宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (3)

私が『再生産について』を最初読んだとき、まず感じたのは、「イデオロギーは主体における諸個人に呼びかける」のテーゼ(注:第三のテーゼ)のトートロジー性である。イデオロギーと主体の関係の解き方が堂々巡りで(詳しくは『再生産について』西川長夫監訳 平凡社P363を参照されたい)、著者は「鏡像的中心化」という言い回しでその問題の一端をインプリシットに指摘したと推測している。大体「支配的なイデオロギー」という表現自体が、トートロジーである。『再生産について』では「支配的イデオロギー、つまり支配階級のイデオロギー」という表現がなされているが、これは説明になっていない。「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」として問題は設定されなければならない。この問題設定の中にアルチュセールの概念構成の問題を解く重要な鍵が隠されているように思える。
私の勝手な思い込みを許してもらえれば、マルクス主義者であるアルチュセールは、マルクスの『ルイボナパルト・ブリュメール18日』のあの動態的な歴史・階級分析の意義・利点(階級(経済)的利害によって歴史の動因が決定される)を当然認めていたと思われる。余談だが、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』は私の愛読書である。それは単に歴史・階級分析の書というばかりでなく、物語-演劇として風刺、諧謔、アイロニーに充ち充ちており、私は戯曲として再構成したいという誘惑にすら駆られる。マルクスは序幕にあたって「[…]私は平凡奇怪な一人物(注:単なる酔っ払いで、滑稽な人物)をして、[ある人物の扮装をまとうことによって]英雄の役割を演ずることを可能にした情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかを示そう」、と口上を述べ、推理小説仕立てで「滑稽な人物」(俗物=経済的利害の反映物)を次々に登場させ、最後に「英雄の役割を演ずること」ができた謎を解き明かしていく。何回読んでもその手法の圧倒的鮮やかさには魅せられる。この中の登場人物は経済的利害の反映物にもかかわらず、皆独自のキャラクターをもっている。この手法に基づいて、アルチュセールは「イデオロギーと主体の関係」を描きたかったのではないか、とりわけ、当時主流であった正統派の経済反映論に対して、また主体の位置が既に決定されている「現実世界の疎外された性格による解決(注:疎外論)」、「イデオロギー的な欺瞞の張本人である諸個人の「党派」による解決」(『再生産について』)に対して、マルクスの歴史・階級認識の意義・利点を再認識させたかったのではなかったのか、そうとも思える。憶測を逞しくすれば、『ルイボナパルト・ブリュメール18日』はいわばマクロの次元であるが、主体-精神というミクロの次元に引き下げて、イデオロギーの構造(既成のマルクス主義が等閑視する主体の問題)を論じたかったのではないか、ということである。
そう考えれば、私にとってアルチュセールの次の発想はわかる。その点で、『再生産について』の「第一のテーゼ イデオロギーは諸個人が自らの現実的な存在諸条件に対してもつ想像的な関係を表象している」、「第二のテーゼ イデオロギーは物質的な存在をもつ」は、この文言の限りは、先に述べた第三のテーゼへの導入でありながら、私にとって首肯できる。ここで混乱を起こさないために、イデオロギーとは、マルクスの用語法に倣い「ひとりの人間、あるいは社会的な一集団の精神を支配する諸観念や諸表象の体系」(同)と捉えておこう。
「第一のテーゼ」に関しては、「あらゆるイデオロギーは、その必然的に想像的な変形(注:原語はdeformaであり、「歪曲」という訳はアルチュセールの含意をやや捻じ曲げている)において、現存の生産諸関係(及びそれに由来するその他の諸関係)を表しているのではなく、何よりもまず、生産諸関係及びそれに由来する諸関係に対して諸個人がもつ諸関係(想像的な)を表しているである」(同)というように、「存在の諸条件に対する人間の関係」という要素が、従来的な「反映論」的解釈に付け加えられる。そこで、その「諸個人に対して与えられた表象は、なにゆえ必然的に想像的であるか、さらにこの想像的なものの本性は何か、という別の設問に置き換えられなければならない」(同)ことになる。この「想像的なものの本性」を巡って「第三のテーゼ」のイデオロギーと主体の関係へと議論は連結される。ただ、この「想像的な」とはラカンの精神分析のコノテーションを帯びた表現なのだが…
「第二のテーゼ」に関しては、「イデオロギーを構成しているように思われる「観念」あるいは「表象」等々が、理念的、観念的、精神的な存在ではなく、物質的な存在をもつ」(同)と、「観念」あるいは「表象」の物質的基盤が確認されている。ここで重要なことは、「[…]このようにして設置された完全にイデオロギー的な「概念的」仕掛け(彼が信じる諸観念をそこで自由に形成し、あるいは自由に認識する一つの意識を与えられた主体)のおかげで、前記の主体の行動(物質的な)は、そこから自然に流れてくる」(同)ことである。ただ、ここまではよい。だんだんトートロジー性を帯びて、わけがわからない言表になってくる。曰く、「この主体がもつ信仰がもつ信仰に関する諸観念の存在は物質的である。それはこの主体の諸観念が、当の主体の諸観念が属している物質的なイデオロギー装置によってそれ自体決定されている物質的ないくつかの儀式によって調整されている物質的ないくつかの実践の中に挿入されている主体の物質的な諸行為であるという点において、そうなのである」(傍点:アルチュセール)。この後で、ここで言及されている四つの「物質的な」に関して、アルチュセールは「物質性の諸様態の差異に関する理論の検討は別の機会に譲りたい」(同)と、肝心なテーマから逃げてしまう。思えば、実際には、マルクス主義の(資本制)認識にとって最も重要な「物質性」(注:私は経済的利害と解する)に関する基礎説明は弱く、「物質性」が諸個人の行動(意識)の中にいかに反映されるのか、その論証はほとんどなされていない(これはもしかしたら不可能かもしれないが…)。「国家のイデオロギー諸装置」という概念でそれを明らかにしようとしたとも判断できるが、それもラカン精神分析の認識論を導入し、その立論の仕方の欠陥ゆえにほとんど中座している。脇道に外れるが、こうした論証の不十分性は、フーコーと比べて読解の上で常に欲求不満を覚える大きな要素であった。
「国家のイデオロギー諸装置」の核心テーゼは第三のテーゼであり、第一のテーゼ、第二のテーゼはそのお膳立てである。ただ、この第三のテーゼは、先に述べた論証のトートロジー性ゆえに、また著者が指摘している「イデオロギーの通事的構造を「鏡像的中心化」として定式化」しているゆえにほとんど説得性をもたない。そのために、イデオロギーの構造(主体の問題)は解明されず、従って、「支配階級のイデオロギーはなぜ支配的なイデオロギーになるのか」という命題も解明することができなかった(注:この文脈でいくと「経済的利害は言説機制作用においていかに諸個人の精神(意識)を取り込んでいくのか」が大きなテーマである。ヘゲモニー論と関連して、経済的利害と言説機制作用の関係は解くべき重要なテーマである)。当然、そのことは「国家のイデオロギー諸装置」の中心装置である学校-家族の「イデオロギー」の機能は期待したほど明確化されていないことを意味する。

