宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

モランに誘われて

若いときに、フランスの思想家・社会学者エドガール・モラン(1925~)の仕事に関心を持ち、法政大学出版局から『プロデメの変貌』(1975年)、『自己批評』(1976年)、『時代精神Ⅰ、Ⅱ』(1979年、1982年)などの翻訳を刊行した。『プロデメの変貌』は、モランがブルターニュ半島の半農半漁の町(コミューン)に長期にわたって滞在し、その町がしだいに変化して状況を分析した名著である。ブルターニュ半島はケルト文化が残っていて、ことばにもケルト系のものがあり、この本には普通のフランス語の辞典には載っていないことばがあった。そのころたまたまブルターニュに旅行するという友人の調佳智雄(しらべ・かちお)さんに頼んで、ブルターニュ語の意味を現地の人に尋ねてもらったりした。すると調さんは、モランが実際に調査した町がプロデメではなく、プロゼベであることさえ教えてくれた。そして『プロデメの変貌』に載っている写真と同じ情景の写真を撮ってきてくれた。(現在この本の原書は『プロゼベの変貌』というタイトルになっている。)私がその後、ケルトのことに関心を持つようになり、ヴェネチアの大運河沿いにあるパラッツオ・グラッシ(イタリアの自動車メーカーであるフィアットが運営しているが、日本の企業が母胎となる美術館と違ってその会社名はほとんど見えない)で開かれていた「大ケルト展」を見に行ったりしたのもモランのこの著作から始まっている。(会場で買ったそのカタログはいまでもとても役に立つし、同時に求めたビデオも面白いものである。)ゴーギャンの描くブルターニュの女性たちはコアフという白い帽子をかぶっている。そのコアフが、地域によって少しずつ違っていることも知ることができた。つまりケルトに関する私の関心はモランから始まっている。そのほかにも、モランは主なもののように見える潮流の底に、かならずそれとは反対の方向に動いている逆の流れがあるのであり、それを無視してはならないことも教えてくれた。
『プロデメの変貌』は、けっして「アンケート調査」に頼ってはいない。モランがその土地のひとたちと直接に交わした対話が基礎になっている。つまりモランはこの著作で、「数」を重視するアンケート調査というものを否定している。あくまでも生きている人間と直接に話すことが、「調査」の基本であるというのがモランの立場であった。この本は、近代化の問題をブルターニュの町を舞台にして考察したものであり、非常に価値が高いと私は考えている。しかし、一向に売れず、刊行後30年たったいまでも初版が東京駅に近い八重洲ブックセンターの棚にある。それは「古本化した新本」であるともいえるだろう。
私はモランに二度会ったことがある。最初はホテルオークラのロビーで待ち合わせたが、『プロデメの変貌』の重要性を私が主張すると、彼は嬉しそうにうなずいた。二度目に会ったときは、ほかの邦訳者の方々といっしょであった。そのときモランは「生まれ変わったら日本人になりたい」といい、それは日本が黒沢明を生んだ国だからという。それ程モランは映画が好きであった。私が訳した『時代精神』も、『スター』(山崎正己、渡辺淳共訳、法政大学出版局、1976)も映画を中心に論じている。1960年代のアメリカ映画に「スター」がいなくなったという考えが示されている。「スターからタレントへ」というモランの見解は、映画の領域だけではなく、政治や学問の世界にも通用する。10年ほど前、私は塚原史氏に依頼されて早稲田大学法学部で教えていたが、その帰り道に大学近くの小さな古本屋の店先で、この『スター』の英訳を見つけて買った。新書版の小さな本であるが、原書にも邦訳にもないスターたちの写真が豊富に収められている。ベンヤミンは現代の複製技術による芸術にはアウラが消滅したといった。英訳の『スター』は、まだアウラを保っていた時代のスターたちの姿を見せてくれる。私は自慢できるような「古本」を持ってはいない。しかしこの『スター』英訳は大切な私の古本である。
完全に「モランに誘われて」というわけではないが、私がピエール・ブルデュー(1930~2002)に関心を持ってきたのも、モランと関連する。ブルデューは、若いときにアルジェリアにいて、彼がそのときの経験も踏まえて書いた著作のなかに『アルジェリアの社会学』(クセジュ文庫)があるが、残念ながらまだ訳されていない。(以前からアルジェリアに行きたいと思って参考文献を集めてきたが、そのうちの一冊である。しかしどうも治安が悪く、まだ行く機会がない。)最近、藤原書店から刊行された『結婚戦略』は、南フランスのコミューン(共同体)におけるフィールドワークと、法制史などの理論的方法とを重ね合わせて、現代の農村の変化を論じたもので、モランの『プロデメの変貌』と共通する問題意識がある。モランのこの著作の原タイトルは「フランスのコミューン」であるからである。『結婚戦略』については、また詳しく論じたいが、ここにもモランの誘惑があるといえる。
 
