宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

泉鏡花の記号的世界(3)

変身、或いは分身といったテーマは、文学が古くから持っているテーマのひとつであり、その解読の仕方も多様であるが、私は泉鏡花のばあいについては、それを記号の二重化、記号の自己増殖、記号の自己反映として把握したいと考える。この考え方によると、たとえば「朱日記」に赤のイマージュが多用されていることにも説明が可能になる。「朱日記」は、バシュラール風に言うことが認められるとするならば、《火のコンプレックス》によって支えられている作品ということになるであろうが、私は火そのものよりも、火の色としての赤または緋という色の側を重視して考えたい。赤い猿の群が動き、赤旗を持ち赤合羽(或いは緋の法衣)を着た坊主が登場する。私には、泉鏡花が「朱日記」という作品それ自体を朱筆か赤インキで書いたのではないかとさえ思える。さらには、この作品は赤い文字で印刷した方がよかったのではなかったかとも思う。この作品で赤という色が支配的なのは、猿が赤いこと、火事の火、坊主の赤い合羽が、相互に反映しているからである。換言するならば、記号が相互に反映することによって重層化されるからである。「朱日記」や「陽炎座」というタイトルそのものに赤いものが含まれている。そして、こうした赤いことばが、作品のなかのさまざまな存在を赤く染めていく。記号が記号を反映し、記号が記号に働きかけるところに、泉鏡花の記号的世界の特徴がある。
このように考えると、「朱日記」などの作品に示されている赤いイマージュの過剰は、もはや《火のコンプレックス》といった概念では説明し切れないものであることが理解されるだろう。泉鏡花、泉鏡太郎というこの作家の名前のなかに含まれている鏡の作用ででもあるかのように、作品のなかのひとつの記号表現は、他の記号表現に映り、増殖していく。
このことは、絵画と言語表現、赤いイマージュだけにとどまらない。すでに指摘されてきたように、泉鏡花の作品には、しばしば溢れ出る水のイマージュがある。しかし、それもまた《水のコンプレックス》であるとして片付けられるものではない。水のイマージュが相互に反映し、増殖していくプロセスの方が重要である。「沼夫人」はまったくの水地獄という感じの世界を描いているが、そこにも次のような記述がある。《薄り路へ被つた水を踏んで、其の濡色へ真白に映って、蹴出し褄の搦んだのが、私と並んで立つた姿・・・・そつくり何時見る、座敷の額の画に覚えのあるやうな有様だった・・・・はてな、夢か知らん・・・・と恍惚となった。ざあざあ、地の底を吹き荒れる風のやうな水の音》。ここでも女の姿は絵画のイマージュの反映であり、それに重なるように、水のイマージュと音が加えられる。水が水を反映して増殖していく世界がある。
このような記号表現の二重化は、《教える》という行為のなかにも現われている。「歌行灯」で、三重が恩地喜多八に舞を教えられるシーンがある。《雑木の森の暗い中で、其の方に教はりました。・・・・舞も、あの、さす手も、ひく手も、唯背後から背中を抱いて下さいますと、私の身体が舞ひました。其れだけより存じません》。
ここでは舞を教える側と教えられる側とが瞬間的に一体化している。したがって、舞という側面に関する限り、恩地喜多八と三重とは、同一の存在の分身として現われることになる。そこでは、舞という同一の記号表現が二人の人間に反映し、二重化している。
情報理論では、反復表現もしくは冗長性は、情報の積みすぎとされることがある。文学や、その他の芸術のジャンルでも、反復表現が装飾性として否定的にとられることがある。しかし、泉鏡花の作品においては、記号の反復表現は、記号の相互的な関係性のなかで成立している。その成立の仕方は、いま流行の用語を使うことが認められるならば、パフォーマンス的になっている。つまり、相互に関係することによって記号表現が作られる。泉鏡花の記号的世界は、さまざまなプレテクストを含んでいるが、それもまた記号の二重性、パフォーマンス性の要素を構成していると言える。そして、一般に泉鏡花の文学言語の装飾性と言われているものが、実はこの言語にとっての本質的な記号表現の相互関係性の現われであることが理解されるだろう。
泉鏡花の記号的世界とは言っても、それが文学にかかわるものである限り、この記号的世界は言語の世界である。しかしこの言語の世界は、そのオートノミーを確立するために、その内部で自己増殖する方法を知っている世界であると言えるだろう。この自己反映、自己増殖が、おのずから装飾的な文学言語を生産した。したがって、装飾性こそが泉鏡花の記号的世界の特徴になる。くり返して述べてきたように、この装飾性はけっして否定的にとられてはならない。泉鏡花の記号的世界は、情報の積みすぎによってのみ成立しているからである。


(付記。本稿は「国文学」1985年6月の泉鏡花特集号に掲載されたものであり、その初出のままである。私の今までの論集に収録されていないので、ここにアップすることにした。同誌には、山口昌男と前田愛の対談も掲載されている。2008年5月15日)