一体どこにアルチュセールの主要な関心が向けられていたのか…もちろん唯物論と精神分析の節合にあることは間違いないのだが、精神分析の認識論の格好の素材(対象)として、教会-学校をまず想定し(注:それは比較的イメージしやすいから)、そこから「国家のイデオロギー諸装置」のイデオロギーの機能を同定しようとしたのではないか、そう思えてくる。ただ、残念ながら「国家のイデオロギー諸装置」は欠陥品である。
私の当初の勝手な思い込みも若干くじけそうだが、それでも、アルチュセールは「経済的審級の最終審級における決定性」に関して「正統派マルクス主義」とは別のアプローチ(立場)で、「国家のイデオロギー諸装置」を解き明かすという意欲は保持し続けたと信じてやりたい。また、「国家のイデオロギー諸装置とは、その多様性においてお互いの間に諸矛盾を孕む脆弱な存在であり、その意味で超越的な存在でない」(同)という認識は、アルチュセールが大きな影響を受けたグラムシのヘゲモニー論の読解に示唆を提供する可能性はある。その内実はともかくとして、概念的枠組みのスケルトンだけは、マルクス主義的な歴史・階級認識の枠組みの長所としてある部分活かしてやりたいという気持ちはある。私の場合、その概念を始めて知ったとき、これはあの「天皇制」(タブー化されている意味では若干「抑圧装置」の側面もあるが)の構造(天皇制-学校)を解き明かす上で少しは役に立つと思ったから…


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「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (2)

そこで、上記の欠点を補正するためにイデオロギー(第一次イデオロギーと第二次イデオロギー)の「逸れ-偏差」からアルチュセールにおける抵抗の論理を独自に展開(導出)する。ここが、彼がもっとも苦心している部分である。ここでは、「イデオロギーは個人における主体に呼びかける」という「イデオロギー的縫合のメカニズム」を「「鏡像的」中心化ではなく、支配的イデオロギーに対する転移と定義」(傍線:著者)する。その「イデオロギー的転移とは、自我を支配的イデオロギーに再構造化することであり、イデオロギー諸装置からの呼びかけに応じて無意識が支配的イデオロギーに「適った」形式、要素、関係を「選択」することである」。従って、「国家のイデオロギー諸装置が注入しようとする支配的イデオロギーは、イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程において逸れを孕む。支配的イデオロギー(〈一次イデオロギー〉)と主体によって内面化されたイデオロギー(〈二次イデオロギー〉)との間のこの偏差の中に、支配的イデオロギーへの抵抗の効果が現れる」のであり、「アルチュセールは抵抗の可能性を、主体の能動性ではなく、このようなイデオロギーの偏差に見出している」と論じるに至る。「後期アルチュセール」の検討を通じて、1960-70年代のアルチュセールのイデオロギー論を評価し、国家のイデオロギー諸装置を再構成する。つまり、「国家のイデオロギー諸装置は、儀式的実践、物質的諸装置を通じて主体をイデオロギー的に縫合しようとするが、イデオロギー的呼びかけ/取り込み過程における偏差の介入によって 主体のイデオロギー的縫合は完全には成功しない。このイデオロギー的縫合の失敗によって、主体の抵抗の可能性が確保されるのである」。これは、構造変動-構造的因果性の捉え方を導入した再構成である。