中山公男『絵の前に立って』(岩波ジュニア新書、1980年)は、すでに絶版になっているが、私はこの本を澄川駅(札幌の地下鉄の駅)近くのセカンズという古本屋で買った。このなかで中山さんは、すぐれた画家の眼は、普通の人の眼には見えないものを見る力を持っている、だからすぐれた絵画作品を見ることは、世界を別の視点から見ることになるのだと説いている。私は中山さんと10年ばかり同じ大学で教えていて、しかも同じ曜日に講義をしていたので、いつもこの美術史の大家からいろいろなことを教えられた。講義の曜日と時間が同じだったので、学生たちを連れていっしょに美術館に見学に行く機会もしばしばあった。これはと思われる作品の前に来ると、中山さんの眼が急にキラキラと輝くことに気付いた。(美しい女性を見る眼にも輝きがあった。)『絵の前に立って』は、日本の美術館にあるヨーロッパの絵画をテーマにしている。同じ絵画でも中山さんの眼で見た絵画は、普通の人の眼で見るものとは違っている。最近私は、『デリダとラカン』などの著作のあるルネ・マジョールというフランス人が、「ラカンによってフロイトを読む」(lire Freud depuis Lacan)という方法を実践していることを知った。ラカンの眼でフロイトを読むと、今までのフロイトとは異なったフロイトが浮かび上がって来るということである。いま私は、ラカンの眼を借りてフロイトを読み直しているところである。また昨年(2007年)は、ヘーゲルの『精神現象学』刊行後200年にあたり、社会評論社から、それを記念する論文集がでるはずであった。私はその論文集に参加するように求められて、70枚近い長文の論文を書いたが、いろいろな都合でその論文集は、予定より遅れて2008年2月末に刊行されると聞いている。私の書いた論文のタイトルは「コジェーヴからヘーゲルへ」である。つまり、現代思想に大きな影響を与えてというヘーゲルの思想が、実はコジェーヴの解釈するヘーゲルではなかったかという論旨である。現代の思想家たちは、コジェーヴの眼を借りてヘーゲルを読んできたのではないか。

(付記。本稿は2007年11月に刊行された「アフンルパル通信」3号に掲載された拙稿に大幅な訂正・加筆を行ったものである。この雑誌は、札幌で古本屋を営む吉成秀夫氏が刊行しているものである。執筆者には、今福龍太、吉増剛造、管啓次郎といった錚々たるメンバーが名を連ねている。詳しくは、このブログにリンクしている「書肆吉成」にアクセスしていただきたい。2008年1月28日。)

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ロラン・バルト講座のお知らせ

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いつも当ブログをご覧頂きありがとうございます。
このたび宇波彰現代哲学研究所の主催によります、
ロラン・バルト講座を開講することになりましたのでお知らせいたします。
複雑化する現代においてテクスト空間にはなにがあるべきか?
をテーマに争いを差異に変更し続け、言語の外部を思考したロラン・バルトから
知を問い直す全3回の講座です。
ぜひふるってご参加ください。


▼講 座 名 :我ら自身によるロラン・バルト
▼講   師:宇波彰(当研究所上級フェロー、明治学院大学名誉教授)
▼ゲ ス ト :原宏之氏〈明治学院大学准教授〉
▼開 催 日 :初回…終了しました/ 第2回…終了しました/最終回…3月22日(土)
▼開始時間:各回14時より
▼会   場:中野区立哲学堂公園霊明閣
▼アクセス:中野駅・新井薬師前駅より「池袋駅西口」「江古田駅」
       「丸山営業所(新井薬師前駅経由)」行『哲学堂』下車
       江古田駅より「中野駅」行『哲学堂』下車
▼受 講 料:1000円(実費)
事前申込不要 /テキスト不要


