宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

書評:重田園江「ミシェル・フーコー 近代を裏から読む」(ちくま新書)

この数ヶ月来、権力が知を動員し知が権力のおこぼれに与るという図式があからさまとなった。あきれるほどに、である。もちろん、これほど素朴な権力と知の共犯関係と、フーコーが「知-権力」という用語でもって表現しようとしたものとは、異なっているのかも知れない。とはいえ、「知-権力」という言葉遣いが妙なリアリティを獲得していることも事実である。

そのような状況のなか、フーコーの権力論を論ずる新刊がでた。重田園江氏の『ミシェル・
フーコー――近代を裏から読む』である。本書は、『監獄の誕生』をとっかかりとして、フーコーの「ポテンシャルの中心に近づ」(p.11)こうとするものである。「知‐権力」に焦点を絞っている訳ではいないが、今日の日本における「知‐権力」状況を捉えるにあたって、フーコーの仕事が有益なことを示唆しているように思われる。

三点ほど指摘しておきたい。

まず、通常考えられているのとは異なり、規律・訓練を中心テーマとした作品として『監獄の誕生』を捉えていない点である。むしろ本書における古典主義時代の重要性が繰り返し論じられる(p.84,p.170)。というのも、フーコーの近代像にせまる鍵は古典主義時代にあると著者が見ているからである。

だから「国家理性という16世紀末から17世紀の新しい考え方」(p.169)を巡る議論を参照することで、『監獄の誕生』が系譜学的に明らかにする権力技術論と、近代国家史論が結びつけられることを指摘する。16世紀末から17世紀は、古典主義時代と呼ばれる時代におおむね一致するのだから、著者はいわばミクロな権力論とマクロな権力論の節合点を古典主義時代に見出しているのである。これにより『監獄の誕生』の射程が拡大する。

国家理性論が発展してきた時期は「『生権力時代』の始まりと考えてよいし、生が政治の第一の関心事となる出発点ととらえてもよい」(p.169)。生権力は、園田氏が指摘しているとおり「不快な権力」(p.212)である。現存秩序の政治性を隠蔽しつつ、安心・安全を強要してくるからである。

しかし、いまの日本では、本当に人々の生が政治の第一の関心事となっているのか。国家権力の名において宣言される安全は、その額面のとおりに受け取るとしても、直ちに影響を与えるものではないというレベルに過ぎない。安全の言説は、人々の安全ではなく、むしろ現存秩序の安全を目指しているとしか思われない。

つぎに、初読の印象ではあるが、やや読みにくいことが二点目である。とはいえ、必ずしも分かりにくいという訳ではない。丁寧に文章をおっていけば、著者が言っていることを把握するのはさして難しくない。ただ、著者(あるいはフーコー)がなぜそんなことを言っているのか、その理由や趣旨が、なかなか腑に落ちないのである。

その主たる原因は、フーコーの哲学実践に固有のものである。実際のところ、フーコーの目論見は、価値を変えること――価値を逆さまにひっくり返すのではなくて――、価値の体系自体を変えることであった。「フーコーがつねに心がけたのは、世の中で当たり前だと思われていることを、自分の著述に接したあとではとても当たり前とは思えなくさせることだった。・・・見えているものを違った仕方で見せることを望んだ」(p.20)のである。

今までと違った仕方で世界を見ることは、並大抵のことではない。常識的な価値観をいちど壊さねばならないからである。「価値の変更や視点の転換は、あらかじめしつらえられた社会的に通用する枠に揺さぶりをかけ、それを震撼させ変えてしまうようなきっかけがあってはじめて可能になるもの」(p.23)である。

しかし、常識としての「社会的に通用する枠」が揺さぶられたからといって、その枠が変更されるとは限らない。人は、あまりにも強烈なショックを受けると、ショックを受けているという事実自体をなかったことにしてしまうというのが、防衛規制の健全な働きだからである。

そのため、常識的な価値観を知らず知らずのうちに身につけている人が、フーコーの作品を読み、すぐにその意味するところを理解するということはないだろう。フーコーにそって自分なりの思索をつづけていった先に、ある時、その意味にふと気づくだけである。

3点目としては、著者はややストレートに表現しすぎるきらいがある点である。一方で、著者自身も自覚しているようだが、著者のフーコーへの愛情が随所に感じられる。これは、表現の構えとして賛否の分かれるところだろうが、好みの問題である。しかし、他方に、より重要な問題がある。それは、生権力に対する嫌悪感の表明(pp.212-214)である。こ
の点、もう少し説明が必要ではなかろうか。

