宇波彰現代哲学研究所

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美少女は生きているか 山田宏明『美少女伝説-レポート1968慶応大学の青春』 (情況新書2011年)

 この本を読むのは、かなり照れが先立った。当然自分の知っている人物が登場するはずであり、その関わりでコメントする以上ある程度自分も個人史を語らなければいけないと思ったからだ。読んでいくと、I君、Iさん、Oさん、Bさんが登場する、もう赤面するぐらい恥ずかしくなる。その点で、そうした照れをあえて封印して自分の個人史を語る著者の根性には敬服するばかりだ。ただ、僕にとっては惜しいことに、舞台となっている文学部と、僕の属した経済学部の運動の間にはあまり交流がなく、こちらが女性と縁遠かったこともあり、「美少女」の(実)像とどうしても切り結ばない。その点で「美少女」の像-内実を通して運動のある側面を描く著者の手法の根源にやや迫れていないことは許してほしい。
 本著は物語=歴史(history)であり、“奇妙な時代”(時代)と「美少女」の「転落死」(恋愛)の絡み合いの中で「美少女伝説」の内実を解き明かそうとする試みである。“奇妙な時代”がなければ、「美少女」の出会いもなければ、「転落死」の内実をここまで問い詰めることもなかった。その点では、時代と恋愛が織りなすある情景が浮かんでくる。不謹慎な表現を許してもらえれば、「美少女」の死が自殺であればまだ区切りはつけられたのに、しかし「転落死」であることにより、「美少女」の24歳までの、著者にとっての生のある「意味づけ」は不明のまま先延ばしされてしまった。それも厄介なことに、それが「深酒と恋愛関係のもつれ」の結果であると「推測」できるようなことであれば、棘が喉もとに突き刺さったままである。68年の運動に立ち返ることによって、棘を取り去り、少しは「スッキリ」させたいというのが、著者の原初的動機であるように思われる。それはよく理解できた。
 その点でいうと、まず「少年」と「美少女」の関係については何か言うつもりなどはなく、むしろあまりに微笑ましくてそっとどこまでも見守ってやりたいという気持ちになる(「チャチャ」を入れることなどトンデモないことだ!)。もちろんそういう受け取り方だけであれば、著者にとっても単なるセンチメンタル、あるいはノスタルジアの域を出ない。
 だから、「レポート1968慶応大学の青春」という副題をつけたことからもわかるように、時代と恋愛の絡み合いの中での生の昇華、燃焼を通して運動の意味を描くことにもう一方の狙いがある。「少年」と「美少女」が運動と協働的営為としてどう向き合ったのか、それとの関わりでこの社会の何と格闘したのかが、そこが物語=歴史(history)として問われる。
ただ、率直に言うと「レポート1968慶応大学の青春」などよりも、男女の関係、エロスの関係をむしろ徹底して描いてほしかった。運動も時代-風俗の一端であり、そこに男女の関係があったとすれば、そのことを描くことで運動の一側面をインプリシットに言及することはできたと思われるからだ。僕には「美少女伝説」を小説として取りあげてもらったほうが面白かったかもしれない。

