宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

2月24日(水)15時より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンとベンヤミン」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

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書評;『未来のための江戸学』 失われた環を求める旅

あるTV番組で、NY在住の若きクリエイターはこう言った。
「消費するより、何かを作るほうが楽しい」
彼が作るのは、ハイテクおもちゃである。路上に散らばる粗大ゴミが材料だ。見ていて、私も手を動かしたくなった。電話や書類を置いて、空の下に出て行きたくなった。歌は聴いていると歌いたくなるし、歌詞が分からないなら一先ず自分で作詞してしまえば良い。
この番組が記憶に残ったのは、田中優子著『未来のための江戸学 この国のカタチをどう作るのか』(小学館101新書、2009年10月6日)を読んだからだ。
250ページ位のごく平均的な厚さの新書だったので、二時間もあれば読み終わると思っていた。しかし、なかなか進まない。斜め読みを許さないのは、少し進むごとに必ず江戸と現代がリンクするという特性のためだ。少し読み進むたびに、今の自分の生活への態度を省みてしまうのだ。それは私が地に足を着けて暮らしていないという証明でもある。
持続可能な社会を築く。よく聞く言い方であるが、この本はそのための提案は拍子抜けするほど書かれていない。環境に良い生活の指南本ではないらしい。読んでいてだんだんこれがなぜなのか分かってくる。

江戸文化の本質は「循環(めぐること)」の価値観であり、「因果(原因と結果)」を考える方法にあるという。人に勝って高い賃金を得て、高額商品を求めるという直線的な価値観ではなく、自分がした行為はまた自分に戻ってくるという環を描く価値観である。この本は、自由競争の直線から循環と因果の環へ「引き返す方法を探る」本なのだ。
自分の行動が何をもたらすか、考えることで因果関係を知る。その先には、新しい社会の形と新しい生き方が見えてくるはずだ。もっとも知ろうとしても壁はあるだろうし、何を信じていいのか分からなくなりそうだという怖れはある。ただ知る意志の継続と行動は止めてはいけない。

 話が変わるようだが、私は著者の文章を男性的だと感じることがある。怒涛のように紡がれる描写がものすごく冷静であり、舌鋒が針みたいに鋭いときだ。あとは手っ取り早く次の話題に移るとき、その切り替えの早さである。文章をだらだら書かない。私が連想するのはイタリア人作家、ナタリア・ギンズブルグである。ギンズブルグの翻訳を手がける須賀敦子の「あとがき」によると、若い頃のギンズブルグは「男のように書かねばならない」と自らに言い聞かせ、自分本来の感性は封じ込めていたという(『ある家族の会話』、白水Uブックス、1997)。しかし長い文学修行を経た後に、自分に課した制約を解き放って書いた作品『ある家族の会話』で一躍有名になったのだ。著者にも「男のように」と意識するときがあるのだろうか。

田中優子の文体は、基本的には自分が読み取ったことをずんずん勢いよく並べていく「列挙」の連なりである。その連なりから理解したこと、理解に至る過程をも流れのままに陳列する。有無を言わさず並べていって数珠つなぎに綴っていく。気がつくと近世の周りを、思想や書物の環が取り囲んでいる。本に書かれたことを読むのではなく、ものの動きを見ているからできる「わざ」なのではないかと思う。読む人ではなくて見る人だ。筆は武器だが目も武器になるとは知らなかった。しかも目は一つではない。顔にある目で品物を吟味し、頭の中のたくさんの目で世界を見張っている。著作は博物学的になるに決まっている。
「未来のための江戸学」とは、著者が今まで取り組んできた研究成果の社会への還元であり実践である。そして実践は始まったばかりである。読めば誰もが、この新書一冊で終わる内容ではないと思うだろう。考える人と実践する人が同じであれば、説得力も魅力も増す。まだまだ田中優子は旅を続けることになる。
著者は、現代ももちろんだが江戸時代も完璧な社会だとは思っていないし(その文化を非常に好んではいる)、「いま」を希望ある時だと考えているからこそ、知を力に変える方法をつかもうと試みる。 方法は、一人一人が意識して鍛えていくものなのだ。人間の知が力になるなら、一人でも多くの人が考えた方が、未来も明るくなるだろうから。それを教えてくれた本だった。
冒頭で挙げたNYの若者の知=技術はネットでの公開がきっかけとなって彼の周りにたくさんの仲間を集め、活動している。彼の知を一つの方法として認め、人がゴミを増やしてしまうような行為を見つめなおせていたら良いと思う。

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+二つの世界

 去る2009年7月に、ブータンを訪れ、また九月下旬には上海に出かけた。ブータンは九州より少し広国土であるが、人口は七五万の小さな国である。国土のほとんどが山であり、二本しかない国道は断崖絶壁に沿って作られている。やがてはガンジス川に注ぐという川はあるが、激流のところが多く、「船」というものがない。川でさかなをとるということもほとんどないという。市場に売っているさかなは、インドから輸入してきたという川魚の干物だけであった。
 7000メートル級の高い山はあるが、ネパールと違って、ブータンの高い山は登山が禁止されている。山は聖なる領域であり、外国人に山登りをさせて財政に役立たせようというような発想はない。国王の家を遠望したが、宮殿などというものではなく普通の家であり、車もトヨタのランドクルーザーが一台あるだけだという。国営の航空会社ドゥルク・エアが所有している飛行機は二機にすぎず、ダッカもしくはカルカッタ経由で、バンコクと結ばれている。
 山の国であるから、道路を作るのもたいへんな仕事であり、山奥の村へは野宿をしながら歩いて行くほかはない。すべてが質素な生活であり、ホテルのレストランの食事も、野菜が中心で、五、六種類の料理しかない。しかしブータン人の生活は、簡素ではあるがけっして貧しくはない。森には日本のとは少し違った種類の松がたくさん茂っていて、まつたけに目をつけた日本やドイツの企業が金もうけをしているらしいが、首都ティンプーを初めとして「都市」の中心街は少しも派手なところがない。
 こういうブータンを、文明の遅れた国だと考えるのは間違いである。病院・学校・郵便局といった「近代的な」制度は、始まってまだ五十年に満たないという。学校の役割はゾンと呼ばれる、行政機関と僧院が一体化したものがはたしてきた。いまでは公立の学校と私立の学校があり、そこに「格差」が生まれつつあるという。ブータンもやがては「近代化」が浸透するのであろうか。

