものとして描かれる。多くのばあい、画面のどこかに穴が空いていて、それは地底の闇の世界に通じている。そこからドラゴンが地上に現われてきたのである。現代美術では正邪の対立という解釈は成立しなくなっているが、それでも聖ゲオルギウスとドラゴンとがシンボルとしてある時代までは象徴的な意味を持っていたことは確かである。そのばあい、キリスト教も、正義も、そして悪もきわめて抽象的なものであり、常識的に考えて、シンボルは目に見えないものを目に見えるようにするものとして定義できるであろう。抽象的で、不可視のシニフィエを可視的にしているシニフィアンがシンボルである。人間の社会生活では、われわれの目には見えないものが数多く存在している。シンボルはそれを見えるようにする働きをする記号である。

3 シンボルの価値の低下

ここまでシンボルについての定義の問題を論じてきた、それはシンボルがいたるところに存在していることが前提とされての議論である。しかし、その前提はすでに崩れているのではないだろうか。現代は映像の時代と言われていて、いたるところに写真・映画・テレビ・広告などのイメージがあふれている。そこにはシンボルもあふれていると考えられるかもしれない。しかし、そのような現代においてシンボルはかならずしも重要な意義を持つものとはみなされていない。シンボルは記号のなかに含まれると考えらるが、すでに述べたように、現代の記号論ではシンボルの問題は中心には置かれていない。シンボルそのものが力を失いつつあるからである。それにはいくつかの理由があると考えられる。ジルベール・デュランはそれが7世紀にビザンツ世界で起こったイコン破壊運動(イコノクラズム)に起因すると主張する。
シンボルは基本的には目に見えないものを目に見えるかたちで表現するものである。そこにはかならず変形や歪曲が存在する。シンボルの歴史をかえりみるとき、不可視のもの、特に宗教的なものを可視的なものにすることについては、ときおり批判的な動きがあった。ユダヤ教では偶像の崇拝は禁止されていた。すでに言及した東ヨ-ロッパに広まっているイコン(聖画像)は、民衆が神という目に見えないものに近づくための手段であるが、ビザンツ世界では7世紀ごろ、それは神を直接に信仰するのには妨げになるという理由で、いわゆるイコン破壊運動(イコノクラズム)が起こった。すでに言及したジルベ-ル・デュランは、このイコン破壊運動がさまざまなかたちで西欧の思考の根底にあるという意見を述べ、デカルトからサルトルにいたるフランス哲学も、基本的にはイコン破壊運動の系譜の中にあると指摘した。デュランは『象徴の想像力』のなかで次のように書いている。「西欧文明の歴史において、シンボルの価値が最も低下するのは、デカルト哲学に由来する科学主義の流れにおいて現れた状態であろう。」(p31)たしかに、明晰で判明な理性的認識を最も重視するデカルトの哲学では、想像力の役割は低く見られていて、イメージ・シンボルの価値は否定されることになる。デュランは、デカルトからさらにプラトンまで遡ることができる反想像力の系譜が、西欧精神を閉じ込めているのだと考える。デュランは、この動きが実際の美術作品に対しても影響をおよぼしていると主張する。そして、「このような徹底的なイコン破壊運動は、絵画と彫刻の美術的なイマ-ジュに対して重大な作用を及ぼさずには展開するものではない」(p34)と指摘し、17、18世紀のフランス美術が「全体の傾向として、純粋な気晴らし、純粋な装飾へと小さくなっている」と述べている。デカルトの思想が、芸術の世界にまで影響を及ぼしているかどうかはにわかに判断しがたい問題ではあるが、シンボルの力を回復させようとする試みは、おそらくデカルトとの対決を避けることができないであろう。
