宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

きたる5月27日(水)、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンの反復論」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
ブログ管理担当の稲見uicp@marinenet.jpまでご連絡いただきますようお願いいたします。


ブログ管理担当@稲見

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釜無川を越えて

去る4月の下旬に、山梨県の韮崎へ出かけた。いうまでもなく、都市基本問題研究会の調査のためであるが、相変わらず研究会員になりたいという人がいないので(100万円という入会金が高すぎるらしい)、ひとりで出かけた。あちこちの都市をまわって感じるのは、鉄道の駅がひとつの都市にとって非常に大きな意味を持っているのではないかということである。中央線の韮崎駅に降りると、駅前の広場のようなところに、サッカーボールのような置物が並んでいる。韮崎は「サッカーの町」であるらしい。
しかし町のメインストリートは、駅とは反対側のところにある。私が泊まろうとしたホテル(実際は泊まらなかった)も、ここの出身者である小林一三の記念館も、駅の反対側にある。駅があって、そこから町が拡がっているという既存の尺度では韮崎の町は歩くことはできない。
私が韮崎を訪れようとしたのは、そこに大村美術館という小さな美術館があることを知っていたからでもある。そこには鈴木信太郎の作品と、上村松園、三岸節子など、日本の代表的な女性画家の作品も展示されていると聞いていた。駅のなかの観光案内所で行き方を尋ねると、5分後にバスが出るという。それは小渕沢行のバスで、一日に数本しかない。
バスは釜無川を渡って行ったが、なかなか眺めのいいところである。美術館は高台にあり、その二階には展望室もあって釜無川のいわゆるvalleyの眺望はすばらしかった。美術館には三岸節子のとてもいい作品があり、また私の故郷の浜松出身の画家である秋野不矩の作品もあった。
しかし帰りのバスが当分来ないことがわかったので、駅まで歩いて帰ることにした。美術館でもらったパンフレットには、駅まで2.8kmと書いてある。歩いて行ける距離である。釜無川が意外にも急流であることを知った。
帰りに小林一三記念館に寄ったが、閉館だった。また町のなかの喫茶店がいくつも閉店になっていた。このあたりは武田信玄と関係の深い土地であり、最近の私は戦国時代のことに次第に関心を持ち始めているので、そのあたりを歩くのは非常に楽しいことであった。私は釜無川にかかる橋から川の流れを見ていたが、川原には丸い石が転がっていた。
かつて私は中沢厚の『石に宿るもの』(平凡社)で、山梨県に多くの丸石神があり、新聞社で働く友人と二人で笛吹川の上流にある丸石神を訪ねて歩いたことがある。それから学生たちと丸石神研究会を作って、新潟県の三面川の上流や、静岡県の藤枝あたりにある丸石神を探しに合宿研究をしたこともある。笛吹川上流にある丸石は本当に丸い石だったが、地元の人に聞くと川原から持ってきたものだという。それほど完全に丸くはないが、それでも角が無い丸い石が釜無川の川原にも転がっていたのである。
帰ってからオルミの「ポー川のひかり」というイタリア映画を試写会で観た。会場で、かつて丸石研究会のメンバーだった新聞社の人と再会した。

(2009年5月16日)

