宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

書評 デニ・ベルトレ、藤野邦夫訳『レヴィ=ストロース伝』(講談社、2012)

 レヴィ=ストロースという名前は、構造主義と一体化している。20世紀後半の思想史は、構造主義の展開と不可分であり、それを考えるためにはレヴィ=ストロースの思想を知らなければならない。本書は、伝記ではあるが、レヴィ=ストロースの生活の伝記である部分よりも、彼の仕事をていねいに追跡した部分の方が多く、評伝であり、読み方によっては分厚い「レヴィ=ストロース入門」になる。著者はレヴィ=ストロースの論文・著作・インタビューなどをひとつひとつ検討し、レヴィ=ストロース自身に会って、事実関係の間違いを正したという。それは非常な労力と時間を必要とした作業であったと想像される。
 しかし、その結果として、本書はレヴィ=ストロースの思想を知るための準備としても、また20世紀のフランス思想史の一面を伝えるものとしても、きわめて重要な著作であると見ることができる。もちろん、レヴィ=ストロースに考察の焦点が合わされているから、そのほかの登場人物の姿が小さくなることは当然である。しかし、そのような姿で見えている人物たちの姿もまた興味あるものである。たとえば、ボーヴォワールはレヴィ=ストロースの仕事を積極的に評価する友人として描かれているが、彼の赤ん坊に対しては「嫌なものを見る眼」で一瞥するだけである。これは、ボーヴォワールが、知性はあるが感性に欠けた女性とみられかねないシーンである。またレヴィ=ストロースは、ジャック・ラカンの運転するシトトーエンの高級車に乗って別荘を探しに行ったり、ラカンのセミネールにも一度だけ出席するが、そのセミネールは「神秘主義的セレモニー」になっているとして、それ以後はラカンと距離を置くようになる。
 私が本書を読みながら感じていたのは、レヴィ=ストロースとアメリカの距離である。彼はブラジルをフィールドワークの場とし、そのあともアメリカインディアンの神話を主な材料にして研究を進めたが、アメリカに対しては、ある種のへだたりのようなものがあるように感じられる。レヴィ=ストロースは、ハーヴァード大学などからの好条件の教授就任の要請をためらいなく断っている。本書の著者は、レヴィ=ストロースが「ヨーロッパ人、そしてフランス人」であることを強調し、フランスの大学で教えることにこだわっていたと説いている。
 レヴィ=ストロースが、戦後のアメリカで、アドルノやホルクハイマーなど、ドイツ系ユダヤ人知識人と交流がなかったこと、1930年代にニューギニアや、バリ島でフィールドワークを行い、その成果を『ナヴェン』や、マーガレット・ミードとの共著『バリ島人の性格』などで公にしていたグレゴリー・ベイトソンとの接触がなかったことも、私には謎である。(ラカンは、ベイトソンを読んではいないが、少なくとも関心を持っていて、アメリカ人の女性によるベイトソンについての講演を聴きに行ったりしている。)
 この翻訳には、レヴィ=ストロースの活動の年譜が添えられてあり、またきわめて親切な訳注が付けられているので有り難い。(2012年1月29日)

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書評:西角純志著『移動する理論――ルカーチの思想』(御茶の水書房) 革命の悲劇的形象としてのルカーチとその可能性   

 評者が見るところ、本書の大きな特徴は三つある。エドワード・サイードが「移動する理論」の典型的な例として読み解いたジェルジ・ルカーチの『歴史と階級意識』を越えて、ルカーチの初期から後期にいたる思想的遍歴の全体を「移動する理論」として読み解いた野心作であるということ。もう一点は、ルカーチを「革命の悲劇的形象」として読み解き、それを救済しようとするベンヤミン的な「哀悼的想起」の試み。三つめは、革命家としてのルカーチの実践の内に「構成的権力」の問題圏を探り当てることにおいて、これまでのルカーチ像を侵犯している点である。
 この三点に焦点を当てることによって、本書はルカーチの研究書として類例のないものとなっている。以下、この三点を中心に述べていきたい。