最終回は”語り損なうために~〈新生〉の風景から~”と題し、
明治学院大学の原宏之氏をゲストに迎え、
ロラン・バルトが構想し未完に終わった小説『新たな生』を、
原氏の著作、『〈新生〉の風景』を手がかりにして、
晩年のバルトの思考を議論する予定です。
どうぞお楽しみに。


なお上記は全て予定となります。
来場の際には事前にご確認いただきますようお願いいたします。

稲見@ブログ管理担当


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手紙の魔力

18世紀に活躍した有名な国学者の賀茂真淵は、私の故郷である浜松の人である。偉い人を「神様」にしてしまうわが国の習いに従って、賀茂真淵も県居(あがたい)神社に祀られている。この神社の境内に賀茂真淵記念館がある。すでに30年ほど昔のことであるが、この記念館を訪れたところ、たまたま賀茂真淵と本居宣長の往復書簡が展示されてあった。本居宣長は賀茂真淵の弟子ということになっていて、二人の出合いを描いた「松阪の一夜」という文章が、戦時中の小学校(当時は国民学校と呼ばれた)の国語の教科書に載っていた。私のかすかな記憶では、面白くもない文章であった。そのとき記念館に展示されていた二人の「往復書簡」は、巻紙に墨で書かれた宣長の質問の行間に、真淵の答えが朱筆で記されているという形式のものであった。江戸時代の手紙にそうした形式のものがあると聞いてはいたが、実物を見たのは初めてであった。ところが、そのころつきあいのあった原田力男さんという方が(すでに故人である)、私の送った手紙の行間に赤インクで返事を書いてきたことがあった。原田さんはピアノの調律をしながら、いろいろ音楽の世界で仕事をしていたひとで、「坂本龍一は私が発見した」といっていた。あるいは彼も、送られた手紙の行間に赤字で返事を書くという江戸時代からの形式を知っていたのかもしれない。原田さんの手紙は郵便で送られたものではなく、本人が直接に私の家のポストに入れていたが、それも彼独特の「手紙」の送り方だったのかもしれない。
フロイトが数多くの手紙を書いていたことはよく知られている。ユングやフリースとの往復書簡は邦訳されていて、そのなかにはフロイトの重要な考え方が示されているものもある。ラカンやデリダが重視したフロイトの「事後性」という概念も、フリースあての手紙の中で示されている。(2007年8月に論創社から刊行された拙著『力としての現代思想 増補改訂版』の「増補」の部分は「事後性論」である。)フロイトは2万通の手紙を書いたといわれ、そのうち1万通が残っているという。しかしまだ公開さていないものもある。それは、いまのことばで言えば「個人のプライヴァシー」にかかわるものがあるからであろう。
ベンヤミンもまた多くの手紙を書いた。ベンヤミンはレターペーパーにも気を遣っていて、友人のアルフレット・コーンから送られた特製のレターぺーパーを使っていたと、アドルノが書いている。(アドルノ、大久保健治訳『ベンヤミン』河出書房新社、1991)ベンヤミンは多くの手紙を書いたが、そのなかには相手のアドルノやショーレムの手紙と同じく、非常に長文のものがあり、手紙であると同時に論文でもある。実際ベンヤミンは、1935年1月7日にサンレモからアドルノにあてて送った手紙の中で、「私はあなたの手紙を読んだだけではなく、研究した」と書いている。ベンヤミンにとって、年下の友人アドルノの手紙は「一句ずつ考察されなければならない」対象であった。
手紙に関連して書いておきたいのは、2007年に刊行された大塚信一の『山口昌男の手紙』(トランスビュー)である。大塚信一は岩波書店の社長だった方であるが、1970年代には、山口昌男に信頼されていた編集者であった。山口昌男は海外から多くの手紙を彼に書き送ったが、この『山口昌男の手紙』は、それらの手紙を紹介しながら、しだいに疎遠になっていく二人の関係を描いたものである。著者と編集者の関係という面白いテーマが展開されていることは事実であるが、私にはどうも気になることがある。ひとつは、大塚信一がこの本を書くにあたって、手紙の筆者である山口昌男の十分な了解を得ていないということである。また、引用されている山口昌男の手紙の「伏せ字」も大塚信一の恣意的な判断によっている。「伏せ字」になっているのは主として人名である。しかし「伏せ字」になっていても前後関係から誰であるかわかるばあいもある。私信であるから、時には他人の悪口が書かれるのは自然なことであろう。しかし、手紙を書いた本人の了解なしに勝手に「伏せ字」にしたり、実名を出すのはよくないことである。たとえば、久保覚という編集者が、当時の山口昌男の手紙ではかなり批判されている。この本を読むと、久保覚は四方田犬彦の『先生とわたし』(新潮社、2007)で描かれている、すぐれた編集者、あるいは集団の組織者としての久保覚とはまったく異なった人物になる。私には大塚信一がなぜ「久保覚」を「伏せ字」にしなかったのかわからない。大塚信一は久保覚ともつきあいのあったひとである。彼自身の久保覚についての評価を書きそえるべきではなかったか。

