宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

第二回ラカン読書会のご案内

第一回のラカン読書会を7月28日(土)-29日(日)の2日間にわたり実施しましたが、宇波先生発案の同一テーマの「3人発表制」は、発表者の個性が滲み出て、なかなか刺激的でした。今回もその方式を踏襲し、ポレミークな議論を展開したいと考えています。

【実施要綱】
日時:
11月17日(土)15:00-21:30
11月18日(日)10:00-16:00

会場:
駒澤大学会館246
東急田園都市線 駒沢大学駅下車 徒歩5分
http://www.komazawa-u.ac.jp/cms/campus/c_komazawa/

テキスト(読解範囲):ラカン『セミネ-ル11』(邦訳:『精神分析の四基本概念』岩波書店 2000年 5,000円)
第一部
①邦訳Ⅴ;チュケーとオートマン
第二部対象「a」としての眼差しについて
②邦訳Ⅵ;目と眼差しの分裂
③邦訳Ⅶ;アナモルフォーズ
④邦訳Ⅷ;線と光

記:原著名 Livre XI, Les Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, [1964], Seuil, 1973.(日本amazonで入手可能〉

時間割(発表):
17日(土)15:00-18:00:前回のまとめ30分 Ⅴ;チュケーとオートマン 発表(3人)各30分、残り1時間質疑・応答
17日(土)19:00-21:30:Ⅵ;目と眼差しの分裂 発表(3人)各30分、残り1時間質疑・応答
18日(日)10:00-12:30:Ⅶ;アナモルフォーズ 発表(3人)各30分、残り1時間質疑・応答
18日(日) 13:30-16:00:Ⅷ;線と光 発表(3人)各30分、残り1時間質疑・応答 今回のまとめ及び次回の開催の打ち合わせ30分

「第二部Ⅸ;絵とは何か」は次回に繰り越しです。

発表は、同一テーマに関して3人がおこないます。原則として参加者は全員発表を担当することにします。ご了解ください。そのため、参加不可能な方、発表を辞退する方は事前にお申し出ください。それに基き、早急に担当をお知らせします(籤引きで決定)。

発表される方はA4用紙1-2枚程度のレジュメをご用意ください。

会費:
「11月18日は日曜のため管理人の人件費がかかる」ということで、時給1,600円×6時間(10:00-16:00)とするとその費用は9,600円になります。
参加人数を15人と想定し、土曜日だけの参加の方が費用を負担しないのは公平性を欠くので、総人数30人で、一日/一人の会費を算出することにします。
9,600円÷30人=320円/日/人  従って2日間の参加であれば、640円になります。ご了解ください。