 上海に行ったのはそれから二ヵ月後のことである。子どものころ「夢のスマロかホンキュの街か」という流行歌の文句を意味もわからずに聴いていたのだが、黄浦江の西岸の古い街には租界の時代の建物がまだ残っている。しかしいまや黄浦江の東岸は、完全なハイライズの街となっている。十数年前に建てられたテレビ塔はすでに色あせた感じであり、それに代わって森ビルが作った上海環状金融中心など、むやみに高いビルが文字通り「林立」している。
 以前にリュック・ベッソンの「フィフス・エレメント」という未来社会を舞台にした映画があって、そこでは林立する高層建築物のあいだを「空中タクシー」が走りまわっているシーンがあったが、上海の街の情景はこの未来都市のイメージを反復するものである。話題の上海環状金融中心は500メートルに近い高さのビルであるが、その展望フロアへは高速のエレベータで行くことができる。そこから見渡しても、やはり見ることができるのは、限りない数の高層ビル群である。しかしこの高層ビルよりももっと高い建物が建てられつつある。バベルの塔の競演である。ドバイには800メートルの高層ビルが建てられ、日本でも634メートルのテレビ塔が建築中である。
 上海の人口は1700万だという。プライドの高い富裕な上海市民は軽自動車よりも大型の車を好むというが、クラクションをけたたましく鳴らす大量の車で渋滞する上海の街は、排気ガスと黄砂のようなもので霞んでいる。そして林立する高層ビルのあいだには、まだ「庶民」の汚れた住宅がひしめいている。市内のいたるところに林立する高層マンションには広くて高価なものがあり、日本のに似た不動産屋のガラス窓に貼られた広告を見ると、場所にもよるであろうが、「150平米、400万元(6000万円)」という「物件」もあった。1億円以上のものもある。どういう階層の人が買うのであろうか。
 こうした上海は、「未来都市」を現実化したもののように思える。市の中心と新しい空港を結ぶリニアモーターカーは、時速400キロメートル以上の超高速で走っている。すべてがあわただしく、騒音に満ちている。われわれはこのようにして未来へと急いでいるのであろうか。ブータンように、「近代化」を可能な限り遅らせている国がまだある一方で、とにかく空に向って突き上げ、いたるところで「疾走」している都市がある。

(付記。本稿は、札幌の書肆吉成で、年に三回刊行されている「アフンルパル通信」第9号に載せる予定で執筆したものであるが、版元の都合で同誌の刊行が少し遅れるというので、ブログにアップすることにしたものである。 なお、ついでに記しておくと、昨年末にこのブログに樫村愛子さんの新著の書評を載せた山家歩さんは、当研究所の研究員で、昨年11月に長坂和彦氏との共訳でケンダール、ウィッカム『フーコーを使う』を論叢社から刊行した。)

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(7)

3.終わりに

その死や不在を語る以前に、「大文字の他者」とはそもそも何であるのか?そしてポストを語る前に近代とはそもそも何であるのか?たんに読めていないだけなのかもしれないが『臨床社会学ならこう考える』を読めば読むほど分からなくなってきたのはこの問題である。たんに他の場所で論じたので樫村氏は議論の前提としているだけなのかもしれないが、評者のような無知なる者にはどうもよく呑み込めなかった。
 とても示唆深い論点がいくつも提示されており、その点では頗る刺激的なのであるが、樫村氏が拠り所とする「大文字の他者の不在」なるものがどうにも躓きの石となってしまうのであった。

樫村氏が言うところの「大文字の他者」とは歴史的にどういった水準に位置づけられるのか?それは歴史貫通的な人間存在の本質の水準に位置づけられるべきものなのか?あるいはキリスト教的伝統(「神」=大文字の他者)やそれと結びつく「西欧近代的主体」と対をなすものであるのか?
 前者であるとすれば「大文字の他者」の「不在」や「死」を言うことがそもそもナンセンスとなろう。後者であるとすればあいも変わらず問われなければならないのは、近代的主体とは何か?近代とは如何なる事態であるのか?とりわけ非欧米諸国においてそれらは何である(あるいはあった)のか?ということであろう。そして臨床社会学的には、精神分析学が成立しえた歴史的条件を検討する必要があるのではないだろうか。
第2章で樫村氏は、脱文明化と「大文字の他者の死」を関連付けて論じているアラン・ミレールの議論を参照している。となると後者が樫村氏の立場のようにも思われるがどうなのかは良く分からない。 「大文字の他者の不在」のもたらす諸問題を論じるという構えの中にある樫村氏のラカン派臨床社会学的言説は「不在の過去=楽園」への郷愁のモ(喪)ノ語り以上のものを示しえるのだろうか?門外漢の勝手な印象論に過ぎないが、そうでなくても疎外論的な楽園追放の語りとなりかねないラカン派の議論が、樫村氏にあっては、さらなる喪失の物語としてモ(喪)ノ語られているように見えてしまうのだ。
いずれにしても「政治的なもの」や「社会的なもの」の分析において、重要なのは漠然とした「大文字の他者の欠如」、「大文字の他者の死」なるものを持ち出してきて、現在性を分析することではないだろう。それはむしろ結果=効果に他ならないのだから。
アルチュセール的な観点から言えば、「大文字の他者」とは国家イデオロギー諸装置の結果=効果としてその都度たち現れるものである。社会を分析するに当たっては、「歴史」や「社会」をラカン派臨床社会学的なモ(喪)ノ語りに還元してしまうことではなく、やはり諸装置の分析を愚直に進めることこそ重要なのではないかというのが理解力乏しき評者の差し当たっての読後感であった。

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(6)

2-3.