2007年11月初旬のある快晴の日に、東京の地下鉄浅草線を西の終点である西馬込駅で降り、そこから少し歩いたところにある大田区立郷土博物館で、川瀬巴水展を見た。川瀬巴水は、1957年になくなった版画家で、没後50年を記念する大規模な展覧会が、彼が住んでいた大田区の博物館で開かれたのである。川瀬巴水の版画展は、2005年にも赤坂見附にあるニューオータニ美術館で開かれたことがあるが、彼はそれほど著名なひとではない。それでも、関心のある人がいるらしく、会場ではかなり多くのひとが熱心に見ていた。地元の小学生の一団が見学にきていたが、賑やかな彼らも作品の前でしきりにメモを取っていた。子どものころからすぐれた芸術作品に接するのは大切なことである。私は、中学生のころに美術担当の大城という若い先生が、北斎の版画を教室に持ってきて見せてくれたことを鮮明に覚えている。大城先生はその版画を浜松の内田六郎というコレクターから借りてきたのだといっていた。
以前に私はこの時評で、「これからスピノザを勉強する」と書いたことがある。ピエール・マシュレーの『エチカ注解』を頼りに『エチカ』を読み直し、フランスやアメリカのスピノザ研究をいろいろ調べているところである。岩波文庫版のスピノザ『国家論』(原タイトルは「政治論」)で、「民衆」とか「多数者」と訳されているものが、ネグリ、ハートに受け継がれた「マルチチュード」の概念の前身であることもわかってきた。知らないことがとても多い。

(付記。本稿は、2007年11月30日刊行の「千年紀文学」に載せた「文化時評」に加筆・訂正をしたものである。2008年1月23日)