「移動する理論」としてのルカーチの思想

 まず、本書のタイトルであり、本書の全体を貫く経糸となるサイードの「移動する理論(トラヴェリング・セオリー)」について触れておこう。サイードによれば、「移動する理論」とは、「ときに理論が、それが書かれたのと異なる時代や状況へと「旅し=移動し」その過程で、それが元来もっていた強靭さや反抗性の一部を失ってしまう」ということを意味する。
 サイードは、その「移動する理論」の例として、ルカーチの『歴史と階級意識』とその中で論じられた物象化論を論じている。サイードによれば、ルカーチの『歴史と階級意識』は、二十世紀初頭に革命の渦中にあったヨーロッパにおいて、労働者を「プロレタリアート」として覚醒させ、蜂起を促す力を有していた。だが、時と場所を移したその理論は、ルカーチの読者や研究者たち(リュシアン・ゴルドマン、レイモンド・ウィリアム等)によって、飼いならされたアカデミックなものへと変容させられてしまった。
 サイードによって、このように扱われた『歴史と階級意識』と物象化論を越えて、西角氏は、十九世紀末から二十世紀初頭のハンガリー・モデルネにおける「ハンガリー知識人運動」から初期の『魂と形式』『小説の理論』、ルカーチ思想の中心に位置する『歴史と階級意識』から後期へと至るルカーチの思想遍歴、そしてハンガリー革命に際してのルカーチの革命的実践を、「移動する理論」という解釈格子を用いて丹念に読みといていく。その中でもハンガリー・モデルネと初期ルカーチに関する西角氏の記述は充実しており読み応えがある。
 ヨーロッパにおける美的モデルネの運動は、資本主義的な経済・社会に対する「反抗的性格」を特徴とする。ハンガリー・モデルネをいう土壌で育まれたルカーチの美学理論は、その初期から、芸術という営みに資本主義的な経済・社会に対する批判の契機を積極的に見出そうとするものであった。
 若き日から美学的関心を抱いていたルカーチは、留学先のドイツにおいてジンメルとヴェーバーの社会学と出会い、次いでマルクス主義へと急旋回する。新カント派の拘束から脱し、ヘーゲルの弁証法に沈潜したルカーチは、ジンメルとヴェーバーの社会学から得た知見を応用することで、マルクスの資本主義批判を独自の「物象化論」として再構成し、革命のヴィジョンを提示することになった。
 西角氏が指摘するように、『歴史と階級意識』における物象化論とヘーゲルの弁証法を用いた革命のヴィジョンは、ルカーチ自身の初期美学からドイツ社会学とヘーゲル哲学を経由したマルクス主義へと至る「移動=転回(トラヴェル)」無くしては存在し得なかった。
 ルカーチとマルクスの出会いによって生まれた『歴史と階級意識』は、革命の渦に巻き込まれていた当時のヨーロッパに、閃光の如く革命のヴィジョンを提示するものであった。