 「美少女」は「…あなたもそうでしょう。そんなにあっさり過去を捨ててはダメよ。あたしは絶対に大企業に入らないつもりです」と、過去にこだわり、「ブルジョア的価値」に基づいた生き方を拒否して、小企業への就職を選択し、同時に彷徨を重ねる。それは、彼女なりのこの社会への抵抗の証であったかもしれない。「少年」とのやり取りは、ある緊張感をもって進行する。両者ともスンナリとこの社会へ溶け込んだわけではないだろうし、抵抗の切実感は我々に伝わってくる。こういうやり取りもあったのかと、感得させられる。
 でも残念ながら「少年」と「美少女」は、肝心のこの社会-諸制度、家族等-の何と闘ったのか、そこがもう一歩よく分からない。それが何に起因するのか、はたと考えてしまう。たぶん、そこで想起されるのは、早稲田、中央、明治などの運動の雰囲気とは圧倒的に異なる「慶応大学の運動」のもつ飢餓感(飢え)の欠如である。そのことに伴う自分の限界を考えると、偉そうには一切語れない。もちろん全部が一様にそうであったわけではない。でも68-69年の「全共闘運動」が所詮「学生たちの運動」であったに過ぎないように、そしてそれ以上に「慶応大学の運動」が所詮「ブルジョア子弟たち」の運動であることを自己嫌悪の念を抱いて思い起こす。「ブルジョア子弟」の運動だから悪いなどというつもりはないが(あのイタリアの「ロッタ・コンティニュアLotta Continua」の活動家もそういう側面を色濃く刻印していた)、でもシモーヌ・ヴェーユが出自を踏まえて「どうやっても労働者になれない」という自分の現状に絶望して、苦悶したような格闘性には欠けていた。
 ここでも登場する68年の「米軍資金導入反対闘争」なんていうのは、どうにもいけ好かない。運動というのは自分たちの内部から生起するものであるし、どんなテーマでも運動の可能性をもっており(政治利用主義ではなく)、その外に身を置いて語ることは慎まなければならない。それでも、この闘争はどこか時代の流れに単に便乗して起きたところがあり、内発的なものとはいえなかった。「知り合いのフロントの活動家が鼻血を出し、眼鏡が割れて、憔悴した様子で教室の隅に座り込んでいる姿を目撃したりした」とは、たぶん僕のことではないかと思う。本当に、二重三重に情けない気分だった。
 まずは、圧倒的な「スト反対派」の学生の存在、僕が鼻血を出したのは彼らに追われてぶん殴られたからである。「米軍資金導入反対闘争」は「自己を「正義」の側に置き」それをバネにする運動でしかなく(いわば正義の二分法に基礎を置き、政治力学を発動する「代々木系」的な論理)、もともと大衆運動として展開できる論理はきわめて弱かった(もちろん運動の基盤も)。どんな運動もナイーブな動機が原初であるけれども、それを自分たちの存在と突き合わせて展開していく衝動(欲求)には乏しかった。これがまず第一点。上記と大きく関わるが、運動自体のインターナショナリズム性の欠如。「インターナショナリズム」なんていうと少し仰々しいが、もともと慶応の「学生」には他大学の学生に比べて学生という意識が極めて希薄であった(外からのイメージも、もちろん一様ではない)。それは、東大(一橋)を落ちて慶応に入った学生のコンプレックスと慶応高校出身者の「慶応愛校(エリート)主義」が結びついて第二次社会的ステータスを確保しようとする慶応独特の「義塾排外主義」を形成しているからである。これはおよそ学生運動のもつインターナショナルなイメージとは敵対するものであり(「スト反対派」の学生が多いのは運動の論理の貧困さとは別にこれが大きな要因)、これでは他大学の学生、労働者と外延的に結びついていく契機はない。どこまで可能性があったかは別として、本来、自分たちの置かれている産業予備軍の立場と対照させて提起すべき性格のものであった。残念なことに、当時関わった運動参加者のかなりの部分にもその枠組みを突き崩そうとする衝動はなかったように思える。第三に「塾監局」を占拠した「○○派」の行動もインターナショナル性という点では多少の共感はあれども、とてもお付き合いできない面を感じた。どう見ても、あの大学の実状とは全くそぐわないからだ。所詮、どこからか借りてきた「革命思想」の外部注入でしかなく、「身振り」の行動でしかなかったことはあまりにはっきりしている。
 ただ、僕も偉そうなことはいえない。初期マルクスなどではなく、『資本論』を勉強して運動に参加したから他の活動家に比べれば、「正統派」活動家であるという自負はあった。でも、状況のほうがアレヨアレヨという間に先に進んでいくと、直感的にしろ、自分が何がしかの構想力をもってその状況に対応しているわけではなく,どうも既成の政治的言語に寄りかかって(乗っかって)発言(行動)しているのではないかというおぞましさを覚えるようになった。どちらかといえば「ダサイ」活動家の部類に属していたから、あのS.M君のように身体性を賭けて状況を切開する鮮やかさもなかった。そのおぞましさは今でもコンプレックスとして引きずっている。
 そこで問題は、あの“奇妙な時代”をどう語るかである。「奇妙な」とは二つの意味で捉える。
1)誰しも「自分の運動参加に内的論理があったのか」と問われれば「ノー」と答えざるをえない運動の「熱病性」(特にその後の「沈滞」と比較したとき)
2)高度資本主義とそれに伴う「ポストモダン」状況と、日本社会の戦後処理をめぐる決着の曖昧性(天皇制の残存と社会的権利を自ら獲得した経験をもたない「国民」であること)の複合状況であった-“奇妙な時代”(今なお続く)

 前者の1)は別に否定的に捉えることではなく、運動にはそうした要素はどこまでも付きまとう。問題は後者の2)で、この点で「68-69年全共闘運動は一体この社会の何と対決したのか」と問うと、よく分からないところがある。確かに高度資本主義とそれに伴う「ポストモダン」状況における近代性の問題を提起した。近代技術の問題、大学の社会的役割等。その点で、丸山真男は「近代性」の権化として槍玉にあげられた。しかし、東大医学部・青医連の問題提起を除けば、ほとんどがヨーロッパの思想(運動)の輸入的解釈で、独自性・独創性は認めがたい。日本社会の戦後処理をめぐる決着の曖昧性がこの社会の構造を今なお(この2011年でも)規定しているにもかかわらず(例えば、戦後政治体制、沖縄基地問題)、それを根幹的問題として問うことはなかった。だから、68-69年全共闘運動は、この(日本)社会の核心に当たっていない、この社会と対決することなく素通りした、その点では思想的には貧しかったという評価をいだく。最終的にあったのは、抵抗原理としてのヨーロッパ移入の「マルクス主義」の錦の御旗である。
 僕にとってさらに問題なのは、68-69年全共闘運動も含めた「ラディカル」派の一部はマルクス主義を標榜しながら、現実には肝心の「資本主義批判」としての現実の労働問題への関わり、あるいは〈労働〉という根本命題の社会への具体的な問題提起という意味では構想力(訴求力)に甚だ欠けていたという点である。その点が、運動が今日まで内部的に蓄積されなかった大きな要因であり、今日の非正規労働の問題に関してこの社会の現状を踏まえた具体的な対応策をほとんど提出しえていない理由であるように思う(もちろん「身振り」としての資本主義批判はするけれども)。このことは僕が70年代イタリア議会外左翼の運動を研究していく中で痛切に感じるようになった。この「情けない」現状はもちろん自分の問題でもある。

 だから、68-69年全共闘運動に関して日本社会の構造を踏まえた総括をすることなく、ある種の「革命幻想」に訴えて、それだけを呼び起こそうとする諸君には僕は批判的である。もちろん当時運動を本当に実質的に担った人たちが人生「最後の旗印」を掲げて行動したい心情はよく分かる、そうした人たちもある程度知っている。それでも、現前に拡がっている具体的問題への構想力が全てだから、今なお抜きがたく存在している「革命幻想」に伴う状況認識はもうやめようと、言いたくなる。これに「身振り」のラディカリズムが加わると最悪である。


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4月17日に予定されていました月例読書会は諸事情により中止となりました。
よって次回の読書会は5月25日となります。
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どうぞよろしくお願いいたします。

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