宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

きたる10月29日(水)、明治学院大学白金キャンパス1555教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンの部分対象論」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
ブログ管理担当の稲見uicp@marinenet.jpまでご連絡いただきますようお願いいたします。


ブログ管理担当@稲見

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日本の「ラディカル派」の非正規労働の問題に対するあまりの反応の鈍さ 後編

そこで彼らは一様に既存の労働組合が今日の資本主義の変容に対する状況認識の立ち遅れのために、労働者の「利害」を総体として代表していないことを批判する。しかし彼らの「自営労働」論は、プレカリエタに抗する戦略的可能性を十分秘めながらも、その論理はかなりの部分「起業家-企業家的(アントルプルーナー的)個人」(注:それ自体は、私は否定的でない)に基づく人的資本論的な性格を内包している。確かに、「個人化社会」(ウルリッヒ・ベックの表現)の出現(それと対のネオリベラリズムの跋扈)の状況に対してはアクチュアルな認識であるという評価はできるものの、この社会の構成員がすべて「人的資本」たりうるわけではないことを考えるとき、社会保障制度に依拠する必要は必ずしもないが、肝心のそうした能力を持ち合わせていない者を社会的にどうバックアップしていくのかという点では十全な議論を展開していないといえる。その点の不十分さという意味では稲葉振一郎の『「資本」論』(ちくま新書)などは全く同様である(注:含意はわかるけれども、彼の立脚点がポジティブではないからほとんど評価できない)。とくに、今日のプレカリエタ-非正規労働の問題構制が日本でも明らかなようにいわゆる「フリーター」群(若者だけでなく)、無業者に集中しているとすれば、そうした層を視野に入れて社会政策的な含意をもつオルターナティブな提案をしていく必要があろう。その点では、報告では取り上げなかったが、Andrea Fumagalliアンドレア・フマガーリ(注:パヴィア大学・経済学の教員、自らポスト・オペライスタと名乗る。ボローニャとの共著『Il lavoro autonomo di seconda generazione.Scenari del postfordismo in Italia第二世代の自営労働-イタリアにおけるポストフォーディズムの背景』を1997年に刊行)の基本所得(ベーシック・インカム)の議論はオペライスタの「社会的賃金」の文脈に基づいて「自営労働」論の不十分さを補充している。フマガーリは、ボローニャ、ルラーニと同じ「認知的資本主義」「自営労働」論のコンテクストの立場に立ちつつも、彼らの認識ではプレカリエタの状態にある層はいわば「宙ぶらりん」になる可能性もあり、そこで「認知的資本主義」の認識(一部「人的資本」的認識が入る)を発展させるために、基本所得論を導入したと考えられる。この基本所得の考え方には論者によりさまざまな解釈があり、一律では全くない。ただ、その論は下手をすれば、ネオリベラリズムの旗手であるミルトン・フリードマンの「負の所得税構想」と通底してしまう要素(危険性)もあり、社会政策上の具体的な展開となると相当な実施可能性条件はつく(注:基本所得の提唱者であるフマガーリに対しては「左派陣営」から日本でもよく見られる原則的な資本主義批判に基づいた批判が浴びせられている。ただし彼らには今日の状況に対する政策的な提言は全くない。またネオ・オペライスタ内部でも基本所得の評価の足並みは一様でない)。
確かにこれまで検討してきたように「自営労働」論にある種の隘路はつきまとっている。とくに彼らの重視する認知的労働もネグリ・ヴェルチェローネが指摘するように「認知的労働の大多数のカテゴリーは、結局格下げという過酷なプロセスを味わうことになる。この部門は新しい分業の認知的労働においてもっとも不安定的な労働者をカバーし、保証しているだけでなく、低賃金の対人(福祉等)サービスの展開と結びついた新しい標準的なサービスの新テーラー主義の役割も果たしている」(『Posse』2007年11月)実状であれば、この認識(戦略)の将来に影を落としていることは否定できない。
しかし、今日の資本主義の変容の不可逆的傾向のもとでは、今述べたような問題を孕みながらも「自営労働」論の発想に基づいて、「非正規雇用」→「正規雇用」の地位獲得(回復)を求めるのではなく、逆に非正規労働のアドバンテージを活かして、社会的な共同性を獲得する指向性はかなりポジティブに評価できる。この社会的共同性のあり方こそ、日本ではかなりの困難さを伴うとはいえ、プレカリエタに抗するために今後追求すべき課題である。

