宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

清岡卓行さんを悼む

詩人であり、作家であり、また批評家でもあった清岡卓行さんが、去る6月3日に亡くなった。清岡さんのお宅は私の家と文字通り指呼の間にあり、隣人としてのおつきあいがあった。私の記憶のなかに生きている清岡さんのことを書き記しておくのは、隣人の責務だと考える。
ある日、といってもすでに数十年も過去のことであるが、家の近くの西武遊園地駅のホームで電車を待っていると、そのころ法政大学で教えていた清岡さんが悠然と現れた。そしていきなり、「石田幹之助の『長安の春』を読みましたか」ときかれた。清岡さんは突然に思いもかけないような質問をしてくる人であった。最初にお宅に伺ったときに、清岡さんに「あなたは形而上学をどう思いますか」と質問されたのを覚えている。清岡さんは『長安の春』のなかに、牡丹の花のなかに菩薩が存在するという中国人の詩的な想像力のことが書かれていると教えてくれた。そういう話をするとき、清岡さんは非常に感動したおももちで語るのが常であった。たとえば、以前に私の家の玄関の脇にひともとのニセアカシアがあった。それが咲いていたときも、「あのアカシアは素晴らしい」と清岡さんは私に語ったが、そのときもとても嬉しそうだった。『長安の春』の牡丹のことも、ほとんど興奮したような感じで、「牡丹のなかに菩薩がいるんだ!」と、ほとんど叫ぶように私に話したのである。私は、いまちょうど家の庭に牡丹が咲いているので、帰ったら見ることにしますといった。
翌日だったと思うが、清岡さんから私の家の牡丹の花を見たいという電話がかかってきた。まもなく、背広を着てネクタイを締め、しかも下駄履きという出で立ちの清岡さんが現れた。そして牡丹を前にして黙ってたたずんでいたが、じっと牡丹を見つめている時間は、異常なほど長かった。そのとき私は、清岡卓行という詩人が「対象をじっと見つめる人」であることを実感した。牡丹の花も清岡さんを見つめていたに違いない。清岡さんの長い詩「牡丹のなかの菩薩」をいまわれわれは思潮社の現代詩人文庫『続続 清岡卓行詩集』(2001年刊)で読むことができる。そこには牡丹の花を凝視した詩人の経験が昇華したかたちで示されている。私に語った『長安の春』からの引用がエピグラフとして使われている。王維、杜甫の詩が引用されている。牡丹の花というミクロコスモスから、大きな世界が見えてくるような作品である。「神は細部に宿る」というヴァールブルクのことばが想起される。これはベンヤミンも特に気に入っていたことばであると、ショーレムがベンヤミンを回想した文章のなかに記されている(西田書店刊『ベンヤミンの肖像』に収められている)。また私は以前からアメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースに関心を持っていて、彼に関する論文を書いたことがある。一冊を編集するのに何年もかかるので、私の生きているあいだには絶対に完結しないパースの『年代順著作集』を第6巻まで買っているが、彼の思想の根底にある「連続性」、「無限の共同体」の概念が清岡さんのこの詩に具体化されているような気がしてならない。宇宙は全体としてつながっていて、どこかでわれわれがその一部を見ると、やがてそれを手がかりにしてもっと広い世界を見ることができるようになるかもしれないのである。牡丹の花に菩薩が存在するというのは、その花が世界とつながっているということである。哲学の世界と詩の領域も連続していると考えたい。清岡さんが薔薇の花を愛していたこともよく知られている。しかし、花を見つめるときも、その眼はもっと大きな世界を見ていたのである。
清岡さんの家が多摩湖という人造湖の近くにあることは、彼の詩作品に親しんでいる人であれば誰でも知っているであろう。多摩湖は清岡さんの作品の源泉のひとつであるといえるかもしれない。多摩湖は村山貯水池とも呼ばれていて、大岡昇平の『武蔵野夫人』の舞台のひとつでもある。『武蔵野夫人』で描かれている、カイツブリが貯水池の水に潜ってはまた現れる姿は、いまも変わらない。いわばそのあたりは文学的な雰囲気のあるところである。この人造湖は、時おり修復工事をする。現在も本格的な堤防の補強工事が進行中で、水が抜かれているが、数十年前にも同じように水を抜いて補修工事が行われていた。水が抜かれると、「湖底の村」が現れる。清岡さんは水のなくなった貯水池に異常なほどの関心を示していた。それもまた清岡さんにとっては、たいへん面白いことであるらしかった。湖底には鎌倉街道もあったのであり、水の下に隠れていたものがにわかに露わになったことが嬉しいようであった。そのときも電話があって、『東村山市史』を持っていたら貸して欲しいということであった。私は近所にある石仏にも関心があったので、『東村山の石仏』という地元の研究者の労作や、市の教育委員会が編集した東村山市の歴史の本を買っておいたのである。「湖底の村」を題材にして作品を書くときにも、清岡さんは水のなくなった湖底をじっと見つめる凝視の人であるとともに、「調べる人」でもあった。
あるとき、清岡さんは、路傍で見かけた一羽の鳥を詩のなかに描こうとしたが、その鳥の名前がわからなかったらしい。そのころ私は東村山市の野鳥観察会のメンバーになっていて、毎月一回、日曜日の早朝に多摩湖の周辺で行われるバートウオッチングの集まりに参加していた。そのころ小学生だった私の長男も一緒に行動していたが、彼はいつのまにか私よりはるかに鳥に詳しくなっていた。そのことを伝え聞いていたらしい清岡さんは、ある日の午後、私の長男を自宅に招いて鳥についていろいろ質問したらしい。それもかなり長い時間を使っての質問であったという。(長男はお礼にショスタコーヴィッチの交響曲5番のLPをもらってきた。)やがて清岡さんの書いた詩に「近所の鳥博士の少年が教えてくれた・・・・」という一行があった。それは路傍の一羽の鳥についても、きちんとその名前を調べておくという詩人の心構えの表現であると思われた。