というのも、世の中の大多数は、いわゆる普通の人――そもそも、大多数の人を普通の人と呼ぶのだ――、「安全への際限のない欲望」を抱く「善良な市民」なのである。著者と「善良な市民」の距離は遠く、著者の不快の叫びは届かない。届いたとしても、自分たちとは異なる「危険人物」の戯言としてしか受け取られず、常識を揺さぶる力が働かない。

したがって、真っ向勝負は得策でない。むしろ戦略を立てることが重要である。それは、「善良な市民」を装い、市民社会の中に浸透しながら反撃の機会をうかがうことである。「善良な市民」にも訪れる一瞬の隙をついて、揺さぶりをかける方が効果的ではなかろうか。規律権力が「ちょっとした工夫」(p.130)を寄せ集める技術論だとすれば、それに対抗するには、いっそうのせせこましく「ちょっとした工夫」を編成していくことが必要だろう。

特徴と思われる点を三点ほど上げたが、本書は、総じて、フーコーの権力論のポイントを的確にまとめている。フーコーとともに考えを進めていくときに、参考になる本である。

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『ハイチ震災日記』を読む

 最近、カナダに住むハイチの作家ダニー・ラファリエールの『ハイチ震災日記』)(立花英裕訳、藤原書店)を読んだ。私がハイチ人の作品を読むのは、これが初めてである。ハイチは2010年1月12日に、死者30万人という被害をもたらした大地震に襲われた。その時たまたまハイチにいた著者は、この経験をもとにエッセーを書いた。短い文章を集めたものであるが、いずれも鋭く、そして優しい目で災害に直面したハイチのひとたちの考えと行動を描いている。それぞれの文章が短いのは、彼が尊敬しているという芭蕉の影響かもしれない。
 ハイチは、最初はスペインが支配した土地であるが、それを17世紀にフランスが受け継いで植民地化した。フランスはアフリカから黒人を奴隷として連れてきて、そこにサトウキビの農場を作った。隣のジャマイカでも行なったことである。しかし、ハイチでは18世紀の初めに、黒人奴隷が反乱を起こして独立した。ハイチでの奴隷の反乱を知ったヘーゲルが、『精神現象学』(1807)のなかで、有名な「主人と奴隷の弁証法」を説いたのは、ハイチのできごとをヒントにしたものだといわれている。これはスーザン・バックモースが論文「ハイチとヘーゲル」で説いていることである。ハイチにはこのような歴史的背景がある。私にとってまだわからないのは、スペイン、フランスの植民地化に際して、そこに住んでいたはずのインディオたちはどうなったのかということである。
 本書には、訳者によるていねいで豊富な訳注がつけられてあって、それもまたとても面白い。私はこの訳注によって、いまままで「ヴゥードゥー」と表記されてきたアフリカ伝来の宗教は「ヴォドゥ」が本来の発音に近いこと、カナダのケベックに多くのハイチ人が住んでいること、グレアム・グリーン(著者は批判的だが)が1960年代にハイチに住んでいたことなどを教えられた。巻末に添えられた訳者による「ハイチ略年表」は、この国の歴史についての情報であるとと同時に、18世紀におけるフランスの植民地政策の一端を教えてくれる。(2011年10月16日) 

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月例読書会のお知らせ

10月26日(水)14時45分より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンとその他者(2)」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

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書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(3)

 ここまで来て、ようやく本題に入ることができる。ここから語ることが、この書評の核心であり、問題提起したかったことだ。
 確かに、インターネットの発達などによって我々も「装置」を手に入れたのかも知れない。このブログだって、そういうもののおかげで発信できている。我々は、受信する一方だったのが、送信することも可能になったのだ。
 しかし、我々はオリジナルのメッセージを発信することができているのだろうか? 結局のところ、我々は国家や企業、別の誰かの端末になっているのではないだろうか? 端末という言葉が難しければ、子機だ。
 たとえば、こんなものを買っちゃった、とブログで書くのは、ある企業の子機になっている。その企業の素晴らしさを代弁しているのだから。岡田もそこは当然、予測している。しかし、それはとても楽観的な未来像だ。様々な価値観があり、人はそのメッセージを信じたり信じなかったりする自由がある。そして、色々な価値観をちょっとずつ、つまみ食いするように組み合わせていく。ここで、アルチュセールの視点と比べてみよう。