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泉鏡花の記号的世界(2)

泉鏡花の多様な作品を横に結び付けるもの、おそらくそれは外見の多様性にもかかわらず泉鏡花の作品の根底にあるもののはずである。それが見出されるという保証はないが、私は泉鏡花の作品のなかで、しばしば絵画と言語表現とが結び合わされて記号化されていることに注目したい。ただし、私がこれから言及するいずれのばあいも、泉鏡花は特定の絵画作品について述べているわけではない。
「風流線」「百」の冒頭に次のような部分がある。《五大夫は去ぬる月、粟生の茶店で古襖の大津絵の、若衆と娘とが抜け出して、土間の床机に並んだのを美しく見た夢の、未だ覚め果てぬ?と疑うた》
ここでは、大津絵という視覚的記号表現と、泉鏡花の文学言語とが二重化している。つい最近も私は上野のデパートで開かれていたささやかな大津絵の展覧会を見たばかりであるが、そこで百万円前後で売りに出されていた大津絵は、元来は民衆の美術であり、「風流線」の舞台となっている時代ならば、誰でもが眼にすることのできるものであったはずである。そういう大津絵のイマージュと作中の人物とを重ねて記号表現しようとするところに、泉鏡花の記号的世界のひとつの特徴がある。或いは、それは非常に重要な特徴なのではないだろうか。
《絵から抜け出てきたような》という言い方があるが、通俗的なこうした表現のなかに思いがけない真実が隠されていることがあるのであって、大津絵の人物と作中の人物とを重ねる泉鏡花の手法をよく検討しなければならない。ここでは、イマージュと言語表現とが同一の存在の分身のようになっている。そしていずれもが、記号表現としてのみ存在するのであって、実在を指示対象として持つことがない。
このように、絵画のイマージュと、言語表現による描写とを重ねることは、表現されたもののレヴェルで言うならば、《分身》が存在することになり、表現行為のレヴェルで言えば《反復表現》(記号論では通常は《冗長性》という用語が使われている)が存在している。泉鏡花の記号的世界の最も大きな特色は、この反復表現の多用である。一般的な理解では、この反復表現は泉鏡花の文学における装飾性と言われているものであるが、たとえ装飾性ということばを使うとしても、私はそれをネガティヴな意味で使うつもりはない。泉鏡花がしばしば絵画に言及するのは、この反復表現=装飾性を追及するためである。
「春昼」の語り手である《散策子》は、《三軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八九のと三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿を二人見た》のであるが、それに続けて泉鏡花はこうした女性の姿は《女今川の口絵でなければ、近頃は余り見掛けない》と書いている。「女今川」というのは、元禄のころに刊行された、女性のための絵入りの教訓書のことであるが、ここでも機を織る二人の女性の姿を、江戸時代のイラストと重ね合わせて表現しているのである。
この「春昼」のなかで、語り手である《散策子》が、久野谷の観音堂に参詣するシーンがある。この建物は次のように描写されている。《五段の階、縁の下を、馬が駆け抜けさうに高いけれども、欄干は影も留めない。昔は然こそと思はれた。丹塗の柱、花狭間、梁の波の紺青も、金色の龍も色さみしく、昼の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐絵の画面に似て、然も名工の筆意に合い、眩ゆからぬが奥床しう、そぞろに尊く懐しい》。ここでも、観音堂のリアルな描写よりも、言語表現の運動が先行し、それを土佐絵が支えるという構造がはっきりと現われている。観音堂の描写ではなく、土佐絵を言語で表現しているとさえ言えるだろう。つまり、記号表現相互の運動が優先しているのであり、私はそこに泉鏡花の記号的世界の大きな特徴があると考えたいのである。
「高野聖」にも、《それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿》という表現がある。地獄の絵が反映したところに言語表現がある。換言するならば、こういうばあいの泉鏡花の言語表現は、指示対象を持つものであるよりもむしろ、記号表現を二重化したものであり、それによってそれ自体のオートノミーを保有している。
「草迷宮」にも次のような一節がある。《・・・・巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥かに壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中に縮まつた景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手毬を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔婆を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、最う誰の蔭になつたか人数に紛れて了つた。其だ、此の人は、否、その時と寸分違はぬ・・・・》
ここでも、《極彩色の涅槃の絵》と作品のなかの情景とが重なり合い、渾然としていて、記号が記号を写し、記号が記号を反映するという泉鏡花の文学言語の特徴がよく現われている。
泉鏡花の作品のなかに、時たま変身や分身(ドゥーブル)が見られることも、ここに述べてきた記号の二重化という手法によっていると見ることができるだろう。たとえば、「龍潭譚」では、主人公は斑猫に刺されて美しく変身する。それは虫に刺されてであると同時に、魔(エテ)に憑かれた結果でもあるが、肝心なことはそうした媒介のあり方よりも、むしろ記号的世界のなかの記号的な存在が、この世界のなかで変身するということ、つまり、記号の二重化もしくは多層化である。「夜叉ケ池」でも、晃と学園がドゥーブルとして存在している。
「陽炎座」の登場人物であるお稲は、《今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりの或家の門を、内端な、しめやかな葬式に成って出た》お稲ちゃんとそっくりであり、ここにも分身が存在していると見なくてはならない。
また「女仙前記」でも、谷間で老人が出会ったという女、死んだその女から老人があずかったうさぎを欲しいという女は、いずれも雪という名であり(うさぎもまた同じ名前である)、この二つの作品では、死者と生者が分身として存在している。そしてここで注意すべきことは、この二つのばあいには、お稲、雪という名前が重要な役割を演じていることである。名前の同一性が、存在の同一性を保証するという構造になっている。もちろん、雪という名前が白という色を連想させると言うことは可能であるが、ここで肝心なのはむしろシニフィアンとしての《雪》という名前である。これは、《此処は何処の細道ぢや・・・・》という歌が、その意味内容によってではなく、シニフィアンとして、「草迷宮」と「天守物語」とを結び付けているのと似た構造である。

