宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

「同質的集団」の危うさ

1 同質的集団としての自民党

 2015年9月8日に,自民党の次期総裁に安倍晋三の再選が無投票で決まった。これによって、自民党という政党が「同質的集団」であることが改めて明確になった。この「同質的集団」について考えて見たい。
 1970年代には、アンリ・ルフェーブルの都市論が日本でもかなり読まれていた。そのうちの一冊である『都市への権利』の第一章のタイトルは「農村から都市社会へ」である。その冒頭で、アンリ・ルフェーブルは、現代という産業化の時代においては,「社会の完全な都市化が必然的である」という仮説を提示しなければならないと説いた。かつての農村は、行政と教会による二重支配を受けていたのであり、「農村から都市へ」という移動は、「自由」の獲得を意味したというのである。ジャック・ル・ゴフの『中世西欧の文明』では、中世末期のヨーロッパにおいては、「教会の鐘と役場の鐘」(les cloches des clercs et les beffrois des laics)とのあいだ、つまり宗教的な時間と世俗の時間とのあいだに争いがあったと記されている(p.50。
 アンリ・ルフェーブルの『都市革命』の最初のところに,「都市の空気は人間を自由にする」と言うヘーゲルのことばが引用されていた(ように思う)。つまり、農村のがんじがらめの生活から,都市の「自由な」生活への変化が肯定的に捉えられていたのである。しかし実際は、都市に来た農民は、資本家に搾取される労働者へと変質していく。ただし、他方では現代都市の住民には、確かに「隣は何をする人ぞ」という状況もある。都会のアパート・マンションの住民は、隣人についての「情報」を知らない。それが現代人の自由であると思われてきた。しかし、最近のネット社会は、このような考えに疑問を抱かせ始めている。          

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