宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

きたる4月30日(水)午後2時45分より、
明治学院大学1555教室において言語文化研究所主催による、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。
今回は「ラカンによる夢の解釈」がテーマとなります。
事前申し込み不要で参加費は無料です。
ぜひふるってご参加ください。
なお詳細は明治学院大学言語文化研究所(03-5421-5213)までお問い合わせ下さい。


参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html


ブログ管理担当@稲見

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象徴空間論

日本で「空間」ということばがいつごろから使われていたのか、まだ調べていないが、1906年に刊行された上田萬年、松井簡治編の『大日本国語辞書』には、「空間」には二つの意味があるとしている。ひとつは「あきてある所、物の無き場所、すきま」であり、もうひとつは哲学の用語として、「一般無限にして、物体の延長の成立しうべきもの、上下・四方・遠近・長短などによりて表わさる」と説明してある。つまり、「空間」とは一般的な用語としては、「物がないところ、すきま」にほかならなかった。ところが、このような空間についての定義は、およそ百年近くたった現在の国語辞典にも受け継がれているように思われる。たとえば、1999年版の『新明解国語辞典』では、「空間」の第一の意味は「そこを満たしている固体や液体が何も無い場所(ひろがり)」であり、第二の意味は「上下・左右・前後の三次元にわたる無限の広がり」である。表現は少し変わってはいるが、『新明解国語辞典』の記述は『大日本国語辞書』の記述と本質的には違っていない。「空間」とは、「空いているところ」であり、「何もない場所」なのである。ここにでてくる「場所」ということばも、改めて考える必要があるが、それについてはのちに述べる。
空間論の古典の一つとされているボルノウの『人間と空間』の訳者たちによる注には、「時間に対する時刻、刻(とき)のような日本語は、空間にたいしては見あたらない」と書かれている(p318)。しかし、内田繁は、『インテリアと日本人』のなかで、日本語には古来「ウツ」ということばがあるとする。「うつろ」ということばにも、なんとなく空虚な響きがあり、辞書で引いてみると、「うつおぎ」は中空の木のことであり、「うつおぶね」は中をくりぬいた、カヌーのような舟を指す。「ウツワ」もまた中が空虚な容器のことである。そして内田繁は、「ウツワは中がカラッポであるがゆえに、何かによって満たされる」と書いている(P96)。ここには象徴空間論にとって重要な示唆がある。たとえば食器というウツワは、食べ物を入れることによって、満たされる。「満たされる」という行為によって、ウツワは食べ物を入れるという機能を持つようになる。それと同じようにして、「空間」も何かによって満たされることによって、機能もしくは意味を持つようになるのではないだろうか。
一般に、空間には二種類あるというのが、通常の空間論の前提である。一つはデカルト的空間であり、あらゆる方向に均質な、物理学的・数学的・抽象的空間である。これに対して、アリストテレス的空間は、前後・左右・上下などで均質ではなく、人間の意識にとっての空間である。ボルノウは、『人間と空間の』の冒頭で、哲学がいままで時間についてはさまざまな考察をしてきたのに対して、空間の問題はなおざりにされてきたとして、次のように批判する。「人間の現存在の空間的構えという問題、あるいはもっとわかりやすくいえば、具体的な、つまり人間によって体験され、生きられている空間という問題はまったく表にたたないできた」(p13)。このような空間は、中がカラッポであるデカルト的空間とは対立する。そのウツワを何かで満たすことによって、それはアリストテレス的空間に変質する。
