宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

月例読書会のお知らせ

いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。
6月29日(水)14時45分より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「「ラカンの主体性論(2)」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

(注)5月25日に配布したレジュメに<6月27日>とあるのは間違いで、<29日>ですのでお気をつけください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

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書物の批評:仲正昌樹著『ヴァルター・ベンヤミン』(作品社)について   権 安理

 これは書物の“批評”である。批評について、ベンヤミンは次のように言っている。「批評とは、作品の解体=解消における完成である」。

 はじめに『翻訳者の課題』ありき――仲正昌樹氏によるこのベンヤミン批評=ベンヤミン論で、最初に『翻訳者の課題』が取り上げられているのは注目に値する。内容的にも、ほぼ3分の1がこの書の読解に当てられている。それだけ重視されているのだろう。
 そしてその理由は、仲正氏がベンヤミンの思想の要点を次のように見ていることによる。「他者が書き残した言語……を『解釈』するという行為が哲学的にどういう意味を持つか、また哲学自体が言語を媒体として営まれていることについてどう考えるのか」(14頁)。したがって必然的に、ベンヤミン≒仲正氏は翻訳≒解釈の目的や可能性の条件を問い、その関心は究極的にはメタ言語的なものへと向かうことになる。特殊言語ではなく、「神の言語・純粋言語」の問題である。仲正氏による新たな翻訳≒解釈を引用しよう。「……おのおのの言語は全体として、ひとつの、しかも、同一のものを志向している」(88頁)。

 このような仲正氏のベンヤミン論であるが、ここで2つの意義もしくは論点に注目したい。1つはいわば“ベタ”な意義で、もう1つは“エクリチュール”的な興味深さとでも言えようか。そして、この2つは密接に関係している。
 まず前者について述べよう。このベンヤミン論は、ベンヤミンの思想を忠実に“再現(前)”しようという意図で書かれている。ベンヤミン受容事情に言及すれば、まず70年代前後にかけて「ベンヤミン選集」が刊行され、その後90年代に様々なベンヤミン論が出る(11頁以下)。論者の専門や立場を踏まえてのベンヤミン論、現代思想の影響下でのベンヤミン論である。そしてこの「後」で、著者の“真の”の意図を想定する形而上学にも、それを攻撃する現代思想にも造詣が深い仲正氏による“正統派”ベンヤミン論が登場したのである。この意義と成果は大きい。
 その一例をあげよう。例えば「聖書(Bible)」の部分の訳語変更は圧巻である(76頁以下)。既存の訳書では「聖書」とされている部分だが、原語はBibel(Bible)ではない。仲正氏は原語や文脈を吟味した上で、むしろ「聖なるテクスト」や「聖なるエクリチュール」と訳す方が良いのではと言う。「聖書」でなく「聖なるエクリチュール」となることで、意味の幅も拡がる。それに伴い、「神の言語」である「純粋言語」の意味内容も変化するだろう。しかもこれが我田引水的な解釈というよりも、むしろ忠実なベンヤミンの翻訳≒解釈の結果として提示されているのが痛快である。
 ただしこのベンヤミン論は、ある種のダブルバインドを引き受けざるを得ない。無論こういった外在的=パフォーマティヴな指摘など、仲正氏は十二分に意識しているだろう。そしてこの点が、もう1つの“エクリチュール”的な興味深さに関係している。
 暴力的かつ図式的に言えば、このベンヤミン論が重視している『翻訳者の課題』のエッセンスは、そしてこのベンヤミン論の丁寧な読解によって明らかになるその意味《内容》は、忠実なる翻訳≒解釈の難しさを示すものである。だが他方でこのベンヤミン論のスタイルすなわち《形式》は、ベンヤミンを忠実に読もうとするものである。ここに、「私の言うことを聞くな」的なダブルバインドがあることは言うまでもない。つまり、2つの異なるメッセージが同時にそこに存在している。内容と形式がループして相互に拘束・転移し合うような構造=トリックになっているのだ。更に言えば、このダブルバインドやループ構造は「純粋言語」に対する問題提起ともなっている。これは、どのようなことか。