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鮒ずしのグローバル化

去る4月中旬に、都市基本問題研究会の調査のため、滋賀県南東部にある日野に出かけた。「近江商人」で有名なところであり、彼らの活動を示す小さな記念館もある。例によって町の中をぶらぶら歩いていくと、食料品店のようなコンビニのような店があり、ミネラルウォーターを買おうと思って入った。店の一角に鮒ずしが置いてあった。以前には魚屋だった店がコンビニになったのではないかと思われた。いま地方都市の普通の商店は、コンビニになるか、都市の郊外に作られる巨大なスーパーストアに負けてつぶれるかという二者択一を迫られている。ちいさな商店で買い物をしてきた老人たちは、郊外のスーパーに行くための車がなければ生活そのものが成り立たなくなる。いまや限界集落は大都市のなかにも形成されつつあり、限界共同体ということばも散見される。実際、私の住んでいる東村山市の一角の住宅街でも、知り合いの高齢者がしだいに亡くなって、一人暮らしの家が増えつつある。こういう状況をどう考えるかというところにも、都市基本問題研究会の課題のひとつがある。
私は鮒ずしというものを、誰かから頂戴して一度だけ食べたことがある。琵琶湖に棲むニゴロブナを使って作る高価な食物である。日野のコンビニで売っていた長さ10㌢ほどの鮒ずしは5000円であった。7,8年前に琵琶湖西岸の高島で売っていたほぼ同じ大きさの鮒ずしは、8000円だったような記憶がある。
鮒ずしは琵琶湖のニゴロブナを原料とするものであるから、そこから少し離れた日野で鮒ずしを売っていても不思議ではない。しかし店の人は、その鮒が琵琶湖産ではなく、香川県で養殖したものであると教えてくれた。そのあと、琵琶湖の漁業にくわしい人に聞いてみると、香川県に鮒ずし用に養殖しているのはニゴロブナではなく、ゲンゴロウブナであり、また最近では「近江特産」とされている鮒ずしの原料の一部は中国・韓国からも輸入されているという。帰宅してインターネットで調べてみると、最近の鮒ずしの材料は鮒に限定されなくなり、外来種として問題になっているブルーギルやブラックバスまでも使われているという。鮒ずしのグローバル化である。
事情はカラスミでも同じであるらしい。カラスミの材料はボラであるが、スーパーなどでは鱈を材料にした「にせカラスミ」を売っている。わが国の食品加工業者の知恵には驚くほかない。カラスミは、以前には五島列島の特産だったらしいが、最近では伊豆でも生産するようになり、下田駅の売店でも売っていて一度買ったことがある。その原料に使われているボラは、オーストラリア産であった。ネグリ、ハートの『帝国』を読んだとき、「越境」(border crossing)ということばが印象に残ったが、鮒ずしもカラースミもいまや「越境」の所産である。
カラスミはイタリアなどでも作っていて、友人がイタリア土産だといって時々持届けてきてくれたことがある。そのときイタリアの古い百科事典で調べてみると、イタリアのカラスミ(ボッタルガという)の原料は、ボラのほかにマグロと、さらにもう一種類、日本では採れない魚も使うことを知った。カラスミは、その名の通り中国からきたものらしいが、イタリアと中国ではどちらが先なのであろうか。つまり、カラスミとボッタルガはどういう関係にあるのだろうか。マルコポーロがうどんの製法を中国からイタリアに持ち帰ったので、スパゲッティができたという俗説があるが、彼はボッタルガをイタリアから中国に伝えたのか、それともカラスミをイタリアに持ち帰ったのか。

(2009年5月16日)

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部落文化論 ~人々を支えた部落文化 (一回)~

今も生活文化に生きている部落文化について 

部落に文化はない、と言われた時期があった。その後「奪われた文化」という発想が生まれた。部落に文化はあったが、差別によって失ったという発想だ。これは一定の説得力をもっていたが、その内容や奪われた状況が丁寧に語られなかったと思う。漠然と「差別によって」というだけでは「そんなに部落民は軟弱なのか」という思いが私の脳裏にあった。
この場合「差別によって」と簡単にいわない方がよいと思う。文化(職業も含め)が奪われた状況を簡略にいうと、江戸時代は差別が制度的だったが、しっかりした個性的な職業とそこから生まれた文化があった。これらがなくなる(見えなくなる)のは「身分職業共に平民同等」とした賤民解放令からだ。
皮革関連など一部を除いて解放令を機に警備役など主な職業が平民に移り、部落の専業的職業と共に文化が消えていく。これは近代になって部落が経済破綻する過程と同じである。その結果として部落が生活破綻し、文化を失ったといえる。そうした結果としての現代的様子は解放運動でたくさん語られている。私も全国各地のルポをしながらそうしたことを実感してきた。
解放同盟は「奪われた文化をとりもどす」ため「たたかいの祭り」などを実行してきた。その意議は大きいが、私は一方で運動が見落しがちな一人の部落民として生活の中にある文化を考えてきた。それを生活文化ということができる。この生活文化の全体像を現代の部落に見出すのは難しいかも知れない。しかし部落の歴史が作った文化は今、社会一般に普及している。太鼓や靴等々皮革製品。今はほとんど見られないが新年の祝福芸・門付芸など。これを私は「部落の伝統芸能」と呼んでいるが、これらは歌舞伎や日本舞踊にたくさん残っている。
こうしたことに気付き、社会一般にある生活文化から「部落文化」を抽出する作業をしてきた。その文化は、農山漁村町(商工)にあるそれぞれの職業を基にした文化と同じレベルで人々の生活を支えている。しかもそれらが個性をもつと同じに「部落文化」も個性的だ。その個性を認めあう。そうしたことが大切だ。 (【注】私は被差別部落を単に部落という。他の共同体は農村、漁村などという。全体を示す場合は村・集落・町とする)


(門付芸<伊勢万歳>)