象徴空間とは、デカルト的な空間に対立するこのような「生きられている空間」がシンボル化されたものであると規定できる。ここで、シンボル化ということについて、あらかじめ規定しておくことが必要であろう。ラカンの概念では、一般に「象徴界」と訳されている「ル・サンボリック」は、ほとんど言語の領域のことであり、言語によって規定されたもののことである。「象徴界」という訳語に引きずられて、迷うケースがしばしば見られるが、これはむしろ「記号界」という訳語にしたほうがいいと考えられる。実際に、アメリカ文学者の巽孝之はその著作『メタファーはなぜ殺される』のなかでは、 symbolicに記号象徴という訳語を用いている。このように考えるとき、象徴空間とは、記号化・言語化された空間のことであるといえる。
このように言語化・記号化された空間は、身体感覚によって経験された、アリストテレス的・ボルノウ的な空間の存在をその前提として必要とするであろう。ロバート・フラハティによるカナダのイヌイットの生活のドキュメンタリー映画「極北の怪異」(1922)には、その主人公であるナヌークという男が、すべてが真っ白な雪と氷の世界のなかで、自分の位置を確定し、仲間たちをつれて出発するシーンがある。おそらくナヌークは、普通の人には感知できないような、微小な記号を自然のなかに見いだし、それを頼りにして方向を決定していたに違いない。これは、身体的・感覚的な次元で世界を区分けしていく行動である。市川浩の概念を使うならば、「身分け構造」である。身体が対象世界を区別し、差異化いくのである。しかし、この段階では空間はまだ十分に言語化・記号化されているのではない。
空間の言語化・記号化は、空間を何らかの言語・記号によって表現することから始まる。ボルノウの引用によると、カッシーラーは、アメリカ先住民族のズニ族について、「北には空気が、南には火が、東には土が、西には水が配置されている」と書いている。中国の四神思想もほぼ同じように方向に色と動物を配当している。玄武・白虎・青龍・朱雀がそれぞれ方向と結びつく。これは今日でも相撲の土俵の黒房・青房などに名残をとどめている記号表現であり、それによって空間が差異化されている。
ここで、先に引用した内田繁の「ウツワは中がカラッポであるがゆえに、何かによって満たされなければならない」という見解に戻らなければならない。ここ言われている「ウツワ」を、デカルト的な空間であると仮定するならば、そこを満たす「何か」を言語・記号であると考えることができるのではないだろうか。何もない空虚な空間に、名を与え、色を付け、動物や植物を配当することによって、その空間には「意味」が与えられる。それはまさに「空間のシンボル化」である。
そして、たとえば空間のある方向にあるものを「青」という色で記号化すると、今度はそのように記号化された空間が、逆に人間に対して影響力を持つようになる。アフォーダンスという概念が、対象が意識・言語を持つと考えることであるとするならば、そのようにして記号化された空間が「アフォーダンス」として機能するということになる。空間ということばは今日では、たとえば都市空間・居住空間・家族空間などというように使われつつあるが、都市空間を記号化していくのは人間の仕事である。道路に標識を付け、屋根のかたちや瓦の色をある程度まで統一したりするのは、それによって作られる空間が、人間に対してアフォーダンスとして機能することが求められるからである。空間は元来は空虚であり「カラッポ」である。そこに何かを入れるということは、その空間を特別な空間として、意味を持たせることである。そして、人間が意味をもたせたその空間が、それ自体の言語を持つようになり、人間に対して語りかけてくる。それがアフォーダンスということである。われわれは建築物を作る。それは、新たな空間を作るということであるが、その空間は生きている空間であり、アフォーダンスの機能を持っている空間である。
ボルノウはプルーストの『失われた時を求めて』で描かれている二つの空間の対極性について論じている。それは、「スワンの方」と「ゲルマントの方」である。この二つの空間は、異質なものとして主人公によって意識されている。それは、主人公の身体的・感覚的な差異化を基礎にして、「スワン」「ゲルマント」という言語記号によって差異化さえているからにほかならない。この二つの固有名詞によって、二つの空間は異なった意味を持ち、異なったアフォーダンスを提示するのである。
 