国家のあらゆるイデオロギー装置は、いかなるものであれ、すべて同じ結果、生産諸関係の再生産、すなわち資本主義的な搾取の諸関係の再生産をめざす。*(6)

 国家のイデオロギー装置が個人のものになっても、果たして変化は訪れるのだろうか? これが、この書評を読むみなさんに考えていただきたいポイントだ。さっきのブランドの例で見た通り、「何かが欲しい」という欲望は、「すでに持っている何者か」と自分の格差をせっせと維持することにしかならない場合がある。というか、全ての「何かが欲しい」という欲望、「自分はこんな人間になりたい」という思いは、すでにそれを持っている誰かが得するために、私たちに埋め込まれたものでしかないのではないか、ということだ。そもそも誰かから埋め込まれたものでない、「自由な欲望」なんてものがあるのだろうか? 無いなら無いで、誰か他者から与えられた欲望しか持てない、という私たちの人生を、私たちは受け入れなければならない。
 だから、自分が子機に成り下がっているのではないかという問いは重要だし、「当たり前」=「イデオロギー」を疑うことが重要だ。そういう意味では、日常生活で全く役に立たない哲学というものも、これからウェイトを増してくるのかもしれない。

「俺にもよこせ」という思いはどんなに強くても、世界を変える力にはならない。駄々をこねるような「暴動」の原因にはなるかもしれない。しかし、世界中の人たちの考え方も欲望も、その日を境にいっせいに変わってしまった、という「革命」の原因にはならないだろう。
「俺にもよこせ」「自分も勝ち組になりたい」という欲望は、すでに持っている者、すでに勝っている者に、「君を一番ひいきしてあげよう」と言われたら、あっという間に満足して消えてしまう欲望なのだから。
 完全オリジナルの欲望なんて、我々は産み出せるのだろうか? そんなものが無いとすれば、我々はどんな風に生きていけばいいのだろうか。

追記:この書評は、別のブログに寄稿する予定だったものでしたが、そちらは柔らかい文体のサブカルチャー評論などが中心のブログだったため、雰囲気とそぐわず、この書評は宙に浮いていました。今回、宇波彰先生のご好意によって、こちらの「宇波彰現代哲学研究所」に掲載させていただける運びとなりました。文体などは改めましたが、内容・スタイルともに脇の甘いところがあるやも知れません。ご容赦いただけると幸いです。
 お暇な方はよろしければ、当初に寄稿する予定だった別のブログ「おはよう倦怠感。」(http://looseboys.blog40.fc2.com/)の方もぜひ覗いていただけると幸いです。

(文責  土佐 巌人)

引用一覧
(1)岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、1998年初版、朝日文庫、p.81
(2)同書p.89
(3)同書p.112
(4)Terry Eagleton, Ideology : An Introduction, Verso, 1991,p .58~59
『イデオロギーとは何か』テリー・イーグルトン著 大橋洋一訳 平凡社ライブラリー 1999年初版、p.136
(5)Louis Althusser, Sur la Reproduction, PUF, 1995,p. 282
『再生産について イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置』ルイ・アルチュセール著 西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今野晃・山家歩 平凡社 2005年初版,p. 336
(6)同書p.276 邦訳p.345

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書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(2)