(つづく)

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泉鏡花の記号的世界(1)

数年前に岩波書店から刊行された『鏡花小説・戯曲選』全12巻は、伝奇篇・怪異篇・芸能篇・風俗篇・懐旧編・戯曲篇の六つの部分に分類されている。戯曲は文学の形式であり、他の五つは文学の内容についての分類であるから、この分類の仕方はかならずしも論理的とは言えず、戯曲篇も解体して五つの区分のなかに入れることもできたのではないかと思う。しかし、たとえそうしてみたところで、泉鏡花の数多くそして多様な作品を、伝奇・怪奇・芸能・風俗・懐旧の五つのジャンルに厳密に区分してしまうことは困難であろう。泉鏡花の作品には、このような分類を拒否する要素があるからである。この選集の表紙に付された帯には、《鏡花文学解明の手がかりに----ジャンル別編集》というコピーがある。ジャンル別にすることは、泉鏡花の作品に接近する手がかりになるのだろうか。区別をして見えるようになったものが、対象の真の姿なのではない。区別は必要ではあるが、区別をして終りにすることはできない。
また、泉鏡花の作品のなかには、すでに注釈がなければ読解が困難なものが増えつつある。作品と同時代の社会・風俗・言語についての知識が欠けていると、しばしば意味が不明になる。さらに、泉鏡花のテクストのなかに夥しく引用されている、小野小町やら、「東海道中膝栗毛」やら、俚諺、川柳のたぐいまでのプレテクストを、現代の読者はもはや充分に読み取ることはできない。このように、泉鏡花の作品は次第にわれわれにとってわかりにくいものになりつつある。ここでかりに《記号》という用語を使うことが許されるとするならば、泉鏡花の記号的世界はすでに何らかの解読のためのキーを必要とし始めているのであり、そうだとすれば『鏡花小説・戯曲選』の編集の仕事をしたひとたちが、この世界に伝奇・怪異・芸能・風俗・懐旧といった常識的なジャンル分けを設定したのも、この迷宮的世界に分け入る道を求めようとしてのことであったことが理解される。
しかも、すでに述べたように、このような分離はあくまでも人工的なものであり、あとから付け加えられたものであって、読者はその境界付けによって制約されてはならない。自分自身の眼で見ることができるまでの、暫定的な境界付けであると考えなくてはならないはずである。
このように人工的に区別されたいくつかのジャンルの作品を寄せ集めることによって泉鏡花の文学の世界が構成されると考えるのは誤りである。常識的な理解では、部分の集合によって全体が構成されるが、部分が相互に異質なものであるばあいには、かならずしもそうではない。泉鏡花のそれぞれの作品を全部集めて、それが統一的なひとつの全体になるとは言いにくい。『鏡花小説・戯曲選』の解説の大半を書いている寺田透氏は、長年にわたってバルザックを論じてきたが、バルザックの『人間喜劇』のような統一性は、泉鏡花のばあいには存在しにくいように思われる。泉鏡花の記号的世界のなかで、解読可能なコードを少しずつ見つけ、重なり合い、からみ合っているコードを解きほぐしていくという、地味な作業を積み重ねていくことが必要のように思う。
ところで、泉鏡花の記号的世界とはいったい何のことか。それはまず第一に倫理的な意味を排除した、言語表現の世界のことを意味している。記号論の立場で、機能性と記号性とを区別して考えることがある。文章に関してこの区別を適用してみると、たとえば或る機械の使用説明書の文章は、その機械の動かし方を使用者に伝達するという機能を持っていれば充分であって、その機械の美しさについて書いたりすることは余分なことである。しかし、文学の言語は、こうした機能性とはまったく異なった作用をする。もちろんそれは読者に快楽を与えるという機能を持たなければならないが、そうした機能を生産するものが文学の言語の記号性である。
泉鏡花の文学言語は、この意味で高度の記号性を持ち、その文学世界を記号的世界と呼ぶことができるだろう。このような意味での記号性は、普遍的に存在するものではなく、作品と読者との相互的な関係のなかから成立してくるものである。最近、デザインなどの領域で、しばしばテースト(taste)ということが問題にされるが、それはデザインもまた個人の趣向・意識と深い関係があることが意識され始めてきたからであろう。文学作品の記号性というときも、読者の側の意識を無視したものではありえない。だから極端に言えば、いま論じている泉鏡花の文学言語の記号性は、私にとっての記号性にほかならない。たとえば、泉鏡花の文章に見られる過度の装飾性、形容の多用は、私にとってはそれ自体が記号性を高度に示すものであるが、別の読者にとっては、余分なものに見えるかもしれないのである。
ロラン・バルトが『ことばのざわめき』のなかで、《言語のオートノミー》という言い方をしている。バルトはそれが現在ではなくなってしまったことを批判しているのだが、言語表現の自立は泉鏡花の作品では充分に維持されているように思われる。たとえば、「天守物語」の奇怪な登場人物たちは、それだけで一種のサンクチュアリのようなものを構成しているが、泉鏡花のこうした記号的世界はそれ自体で完結しているものであって、それを他の実在に還元しようとする試みは挫折するだろう。
むしろ問題は、それぞれが孤立しているように見える個々の作品の記号的世界を、どのように相互に連絡するかということである。もちろんそれによってひとつの全体を構成することが目的なのではなく、それぞれの記号的世界を相互に結ぶことによって、共通の解読のキーを見出すことが目標である。そのようなキーが簡単に見出されることはないだろう。しかし、たとえば「草迷宮」でくり返して聞こえてくる、《此処は何処の細道ぢや、天神さまの細道ぢや・・・・》という歌が、「天守物語」のなかでも反復されているといった単純なことを手がかりにして考えていくことができるかもしれない。この共通して存在している歌によって、「草迷宮」と「天守物語」とのあいだにつながりができる。そしてこのつながりは、けっして構造や意味内容のレヴェルでのつながりではなく、むしろ意味内容とはほとんど無関係のまま、われわれの意識のどこかに引っかかっているメロディと歌詞、つまりシニフィアンによるつながりであるように思われる。こうしたシニフィアン的なものによるつながりは、泉鏡花のもろもろの作品を横に結合する、思いがけない契機になっているのではないだろうか。もちろんその可能性が大きいと言うことはできないが、そのような可能性を積み重ねていくことが、泉鏡花の世界に近付くためには必要な手順のように見える。