彼の修正・補充の試みは、一見構造変動-偶然性唯物論に傾きつつあるように見えるけれども、それでも、アルチュセールの1980年代の「偶然性」のみを肯定する偶然性唯物論(注:イタリア語で言えば偶発的唯物論materialismo aleatorioであるが、aleatorioは「運任せ」の意味だから、その限りでネグリの「サイコロの一振り」という指摘は当たっている)ではなく、「必然的なものと予測不可能なもの、法則性と偶然性の間のずれにとどまる彼の1970年代までの思想」を評価する。そこでは、アルチュセールの特異性とは「規定と無規定、必然的なものと予測不可能なものの間のずれに自らを限定しようとした点にある」と受け止められる。その偶然性の捉え方に基づいて、アルチュセールの「経済的なもの」の一義性は構造変動の認識として次のように再構成される。「アルチュセール的な偶然性は、弁証法的秩序の中に物質性を導入し、それを壊乱する。つまりアルチュセールにおいて、偶然性とはこの物質的な偏差を意味するのである」(傍点著者)。「諸矛盾が構造変動を引き起こすためには、偶然的な物質性の侵入(政治的なもの)が不可決である。アルチュセールにおける偶然的なものとは、経済的諸矛盾の直中に介入し、それを現勢化させ、それを構造変動の「爆発的な」力に変容させるような物資性の侵入のことである」。しかし、著者はアルチュセールの本来的立脚点は重々承知しているから、そこに立ち返って、「私たちは最も微妙な地点にいる。経済的法則、つまり最終審級における決定は絶対に存在しなければならない」ことを認めつつ、「1. アルチュセールにおいては、偶然性という概念の導入は、決して単なる政治的機会主義ではないこと、2. 経済的審級の決定力へのアルチュセールの固執は、政治的複合的状況と切り離すことのできない資本の運動の分析の決定的重要性を示唆すること、これらの二つの点において1960年代のアルチュセール理論を最も肯定的に評価する」(傍点:著者)と改めて強調せざるをえなかった。確かに、著者がそう強調しなければならなかった気持ちは理解できる。
ただ、この一連の修正・補充の試み(認識)に、それが「ラカン理論に対する切断」の上に立って、構造変動を導入してアルチュセールの論理の再構成を目指しても、アルチュセールの、論証不十分性ゆえに生じるジグザグした苦闘をそのまま再現している(引きずっている)苦闘の跡を感じてしまう。その苦闘に同情を覚えつつも、ここでは私の印象をざっと並べておきたい。

確かに、アルチュセールの『再生産について』での〈一次イデオロギー〉〈二次イデオロギー〉の記述においても、なぜ一次イデオロギーが主体によって内面化されるのか、その内的メカニズムは不明であった。その言明の枠組みを尊重しながら、その不十分なところを補充しようとする著者の試みも、結構大変なものであると想像する。その点で、同情の余地は大いにあるが、アルチュセールの文脈を整理(再構成)していくうちに解釈としてはその限りでは整合的なのだが、その反面どこか思弁的で、我々の心に引っ掛かる契機のない論理ができあがっている印象を受ける。
厳しい言い方になるが、上記の「自我を支配的イデオロギーに再構造化する」における「自我の再構造化」、「イデオロギー的呼びかけ/取り込みの過程において逸れを孕む」における「逸れを孕む」、とは一体どういうものか、私には正直言ってピンとこないから、また「この偏差の中に、支配的イデオロギーへの抵抗の効果が現れる」内的メカニズムとは何か(説明自体は結構しているけれども)は不明だから、それらの言明は、現実世界と照らし合わせたとき、「弁証法的法則」の論理と同じくらい不確かなものに思えてしまう。こういう言明の積み重ねでそれ自体としては整合的な論理を組み立てても、「本当にそうなのか?」という疑念(そんな風に展開するの?)がどこか残ってしまう。その辺は著者にちょっと聞いてみたくなる。
また、「経済的審級の決定力へのアルチュセールの固執」の何を活かせたのか、それが問われる。上記の構造変動の認識は偶然性の因子を取り込んだその再構成であるが、マルクス主義者・アルチュセールの原型の「長所」を思想的に活かせているのか… どこに著者はアルチュセ-ル(思想)への共感を見出しているのか、それが根本的に問われる。その点がもう一歩わからなかったというのが、率直な印象である。


(つづく)

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「国家のイデオロギー諸装置」は有効な概念か? ~『権力と抵抗』書評~ (1)

