宇波彰現代哲学研究所

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ラカンの反復論(1)

1 ラカンのトポロジー

哲学思想で、いわゆる「図解」がなされることはほとんどなかった。プラトンの哲学には、図示できそうな概念もあるが、ヘーゲルやカントを「イラスト」によって説明するのは、かなり困難と思われる。ベルクソンが、主体が経験する時間のあり方を円錐形のイラストで説明したのはきわめて例外的である。フロイトも幾分かは「図解」つまりトポロジーを使ったが、ラカンほどではない。
ラカンのトポロジーでもっとも有名なのは「ボロメオの結び目」である。この起源は、16,17世紀に栄えたミラノのボロメオ家の紋章であるといわれる。この紋章は円形のものが二つ上にあり、下にもう一つの円形のものがあるという構造である。それぞれがル・レエル、リマジネール、ル・サンボリックを示していて、どれかひとつが外れるとすべてが崩壊するという構造になっている。「3本の矢」の教えと共通するものがある。
ラカンのいうこのボロメオの結び目は、1975年になって、三つの輪が重なるとところにaが置かれることになる。このaは「対象a」である。aはフランス語のautre(他者、別のもの)のことであり、「アー」と発音することになっている。 対象aは、ラカンの基本的概念の一つであり、曲折はあったが、乳房・くそ・凝視・声として規定される。そのなかで「声」が、わかりにくい。ラカンは旧約聖書に出てくる羊の角で作られた楽器(ショファール)が、たとえばスピノザの破門の儀式の時に使われたことなどを論じた。精神分析では被分析者の「声」を聞くことが、分析の基本であり、声は人間の無意識の世界への入り口であり、その意味で「対象a」とされた可能性がある。talking cureといわれるものは「声」を媒介にする。ラカンの思想では「穴」(trou)がしばしば重視されるが、耳は重要な穴の一つである。まぶた(eyelid)は、見たくないものを見ないようにできる装置であるが、聞きたくない音や声を自動的に遮断する「耳ぶた」(earlid)のある人間がいるというニュースを、ずっと以前に「ニューヨークタイムズ」で読んだことがある。
また、対象aとして、「サド・マゾ的対象」が挙げられている。向井雅明氏の説によると、サド・マゾ的状況においては、罵声矢相手を侮辱する「声」が重要な役割を演じているのであり、ラカンが対象aとしてサド・マゾ的対象といっているのは、それを指すかもしれない。

