宇波彰現代哲学研究所

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清家竜介著『交換と主体化:社会的交換から見た個人と社会』(2011年、御茶ノ水書房)書評

 1.まえおき
 宇波彰首席フェローから久方ぶりに書評をせよというお呼びがかかり(と書いて思い出したが、昨今の鬱病ブームにかんして何か書いてみよ、と宿題を出されたまま果たせずにいたのであった)、著者が社会学専門で「貨幣」を扱っている著作だということなので、興味を持ち引き受けた。
「引き受きさせていただきます」との旨をご返事すると、数日後清家氏からとても立派な著書が送られてきたので恐縮する(清家さん、ありがとうございます!)とともに厚さに(と言っても300頁ほどだが)怖気づいた。というのもこのところ研究でない方の仕事が頗る忙しく、なかなかまとまった時間を取れないでいたからだ。とはいえ本を送ってくれた清家氏や宇波先生に不義理をするわけにもいかないので少しずつ読み進めていくことにした。
 いざ読み始めると面白く、とりわけ近代以前の伝統社会を扱った最初の数章は、一気にとまではいかないが、最近にしては珍しく急いで読み進めたのであった。
 個人的な回想になって恐縮だが、貨幣論というジャンルの著作には、浪人中に予備校の教師から教えられた柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』で初めて接したような気がするが、ボンクラだったこともあり、あまりピンとこなかった。それよりは大学生になってから読んだ今村仁司の『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)の方が興味深かった。今村によれば、「貨幣の社会哲学は、貨幣の経済的機能を論じるのではなくて、人間にとっての貨幣の意味を考える。それは貨幣を人間存在の根本条件から考察する」。
 清家氏の著作は、今村が言う意味での「貨幣の社会哲学」を展開するものであり、この領域の基本文献の一つと見なされるべき力作である。「「交換する動物」としての人間は、
市場経済や資本主義的経済の核をなす経済合理性に還元されるわけではない」というのが氏の基本的な主張であり、本書はそうした視座に立って、目下進行中の世界経済危機、金融危機を含め、資本主義経済が危機を繰り返し生じさせることになる「倒錯した社会過程」を明らかにし、ミメーシス的主体によるコミュニケーション的行為の可能性を探究しようと試みる意欲的な著作である。