ただしそうはいえ、イタリアでは「自営労働」論、「基本所得」論は社会政策的な論議の緊張感のもとに少なくとも置かれており、非正規労働をめぐる「ラディカル派」の議論の社会的奥行きと巾は日本とは比較にならない。天皇制の問題と並んで今日の非正規労働の問題を日本社会の大きな問題であると捉えている私としては、この問題に対して私の主たる活動領域であるアソシエ21及びその周辺はなぜかくも情けないくらい反応が鈍いのか、その点で日本の「ラディカル派」の存在根拠が根本的に問われていると感じている。最後にイタリアとの比較で、「一面的な指摘」という批判の謗りを免れない面をあえて承知で、自分への反省も込めてざっとその問題点を挙げておきたい。
まずは社会保障制度全体のありように象徴されるような二重、三重に捩れた日本社会の構造に対して、あまりに不可視すぎて(「入れ子」構造で多義的すぎて)問題解決の糸口が見あたらず。発言できない(うまく表現できない)状況が指摘できる。つい最近朝日新聞(2008年9月30日朝刊)が「社会的連帯論・民主主義再考…政治思想研究はいま 底流の動き拾えるか」というタイトルで政治思想研究の現況を取り上げているが、そこで「「公共性を言いながら目の前の貧困に立ち向かえない政治学者という苛立ちがある」。新しい連帯は多元的な価値を認め合う「個であるための基盤」として構想されている」という宇野重規の苛立ちの発言の概要が紹介されている。なぜ、非正規労働の問題に対して我々の周囲の「ラディカル派」は発言しないのか(できないのか)?

1) その論者の一部は、マルクス主義的な認識パラダイム(とくに原理的マルクス経済学)へのこだわりがあまりに強すぎて、資本主義の「原則的」批判はしても非正規労働の問題のような政策的地平での議論を要求されると全く対応できない。「経済学者」を名乗りながら現実の資本主義の動態を知らない(関心のない)「マルクス学者」が多い。
2) それと大きく関係するが、日本社会にはこれまで(今も)ヨーロッパとは異なり分配的正義(注:ロールズの『正義論』に代表される議論)に基づく社会民主主義などは一度も存在(定着)しなかった(存在していない)という事実をあまりに等閑視している。少なくともヨーロッパ(フランス、イタリア)のラディカル派は自分たちの社会の政策展開の現実を見据えて、社会民主主義との緊張(対抗)関係のもとに自らの思想(思考)を組み立てているように思われる。「分配的正義」の視点を考慮すると結構自分のベタな現実とつき合わせて問題を捉えることを要求されるが(それゆえそう「スマートで、格好いい」発言ばかりできない面も出てくるが)、それを素通りしてヨーロッパの言説を取り入れ、解釈することによってのみ自分の言説を成立させているところがある(「ポストモダン」系の論者に多い)。
3) 自戒を込めて発言したいが、全共闘運動をはじめとする日本の「ラディカル派」の運動は、「一体この社会の何と対決してきたのか」を考えると、相手方の日本社会の構造的不明瞭さもあり、自分でもその評価はよくわからないところがある。ただ、事実としては、日本の「ラディカル派」の運動は、その一部はマルクス主義を標榜しながらも現実には肝心の「資本主義批判」としての現実の労働問題(運動)への関わり、あるいは〈労働〉という根本命題の社会への具体的な問題提起という点でははなはだ訴求力(構想力)に欠けていたと思う。その点が、今日まで運動が内部的な形でも思想的に継承(蓄積)されてこなかった大きな理由であると思う(シニカルに言えば所詮「学生の運動」)。それは残念ながら、イタリアのオペライスタの運動の歴史的総括をしていると強く感じる。今日の寂しい現状を見るにつけ、非正規労働の問題への取り組みを通して、我々の未来への構想力を提示できる動きができたら、と願っている。