<ゼリンの登場>

さて、本日の講義は、「ラカンの反復論」というテーマである。フロイトが1934年頃から構想していたという『モーセと一神教』では、モーセは二人いて、最初の一人がイスラエル人に殺害されたという見解が示されている。ラカンはそこにオィディプス的関係としての「モーセの殺害」という論点を見いだそうとする。またそれは、ラカンの思想のなかでも特に難解な「反復」「去勢」「享楽」とも関連する。今回はその余裕がないが、最初に「モーセの殺害」について考え、次の機会に、ラカンの「盗まれた手紙についてのセミネール」を考え直すことにする。それは一見すると無関係な「モーセの殺害」と「盗まれた手紙」とのあいだに密接な関係があると思われるからである。
ラカンはときおりセミネールの教室に、予想外のテクストや美術作品を持ってきて話すことがある。ホルバインの「使節たち」や、ラカンの友人でもあるバルチュスの作品は、セミネールの参加者の多くが知っている対象であるが、スルバランの聖女像はともかくとして、江戸時代の真言宗の僧侶である慈雲の書いたものなど、日本人も知らないテクストが使われることもある。
ラカンが、1970年4月15日のセミネールの教室に持ってきたエルンスト・ゼリンの著作も、おそらく参加者たちにとってはなじみの薄いものであったと思われ。(ラカンは1971年6月11日の『セミネールXVIII』においても、ゼリンの著作を持ってきて、その仏訳を批判している。)
エルンスト・ゼリン(Ernst Sellin,1867~1945)はドイツの宗教学者で、彼の著作『モーセとイスラエル宗教史におけるその意義』(Ernst Sellin, Moses und seine Bedeutung fur die israeritische Religions geschichte,1922、日本ではこの原書は東京神学大学と青山学院大学にしかなく、青山学院大学にあるものも、写真版のコピーを製本し、ところどころペンで書き足してある不思議なテクストである)がフロイトの『モーセと一神教』において「モーセの殺害」に関連して言及されている。フランスでもこの原書は入手困難であるらしい。ラカンはこのテクストを持ってきて論じた。ゼリンはドイツ人であるが、1897年から1913年まで、ウィーン大学神学部の教授であり、その間にパレスチナで数回の発掘調査を行っている。2006年にウィーン大学で「ゼリンについてのシンポジウム」が開かれたが、それは彼の発掘調査の100年後を記念してのことであったらしい。考古学にも旧約聖書にも深い関心を抱いていたというフロイトが、この調査に興味を持ったことは可能性としてはあるが、証拠はない。また同じウィーンにいたフロイトとゼリンが接触したこともありうるが、いまのところ立証はできない。
ゼリンには多くの著作・論文があるが、邦訳はロスト校訂の『旧約聖書緒論』(関根正雄訳、待晨堂、1952)のみである。(これを読むと、関根正雄が1935年に、ベルリン大学を退職したゼリンの蔵書の一部を譲り受けて日本に送ったことがわかる。)ラカンは教室にゼリンのモーセ論を持ってきて、そこへフランスの旧約学者であるカクォ(Caquat)を連れてきて手伝わせる。そして旧約聖書のテクストを丁寧に読むと「モーセの殺害」が見えてくると主張する。しかしそれは単に「モーセの殺害」を立証しようというのではない。ラカンのもくろみは、そこから「オィディプス状況」「去勢」、さらには「享楽」の問題へと進んでいくことにある。そのことを意識したうえで、ラカンがフロイトから取り出してきた「モーセの殺害」という論点を考察しておきたい。

<隠された殺害事件>

フロイトの『モーセと一神教』について、従来はモーセがエジプト人であること、モーセはふたりいたこと、モーセの殺害がキリストの到来によって反復されたことなどが論点とされている。しかしラカンは特に「モーセの殺害」こそが、最も重要な論点であるとして、そのことを旧約聖書のテクストに即して考えようとした。ラカンは、フロイトがゼリンの「モーセの殺害説」を「考え直した」(renover)と評価していて、このrenoverという動詞は、数回使われている。ラカン自身がフロイトが依拠したゼリンの所説を考え直そう(renover)としたといえる。
この「モーセの殺害」という論点は、スーザン・A・ハンデルマン(現在はイスラエルの大学の教授)が『誰がモーセを殺したか』(山形和美訳、法政大学出版局、1987)において考察したことでもある。ハンデルマンはゼリンに言及していないが彼女の見解はゼリンの説の反復である。ハンデルマンは、「ユダヤ人によるモーセの殺害というフロイトの立てた仮説を覆い隠すためにテクストを意図的に歪めなくてはならなかった」と書いている(p.246)。モーセはイスラエル人によって殺害されたのであるが、その「事件」を隠蔽するために、旧約聖書の作者たちは、テクストを歪めて、つまり事実を隠して書いたということになる。その結果として、「フロイトの主張するところによれば、あらゆる殺害の場合と同じように、我々はその痕跡を、つまり変形し、そのもとの関連文脈から切断されているが故にやっとのことでしかそれと認知できない隠された原資料をつねに発見することができる」(p.246)とハンデルマンは主張する。「隠された原資料」とは、旧約聖書がその「痕跡」となっている資料のことである。したがって、旧約聖書という「痕跡」を残した資料を綿密に調べれば、「モーセの殺害」という事件の真相に迫ることが可能かもしれない。しかし、ハンデルマンはその可能性を示唆しただけであり、実際に「原資料」の解読をしているのではない。その作業を試みたのがゼリンである。