本著を読み終えた感じでは、表題はどちらかといえば『精神分析から見た主体の捉え方-フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール』のほうがよかった。言われるように確かに「秀英」であり、それは、各文献に目を通し、感心するぐらい正確な理解と目配せの利いた議論の整理をおこっている(とくに各論者の時間的変移に伴う文脈的ズレの読解と補正の試み)。それは、とりわけアルチュセールの引き裂かれる、矛盾に満ちた諸論点を文字通り「縫合」させ、彼の思想的含意を整理しようとする試みに現れている。また、私などは精神分析などの分野(フロイト-ラカン)はほとんど知らないから、それとの関わりあいで見通しのよい論点の整理をおこなっている点では格好の「現代思想入門」といえる。その点では教えられるところが非常に多かった。
その反面、その立論の仕方が、どこか「(現代)思想」のきれいな整理屋(それはまことに役に立つのだけれども)、「優等生」の印象をぬぐいきれなかった。著者は、表題の「抵抗」との関わりにおいて、ここで権力の源泉とされている主権国家(注:日本で言えば天皇制も含む)、資本主義体制というこの世界の現実に対してどういう状況認識をもっているのか(位置関係に立っているのか)、一体この四人の「思想の巨人」にそれぞれどういう思想的共感をもっているのか、もう一歩よくわからないところがあった。若いということもあり、確たる思想的モチーフを求めるような愚は避けなければならないが、でも逆に若いがゆえに「ゴツゴツ」してもよいからもっと突出した問題意識が感じられてもよいと思う。この四人の「思想の巨人」は、西洋世界を内面から統御してきたキリスト教神学(倫理-精神)に対するアンチテーゼ(ひっくり返し)(フーコーの場合)、資本主義批判としての内在性哲学(ドゥルーズ=ガタリの場合)、「事実性」に寄りかかることを拒否し、来るべき出来事を重視する「メシア主義なきメシア的なもの」(デリダの場合)、「正統派マルクス主義」に対する歴史・階級認識としてのマルクス主義の復権(アルチュセールの場合)との関わりにおいて、主体の問題を取り上げ、現実に起きているアクチュアルなイッシューを想定しながら、言表として明確に立ち現れているかどうかは別として、抵抗の問題に突き当らざるを得なかった。その彼らの緊張感こそ主体-権力(抵抗)の関係にあって語るべき重要な要素であると思うのだが、そうした問題意識の強度はあまり伝わってこない。抵抗の問題などはそれ自体矛盾的な要素も含むゴツゴツしたものであり、そこに焦点を当てて一面的でもよいから自分の評価を下してもよいのに、きれいに均して整理しすぎているところがあるから、お行儀のよい「抵抗の類型学」を語っているようにも思えてしまうところはあった。
もっともそう言うといかにも著者の「抵抗」の観念を支える問題意識の強度が希薄であるとも聞こえてしまいそうだが、本著の最終主題となるアルチュセールの「イデオロギー構造の認識」の評価-アルチュセールの認識の変遷のありかを思想的に突き止めようとする苦闘-を通して、彼は彼なりに自分の「ゴツゴツ」した問題意識をぶつけているとも思える。『権力と抵抗』のタイトル名が畢竟ふさわしいかどうかは、その試みがどれほど思想的に内在化されているのか(自分のものになっているか)、その評価に求めることができるであろう。

ところで、私はこの間ずっとアソシエ21の学術講座の宇波彰先生のアルチュセールの『フロイトとラカン-精神分析論集』(一部)『再生産について』(主としてイデオロギー論)の読書会に参加してきている。動機は、概念としては一応知っていた「国家のイデオロギー諸装置」の内実とはグラムシのへゲモニー論との関わりにおいていかなるものであるかを探ることにあった。この読書会は、文章を一語一語読み上げ、微に入り細に入り問題点を探っていくので、駄洒落も繰り出される自由な、ほのぼのとした言説空間であることも手伝って、読解は遅遅と進まないのだが、ただこれが逆に問題の掘り下げという意味では非常に有効であった。とくに、参加者には精神分析の分野に詳しい人たちがいたから、そこでのフロイト→ラカン→アルチュセールの文脈の読解は私のアルチュセール理解には結構役立っている。もちろん、精神分析の分野などは知らなかったから、精神分析の方法論を導入してイデオロギーの構造を論じるマルクス主義者・アルチュセールの概念構成を始めて知ったときはやや驚きの感を禁じえなかった。ただ、読んでいくと、アルチュセールの論証の無理を少しずつ感じるようになった。それはなぜなのか、その部分はどこなのか…『再生産について』の捉え方に関しては、私とは視点、問題意識はかなり違う面もあるけれどもその無理という点では著者も認識を共有しているように思える。ここでは、そこに問題をとりあえず絞って、アルチュセールの論証の無理を修正・補充しようとする著者の試みを少し探っていきたい。というのも、その試みこそが著者の意図でもあり、また極論すれば本著の評価はこの試みの説得性の如何にかかっていると思うからだ。