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日本の「ラディカル派」の非正規労働の問題に対するあまりの反応の鈍さ 前編

(本稿は昨年9月「社会理論学会」での報告の論旨を一部加筆してまとめたものである。同会の『社会理論研究』第9号2008年に掲載予定であり、同編集部の了解にもとに転載させていただいた。)

昨年9月社会理論学会で「イタリアにおける非物質的労働の議論-フォーディズムからポストフォーディズムへ」というタイトルの報告をおこなったが、それは単にネグリ等のイタリアにおける非物質的労働の議論の紹介をするにとどまらず、その議論が日本で苛烈な形で常態化している「非正規労働」(「ワーキングプアー」に総称される派遣労働(とくに日雇い派遣)、無保障の非正規雇用)の事態に対する示唆的視点を与えられるのかを探ることに含意があった。
私の報告は、ネオリベラリズム(注:私はこれを市場原理に基づいた「自己責任」と「個人成果主義」を行動原理とする風潮と定義する)が席巻する今日の状況にあってSergio Bolognaセルジオ・ボローニャ(注:プレカリエタの状況に抗する専門誌『Posseポッセ』の主要論客にして労働問題の専門家)やEnzo Rullaniエンツォ・ルラーニ(注:ヴェネチア大学の企業経営戦略の教授)等の自営労働lavoro autonomo論の労働主体の能動性(活力)に注目してネオリベラリズム-非正規労働の常態化に対抗しうる手段を見出すことに最大の眼目があった。彼らはイタリアのオペライスタoperaistaの「(賃)労働の拒否」と賃労働に縛られない労働の自律性(「自律的労働lavoro autonomo」)という労働観(思想的潮流)を、ハート・ネグリの『〈帝国〉』に見られるような「今日の資本主義の変容とそれに伴う労働の変容は基本的に不可逆的傾向、つまり押しとどめることのできない傾向」(もちろんその傾向を構造的な問題として批判している)という認識と結びつけて独自の「自営労働」論を展開する。この傾向とは、私なりに要約すれば「今日の資本主義の変容の要因として、企業の短期的収益追求による、資本回転率の加速化と買収・合併を伴う再編成、「情報革命」による生産(事務)過程における「モジュール化」-水平分業・垂直分業が基本的に指摘できる。それに伴い生産(事務)過程はますます外注・下請け化され、雇用(労働)は非正規(労働)化されている」(「分断状況を超えていくために」アソシエ21ニューズレター2007年8月号拙稿より)傾向を指している。ただ、彼らはその傾向を単に否定的ではなく「情報革命」(ネットワーク化)に見られるような「脱テリトリー化」(リゾーム状態)の展開(状況)を両義的契機として捉え、それを労働主体の能動的契機(可能性)にいかに転化しうるのか、その中軸として「非物質的労働」の概念を据えているところに、いわゆる「ネオ・オペライスタ」共通の問題意識がある。
私にも多分にそういう認識があって、したがって、ネオリラリズムの跋扈する状況に対して「被抑圧者」を、被害者意識に充ちたルサンチマンとして、あるいはどこかの政党のように自分たちを正義の側に常に置くような二項対立的図式(正義-非正義)に基づきその被害者として仕立てるのではなく、逆にこの不可逆的状況のもとで、その中から労働主体の能動的契機をいかに見出していくのか、という思いがある。この方が、楽天的かもしれないが、大体において楽しいということも動機である。この点では、イタリアは日本とは政治的・社会的風土がかなり違うのか、楽天的な面はありながらも、イタリアの「非物質的労働」の議論は社会をポジティブに変革する契機(構想力)を孕んでいる。「もっともこれらのポジティブな特徴は、逆説的にもネガティブな展開と表裏一体であるのだが…」(ハート・ネグリ『マルチチュード』より)。そうした発想に基づいて、ともかくボローニャとルラーニの議論を取り上げたのだが、それらは従来の「サヨク」の認識パラダイムを「逸脱」してかなり大胆であり、古典的な「サヨク」論者の批判をモロに受ける面も持ち合わせている。