 樫村氏の議論をさらに辿ろう。   

樫村氏は、「メランコリーが現在の症候としてもつ意味について」次の点を指摘している。すなわち、①メランコリーは自我理想の欠如であり、その条件は現代社会における主要な特性であること②メランコリーが女性と関連付けて論じられるように、主体としての弱さを持つ点で、「多くの「例外」的主体を生み出すグローバル資本主義社会において、やはり主要な特性であること。
 後者の点について、「ここでは精神分析における女性の場所をポストコロニアルやグローバル資本主義における「例外」的主体の場所に近いものとして思考する可能性がある」と指摘した上で、しかしバトラーをはじめとするポストモダンの論客たちが安直にロマン化してしまっているのではないかと述べる(一方で「精神分析は女性をも含めた社会的周辺者の主体化については疎い」と指摘してもいるが)。ポストモダンの論者たちは「同一化と社会化を拒否するメランコリーはいまや資本主義に対する抵抗の拠点」だとしている[160]。

「もちろん同一化と社会化についてはすでに堅固な審級があるわけではないため、彼らは主体化そのものの拒否としてより自覚的に退行する。この気分は先のエーレンベルグの指摘のように、自己コントロールを強制される時代(「主体になれ。しかしマクドナルド化として最小限に」)への反抗と呼応したものである。」[160-161]

そこから樫村氏は、バトラーをやっつける前に、その前振りとしてエーレンベルグの誤りを批判する。曰く、
「それは、エーレンベルグがアディクションに見られる強迫性を投影的読解によって欝とは逆向きのものとして考えている(病気としてのアディクションではなく、マクドナルド化的主体のモチベーションへの呼応と同じレベルで、欝に対する躁的防衛として読み込む)ことの誤りと類似のものであると考えられる。」[165]

「アディクションはこのようにアディクション者を支えるが、それはエーレンベルグが考えるようにモチベーションを要求するグローバル資本主義における強迫的代理行為(現実的な目標を失ったただの運動が代理対象を求めて自家撞着的に空回りしている)ではなく、資本主義社会がフレキシビリティを求めるがゆえに安定した自我理想およびその基礎となる母の支えを欠いた主体がそのつど自らを支える、むしろ強迫に対抗する補完的行為(安定した他者をそのつど行為の中で即自に人工的に作り出し、対象そのものは排除)なのである。」[166]  

しかし、こうした指摘は、エーレンベルグの著作が欝にかんする言説の社会史であることからすれ違うことになっている。要するに、樫村氏はここでも、「ラカン派精神分析学的観点から見ると君の解釈は違うのだよ」と述べているわけであるが、エーレンベルグのほうはむしろ精神分析学的言説が後退していったことと、欝が時代病となっていったことのつながりの方に関心を寄せているからである。エーレンベルグは言う。

「1800年において病理的個人の問題は狂気―譫妄の極を伴って姿を現す。1900年においてこの問題は、罪悪感のジレンマ、それから自らを解放しようという試みによって神経症となった人間を引き裂いたジレンマによって変質する。2000年において個人の病理は、父達の掟、外的な規則への服従や順応のシステム、から解放された個人の責任の病理である。欝とアディクションは至高の個人(主権的個人sujet souvrain)の表裏をなしている(後略)」[292]  

樫村氏自身も述べているように、欝の流行は、坑欝剤の進化や普及と密接に結びついている。エーレンベルグは、こうした欝の流行が、精神医学における、病の診断の後退ないし危機をもたらしていると指摘している。すなわち、まず鬱病と診断し、そして坑欝剤を処方するというよりも、坑欝剤が効くから欝と見做すという転倒が生じているという。

似たような指摘は、たとえば、『坑うつ薬の時代:うつ病治療の光と影』(星和書店)のなかでデーヴィッド・ヒーリーが行っている。

「「坑うつ薬」が最初に「発見」あるいは「発明」された当時、うつ病は比較的稀なものと考えられていた。(中略)実のところある意味では、薬物により治療できるうつ病という概念が、坑うつ薬という概念とともに発見されなければならなかった。」[5]  

臨床社会学者として樫村氏が行わなければならなかったのは、たんにラカン派の知見の変わることのない正しさを主張することではなく、こうした「坑うつ薬」の制覇と、アメリカを中心とする、精神分析の後退との連関を、あいまいな「マクドナルド化」、「再帰化」、「ポストモダン」、「大文字の父の死」、といった符丁でもっともらしくモノ語って済ますことでもなく、エーレンベルグのようにきちんと分析することであったのではないか。
 そうしたことを行わずに次のように言うことは、当の樫村氏がバトラーについて批判して述べたメランコリー概念のロマン化をはたしてどれだけ免れているのだろうか?

「ラカンはメランコリー者は象徴界にいるとした。メランコリーにおいては自我の錯覚的性質が暴かれ、同一性の偽の保証がひっくり返され、また分析の過程の中でメランコリー的状態が起こることが指摘されている。この意味で、メランコリーは女性がそうであるように、主体の位置としては、再帰的主体への可能性を最も強くもっている。」[170]

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(5)

2-2.