(付記。本稿は2006年7月31日の「千年紀文学」に掲載されたもので、初出のままである。この文章は、どういう回路を経てであろうか、清岡さんを偲ぶ会で、那珂太郎さんによって朗読されたと聞いている。その後、勉誠出版という出版社から、清岡さんの文章や、追悼文を集めた本に収めたいと依頼されたので承諾した。かなり分厚い本らしく、執筆者にも献本はできないということなので、私自身もその本を見ていない。私が尊敬している詩人についてのこの拙稿を読んで下さる方の存在を信じて、ここに掲載したいと思う。(2008年2月21日)

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第2回ロラン・バルト講座のお知らせ

いつも当ブログをご覧頂きありがとうございます。
宇波彰現代哲学研究所の主催によります、
ロラン・バルト講座のお知らせをいたします。
次回のロラン・バルト講座は意味の極限としての映像を巡る刺激的な論考である
『映像の修辞学』を取り上げる予定です。
映像を「読む」とは?
語る「主体」とは?
脱線と逸脱を繰り返しながら
コミュニケーションを思考し続けるバルトに接近してみませんか?
ぜひふるってご参加ください。


▼講 座 名 :我ら自身によるロラン・バルト
▼講   師:宇波彰(当研究所上級フェロー、明治学院大学名誉教授)
▼開 催 日 :第2回…3月1日(土)/最終回…3月22日(土)
▼開始時間:各回14時より
▼会   場:中野区立哲学堂公園霊明閣
▼アクセス:中野駅・新井薬師前駅より「池袋駅西口」「江古田駅」
       「丸山営業所(新井薬師前駅経由)」行『哲学堂』下車
       江古田駅より「中野駅」行『哲学堂』下車
▼受 講 料:1000円(実費)
事前申込不要 /テキスト不要




なお上記は全て予定となります。
来場の際には事前にご確認いただきますようお願いいたします。

稲見@ブログ管理担当

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寺山修司の詩作品

寺山修司(1935~1983)は、若いときから俳句・短歌を作っていた。やがて、寺山は、前衛的な選劇活動を行なうようになるが、時には競馬についても深い関心を持つなど、ひとつの領域に閉じこもらない多彩で精力的な活動をしたことはよく知られている。その著作は、百冊を超えるといわれている。寺山修司のそうした多面的な活動を支えていた芸術の原理のようなものがあると考えられる。
そのひとつは、近代の日本が過去から引きずってきた、家族を中心とする閉じられた世界観に対する批判である。寺山には、小市民的な感覚に対する、ほとんど生理的なほどの反感がある。『家出のすすめ』という寺山の著作の一冊の題名は、彼の反市民的な立場をよく示している。今日歌われる寺山修司の詩も、一見すると家庭の幸福を歌ったもののように見えるが、実際はそうではない。寺山の第一歌集『空には本』(1958)にすでに次のような歌がある。

   小市民のしあわせなどを遠くわれが見ており菜屑うかべし河口

小市民的なものを否定して、そこから新しいものを作っていこうとする意識は、この第一歌集の末尾に付された「僕のノート」というあとがきのなかではっきりと示されている。寺山はそのなかで、次のように書いているからである。「短歌をはじめてからの僕は、このジャンルを小市民的な呟きから、もっと社会性をもつ表現にしたいと思い立った。」。ここで、寺山は、短歌をもっと社会性をもつ表現にしたいと書いているのであるが、その意識がやがてほかのジャンルの芸術にも拡大されていくことになる。
私は、寺山修司の芸術の二番目の特徴として、彼があらゆる意味での単純な反復を拒否して、つねに新しいものの創造を目指し.ていたことを挙げるべきだと考える。寺山修司の演劇では、普通の芝居にあるような意味での「台本」は否定される。演劇が台本の単純な再現であるならば、演劇の必要はないという考え方が寺山の演劇観の根底にある。寺山修司の書いた「台本」に「巨人対ヤクルト」というのがある。これは、野球の試合の経過をそのまま台本にしたものであって、台本の完全な上演を求める指示があるために、現実には上演できない。上演が最初から不可能なこの台本は、「台本の反復としての演劇」が実は無意味であることを言うために書かれたものである。
もうひとつ、寺山の芸術論で重要なのは、「半世界」という思想である。これは、芸術作品は、それを創るひとによっては半分しか作られていないのであって、残りの半分は芸術の消費者もしくは観客によって作られるという考え方である。寺山は、そのことを実際の演劇活動においても実践し、観客が演劇に参加することを求めた。街頭演劇はその一例である。 
寺山修司には、作詩集『かもめ』(1973)がある。これは、浅川マキ、日吉ミミ、カルメン・マキたちが歌った歌を集めたものであり、「時には母のない子のように」などが収められている。そこでは、寺山修司は、自分の詩が、曲を付けられ、歌われることによってようやくひとつの世界になる半世界であることを十分に意識していたように思われる。
今日演奏される、中田喜直作曲による寺山修司の詩は、膨大な寺山修司の作品のなかでは、小さい位置しか占めていないように見える。しかし、その詩作品の内容はきわめて寺山的であり、また、ここでは寺山修司と中田喜直という意外な組み合わせが実現されているのであって、私はそこにも演劇的なものを感じないではいられない。

(付記。1992年10月11日に、東村山市中央公民館で、寺山修司作詞、中田喜直作曲、歌曲集「木の匙」の演奏会があった。バリトン・倉田博継、ソプラノ・倉田靖子、ピアノ・渕上千里というメンバーであった。本稿はそのときに私が、演奏の前に行なった講演の要旨である。これは私の手元に残っていた原稿のままであり、手を加えてはいない。なお、この歌曲集はかつて伊藤京子によって歌われたことがあり、私もそのテープを聴いた。この歌曲集の存在そのものもあまり知られていないので、あえてここに拙稿を公表することにした。2008年2月16日)