 2.交換形式と人格=仮面
 清家氏による『交換と主体化:社会的交換から見た個人と社会』の理論的ベースとなっているのは、マルクスの価値形態論とジンメルの貨幣論である。とりわけ後者の観点を引き継ぐ形で、かつ今村仁司やアダム・スミス(「公平な観察者の化身ともいうべき正義のメディア」として貨幣を理解)、ルーマン社会システム論などをふまえつつ、信頼のメディアとしての貨幣の側面を強調する点に清家交換理論の力点はある。これらに加えモースの贈与論や、ポランニー、クラストル、ゾーン=レーテル、アドルノとホルクハイマー、ハバマス等々の知見がふまえられ、「「贈与(互酬)」「等価交換」「資本制交換」「再分配」という4つの社会的交換形式と結びついた共同性と主体化の在り方」が論じられている。
本書は、博士論文を元にした著作ということもあり、先行研究を丹念に検討しつつ、とても手堅く、貨幣というメディアと主体化および共同性の形成の問題にアプローチしており、この領域に関して関心がある人間にとって得るところの多い著作であることに間違いはない。
また、清家交換理論の見取り図は、序論と結論に極めて明快に示されている(僕がこんな文章を書く必要がないほど)のでまず序章と結論を読んで全体の構成を頭に入れた上で極めて明快かつ歯切れよく展開される各章の議論を追いかけていくとよいだろう。
ケインズの有名な言葉に、「この世で一番むずかしいのは、新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ。現在の為政者や知識人は、すべて過去の知識人や過去の思考の奴隷なのだ」というものがある。しかしこれはケインズ革命という経済学のパラダイム転換をなしえたケインズのような天才だからこそ言える言葉である。ケインズたりえぬ者は「過去の知識人や過去の思考」と格闘することによって新しい考えに一歩でも向かおうとせざるを得ない。そこに罪があるとすれば進んで「過去の知識人や過去の思考の奴隷」となろうとすることによって新たな事態に対して古めかしい教条を護持しようとする場合だろう。
 もっともケインズにしても、マルクスにしても彼に先行する近代経済学の「古い考え」と徹底的に格闘したればこそ、そうした伝統からの切断はなされたのではないか。
清家氏の著作では貨幣というものをめぐる先に挙げた一連の論者の議論が、氏の理論的枠組みの中から丹念に論じられており、氏の格闘を通じて、貨幣という謎に改めて向き合うことができる。以下では本書の議論のポイントを僕なりにまとめたい。
周知のようにホッブズは『リバイアサン』のなかで万人の万人に対する戦争状態を自然状態とし、その克服のために諸主体が社会契約を結び主権者に服従するというストーリを描き出した。これに対して、清家交換理論では、「欲望の二重の一致の困難」が「経済の自然状態」とでも言うべきカオスとして設定され、「半ば自生的に生じてきた規則の束」である交換の諸形式を打ち立てることによってこのカオスを克服し、持続可能な社会生活が営まれてきたとされる。
それぞれの社会的交換形式は、「神々」「貨幣」「国民国家」などの想像的対象に対する情動的な「信仰=信頼」に媒介されており、またそれぞれが異なった共同性と諸個人の人格の在り方を形成する働きを有していた。
「贈与」は、それに関与する者どもを威信を有する「贈り手」と、負い目を与えられる「受け手」という関係に置き、そこでは名誉と威信をめぐる承認の闘争が生み出される。また贈与にとって形成されるコミュニティは、贈与する神々という大文字の主体に対する小文字の主体(神々に与えられた役割=仮面を身につけた)としての神々の臣民の畏敬の念によって営まれる祭祀・互酬共同体であった。
この祭祀共同体において「再分配」は、首長制や宮殿経済などによって担われた。ここでは富はいったん蓄蔵されるが、資本のように拡大再生産されることなく、祝祭のなかで大々的に蕩尽される。
これに対して貨幣に媒介された「等価交換」は、自己調整的市場を作り出すとともに、それに従事する人々を「売り手」と「買い手」に分離し、相互排他的な私的所有権の主体として事後的に産出した。等価交換は、互酬共同体の軛を外し、人びとの顔から仮面を剥ぎ取り、この点で哲学的な抽象的自我へと主体化するものでもある。
この抽象的自我は、カント的な独我論的自我であるとともに、ハバマス的なコミュニケーション的理性を有する相互主観性を担う主体でもあった。この主体のコミュニケーション的行為によって市民社会というコミュニティが産出される。
これと同時に等価交換は、商品世界の背後に分業システムの形成を促す。細分化する職業は人びとの個性化の過程を生じせしめるとともに、教養主義的な人格形成を可能にする台座の役割を果たす。
近代的な市民社会を貫く「再分配」という交換形式は、近代国家というコミュニティを再生産するうえで不可欠な形式となる。近代国家は、市民社会とその秩序を維持するために、税を徴収し、再配分する租税国家となる。また税制を基礎とした再配分を担うセンターとして国家財政を担い経済・社会政策を遂行する。こうした再配分は、人びとを国家の臣民としての国民へと主体化する。国家は諸制度を作り人々を服従させるだけでなく、神々の代替物として臣民の死を捧げられる崇拝の対象となる。
貨幣愛から発する「資本制交換」は、共同体の善を目的とする「正義のメディア」としての貨幣の側面ではなく、アリストテレスの言う蓄財を目的とする「商人術のメディア」としての貨幣の性格に由来する。清家氏は「社会的交換形式の最上階を成す資本制交換は、それに先行する「贈与(互酬)」と「等価交換」という基盤なしには機能しえない規制的なもの」であると位置づける。加えて、「贈与する自然と人間の再生産を担う家族関係を基礎にした互酬経済を土台にしなければ」他の交換形式は有効に機能しえない。
資本制交換は、近代市民社会の成立とともに一般化し、様々な蓄積体制を構築していった。そして蓄積体制が構造的危機に陥るたびに体制の構造転換を促してきた。
前期資本主義においては、人びとは経済カテゴリーの人格化である「ブルジョワ」と「プロレタリアート」へと分割され、両者の階級対立が社会統合を危機にさらす。これに対応する形で国家は経済過程へと介入するようになり、法治国家から行政国家へと変貌する。また資本主義の国家独占資本主義への成熟にともない国家行政や企業の官僚制化が進展し、諸個人は組織人となる。家父長の権威喪失は一方で権威主義的人格を育む。その一方で資本主義が提供する美的な商品を消費する、理性を喪失した感性的な美的主体として現れる。両者の主体性が第一次世界大戦と世界恐慌を契機にして合流し、ファシズム的主体へと形成される。これに対して戦後の資本主義(フォーディズム型資本主義)は、フォーディズム的な経済的官僚組織とケインズ主義的福祉国家の両輪によって人々を主体化した。
ところが1970年代以降の構造危機に直面し、資本蓄積体制は、グローバルかつフレキシブルなポストフォーディズム体制へと次第に構造転換していく。この体制下で人々はフレキシビリティを要求されるため「変容を強いられる自我」へと主体化される傾向にある。大量の落伍者とリスクの個人化は必然的に「セキュリティに対する不安」を増幅するが。グローバル化と手を携えたこうした事態において、ハバマスの憲法愛国主義という構図は崩壊してしまうが、一方で著者の見立てでは、「無数の抵抗するミメーシス的主体が、グローバルかつローカルな次元で立ち上がることになった」。
「無数の抵抗するミメーシス的主体」にかんするこうした認識は昨今の中東の春や社会保障等の削減に対するヨーロッパでの民衆デモ、ウォールストリート占拠といった運動の広がりと共鳴するところが大きいと言えよう。