 エーレンベルグによれば、うつやアディクションの流行は、性別や階級のような「分類」(classe)に応じてあてがわれた禁止への服従を促すことによって行動を管理する「規律的モデル」から自己責任に基づく管理のモデルへのシフト、と結びついている。これは「分類」間の葛藤を管理するような民主主義社会のありかたから自己責任的主体を前提とする民主主義社会の管理へのシフトと軌を一にしているとされる。

エーレンベルグはこうしたシフトの転機となったのが1960年代であり、このとき言葉の正確な意味での「解放」がなされたのだという。この解放をめぐっては次のような語りがなされることが多い。

「人間を、大文字の君主(Prince)の従順な臣民(sujet)ではなく、自分自身の所有者とする近代の政治的理想が、生活のあらゆる面に拡張した。自分自身にしか似ていない、至高の個人(主権的個人sujet suvraine)は、ニーチェがその到来を告げたように、これ以後、生の共通の形式となった。」[14]

 しかし、エーレンベルグは、まさしくこうしたステレオタイプの考え(生存の個人化と公的生活の衰退)こそ誤解の源であるという。それは個人主義的な幻想に過ぎない。彼が強調するところでは、共和制の共通の準拠枠が、「禁止と許されたものの分割」から「可能なものと不可能なもの」へと変わったのである。

「人(personne)は外部の秩序にしたがって行動する(すなわち法への順応)の代わりに、自分の内的なばねを支えとし、自身の精神的な能力を頼りにしなければならない。今日では、企画、モチベーション、コミュニケーションが規範である。(中略)理想的個人の尺度は、従順さよりもイニチアシブである。」[15-16]

 ここで注意すべきなのは、エーレンベルグは、「大文字の他者の死」という樫村の主張とはややニュアンスの異なることを述べている点である。エーレンベルグは、「大文字の他者」がなくなって、諸個人が「マクドナルド化」したから欝がホモ・サケルとして広まったと述べているわけではない。
すなわち「大文字の主体の不在」というモ(喪)ノ語りがなされているわけではない。個人のイニチアシブや、可能なものと不可能なものの分割が、「共通の規範」となったことの代償として欝の広がりが見られるのだとしているのである(過去の分割の元ではまた別の代償があった)。先に見た、葛藤の後退はこうした「共通の規範」の転換に関わっているのである。

1970年代以降の時代の病として欝の隣人である、アディクションがある。これについてエーレンベルグは言う。

「精神科医はこう教える。アディクションは欝と闘う手段であると。すなわちアディクションは強迫的な行動によってこの紛争(conflits葛藤)を研ぎ澄ませるのであると。(中略)  アディクションは自己が自己を完全に捕獲することの不可能性を体現している。ドラッグ使用者は、自分自身の奴隷である。というのも彼はある製品、ある行動、ある人物に依存しているからである。主体を作る能力、これはまた社会を作る能力ともなる、が問題とされているのである。彼は法との「不可能な」関係の中に身を置く。(中略)欝が見出しえない主体の物語であるとすれば、アディクションは失われた主体へのノスタルジーである。」[19]

 ところで、こうした薬物へのアディクションの位置づけは、ドラッグの個人的使用に対する「寛容化」が進んでいることを前提としている点で、すこぶる西欧的であると言える。 ここで誰もが理解できることとして、のりP事件や押尾事件の大馬鹿騒ぎを見れば分かるように、日本では、アディクションについて、到底そんなことを言えはしないということがある。 日本ではドラッグ使用は、世論によっても取り締まり当局によっても、なお凶悪犯罪のごときものと見なされているのである(その一方で、ギャンブルや買い物、インターネット等々への「(薬物なき)依存」が語られるようになっている)。フランス社会を対象としているエーレンベルグの言葉をそのまま流用して、日本においてドラッグ問題について、禁止―許容が不可能―可能に置き換わったと言うことはできないのである。
合法的なものへのアディクションと非合法なものへのアディクションの違いは執拗に厳格に線引きされているし、それを前提として管理政策が行われている。とはいえこのことは単純に日本社会には「大文字の他者」による禁止が残存しているということを意味しているわけでもない。
たとえば児童ポルノ規制はずっとゆるい。ヨッパライにもまだまだ寛容だ。また人種差別についても「寛容」だ。国際的非難を受けているので児童ポルノなどは今後どうなるかは分からないが。

いずれにしても興味深いのは、アディクション問題を扱っていながら、樫村氏が日本におけるドラッグ問題とフランスにおけるそれを単純に一緒くたにして論じることはできないということにとんと無頓着な点である。そうしたことはラカン派的精神分析学的臨床社会学的にはどうでもよいことなのであろうか?はたまた「大文字の他者の死」ゆえに日本ではドラッグ取締りがあいも変わらず厳格でますます強化されているのだろうか?
 ここではドラッグ問題にこれ以上踏み込むことはしないが、ドラッグ問題の歴史や日本の現状に関わる次元は樫村の議論においては捨象されている。いわばそれを捨象することによって「大文字の他者の不在」後の世界が語られているのである。  

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月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。

1月13日(水)15時より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンの言語思想」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(4)

2.うつとアディクションと倒錯と「大文字の他者の死」?    

2-1.  