(つづく)

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哲学の現場

現実には会ってはいないが、手紙や電話でときどきコミュニケーションをしている知人が私には何人もいる。そのなかのひとりである或るロシア文学者から頂いた年賀状に、「今年はロシア神秘主義の勉強をするつもりです」と書いてあった。私はそのひとの書いたロシア語の作文の教科書も持っているが、むしろソビエト構造主義の研究者として知られている方で、その人が神秘主義の研究をしようといわれることに私はひとつの意味があるように感じた。
また、別のロシア文学者から最近頂いた手紙には、「バフチーンをベルジャーエフとナボコフから光を当ててみようと考えている」と書かれてあった。その方のご意見では、この三人がロシアを代表する思想家だというのである。
さらに、最近どなたかのご配慮によって、京都にある行路社という出版社から、私のところへ「ベルジャーエフ著作集」という内容見本が送られてきた。それはたまたまベルジャ-エフとナボコフからバフチーンを見直してみたいという手紙を受け取ったのとほとんど同じころのことであって、私はそこにユングたちのいう共時性の現象を認めないわけにはいかなかった。
そしてまた同じころに、私は若い友人から、ベルジャーエフに関心を持っているという話を聞いたのである。それでふと思い立って書棚を捜してみると、ベルジャーエフの『共産主義の起源と意味』の仏訳本を見つけることができた。書き込みを見ると、それは私が1965年に買ったもので、400ページほどのその本のおよそ4分の3を読んだ形跡がある。そして、ロシアにいるユダヤ人のメシア信仰が、ロシア人のメシア信仰に対して影響を与えたというところなどにアンダーラインが引いてあるのに気づいた。とにかくその頃かなりいっしょうけんめいにこの本を読んだことがわかる。
しかし、若いころの私がなぜベルジャーエフを読んでいたのかは、今の私にはまったくわからない。ただ、その後何年かたって私は、フランスではクリステーヴァなどを通して、わが国では川端香男里氏などによって紹介され始めたミハイール・バフチーンの仕事に関心を持つようになり、そのうちにバフチ-ンについて書いたり講演までするようになった。いま思うと、ベルジャーエフを読んでいたのは、バフチーンに接するための準備であったのかもしれない。未来に来るはずのものを現在が予感し、準備するということはしばしば起こるし、また、後にも述べるように、過去はしばしば現在によって規定される。因果性という概念だけでは、もはや現実のさまざまなできごとを理解できなくなっているのである。
また、私の若い友人で、以前からバフチーンに関心を持っているロシア文学者のひとりは、最近バフチーンをほぼ同時代の西田幾多郎、三木清の思想と関連させて考えようとしている。私はそこにベンヤミンもつけ加えて考えてみてはどうかと彼に提案するつもりである。その友人は必ずしもバフチーンの神秘的傾向を強調しているわけではないが、ホルクイスト、クラークの『ミハイール・バフチーンの世界』(川端香男里、鈴木晶訳、せりか書房刊)には少なくない関心を示していた。つまり、そこにはマルクス主義的ではない立場からのバフチーン像、つまり宗教的なものとの関係から見られたバフチーン像があったからである。1990年に刊行されたホルクイストの新しいバフチーン論では、その傾向がさらに進んでいるように思われる。バフチ-ンについての見方がこのように変化してくるならば、バフチーンを媒介にしてのさまざまな考察の方向もまた変化してくるはずである。私の書棚には、『バフチーン以後』とか、『バフチーン以後のドストエフスキー』といった本が並んでいる。いずれも最近アメリカで出版された書物である
ここに記してきたのは、まったく私の個人的な事がらである。しかしこうした情報が重なってくると、そこから何らかの結論めいたものが見えてくるのは当然のことである。つまり、私と何らかのかかわりのある三人のロシア文学者たちは、程度の差はあってもロシアの神秘主義的なものに関心を持ち始めているのである。