 これから、アルチュセールの社会分析理論との比較に入れる。
岡田斗志夫は「モノ」や「時間」や「情報」が不足したり余ったりする状況が、人間の意識に影響を与えている過程を描いてきた。この、人間を取り巻く状況が人間の思考や欲望を決定するというのは、哲学で言えば「構造主義」の考え方に近い。
 しかし、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」という「やさしい情知」があらかじめ、どんな人間にも備わっているというのは構造主義的ではない。岡田が描くのは、あくまで人間の意識と、人間を取り巻く構造との相互作用である。
 アルチュセールは構造主義的マルクス主義者である。岡田は「モノ」が不足したり余ったりする中で、人間に備わった「やさしい情知」がそれと結びつき、その時代その時代の「当たり前」が変化していく歴史を描いた。しかし、アルチュセールには、「モノ」しかない。モノが人間の意識の全てを決定しているのである。岡田(もとは堺屋太一)が人間にあらかじめ備わっているとした「やさしい情知」も、アルチュセールからしたら、モノがどんな状況かによって、人間に与えられたり与えられなかったりする派生物、でしかないだろう。人間にあらかじめ備わった意識など、厳密に構造主義的立場に立てば、ありえないのである。
 アルチュセールがこの世の基盤=下部構造(infrastructure)としたのは「物質的諸関係」であり、岡田が「モノ」と呼んだものにかなり近い。しかし、岡田が「モノが不足したり余ったりする」という変化にだけ注目したところを、アルチュセールは物質の流れ、人間と物質との関係性にまで広げて見ている。たとえば、原始狩猟制の社会なら、獲物はみんなで平等に分配することになる。日本の鎌倉時代なら、土地と領主の関係は将軍によって保証され「御恩と奉公」によって結ばれている。アルチュセールが実際に挙げた具体例ではないが、こうした「物質的諸関係」が私たちの社会の実態、つまり土台=下部構造である。現代においては、経済的諸関係、つまり工場で作られる製品やその原材料、そこで働く労働者、賃金として支払われたり商品の代金として支払われたりする貨幣の流れ、雇用者と被雇用者の労使関係、それらの関係性や流通の過程を全て含む。マルクス主義者であるアルチュセールにとっては、そこには「搾取される者と搾取する者の関係」も当然含まれる。
 それに対して、上部構造(superstructure)と呼ばれるのが、国家(つまり国の仕組みそのもの)、法律、イデオロギーである。ここで注意を払わなければいけないのがイデオロギーである。これは世界観のことであるとアルチュセールは明言している。
つまり、「世界はこういうふうなものだ」「こういうあり方が人間としてまともだ」という、我々にとっての「当たり前ってのはこういうことだ」という思い込みのことだ。それらは当たり前すぎて、普段ならいちいち確認もされないし、疑問にも思われない。イデオロギーから外れたことや人に出会ったときに、「あんなのありえない!」と我々は初めて自分のイデオロギーをむき出しにする。岡田がパラダイムという言葉で呼んだ、その時代その時代での人々にとっての当たり前、これとイデオロギーは似た意味を持っている。
アルチュセールから見れば、真の科学や哲学を学んでいる者から見れば、イデオロギーなどというのは「未開の部族の神話」、つまり原始人の思い込みと大して変わらない。これは、人間は真面目に労働するのが当たり前だとか、派手に遊んでない奴はイケてない、というこれらの世界観(イデオロギー)は、土台を維持するために我々に埋め込まれるものだ。派手に遊んでいない奴はイケてない、という思い込みは世の中にお金を回していくために必要だ。今の時代、遊ぶことは結局、消費活動なのだから。だからその前に、それぞれの人間は金を稼がなければならない。だから、人間は真面目に労働するものだ、という思い込みも必要になる。ブランド物のバッグを買えば、買う前より自分はマシな人間になれる。あるいは、みんなが持っているんだから、自分も持たねば。このとき起こっていることは、長時間かけて稼いだ金を、貧乏人がすでに金を持っている者(ブランドを販売する企業)にせっせと渡して、格差を維持するために貧乏人みずからが努力しているという現象だ。全ての思い込み、イデオロギーは、この世を再生産するために必要だからという理由で、我々に埋め込まれたものにすぎない。
現代思想の解説者として有名なテリー・イーグルトンはこう語っている。

イデオロギーが存在するとき、かならず、語ることはおろか、思考することすら禁じられたものが存在する。ただ、そうした禁じられた思考が存在することを、わたしたちがどうしたら察知できるかは、論理的にみてやっかいな問題をはらむ。たぶん、わたしたちは、考えるべき何かがあるということをうすうす感ずるのだろう。ただし、それがなんであるか皆目見当もつかないとしても。*(4)

 岡田斗司夫のもうひとつの柱、洗脳社会について考えてみよう。アルチュセールによれば、人々にイデオロギーを与えるための道具(岡田の言葉を使えば「洗脳装置」)は国家のためのものでしかなかった。巨大な存在だけがイデオロギー装置(=洗脳装置)を持っていたのである。アルチュセールは「国家のイデオロギー諸装置」(Les Appareils idéologiques d’Etat、略してAIE)という呼び名を与えている。それらは様々なものがある。宗教的AIE(さまざまの教会制度)、学校的AIE(さまざまの公的私的な「学校」制度)、家族的AIE、法的AIE、政治的AIE(政治制度、さまざまな政党)、組合的AIE、情報的AIE(新聞、ラジオ‐テレビ、等々)、文化的AIE(文学、美術、スポーツ、等々)……。*(5)
 岡田によれば、インターネットの発達などによって、誰もが「洗脳装置」を使うことができるようになったということになる。これは、「国家のイデオロギー装置」が「個人のイデオロギー装置」になったということだ。