第5章「ポストモダンにおけるうつと倒錯」ではアディクションやメランコリー、倒錯といったことが「ラカン派臨床社会学的」に扱われており、評者の関心分野である依存・アディクション問題に関わるところであるのでまず読んだが、悲しいかな、はっきり言って、よく理解できないことが多かった。 
 それゆえ己の無知を呪いつつこの章の議論の流れを多少丁寧に辿っていきたいが、取り上げる対象はうつとアディクションに限定したい。その理由は鬱とアディクションをめぐる樫村氏の議論を検討することで、この章の議論に関する評者の素朴な疑問は十分明確になるからである。
この章の冒頭ではベナサヤグの「われわれはスピノザのいう『悲しい情念』に支配された時代を生きている」という言葉への参照がなされ、議論が始められている。

「現代社会における理想や幻想の解体は、現実認識の進化によって自己や世界をあるがままに必然的なものとして冷静に受容することと並行して起こっており、「スピノザ的叡智の態度である、義務論の存在論への還元、禁止の合理的知への還元」として現れている。」[148]

 のっけからこうこられると、どうも丸山真男の「現実主義の陥穽」あたりが思い出されてならないが、それは兎も角として、樫村氏は「社会学ではこのようなスピノザ的態度が社会の中に浸透している現象を、「個人化」「再帰化」「医療化」「心理学化」などの用語で記述している」とする([149])。曰く。
 
「人と人を結合していた社会的倫理は「個人化」の時代では個人を拘束するものではなくなり、人は人の弱さを理解し自身の外傷は自身のセラピーによってケアするしかない。自分をいたずらに傷つけた彼の弱さは彼の心理的困難から来ているのだから。こうしてどこにも悪人はおらず、どこにも不幸を訴える相手またそれを保証する大文字の他者は見えなくなっている。今あえて不幸を訴え大文字の他者を強く希求すれば、そんなことをする人はパラノイアとなってしまう(さらには犯罪者か)。」[149]  

樫村氏は、再帰化・個人化は一部のエリートにのみ可能であり、「現在のようにグローバル資本主義が次々に「周辺者」を生みだす社会では、「例外」が多数者となっていく」とする。そして規律社会から監視社会へという転換(ポストフーコー風の)に言及した上で、「このような監視権力のもとで生産され、生き延びる多数の主体は「マクドナルド化した主体」である」とする。
 すなわち再帰化がマクドナルド化に簒奪されているというのである。またもや「マクドナルド化」だが、ここで言われている「マクドナルド化」とは次のようなものだ。

「「自分探し」と「癒し願望」(さらには心理学ブーム)は、社会規範や制度に頼れなくなった(「個人化」した)主体により現在求められていることであり、それは精神分析にとっては再帰的主体の可能性の条件であるのに、実質的には葛藤の性急な解消を求める「マクドナルド化」へと回収されている。私の精神分析の授業でも、学生が恋人ができるか教えて欲しい(=占って欲しい)といってきたことがあった。」[151]  

ここでは「葛藤の性急な解決」が「マクドナルド化」と呼ばれているのである。精神分析学にあって葛藤は文明人の宿命の如きものとして捉えられていたが、それが別様の態度(すなわち性急な解決)で人々に扱われるようになっているのだ。こうした状況から精神分析が明らかにできることとして次の二つが指摘されている。
マクドナルド化を生みだす社会状況は主体を危機に陥れるので再帰的主体化は困難である。 マクドナルド的主体は「動物化」(東浩紀)した主体や多重人格ではなく、「ポストモダン的ヒステリー」(ジジェク、斉藤環)である。これは単なる退行ではなく、神経症化―文明化を前提にした脱文明化(=大文字の他者の死)という高次の水準で起こっている。
 興味深いのはここでは「大文字の他者」は「文明化」と結び付けられている点である。 だがそれは差し当たって措くとして脱文明化がどう高次なのかについては、ジジェクを参照しつつ、リビドー構造の三つの形態として、プロテスタント的倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的なナルシシスト」があるとされている。

「最初の二者は、その底に自我理想を保持しているが、「病的ナルシシスト」では、象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、いかに成功するかの規則、他者を操るためのゲームの規則だけをしっているとする」[318]。

 また、「大文字の他者」の死がもたらす困難の別の例として、スピノザ主義的な善悪の棄却による善の狂信化=根源悪化や、他者との関係の困難による他者恐怖やその一つの帰結としての「新人種主義」があげられている。
そして樫村氏は、再びジジェクに依拠しながら、「スピノザ的認識がマクドナルド的主体の下で不断の同一化の道具(命令)として受けとられるしかた」が「中立的に見える知が権力(主人のシニフィアン)を隠しもち、大学の言説が超自我として機能している」と指摘し、その上で、次のように述べる。

「マクドナルド化の時代において、科学的言説はこうして超自我化した大学の言説として、主人の言説の欠如を埋めて機能する。知と権力を同一視するフーコーの生権力論は大学の言説の超自我化をこうして良く説明するが、そのすり替えという操作は記述できていない。  

「メランコリー」は、マクドナルド化すなわち不断の換愈的な同一化の運動からリタイアし、または最初から排除され、「倒錯」はマクドナルド的主体の外傷に対してオルタナティブな外傷との関係を構築する。「メランコリー」は愛され、「倒錯者」は嫌悪されている。がそれらはホモ・サケルの両面でしかない。」[157]    

実のところ評者には樫村氏の言う再帰性の意味するところ(とりわけ再帰性と葛藤の関係)があまり良くわからないのであるが、その上に不意にホモ・サケルにも言及され、議論がかなりアクロバティックなので追いかけるのが大変である。
 フーコーが「説明できていない」というのは要は、ラカン派精神分析学的説明を受け入れていないという程度のことであるようなので差し当たってここでは措き、ホモ・サケルを問題としたい。

ジジェクに依拠しながら樫村氏は「隣人としての近すぎる距離はコントロールできず、ジジェクのいうように、理解不能な犯罪者も受容可能なヒューマニズム的視線の同一化の対象となる難民も、生権力の同じ対象としての「ホモサケル」として同定される、そして彼らは外傷の異なる加工形式において人々を魅了する」としている。  