1991年1月7日の朝日新聞の夕刊によると、ソ連では1月になってクリスマスが行われ、ロシア共和国の古都ノブゴロードには、革命後70年たって初めて外国からの聖地巡礼者が訪れたという。朝日の記者は、これをソ連における最近の宗教復興の動きのひとつであると説明している。
今、東ヨーロッパの社会主義体制は急激な変化に直面している。フランスでは、『共産主義から資本主義へ』というタイトルの本さえ刊行されたということである。多くの人たちが、社会主義は終わって、今やわれわれは資本主義の中だけでの選択をしなければならない時代になったのだといい始めた。田口富久治氏は「ペレストロイカの行方」(小学館、「本の窓」、1990年12月号)の中で、ソ連の法学者ボリス・クラシヴィリの説を次のように紹介している。「クラシヴィリによれば、いまソ連は、資本主義か社会主義か、ネオ・資本主義か、ネオ・社会主義かの体制選択問題に直面している」。しかしそれはソ連の学者が言っていることであって、いまや社会主義はユートピアとしての価値を失ってしまったというのがわが国の学者たちのおおかたの意見である
ソ連の人たちの中に「宗教復興」の動きがあるのも、こうした政治情勢と関連させて理解すべき現象であろう。そして日本のロシア文学者たちが、ロシアの神秘主義に関心を持ち始めたのもこうしたことと関係がある
しかしこのような理解の仕方はまだまだ一面的にすぎない。最近刊行された山内昌之氏の、『ラディカル・ヒストリー』はロシアの歴史のなかにあるイスラム的なものの役割を豊富な文献を使って考察したものであるが、これを読むとロシア社会が複雑な要素からなりたっていることをいくぶんかは理解することができる。おそらく、ロシアが持っていた複雑で多様なものは、現代の状況が複雑で多様になってきたためにはっきりと見えるようになったと考えられる。山内昌之氏は『ラディカル・ヒストリー』のエピグラフに、「ある哲学者の言葉」として次のような文章を引用している。「みなさん、我々は未来が輝かしいことを知っています。変わり続けるのは過去なのです」。この言葉が誰のものであり、どのようなコンテクストのなかで語られたものなのかはわからないが、これは私がすでに述べておいたこととほぼ一致する。つまり、過去は現在によって規定されてくるのである。
問題はつねに現在を、同時代を良く理解しないことには過去のことは良くわからないとういうことに帰着する。しかし、それと同時に、過去の理解がなければ現在は理解さえ得ないということも事実である。あらゆることは相互の関係性の中で成立し持続する。ベイトソンがフロイトの精神分析を過去の決定論であると批判したのは、それによって自らの主張する関係性の論理を一層明確にするためであった。いまソ連で現実に起きつつあるできごとをわれわれは遠くから見ているにすぎないが、それがいまやロシアの過去と密接にかかわっていることが、山内氏などの仕事によって少しずつ見え始めている。
哲学においても、現実の世界を熟視するという作業からやり直す作業が必要なのではないだろうか。


(付記。本稿は1992年1月に刊行された「理想」648号に掲載されたものであり、初出のままである。冒頭に言及されている「ロシア文学者」が誰であるのか、いまは記憶が不確実になってしまった。この旧稿を読み返して気づいたのは、私が最近になってしばしば論じている「事後性」の概念が、すでにそこに潜在的に使われていたということである。2008年5月15日)

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「皇国史観」という問題-長谷川亮一の問題提起

長谷川亮一『「皇国史観」という問題-15年戦争時における文部省の修史事業と思想統制政策』
(白澤社2008年)