連絡先:
世話人・吉沢の連絡先を記しておきます。
meisan46@kind.ocn.ne.jp

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書評  小林敏明『<死の欲動>を読む』 

 ジャック・ラカンが1964年に行なった『セミネールXI 精神分析の四基本概念 』は、彼のセミネールのなかでも特に重要視されている。(2010年にベルギーのラカン研究者クリスチァン・フィーレンスは、このセミネールについてのきわめて独自の「読解」を発表している。ラカンはこのセミネールにおいて、精神分析の四つの基本概念が「無意識・反復・転移・欲動」であると述べたが、フィーレンスは「第五の基本概念」として「対象a」を追加することを提案している。)精神分析の概念としての「欲動」の重要性がラカンによって認識されていたと見なければならない。フロイトの孫の「いないいないばあ遊び」(Fort-Da)も論じられている「快原則の彼岸」(1920)においては、「生の欲動」とともに「死の欲動」(Todestrieb)の概念が示されている。本書は、その「死の欲動」の概念についての綿密な考察である。
 著者はまずこの「死の欲動」の場である「無意識」の前史についてシェリング、ショーペンハアー、ニーチェなどに遡って検討する。次にフロイト自身の思想形成の過程で、「無意識」という考え方がどのように展開していったかを明らかにする。この二つの「前史」には、われわれの知らない思想家・科学者も登場するが、著者はわれわれにはなじみの薄いものもある彼らの著作にもいちいちあたって、どういう考えがフロイトの思想の背景にあるのかを子細に解明していく。そして、フロイトの思想がいかに「自我/意識中心主義」というパラダイムの転換であったかを論証する。これはフロイトの考えを、哲学の立場から「思想史的に」捉え直そうとする試みと理解できる。「不断に練りなおされるフロイトの基本構想において<死の欲動>を想定することが、いかに大きな転換を強いることになったか」(p.141)が著者にとっての問題である。この「転換」もしくは「転回」こそ、フロイト論の重要なテーマの一つであるというべきであろう。
 「快原則の彼岸」において、「死の欲動」を中心に位置させ、そこにフロイトの思想の一種の「転回」を見ようとするのは著者だけのものではない。「快原則の彼岸」も収められているフロイトの論文集"Das Ich und das Es"の解説で、マックス・ホルダー(Max Holder)は「快原則の彼岸」においては、それまでの快原則と現実原則という対立関係に代わって、生の欲動と死の欲動という新たな対立関係が考えられたと指摘している(S.21)。また、邦訳のあるクセジュ文庫『フェティシズム』の著者ポール=ローラン・アスンの『精神分析文献事典』の「快原則の彼岸」の項を見ると、死の欲動という問題設定が「重要な革新性」(innovation majeure)を持つものであると指摘されている(p.225)。すでにアスンは『精神分析』(1990)においても、フロイト思想の「1920年の転回」(le tournant de 1920)について論じているが、それは「死の欲動」の概念が提示されたことを意味する。
 また、三原弟平は、『ベンヤミンと精神分析』において、フロイト自身が「死の欲動」の概念が「いまだ確立していないことを認めていた」と指摘し、次のように述べている。「いや、確立どころか、この著作(「快原則の彼岸」)は、<死の欲動>という素材をはじめて思考の俎上の提出しただけの、まったくの準備段階、助走段階のものにすぎない」としている(p.58)。「死の欲動」は、「はじめて思考の俎上」に乗った新たな概念として位置づけされているのであり、これはアスンの考えに通ずるものである。なお、三原弟平の『ベンヤミンと精神分析』によると、ベンヤミンは「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」において、「快原則の彼岸」に言及しているが、「死の欲動」には触れていない(p.26)。小林敏明は現代生物学の成果をも検討し、「フロイトの生の欲動と死の欲動との二元論仮説」が「かならずしも時代遅れの妄想などではない」と説く。フロイトが同時代の自然科学の成果をつねに意識していたことが重視されている。
 著者が強調するのは、「欲動を核とする無意識」についてのフロイトの考えは、あくまでも仮説であり、Spekulationであるという見方である。アスンもSpekulationという用語を特に重視し、「以下はSpekulationである」というフロイトのことばを引用している(p.225)。ポール・リクールのフロイト解釈は、ラカンの解釈と徹底的に対立しているといわれているが、そのリクールも『フロイトを読む』において次のように述べている。「『快楽原則の彼岸』はフロイトの著作のなかで最も解釈学的でなく、思弁的である。つまりその著作では、極限にまでおしすすめられた仮説や、発見のための理論的構成などが占める部分が極度に大きいのである。」(p.308)(ここで「思弁的」と訳されているもとのフランス語は、speculatifであり、「思弁的」という訳語ではカバーしきれないものがあることはいうまでもない。Spakulationは、思弁であるが、同時に資本を「運に任せて投機すること」でもある。)この意味でのSpekulationに関係することであるが、評者にとって最も印象に残るのは、著者がフロイトの論文のなかから「勇気」(Mut)ということばを見いだしてくるところである。「死の欲動」を支えるものは「反復強迫」であるが、フロイトにとってはこの概念はあくまでも「仮説」である。著者もまた「フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠の支えられちるわけではない」と断言する。フロイトは「実証的根拠」を欠いたその仮説を主張する「勇気」(Mut)が必要だと説いた。フロイトは次のように書いている(小林敏明の訳による)。「われわれは次のような仮説を立てる勇気を見いだすことだろう。すなわちそれは、心的な生のなかには快原理を超え出るような反復強迫が本当にあるという仮説である。」(p.106) 仮説もしくは概念を示すときに「勇気」が必要だという考えがここに明白に示されている。仮説とは、当然と見なされていたことを否定したり、いままではなかったような新しい考え方んことであるが、それを真なるものとして提示するためには「勇気」が必要だというのである。フロイトのテクストにある「勇気」ということばを見いだしてきたのは、著者の卓見である。
 この論点に関連して想起されるのは、ジャック・ラカンが『精神分析の四基本概念』で次のように述べていることである。「実際概念は、それが把握すべき現実への接近によって形作られるとしても、概念が実現化を達成するのは、極限におけるある飛躍、ある乗り越えによってでしかありません。」(邦訳p.24)ラカンがいう「飛躍・乗り越え」(saut,passage)は、勇気がなければ行われない。これはラカンがこのセミネールで語った「学者(フロイト)のよく知られたこの勇気」(邦訳p.43,Seuil版p.35)のことであろう。真理の確実性、あるいは「確信」を支えるものは、この「勇気」にほかならない。
 著者は「フロイトを徹底的に読み直す」(p.217)を目標としたと書いている。それはけっして容易なことはない。たとえば著者はフロイトの「自我とエス」で示されている「死の欲動」についての説明が「すべて接続法第二式」で書かれていて、それによって「述べられている内容のすべてが仮定であることが明示されている」(p.191)と説いている。このように、本書は「死の欲動」に関してなされた綿密な解読の報告である。その難しい作業の報告が、きわめてわかりやすい文章で記されていることに評者は感銘を覚えた。