< ロバート・A・ポールの論点>

ゼリンのモーセ論をまだ十分に検討していないので、それを紹介・批判しているロバート・A・ポールの論文「フロイト、ゼリン、モーセの死」によって、この問題を考えておく。(Robert A. Paul.Freud,Sellin and the death of Mose,in Journal of psychanalysis,1994)ゼリンの所説の中心は次の5点にあるとポールは説明している。

1 「モーセの殺害」は、旧約聖書に明確なかたちで記述されているのではなく、「隠された」状態で記されている。
2 フロイトはゼリンの所論から「モーセの殺害」だけを取り出している。
3 ゼリンはモーセを殺したのは彼の兄弟の孫(grand nephew)であるとしている。息子が殺したのではないが、これはこの殺人が一種の「オィディプス状況」にあることを示すものである。
4 モーセの妻は、エチオピア人であり、殺害は彼の寝室で行われたが、二人は重ねられた状態で木の槍によって刺殺された。
5 彼らが殺されたのは、当時イスラエル人が疫病に襲われていたからである。

ロバート・A・ポールは、このようなゼリンの聖書解読がきわめて「フロイト的」であると指摘している。ここに列記したことが旧約聖書に明確に記述されているのではなく、ゼリンが「解読」したのであり、その解読の仕方をポールは「フロイト的」であるとする。ここで連想されるのは、ベンヤミンが「模倣の能力について」の終わりのところで引用しているホフマンスタールのことば、「書かれなかったことを読む」(Was nie geschrieben wurde ,lesen.)である。これはコジェーヴがラカンに言ったという「プラトンは考えていることをいわない」という考えともつながっている。
「モーセの殺害」に含まれるオィディプス的状況についてフロイトは言及していないが、フロイトとゼリンとのあいだに「反映機能」(fonction speculaire),「反映像」(l’Image speculaire)が存在するというべきである。それは「旧約聖書・ゼリン・フロイト・ラカンというような反復のプロセスである。 次回(6月24日)は、予定していながら論じられなかったラカンの<反復>の概念を検討したい。


(ここにアップしたのは、去る2009年5月27日に明治学院大学1558教室で行なった講義の要旨である。 「一般記号哲学講義」というタイトルの私の話は、毎月、最終水曜日午後2時45分から行なわれているが、物理的に出席できない方々から、講義の内容を知りたいという要望があり、試みにブログに載せてみることにした。ただし、ここにアップしたのは、私の講義の一部にすぎないこと、また講義の内容の「忠実な」復元ではないことをお断りしておきたい。なお次回の講義では、岡田三郎助の1936年の作品「民族協和」も材料にする予定である。2009年6月12日)