革命の悲劇的形象としてのルカーチ

 本書を貫くもう一つの経糸は、「悲劇」である。本書は、革命の悲劇的英雄であるルカーチという形象を救済する、ベンヤミン的な意味での「哀悼的想起(アインゲデンケン)」を遂行しようとするものでもある。
 西角氏によれば、ルカーチは、最初期からドストエフスキー的な「悲劇的世界観」を有していた。それは、「死が生の終りであると同時に死をもって生の最も本質的な意味があきらかになる」、「個別的な生が死を媒介としつつ、普遍的な全体性へと繋がり、個において類が実現される」、革命に際しては、「孤立した個人ではなく、革命運動に献身することによって、歴史的行動の枠内において本来的な生が可能になる」というものであった。
 このルカーチの悲劇的世界観は、『歴史と階級意識』における「全体性(Totalität)」のカテゴリーの先取りでもあるとともに、ルカーチをマルクス主義へと誘うものであった。
 本書の第三章でベンヤミンのローゼンツヴァイク論とルカーチの悲劇論を導きの糸にギリシアの悲劇論と近代の悲哀劇論が論じられているが、本書の全体において、西角氏は、運命の犠牲となるギリシア悲劇の英雄のように、ルカーチその人を成就されることのなかった革命の英雄的犠牲として捉えているように思われる。
 ルカーチが依拠する「全体性」のカテゴリーに則った西角氏の記述によれば、資本主義社会の転覆が目指される革命という過渡期において、物象化によって断片化した生が、自らの全体性を回復させる。だが、成就することを阻まれた革命において、英雄的行為は、必然的に英雄自身の悲劇を招き寄せてしまう。
 ルカーチは、実際に革命家として1919年のハンガリー革命へと身を投じ、ハンガリー・評議会共和国で教育人民委員代理となる。だが、ハンガリー評議会共和国は、133日で崩壊し、ルカーチの革命への実践的投企は頓挫する。結果、ルカーチは、長きに渡る亡命生活を余儀なくされてしまう。
 また革命の挫折の後の1923年に出版された『歴史と階級意識』という西欧マルクス主義の画期をなす書物は、カール・コルシュの『マルクス主義の哲学』と同様に多くの人びとを魅了しながらも、コミンテルンによって批判されてしまう。
 『歴史と階級意識』によって強い影響を受けたフランクフルト学派のホルクハイマー、アドルノ、ハーバマス等によっても、ルカーチの革命思想は、批判されることになる。このような経緯もあって、初期のルカーチ思想の到達点とも言うべき『歴史と階級意識』は、後世に与えた巨大な影響にも関わらず、西欧において戦後の長きに渡って忘れられた書物となってしまうのである。

「移動する理論」から「侵犯する理論」へ

 サイードは、「『移動する理論』再考」という論考の中で、「移動する理論」に加えて、「侵犯する理論(トランスグレッシブ・セオリー)」という理論像を提示している。
 「侵犯する理論」とは、「移動する理論」が、トラヴェルすることによって元来もっていた強靭さや反抗性の一部を失ってしまうのではなく、時には異議申し立てや理論に内在していた緊張関係を新たに再陳述されることによって、異なる場所で発展し、新たなる理論展開を促すということを意味する。
 サイードは、ルカーチの『歴史と階級意識』における主客の合一による和解的大団円のヴィジョンに抗して、その理論を発展させた人物として、アドルノとフランツ・ファノンを取り上げていた。もちろんアドルノとファノンだけでなく、ルカーチの『歴史と階級意識』とその物象化論は、侵犯されてきた。
 ホルクハイマー、アドルノ、ハーバマスによる侵犯について本書の第四章「ルカーチとフランクフルト学派」で詳細に論じられており、フランクフルト学派の多くの仕事が、ルカーチの『歴史と階級意識』を経由してなされていることがわかる。フランクフルト学派に興味がある方は、是非、第四章を読んで欲しい。
 現代でもルカーチの物象化論に対する侵犯は遂行されている。例えば物象化論を承認論的に解釈するアクセル・ホネットの『物象化論――承認論からのアプローチ』(2005)という試みも存在する。また日本におけるマルクス主義の理論的主導者の一人であった、廣松渉の物象化論もルカーチの思想の重要な侵犯者達の系列に加えておかねばなるまい。このようにルカーチの『歴史と階級意識』と物象化論は、侵犯されることによって更に多産的となる稀有な作品であるといってよいだろう。
西角氏もまた本書のなかで、「移動する理論」としてルカーチを読み解く過程で、ルカーチ思想を侵犯する突破口を見出そうとしている。
 西角氏は、他の多くの論者と異なり、ルカーチが書いた「共産主義生産における倫理の役割」(1919)、「議会主義の問題によせて」(1920)、「合法と非合法」(1920)ハンガリー共産党の綱領である「ブルム・テーゼ」に注目し、そこで表明された「労働評議会」「評議会民主主義」「民主主義的独裁」についての思想をアントニオ・ネグリの「構成的権力(pouvoir constituant)」論を通じて解釈する。