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スジック『巨大建築という欲望』の論点

巨大な構築物は、権力・財力を持つ者の何らかの「欲望」の表現である。それはピラミッドでも、大仏殿でも同じである。スジックは本書で、巨大な建築に示されている欲望の醜さと、その欲望を表現したいという権力者・富裕な者たちの注文に応じて巨大な建築を作る多くの「有名な」建築家に対する痛烈な批判を繰り広げる。スジックのいうように、「ムッソリーニ、スターリン、ヒトラーは、みな建築を政治的なプロパガンダに欠かせない道具として扱っていた」のであり、「20世紀に権力を握った独裁者で、建設キャンペーンに乗り出さなかった人物を探すのはほとんど不可能」である。それほど政治と建築は密接につながるのだとスジックは主張する。
このような政治と建築とのつながりに関して、いままでしばしば論じられてきたのは、腹心の建築家であったアルベルト・シュペーア(1905~1981)の協力を得てこの「欲望」の実現を夢想していたヒトラーのばあいであろう。ドイツの新首都ゲルマニアをヒトラーは、死の直前までシュペーアとともに構想していていたといわれる。私が特に注目したのは、スジックが「ヒトラーにとって、ナチ政権の設立は、彼の建築上の野心を実現するための手段であった」と指摘していることである。都市を設計し、建築を作るためにヒトラーが政治を行ったというスジックの見方は、かつてジークリート・クラカウアーが『カリガリからヒトラーまで』(平井正訳、せりか書房)のなかで、ヒトラーとゲッペルスは、リーフェンシュタールに「意志の勝利」を撮影させる目的で、ナチスの党大会を「上演した」と説いたことを想起させる。つまり、権力者が巨大建築を造るのは、単に「権力の誇示」だけを目的とするものではないという解釈である。普通の人の眼で見ると異常としか思えない建築への「欲望」が存在するのであり、そのことをスジックは強調する。権力者の野心の成就に荷担しようとした典型的な建築家がシュペーアであり、彼はスジックによって「全体主義を目に見えるかたちで、その実現に寄与した」建築家として規定されている。
シュペーアの建築と都市設計に関しては、1996年に東京都現代美術館、ひろしま美術館、岐阜県美術館を巡回して開催された「未来都市の考古学」のカタログが参考になるであろう。そこには、シュペーア設計のナチス・ドイツの新首都の設計図などが示されている。このカタログに、横手義洋によるシュペーアの仕事の解説があるが、それによるとシュペーアの建築・都市設計は、「そのすべてが非日常的であり、ナチス・ドイツを鼓舞し、世界に誇示するための舞台装置として計画されていた」のである(p.145)。未完成に終わったシュペーア設計のニュールンベルクの党大会議場は、八束はじめ、小山明『未完の帝国 ナチス・ドイツの建築と都市』(福武書店、1991)によると、最初ニュールンベルクの「謎の」建築家ルフ親子によって設計されたが、1934年以後はシュペーアが引き受けたという(p.197)。スジックはこのシュペーアの息子(父と同じアルベルトという名である)が、現代中国の国家プロジェクトにかかわる建築家として活躍していることに注目している。このシュペーア二世は、1934年生まれである。スジックは、彼がもっている時計に、あるいは「アドルフからアルベルトへ」というヒトラーのことばが刻まれているのではないかと想像する。
斎藤忍随の『プラトン』(岩波新書、1972)は、30年以上も前に書かれたものであるにもかかわらず、プラトンの入門書として出色のものである。そのなかにヘロドトスからのつぎのような引用がある。「御承知のように、神は常に最も高層な建物や、最も高き樹木に雷箭を投ぜられます。抜群の巨大なもの一切の矮小化、これこそ神の好み給う習いであります。」古代ギリシアの神話的世界においてさえも、神は人間の作る巨大建築を嫌っていたのである。それは人間の傲慢のしるしであったからであろう。
これまでの巨大建築批判は、ヒトラーと組んだこのようなシュペーアの仕事、スターリン様式と呼ばれる巨大で面白味のない旧ソ連圏の建築などが対象であった。特にシュペーアは東秀之の『ヒトラーの建築家』(NHK出版)のなかでは小説風に描かれていて、そこには竹橋にある東京国立近代美術館などの設計で有名な谷口吉郎も登場する。また1995年にはイギリスの著名なジャーナリストであるギッタ・セレニーの分厚いシュペーア伝が刊行された(Gitta Sereny,Albert Shpeer,his battle with truth,Knopf)。700ページを超すこのシュペーア伝において、彼女は取材を通して「シュペーアをよく知ることになり、しだに彼を好きになった」と書いている(p.4)。一般的に評伝・伝記は、対象とする人物に深い関心がなければ面白くないが、このシュペーア伝は著者の熱のようなものが伝わってくる著作である。これを読むと、ヒトラーとシュペーアとの深い精神的なつながり、あるいは、ほとんどホモセクシュアルなものに接近するふたりの関係、彼らの行動の舞台となった時代の状況がかなり見えてくる。
この『巨大建築という欲望』では、批判の対象がヨーロッパに限定されてはいない。いままでほとんど論じられなかったフセイン時代のイラクの建築、天安門広場を含む現代中国の公共建造物、そして時には六本木ヒルズのような日本の建築の不格好さも考察されている。2008年の北京オリンピック・スタジアム(「鳥の巣」と呼ばれている)がスイスの建築家たちによって建てられつつあることもスジックの視野のなかにある。スジックは、そうした全体主義的国家プロジェクトに参加する建築家のみならず、財力にものをいわせるひとたちに迎合する建築家をも批判する。たとえば、イタリアの自動車産業の覇者フィアットの長老は、そのコレクションを収める美術館の設計をレンゾ・ピアノに依頼したが、そのピアノをスジックは次のように批判している。「ピアノ自身の作品は、スラム地区の活動家や科学によってかたちづくられるものではなく、銀行家や保険業界の大物たちとの関係によって実現されているのだ。」スジックはコルビュジエさえも批判の対象としているのであり、彼にとって、批判の対象に聖域は存在しない。
スジックは、現代の建築家の作品そのものについても皮肉な眼を向ける。フランク・ゲーリーは、世界7位、フランス第一位の富豪アルノーの邸宅の設計を依頼されたと伝えられる建築家である。LVMHの経営者である。LVMHとは「モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン」のことであり、2008年1月にフランス最大の経済紙「レゼコー」を買収したことでも知られている(フランス最大の発行部数といっても12万部であるが)。超富豪であるアルノーはピカソ、セザンヌ、クリムトなどの美術作品のコレクションもしているという(フランスの週刊誌「マリアンヌ」2007年6月30日~7月7日号による)。ゲーリーがスペインのビルバオに作ったグッゲンハイム美術館は、スジックによって「列車の衝突事故」のような建築だと揶揄されている。そうしたゲーリーやピアノの仕事が「世界の政治的な背景との契約に左右されている」とスジックは指摘する。シーザー・ペリがマハチールの依頼でクアラルンプールに作ったツインタワーは「二本の巨大なパイナップルが押し出された」かたちだと形容され、それがけっして「建築の実践」ではなく、「鋼鉄と大理石とガラスで政治的な意志を主張したもの」にすぎないと一蹴されている。
本書によって読者は、現代の建築家がどれほど権力・財力を持つ者と結びついているかを、はっきりと知ることができるだろう。しかも本書はけっして堅苦しい建築批評ではなく、いたるところに興味深いエピソードを織りこんで書かれているから、読者はいつのまにかスジックの記述に引き込まれてしまうはずである。東郷えりかによる翻訳はたいへん読みやすい。
(付記。『巨大建築という欲望』は、2007年に紀伊国屋書店から刊行された。本稿は、紀伊国屋書店発行の「SCRIPTA」2008年冬号に掲載された拙稿に大幅な加筆をして、サイト「ちきゅう座」に2007年1月9日にアップしたものに、さらに訂正・補筆を加えたものである。(2008年1月21日)