引用文献

小林敏明『<死の欲動>を読む』,せりか書房、2012

S.Freud,Einleitung von Max Holder,Das Ich und das Es,Fischer Taschenbuch Verlag,1992
ジャック・ラカン、小出浩之他訳『精神分析の四基本概念』、岩波書店、2001
J.Lacan,Quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse,Seuil.1973
Paul=Laurent Assoun,Dictionnaire des ouvres psychanalytiques ,PUF,2009
Paul=Laurent Assoun,Freudisme,PUF,1990
Christian Fierens,Lecture des quatre concepts fondamantaux de la psychanalyse ,E.M.E.,2010
三原弟平『ベンヤミンと精神分析』水声社、2009
ポール・リクール、久米博訳『フロイトを読む』新曜社、1982

(付記。この書評は、2012年8月に「ちきゅう座」と、早稲田大学の高橋順一教授のブログ「高橋教授の書評空間」にアップされたものに加筆・訂正を施したものである。 2012年9月25日。)

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武田 好『マキャベリ-君主論』(NHK出版 2012年8月)

武田 好様
 
ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(8月10日-23日開催)から8月26日帰ってきたら、貴著『マキャベリ-君主論』が届いていました。早速読んで今日に至りました。ありがとうございます。

感想を述べる前に、ペーザロのことを一言。
オペラは猛烈によかった。言うことなし。オペラの感想の一端は、イタリア近現代史研究会の辻昌宏さんのブログ「イタリアに好奇心」で垣間見ることができます。ご覧ください。

一回しか会っていないのに、それも数分間の立ち話なのに、昔からの友人という錯覚を覚えました。それは、まずは、NHKのラジオ「イタリア語講座」をテープにとって聞いていたから、その独特の「甘苦しい」口調が文体に滲み出ていて、凄く親しい存在に感じたこと、マキアヴェッリ像が僕のそれとほとんど一致していて、限りない親近感を覚えたこと、武田さんが故藤沢道郎氏の弟子であることがわかって僕とかなり近い距離にあること、によります。

マキアヴェッリ像のことは後で触れるとして、故藤沢道郎氏とはお目にかかったことはないけれども、合同出版刊行の『グラムシ選集』、デ・フェリーチェの翻訳、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』(中央公論社)でかなりの「学恩」を彼には感じています。それと、武田さんも参加された『外交使節報告relazioni』の翻訳作業です。今、イタリア近現代史研究の仲間とともに「手垢にまみれたグラムシ像」の再構成を目指して、著作にまとめることを試みてみます。僕のテーマは「1922年-24年におけるグラムシのファシズム認識の問題点」です。それは、上述のデ・フェリーチェの論述から示唆を受けたのですが、当時のグラムシは、その認識がやや揺れ動く(ジグザクする)ところがあって、ファシズムの登場の評価に対して結果的に甘いところがありました(やや「甘く」見ていた…)。それは、その後左派陣営がファシストに付け込まれ、蹂躙されることに繫がったと受け止めています。もちろん、グラムシの責任などとは到底いえないが、ファシストとのやり取り・抗争の動態の中で、それを多少とも明らかにすることが目的です。その点では、『ファシズムの誕生-ムッソリーニのローマ進軍』が何かと役立つでしょう。

