宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

アルジェリアの閃光

 去る1月下旬にアルジェリアを訪れた。アルジェリアは1962年に独立した若い国である。私は若いときにジュール・ロワの『アルジェリア戦争』(鈴木道彦訳、岩波新書、1961)を熱中して読んだが、その時はまだアルジェリアという国はなかった。
 アルジェリアについての私の予備知識は、この『アルジェリア戦争』と川田順造の『マグレブ紀行』(中公新書、1971)、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが若いときに書いた『アルジェリアの社会学』(未訳、1958)の三冊を主な情報源とするものに過ぎなかった。海外旅行者がよく使う「地球の歩き方」にいまのところアルジェリア篇はなく、オーストラリアで発行されているガイドブック「ロンリー・プラネット」の「アルジェリア」(2007年)を買ってきて拾い読みをした。活字が小さくて読みにくく、また添えられている地図もきわめてお粗末だが、歴史のことに詳しいのでかなり参考になった。
 アルジェリアで感じたのは、この国がたいへん重層的な国だということであった。カルタゴのあとの古代ローマ帝国が建設した、むやみに広い都市の遺跡があちこちに残っている。それはこの国が、リビアやチュニジアと同じようにヨーロッパとつながっていて、「地中海世界」に属していることを示している。しかし他方ではアラブ人の国であり、またオスマントルコの支配下にあったことは、当然ながらよくわかった。通貨の単位はディナールで、昨年訪れたセルビアと同じである。
 フランスがアルジェリアの植民地化を始めたのは1830年からである。その後の100年以上の時間のなかで、アルジェリアの「フランス化」が非常に進んでいったこともわかった。首都アルジェには巨大なノートルダム寺院があり、大規模な修理が進行中であった。アルジェリアがフランスに散々痛めつけられたことは、フランスとアフリカの情勢に少しでも関心を持つ人なら知っているはずである。それにもかかわらずアルジェリアではフランス語が通用している。フランスパンを買ったひとたちが街を歩いている。
 アルジェリアで感じたことは、中国の大きな影響である。アルジェの空港は、旧正月(春節)で帰省しようとする中国人労働者が「占拠」しているような状態だった。あちこちに「中国建設」という大きな看板があった。街を歩くと、「ニーハオ」と挨拶される。アルジェリア人は私を中国人だと思っているのである。それはアルジェリアのいたるところで中国人が活躍していることを示すものであった。
 アルジェリアではフランス語の新聞を買って読んでいたが、日本でもインターネットで何紙かを読むことができる。すべてのページを読める新聞もある。植民地支配が終わろうとするころ、フランスはサハラ砂漠で核実験を行っている。日本の新聞にも、そのとき「兵士が爆心地まで歩かされた」といった記事があるが、これはフランスの新聞「パリジャン」の記事をまとめたものであった。その「兵士」はアルジェリア人ではなかったのか。
(2010年2月19日)

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