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『ミトロジー』再読 その4

最初に述べておいたように、バルトの『ミトロジー』の基盤のひとつは《集団表象》というデュルケームの社会学の概念である。そしてバルトは1950年代の集団表象の主体として、 「エル」の女性読者のような、小市民階級という集団を考えていた。しかし、もしもそういう集団そのものが崩壊するとすれば、《集団表象》そのものも崩壊することになりはしないか。私がこの小論の最初の方で、バルトが『ミトロジー』を書いた時代以後、《大衆文化と集団表象のあり方はかなり変化したと言わなくてはならない》と書いたのはその意味においてである。いわば現代においては神話は崩壊しつつあるのであって、『ミトロジー』の巻末にある「神話・現代」のなかでの次のようなバルトの主張は、すでに神話の崩壊を或る程度感知していたような印象を与える。《神話学者は、神話の消費者全部と相容れない。……神話が集合体全部に到達しているとき、神話を解放しようとすれば、共同体全体から遠ざからなくてはならない。》(245頁)バルトはここで、共同体から人間が離脱することによって神話が解放されると述べているのだが、現代のわれわれは何らかの意味で共同体から離れつつあるのではないだろうか。
すでに述べたように大衆文化は、大衆が特定の対象に共通の関心を持ち、それについて語ることによって神話を形成することから成り立っている。ところが、私が最近別の機会に何度か論じて来たように、現代文化は非常に多様化・多極化していて、大衆の関心が極度に分散している。川本三郎氏はこれを《マニアの時代》と規定するが、《マニア》相互はもはや連絡の可能性がなくなっている。これは文化の細文化・多様化であると同時に、大衆そのものの多様化でもある。
今さらここに書く必要はないかも知れないが、丸山真男氏は『日本の思想』のなかで日本の文化のあり方をタコツボ型であると規定した。タコツボ型とは、《文字通りそれぞれ孤立したタコツボが並列している型》のことであり、近代日本の学問や文化、あるいは社会の組織形態がタコツボ型になっていることが指摘された。現代文化は、このタコツボ型の激化にほかならない。 (モランは『時代精神』のなかではこれとはまったく反対の立場であって、大衆文化を世界文化として規定しようとする。そういう面があることも否定できない。つまり大衆文化は崩壊しつつあると同時に拡大しつつある。しかしこの小論では、崩壊する面に焦点を合わせたい。)
われわれは何の抵抗もなしに《集団表象》ということばを用いているが、そのばあいの《集団》とは何であろうか。バルトはそれをフランスの小市民階級であるとする。しかしバルトの分析以後、彼らの意識そのものもかなりの変化をして来たに違いない。1973年3月にバルトはモーリス・ナドーと、ラジオでの対談「どこへ・それとも文学は行くか?」を行った。(「みすず」1975年3月号に松島征氏の訳によって掲載されている。)そのなかでバルトは次のように発言している。《二十年前、哲学はまだへーゲルの強い影響のもとにあって、全体化というイデーとたわむれていた。今日、哲学が複数的なものとなった結果、もっと小集団的・ファランステール的なユートピアを空想できるようになった。これらのテクストが流通するのは、したがって、小集団、ほとんどファランステール的な語義における「友愛」のなかである。》(「みすず」183号、16・17頁)
バルトはここで20年前には、哲学が全体化というイデーとたわむれていたと書いているが、ここで20年前というのは1950年代の初期のことであって、彼が『ミトロジー』に収められるエッセーを「レットル・ヌーヴェル」に書き続けていた時期である。バルトは哲学が全体化のイデーとたわむれていたと述べているのだが、その当時のバルトが考えていた《集団表象》の集団もまた、フランスの小市民階級という全体性にかかわるものであったと見なくてはならない。
バルトは現代文化の多様化・多極化という表現を用いてはいないが、1970年代の哲学が《複数的》なものになったことを認めている。哲学はつねに現実のあとを追いかけるものであり、哲学の複数化・多様化は、現実の複数化・多様化に対応するものであると見なくてはならない。《タコツボ》現象は、わが国の文化にだけ見られるものではない。世界の現実そのものが極度に多様化し、また構造化されてしまっている。このような多様化のなかでは、すでに述べたように文化そのものが多様化・細分化するだけではなく、その文化を生産し、消費する集団の側も多様化し、細分化するようになる。バルトはそれを《小集団》とか、フーリエが構想した小さな共同体である《ファランステール》という用語で表現している。バルトはここでは文学のテクストがそのような小集団・ファランステールにおいて生産され消費される状況を、ユートピアとして描いているのだが、それはけっして文学の領域にとどまる空想ではない。現代文化の多くの領域で現実に生じている現象なのである。
そうすると、25年前には有効な考え方であった大衆文化の集団表象という考え方自体があやうくなってくる。柳田国男がその著作を媒介として再現した各地の伝統・伝説は、彼が《常民》と名付けた村落共同体の民衆の集団表象、つまり彼らの集団的想像力の所産であった。そういう集団表象は村落共同体の崩壊とともに、それ自体が崩壊して行く。それと同様に、もしもバルトが言うような《小集団》《ファランステール》が今日成立しうるとすれば、そういう小集団の集団表象、集団的想像力は、いわゆる《大衆文化》における集団表象とはかなり違ったものになるはずである。しかもバルトはそれらの小集団をユートピアとして空想しているにすぎない。事実上はそういう小集団の成立さえかなり困難になっているはずである。おそらくバルトは1950年代に彼が分析の対象としたような《神話》が崩壊して行くのを意職していたはずである。なぜならバルトが1970年版の『ミトロジー』の前書きで書いているように、記号諭は最後には《記号破壊論》になるはずだからである。記号破壊論とは、西欧的記号の究極の意味サレルモノである神の破壊であり、西欧的な秩序の破壊であって、それによって意味スルモノの解放が可能になるのである。
この意味でバルトの作業は、フランスの小市民階級の意識に対する批判から、西欧の伝統的な精神そのものへの批判へと移行して行った。バルトは、すでに言及した「物そのものを変化させる」というエッセーのなかで、このことに触れて次のように書いている。《最初は(イデオロギー的な)意味サレルモノの破願が目標とされ、次には記号の破壊が目標とされた。〈神話破壊論〉のあとに、もっと大きな、そして別のレヴェルでの〈記号破壊論〉が来る。》[「エスプリ」1971年4月号、605頁)私自身も、こういうバルトの思考の変化について論じたことがあるが(北樹出版刊、平井正氏編『文化と文明の哲学』第7章)、西欧的思考そのものへの批判の前提になっているのが、 『ミトロジー』でなされた大衆文化批判なのである。
バルトの思考は哲学的ではないように見える。しかし彼は実際には思想の動きに対して極度に敏感に反応しているように思える。彼が《記号破壊論》と名付けた思考は、同時代のデリダ、フーコー、ドゥルーズなどの思考と多くの点で共通のものを持っている。また、現代文化の間題の考察では、モラン、ボードリヤールに先行している。バルトはけけっして孤立した思考をしていたのではなかった。