さて、マキアヴェッリ像ですが、10年近くにわたって、『君主論』に始まり、『ディスコルシ』の原書読書会をやっていて(文京区・男女平等センター、第3金曜日18:30)、我々はかなりの程度マキアヴェッリ主義者machiavellistaで、彼のことを「マキアヴェッリ先生」と呼んでいるくらいなので、武田さんがマキアヴェッリに惚れ込むモチーフはほとんど理解できます。今、『ディスコルシ』第3部第8章まで読了したので、原文のマキアヴェッリ節、文体の魅力はかなりの程度体得していると受け止めています。その多少の知識から本著の感想を述べることにします。

この本を読む限りでも、武田さんがsincera(注:「裏表のない」、「真摯な」を示すイタリア語で、この場合女性形)であることに限りない共感を覚えました(僕の知り合いのイタリア政治史研究者のメールアドレスがsinceroであり、それが彼の生(ナマ)がたくて、率直な気質を物語っているように…)。マキアヴェッリの表現、彼の職業上の役割からマキアヴェッリ像の再構成を試みていることに、bravissima !と叫びたい気持ちです。「権力(オトコ)の美学」の観点からマキアヴェッリのイメージをもっぱら喚起する塩野七生さん(70年代には彼女の役割は大きかったと評価しますが…)や、「権謀術数」の書として読み込む俗流解釈と異なり、真摯にマキアヴェッリの足跡を位置づけ、マキアヴェッリの含意を抽出する姿勢にまず共鳴します。
『君主論』が「再就職活動のための書」であるという見立てはその通りでしょう。技術的なことから言うと、図解はすでに読んだ(学んだ)者からすると、逆に、皆素晴らしい。P69のマキアヴェッリ先生の訓戒の図解の箇所はその通りで、『ディスコルシ』を読んでいるとき、常にそのことを念頭においています。我々が学んだ、マキアヴェッリ思想(哲学)の諸点は、「狐とライオン」の逸話を初めとして、実に目配りよく網羅されている。第25章のvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)の解説はその通りで、ここを強調するのが最大の主題ですが、僕は『君主論』ではこの箇所がもっとも気に入っています。それと、原文を引用することを意識的に避けているけれども、論法(記述)の特徴として、「~か、あるいは[oppure]、~か」を指摘しているのは、嬉しくなりました。「これは読者に選択の余地を与えるものです」(P106)。その通りです。それと同様に、マキアヴェッリが「Anche se …, nondimeno」(注:「…ではあるけれども、だがしかし」の意味)を多用するのは、一旦、読者の、あるいは従来の主張を認めながら(それを活して)、自論を展開していく、彼一流の議論のテクニックであり、その意味で「ディスコルシdiscorsi」なのでしょう。

以上、述べたように武田さんのマキアヴェッリ論にはほとんど賛意を表するのですが、ただ、「「政治思想の書」ではなく「政治実践の書」である」という主張には、やや留保したい気持ちです。確かに『外交使節報告relazioni』の読解から「政治実践の書」をあえて強調したい気持ちはよく分かります。しかし、その一方で、『君主論』は政治哲学上の含意に溢れている。「慎重であるより果敢であれ」とは、まさに『君主論』が「決断」の政治哲学の書であり、それがvirtù(力量)とfortuna(運命、幸運)及びoccasione(好機)と一体のものであることに言及する必要があると感じています。それは、ある意味カール・シュミットの決断(主義)の考え方にも繫がるものがあります。ご指摘のような「時代の流れと自分のやり方を一致させること」は、実践家(軍事アドバイザーでもある)・マキアヴェッリの真骨頂です。その一方で、occasione(注:好機)あるいはopportunità(注:時宜に適すること)、necessità(注:必然性-運命)の考え方とも繫がっている、と思うのです。その点、僕もわからないところがあるのですが、もう少しその点に言及してくれればよかった、というのが率直な印象です。

いずれにしても、本著は極めて平易なスタイルで書かれているけれども、その指摘は急所を捉えており、僕のマキアヴェッリ仲間にも是非推奨したいと思います。ありがとうございます。

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