ホモ・サケルとはアガンベンによれば主権と対となる殺害可能な人々だった(『ホモ・サケル』以文社、2003年)。
 アガンベンはシュミットの主権に関する有名な定義「主権者とは例外状態において決定を行う者」を踏まえつつ、古代帝政ローマにおける主権の成立期から今日に至る例外状態と主権の関係の系譜を描き出す。
彼の診断によれば、今日主権的権力にとっての例外状態の範例となっているのは収容所である。アガンベンはフーコーが収容所を問題とせず監獄を問題としたことを批判する。というのも法の中に一領域として位置づけられている監獄の系譜学では主権のありようと結びついた「例外状態」の始原には遡りえないからである。
収容所へといたる、主権にとっての例外状態の原初に見出されるのはホモ・サケルと呼ばれる特異な性格(「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生、それが聖なる生である」という)を負わされた人間たちである。ホモ・サケルから収容所へといたる系譜をたどることでアガンベンは、西洋の政治が、ホモ・サケルをその原初形態とする、「剥き出しの生」(=ゾーエでもビオスでもない、文化と自然、人間と獣の間の不分明な生のありよう)の排除によって自らを構成してきたことを明らかにしようとする。
アガンベンによれば、生への配慮を行う生権力的な要素とはそもそも主権の本源的な権能に他ならないのである。

「剥き出しの生を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしているということである。さらに言えば、生政治的な身体を生産することとは主権権力の本来の権能なのである。」[14]
 
 『ホモサケル』連作においてアガンベンは確かに今日における生政治の帯びるある特徴をそれなりに説得的に示すことに成功している。
しかし、アガンベンの議論では生権力の問題が主権へと回収されてしまうためにフーコーがこだわり続けた権力の重層性の問題が見過ごされてしまうことになる。それゆえ、アガンベンによるホモ・サケルの系譜学は、アドルノたちによる『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)における野蛮へといたる啓蒙の頽落のごとく、生政治の必然的な顛末とされてしまうのである。評者の考えでは、現在性を捉えるには、アガンベンの議論を権力の重層性の中に今一度位置づけなおす必要がある。

フーコーの生権力論の理解としてアガンベンの考え自体にもこのような見過ごせない飛躍があるのだが、樫村=ジジェクの議論はそれにもまして短絡化された議論ではないだろうか。メランコリーや倒錯者がホモ・サケルであるとは一体どういうことであるのだろうか?
 性犯罪者などが容赦のない排除の対象とされているのは確かである(しかも痴漢取り締まりは数多くの冤罪を作り出している)としても「欝はこころの風邪」などということが語られる今日、それがアガンベンの言うようなホモ・サケルと同一視できるとは思われない。ホモ・サケルのインフレーションを押し進める前に、欝の統治がどのように行われているのかをもっとつぶさに見る必要があるのではないだろうか。
またアガンベンの言う主権と樫村氏の言う「大文字の他者」はどういった関係にあるのだろうか?興味深いテーマであるが樫村氏が論じているわけではないのでここではこれ以上突き詰めないこととしたい。ただし、主権論の確立した絶対王政期が「文明化」を押し進めた時期でもあったこと、は「大文字の他者」の「君臨」や「不在」に関わる諸問題を考える上で頗る重要であると評者は考えている(がこれは別の機会に論じたい)。
ところで、ポストモダンをめぐる議論についてしばしば感じることであるが、どうも歴史的なパースペクティヴを欠いている議論が多いように思われてしまうのだ。
そして、ここでの樫村氏の議論はその典型なのではと強く感じずにはいられないのである。 そして、そもそもモダンの捉え方が一面的なのではないだろうか?という疑念も湧き出て仕方がない。これは自分が歴史学の素人であることを省みずの放言であって、自戒としたいことなのでもあるが。

そもそもポスト(post)という感覚において歴史を捉える考え方というのは度し難くモダンなものだろう。しかし、こうした問題もここでは措いて、第5章における樫村氏の議論をさらに辿ることとしよう。

「「マクドナルド化した主体がポストモダン社会に適応した主体であるとすれば、そこからこぼれ落ちる例外的生が「メランコリー」である。社会学者のエーレンベルグは、ディシプリン、コンフリクト、罪悪感などの特性が見られる神経症の時代から、責任と行動、不十分さと恥といった特性が見られる欝の時代への現在の移行を指摘する。彼は欝とアディクションは、それぞれ未来がなく、モチベーションを求める時代の病であるという。彼によれば欝とアディクションのそれぞれに対応する、「欠損する人間」と「強迫的な人間」はヤヌスの双面である。精神病における欝の隆盛はプロザックのような強力な坑欝剤の出現と期を共にしており、それは、欝が精神分析の対象から離れて「気分の病」として操作されていくことを意味していた。さらに気分の病気は、モチベーションをもたないことによる「行動不能」の病気として社会的に読まれていく。精神分析的に見れば両者のどちらにおいても否定されているのは対象と対象関係である。そして、すべてを関係を持たずに即食べつくすように内化してしまうメランコリーと、即自的な享楽の対象がナルシシズム的な他者の幻影を可能にする(なので実際にはそれは「要求の対象」である)アディクション(後に詳しく見る)のどちらでも他者は否定されている。」[158]  

 ここで言及されている『自己であることの疲労』(La Fatigue d'etre soi:depression et societe, Poches, 1998)におけるエーレンベルグの議論はもう少し興味深いものだ(評者には異論もあるが)。それゆえ以下ではエーレンベルグの『自己であることの疲労』における議論をしばらくフォローしたい。

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(3)

1-2.