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『ミトロジー』再読 その3

それでは、そのような神話形成者としての大衆・小市民階扱ばどういう意識を持つ者として規定されているのか。バルトは「エル」の読者について次のように書いている。《「エル』の世界では、女性はつねに同質の種属であり、白分の特権にあこがれ、そしてそれ以上に服従を好む一団である。》(52頁)つまり、「エル」の女性読者たちは同質のびとたちであり、ほかの女性と異なることを好まない。このことは「エル」の女性読者に限定されるものではない。バルトは、小市民階級の意識は、つねに同一性へと志向し、同義反復の論理を軸としていると指摘する。未来小説が火星人と地球人と同じ一神教の信者として描くのは、小市民階級の想像力が同一性の枠のなかにあるからである。「プジャード氏の発言」を理解するためには、1950年代のフランス史の多少の知識が必要かもしれないが、このなかでバルトは《方程式の数学が小市民を安心させる》(85頁)と書き、プジャードの演説によって、《小市民階級のすべての神話には他者であることへの拒否、異なったものの否定、同一性の幸福、似たものの評価が含まれる》(87頁)ことが明らかになったとしている。
そしてバルトは、このような同一性への志向に、ファシズムとつながるものを感知する。すでに述べたように、《大衆文化の言語のイデオロギー批判》には、全体主義と通底する小市民階級の意識への批判が含まれているのである。だから日本でも或る時期に多くの聴衆を集めたビリー・グラハムの演説が話題となったのも、《フランス小市民階級の精神的な脆さの表現》(101頁)にほかならない。そしてバルトは、ビリー・グラハムの演説旅行が《マッカーシズムのひとつのエピソードにすぎないこと》(102頁)をはっきりと見抜いていた。
さらにバルトは、ギド・ブルーの旅行案内書という小市民階級の愛用するガイドブックを分析する。この旅行案内書はたとえばスペインに関してはキリスト教の教会についてしか語らず、イスラム教寺院もピカソの「ゲルニ力」も除外されてしまう。こういう旅行案内書は、フランス人の宗教であるカトリック以外の宗教を見ることができない市民階級(この部分では小市民階級ではなくなっている)の意識に対応するものであり、ピカソや市民戦争時代の共和主義者について沈黙ずることによって フランコ体制を擁護しているのである。
このように、《大衆文化の言語のイデオロギー批判》には、神話の形成者である小市民階級の同一性志向に対する批判と、それと表裏一体になっている全体主義的な思考へと批判の両面が存在している。

それではこのような批判の対象となっている小市民階級は何を神話化するのであろうか。バルトが言うように、 『ミトロジー』の素材は1950年代のフランスの日常生活のなかにある。だから、あらゆる現象が、もしそれが何らかのかたちで小市民階級によって語られるものであれば、それはただちに神話として機能する。たとえば「ワインと牛乳」の章では、ワインが集団表象の対象として把握されている。つまり、ワインはフランス人の日常生活に不可欠なものであり、日常性の神話回路のなかに組みこまれてあるから、コティ大統領(一九五四年から五九年まで大統領の職にあった)がワインを飲んでいないでそのかわりにビールを飲んでいると思われるような写真が公表されると、それはフランス国民にとっては非常なショックであり、あたかも国王が独身であるような現象として感知されるのである。ただしここでもバルトは、ワインの生産は資本主義の仕事であって、そこに搾取があるのだと付け加えることを忘れてはいない。
フランスの小市民階級が神話化する対象を列挙してみよう。プロレス・写真・映画・広告・おもちゃ・ワイン・ビフテキ・ポテトフライ・演劇・旅行案内書・自動車・ストリップ……要するに、日常生活で語られるあらゆる物・現象・事件が神話として了解されるのである。(続く)