ハート・ネグリは「非物質的労働」に代表される現在の労働の特質として「柔軟性」「可動性」「不安定性」の三つの特徴を挙げるが、ボローニャとルラーニにあっても共通してこの認識はあり、今日では存在そのものが不安定であるという両義的認識に立脚してそれを逆手にとってプレカリエタに抗する戦略を現に構想している。ニューエコノミーに対してボローニャは「ニューエコノミーは、労働に対して大きな全般的陰謀であるかのような、左翼が口にする単なる「反革命」などではなかった。逆にマルクスがこの用語に付与した意味で真の資本主義革命で、前の時代とは比較にならないほどの方法で資源を活性化させた大革命である。ただ「失われた」ものだけを生産するモデルとしてポストフォーディズムを捉える見方は、間違っている。この見方だと、状況を回復するために必然的に規制の法律、法制的手段、公的管理の介入(例えば生存最低所得の導入)に訴えることになる」(ボローニャ)という評価を与える。ここでは、ニューエコノミーの登場は労働主体の自由な労働選択を可能にしているとすら捉えられる。ルラーニは、第二世代の自営労働lavoro autonomo di seconda generazione(認知的労働lavoro cognitivo、対人(福祉等)サービス労働)に対して次のような見方をする。「この契約の形式の実行(注:どのタイプの労働を契約(選択)するかという問題)は、ある人にとっては、社会的弱さと不安定性の形式として、他の人にとっては、確かに、労働市場における自分の力、自分の能力、自分の時間・お金の処分が自由にできる顕著な徴となる。主体に関するこうしたカテゴリーに対して、自律性の意味の特異性を強調するために、[自己の選択に基づいて]種々の仕事を掛け持ちする非正規(雇用)労働者lavoratori parasubordinatiは「第二世代の自営労働者lavoratori autonomi」と呼ばれてきた」(ルラーニ)というように、第二世代の自営労働(とりわけ認知的労働lavoro cognitivo)を「労働市場における自分の力、自分の能力、自分の時間・お金の処分が自由にできる顕著な徴」として捉え、労働市場における労働主体の自由な(柔軟な)選択の可能性を強調する。同時に「これまでの就労上の安定性の条件は変容し、労働者に対してより不安定性を有するポスト(職)を放置することになるが、その一方で状況次第では、以前は予期しなかったイニシャティブの機会と自律性の空間をもたらすことになる。この二重性が「固定ポスト(職)」の終焉に伴い、終身契約[正規雇用]労働は、単なる労働の社会società del lavoroではなく、「諸労働から成る社会società dei lavori」(労働は一律的規準でもはや定義されず、多様である)と呼ばれるものによって特徴づけられる」(ルラーニ)というように、「固定ポスト(職)」の終焉に伴い、終身契約[正規雇用]労働だけが唯一の有利な労働選択の形態ではないことを強調する。これらのポジティブな認識は共通して認知的労働の主導的役割の認識と相俟っている。また、ルラーニの表現を借りれば、「プレカリエタとはイタリアがDNAで持ち合わせているものである。400万の企業。家族3人の企業。リスクをかける1200万人の市民。月の終わりに帳尻を計算する。イタリアは定義上、不安定precariである。安全な立場などはほとんどない」(ルラーニ)。プレカリエタを逆手に取る戦略が成り立つ客観的素地がここにあるといえる。