第5章「イデオロギーについて」の補論「鏡像的中心について」は、本著のなかできわめて重要な意味をもっている。この補論は、私が既に読んでいた「思想」掲載のアルチュセールに関する二つの論文(第5章、第6章に該当)では全く言及されていない部分である。思うに、彼は肝心の『再生産について』での「国家のイデオロギー諸装置」「イデオロギーは個人における主体に呼びかけるinterpeller」のテーゼの論証の不十分性に気がついていたからこそ、これを修正・補充し、後期アルチュセールの「構造変動」の議論に繋げるためにもこの補論を今回の著作に挿入せざるをえなかった。ラカン精神分析を踏襲して「イデオロギーの構造」を展開するアルチュセールの論理構成の問題点、つまり「イデオロギーは個人における主体に呼びかける」での「鏡像的関係におけるこの抽象的図式化(注:「講座」の『再生産について』の読解でも問題点となった、キリスト教イデオロギーの諸主体(個人)への呼びかけを例として用いるイデオロギーの通時的構造の説明)」では、「抵抗の問題を、とりわけイデオロギーの偏差の問題を取り逃がしている点」を指摘している。この説明では「イデオロギー的呼びかけの物質性とイデオロギーの偏差の問題が介在していない」、その結果、アルチュセールがもっとも主張したかった(固執した)「資本主義的生産関係における「階級闘争」」を包含していない、つまり「イデオロギーの物質的側面をとり逃している」というわけである。引用が少しくどくなるが、「〈絶対的主体〉と諸主体の間の再認/否認のメカニズムが前近代における宗教的イデオロギーの構造(神はそれまで超越性として存在する)を説明するためには適切であるにせよ、それは資本主義生産関係における「階級闘争」の問題、つまり抵抗の問題を説明することはできないだろう」。だから、著者は『再生産について』が書かれた「前期アルチュセール」(注:著者はアルチュセールの思想的連続性を強調しているからあえて前期-後期という表現をとらない)に関して「彼はイデオロギーの通事的構造を「鏡像的中心化」として定式化することで、その定式化そのものを抵抗の問題を理論化するための「障害」としてしまった」と断じざるを得なかった。というのも、「資本主義生産関係における抵抗(「階級闘争」)は、支配的イデオロギーの呼びかけに偏差を与える。[…]イデオロギーの呼びかけと取り込み(注:著者はinterpellationに左記の両方の意味を読みとっている)の間にはずれが存在し、このずれは「鏡像的」関係に還元することができない」からである。このずれ(「物質的偶然性」として介入するイデオロギーの偏差)の伏在こそが、抵抗の問題を構造変動として捉えることができる重要な要素である。
結局、著者はラカン「鏡像化理論」を援用してのアルチュセールの「イデオロギーと主体の関係」の説明は、説明自体(論証性)が十分でなく、事実失敗していると見做している。その点に関しては私も同意する。



(つづく)

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月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

きたる2月25日(水)の14時45分より明治学院大学白金キャンパス1555教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンの主体論(第2回)」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
ブログ管理担当の稲見uicp@marinenet.jpまでご連絡いただきますようお願いいたします。


ブログ管理担当@稲見

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佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その3

「私を侵す者」を無条件に歓待し、それを「差し迫った」政治的厳命、と断言してしまうことは、未分節の領域における極限であると言える。