民主主義的独裁と憲法制定権力

 西角氏は、第五章でカール・シュミットの独裁論と比較しながら、ルカーチの民主主義的独裁論を丹念に論じていく。
 その際、西角氏は、ルカーチにおける「労働者評議会」とその担い手となる「プロレタリアートの階級意識」をネグリの言うところの「構成的権力」として捉えようとしている。「労働評議会」と「プロレタリアートの階級意識」に革命の力を見出そうとすることは、レーニンにとっての革命的ボルシェヴィズムと本質的に異なるものではないと西角氏はいう。ただし実際の「憲法制定権力」としては、ソヴィエト制では党、ハンガリーの評議会であるタナーチはコミューン的性格を持った地域住民の性格を有していたという意味で異なっていると西角氏は指摘する。
 ハンガリー評議会共和国は先に述べたように直ぐに崩壊したが、ルカーチはその後、ハンガリー共産党の綱領として書いた「ブルム・テーゼ」(1928)で、社会民主主義者が提示する「民主主義かファシズムか」という偽りの対立ではなく、真の問題が「ブルジョワ独裁(=資本主義)かプロレタリア独裁(=民主主義)か」であることを指摘する。ルカーチは、その中で「民主主義的独裁」を提唱した。
 民主主義的独裁とは、ブルジョワ革命とプロレタリア革命の間に存在する過渡期の独裁であり、ブルジョワとプロレタリアートの闘いの舞台である。ルカーチは、この「民主主義的独裁」の担い手にプロレタリアートと農民を指名した。これは、1928年の第六回大会で表明されたコミンテルンの革命戦術に応答するものであった。西角氏は、この「ブルム・テーゼ」を、ルカーチ自身による「憲法制定権力」であると解釈する。
 だがこの「ブルム・テーゼ」という企図も直ぐに挫折してしまう。1929年の7月にコミンテルンが「主用な敵としての社会民主主義」を「社会ファシズム」として定式化する。そのために自己批判を強いられたルカーチは、「ブルム・テーゼ」を撤回してしまう。
 西角氏がこの「ブルム・テーゼ」をルカーチ自身の憲法制定権力として着目したことは重要である。「ブルム・テーゼ」は、ルカーチの革命的思想が、現実との格闘のなかから実践へと注ぎこまれ現実化される境界に位置しているテクストだからである。
 この「ブルム・テーゼ」とレーニンの『国家と革命』(1918)を比して考えてみよう。白井聡氏によれば、革命が進行する最中に書かれた『国家と革命』は、革命を受肉した稀有なテクストであり、一元的な力によって貫かれているという。
 レーニンは、それまで国家を維持してきた「抑圧する力」を「解放の力」に転換することで革命を成し遂げようとする。国家に仕え人民を抑圧する軍人や警察官は、同時に貧しき労働者にほかならない。実のところ抑圧する力は、同時に抑圧された労働者の力なのである。それ故、抑圧する力と解放する力は、同じ一元的な力に根ざしている。だからこそ革命を遂行のためには抑圧する力を、自らを解放するための力に転じさえすれば良いのだ。
 この解放する力は、抑圧を解消することによって消滅しなければならない。さもなければ、新たな抑圧を生み出す力へと転化されてしまいかねないからだ。実際にレーニンの死の後、肥大化した解放の力は、スターリンの一国社会主義路線を抑圧的に維持するための抑圧的な力へ転化してしまった。レーニンの革命もまた頓挫し、完遂しなかったのである。
 ルカーチのテクストは革命を受肉することは無かったが、民主主義的独裁を過渡期の現象とするルカーチの構想も、恐らくレーニンのそれとそう遠くなかったはずである。両者にとって独裁は、資本と国家を揚棄することで、階級を消滅させるための手段であった。