 3.根源的に思考するために
 最初に述べたように、貨幣の社会哲学研究としてのこの著書は、目下進行中の世界経済危機、金融危機を含め、資本主義経済が危機を繰り返し生じさせることになる「倒錯した社会過程」を明らかにしようするとても興味深い著書である。
 ただし、幾つかの点で筆者とは見解を異にするところもあるのでその点は明確にしておきたい(でないと単なるよいしょの提灯記事的文章となってしまうので、それは清家氏に対してもかえって失礼になるだろう)。なおこの異論はあくまでも「理論的趣味」の相違によるものに他ならず、氏の研究が一読にも二読にも値する優れたものであることをいささかも否定するものではないことはあらかじめ述べておく。
清家氏は等価交換と資本制的交換を区別することによって、前者に市場の肯定的側面をまた後者に市場の否定的側面を振り分け、後者を批判しつつ前者を救済しようとする。ポランニーのように両者を一緒くたに批判する市場批判を展開するならば市場の肯定的側面も否定することになってしまうからである。「貨幣に媒介された等価交換は、資本の圧力によって拡大することで、資本の文明化作用を世界へと波及させ、排外的な祭祀・互酬共同体における信仰を、貨幣に対する信頼へと置き換えていった」。
 ただし、ポランニーの行き過ぎを批判しつつも、資本主義批判の視座は基本的にはポランニーと共有されているといえる。とはいえ、ミメーシスを通じた自然との和解、さらには「ユニバーサルかつバナキュラーな(地域固有の)連帯の形式を構築することで、人と人との間、さらには人間と自然の間に適切な距離を創り出す営みとなろう」。
 市場経済をいかに社会に埋め込みなおすのかというポランニー的な課題が今日喫緊のものであるということは、市場主義者(懲りない面々)でなければ、あるいは市場経済の廃棄をラディカルに主張するのではなければ(だが今日一体どうやって?)、基本的には共通認識となっていると言えるであろう(どうやるのかをめぐって相違はあるとしても)。市場経済が破壊的な暴走をするものであるとしても、それとどうにか折り合いをつけてやっていかざるを得ないのである。
ただし、清家氏はポランニーを批判しつつも、その「自然主義」を受け入れてしまっているように見える。また、このことは「建物の比喩」で清家氏が交換を捉えていることと結びついている。すなわち清家氏は、贈与(一階)、等価交換(二階)、資本制交換(三階)という三階建ての建築として交換を捉え、「それぞれが下位の層という支えがなければ成り立ちえない」としている。そしてそうした認識の根本には、「祭祀・互酬共同体は、貨幣経済の浸食によって解体再編されてしまったが、純粋贈与の担い手である自然と互酬によって営まれる家族は、他の交換形式の基盤として現在も確固として存在している」という認識がある。
 だが、その機能の多くを外化してきた家族にしても解体再編されているのではないか。家族が重要な再生産の場所であり続けているのは言うまでもないとしても、今日純粋贈与の重要な場としての家族も資本制交換なしには維持できないことは明らかだろう。資本制交換は、純粋贈与の場としての家族を下支えしているといえる。またベッカーのような経済学者は家族もホモエコノミクス=企業家の営みとして捉えるが、その議論はあまりに一面的であるとしても、資本制下の家族のありようの一面を照らし出してはいるのである。こうしたことから建設物の比喩(より自然的なものが人工的なものを下支えするという構成を成す)はとてもミスリーディングだ。
 「自然」にかんする清家氏の議論は、悪く言うとマジックワードとして機能してしまうもののように思われる。「自然」とは、人間にとって、和辻の風土などを持ち出すまでもなく人間の営みと切り離すことができないものであろう。清家氏の交換理論の視座からは、言わば「自然に反した」ものとして資本制交換が告発されることになるが、あえて(誤解を呼ぶ表現を用いて)言ってしまえば貨幣のような媒介形式を有すること(また今村仁司が言うようにそれと結びついた死の観念を有すること)を不可避の条件とする「人間的自然」なるものとは「自然に反した自然」とでも言わざるを得ないものなのではないか。
 加えて、これは僕自身もやもやしており、もっときちんと考えていかないといけないことであるのだけれど、清家交換理論においては信頼のメディアとしての貨幣の側面が強調されるが、貨幣にかんして問題なのはそうした信頼が「過剰信頼」とでも呼ぶべきものを呼び寄せ、バブル等を起こすという点なのではないか。清家氏は行き過ぎた貨幣不信を批判するあまり貨幣への信頼のなかにある危うさを見落とすことになってはいないだろうか。あるいはアダム・スミス的な「公平な観察者の化身ともいうべき正義のメディア」という貨幣像を、グローバルなマッドマネーと区別し、前者の美徳を強調するあまり、初期市場経済を牧歌的に捉えすぎているのではないか(これはある種のフランクフルト学派の論者に見られる特徴であるが)。
 とはいえこうした見解の相違も含め、清家氏の著作は多くの示唆を与えてくれるものであり、このような機会を与えてくれた宇波首席フェローと著者の清家さんに感謝しつつ、筆を置くというか、キーボードを打ち終えたい。

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月例読書会のお知らせ

12月21日(水)14時45分より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンのサントーム 2」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

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