極限は、どちらも恐ろしい。そして、どちらも心の密室性を保証してくれるわけではないのなら、「権力/抵抗」の二分法において安易にどちらかを批判し、どちらかを称揚することはできなくなるのではないか。著者はそれについてどう考えるのか分からない。ただ、p.131には「権力の内面化」という表現があるのだが、それ以降、内面化した権力や内在化した権力、というニュアンスの単語は見られなくなっていき(権力は外部にあるかのように描かれる)、抵抗に与する概念として、「内在性」という言葉が見られるようになっていく。そうした表記は、どこか権力と抵抗に通底するものがあるから求められたものではないかと勘繰ってしまう。
権力/抵抗は、優劣を含んだ二項対立であり、人間が無媒介的に何かを手に入れられないことをそこまでペシミスティックになったり、抵抗をやたらと言祝いだりする現代思想の流行りのマナーについて考えてみることも重要ではないだろうか。権力/抵抗という優劣を含んだ二項対立もまた、脱構築され得るのではないだろうか。
無論、哲学的な議論はどれも極限的な思考を取り扱い、拒食症にならないために過食症になる、というような形でしか議論は進められないのかもしれない。だから、私のこうした指摘は、わざわざ怪獣映画を見に行って、怪獣の気ぐるみの背中にあるジッパーを探すような、そういう野暮天な態度なのかもしれない。
ただ、すでに述べたように、抵抗も「差し迫った」政治的厳命というときには権力と同様の恐ろしさを感じさせるということ。約束事や秩序を通じて享楽を見出すことはそれほど悲観すべきことでもないということ(隷従することに喜びを見出せというのではなく、それらを通じて世界が豊かになることもあるだろうし、何ものにも媒介されないような純粋で直接的な真理や享楽を措定するのは危険だということだ)。以上のようなことは感想として述べておきたい。極限的な思考である哲学的概念と、日常的実践の間に架橋するとしたら、その時は、「まあ、ちょっと、いいじゃないの」という日本人的曖昧さも必要になるのだろう。
権力的領域に身を置くときに、抵抗についての理論があるということは、何かに追い立てられて生きねばならない我々に、一息つく安息の場所を与えてくれるだろう。しかし、抵抗が我々を追い立てるということになっては本末転倒ではないだろうか。その時は、社会的な約束事などが一息つく場所になるのだろうか。抵抗としての態度や行動にのみ価値を与えたり、純粋主義的に厳格な態度で抵抗概念を遇するのは、実践においては非現実的であるように思われる。無媒介的で崇高なものを前提とした、純粋主義的な態度は、暴力や抑圧を是認しかねない。だから私は、崇高な理念について語る大学の先生が、クラブで華美な女性にブランド物のバッグ(記号的価値を持つ)をプレゼントしていても、「ああ抵抗概念から離れて一息ついているのだ」と思って、とやかく言うことはしないでおこうと思う。
本書の感想から離れてしまったようだが、これは現代思想の潮流に関わることであり、本書『権力と抵抗』にも脈打つものであると思う。
また、ずいぶん後回しになってしまったが、本書で扱われたアルチュセールの「偶然性」については個人的に多くを学ばせてもらった。アルチュセールは、その名高い論文「イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置」において、マルクス主義やスピノザ主義という科学的立場に立てば、イデオロギーのような想像的歪曲の外側に立てるかのように書かれている(『再生産について』西川長夫他訳、平凡社、2005年初版、p.367などを参照)。このことから私は、理論的言語を用いれば、世界の現実に直接に触れ得て、また、理論的言語は世界を余すところなく分節し説明しきることができるとアルチュセールは考えているのではないか、という印象を持っていた。しかし、この『権力と抵抗』という著作では、アルチュセールの「偶然性」概念や、アルチュセールがマキャヴェリを評価する理由などが説明されており、アルチュセールもまた、理論的言語では捉えきれない何かを射程に入れているということが、よく分かった(ように思えた)。
本書は、門前の小僧、とはいかないまでも、門をくぐって最初の一歩をさあ踏み出そうとする私のような竪子にとって、大変に有益でエキサイティングな書物であった。学問に専門的に関わらないまでも、新書サイズの入門書を一通り読んで、現代思想についてさらに知りたいという熱心な読者にも応えてくれる、緻密さと広範さを持った書物である。学術論文であるが、現代思想の概観を掴みたいという熱心な読者にとっても、格好の入門書、解説書になりうると言えるだろう。