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『ミトロジー』再読 その2

『ミトロジー』はその題名の示す通り、フランスの大衆文化のさまざまな現象を神話として記述した書物である。そして神話とは、すでに述べたように言語であり、また集団表象にほかならない。そしてバルトが分析したのは1950年代のフランスの小市民階級にとっての神話であるから、そのような神話の分析を検討することによって、バルトの時代とわれわれの時代との差異もまた明白になってくるだろう。バルトは『ミトロジー』の序文のなかで、『ミトロジー』の目標が《フランスの日常生活の神話についての考察》であると述ベている。(9頁。以下『ミトロジー』の引用は、 1970年刊のポアン叢書版による。現代思潮社刊の篠沢秀夫氏の訳が全訳ではないためである。)
神話とはことばであり集団表象のことであるが、そこに登場する人物は当然のことながら神々になる。 『ミトロジー』の最初の章はプロレスを素材にしていて、そこで拡げられるプロレスとボクシングの違い、プロレスにおける記号の明瞭さの指摘など、最初の章として読者に楽しみを与える要素は十分に含まれている。この章でバルトはプロレスラーは神々だと言っている。また、アルクールのスタジオで写真を撮影される映画スターも神である(24頁)。それは彼らが小市民のたえまない話題になるからである。神話とは大衆の話題にほかならない。エドガール・モランの『時代精神』第1巻でも、いわゆる有名人は、《オリンポスの神々》として扱われていたことが想起される。バルトはこの『ミトロジー』の末尾に付された「神話・現代」の冒頭で、《神話はひとつのことばである》と書き、その条件として、《神話はコミュニケーションの体系であり、メッセージである》と主張している(193頁)。《コミュニケーションの体系》というのはわかりにくい言い方であるが、要するに突発的に語られることではなく、大衆もしくは小市民階級の意識のなかに何らかの位置を得るほどに、連続的にまたかなり広範囲に語られることでなければ、《神話》としては成立しないだろう。
すでに述べたように、バルトは《集団表象》という概念を《神話》と同じ意味で用いている。神話を語る主体は、大衆文化のばあいには大衆なのだが、『ミトロジー』では1970年版の前書きに《大衆文化》という用語が使われているだけで、一般には小市民階級(プチブルジョワジー)という用語が使われている。また、群衆(foule)という用語も使われている。それは「結婚」の章においてであって、そこでは派手な結婚式をバルトは2つの家族のあいだのポトラッチとして分析し、そのポトラッチが群衆の眼の前で行われる必要があるのだと述べている。群衆とはこのばあい教会や広場に集まるひとたちのことである。こういう結婚式においては、《富の浪費を取り囲む群衆の眼にこのポトラッチを見世物として示すこと》が重要なのであり、そのためには《群衆が必要》(47頁)なのである。(この視点をもう少し先へ進めたところにボードリヤールがあるように思われる。)
また、 『ミトロジー』ではそれほどひんぱんに映画が論じられているわけではないが、ここで考察している神話の主体は誰かという論点にからませるならば、マーロン・ブランドを神話化するのは、写真の多い週刊誌の女性読者だとされている(48頁)。バルトは、女性向き週刊誌『エル』は《神話の宝庫》であると述べているが(128頁)、エドガール・モランも『時代精神』のなかでしばしば「エル」に言及しているのであって、 「エル」の読者こそ、神話の重要な主体だというベきであろう。1950年代には、まだそういう神話の主体が成立しえたのである。今日の状況はそれとはかなり異なりつつあるのであって、この問題については後述する。(続く)

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『ミトロジー』再読 その1

『神話作用』というタイトルで篠沢秀夫氏によってそのおよそ六割の部分が邦訳されている『ミトロジー』は、文字通りに数多くの神話作用を集めたものである。そういう神話作用もしくは神話現象を、バルトは過去の世界には求めず、1950年代のフランス小市民階級(プチプルジョワジー)のなかに求めた。当然のことながらそこには1950年代という制約があって、テレビは未だ普及せず、フランスという境界があるからかならずしも世界全体に妥当する分析ではないかもしれない。そういう制約はありながら、私はこの『ミトロジー』は現代の文化を考えて行くためには不可欠の文献のひとつであり、また読むことそれ自体が楽しみとなるような種類の、数少ない書物の一冊であると考える。
『ミトロジー』は1957年に出版されたが、その序文によれば、1954年から1956年にかけて書かれた文章を集めたものである。この著作は1970年にスーユ社のポアン叢書に収められたが、その際バルトは短い前書きを付した。この前書きのなかでバルトは、この『ミトロジー』が、いわゆる大衆文化の吾語に対するイデオロギー批判と、この言語を記号論的に解読することという二つの目標を持つものであったと述べている。ここで大衆文化の言語といわれているものは、バルトが『ミトロジー』で扱ったさまざまな文化現象そのもののことであって、バルトはたとえばグレタ・ガルボや、オードリ・ヘップバーンの顔、コルトの拳銃などをすべて言語として分析する。言語としてというのは意味を持つものとしての意味であって、今日ならば当然《記号》として扱われるはずのものであった。また、《イデオロギー批判》というときには、二つの側面があるように思われる。ひとつは大衆文化の消費者である大衆もしくはフランス小市民階級の意識そのものに対する批判であり、したがってそれは大衆文化そのものに対する批判である。もうひとつはこういう大衆文化を背後から動かしている、政治的・梅力的なものの発想である。
『ミトロジー』のもうひとつの側面としてバルトは、大衆文化の言語の記号論的な解読ということを挙げているが、この側面はあまり明瞭には現れてはいない。事実、今日でも《記号論》がどういうものであるかば明白ではなく、ましてバルトがこの著作を書いていたころ、記号論的な思考の基礎はほとんど構築されていなかった。バルトは当時ようやくソシュールの言語理解に接したばかりであって、記号論の理論付けにはいたっていない。 (バルトが雑誌「コミュニカシオン」に「記号学の原理」を発表したのは1964年のことである。)
『ミトロジー』は、大衆文化のもろもろの現象を言語として扱うという視点に立っているから、それ自体がすでに記号論的な視点と言えるかもしれない。実際にバルトは、すでに言及した1970年版の『ミトロジー』の前書きで、《集団表象を記号の体系として扱う》という方法を用いたと書いているが、ここに『ミトロジー』の間題点が内蔵されていると見なければならない。なぜなら、大衆文化の諸現象を言語として扱うということと、神話として扱うということとは同一のことであり、そのばあいの方法の基盤が、《集団表象》というフランス社会学の伝統的な考え方だからである。つまりバルトは、いきなり唐突に《ミトロジー》という考え方を提示したのではなく、社会学のフランス的伝統のなかから考え方を導入し、それをソシュールの言語理論と結びつけようとしたのである。バルトは雑誌「エスプリ」1971年4月号に「物そのものを変化させる」というエッセーを書き、そのなかで『ミトロジー』の意義を再確認するとともに、この『ミトロジー』の新しい神話論が、新しい記号論でもあることを明らかにした。また、《集団表象》の考え方をデュルケームから導入したことにも言及している。
しかしながら、バルトが『ミトロジー』を発表してからすでに四分の一世紀がすぎようとしている。その間に、大衆文化と集団表象のあり方はかなり変化したと言わなくてはならないだろう。大衆や集団そのものが極度に変質しつつあるからである。この小論はそのような変化を念頭に置きつつ、バルトの大衆文化論の意義を再評価しようとするものにほかならない。(続く)