文化は存在価値を示す

文化は価値を示すといわれる。と言っても少しわかりにくいかも知れない。私も理解するのに時間がかかった。しかし視点を変えるとすぐわかる。歴史的にも現代的にも部落で作られる太鼓は使用価値、交換価値がある。そのため社会に普及する。これが価値だ。そしてそこに、それを作る人の存在価値がある。
このように考えると「部落文化」の全体が、歴史的にも現代的にも部落の社会的存在価値を示しているのがわかる。この社会的存在価値は差別があってもなくても、すべての人が共有している。つまり、部落文化は部落内外で差別を超えている。そのことに気づくと、文化が部落内外で差別的<偏見>を<正見>に変え、差別を克服する思想的な認識、精神的な武器なのがわかってくる。
こうした意味をもつ部落文化の全体像を私は次の五つの柱にまとめる。①皮革文化②肉食文化③解剖技術④危機管理⑤伝統芸能。この後これら一つひとつの代表的なものをみていくが、文化が抵抗、解放の武器なのをもう少しみておきたい。


(舞台芸になった<猿回し>)


人々の解放と文化

若いころ、南アフリカ解放戦線として文学活動をしていたマジシ・クネーネという詩人に会ったことがある。「解放とは何か」を話していて私は「自由であること」と言った。一方彼は「黒人の歴史と文化を認めること」といった。この言葉が印象的だった。自由という抽象的な言葉より実感的で新鮮に思った。
クネーネと同じような発想は二十世紀半ば世界各地の民族解放、植民地解放戦線の中でたくさん語られた。在日韓国・朝鮮人からも同じ言葉が聞かれる。彼らが「祖国」というとき、物理的意味の朝鮮半島を示すだけではない。その言葉は韓国・朝鮮の風土、言葉・民族性など生活全般を含んでいる。それを彼らの文化ということができる。「在日文化」という新しい言葉はそのことだ。つまり彼らは日本にいて「祖国」を生きた。彼らの解放はそこから始まる。
昨年(〇八年)五月、アイヌ民族が北海道の先住民なのを不十分ながら国がやっと認めた。そのとき「アイヌの歴史と生活・文化がやっと認められた」という声があった。
このように、文化はそこにいる人々の自立、自由、自尊心などにとって、非常に大切なもの、欠くことのできないものだ。そうした意味をもつ文化であるが、部落の場合その文化がどのように語られるだろうか。部落問題と民族問題、植民地問題は異なる基盤をもつが、差別の現実としては非常ににかよっている。そのような差別の克服を考えるとき、それぞれの生活・文化が異なっても、それぞれの文化が持つ精神的意味は同じではないだろうか。そうした意味で「部落文化」を具体的、実感的に把握したいと考える。


(「日本屈指の大太鼓。弘前にて)


民衆の文化軸として

そのように考えるとはいえ、この国で文化を考えるとき考慮すべきことがある。それは日本文化というようなときよく現れるが、その言葉が侵略者の文化、加害者の文化として使われた歴史をもつことだ。このことを明確にするため私は「列島文化」という言葉を使うが、列島文化の中には大別としてアイヌ文化、沖縄文化、和人文化がある。この和人文化がアイヌや沖縄文化を侵略し同化した。「日本文化」にはそうした歴史がある。アイヌが北海道の先住民なのを認めさせるのは、そうした同化へのアイヌ民族の反撃だ。沖縄も「同化」政策の中で差別されてきた。そうした「同化」差別に対抗して独自性が文化として主張されている。
また「日本文化」が東アジアでの植民地主義、侵略主義を正当化する論理に使われることが今でもしばしば起こっている。そしてそのような論理はこの国の保守主義の中で「愛国心」や「天皇制」の機軸として利用されることもしばしばだ。
こうした意味で「日本文化」という言葉は今も簡単に使えない感じがある。私はこうした日本文化の歴史に対して「民衆の文化基軸」といえるものを対置し構築しようと考える。そしてそうした文化基軸の重要な柱として部落文化を位置づけたい。同じ意味で「同化」から開放されたアイヌ文化、沖縄文化、あるいは植民地、侵略主義と戦ってきた韓国・朝鮮の文化、在日の文化、中国の文化に学び、多文化多民族共存の文化を考え、その機軸や体系を構築したい。そのとき私にとって「部落文化」は、最初に取り組み、構築すべき課題であり、私自信の解放の基盤である。


(つづく)