その意味で、モリス・バ-マンの『デカルトからベイトソンへ』(国文社)は、ギリシアに起源があり、デカルトが確実なものにした、あるいはデカルトに「象徴」される、西欧の基本的な反象徴的な意識を詳しく分析している。バ-マンは、「世界の魔法が解ける」というマックス・ウェ-バ-のことばを引用して論を進める。それは、近代の人間にとって、物質的な世界と精神的な世界、外の世界と内側の世界とがしだいに分離されていくということである。この二つの世界がつながっている意識をバ-マンは「参加する意識」といっているが、それは古い世界観であり、近代の人々はそれを「劣ったものとして、自分はもう卒業した幼稚な世界観として」見る(p70)。近代人は「魔法から醒めた」のであるが、「制限はされながらも確固として生き場所を持っていた参加する意識が、科学革命の到達によって、根絶の運命をたどっていく」(P74)ということになる。バ-マンはこのプロセスは、近代になって決定的なものになったが、その始まりはすでにユダヤ教の偶像崇拝禁止やギリシアの哲学のなかにあったと主張している。この考え方は、ジルベール・デュランと共通のものを持っている。このような思考の態度が、「意味に満ちたイメ-ジからその意味を奪ってしまう」批判的理性なのである。ここでバ-マンが「意味に満ちたイメ-ジ」と書いているのは、シンボルのことでもあると理解できる。バ-マンは「錬金術」ということばを使っているので、現代のわれわれには遠い世界のことのように感じられるが、 バ-マンがいっている「錬金術の世界」では「精神的な出来事と物質的な出来事との間に、明確な境界が存在していなかった」(p97)のであり、「シンボルでない事物など、そこには何ひとつ存在せず、あらゆる物質的事象が、それに対応する精神的事象を引き連れて生起する」(p98)のである。すべてがシンボルであるというのは、あらゆる存在が意味を持ち、精神と物質とが不可分であるということである。その世界はシンボルに満ちた世界であり、魔法にかかった世界である。
バ-マンは近代の科学的な思考が、このような魔法の世界を解かしてしまったとして、次のように書いている。「科学的文化が、全体論的知覚を抹殺しようとしたこと、それこそが、麻薬とアル中の蔓延する現代の病弊をもたらしたのだ。」(p190)ドラッグや酒におぼれる現代人の病がデカルトのせいだというこの主張が正しいかどうかはにわかには判断できないが、少なくとも現代の精神的な状況においては、シンボルの存在が危うくなっていることは理解できる。シンボルは、精神的なもの、抽象的なもの、概念的なものを、具体的な形象的記号として表象するものであるが、それが成立するためには、この二つの世界がどこかでつながっていることが前提とされている。ところが、近代の科学的世界観がそれを破壊してしまったのであり、そうなるとシンボルそのものの存在が危険な状況に置かれることになる。バ-マンの『デカルトからベイトソンへ』は、この意味においてシンボル論にとってきわめて重要な文献のひとつである。バ-マンは、「世界の再魔術化」の可能性が、グレゴリ-・ベイトソンの思想にあるとする。世界の再魔術化とは、精神的世界と物質的世界が相互に絡み合って存在する世界、シンボルが存在する世界を再構築することである。それが可能かどうかはここで判断することではない。しかし、そのような世界が消失しているというバ-マンたちの見解があたっているとするならば、現代では、シンボルは成立しにくくなっていると考えなければならない。ベイトソンは、遺伝学者であった父の影響を受けて、生物が作っている世界をエコロジー的な世界であると考えた。それは人間と自然とが魔術・呪術によってつながっている世界である。精神と物質が分離してしまった世界では、シンボルは存在できなくなる。