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未来図書館のリストに

「未来図書館」のリストに入れたい本はたくさんあるが、少なくとも次の3点はリストに加えてほしい。
一つは、アメリカの哲学者C・S・パースの著作集[1]である。パースは大学の教授ではなかった。しかし、あるいはだからこそ、非常に多くの論文を書いた人である。今でもパースの著作は部分的にまとめられていて、わが国でもかなり翻訳がなされている。最近では、伊藤邦武氏の優れた訳業によって『連続性の哲学』が刊行された(岩波文庫、2001)。アメリカでも一度著作集が刊行されたが、きわめて不十分なものであり、パースの熱心な研究者は、直接草稿に当たる作業をしなければならなかった。ところが、1982年から、『Writings of Charles.S.Peirce:A Chronological Edition』(Indiana University press)の刊行が始まった。エドワード・C・ムーアの書いたその第1巻の序文によると、パースの書いたものを全部本にすると、104巻を超えるという。「全集」ではなく、「著作集」という謙虚なタイトルだが、それでも少なくとも全部で24巻になる予定であると聞く。サブタイトルにあるように、この著作集は「年代順」の編集である。これは重要なことだと私は思う。バースの思考の展開のプロセスがわかるからである。1982年から始まったこの著作集は、2000年にようやく第6巻が刊行されたから、一冊編集するのに3年はかかっていることになる。そうすると、24巻の完結は21世紀の後半になるであろう。私も買ってはいるが、もちろん私が死ぬ前に完成するはずもない。これこそまさに「未来図書館」ではないだろうか。
二点目は、イギリス人であるがアメリカで活躍したグレゴリー・ベイトソンの著作集[2]である。ベイトソンはニューギニアやバリ島でフィールド・ワークをしたことがあるので、文化人類学者とされることが多いが、イルカの言語の研究をしたり、家族療法にも大きな影響を与えた「ダブルバインド」理論を唱えたり、晩年には密教にこったりして、専門領域のはっきりしない人である。こういう人は、いわゆる「研究」の対象にしにくいので、私は「ベイトソンをやっています」というような学生・院生には会ったことがない。日本にはベイトソンの「専門家」はいない。佐藤良明氏が多大の犠牲を払ってベイトソンの主著「精神の生態学」(新思索社、2000)を訳出し、私もベイトソンの映画論『大衆プロパガンダ映画の誕生』(御茶の水書房、1986)を平井正氏との共著で刊行したが、それらはベイトソンの膨大な業績のほんの一部にすぎない。しかも、ベイトソンはバースと同じように非常に多くの論文を文字通り書きまくったにもかかわらず、その大部分が単行本のかたちになっていない。それらの論文は、いわば「散逸」の状態にある。それはアメリカにもベイトソンの研究者がいないからである。私はアメリカに留学していた若い友人の協力を得て、ベイトソンの論文のおよそ80パーセントを集めた。そして、2、3の出版社に『ベイトソン著作集』を出すように話をしたが、残念ながらどこも引き受けてくれなかった。アメリカでも出ていない著作集を日本で出すのが困難であるのは十分に承知しているが、「未来図書」にはぜひベイトソンの著作集を入れたい。
ベイトソンは、『精神の生態学』の序文で、論文をまとめてみるまで、自分のしてきたことが何であったのかわからなかったと述べている。それは、「自分の思想は書いてみるまでわからない」というメルロ=ポンティの考え方と似ている。私はそういうベイトソンの考え方そのものに共感する。
もう一点はベンヤミン全集[3]である。ベンヤミンの仕事は、晶文社から著作集が刊行されており、最近は「ちくま学術文庫」に『ベンヤミン・コレクション』(全3巻、1995-97)がある。そのほかにもいくつか単発で翻訳が刊行されている。しかし、それらはベンヤミンの「全貌」を伝えるものではない。ベンヤミンの『パサージュ論』(岩波書店、1993-95)によってわかることだが、ベンヤミンの方法には、ほぼ同時代のエイゼンシュテインのモンタージュと非常に似たものがある。それはベンヤミン研究者が指摘していることである。またベンッヤミンの思考には「タルムード」のつくり方で見られる、異質な意見を共存させるユダヤ的な発想も働いているように思える。ベンヤミンの論文の中で最も有名なのは、1936年に発表された『複製技術時代の芸術作品』であるが、そこで考えられている芸術作品とは、主として写真と映画であり、とくに映画の影響力をベンヤミンは鋭敏に感じていた。そのとき、彼が考えていたのがソ連の映画、とりわけエイゼンシュテインの作品であったことは、1927年に書かれた『ロシア映画の現状について』を読むと少しわかる。バースの新しい著作集と同じように、ベンヤミンの全集もぜひ年代順の編集にしてほしいものである。ベイトソンについても同じように年代順に論文を並べてほしいものである。思考のプロセスを「追体験」することは、なかなか困難なことではあるが、それでも、時間を追って一人の思想家の足跡をたどることが可能なら、それにこした歓びはない。