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吉林の新しい都市空間

去る5月下旬、都市基本問題研究会は、中国東北の吉林で調査を行なった。吉林省では、長春に次ぐ、第二の大都市である。このような大きな都市については、全体をくまなく調査してその全貌を明らかにするなどということは不可能である。どこかを歩いてみるほかはない。
吉林は松花江を基盤にして成立した都市である。中国の大都市では、いわゆるマンションが次々に建設されているが、この松花江に沿った地域にも、いま高級な高層マンションが林立しつつある。中国の「格差社会化」を示す記号である。道路沿いのいたるところに掲げられている大きな看板にはそうしたマンションの広告があるが、そこにはマンションの広さを示したものがある。正確な調査をしたわけではないが、「80㎡~210㎡」程度の広さのものが多いように感じられた。日本の「マンション」に比べるとかなり広いものがあるように思われるが、あるいはその広さは中国の家族がまだ「核家族化」していないしるしであるかもしれない。
さて、その松花江沿いのマンション群を見て歩いていると、数十棟のマンション群が、いわゆる「門付き集合住宅」になっているのに気付いた。全体が閉じられた構造になっていて、入口は一箇所しかなく、居住者はカードを入口の台のようなものにかざして入るのだが、そこにはガードマンが24時間体制で見張っている。地球温暖化といっても、冬の吉林は酷寒に違いない。そのときのガードマンのつらさを思いやった。
このように住宅群を閉鎖的なものにして、外部からの「侵入」をすべて断ち切ることは、すでにいたるところで進行中である。アメリカではそれを、gated community と呼ぶ。ベルナール・アンリレヴィは、現代アメリカの印象を記した『アメリカの眩暈』において「100歳までの生活の可能な財産のある金持ち老人だけが住める住宅群」がアメリカで増えつつある状況を報告した。私が「門付き集合住宅」と書いたのは、その訳語のつもりである。「門付き集合住宅」は日本でも確実に増えつつある。都市の大きなマンションには「管理人」が常駐しているところが多くなっていて、それはすでに「門付き集合住宅」であるが、複数のマンションをさらにゲートで閉じてしまう形式のものも増えている。さらに、普通の家でも「知人以外の訪問お断り」という掲示が貼ってあるのを見たことがある。人と人との関係が次第に断ち切られつつある。中国でも同じような傾向が進行中だと感じた。
吉林はかつていわゆる「満州国」の都市であった。(中国では「偽満州国」と呼んでいる。)出かける前に何冊か「満州国」に関する本を読んだが、そのうちの一冊である山室信一『キメラ 満州国の肖像』(中公新書、1993)の11ページに、岡田三郎助の作品の写真が収められている。その絵のタイトルも制作年も記されていないが(どなたか教えて下さい)、「民族協和の建国理念を示す絵画(国務院総務庁玄関に掲げられていた)」という説明が付されている。五人の女性が並んでいる作品である。「五人の女性」は、おそらく漢民族・満州族・モンゴル族・朝鮮族、そして日本人を示すものであろう。私は田舎から出てきて大学生になったばかりのころ、岡田三郎助のことを知らなかったので恥かしい思いをしたことがあるが、ブリジストン美術館にある「婦人像」が切手にもなっているほど有名な画家である。しかしこの画家が、「満州国」に協力するような作品を描いていることは知らなかった。「民族共和」、「五族共和」は「満州国」の「建国理念」を示すスローガンであった。岡田三郎助は、このスローガンを反復し、それをイメージ化したのである。たまたまジャック・ラカンの『セミネールIV 対象関係』を読んでいると、「像的相互性」という概念が示されているのに気づいた。「満州国」のスローガンである「五族共和」は、岡田三郎助の作品と相互性の関係にある。ブログで私がかつて記したように、よく知られている「東郷平八郎元帥像」と安田靫彦の「山本五十六元帥像」との関係である「像的相互性」が、「満州国」の建国スローガンと岡田三郎助の作品とのあいだにも存在している。その構造は、鹿島茂や横尾忠則にも受け継がれているのだ。
5月下旬の雨の日、東京の目黒美術館で「上野伊三郎・リチ展」を見た。上野伊三郎は早稲田の建築科を出て、ウィーンで学んだひとである。京都市立芸術大学の教授をしていたことがあり、森村昌泰は彼に教えを受けたこともあるという。人気の展覧会らしく、カタログは完売で入手できなかった。会場に置いてあるカタログを拾い読みすると、上野伊三郎が1939年から1941年にかけて中国東北にいたことがわかった。その部分の記述は、非常に簡単で、詳しいことは書いてないが、上野伊三郎は当時「建技将校」という肩書きで働いていたらしい。(「建技将校」という肩書きが本当にあったのかどうかまだ調べてない。)中国東北には、かつて日本が作った建築がまだ残っている。上野伊三郎はどこまで軍部に協力したのであろうか。東秀紀の『ヒトラーの建築家』によって知ったが、シュペーアに会ったことがありながら、戦争への協力を断ったという谷口吉郎のことが想起された。

(2009年6月4日)

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