4 表象という概念の凋落

伝統的な芸術作品は、「表象」という概念を基礎にしている。「表象」という言葉を『広辞苑』で引いてみると、「1 象徴。2知覚に基づいて意識に現れる外的対象の像」という説明がなされている。しかしこれは現代の表象の意味とはかななり離れている。表象は何らかのかたちで対象を具体的に表現したものである。たとえば、絵画は実在を模写することから始まると、一応は考えられるが、その時の「模写」は表象の基本的な形式のひとつである。実在があり、それを写すことが芸術の起源であるとは言えないまでも、少なくとも写実主義や印象主義までの西欧の美術は、何らかの点で実在と直接にかかわるイメ-ジを作ることによって成立してきた。また演劇は台本を上演することによって成り立つと考えられてきた。それらのいずれも「表象」という考え方がもとになっている。ところが20世紀の芸術は、その様な表象概念を破壊することから始まったというのが一般的な芸術史が教えるところである。特にフランスを中心とする立体派・抽象絵画は、すでに実在の表象とはまったく異なったものを作品として提示した。点や線だけで作品が作られ、いわゆるシニフィアンのたわむれといわれるものが芸術の舞台に登場することになった。そこでは、実在とはほとんど切り離された抽象的な図形が作品の主要な要素として存在する。モンドリアンの作品には、点と線だけでできたものがあり、プラスとマイナスの記号(シンボル?)を集めて作られたものもある。それらの作品は、すでに実在の表象ではありえない。実在と関係のないシンボルについてその象徴作用を論ずることは原理的に不可能ではないかと思われる。シンボルの価値の低下は、このような表象概念の失権と連動する。
表象という概念にかわって登場してきたのが、「シミュレーション」という考え方である。(記号論では、正確にはシミュレーションは模擬作用のことを意味し、シミュラークルはその結果生じた表現などを指すが、一般にはこの二つのことばは混同して用いられている)表象が、実在に対応するものであるとすれば、シミュレーションには、それに対応する実在が存在しない。ヴァーチャル・リアリティといわれているものも、このシミュレーションの一種である。シミュレーションは、元来は「模擬」という意味で、飛行機の操縦訓練のときに、本物のコックピットに似せて作られたものがシミュレーションである。今日の哲学・芸術論では、対応する実在を持ってはいないが、それだけで存在し、また美的な価値も持つものをシミュレーションということがある。対応する実在がないシミュレーションの時代には、何かを象徴化しているものであるシンボルは居場所がないことになる。
シンボルの価値の低下は、このような表象概念の崩壊と、それにともなって到来したシミュレーションの時代の産物である。その例として、すでに言及したディディ=ユベルマンの『聖ゲオルギウスとドラゴン』に戻ることにする。ディディ=ユベルマンは、フランス美術史学者で、精神科医シャルコ-によるヒステリ-患者の写真の分析をした『アウラ・ヒステリカ』(リブロポ-ト)によってわが国にも知られている。ヒステリー患者の写真は、元来は医学的な資料としての価値を持つものであり、ドキュメントである。しかし今日では、ドキュメントはばあいによってはそのままアートになることができる。報道カメラマンによる出来事の写真は、時には単なるドキュメントの領域を超えて、芸術的な価値を持つことができる。また、元来は芸術作品であったかもしれない屏風絵や浮世絵が、その時代の人々の生活様式や、服装などについての資料として役立つこともしばしばあるはずである。特に今日では、ドキュメントとアートの区別があいまいになり、両者は相互に浸透する関係にある。それをディディ=ユベルマンはヒステリー患者の写真を媒介にしてするどく分析しているのであるが、そのようなドキュメントとアートの新しい関係が成立している状況が、まさにシンボルの価値の低下の時代に対応する現象であるといえよう。
1994年に刊行されたでディディ=ユベルマンの『聖ゲオルギウスとドラゴン』(Didi・Huberman,Saint George et le dragon,Adam Biro)は、このテーマがどれほど執拗にヨーロッパの美術作品に繰り返して用いられてきたかを詳しく説明している。したがってそれはある意味では「構造」というものについてのまたとない典型を示すものでもある。ロラン・バルトは、ギリシア神話のアルゴ船が帆柱などが変わっても、最後までその「構造」を変えなかったことを論じているが、聖ゲオルギウスとドラゴンというテーマも、ひとつの構造がいかに強固に保たれるかを示す例である。したがって、ディディ=ユベルマンのこの著作は、シンボル論にとっても貴重な文献である。聖ゲオルギウスは3世紀の殉教者で、最初は彼一人の殉教が図像として示される。そのうちに聖ゲオルギウスがドラゴンを退治する伝説がそこに加わることになる。聖ゲオルギウスとドラゴンというテ-マは10世紀をすぎてからしだいにヨ-ロッパに広まったが、写真家としても活躍したルイス・キャロルやアンディ・ウォ-ホールがその作品のテ-マとして取り上げたときには、元来聖ゲオルギウスや彼に退治されるドラゴンが持っていた象徴性はほとんど失われてしまっている。聖ゲオルギウスは、人身御供にされかかっている王女を助けてドラゴンを退治するのであり、日本の素戔嗚尊によるやまたのおろち退治の物語と類似しているところがあるが、現代ではばあいによっては、聖ゲオルギウスも王女もドラゴンもすっかり変形する。たとえばゲオルギウスは少年になってしまい、王女はヌードになり、ドラゴンは少しも恐くない存在として描かれる。それらの登場人物や動物は、元来持っていた象徴的な意味を失ってしまっている。ディディ=ユベルマンは、次のように書いている。「聖ゲオルギウスがもしドラゴンに対する本当の勝者ではなくなったとしたら、聖ゲウルギウスとドラゴンの争いはどうなるのか。王女がヌ-ドになっていたり、あるいはもっと悪いことに娼婦だったとしたら、聖ゲオルギウスのキリスト教的なアレゴリ-性はどうなるのか。」(p123)ディディ=ユベルマンの『聖ゲオルギウスとドラゴン』では、このテーマがいわばマンガ化されてしまったケースが想定されているのである。これは、宗教的な意味が失われていくとき、シンボルの象徴性はしだいに減少していくひとつの例である。