革命の星座と新しい抵抗運動

 もちろん社会主義革命が完遂しなかったため、資本主義に基づいた階級的抑圧は、今もなお強固に存在し続けている。しかも社会民主主義の破産と新自由主義の台頭によって、修正資本主義によって緩和されていた階級対立がはっきりと露呈しはじめている。
 プロレタリアートを抑圧し犠牲とする階級的分断や経済恐慌は、はっきりしたかたちをもって回帰してきているのである。もちろん、この抑圧に対する抵抗もまたグローバルな拡がりをみせはじめている。かつてのコミンテルンや共産党のような、革命の統覚のないままに抵抗の炎は燃えひろがっている。
 行く先が不透明となっている現在の資本主義社会の激動期において、アントニオ・ネグリやスラヴォイ・ジジェク、日本では白井聡氏が中心となってレーニンの思想と事績が回想されている。白井聡氏は、パシュカーニス、ルービン、ルカーチ、バフチン、マヤコフスキー達を、レーニンを中心とする「星座(Konstellation)」として捉え、ボリシェヴィキ革命の可能性がいまだ尽きていないことを指摘している。
 本書は、ルカーチもまたレーニンと同じく革命の悲劇的英雄であったことを教えてくれる。彼ら革命の悲劇的英雄に対する「哀悼的想起」の遂行は、今こそなされるべき時であろう。特に西角氏が本書で指摘したハンガリーの評議会であるタナーチの「コミューン的性格を持った地域住民の性格」は、今後の運動を考える上で重要な意味を持っているように思われる。
 いずれにしろ資本主義と国家の揚棄を目指す革命思想は、レーニンやルカーチが直面したテクストや思想が現実化される「憲法制定権力」という次元を通過しなければ成就しえない。われわれは、レーニンやルカーチが構想した革命と異なった、二十一世紀的な新たな革命をなしうるかもしれない。抑圧的かつ破壊的な現代資本主義に抗し、二十一世紀的な新たな革命を構想するためにも、革命の悲劇的英雄たちを回想的に哀悼する作業は必須のものとなる。なぜなら転換させねばならぬ資本主義と国家の論理は、前世期の初頭から形態的・構造論的に変化していたとしても本質的に変わりはないからだ。われわれは、彼らの悲劇から学ばねばならない。

 最後に付け加えておかねばならないのは、本書の補論の「日本におけるルカーチの翻訳・受容史概観」についてである。この補論で、ルカーチの思想が、日本において、芸術理論、哲学、社会理論、政治理論などの広範な領域で影響を及ぼしてきたことが分る。この点においても本書の仕事は重要である。

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二つの無限――スピノザの無限とレヴィナスの無限

「無限」ということについて考えてみたい。様々な哲学者や思想家が、「無限」という言葉を用いたが、その中でも今回は特に、スピノザとレヴィナスの二人について考えてみたい。なぜこの二人かといえば、同じ無限という言葉を用いながらもその意味は徹底的に違っていて、かみ合わない。そのかみ合わなさをあえて対置してみようと思う。

 スピノザは第一部定義6において、神を「絶対無限の存在者」と定義している。その定義6の説明では、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」と述べている。この、「絶対無限」と「自己の類において無限」との対比に注目して、この言葉にたどり着くことをとりあえずの目的として考えを進めてみたい。
 スピノザの世界観は機械論的な因果の連鎖によってできあがる世界である。その姿勢は徹底している。

あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在をもつあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし、また作用へと決定されることができる。さらにこの原因も同じように有限で限られた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることなしには、存在することもできないし、また作用へと決定されることもできない。このようにして無限に進む。
(第一部:定理28)

 その本性からある結果が生じてこないようなものは、何一つ存在しない。
(第一部:定理36)

 全ての個物が外的原因によって作用を受け、また他の個物の原因となって作用をもたらしている。この機械論的な世界観は、実体の定義と照らし合わせたとき、大きな意味を持つ。「実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。」(第一部:定義3)のだから、それぞれの個物は実体ではありえないことになる。では何が実体と言えるのだろうか。次の箇所を参照してみよう。

 個物とは、有限であり、限られた存在をもつもののことである。もし多くの固体〈あるいは個物〉が、すべて同時にある一つの結果の原因であるかのように、一つの活動において協働するならば、そのかぎりにおいて私はそれらすべてを一つの個物と見なす。
(第二部:定義7)