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エイゼンシュテインの建築と映画

『戦艦ポチョムキン』(1926)、『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)などの名作によって知られている映画作家セルゲイ・エイゼンシュテインが、若いころ建築家を志したことはよく知られている事実である。エイゼンシュテインの父ミハイル・エイゼンシュテインは、ドイツ系のユダヤ人で、ラトヴィアの首都リガの建築主任であった。エイゼンシュテインは、リガで中等教育を受けてから、父が学んだペテログラードの土木専門学校に学び、そのあと演劇・映画の世界へと入っていくことになる。
エイゼンシュテインの映画は、モンタージュと呼ばれる方法によって作られている。映画史ではエイゼンシュテインはそれをアメリカの映画作家グリフィスからも学んだとされているが、私はエイゼンシュテインの映画を観るたびに、そこに全体を構成しておいて、部分をテクスト状に織りなしていく建築的なものがあるように感じる(それが本当に建築的なことなのかどうか自信がないが)。

エイゼンシュテインは1898年の生まれであるが、それより少し早く1885年に生まれた文学理論家のミハエル・バフチンの思想と、エイゼンシュテインの映画の作り方には、どこかで共通したものがあると思われる。
バフチンは重要な概念をいくつも提示したが、そのなかで最近特に注目されているのが<アーキテクトニクス>という考え方である。バフチン論としてよく知られている『バフチン再考』(Rethinking Bakhtin,Northwestern University Press,1989)に収められたモーソンとエマーソンの論文によると、アーキテクトニクスはシステムの対立概念であり、システムが単に部分を集めて組み立てられるものであるのに対して、アーキテクトニクスは、バフチンによると、「具体的で、個別的な部分と局面とを、焦点が作られ、不可欠で、恣意的でないやり方で配分し、関係づけること」として定義されている(p.21)。システムという考え方がなぜ不十分であるかというと、システムには、「それがかならずしも人間存在を含んではいない」という問題点があるからであるとされている。アーキテクトニクスとは、建築的な関係の作り方という意味を持つ概念であると考えられるが、それがいま再評価されつつあるのは、そこに現代思想のキーワードとしてしばしば使われてきた<アジャンスマン>や<リゾーム>といった概念との親近性があるからであるとも考えられる。モーソンとエマーソンによると、アーキテクトニクスという概念は、バフチンが主として文学に関して生涯を通して追求し、作り上げていったものであり、『バフチン再考』では、プーシキンの詩についてのバフチンによるアーキテクトニクス的な解読が論じられている。エイゼンシュテインが映画において求めていたものも、このような意味でのアーキテクトニクス的なものであったのではないだろうか。