 「純粋言語」について、ベンヤミンは次のように言っている。あらゆる言語が志向しているが、他方でそこにおいては「あらゆる伝達、意味、志向」が「消失する」。もし「純粋言語」を到達可能な目的=目標とするならば、ベンヤミンの思想は限りなく形而上学に接近する。諸言語は「純粋言語」を志向しており、優れた翻訳≒解釈によってその目的=目標に到達することができるという訳だ。「純粋言語」は全ての言語のアプリオリな条件であり、したがって「純粋言語」という目的=目標(end)を目指す道程はまた、始原=起源(origin)への回帰でもあることになる。
 だが他方で、ベンヤミンはこのような形而上学を批判しているようにも読める。例えば仲正氏が「マルクスvs.ベンヤミン」のところで述べているように(20頁)、ベンヤミンは形而上学的ユートピア志向――過去にあったであろう純粋で完全な状態=ユートピアが想定され、それが未来に投影されて実現・到達すると信じられて目指される――を批判してもいる。このような視座に立てば、「純粋言語」は実現・到達する類のものではない。我々が理解できるのは、特定の(小文字の)言語である。「純粋言語」が到達・実現つまりは再現前可能であると考えられるとき、「聖なるエクリチュール」は「聖書」となるだろう。
仲正氏は、基本的には後者(現代思想=形而上学批判)のスタンスに立っていると思われる。だがベンヤミンには多分に前者(形而上学)と思われる部分も散見され、仲正氏もそれを一刀両断に切り捨てはしない。あくまで忠実に読解しようと試みる。ただし急いで付け加えれば、仲正氏が忠実なのはベンヤミンの意図=パロール、つまりは“生きた言葉”ではない。ベンヤミンの“真意”は……と問うているのではない。仲正氏が忠実なのは、あくまで“死んだ文字”すなわちベンヤミンのテクストもしくはエクリチュールに対してである。
 “死者もしくは死んだ文字”への忠誠――このことは『翻訳者の課題』の、そしてベンヤミンの思想の根幹に関わる。もちろんここでの「死」とは、それが単に文字であることや、翻訳≒解釈の正確性をベンヤミンに直接問えないこと……といった陳腐なことを意味しない。むしろこの点こそが、「純粋言語」の問題圏を開示する。
 『翻訳者の課題』に対する仲正氏の丁寧な読解で、あるいは“死者もしくは死んだ文字”に対する忠実な読みで示されたとおり、それは形而上学的にも現代思想的にも読める。そしてこの地点から、次のような問いを発することができるだろう。あるいは仲正氏が次のような問いかけを、このベンヤミン論を通じて投げかけていると考えることもできるだろう。すなわち、形而上学的にも現代思想的にも読める“当のもの”はいったい何なのか。
 「忠実な翻訳≒解釈は難しい」という意味内容のテクストを「忠実に翻訳≒解釈」するというダブルバインド、そして形而上学的かつ現代思想的というダブルバインド……この2つの(あるいは複数の)異なる言語=思想に翻訳≒解釈されている“当のもの”は、いったい何なのだろうか……。それこそが「純粋言語」であり、「聖なるエクリチュール」と考えることはできないだろうか。少なくとも“読者”としての私は、そのように“翻訳≒解釈≒批評”した。このベンヤミン論のメタ(“ネタ”)メッセージとして……。

 「純粋言語」はあらゆる言語が志向するが、ある特定の言語への翻訳≒解釈で到達・再現前されるものではない。むしろ仲正氏が強調している問題、すなわち異なる「言語体系」へと翻訳≒解釈されるときに示される。つまり「2つ=ダブル」以上のシステムに同時に「帰属=束縛される」ことで、はじめて問題として生成するのだ。仲正氏のベンヤミン論から、ベンヤミンを孫引きしよう。「……個別的な言語のいずれかによって到達されるようなものではない。それは、諸言語の互いに補完しあう志向の相対によってのみ到達可能となるもの、すなわち純粋言語である」(88頁)。
 単数の言語ではなく、「諸言語」が「補完」しあいつつも完全に一致することなく「配置」されること――これが翻訳≒解釈の「課題=使命」ということになるだろうか。「配置」はもちろん「星座=状況布置」の問題であり、“死者もしくは死んだ文字”という「廃墟」への忠誠は、「シンボル」でなく「アレゴリー」の問題である。仲正氏がベンヤミンの思想の中心と見なした「他者が書き残した言語……を『解釈』するという行為が哲学的にどういう意味を持つのか」ということは、ベンヤミンのプロブレマティーク全体に関わり、かつ仲正氏の仕事に継承されている、つまりは転移しているのだ。このような意味で、このベンヤミン論はベンヤミンの思想を「解体しつつ完成」していると言えよう。
 そしてそれが切り開くプロブレマティークは、もちろんこの“批評=書評”それ自体にも転移するだろう。いや、既にもうしている。“はじめ”の部分に戻ろう。“これ”は書物の批評である……。

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ドゥルーズ&ガタリ『政治と精神分析』読書会のお知らせ

5月27日(金)19時より毎月最終金曜日、「協働センター・アソシエ」(中野区)において、
宇波彰先生による変革のアソシエ講座「欲望の政治」が開催されます。

【テキスト】
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ共著『政治と精神分析』(杉村昌昭訳、法政大学出版局、1994年)。必要に応じて適宜、フランス語原典を参照し、プリント教材なども使用する。

【地図】http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/map.html
JR線、地下鉄東西線「中野」駅南口下車徒歩3分。南口改札を出て左方向へ。交番の裏の坂道をのぼり、線路脇の道を新宿方向へ歩き、ドトールコーヒー店左側玄関より入る。

【受講料】
全10回で8,000円、各回の当日参加は1回1,000円掛かります。

関心のある方はぜひご参加ください。

お問い合わせは下記URL、変革のアソシエ様までご連絡いただきますようお願いいたします。
変革のアソシエ:http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/study2011/lecture.html

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いつも当研究所のブログをご覧頂きありがとうございます。
5月25日(水)14時45分より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「「ラカンの同一化論(1)」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

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お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
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