5 シンボルの価値と崇高なもの

円・三角形・四角形だけで作られたピカビアの「支える」というタイトルの作品の分析から始められている本江邦夫の『●▲■の美しさって何?』(ポプラ社)は、高校生を対象にしたシリーズのうちの一冊であるが、内容はかなり高度であり、「具体的なものがそこにあるように描くことをやめた抽象画」(p9)についてのわかりやすく、すぐれた著作である。それは、表象概念が崩壊したあとの芸術、対象を「写す」という行動をやめてしまった美術のあり方をどう見るかという難しい問題に取り組んだ書物である。写実主義の絵画であれば、それが描かれている対象をどこまで忠実に写しているか、もとの対象の色をどこまで上手に反映させているかというようなことが判断の基準になるかもしれない。しかし、まったく抽象的な図形から作られた美術作品の美しさはどこにあるのか。描かれているものがなんなのかがわからないような作品に価値があるのか。本江邦夫はそのような困難な問題に挑戦した。彼はそれらの幾何学的な図形が伝統的に持っていた意味を想起させ、「崇高なもの」の存在を認めようとしている。「崇高なもの」(ザ・サブライム)は、現代の美学・哲学の基本的な問題のひとつであり、カントが『判断力批判』において論じた問題である。この「崇高なもの」というテーマが、なぜ今日重要視され、なぜ多くの論文がそれについて書かれつつあるのかというのは、きわめて興味ある問題である。本江邦夫は結論にあたる部分で「幾何学的抽象のなかにはつねに、宗教的ともいうべき、ある神秘的な感覚があった」(p187)と書き、そこに「崇高なもの」を再発見しようとしている。これはいわば円や三角形や四角形をシンボルとして見直し、そこに象徴作用を再発見しようとする試みであると理解することも可能であろう。また、崇高なものが失われてしまった現在において、芸術の世界にその復活を求めようとする動きがあるのかもしれない。シンボルの問題は、おそらくこのような理論的なアプローチをつねに求めているはずである。 1997年3月にアメリカで「天国の門」というカルト的宗教団体 のメンバ-39人が集団自殺をするという事件が起こった。「インタ-ナショナル・ヘラルド・トリビュ-ン」(1997年3月28日)の記事によると、彼らの死体には三角に折りたたまれた紫色の布が掛けてあったという。それは何かのシンボルであり,シンボルの力が弱くなってきたように見える現代でも、まだ時にはシンボルが用いられているひとつの証拠である。これは宗教的なケースであるが、シンボルは宗教的なものに限定されることではない。クリストファ-・フックウエイは、そのパ-ス論のなかで、海水浴場に掲げられる旗が、水泳が可能であり安全であることを示すシンボルであることを、シンボルのひとつの例としてあげている。フックウエイは、次のように書いている。「旗の使用は旗と潮の干満の状態とのあいだの類似を示してはいない。また旗は潮の干満または流れの直接的な因果的所産でもない。その旗が海岸の安全性を意味するようにさせているものは、その目的のために旗を用いるという一般的な実践である。(Christopher Hookaway,Peirce,Routledge、p125)これはパ-スの理論をわかりやすく説明したものであるが、そこにはシンボルの一般的な特性のひとつが示されている。シンボルは「一般的な実践」によってシンボルとして機能するようになるのであり、その意味ではきわめて社会的なものである。「天国の門」の信者たちが使ったという紫色で三角に折られた布は、確かに何かのシンボルである。しかし宗教集団は内側に閉じこもった閉鎖的なグル-プであり、そのシンボルはそれを慣用的に使う彼らだけに理解できる特別のシンボルである。一般的なシンボルは、社会的・歴史的に作られていくものと考えるべきであろう。シンボルはそれを使う人間の共通の理解がある状況の中でのみ成立する。エレクトロニクス時代のコミュニケ-ションが、さまざまなかたちで変化しつつあるいま、シンボルもまたその性格を変えていくであろう。現代のシンボルは、おそらくパソコンのスクリ-ンに現れるシンボルが主流を占めてくると思われる。そのような新しいシンボルの存在の仕方について、新しい立場からのシンボル論がこれから作られなければならない。しかし、シンボルそのものの本質は、それが宗教的なシンボルでも、パソコンのスクリ-ン上のシンボルでも、基本的には異なるものではない。目に見えないものを見えるものにするのが、シンボルの役割である。不可視の世界を可視の状態に変形することがシンボルの役割である。そして、それを解釈するのは、究極的には人間である。

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