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書評:岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』、そしてアルチュセールとの比較(1)

 現在、岡田斗司夫と哲学者・内田樹がTwitter上で議論し、それが書籍化されそうな動きがあるということだ。その内容とかかわりがあるかどうかは分からないが、岡田斗司夫の著作について書評したい。

 岡田斗司夫『ぼくたちの洗脳社会』を読んで、哲学者アルチュセールを連想した。
 正確に言えば、似ていると思わせるところと、正反対なところが交互に混じりあっている。どこが似ていて、どこが違うか整理してみれば、より両者の内容が分かりやすく見えてくるのではないだろうか。
 では、まず岡田斗司夫の著作『ぼくたちの洗脳社会』(朝日文庫)の概略を紹介したい。

『ぼくたちの洗脳社会』(以下、『洗脳社会』と書く)ではまず、堺屋太一の「人間のやさしい情知」という考え方に注目する。その「やさしい情知」とは、「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」*(1)だそうだ。つまり、たくさんあるものは派手にバーッと使う。足りないものは大事にする。そのやり方を正しいと思うのは、人間(人類)にとって時代も場所も問わず普遍的なのだという。
 この「やさしい情知」という感じ方・考え方に、その時代や場所で、何が豊富で何が不足しているか、という状況が結びついて人は文化を作っていく。文化といったが、『洗脳社会』では特にパラダイムという言葉が使われている。パラダイムとは、考え方の基準であり、私たちが「世界はこういうものだ」「まともな人間はこうでなければならない」という、これこそが当たり前だと考える基準のようなものだ。
『洗脳社会』では、具体的に例をあげて人類の歴史の発展と、それにともなってパラダイムが変化していく様子を説明している。
 原始狩猟社会。この時代は、「モノ不足・時間余り」の時代である。人々はその日食べる食料にも事欠き、食料以外にもあらゆる物資が不足していた。しかし、時間はある。その時間を人々は思索に費やした。そして、カミの概念が生まれ、素朴な芸術が生まれ、原始的な宗教が生まれた。
 次に、農耕社会。農業のおかげで、食糧事情が飛躍的に改善され、人口が爆発的に増加した。すると、食糧の管理、翌年の収穫のための種籾などの管理、農地の整備、増えた人口に対してどのように食糧を分配するか、など、マネジメントが必要となってくる、こうして、必然的に管理社会が生まれ、それにともなって役割分担が必要となり、身分社会が生まれてくる。原始的な封建社会の誕生である。この「モノ余り・時間不足」の時代にあっては、労働こそが善であり、また身分を持っているとは、社会の一員として保証されているということでもあっただろう。この時代の人間からすれば、身分を持たない人間は「蔑むべき未開人」でしかない。我々現代人から見たらこの時代の人間は「身分に縛られた不自由な人たち」に見えるとしても。
 この時代はなにせ物資が余っているのだから、これを管理することが大事だったと著者は主張する。今の時代から見れば、年貢を取り立てるのは悪い領主、というイメージだが、著者によれば、この時代の実態はそういうものではない、ということだ。食料が余っても領民の間で揉め事のタネになるだけだし、下手に食料を与えて人口が激増したら数年後には飢饉になるかもしれないし、余った食料や労働力を用いてバカでかい城や墳墓を作った方が上手い管理の仕方であった、というのが著者の主張である。*(2)
 しかし、農業がもたらしたこの発展も行き詰まりを見せる。開拓できる領土には限りがあるからだ。どうやっても農地にならないような荒地や熱帯雨林など、どんな国も領土の限界にぶち当たる。それまで無限の発展が約束されていたような状態から、今まであるものを大事に使いながら現状を維持していく状態への転換が求められる。これが成熟した封建制であり、中世の時代である。同じ農業革命以降でも、中世になれば、また「モノ不足・時間余り」の時代になったというわけだ。著者によればこの時代の人々は何かと理由をつけて休んでばかり。働かないことよりも、休むべきときに働くことの方が悪だったのだという。しかし遊ぶわけでもない。遊ぶ、というのは食べたり飲んだり着飾ったり旅行したり、とにかく消費をともなうからである。モノ不足のこの時代にそんな余裕はない。そんなわけで、この時代の理想像は「清貧な思想家」である。修道院にでもこもって質素な生活をして、神について考えをめぐらしている神父様などが立派な人だったのである。他にも、詩人だとか。