弱冠30歳だからテーマの掘り下げ方に少しは甘さがあると思っていたら、なかなかどうして問題意識、論理構成ともにカチッとしたものがあり、長谷川亮一は今後の研究成果を期待するに十分な現代史研究者である。先日も福岡安都子さんという1977年生まれの東大法学部助手の『国家・教会・自由-スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』(東京大学出版会7600円)という500ページの大著を手に入れたのだが、この女性がスピノザの生地・オランダに留学し、スピノザの原語であるラテン語をふんだんに引用(駆使)し、原典資料のあたり方も半端ではない。問題構成もしっかりしている。研究者だから当たり前といえば当たり前だけれども、この手の分野を専攻する若手研究者の、資料にあたる勉強家振りというか、エネルギーというか、素人はまずはそれだけで脱帽である。

長谷川亮一はまず「皇国史観」という観念(見方)は一見了解されているように見えるが、実はその概念がそれほど明確でないことを指摘し、戦後、文部省歴史教科書検定を推進した村尾次郎が平泉澄門下であり、歴史学者の中でも「皇国史観」=平泉澄の史観と捉えられることにより、戦前における修史編纂作業の本質を見誤る危険性を明らかにしている。その論理展開はなかなか見事で、彼の議論から大いに教えられるところがあった。この「皇国史観」=平泉澄の史観の見方を打ち消す長谷川の捉え方の中に、「国史」観を巡る戦前-戦後の捩れた関係(展開)が潜んでいることを我々は発見する。
平泉澄の史観はそもそも「排外主義的、日本-国史的」歴史観であり、「戦前・戦中において平泉の歴史観が必ずしも国策に適合するものではなかった」が、それに対し文部省の推進する「八紘一宇」の「国体論」は、「東亜協同体論」がそうであるように、表向きアジア・世界との「協調体制」を謳いあげるところがある一方で、他ならぬ「対外侵略・異民族支配を自己正当化する」国策イデオロギーであった。後者は、極めてご都合主義的な色彩はありながら、それゆえ「国体論」に抵触しない限り「実証主義史学」をも動員(包含)する「融通無碍さ」があり、至って政治主義的な弾力性をもちあわせていた。その点では、平泉澄の史観は、硬直的すぎるがゆえに時局の要請に対応できない要素があり、戦前・戦中において主流とはなりえなかった。ところが、敗戦-植民地喪失により、この関係の逆転現象が起きる。
私にとって本著の議論の最大の功績(白眉)は、引用が少し長くなり申し訳ないが、戦前-戦後の連続性を読み解く次の記述にある:「植民地を喪失したことにより、「八紘一宇」の理念を持ち出して対外侵略・異民族支配を自己正当化する必要性がなくなった。このことは、「日本」の純粋性・同質性・均一性を主張する型のナショナリズムにとってはむしろ好都合なことともいえる。『日本書紀』の神聖性は失われたが、このことは『日本書紀』を絶対の聖典と見なすことにより生じる多くの不合理性が解消され、より合理的な形で天皇を中心とした歴史を再構築することを可能にした。「万世一系」は「天壌無窮の神勅」によって規定されたものではなく、国民の信念に基づくものとして読み替えることも可能になった。[…]なお、敗戦による植民地の喪失は、排外主義的で日本一国史的な平泉澄の歴史観にとっては、ある意味で―もとより、国体論者平泉澄自身の主観的な認識とは反するものであるが―適合するものであったといえよう。最初に述べたように、平泉の文部省への影響力は戦前・戦中においてそれほど強いものではなく、むしろ戦後、1950年代後半になってから門下生の入省という形で強まっている。このことは戦前・戦中において平泉の歴史観が必ずしも国策に適合するものではなかったのに対し、戦後における支配層、ことに文部省側のイデオロギーとは適合し、むしろ好都合であったことを示しているのではないか」(本著P320 傍線吉沢)。この指摘は極めて重要である。日本の当時の支配層といえども、所詮アジア侵略を正当化(合理化)する言説である「八紘一宇」の論理には無理があるという認識(いわば「虚構性」認識)はあったと思われるからである。従って植民地喪失→「八紘一宇」の理念推進の物質的条件の解体という結果に伴い、戦後「天皇制」を墨守しようとする側からすると、天皇制の精神主義的な思潮にこだわる平泉澄の「皇国維持史観」は、結果的に「好都合」な論理(イデオロギー)を提供したと考えられる。本著では主題から外れることもあり、1950年代後半に村尾次郎らの平泉澄門下がなぜ教科書検定などの文部省の歴史教育政策で支配的な力を発揮できるようになったかは分析されていないが、この点は今日的問題と重ね合わせると我々の想像力を大いに掻き立てる。