(付記。本稿はIntercommunication、2002年春号に掲載された。初出のままで訂正・補筆は行なっていない。同誌が「未来の図書館にどういう本を納めるべきか」というテーマで執筆を求めたのである。この三人に対する私の関心は不変であるが、今もし付け加えるならば「ラカンの年代順作業・セミネール集」ということになるであろう。 2008年2月10日)

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ご来場ありがとうございました

rbj01

いつも当ブログをご覧頂きありがとうございます。
このたび宇波彰現代哲学研究所の主催によります講座、
「我ら自身によるロラン・バルト」が行われました。
おかげさまで老若男女さまざまな14名の参加者にお集まりいただきました。
心よりお礼申し上げます。

当日は上級フェロー、宇波彰によります
「都市の中心・空虚の中心」(記号の国所収)の講義、読解を通じ、
参加者の皆様と実りある活発な議論をおこなうことができました。

次回は3月1日(土)14時より開催いたします。
皆様の参加をお待ちしております。


稲見@ブログ管理担当

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丹下健三-----その切断と連続----

建築論において重要なものは、建築をどのようなかたちや構造にするかという「コンセプト」よりも、建築そのものを成り立たせている思想(イデー)であるという視点に立つとき、丹下健三の建築には、「切断」よりもむしろ、「連続」が強く感知される。
「ミケランジェロ頌」にみられる壮大な世界、世界史への憧憬は、あるときは「大東亜共栄圏」、「バブル型日本経済」と形を変え、丹下健三の「イデー」を成している。そして平和のためのモニュメントさえ、「大東亜共栄圏」のイデーとコンセプトを引き継いでいるのである。(「建築ジャーナル」編集部)


「ミケランジェロ頌」から「東京都新庁舎」まで
 
藤森照信は、歴史家の視点から丹下健三の仕事を見るならば、それを初期・盛期・晩期の三期に分けることができ、それぞれの代表的な建築作品が、広島平和会館・国立屋内総合競技場・東京都新庁舎であるとしている(「新建築」1991年5月号、「<政治の表現>としての新庁舎」)。しかし私は、藤森照信とは異なって、次のような三区分を提示したい。それは、ル・コルビュジェの圧倒的な影響下にあった戦前の第一期、太平洋戦争下の第二期、そして戦後の第三期である。そして私は、この三つの時期のそれぞれの代表作は、「メケランジェロ頌」、「大東亜建設記念営造計画」、「東京都新庁舎」であると考える。「ミケランジェロ頌」は建築作品ではなく、「大東亜建設記念営造計画」は設計プランにほかならず、具体的な建築作品は第三期においてのみ存在することになる。しかし私は、この建築家の思想と行動を考えるためには、この区分のほうが有効であると考える。以前から私は、建築論において重要なものは、建築をどのようなかたちや構造にするのかという「コンセプト」よりも、建築そのものを成り立たせている建築家の思想(イデー)であると考えてきたし、機会があればそのことを発言してきた。その意味で、「ミケランジェロ頌」は、建築家としての丹下健三のイデーの出発点を示すものであり、「大東亜建設記念営造計画」は、この出発点から丹下健三がどのように自分の建築を方向づけようとしたか.を示すものであり、「東京都新庁舎」は現代の情報社会にどのように対応する建築をつくろうとしたのかを理解させる作品と考えられる。私が丹下健三の仕事を三期に分けるのは、このような意味においてである。
丹下健三の建築を三期に区別するとき、私はこの三つの時期が相互に切断されていると同時に連続もしていることを強く感知する。「ミケランジェロ頌」において示されたル・コルビュジェに対する傾倒の意識は、第三期においてかたちを変えて復活する。第二期において意識されていた日本的なものへの回帰は、広島平和会館をへて、かすかにではあるが、おそらく東京新庁舎へとつながっている。与えられた紙数は多くはないが、私はそのような切断と連続について考えてみたい。

「第一期」----戦前・壮大なものへの憧憬

1939年に発表された「.ミケランジェロ頌」は、今日の建築家の一部に忠実に受け継がれている、いわゆる「美文」で書かれている。「それは静謐なる歴史の時刻であった。どこか、醒めた自我の内に、歴史の尖端の炎は燃えた。その時、歴史は究極の、貴重なる一歩を上昇した」。全体が建築の世界に特有のこの調子で書かれている。そのため、丹下健三が何を言おうとしているのか、なかなか把握しにくい。しかし基本的には、「幾何学の氷の殿堂」を破壊するものとしてのミケランジェロという問題設定であり、その破壊の原理がパトスである。「創造の根底には大いなるパトスがある」からである。丹下健三は、同時代のイタリアの建築・美術が、「頽廃せる幾何学に凍結」してしまい、北ヨーロッパにはアアルトがいるにもかかわらず、その建築が「造形からの逸落の淵にさえ臨んでいる」として、ル・コルビュジュただひとりを「無限の進路を開きつつ、造形の公道を歩む」建築家として評価するそしてル・コルビュジェとミケランジェロが結合されることになる。ミケランジェロにとっては、ローマのコロセウム、バジリカ、カラカラ帝の大浴場の「壮大」が魅力であったと丹下健三は考える。そしてサンピエトロ寺院のドームを凝視することを求める。「それは伝統的存在ミケランジェロをはるかに超えて立っているかに見える」からである。これはミケランジェロに対する崇敬の念の表現であるが、ミエランジェロを超えた壮大なものへの憧憬の表現である。
また「ミケランジェロ頌」のなかで丹下健三はミケランジェロについて次のように書いている。「彼は一切の歴史の負荷を背負いつつ、それ故に-----未来の空虚な暗に向かって----世界からの衝動に促され、世界史の深く傾向的なものを身に受けねばならない。かくて彼は、未来と、過去を、現在の一点に賭けて決断へと強いられるのである」。丹下健三の仕事の軌跡をたどっていくと、彼がミケランジェロにおいて発見したこのような芸術家の理念が、彼自身のやり方で表現されていくのを見ることができる。「世界からの衝動」、そして「世界史の深く傾向的なもの」というときの、「世界」「世界史」をどのように理解するかが問題である。丹下健三にとって、それらが「大東亜共栄圏」、あるいは「バブル型日本経済」ではなかったかという疑いを私は捨てることができない。