 協働するかぎりにおいて、一つの個物と見なされるような、多くの個物。これこそが実体に他ならない。つまり、この世の個物とその連鎖反応の合計、それら全てをひっくるめたものが「実体」なのだ。そして、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの」が実体なのだから、この定義は「自己原因」としての神の定義と重なり合う。神は他に依存することの無い完全者であり、他から産出されるものではないのだから、実体=神でしかありえない。
 そうなると、この世の因果の連鎖の総体、この世を構築するネットワークの全体こそが、神ということになる。
 創造者としての神があり、被造物としての世界が存在するのではないのだ。そういう二項対立はありえない。この定義は、絶対無限にして完全な神の定義とも一致する。造物主としての人格神を想定すれば、それは、神と、神によって創られた世界があるということになる。これは、神は自らが創った世界から隔てられているということになる。神に外部があるということになる。ゆえに、絶対無限の完全者である神の定義と反してしまう。だからこそ、世界の総体こそが神であるという定義は合理的である。
 そこで次のような定理が導き出される。

 神は、あらゆるものの内在的原因であって超越的な原因ではない。
(第一部:定理18)

 これは、神の外部を否定したということに他ならない。そして、「私は絶対無限といい、自己の類において無限とはいわない。」(第一部定義6)という定義に立ち返ろう。「絶対無限(absolute infinitum)」であって、「自己の類(suo genere)において無限」ではないのだ。なぜ、類における無限が否定されなければならないのか、ここまでの議論で明確だろう。あるひとつの類において無限であっても、他の類があれば、外部が存在するということになる。すなわち、スピノザにおける無限とは、外部性の否定に他ならない。
 外部を持たない、内的に完結した自己原因。これこそがスピノザにおける「無限」である。

 いささかスピノザに紙幅を割きすぎた。次はレヴィナスに話を移したい。
 レヴィナスの主著『全体性と無限』のタイトルからも明らかなように、レヴィナスにとって「無限」は全体性と対置されるもの、すなわち外部性に他ならない。レヴィナスの他者論、自己と他者の関わりについて述べる内容を考慮すれば、単純に外部と言うのは無防備かも知れないが、とりあえずは全体性に含まれないもの、外部としての無限という姿勢で話を進めてみたい。
 この場合の無限は、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての無限である。これは、レヴィナスが他者(autrui、他人)について考える際の根本となる図式である。他者の他性について徹底的に考える。つまり、私とあなたは違う、ということを徹底的に突き詰めて考えれば、「比較不可能なもの」「考量不可能なもの」としての他者が現れる。この結果として、レヴィナスは「存在の一義性」を拒絶する。私も存在、あなたも存在。こうした思考は、すでに自己と他者を「存在」というものに回収して一緒くたにしてしまったという点ですでに暴力的なのだ。

 少し唐突だが、ここでレヴィナスからもスピノザからも離れて、孔子の『論語』衛霊公(えいれいこう)篇にある、有名な箇所を見てみよう。弟子の子貢に「一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや(一生涯実行すべき一語がありますか)」と問われた孔子は答える。「其れ恕か。己の欲せざる所を、人に施すこと勿れ。(それは恕(じょ)である。自分がして欲しくないことを、他人にしてはならない)」。
 これは中学校の教科書に載るほどに有名な箇所である。自分がされて嫌なことは他人にするな、というのはしごく真っ当で常識的な道徳観だろう。

 しかし、レヴィナスにとってみれば、それすら暴力だろう。目の前の他者を、「もう一人の自分」としてとらえることは、すでに他者から他性を収奪している。他者はつねに考量不可能で比較不可能な無限であり、その中で関わりを持ち、選択し決断していくことが、人間の自由と責任である。その答えの無さを引き受けることがレヴィナスの倫理である。正解の無い状況で決断をする私には、私の固有性が出現する。「他者だけが私に意味を与える」とはそういう意味で解されなければならない。
 レヴィナスの倫理学に照らし合わせれば、多数決による民主主義はすでに不可避の暴力をはらんでいる。無限Aと無限Bは比較することができない。無限はそもそも量的に決定することができないからだ。しかし、無限であるはずの他者を、一人一票という形で等値化してしまっているのだ。