(続く)

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ジャック・ラカン講座のお知らせ



いつも当ブログをご覧頂き誠にありがとうございます。
前回のロラン・バルト講座に続き、
このたびジャック・ラカン講座を開講することになりましたのでお知らせいたします。
難解なジャック・ラカンの哲学を、
芸術をはじめとするさまざまな領域と結びつけることで浮かび上がらせ、
じっくりと深く、ときに逸脱しながら思考していく講座です。
ぜひふるってご参加ください。


▼講座名 :ラカンと!
▼講師:宇波彰(当研究所上級フェロー、明治学院大学名誉教授)
▼開催日 :10月18日(土)
▼開始時間:13時より
▼会場:中野区立哲学堂公園霊明閣
▼アクセス:中野駅・新井薬師前駅より「池袋駅西口」「江古田駅」
       「丸山営業所(新井薬師前駅経由)」行『哲学堂』下車
       江古田駅より「中野駅」行『哲学堂』下車
▼受 講 料:500円(実費)

事前申込不要 /テキスト不要






なお上記は全て予定となります。
来場の際には事前にご確認いただきますようお願いいたします。
またご不明な点はuicp@marinenet.jp/稲見史人までお問い合わせください。

稲見@ブログ管理担当

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ファイニンガー展とそのカタログ

ライオネル・ファイニンガーというドイツ系アメリカ人の画家は、日本ではあまり知られていない。私は1990年に、赤坂にあったマルボロ・ギャラリーでファイニンガーの作品を見たことがある。(このギャラリーではフランシス・ベイコン展も開かれたことがあり、それも見た記憶がある。)また最近では、東京芸術大学美術館で行われたバウハウス展でファイニンガーの作品を見て、その作品の絵はがきも買った。今年の8月から、横須賀美術館(山本理顕の設計)で大規模なファイニンガー展が開かれたので、9月上旬のまだ暑い日に行ってみた。そしてこの画家がアメリカで新聞マンガを描いていたことを初めて知った。
私にとって最も印象的だった作品は、1910年に描かれた「この世界の果てにある都市」である。本当に世界の突端のような場所に十数軒の家が建っている。そこで描かれている家々は、ファイニンガーが1921年に作ったというおもちゃの家と同じ外観である。

このファイニンガー展のカタログは、本当にすばらしいものである。横須賀美術館のあと、この美術展は愛知県美術館、宮城県美術館でも開かれるそうであるが、この三つの美術館の学芸員の方々が情熱を込めて作ったカタログであるように思われる。古田浩俊の「日本のファイニンガー」、西村勇晴の「ファイニンガーの日本、あるいはジャポニスム」は、いずれも秀逸なエッセーである。また、それぞれの作品についての解説もたいへんすぐれたもので、たとえばすでに言及した「この世界の果てにある都市」についての後藤文子の解説は、珠玉のように輝いている。彼女は、ファイニンガーのこの作品をクービンの空想小説『対極――デーモンの幻想』の舞台と重ねて論じているが、その叙述は並みのものではない。この作品を右のページに、そしてこの作品で描かれている家々と同じかたちのおもちゃの家の写真をその左のページに並べるレイアウトの巧みさには感嘆するばかりである。

またこのカタログの巻末には、後藤文子編「ライオネル・ファイニンガー国内主要文献」が収められているが、それを見ると、「日本では有名でない.」という私の感想がまちがっていたことがわかる。多くの人たちがファイニンガーについて論じたり、語ったりしていることがわかったからである。今文献目録で、私が以前にこのブログで言及したことのあるピーター・ゲイも、その『ワイマール文化』のなかでファイトニンガーを論じていることを知った。何人かの若い友人たちに是非見に行くようにと勧めたところ、早速そのうちの一人から「悪天候の日に出かけたので、ほとんど貸し切り状態で楽しんだ」という便りがあった。 (2008年10月1日)

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