その点で言えば、今日の軍備復活、教科書検定、君が代斉唱・日の丸掲揚問題に象徴される状況(風潮)に対して単線的な「軍国主義復活」論(戦前の「皇国」体制への復帰)を唱える論者の発想は、どこか問題の本質を取り違えているのではないかという疑念を拭いきれない。ましてそれを政治主義的な力学へと転化させる論者に対してはなおさらである。誤解を恐れずに言えば、天皇制維持論者といえども、いわゆる「帝国主義」的(経済的)侵略はあっても、それを天皇制の支配原理によって、軍事力の行使も含めて、直接的に根拠づけるようなことは意図しておらず(注:もちろん軍事力を現実に行使できないのは、「憲法9条」の拘束力が曲りなりとも対抗的なヘゲモニーとして機能していることを認めたうえで)、むしろ、今日では「天皇制」(純粋な「制度」とはいえないが、単なるイデオロギーともいえない)を「国民」の内面機制論理-「イデオロギー的統合」の中心として機能させることに主眼においているように思える。だから、「軍国主義復活」という単線的な発想をすると、今日の「天皇制」の、タブーの「恫喝」を織り交ぜて、「国民」の精神に深く入り込むソフィスケートな管理のありようを見逃してしまう危険性がある。村尾次郎らの論調に目を通しているわけではないので、あくまでも長谷川の論述を参照してのことであるが、村尾次郎らは平泉澄らの「精神性」だけは受け継ぎながら、古色蒼然たる装いはともかく改編して彼らなりに「天皇制」国民国家の近代的な統合原理を編み出したといえるのではないか。つまり、「これに対し後者(注:村尾による日本通史『民族の流れ』)は自らの「決意」であり、「歴史における『事実』と『真理』を機械的に区別したうえで、歴史を『事実』としてではなく『真実』として是認する歴史認識」を示しており、後者は「一種の変革の論理と大衆とともに祖国日本を守り抜くという非扇動の論理(必ずしも反扇動ではない)とが貫流している」」(本著 傍点:著者、傍線:吉沢)ということである。その直接的な動機としては、戦後しばらく席巻した他ならぬ「共産主義化」の恐れに対抗して原点回帰を図ることを目指したと推測される。その意味では「八紘一宇」とは違って平泉史観はプリミティブであるがゆえに「好都合」であり、それに依拠しながら「万世一系」の正統性を自らの(注「国民」の)「決意」によって、つまり「国民の信念に基づくもの」として再構成することを意図したといえる。ただ村尾次郎らの影響力の拡大やその言説戦略は彼ら単独の力でもってなされたとは到底思えず、「八紘一宇」の旗は降ろして幅広い形で「天皇制」維持を図る「保守」層との合意(結託)のもとになされたと見るのが妥当であろう。そこに、改めて『国史概説』『大東亜史概説』の執筆陣である「実証主義史学」の研究者も全部ではないが結集して、教科書検定の人的骨格が形成されたと考えることができる。
ここで重要なことは、「天皇制」が「国民の信念に基づくもの」を基点として「国民」の内面機制論理として機能していることであり、5月2日(金)TBSの「NEWS 23」の特集「物が言えぬ時代」の主題を使ってパラフレーズすれば、彼らの意図は「天皇制」を媒介に自らが進んで言論(言動)を「自主規制」する構造-コンフォーミズム体制-を構築することにあったといえる。ただなぜこんな息苦しいことをわざわざやるのかといえば、それは「天皇制維持論者-「保守層」-にとってともかく「天皇制」を「国民統合イデオロギー」として機能させることが不可欠(重要)だからだ」としか答えようがない面はある。その点の理解では、菅孝行の書いた「天皇制論考」に関する安丸良夫の紹介が示唆的である(安丸良夫「天皇制批判の展開」岩波講座『天皇と王権を考える-1人類社会の中の天皇と王権』所収)。私の理解(というよりも感触程度というべきか)は、菅孝行の認識にかなり近いところはある。「1970年代から80年代にかけて、菅孝行は天皇制について多くの論著を発表したが、それは要するに、現行憲法のもとでの戦後の天皇制こそが「天皇制の最高形態」だとするものである。菅によれば、「[戦後日本で]相対化され無化され崩壊に向かったのは、政治支配の機構・制度としての『天皇制』であり、『敗戦』にもかかわらず持続されているのは、住民の意識と存在の土俗的な様式としての『天皇制』である」。天皇制は政治的な制度でもあるが、「精神的な権威の機軸を持続的に保証するところの内面化された『制度』でもあって、後者の意味ではむしろ『あたかも自然であるかのごとく』、ほとんど無自覚的に存在するほうがずっと有効だ。天皇親政と結びついた天皇制は、この視点からすると、「危機に瀕した天皇制」であり、戦時体制下のそれは「もっとも危険な天皇制」である。この危機をのりこえた戦後日本の天皇制は「意思化される領域における天皇を無限に秘匿することによって、無意識の領域を無限に天皇にひきつける天皇制」として完成された。それは、他民族・他地域への抑圧を不在として体験する様式(吉沢注:抑圧が現実にないということではなく、「不在」とみなすあり方)であり、帝国主義的統合のイデオロギーにほかならない。戦後日本の存在様式のこのもっとも根幹の部分を「敢えて『天皇制』と名づけねばならぬ」、と菅はいう」(同著 傍点安丸良夫)。天皇制とは、人々にとっては無自覚的(隠匿的)に存在するが、精神的には内面を機制する制度であり、その意味で「国民統合イデオロギー」として現に存在している部分は確かにある。ただ、それを「保守」層がどの程度自覚的に推進しているのか、そのことは彼らとて、よくはわかっていないであろう。この摩訶不思議さはどこに由来するのか…