 外部性の無さ、内的な完全性を持って「無限」としたスピノザ。外部性、他者の他性を徹底するために「無限」という表現を用いたレヴィナス。
 この二つの「無限」は、まったく交わらないように見える。同じ「無限」という言葉を用いながらも、絶対に架橋不可能な、比較することすら馬鹿げた距離があるように思える。しかし、この文章ではその無茶を少しばかりやってみよう。

 スピノザの因果の連鎖としての世界観は、以下のように人間の自由意志の否定へと通じる。

 自分が自由であると思う〈すなわち、彼らが自由意志によってあることをなしたり、またしなかったりすることができると思う〉人がいるとすれば、その人は誤っている。このような意見を述べることは、ただ、彼らが自分の行動を意識し、自分がそれへと決定される諸原因を知らないからである。それゆえ彼らの自由の観念は、彼らが自分たちの行動の原因を何も知らないことにある。なぜなら、彼らが人間の行動は意志に依存するというならば、それはたんにことばだけにすぎず、その意味については何も理解していないのである。なぜなら彼らはみな、意志が何であるのか、また意志が身体をいかにして動かすかを知らないからである。そして、それを知っていると口ばしり、魂の座席や住居を考えだす人は、嘲笑か不興を買うのが常である。
(第二部:定理35:注解)

 すなわち、人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているが、その行為を決定する原因については無知であるという、ただそれだけのことにある。(…)したがって、精神の自由な決意によって、しゃべったり、あるいは沈黙したり、あるいはまた他のことをする自由があると信じこむ者は、目を見開いたままで夢を見ているようなものである。
(第三部:定理2:注解)

 これは無意識を発見したフロイトの精神分析にも通じるようなところがあり、それをさらに徹底したラカンの「欲望とは〈他者〉の欲望である」というテーゼにも通じるように思われる。また、ラカンは自らの講義録(セミネール)の中でスピノザをしばしば高く評価している。
 我々は無限の因果の連鎖の流れの中にいるのだが、人間個人の知性は有限である以上、自らの行動の原因について無知である。その結果として、自らに自由意志があると思い込んでいるにすぎない。この無知から逃れ至福へと至る方法をスピノザは『エチカ』の中で示してもいるが、それをここで述べることはよそう。

 スピノザは自由意志を否定し、自らを自由だと思う人間の無知を指摘する。レヴィナスはその他者論において、把握不可能なもの、また把握が許されないものを示した。
 両者は共に、人間の思い上がりを否定しているように思われる。
 いささか詩的な言い方だが、哲学や倫理学に「魂の成熟」という目的があるならば、それは幼い万能感を捨て去る過程を含むだろう。暴論ではあるが、幼稚な万能感を捨てるという観点で見れば、すり合わせることが不可能に思えた二つの「無限」に、どこか通じるものが見出せないだろうか。これが本論の一応の結論である。

 しかし、この論旨と姿勢はスピノザからもレヴィナスからも許されはしないだろう。二者間の考えを調停しようという立場は、自らを特権的なメタ・レベルに置いている。スピノザの見地からすれば、それは存在しえないはずの外部だし、レヴィナスからすれば他者を把握しようという暴力をふるっているということになる。
 この文章は蛇足になることも許されていないのだ。無限は厳しい。

(文責 土佐巌人)

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月例読書会のお知らせ

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
本年も当ブログを何卒よろしくお願いいたします。

1月25日(水)14時45分より、明治学院大学白金キャンパス1558教室において、
明治学院大学言語文化研究所様が主催されます、
首席フェロー宇波彰による月例読書会「記号哲学講義」が行われます。

参考URL:
http://www.meijigakuin.ac.jp/~gengo/bookclub/index.html

今回のテーマは「ラカンのサントーム3」を予定しております。

参加費は無料です。
関心のある方はぜひご参加ください。

参加を希望される方は当日教室まで直接お越しください。
お問い合わせは上記URL、明治学院大学言語文化研究所様か、
当ブログコメント欄までご連絡いただきますようお願いいたします。

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