「第二期」----戦中・神聖なるかたち

すでによく知られているように、丹下健三は1942年に「大東亜建設造営計画」をつくったが、そのときに書かれた「忠霊神域計画主旨」のなかで次のように書いている。「国土を離れ自然を失ってひたすら上昇せんとするかたち、抽象物、人類的な支配意思の表象として、のかたち、エジプトの文化に、中世のキリスト文化に、そのかたちが作られ、それはついに英米の全権的支配の欲望にそのかたちをあたえた」。エジプトから始まる欧米の建築は「上昇する形、人を威圧する塊量」にほかならず、それは「神国日本」とは無関係なものである。「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓のかたちを以って。一すじの聖なる縄で囲むことによって、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受け取られた」(「建築雑誌」1942年9月号)。エジプト・ヨーロッパの建築物が大地を離れた上昇志向によって、あるいはパシュラール的にいえば、「空のコンプレックス」に支えられてつくられているのに対して、丹下健三は「一すじの縄で囲むことによって」聖域をつくるという日本的な発想、あるいは「大地のコンプレックス」を基本としたいといっているのである。実際、この「大東亜建設記念営造計画」では、高い建物は一切排除されている。その根底では、「大地のコンプレックス」が支配的である。私が丹下健三の建築に第二期と呼ぶ時期の特徴は、このような日本的・大地的・聖域的な発想である。
この二期に考えられていたもう一つの重要な作品が「バンコク日本文化会館」である。これも実際には作られることがなかった作品であるが、しかし私は第二期を象徴する重要な作品であると考える。その「計画主旨」において、丹下健三は「欧米の固体構成的な建築」では、日本的な「礼・格・.ゆかしさ」が表現できないとし、「わが国の環境秩序的なる造営」の優位を説く。その設計プランを検討してみると、ゆったりした敷地のなかに建てられる、神社建築風の、2階までの低い構築であり、「一すじの縄で囲むことによって」聖域をつくるという「大東亜建設記念造営計画」のイデーがそのまま使われていることが察知される。このイデー、あるいはむしろコンセプトは、いくぶんかたちを変えて、「広島平和会館」、そして最近の作品である「日光東照宮 客殿・社務所」へと引き継がれていく。大東亜共栄圏のためのモニュメントが、類似したコンセプトによっていることに対して、われわれはもっと批判的であっていいのではないだろうか。


「第三期」----戦後・さらなる「聖域」づくり

国立屋内総合競技場を含めた戦後の丹下健三の建築をすべて「第三期」の作品として総括することには、かなりの批判もあるだろう。戦後50年をひとまとめしてしまうのは、無理があるかもしれない。しかし私は戦後の丹下健三の作品の共通の特徴は、彼が戦時中に否定した「ピラミッドをいや高く築きあげる」建築、「ひたすら上昇せんとするかたち」であると考える。もちろんそれは「情報化時代の建築と都市のあり方を模索し続けている」(「SD」1995年9月号)結果であり、また考えようによっては、一すじの縄で囲むことによってではなく、高層の建築によって聖域をつくろうとしているのかもしれない。その意味では、この第三期の建築は、第二期の考え方を何らかの意味で受け継いでいると見ることも可能である。藤森照信が丹下健三の盛期の建築としてあげている「国立屋内総合競技場」も、晩期の作品とする「東京都新庁舎」も、少なくともそのかたちを見るかぎり、高いところへとつねに上昇しようとする「空のコンプレックス」に支えられた作品であり、第二期において自分自身が否定した「上昇する形、威圧する塊量」そのものである。
丹下健三は、東京都新庁舎について、「この建物は、日本が経済的に余裕があり、その勢いで新庁舎にも余裕があったので、平均並みの予算を取りました」と述べている(「新建築」1991年5月号所蔵「建築の長寿を考える時代」)。経済的に余裕のある状況が、ここでは「世界からの衝動」として機能している。このように考えるとき、私が区分した三つの時期は、決してばらばらに存在しているものではないことがわかってくる。切断と連続が交互に浸透して存在している。
率直に言って私は、丹下健三の第三期の建築にはほとんど関心がない。しかし、あらゆる意味で、丹下健三は日本の建築の代表的な存在であり、日本の建築、あるいはもっと広く日本の芸術・文化の問題を考えるとき、丹下健三の長年にわたる仕事が一つのモデルケースになっていることは確かである。彼の仕事の検討は、われわれ自身の自己批判の作業と重なるはずである。その意味でも、彼の仕事の背後にあるイデーとコンセプトの分析はさらになされなければならないであろう。

(付記。本稿は「建築ジャーナル」1995年12月号に掲載されたものである。訂正・補筆は行なっていない。このブログにすでにアップしてある東京都新庁舎についての拙論の前提にもなるものである。 2008年1月28日)

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