宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

戦後日本社会の出自…(2)

かくのごとき日本社会の主体性のなさに、戦後、日本人は一体何をやって、どういうアイデンティティを確立しようとしたのか、根本的な疑問が湧く。またそれに答えてくれるのが、日独伊の憲法制定の比較検討を通じて戦後社会の成立(過程)の根本的違いを立証した石田憲氏の上記の著書である。この著作は、私の読解では戦後日本社会は憲法制定の段階で「既に勝負があった」と思わせるところがあり、旧日本社会党はどんなに平和主義を唱えても「天皇制」と根っこが切れてないから所詮それは中途半端にならざるを得なかったと感得させてくれる。 書評という形で全篇を紹介することが趣旨ではないので、また政治史の諸事実と歴史認識の方法論には詳しくないので、ここでは自分の問題関心にひきつけて著書から学んだ論点を中心に紹介することにしたい。
戦後の「保守主義」のイデオロギーの継承者であるデ・ガスペリ、アデナウワー、吉田茂の共通性(旧体制における「周辺」政治家、占領国との「特権的対話者」、戦後新体制を形成した現実主義者)を基礎に、憲法制定過程における彼らの言説(言動)に着目し、結果として生み出される憲法の特徴の差異を分析している。それによってわかることは、憲法制定に伴う社会の形成の出自がイタリア・ドイツ、日本の両者では決定的に異なることである。著者は比較政治の研究者だからその手法は当然といえば当然だが、その狙いはあくまでも、憲法がもつ実定法を越える上位概念としての規範性から憲法制定のあり方を捉えるとき、その中に現出する日本社会の構造的(主体的)弱さを抉剔することに置かれているように思える。
その特徴の違いを言えば、イタリア-社会権(労働権)、ドイツ-基本権、日本-平和主義である。イタリアでは「多くの政治家が社会権を重視したことから、新憲法の第1条は、共和国における「社会性」の基礎が労働にあることを明示して、労働の価値と権利を民主主義の根本にすえている。社会経済構造改革に力点を置く憲法が形成された理由には、「ファシズムの根は暴力だけに偏在したのではなく、社会的不平等を永続させた現実と意志にこそあった」という大政党間の共通認識があげられる」(石田)。ドイツでは「ナチ体制の強制的同質化が諸個人を圧殺したという過去を省みて、人間の存在や本性に由来する基本権が国家に優越すると考えられ始めた。基本権はとりわけナチズムの抑圧体制と徹底的に対決する機能をもつと期待された」(同)。日本では「独伊両国のように公平と平等をめぐる要求が憲法の主要課題として直接に提起されることはなかった。そもそも象徴天皇制にさえ違和感を示す為政者たちは社会経済構造の根本的改変を「国体」に反することとして敵視しがちになる。たしかに、「経済民主化」と非軍事化が連動する状況も存在したが、それは政治・経済・社会体制の改革というよりも、あくまで軍国主義に代わって平和主義が相対的に浮上したという側面が強かった」(同 傍線:吉沢)。
憲法制定の段階での日本と独伊両国と最も大きな違いは「敗戦直後の日本政府が主として政体の連続性にしか関心をもたず、情報を秘匿し、世論に訴えることもせず、選挙での争点化を恐れていた点であった」(同 傍線:吉沢)。問題は上記の『昭和天皇・マッカーサー会見』に関して言及した次の点にある。「[…]日本の場合は独占的管理を続けようとしたアメリカという単独の国際的要因と、国内において「国体護持」という文脈で形成された一つの政治勢力が組み合わさって、特異的な行動様式を作り出した。[…]単一の占領と一つの政治勢力はマッカーサー一人と昭和天皇一人に収斂していく様相を呈して」(同)いく。ただしその際「天皇制の維持という国内の至上目的は、戦勝国と近隣諸国から理解されにくい。このため、戦前との断絶を内外に示す必要から、性急に憲法改正が先行したのである」(同 傍線:吉沢)。ここに逆説的に第9条の「平和主義」が生まれる要因があった。著者の主張の白眉はこの逆説的な構造を解き明かしたところにある。つまり「日本の為政者は、政体の継続を社会権や基本権に優先させた。審議段階の公開の討議は「国体護持」の至上性を露呈させた反面、早期可決に向けて占領当局との協力が促進され、憲法草案のラディカルな内容も是認する結果をもたらした。逆説的な形で象徴天皇制と平和主義とセットになったことにより、抽象的であるにせよ軍国主義からの開放が闡明され、外へ向けてのバランスをかろうじて確保したと考えられる。