文責     土佐巌人

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佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その2

著者はアルチュセールの立場に立って、「無意識の主体」というラカン用語は「自我と無意識を混同している」という批判を行う(p.224など)。しかし、それは混同というより、確信を持った概念規定なのではないか。ラカンはおそらく、自我についてのイメージもまた、(小文字の)他者から借り受けたものでしかなく、その他者は大文字の〈他者〉の秩序を表象するものでしかないという意味において、自我を無意識に近い扱いをしている。ラカンのシェーマLなどは、その図の中に「自我」という項を含みながらも、無意識と自我の構図ではなく、無意識そのものの図として見られるべきではないだろうか。ただ、自我の無意識性は自我の持つ構造によって隠蔽されるのだが。
アルチュセールの「偏差」や、デリダの「宛先」といった概念と、ラカンの「宛先に必ず届く」という言葉を対置しているが、それもまた、どこかに問題のずれがあるような気を起こさせた。イデオロギーがあり、それを再生産するための実践があり、結果として再生産されたものは、最初のイデオロギーとの逸れを生じるかもしれない。意味もまた、意図されないうちに多様に産出されていくかもしれない。こうした形で著者は、抵抗の可能性としての「偏差」「宛先違い」について語る。しかし、これらとラカンが「宛先に必ず届く」という時には、全く同じ対象について、同じ論法で正反対の内容を語っているのだろうか。必ずしもそうとは言えない側面があるのではないだろうか。
抵抗の可能性としての「逸れ」には、たとえば「権力/抵抗」という二分法をもとに語るとすれば、本来は「権力」の再生産として行われた実践が、結果として「権力」の再生産には与せず、そこに「抵抗」の可能性が生じるということになる。しかし、もし「権力に対するもの」として「抵抗」を位置づけたら、それはやはり「権力」を基点として自らを位置づけたことになり、依然として「権力」を中心として分節化が行われたことになる。こうした意味では、たとえ「抵抗」として何かが産出されたとしても、「権力/抵抗」という二分法もまた同時に再生産されており、意味という手紙は宛先を違えることなく届いたと言える。
つまり、抵抗の可能性として「逸れ」を語る時、それは分節化された領域内で、違う場所に行ってしまうということを指しており、分節化の作用そのものの無化については語られていないのではないか。ラカンにおいて「宛先は違えられることがない」という時、別の場所にずれこんでしまっても、分節化の作用そのものは無化されえないという意味ではないだろうか。区切られた場所でどこに行くか、区切ることそのものがなされなくなるか、という二つの論点ですれ違っているような気もする。それは、二項対立でどちらにつくのか、という発想と、これまでの二項対立そのものがなくなるという発想の違いである。
そうした意味で、「権力/抵抗」という二分法から逃れていくことは極めて困難である。では、そこでペシミスティックになることが我々のありようとして適切かといえばそうとも思われない。ここからは、この著作についての感想だけでなく、現代思想全体の思潮について感じさせられることを綴りたい。
権力から我々が逃れ難いことについてあまりにペシミスティックな態度をとり、抵抗を言祝ぐ、というのは何かしら、我々が生きていくうえで少しばかり不自然さを感じる。愚直な問いかもしれないが、そもそも権力がなぜ恐ろしく、批判の対象になりうるのか、というところから始める必要があるのかもしれない。
フーコーがパノプティコンなどを材料として考察したように、現代思想が論じてきた問題として、主体の心の内側にまで、公共的な秩序や権力が入り込んで自動化してしまっている、という論点がある。それが超自我であったり、規律権力であったりするわけだが、それらはただ禁止を司るだけでなく、欲望も思考もそれらを媒介としてしか成り立ち得ない。つまり、人の心から密室性を取り払ったのが現代思想の発見であったと言える。本書ではそうした問題には、重点は置かれていないのかもしれないが、とりあえずそうした文脈の中で、本書で示された抵抗について考えてみよう。
第一部の結論などで、フーコーの、自らを触発する他者について著者は触れている。また、偶然性がもたらす逸れや、他者を歓待することによる抵抗の可能性も、依然として、そこには自らの内側にはない何ものかが抵抗の可能性をもたらす、という論法になっている。つまり、権力であっても、抵抗であっても、他者を抜きにしては語りえず、それは無媒介的な主体がありえない、ということになるのではないだろうか。
本書のp.198で、デリダの歓待概念について語られている。「暴行者、殺人者であるかもしれない」他者を、「残虐性なき死の欲動」をもって受け入れることが歓待である。「私を侵す者」として他者を受け入れる受動性が、抵抗の可能性であるという。P.316では、「国家の残虐性を他化する可能性を持つ」として、「「不可能」であると同時に、真に「差し迫った」政治的厳命」として語られている。しかし、それが残虐性の他化であろうと何だろうと、「差し迫った」政治的厳命というのはなんだか恐ろしい響きである。
ナチズムの経験があるヨーロッパでは、権力に対する抵抗について語り続けることが知識人の使命なのかもしれない。フロイトが戦争の悲劇から「死の欲動」の着想を得たことや、全体主義の持つ多様性の否定という側面から、ファシズムが約束する享楽は、「死の欲動」として取り扱われるようである。確かに、ファシズムが、無媒介的で完全な形での欲望の満足、というのを約束して大衆を魅了するとすれば、それは象徴界的ではない。しかし、実践の面において、ファシズムに参加するものは、自らを位階の中に位置づけ、機械的組織の一員としての任務を遂行するのであるから、そこには象徴界を通しての欲望の満足があるのではないだろうか。
また、資本主義社会において、様々な文化的イデオロギー装置を通じて公理系がもたらされ、その公理系に従って、欲望にひた走る主体。たとえば、最近の若者の間で、「ファッション・ヴィクティム」という呼称を自称するのが流行っているらしい。ヴィクティムはvictim、つまり犠牲者であるが、これはファッションの流行に敏感でお洒落な人、という意味の(多少の自虐を含んだ)ほめ言葉のようだ。彼らがvictimという英単語の意味を知っているかどうかはさておいて、言い得て妙ではないだろうか。
そうした、自由でいるつもりでいて従順の極致にいる消費主体も、ナチス党員も、約束事への参加を通して欲望するという意味では、きわめて権力に従順と言える。著者も、p.82で、「近代国家(資本主義国家、社会主義国家、ファシズム国家)でさえ、それが資本の公理系の調整を行うに過ぎないという限りで、この公理系から生まれている。」と語っている。
こうした、分節化された領域(権力、秩序)へ巻き込まれることに対して、未分節の混沌からの何かを受け入れることが抵抗であるとしよう(著者が明確にそう語っているわけではない。一読者の私見である)。
さて、ナチス党員も、ファッション・ヴィクティムも、約束事や分節化された領域がもたらす快楽の極限を追い求めているという意味で、極めて権力的であり、そして、心の密室性を失っていると言える。では、抵抗の側はどうか。