すでに述べたように、エイゼンシュテインはラトヴィアの首都リガに生まれた。ラトヴィアはロシア、スウェーデン、ドイツに囲まれた小さな国で、民族と国家のアイデンティティを維持するのが困難な地域であった。エイゼンシュテインがこのラトヴィアに生まれ、その父はドイツ系のユダヤ人であり、母はロシア人であったというが、そのことがすでにエイゼンシュテインの思想にとって多様なものを内在させる要素であったように思われる。そこには、バフチンの作った概念のなかでこれまできわめてしばしば言及されてきた<ポリフォニー(多声)>という考え方とつながるものがある。
リガは人口100万の大都会である。いわゆる旧市街には、古い教会や道路が残っていて、ハザ同盟に加わっていたころの商業都市の面影を認めることができる。旧市街を抜けて西北の住宅地に行くと、エイゼンシュテインの父が作った高層住宅をいくつか見ることができる。1905年ごろに建てられたもので、すでに老朽化し、廃墟に近い状態のものもある。いずれも極度に装飾的な部分が多い建築であり、外壁には動物や人物像などさまざまなものが付けられている。入口のところに、日本の神社の狛犬のように一対の獅子の石像が置かれてあるものがあった。しかしその建物のなかに入ると、荒れ果てていて、人の住んでいる気配はなかった。
ミハイル・エイゼンシュタインが建てた高層住宅のうちの一棟が、最近スウェーデンの援助で修復・復元されたが、周辺のくすんだ建築物のなかで、ひときわ鮮やかに輝いている。すでに荒廃してしまった建物も、復元・修復されて輝いている建物も、私にはなんとなく、セルゲイ・エイゼンシュテインの映画の土台であるように見えた。

私はむやみにたくさんの新聞・雑誌を講読しているが、そのひとつが、バルト三国が共通で発行している英字の週刊誌『バルチック・タイムズ』である。それを読んでいると、リトアニアに「国家社会主義統一同盟」というナチス(「国家社会主義ドイツ労働者党」)まがいの名前の政党が作られたことがわかったりして、なかなか面白い(1996年12月16日号)。今年の1月20日号には、リガの近代建築の写真展についてのベトリス・ブルムスという人の署名記事が載っているが、それによると、第一次大戦前のリガには、ロシアの役人・職人、ユダヤ人の商工業者、ドイツ人のエリートたちなどがリガの西北区部に住むようになり、そこにユーゲントスチル風の建築群が生まれたと書かれてある。
私はエイゼンシュテインの映画作品の根底にあるものは、このような多様な要素が、バフチンのいうアーキテクトニクスとして存在していたリガの情景ではなかったかと想像したである。

付記。
ここに示した「エイゼンシュテインの建築と映画」は、「建築雑誌」(1997年5月号)に掲載されたものである。この文章は発表当時のままのもので、訂正などをしてはいない。「建築雑誌」は30000人を会員とする日本建築学会の機関紙であるが、私は数年にわたってこの雑誌の編集委員をしていたので、このエッセーを書く機会を与えられたのである。ほかに「映画のなかの未来建築」というエッセーを書いた記憶があり、またこの学会の主催で、オーギュスタン・ベルク氏と建築会館のホールで討論したこともある。
私が「建築雑誌」の編集員をしていたときの編集長は若山滋氏だった。かなり以前のことであるが、名古屋で井上章一氏と私が討論することになり、その時に司会をしてくださったのが若山氏だった。その関係で、私が「建築雑誌」にかかわることになったのである。
リガはベンヤミンの恋人であり彼にマルクス主義への眼を開かせたという、アーシャ・ラティスの出身地である。ベンヤミンは1924年にカプリ島で彼女と知り合い、1925年にリガを訪れている。そのことはベンヤミンの『一方通行路』にちらりと描かれている。私はベンヤミンがエイゼンシュテインの父が設計した高層アパートのあたりを訪れていたのではないかと想像している。アーシャ・ラティスもそのあたりに住んでいたと思われるからである。(2007年12月22日)

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明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
すでに新年より16日過ぎて申し上げるのも心苦しいのですが。
旧年中は当ブログへをご愛顧いただきありがとうございました。
本年も皆様のご期待に添うよう所員一同頑張りますので、
何卒ご支援賜りますようお願い申し上げます。


稲見@ブログ管理担当

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