宇波彰現代哲学研究所

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扶余の記憶

 去る2016年1月下旬に、韓国の扶余(プヨ)に出かけた。扶余は、ソウルから南へ200キロメートル行ったところにあり、6,7世紀に百済の都があったところである。前日まで大雪だったそうで、かなりの雪が積もっていた。またきびしい寒さが続いていて、そのためか観光客の姿はほとんどなかった。扶余の観光地で最も有名なのは、百済時代に建てられた定林寺の跡である。  
 私は出かける前に、小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』(六興出版、1986)を読んだが、この本の著者は終戦まで平壌博物館の館長だった方である。著者は最初1922年に扶余を訪れるが、そのとき見た定林寺跡について、次のように書いている。「かなり広い寺跡で、南に五層の石塔が聳え、北に離れて大きな石壇上に座像の焼けただれたような石仏が存在していた。」(p.181) つまり、1922年には、定林寺跡には、石の五重塔と大きな石仏しかなかったのである。しかもそのときは、その寺が何という寺なのかも不明であったという。小泉顕夫によると、1943年になってようやく「定林寺」であることがわかったが、それは藤沢一夫という研究者の努力によってであった。藤沢一夫の名は現地の説明文にも記されてある。
 百済の史跡を訪ねるのは、もちろんたいへん興味のあることであったが、私はそれ以上に『朝鮮古代遺跡の遍歴』で記されている「内鮮一体化運動」が気になった。「内鮮一体化」とは、日本が朝鮮の植民地化を進めるときのスローガンであった。日本人と朝鮮人とを同一化しようとするものであるが、同一化といっても朝鮮人を日本人に同一化させようとするものにすぎない。
 当時の日本は、朝鮮人を日本人に「同化」させるために、いわゆる「皇民教育」を行なった。その一環として「神社参拝」が強制された。ソウルにあった朝鮮神宮は有名であるが、ピョンヤンにも「平壌神社」があった。朝鮮神社の祭神は、天照大神と明治天皇であり、朝鮮の民衆とは何の関係もない。趙景達『植民地朝鮮と日本』には、平壌神社に参拝させられる朝鮮人の「陸軍兵志願者」の写真が収められている(P.205)。
 そして当時の朝鮮総督府は,1940年ごろ、扶余にも「扶余神宮」を造ろうとしていたことが、小泉顕夫の著作からわかる。それは遺跡を破壊して造られる予定であったらしく、著者たちがその破壊の進む前に、調査をしようと努力したことがわかる。しかし戦争が激しくなり、扶余神社を建てることなど不可能になって、やがて終戦になる。現実に扶余神社は建てられなかったが、当時の日本は、「内鮮一体化」と称して,実は日本の「神」への信仰を強制したのであり、それはけっして「一体化」にはなりえなかった。(2015年1月30日)

参考文献

小泉顕夫『朝鮮古代遺跡の遍歴』六甲出版、1982
趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013

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