ともあれ、「政治のマクドナルド化」の背景に樫村氏は、「大文字の他者の不在」を見る。そして、ジジェクに言及しながら言う。

「主体がナルシズム的になればなるほど、主体はますます激しく大文字の主体を責め立て、その結果として大文字の他者に依存する自分の存在を愁訴する。「不平の文化」とは現代版のヒステリー症のことであり、その基本的特徴は、大文字の他者へ向けて叫び声をあげ、社会的不利益を被っているマイノリティに介入の手を差し伸べ、物事の道理をとりもどすように訴える。  

また大文字の他者なき世界のパラドックスは、このように、大文字の他者と呼びうる何かが、単なる象徴的フィクションではなく、「現実的なもの」のさなかに実際に存在していることの確信を追い求めようとする現象であると指摘する。それは一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存を生む。」[56]

「眼前で上演されているのは、新たな差異による利益を得ようとする人々による利益政治と、大文字の他者を代補しようとするテクノクラートの透明性へのパラノイア的欲望(マーケティング的世論などを生み出していく。社会のマクドナルド化を帰結する)、および自分たちが蚊帳の外に置かれているのではないかと「不平」を表明するパラノイア的メディアとオーディエンス(それはメディアそのものにも向かう)の欲望と消費なのである。」[57]

 この解釈それ自体はなかなか興味深いものである。「大文字の他者」の不在が、むしろそれへの絶望的な渇望をもたらす。それが一方でのシニシズム、他方でのパラノイア的な幻想をもたらしている。
こうした議論は、ネットの中でそこかしこにたむろし、跋扈しているいわゆる「ネットウヨク」あたりの分析にお手軽に使えそうにも思われる。
ちょっとしたニュースにも日本に対する中韓および売国奴の卑劣な陰謀を勘ぐり、その一方で、政治ニュースをあくまでもネタとして「シニカルに」消費しようとするネットウヨクのありようとは、「一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存」と見えなくはない。
たとえば、最近知ったことだが、ネットの中では「必死だな」というのが他人を揶揄する言葉として広く用いられているらしい。こうした言葉を用いる人々は自らが「必死でない」こと、すなわち対象に対して自らがシニカルであることを示すことに「必死に」なっている、と言えるかもしれない。このように一定の範囲でメディアに関する分析に使えそうな考えではある。 だが、こうした即席の「ネットウヨク」分析(のヨタ話)は兎も角として、 樫村氏は、ジジェクの議論に依拠することに満足するのではなく、ジジェクの問題点(=ランシエール的な政治の美学への「無理解」)を指摘し、ジジェク的な議論を踏み越えていこうとする。

「ジジェクにおいて、現実界は生体から切り離され、構造化された不在となり、最終的には空疎な空無となる。彼において現実界は心的現象として遡及的に生み出され、その構成の外傷的な瞬間は、社会的対立として外部に投影されるため、死の欲動の出現を代表象する。それゆえ彼にとって、現実界の空無を満たす「崇高な対象」は、魅了すると同時に嫌悪感を引き起こすものであり、ラカンが記述する「快感を与えるシニフィアンの力」を無視する。  

ジジェクは、この意味で、ランシエールの政治の美学を意味することはない。ランシエールの政治の美学は、美学が人々に与える力についての記述だからである。テレビと結合したポストモダン的ポピュリズムの隘路において現出する政治的なものをランシエールのいう政治の美学がどうつかまえうるかについて、ここで簡単に述べることはできないが、例えば、ドゥルーズが述べたように、強迫的な(転移)コミュニケーションの回路を断ち、非=コミュニケーション的な空洞や断続器を作るという逆説的な方法もその一つである。」[64]

 しかし、こう言われてもはたと困ってしまうほかない。というのも、このドゥルーズ的方法が現代の日本のメディア状況においてどういったことであるのか、そして言わずと知れた精神分析学批判の書である『アンチオイディプス』の著者でもあるドゥルーズの議論が樫村のラカン派精神分析学的臨床社会学の立場とどう切り結ぶのかについての言明もないからである。 樫村氏の『ネオリベの精神分析』を読めという注があるのみである(というわけでやはり読まないとダメらしいのでそのうち読みたい)。
それは兎も角として、こうしたことを述べた上で樫村氏は、公論としての「輿論」と私情としての「世論」が混在してしまったのが現在の日本の状況だという佐藤卓巳の議論に言及してこの章の議論をフィニッシュする。

 ここまでの議論を暴力的にまとめれば要するに
大文字の他者が「機能不全」あるいは「不在」になった=ポストモダン的状況 →大文字の他者を強迫的に求める→(1)大文字への不信・シニシズム(2)他者の他者を勘ぐる→政治のマクドナルド化・ポストフォーディズム化=私情と公論の混在 ということになるらしい。
 繰り返しになるがこうした議論が政治をめぐるメディアやオーディエンスの状況をある程度まで浮き彫りにしてくれるものであるのは確かだ。