しかし、近隣諸国との信頼関係が看過された分、国内的文脈を優先する平和構築が志向されていったといえよう」(同 傍線:吉沢)。乱暴な言い方をすれば、天皇制の残存と引き換えに逆説的に生まれた第9条の平和主義の一見する「ラディカル性」。「それでも第9条が戦前との断絶性を象徴する事項として理想主義的に解釈されていった原因には、第1条が有した戦前からの連続性に対する解毒機能としての側面を無視できない」(同)-著者の表現を用いれば「プラス」の「埋め込まれた政治的ベクトル」。その反面「天皇制に代表される内向きの一国主義は「外国人」の市民的権利に関しても閉鎖的対応を示していく」(同)。これは、戦後日本において一貫して諸外国から否定的に捉えられる側面を形成した。憲法に盛り込まれた「平和主義」とは、為政者に戦前の軍国主義との「断絶」の指向性は見えるとはいえ、かくのごとき内実のものであった。
それでは、日独伊の間で「敗戦とそれに伴う新体制の形成」において決定的に異なる土壌は何か、それは「国内レジスタンスの有無」にあると指摘する。イタリアにおいては反ファシズム闘争が展開されそれを反省的契機としたが、ドイツにおいては反ナチズムを戦後体制の基礎としたが、日本においては、殆どレジスタンスは存在せず、「敗戦直後における為政者は平和主義を主張しても、その殆どが国民に直接可否を問うことなく、戦前の「正常な天皇制」へ回帰することを志向しがちであった」(同)。
この点で示唆的なのがイタリアのファシズム体制の反省(経験)に基づいて憲法に反映された社会権の認識である。多少ともイタリア政治史に関わっているのに誠に恥ずかしいのだが、今回初めて共和国憲法制定のいきさつ(趣旨)を知った。「これが(注:「憲法起草に関わった人々は、国家が労働者を取り込んで管理するのではなく、個々人の権利として労働を高く位置づけ、その主体的連帯を保証する発想へ向った」)共和国憲法の第1条に反映され、国家形態を特徴づける基本的価値として労働の重要性が強調されることになった。労働は人格の創造的能力を体現するものと位置づけられ、社会関係を規定する「最高規準」にすえられた」(同)。「すなわち、左翼、カトリック双方ともファシズムの経験を通じて、敗戦という転換点から構造的矛盾に対する解決の新たな模索へと向い、それが新憲法制定のコンセンサス形成を助けていったのである」(同)。イタリアのあり方を一方的に持ち上げるのはもしかしたらバランスを欠くかもしれないが、それでも「何たる懸隔!」という感慨をもたざるをえない。日本にはおおよそ主体的、自主的に己が獲得した社会的構築物がない。「独伊両国においては、少なくとも国民の主体的選択として憲法が位置づけられていたのとは対照的に、吉田における憲法や民主主義の正当性は、国民に開かれているというよりも、天皇を中心に組み立てられ続けている」(同)。またそれに対応する「左翼」も「しかも社会党結成に際しては、戦争協力者問題が取り上げられながら、結成大会では「天皇陛下万歳」、「宮城逍拝」が行われており、精神構造の連続性を露呈させている」(同)。これでは、旧日本社会党が平和主義に基づいて「天皇制」のありようを根本的に問うことなど所詮不可能な話であった。
 またもや愕然とした気分にさせられる。カール・シュミットが「憲法制定権力」で中心に据えた、真の意味での憲法制定の際の人民peopleの「実存的意志」の発動などはどこにも存在しない。
最近イタリア近現代史研究会で「70年代イタリア議会外左翼の運動はなにゆえにかくも過激で、長期に持続したのか…」というテーマで報告する機会があった。闘争の主要な引き金的要因として、1.社会に対する労働の問題の提起、2.キリスト教民主党とイタリア共産党の歴史的妥協(1973年)を取り上げた。それは暴力ゆえに悲劇的な終局を迎えたが、それでもイタリア社会に内在する問題を根底的に問う側面はあった。今さながら労働の問題のイタリア社会に内在する根っこの深さを思い知らされる。
今また思い起こす。68-69年全共闘は丸山真男を「近代主義者」(私はそう思わないけれども)として罵倒し、研究室を破壊したけれども、結局丸山真男を超えられなかった。全共闘は上記の構造と正面対峙し、この社会に問題を提起すべきであった… 著書は綿密な考証で極めて説得性がある。もし著者が「日本社会の構造的(主体的)弱さを抉剔する」ことに力点を置いているならば、日本を中心に据えて(独伊は参照基準にして)その問題を新書としてまとめてもらえればと思う。