天皇制に対する私の「思い入れ」の強さゆえに少しばかし本題からずれて(脱線して)しまったようだ。ここで「国体論」と「皇国史観」の関係に話を戻そう。長谷川は「皇国史観を戦時下における大日本帝国の「正史」、ないしは正統的歴史観-すなわち国家が正当なものとして定めた歴史観(注:当時の文部省の推進する歴史観)-の問題」として捉え、「皇国史観の内容を、15年戦争期における実際の具体的な用例に則して再検討」している。そこで『国史概説』『大東亜史概説』が検討素材として取りあげられるが、「皇国史観」が「国体論」に追随する意味合いをもっていたことがよく分かる。つまり、「皇国史観」は「[…]1930年代以後の対外侵略と国民統合・国民動員の正当化の必要に応じて、これら一連の書物の内容を恣意的に取捨選択しながら作り上げられた歴史観と言うべきである。また、ファシズム体制を築き上げ戦争を引き起こしたイデオロギーというよりは、むしろ戦争という状況を事後的に追認し、自己正当化を図るために作り出された国策イデオロギーとしての性格が強いものであった」。そのために、当然それは国体論の意味づけの規定性をもろに受けて、ご都合主義的に対応せざるをえなかった。「ここに、日本の絶対の国是たる「肇国の精神」とは、「天壌無窮の神勅」に基づく「万世一系」の天皇による統治、という「皇国」日本の「国体」が、「八紘一宇」の理念に基づいて無限に拡大していくものとされるに至り、また「国史」ないし「皇国史」とはその「肇国の精神」の実現過程とされることになった。このためあらゆる歴史は-「国史」のみならず世界史に関しても-この国体観念に沿って書き直されることが要求された」。
そもそも「国体論」自体は、意味づけ作業において『日本書紀』の神話的部分及び天皇不親政の時代(鎌倉幕府、江戸幕府の時代)と、万世一系の正統性(権威づけ)を接合する困難さ(無理)を引きずっており、論理性は一貫したものでは当然ありえなかったが、それゆえにというべきか、「ここで(注:『大東亜史概説』で)展開される国体論は決して排外主義的なものではなく(注:もちろん「表向き」)、むしろ積極的に他者の取り込みを認める曖昧で融通無碍なものである」(傍線:吉沢)側面があった。この国体論の言説の「曖昧で融通無碍」な特質こそ「天皇制」を巡る戦前体制と戦後体制の連続性を可能ならしめた大きな要因であることは容易に感得しうる。

もちろん本著は言説分析にとどまらない。歴史認識(記述)における「実証主義史学」(実証的記述)の実態に迫り、皇国史観の「融通無碍なる性格」ゆえに、実証的な歴史学研究者の「無邪気」な対応の中に、自らの「戦争協力」の責任を(依然として)自覚しないさまが描かれている。
それにしても、修史編纂作業のメンバーに戦後も第一線で活躍している錚々たる歴史学者の多いことに驚く。私も昔読んで、学んだ『科挙』(中公新書)の著者である宮崎市定などはその代表例である。恥ずかしながら、宮崎市定が『大東亜史概説』等の編纂に参加し、中座した『大東亜史概説』の草稿がそのまま戦後『アジア史概説』(人文書林1947年、中公文庫1987年に収められる)として受け継がれ、刊行されたという事実などは全く知らなかった。さほどに、実証主義史学の「無傷性」もさることながら、皇国史観というべきか、天皇制というべきか、その「融通無碍」なる性格ゆえに上記に述べた「連続性」が根強いことを改めて実感させられる。

長谷川は、今日の「天皇制」の受け止め方、歴史教科書(検定)問題に潜むイッシューを射程に収めながら、国体論の言説の分析を通じて、修史編纂事業の意味(問題点)を再検討している。その再検討は、ドイツのナチス・ホロコーストを巡る「歴史家論争」(歴史修正主義論争)などと比べると「どういう国をつくるのか」という歴史認識を踏まえた根本的な姿勢(議論)が欠けている日本の現状に対して改めて反省的視点を提供している(注:ドイツの議論に関しては仲正昌樹『日本とドイツ-二つの戦後思想』『日本とドイツの二つの全体主義』(ともに光文社新書)を参照されたい)。その点では大いに示唆を受けるところがあった。


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