参考文献
ボルノウ、大塚恵一、池川健司、中村浩平訳『人間と空間』(せりか書房、1988)
内田繁『インテリアと日本人』(晶文社、1999)
巽孝之『メタファーはなぜ殺される』(松柏社、2000)

(付記。2000年秋に、東京三田の建築会館で行われた日本建築学会主催の「空間」に関するシンポジウムにおいて、フランスの地理学者オーギュスタン・ベルク氏と私が講演し、討議する機会があった。本稿はそのときに同学会の機関誌「建築雑誌」に掲載された拙稿に多少の訂正をしたものである。特にラカンの三領域論については、その当時の私の理解が浅かったので、その部分は改稿してある。なお、「象徴空間」(espace symbolique)という用語は、ブルデューの『実践的理性』にも見出すことができるが、ブルデューのばあいは、ここで論じているのとは異なる。それについては、このブログにアップしてある、ブルデューの『結婚戦略』についての拙稿を参照していただきたい。2008年4月16日)

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ピエール・ブルデュー、『結婚戦略』(丸山茂他訳、藤原書店、2007)を読む

都市と農村の関係は、社会学・人類学・哲学の重要なテーマのひとつである。この『結婚戦略』は、1950年代のフランス農村の変貌を、都市との関係を意識しつつ考察した、若き日のピエール・ブルデューの力作である。そして本書には、彼が死の前年である2001年に書いた、重要な意味を持つ序文が付け加えられている。アルジェリアの農民家族についてのフィールドワークを行なってきたブルデューは、クセジュ文庫で『アルジェリアの社会学』(1958年)を、さらに共著であるが、『アルジェリアの労働と労働者』(1964年)を刊行した。次に自分の故郷である南フランスの農村を対象とする調査を行い、「伝統的農業の危機」を研究のテーマのひとつにした。この『結婚戦略』もそうした農村研究のひとつである。しかしこれは、フランス農村の「崩壊」をルポルタージュ風に記述したものではなく、彼の社会学の理論的的方法が形成されつつ用いられている論文である。
たしかにブルデューは、農村の「婚姻交換システムが根本的に破綻に瀕している状況」、つまり「農村の男性が結婚できない」という状況を描いてはいる。しかし、そこに提示されているのは、単なる報告や描写ではない。本書の原タイトルは「独身者たちのダンスパーティ」である。ブルデューは、クリスマスのダンスパーティに参加した「独身の男たち」の発言と行動をつぶさに観察し、分析する。「ある行為システム」が崩壊し、別のシステムが作られるプロセスが、このパーティで見えてくる。フランスの農村では、この行為システムの変化によって、共同体組織、祭り、葬式、共同作業、隣人関係といった農村を支えてきた伝統的な「農民的諸価値」が消滅し「転覆」した。
この「転覆」は、農村と都市との棲み分けが崩壊した結果である。「このパーティを通じて、あらゆる都市の世界が、その文化的モデルと音楽、ダンス、身体技法とともに農民世界に侵入してくる」のである。つまり、「農民的諸価値の転覆」は都市の市民によってもたらされたものである。その考察にあたってブルデューは農民の「身体的ふるまい」に注目している。それは本書のクライマックスといえる「農民とその身体」の章で示されている。歩き方や身のこなしといった「身体技法」は、農村のなかでは誰も疑問視ししない。しかし、都市と接触するようになると、農民の「身体技法」は相対化されてしまう。都市的なものが農村的なものを相対化し、破壊するプロセスが、「身体技法」、つまり農民の体の動かし方という、視覚的・具体的なものを媒介にして論じられている。そこにブルデューの思考の最大の特徴がある。これは、本書のなかで最も注目すべき部分である。
ここで用いられている「身体技法」(les tecniques du corps)の概念は、マルセル・モースに由来する。モースには「身体技法」という表題の論文もある。この概念はレヴィ=ストロースに受け継がれ、さらにラカンも『セミネール16』で言及している(p.197)。J.P.ヴェルナンの『ギリシア思想の起源』(吉田敦彦訳、みすず書房、1970)には、スパルタの若者教育では「慎み」が重視されたが、それは「慎みある歩き方、視線、言葉使い」を求めるものであった(p.95)。それはまさに「身体技法」である。ヴェルナンは、それが「心理的形態の外面化」であると説いている(p.95)。ブルデューは、『実践的理性』において、「社会空間とシンボル空間というモデル」を提示している(Pierre Bourdieu,Raisons pratiques,Seuil,1994,p.15)。ここでブルデューが「シンボル空間」(espacesymbolique)と呼んでいるものは、彼が南フランスの農村で確認した自動車の車種、祭りの衰退、農民の身体技法などのことにほかならない。
 ブルデューは統計を無視するわけではない。しかし本書を読むと、彼がどれほど伝統的な「社会学的調査」から離れているかがわかる。ブルデューは、「通りすがりにいつも見ていた彫刻のある扉、村祭りの行事、(農民が使っている)自動車の使用年数とメーカー名」に眼をとめる。しかもブルデューが注目したそれらの対象は、けっして単なる「データ」ではなく、「科学的熱狂の対象」であった。彼の思考は、このような「熱狂」によって支えられている。
この方法によって、「独身者たちのダンスパーティ」が、「婚姻市場の新たな論理の可視的形態」として見えてくる。しかしそれはただ単に、ディテールに注目するということではない。ブルデューは序文の冒頭で、「理論的分析というものは深化すればするほど観察データに近接する」と書いている。理論と実践が表裏一体であるということである。「理論的な問題のなかに実践感覚が内在する」という見方は、ブルデューの『パスカル的省察』でも語られている。(P.Bourdieu, Meditations pascaliennes,Seuil,1997,p.11)『結婚戦略』の序文で語られている「体験を認識に変える」という方法は、理論と実践の相互浸透を前提としている。本書には、ブルデューの思考の方法が明確なかたちで示されて、それがフランス農民の結婚という具体的な問題をテーマに用いられている。

(付記。この拙稿は「週刊読書人」2008年2月22日号に掲載された書評をもとにしている。ここにアップしたのは、その書評に大幅な訂正・加筆をしたものである。ブルデューの思想を支えているのはパスカルである。自らを「パスカリアン」と規定するブルデューの『パスカル的省察』の邦訳が待たれる。2008年4月15日)

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