PageTop

戦後日本社会の出自…(1)

 石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』を読んで私には「旧日本社会党は天皇制のタブーの前に結局沈められた…」という思いが更に強くなった。それほどはっきりとした確証はないにもかかわらず、いつも冗談半分にそのことを周りの論者たちに語ってきた。それは、旧日本社会党は、語源の響きと異なりヨーロッパ型の分配的正義の社会民主主義政党では全くなく(それは残念ながら自民党が「ばら撒き」の形で一手に引き受けてきた)、平和主義政党なのに、なにゆえに憲法第9条に基づいて平和主義・「非武装」は主張するのに、第1条「象徴天皇制」にまつわる天皇制の正統性の根拠をなぜ問わないのか、昭和天皇の戦争責任を根本からなぜ問わないのか、そのことが平和主義政党として実に不整合・不合理だと感じていたからである。それならば、一層のこと戦後ドイツのようにナチスドイツの侵略行為を国家の戦争責任としてはっきり認め、それを世界に謝罪し、その上に立って国民国家としての「主権」を確保するための手段として再軍備を認める方が、はるかに筋が通っている。戦後日本においては天皇制の存続(あり方)を問題に付し、いかなる国家を構築するのか、そうした議論は全くなされなかった。この議論の不徹底さこそ、戦後日本社会において軍備をめぐる議論の争点(イッシュー)が常に「もやもやとした(曖昧となる)状況」となる要因をなしている。日米安保条約の条約事項の解釈、軍備の増強の問題(自衛隊「派兵」の問題も含めて)が持ち上がるたびに、この議論のもどかしさを我々はモロに味わってきた(もちろんそれは、軍備の問題にとどまらず、社会保障も含む社会全般の問題にわたっている)。
思えば、旧日本社会党は、「護憲」を謳いながら天皇制に伴う戦後日本社会の根幹的問題を社会に問うことはなかった。とはいえ、旧日本社会党は共産党に対する出自のコンプレックスゆえに共産党より逆説的にラディカルな面もあり、当然その中には「天皇制」のありようを根本的に問う指向性もあったはずである。ところが実際には冷戦構造の現実主義(リアルポリティクス)の前に軍備化の既成事実を積み重ねられると(今日では主権国家の役割分担という「国際貢献」の名のもとに)、「戦争に巻き込まれる」という被害者的な発想でしか「防衛論議」に対処できないこともあり、旧社会党系の主張は無力化された。旧日本社会党の一見した「非現実主義的」な思考(政治体質)に問題があると受け止められたが、問題の本質はもっと悩ましく、深い。
そこには「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」が働いていて、分かっていてもそこに踏みこめず、彼らの「平和主義」は戦後(戦争)の記憶が薄れるにつれてそのタブーの前に徐々に窒息・沈没させられた、ということである。その意味で存在根拠を掘り崩されたのは当然の成り行きであった。タブーがタブーであるためには、ある政治力学(機制)が機能しなければならない。つまり「コンフォーミズムconformism」という帰属上位集団の価値基準(規範)に自ら進んで順化しようとする日本人の精神風土である。「天皇制という(隠匿された権力の)タブー」はその「コンフォーミズム」(俗に言えば自分の会社でもないのに「ウチ」(の会社)を連発する日本のサラリーマンのあの言動)とうまく嵌って不可侵の棚上げされた規範-日本人の内面を機制する論理-として機能する。その構造の摩訶不思議さ。「天皇制のタブー」と「コンフォーミズム」の結びつき-ともかくもこれが日本社会の編成原理-こそ、旧日本社会党の前に立ちはだかった大きな壁であった。もちろんそこには当然人々の「天皇制のタブー」への畏怖の機制が働いている。そのために自動的に窒息・沈没させられる運命にあった。旧日本社会党のそのいきさつを見ると戦後日本社会の出自の「秘密」をどうしても知りたくなる。その点でさまざまな示唆を与えてくれたのが、ともにイタリア政治史研究者である、豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫2008年)と石田憲『敗戦から憲法へ-日独伊憲法制定の比較政治史』(岩波書店2009年10月)である。