(つづく)

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佐藤嘉幸『権力と抵抗』を読んで その1

大変に広範な知識と根気をもって書かれた書物である。この著作はパリ第十大学に提出された博士論文を改稿したものらしい。読むにあたって、前評判として、「昔は、海外で学位申請論文を出すとなると、東洋人は東洋的なものを内容に無理にでも入れなくてはならなかった。こういうフランス現代思想だけの内容で論文が通るということは、ずいぶん時代も変わったものだ」というようなことを、年配の方からよく聞いた。この著作を読むと、ただの時代の移り変わりだけではなく、やはり、ねじ伏せるだけの何かがあったからではないかと思わせられる。
文章も明晰で、学術論文でありながら、フランス現代思想について学びたいと読者が思っていれば、それに応えてくれるようなサービス精神を感じさせてくれる。
たとえば、p.23には、権力を再生産するための装置として、アルチュセールの「国家のイデオロギー諸装置」、フーコーの「規律権力」、ドゥルーズ=ガタリの「エディプス的家族」といった概念を並置している。そのように、キー概念を並べて、その類似性と差異を丁寧に解説していくのが本書の基本スタイルであるように思われる。そのスタイルは、我々を明瞭な問題意識へと丁寧に丁寧に導いていくだろう。
本書の副題は「フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール」である。こうしたビッグネームのキー概念を説明していくのだが、副題に含まれていない、哲学にとてつもないインパクトを与えた精神分析家ジャック・ラカンの思想も、本書を構成する欠かせない要素となっている。副題に表記されていないながらも、幾たびもラカンの概念は引き合いに出され、常に表題の思想家たちと比較されていく。本書の通奏低音は精神分析であり、ラカンであると言えるだろう。
たとえば、p.59で「器官なき身体」を表象不可能な充溢したものとし、p.62で「死のモデル」として語るとき、そこにおける「機械」と「器官なき身体」との関係は、ラカン理論における象徴界と現実界との関係に重なるように思われる。ただし当該箇所にラカンのタームは(おそらく、あえて)出されていない。本書では、ラカンは対置されて比較される仮想の論敵のようなものとして主に使われているようだ。
しかし、さまざまな重要概念を取りまとめていく中で、こちらの勉強不足によるものか、やはりその相関性に隔たりを感じてしまう場面もあった。たとえば、p.176のあたりでは、デリダの「歓待」概念を、「残虐性なき死の欲動」として読み解くために、フロイトについて言及している。その中で、「心的構造にとって耐え難い何ものか」が「快/不快の緊張」をもたらし、それが「マゾヒズム的セクシュアリティ」を主体にもたらし、「死の欲動」の表現である「反復強迫」となる、というように論が進められているようだが、そこからデリダの「歓待」についてたどり着くまでの流れはどうもしっくりこないように思われた。ただ、そうした論理の接合性は、学位論文としてはあまりに自明のことを述べていないだけで、読み手の勉強不足もあるのかもしれない。
また、ある要因から、様々な概念を関連付ける際に困難が生じているのではないかも思われた。その要因とは、p.10で断言されているが、「実際、権力のメカニズムはシニフィアンのそれとは何の関係もない。」という態度である。シニフィアンの作用は世界を分節化するものであり、すなわち言語の働きである。こうした、中立的と思われる言語に既に政治性が潜んでいる、というような研究は他の研究領野の方(たとえばフェミニズムとか)に任せて、本書ではもっと問題の領域設定を狭め、緻密にやる、というような目論見を、この断言に込めたのかとも思われた。しかし、権力が内面化され、主体が自らの思考様式や世界観の自明性を信じて、疑わずにいるという状況は、やはりシニフィアンの作用と切っても切れないものがあるのではないだろうか。思考の様式や世界観はシニフィアンの賜物なのだから。
フーコーの博士副論文における、カントの言及について、著者はフーコーがカント的主体を「経験的‐超越論的二重体」として扱っていることを指摘する。経験的自我の複数性に対して超越論的自我の単数性をカントが主張し、この超越論的自我の単数性に認識の安定性の基盤が与えられていることにフーコー(そして著者)は注目し、ニーチェの発想を用いてこの認識の安定性の基盤を揺るがしていく。ここで著者は、「経験的‐超越論的二重体」を、超自我と自我の二重の関係に類比していることは明らかだ。しかし、悟性や感性の形式を語るとき、現代思想に照らして言えば、シニフィアンの産物としてのそれらについて語る方が、その二つの二重体(経験的/超越論的、自我/超自我)の類比はよりストレートにできたのではないか。
ただ、ここにおいてはニーチェ的な思考に照らして、フーコーがカント的主体を批判する様子を説明することが眼目だとしたら、あえて考察の領域を広げすぎて混乱を招かないための配慮であったとも見られるだろう。
そうした、戦略的にあえて言及せずにいるのではないか、と思われる(こちらが穿ち過ぎなのかもしれないが)場面は、ラカンについても多くある。
本書の中で、デリダの「撒種」の概念と、ラカンの「超越的シニフィアンであるファルスによる欠如を中心とした体系」という発想が対比され続ける。しかし、たとえばラカンが馬恐怖症のハンス少年の症例について語るとき、そこにおいて馬は出産や妊娠であったり、排便であったり、ファルスを噛み千切る存在として様々な意味を持つ。こうした多様な意味の産出が換喩的・隠喩的に行われていることもありうる。それも、所詮ファルスを中心としたものでしかない、と言うこともできるとしても、そのファルスを中心とした症例がなぜ個別性を持つのか、という点において、対比すべき論敵としてではなく、類比すべき材料としても使えるのではないだろうか。また、ラカンはファルスの概念を、想像的ファルス、象徴的ファルス、現実的ペニス、などと使い分けているが、本書では「ファルス」と一括りにされている。ひょっとしたら、それによる問題のすれ違いも起きているかもしれない。
ラカン=ジジェクの思想的文脈を、〈他者〉を超越的審級としていると著者は批判しているが、ラカンが、(社会的な)道徳と(現実界に由来する)倫理が相容れない時があるというような意味のことを語り、また、社会的に適合させるという意味での治療という言葉に疑義を呈する時、ラカンもまた、本書の副題に列挙された思想家たちと似た立場にいるように思われる。「超越的な欠如のシニフィアン」としてファルスを取り扱っているが、その欠如の代わりに、どのような形で回帰するか分からないが、幾たびも主体に回帰する現実界の概念をそこに当てはめれば、案外これらの主張は近いものになるのではないだろうか。
本書でセミネール7巻や『エクリ』をこれだけ引用しながら、そうした示唆に著者が気付かずにいるとは思えない。ゆえに、議論を明確にするために、まるで著者が確信犯的に何かに言及せずにいたように思えてしまう。ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」について語るとき、あえてラカンとの類比を用いなかったのではないか、と思ってしまうのもこのあたりの感触に由来する。副題に含まれる思想家にラカンを含めなかったのも、そうしたことを行った遠慮からではないだろうかと思ってしまう。これは一読者の妄想だろうか。
また、それを踏まえて疑問符をつけたくなる箇所もある。


(つづく)

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