 しかし、この章で「ラカン派的臨床社会学がこう考えたこと」にかんする評者の素朴な疑問としては以下の点がある。

①樫村氏はポストモダン=大文字の他者の機能不全としているがこの種の「ポスト」な主張を前に留保したくなるのは、例えばデュルケムの『自殺論』をはじめとしてこうした主張が際限なく繰り返されてきたのが近代だったのではないかということがあるからだ。
 アノミーもまた何らかの仕方での大文字の他者の機能不全だったのだとすれば、「大文字の他者」の失調や不在は何もポストモダンにだけ顕著なものではないだろう。
もちろん、ギデンズたちとともに、近代のラディカル化として「後期近代」を捉えることはできるだろう(評者は、いずれにしても単線的に歴史を捉える点で「ポストモダン」論と変わりはない、こうした考えにも懐疑的だがそのことはここでは措く)。
しかし、その際に「ポストモダン」はあまり適した言葉ではないように思われる。そして、いずれにしても樫村氏の言うところの今日の「ポストモダン的」な「大文字の他者の機能不全」、あるいは「大文字の他者の不在」とはどのような種別的な特徴を持っているのか?が問われる必要があろう。
もちろん予想できる答えはある。ポストモダンとは「大文字の他者」の危機が全面化・前面化した時代だ、というわけである。だがそうした場合、例えばエコロジーや平和運動、そして人権といった概念が、そして「欧米的な」ライフスタイルなどが歴史上かつてない規模で人々の間に広く共有されるようになっている事態は一体どう考えることができるのだろうか。
もちろんそうしたグローバルな思潮は場所やそこでの人々の慣習的な生活とはかなりの程度切れたものである。とはいえ、国民国家のイデオロギーにしても国民国家による時空間の編成と無縁で存在していたわけではない。そのことはラカン派臨床社会学的にはどう理論化されているのだろうか。
②「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論にかんする疑問は、例えばマルクスの『ルイボナパルト』における議論などと関連する、民主主義における代表=表象の問題(それが根源的に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題)とも密接に結びつくこととなる。 
改めて言うまでもなく、普通選挙権による代議制制度それ自体が「世論=民意」を汲み取る(それを製造する)装置に他ならない。
そしてこれまた改めて言うまでもなくそれはせいぜい20世紀になって一般化してきた制度に他ならない。それ以前には(またその後もこれ以外にも)別の諸装置が存在してきたのである。 このことは、これまた改めて言うまでもないが、国民国家の下での国民の統合の問題と密接に関連している。どうも樫村氏の言う「大文字の他者」とは国民国家の政治的・経済的・社会的・文化的統合を支える「掟」なるものを言い換えているに過ぎないようにも見えてならないのだ。代議制の問題は、国民の統治、あるいは国民主体の生産と再生産の問題と不可分に結びついている。
こうした観点から樫村氏の議論について感じずにいられないのは、代議制民主主義がその中に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題と、樫村氏が言及する「大文字の他者」に纏わる諸問題はどう結びついているのであろうか、という疑問である。 もちろんこの疑問への答えとしては、労使の階級的対立あるいは妥協を前提とした代議制民主主義のシステムが、ポストモダン的な個人化の進む中で、失調している、という答えが浮かぶ。だが、であったとしても、こうしたことと「大文字の他者」がどう関わっているのかあまり良くわからないのだ。諸主体を階級に属するものとしてしかるべく配置していた掟が「大文字の他者」なのであろうか?
代議制の危機は、ボナパルティズムやファシズムの問題を取り上げるまでもなく、今に始まったことではない。むしろこう言ってよければ、代議制民主主義とは、その当初から自らの危機を完全には悪魔祓いすることができない制度として存続してきたのである。
したがって、今までのあった危機と現在のそれとの比較を行うことが重要となるし、そもそも代議制システムと「大文字の他者」はどういう関係にあるのかを明確にする必要もあろう。その先にこそ展望も開かれうるのではないか。
そうしたことがなされなければ「大文字の主体の不在」にかんするラカン派臨床社会学的言説は、ネオリベ的主体の貧しさを突き抜けるよりは、漠然と「大文字の主体」への郷愁を語るものとして機能してしまうのではないだろうか?
③また評者の見たところ、ここでの樫村氏のラカン派臨床社会学的議論のより大きな問題点は、日本における戦後政治の問題性に一切切り込んでいない点にある。
近年の代議制の危機そのものは先進諸国に遍く見られるものであったとしても、日本におけるその独自のあり方もまた問われる必要があるはずだ。とりわけ日本の場合樫村氏の言うところの「政治のマクドナルド化」が従来型の自民党政治の断末魔の救急延命措置と結びつく形で導入されてきた経過があるのだからそれを問わなければ不十分と言う他ないだろう。
こうした観点から、小泉以降の自民党の総理たちがスペクタクルを提供しそこなってきたことの意味を考える必要があろう(それは2008年の時点でもある程度までは露になっていたはずだ)。

 また不思議なことではあるが「大文字の他者のポストモダン的不在」と対をなすはずの、戦後日本の「大文字の他者の現前」とは一体何だったのか?
ここでは何も語られていないのである(『ネオリベ精神分析』には書いてあるのかもしれないが)。自民党政治の存続を支えてきたものが戦後日本の「大文字の他者」なのだろうか?

 メディアの技術的発展ばかりではなく、一定の経済成長を前提とした利権の分配を基本とした自民党政治の失調が現代の日本におけるメディア政治やポピュリズムと密接に結びついているはずだ。それはアメリカの庇護の下で9条を保持したままでの冷戦遂行がなされた冷戦体制からなお流動的なポスト冷戦体制(もちろん東アジアでは冷戦が終結したわけではないがかつてと同じ形で存続しているわけでもないのでここでは「ポスト」という言葉を用いる)への移行とも結びついているだろう。

しかし、少なくともここでの樫村氏の「ラカン派臨床社会学的モノ語り」においては、そうしたことには触れられていない。また低成長時代を向かえながらグローバルな経済競争に曝され、人口減少や少子高齢化、といった難問を抱え、さらに財政悪化のなかで、既存の自民党的土建屋ケインズ主義を転換し、環境問題などにも対応しなければならないといった困難に直面しているなかでのポピュリズムやメディア政治とは一体何であるのかというこの国が直面している問題には触れられていないのであった。
 というわけでそうした一切合財が「大文字の他者の不在」という符丁の下に語られるとき、そうした「ラカン派臨床社会学的モノ語り」がなされること自体が一体何をしているのかということがどうにも気になってならないのである。
やや辛辣な言い方になり恐縮であるのだが、精神分析学的モノ語りによるメディア分析としては面白い部分もあるが、つまるところ、「政治的なるもの」に関わる分析としては、樫村氏はほとんど何も行っていないに等しいのではないだろうか。「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論においては国家諸装置の分析がほとんど不在である。それゆえ、それはラクラウなどへの言及にもかかわらず、頗る非政治的な文化主義的ポストモダン談義にしかなっていないように思われる。

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