 そして、産業革命の時代がやってくる。この時代は科学が神に取って代わった。かつて農業が狩猟に取って代わったように。それは、「合理的思考」と「定量化」の思考をもたらした。それまでは、全ての自然現象も病気も人生の出来事も「神様の思し召し」でしかなかったのが、「物事には必ず原因があり、ゆえに予測もできる」というように考えられるようになる。もう一方の「定量化」は、すべての労働はお金に換算できて、そのお金は何にでも交換できるという発想を生んだ。ある量の何かをきちんと測れば、別の量の何かと交換できるのだ。一時間の労働はある量のパンと交換でき、ある量のパンはある量の布と交換できる、というように。
 こうして、誰もが労働力として換算可能な存在になり、都市に出かけてさまざまなものを手に入れることが可能になった。身分によって社会の中での位置を保証される必要はなくなり、誰もが金持ちになれる可能性、色々なものを所有できる可能性がでてきた。蒸気機関などの発達もあり、「モノ余り・時間不足」の時代がやってくる。これに科学への信頼が加わり、近代のパラダイムは決定された。自由経済競争社会である。
 この時代の人々から見れば、中世の人々の「当たり前」は哀れなものにしか映らない。「身分制度と無知が支配していた暗黒の中世」「『本当の自由』を知らない、かわいそうな貧乏人たち」*(3)である。
 この時代は、つい最近の我々の時代まで続いていた。科学万能主義、自由な自我の確立。神様の代わりに自由な自我を手に入れた我々は、様々なストレスにさらされることになった。それまでは、自分が何者であるかも、運命も、一生の仕事も、神様が決めてくれたのだ。しかし、いまや原因と結果に基づく合理的思考と、自由がある。自分は自発的に立派な人であり続けなければならないし、自分の人生の責任は全て自分にのしかかっているのだ。こうして私たちはさまざまな社会的ストレスにさらされることになった。
 そして、現代にまで続く「大量生産・大量消費」もこの時代の特徴である。「モノ余り・時間不足」がかつてないスケールで到来したのだ。我々は、勤勉な生産者であると同時に、消費者でもある。よく働き、よく遊ぶのが正義なのだ。
 しかし、著者によれば、この時代も変革期に差し掛かっているのだという。著者は、我々が科学への信頼を失いつつあることを手がかりにこの推論を進めていく。
 様々な公害や戦争、環境問題によって、科学は人を幸せにするわけではないということが見えはじめてきた。治せない病気もある。そして、資源が有限であるということも見えてきた。
 この有限感が、再び「モノ不足・時間余り」の時代をもたらすのだという。そしてさらに、著者は「情報余り」という事態を指摘する。メディアの発達によって、ある一つの事件が報道される際、それはあっという間に世界を駆け巡り、その事件についての価値判断、「解釈」もとてつもない量でばら撒かれる。これは一つの事件を中心に、無数のイメージが飛び交うことになる。我々は知らず知らずのうちに、そのイメージのどれかを選択し(選択させられ)ている。また、ソニーやアップルのような、実際の製品以上に、企業イメージを売り物にしている会社の例を挙げている。その企業の新製品ならとりあえず買うという、企業を応援するサポーターのような消費者はイメージを購入しているのだという。
 そして、我々はイメージや解釈を受信するだけではない。インターネット(『洗脳社会』発表当時はまだパソコン通信が主流だが)の発達によって、我々はある事件や物事についてのイメージや解釈を、自ら発信することができるようになったのだ。従来はマスメディアや政府や大企業のものでしかなかった「洗脳装置」は、我々にも使えるものになりつつあるのだ。こうして、我々は、相互にイメージや解釈を発信しあい、お互いの価値観に干渉しあう。
著者はこれを「自由洗脳社会」と名づけている。「経済から洗脳へ」、これが我々の直面している変化なのだという。そこでは、我々にとっての「当たり前」は今までに無い変化をこうむるだろう。
ここまでが、『洗脳社会』の大枠を説明である。

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