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呑龍さまの周辺

都市基本問題研究会は、去る4月下旬に群馬県太田市において調査活動を行なった。以下はその中間報告である。
太田市には「呑龍さま」と呼ばれている大光院という寺がある。江戸時代初期に呑龍上人が創設したという大きな寺である。しかし太田市もしくは東武鉄道は、この寺を積極的に宣伝して太田市の観光に一役買わせようとしているようには見えない。実際にこの寺に行こうとして東武線の太田駅を降りても、「呑龍さま」を宣伝するような大きな看板などはなく、私が見落としたのかもしれないが、はっきりとわかる道案内もない。駅のある建物がむやみに大きく、何となくガランドウという感じである。観光案内所はあるが、何となく入りにくい作りになっている。「呑龍さま」は駅の西北の方向にあるが、駅前は開発中で殺風景であり、商店街がすぐに広がるということはない。
呑龍さまの場所は、案内の看板がなくても、歩いていた人に」道を聞いてすぐにわかった。駅からかなり歩いて着いた「呑龍さま」は、境内の広い寺である。私が持って行った案内書は『ブルーガイドパック上州路』(実業之日本社、1982年刊)で、いまから30年ほど前のものである。しかし、古いものにはそれなりの価値がある。当時の物価もわかる。それには「呑龍さま」の境内に小動物園があると書かれてあったが、いまは存在しない。このお寺が経営する保育園があって、その先生が数人の子どもたちを連れて本堂にお参りしていた。しかし週日でもあり、ほかには「研究会員」(私ひとりだが)以外の人影はなかった。
この寺の一角に大きな看板が立っていて、そこに中島知久平の仕事が紹介してあった。彼は最初は海軍機関学校出身の士官であったが、やがて退役して中島飛行機を創設し、軍用機の生産を行なった人である。戦争末期に作られた双発の爆撃機「呑龍」は、「呑龍さま」にちなんで付けられた名であるらしい。中島飛行機は、戦後になって富士重工となり、小型車「スバル360」などを生産したが、その前身である中島飛行機の工場のひとつは、「呑龍さま」の東側に作られたのであり、いまでも富士重工の工場として使われている。
太田市にはこの富士重工などで働く多くの外国人労働者が暮している。特にブラジルから来ている人が多いらしい。駅に戻ってから南口を出たとところにあるコーヒーショップに入ってみると、従業員のひとりと、二人の客は明らかにブラジル人だった。
例によってインターネットで予約しておいた駅近くのビジネスホテルに一泊したあと、太田から東武桐生線で世良田(せらだ)まで行った。その駅の南2キロメートルのあたりに長楽寺という寺と東照宮があるというので行ってみることにしたのである。東照宮は徳川家康を祀ったもであるが、日光だけでなく、静岡や川越にもある、しかし群馬県にもあるとは知らなかった。私は静岡県の浜松出身であるが、家康は浜松にいて、三方原で武田軍と戦って敗れた。このことについては「アフルンパル通信」第7号(「リンク」を参照して下さい)に掲載された拙稿「甘楽の赤武者」で触れたことがある。一時間に一本しかない電車に乗って世良田で降りた。世良田は無人駅で、降りた客は私ひとりだった。ところが駅のあたりに、観光の案内になるようなものはまったく存在しない。最初から歩いて行くつもりだったが、ふと見ると駅前の自転車預りの店で自転車を無料で貸してくれることがわかった。「風が強いから気をつけて行ってらっしゃい」という店の女性のことば通り、たいへんな強風で、しかも北風だったので、行きはペダルを漕ぐこともなく、あっという間に長楽寺に着いてしまった。なぜそこに東照宮があるのかもわかった。徳川家の先祖がこのあたりを支配していた新田氏と関係があったからである。歴史の本を読んでもいろいろわかることがあるが、実際に歴史の跡がある土地に行くことにも大きな意味がある。
東村山の拙宅の近くに久米川古戦場がある。また隣の市である所沢にある小手指原もやはり新田義貞と北条軍が戦ったところである。新田軍はどういう経路をたどって鎌倉へ攻めて行ったのだろうか?所沢にある椿峰というところは、新田氏の武士たちが食事のときに椿の枝を使い、それを挿しておいたところ、やがて椿の木がたくさん生長したという言い伝えのあるところであり、柳田國男がどこかで書いていたと記憶する。また拙宅の近くには、勢揃い橋という地名があるが、それは新田氏の軍勢が勢揃いした場所であるという。いまそのあたりは松が丘という住宅街になっているが、40年ほど前は、まむしが生息する谷間のようなところで、まむしを捕まえに来たという男に会ったこともあった。それが西武による住宅開発で「高級住宅地」に変わったのであるが、最初のうち、その住宅地内でどういうわけか交通事故が頻発し、占い師に見てもらったところ、新田・北条の戦闘で死んだ武士たちの霊がさまよっているからだといわれ、供養をしたところ事故が減ったという話であった。つまり私は新田氏のことに前から関心を持っていたのである。
さて、私はそれから強風にさからって世良田の駅に戻り、しばらく無人の駅のホームで待ったあと、織物で有名な伊勢崎まで行って街のなかを歩いた。意外にも静かな町であったが、モスク風の非常に大きな建物がそびえていたのでビックリした。駅で聞いてみると、結婚式などの行事をするためのものだと教えられた。
都市基本問題研究会はこのあとサッカーで有名な山梨県の韮崎市でも調査を行ったが、その報告は次の機会にすることにしたい。

(2009年5月6日)

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