「政治的リアリスト」で『畏るべき昭和天皇』(松本健一の本の題名でもある)は「自らの連合国側の裁判を免れて“生き残る”ことが、長い伝統を誇る皇室を守り抜く唯一の道であり、それを獲得するためには、なりふり構わずあらゆる手段を講じる、という方向に踏み切ったのであろう。[…]かくして昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜くための天皇の徹底したリアリズムの表現であった、と捉えることができるのである」(豊下)。そのためにそれと呼応して「「先手を打って、既成事実を作ってしまおう」ということこそが、46年2月上旬のマッカーサーによる憲法の“押し付け”であり、これによって天皇制は維持されることになったのである」(同 傍線:吉沢)。そして、共産主義への強い警戒心から「天皇は、共産主義から日本を防衛する体制を確保することが講和に進む条件と主張しようとし」、「51年に入って開始された日米交渉は、“自発的で、無条件的”な日本の基地提供という帰結をもたらした。これは実質において「天皇外交」の勝利を意味していた、と言えるであろう」(同 傍線:吉沢)。この点で天皇の「政治的リアリスト」としての能力は遺憾なく発揮され、吉田外交との二重外交のもとで「不平等条約」といわれる安保条約の骨子がほぼ形成された。つまり、それは「何よりも、日本には米軍に基地を提供する義務があるが、米軍の日本駐留はあくまで権利であって、米軍には日本の防衛が義務づけられていない。しかし、その一方で、米軍には日本の「内乱」に介入する権利がある」(同)というシロモノであり、「[…]日本の基地提供は無条件的に「日本側からオファー」されるべきものというのが、天皇の一貫した立場であった」(同)。豊下氏の意図は「占領下において昭和天皇が「天皇外交」とも称すべき「高度に政治的な行為」を展開することによって、戦後日本の安全保障体制の枠組み形成に重要な役割を果たした」(同)ことを立証することにある。昭和天皇が戦後においてもいわば「公然と」上記の政治的行為を展開したのであれば、そのことは単に「安全保障体制の枠組み形成」にとどまらず、戦後日本社会の枠組みそのものを決定したとも見なすことができるくらいである。この事実をある程度は知っていたものの、これじゃ「戦後の日本社会は何もないに等しいじゃないか」という愕然とした思いに改めて駆られる。

PageTop

南柯の夢

去る二月の中旬に、房総半島の千倉の海岸のあたりを歩いていると、立派な石碑が目についた。その近くに説明の文章を記したものがあった。それによると、1780年にそのあたりの海で難破した清の船の乗員を、地元の人たちが救助したことがあり、それを記念する石碑であった。当時その地域は岩槻藩の領地で、漢学者でもあった児玉南柯が救助の指導にあたったのだという。
以前に横須賀美術館に行こうとして、京浜急行の浦賀駅を降りてバスに乗ったが、途中で美術館の方には行かないバスだと気づいて急いで降り、40分ほど歩いたことがある。歩いて行くと、そのあたりが江戸時代には川越藩の領地であることがわかった。また栃木県の真岡の町を歩いたことがあるが、そこはかつて小田原藩の領地で、二宮金次郎が小田原藩から派遣されていた。真岡と合併した二宮町という町名がそのことを示している。そういう例をいくつか知っていたので、千倉が岩槻藩の領地であったことも別に不思議なことではないと感じた。
それでも、岩槻と児玉南柯という人物には興味があったので、三月中旬に岩槻に出かけた。平成の市町村大合併で、岩槻市は「さいたま市岩槻区」となっている。そのため、かつての立派な岩槻市役所は、岩槻区役所になっている。公民館にも行ってみたが、大きな建物を持てあましている感じがした。
東武線岩槻駅の近くに「遷喬館」という岩槻藩の藩校があって公開されているので入ってみた。これは元来は児玉南柯の私塾であったものが藩校になったのだという。こじんまりした建物だが、掃除をしていた女性の説明によると、児玉南柯は午前は「論語」の素読を行ない、午後は講義をしたのだという。
そこで求めた『岩槻藩と城下町』という冊子によると、児玉南柯の祖父の姉が、絵島生島事件の絵島(江島)だという。いろいろなものがつながっていることが次第にわかってくる。
児玉南柯の「南柯」は、中国の故事によるもので、ある男が南柯郡というところの長官に任命されたのが実は夢だったという話に基づくことにあとで気づいた。昨年亡くなった平岡正明の『志ん生的、文楽的』(講談社文庫、2010)を読んでいて「南柯の夢」のことを知ったのである。手元にある「新潮国語辞典」にも出ていることで、無知が恥かしい。(2010年4月8日)

(付記。このブログにアルジェリアのことを記した拙文をアップしてあるが、そのほかに私は「地の果てで感じたこと」という文章を「アフルンパル通信」9号に書いた。これはアルジェリア出身の作家アルベール・カミユをアルジェリア人がどうみているのかを、「精神技法」という概念と、アルジェリアの新聞記事とを使って考えたものである。お読みになりたい方は、同誌の発行元であり、このブログにリンクしてある書肆吉成にご連絡ください。また、フランスがアルジェリアの独立の直前にサハラ砂漠で行なった核実験の問題について論じた「サハラ砂漠の閃光」という拙稿が御茶の水書房刊『危機からの脱出』に掲載されている。これも併せてお読み下さい。)

PageTop

月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。
4月28日(水)15時より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンのシニフィアン連鎖論」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

PageTop