宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

キルギス映画「馬を放つ」を見る

 去る2017年12月に、私は試写でキルギス映画「馬を放つ」を見た。現代の日常生活では、馬が話題になることは競馬を除いてほとんどない。さらに、「馬車馬のように働く」というような馬に関連する言語表現は、「馬車馬」が存在しない今日では、もはや使いようがなくなりつつある。馬に限らず、比喩に用いられていた対象そのものが存在しなくなったために、その対象を用いた表現が消えつつある。2018年1月に中国を訪れたフランスの大統領マクロンが、習近平主席にフランスの馬4頭を贈ったというニュースは ニュースの価値のあるものであった。「馬を放つ」は、われわれの視界から消えつつある馬が登場する貴重な映画である。
 この映画の元のタイトルは「ケンタウロス」で、それはこの映画の主人公の綽名でもある。「馬を放つ」という日本での上映タイトルは、村上春樹が訳したジョン・アーヴィングの小説『熊を放つ』(Setting free the bears)から借りたものかもしれないと、若い友人に教えられた。しかし「馬を放つ」というタイトルは、この映画の内容をピタリと言い当てている。
 「馬を放つ」というのは、つながれている状態の馬を解放するということである。この映画の主人公ケンタウロスの欲望は、「馬を放つ」ことであるが、彼はそれによって何らかの利益を得たり、馬を自由にしてやって喜んでいるわけではない。「馬を放つ」のは、彼の純粋な欲望以外のものではない。しかし、それは現実には「馬を盗む」行為であって、「社会的規範」に反することであり、「犯罪」である。共同体の「掟」と、彼の「欲望」との決定的な矛盾・対立がこの映画のテーマである。
 それでは「馬を放つ」というのはどういう欲望なのか? 映画の中で,主人公ケンタウロスが語る印象に残ることばがある。「イスラム教の始祖ムハンマドは、文字を知らなかったので、馬に乗って天上に昇り、そこで神から直接に教えを受けたのだ。」ケンタウロスによる、このような馬への絶対的・献身的な欲望には、なにか宗教的なものがある。ギリシア神話では、半人半馬のケンタウロスは天に昇って星座のひとつになる。これは翼を持つ馬であるペガサスにおいても同じである。映画「馬を放つ」のなかで、主人公が馬を放ちたいと願ったのは、実は天に向かって放ちたかったのではないか。しかし、それはあくまでも彼の宗教的・想像的領域の問題であり、ラカンの概念を借りるならば「ル・レエル」の領域のことにほかならない。実践の世界、具体的には彼が障害のある妻・こどもと暮らしている村落共同体という現実の領域では、彼のこのような「幻想」は通用しない。彼は「馬泥棒」として逮捕され、その処分は村民の会議にまかされる。それは一種の直接的民主制のようにも見えるが、彼はそのような「世俗的」な解決に従うことができない。
 私にとって、この映画はきわめて「哲学的」な作品であった。
 
 この映画を見たあと、ふと想起されたのは、ケンタウロスと馬頭観音の関係を考えていた丸山静のことである。彼の考察の一端は、『熊野考』(せりか書房、1989)に収められている「馬頭観音」において示されている。この論文にも「馬を放つ」話が出てくるが、丸山静は熊野を歩いていて、補陀落山寺の観音堂で背丈80センチの馬頭漢音を見いだし、「馬頭観音,あれは何だろう?」と自問する。そして、次のように書いている。「古代のギリシアには、ケンタウロスというものがいた。デューラーがしばしば描き、フッサールも好きで、議論のなかによく引き合いに出したあれである。またインドにはガンダルヴァ、イランにはガンダレウァというものがいたし、北方のスラブ諸民族のあいだには、ゴディというものがいた。それらはいずれも半人半馬の怪物であったといわれている。」(p.71)
 この映画の舞台になっているキルギスは、中央アジアの国で、中国の西隣りに位置している。玄奨三蔵もインドへの往復にキルギスを通って行ったのである。古くから馬の産地として知られたところであり、馬にまつわる神話・伝説もあるはずである。ケンタウロスというと、いかにもギリシア神話風に聞こえるが、実際は中央アジアがその起源かもしれない。
 日本に馬が渡来したのは、4世紀後半であるといわれる。古墳時代であり、埴輪にも馬が登場する。聖徳太子が馬に乗っていたことは、伝承にも見えることである。数年前、静岡県立近代美術館で「富士山の信仰と芸術」という展覧会があって行ってみたが、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を登って行く絵が展示されていたと記憶する。聖徳太子が富士山という高い山に馬に乗って登るということが重要である。聖徳太子はリクリエーションとして富士山に登ったのではなく、「高いところ」を目指して、つまり何か宗教的なものを求めて登ったはずである。(2018年1月19日) 

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戦争画から民家のある風景画へ

 北風が冷たい年の瀬。12月28日。この駅に降りるといつも見かける大学生の姿はまったくない。大学はすでに冬休み。人影もまばらだ。改札口で地下鉄の駅員にもらった地図を頼りに大通りを右折した。少し歩き、左折。横道に入る。この辺りは閑静な住宅街。10分ほど歩いて、道を間違えたことに気づく。誰かに道を聞こうと思ったが、通行人がいない。しばらくしてやっと自転車に乗った初老の婦人に出会う。目的地までの道順を丁寧に教えてくれ、無事美術館に着くことができた。
 世田谷美術館分館向井潤吉アトリエ館は1993年に開館した。この分館は生前、向井が長年住んでいた自宅とアトリエを美術館にした建物である。2017年も終わろうとしているこの時期にここを訪れようと思った理由は単純だ。昨日、戦争画についての資料を漁っていたとき、『美術手帖』2015年9月号の特集が「絵描きと戦争」であることを知った。今日、急いで、自宅から少し離れた市立図書館でその号を借りて読む。この号では戦時中戦争画を描いた画家の中で、藤田嗣治、宮本三郎、そして、向井潤吉が大きく取り上げられており、三人の画家の戦争画についてのテクストが掲載されていた。向井の戦争画については、小杉放菴記念日光美術館学芸員の迫内裕司の書いた「率先して従軍した戦争画の開拓者:向井潤吉」という論文があった (以後、迫内に関する引用はこの論文からである)。この特集号を読んで、戦争画の展示はされていないだろうが、「向井潤吉 1970’s-1980’s 民家集大成」という展覧会が開催されている世田谷美術館分館に行き、彼の絵をじっくりと見たい。そう思ったのだ。
 向井潤吉の絵画について書かれたものの多くは、戦後の「民家の画家」という側面だけが強調され、戦争画家としての側面を正面から論じたものはほとんどない。そういった中で迫内の論文は特異なものであるが、「«突撃» の鬼気迫る表情に兵士の抱える漠然とした不安を見ることが出来るように、また、中国の町並みに日本の戦闘機が影を落とす («影(蘇州上空にて)» (1938) が、どちらかといえば中国側が受ける恐怖感を煽るように、向井の日中戦争の戦争画には、人々が気づかないふりをしていた、事変といいながらズルズル長期化していくこの戦争の闇を浮かびあがらせかねないものが、しばしば見受けられた」といった文章を読むと、向井には反戦的な思想があったような錯覚さえ受けてしまう。だが、それは正しい認識ではない。向井は戦争を熱烈に称賛してはいなかったが、反戦思想からも遠い位置にいた。彼は進んで戦争画を描きたいと考え、戦場に赴き、高揚した心持ちで戦争を記録したのだ。私はこうした向井の絵画制作姿勢が戦後の民家を描いた絵の中にも何らかの形で残っているのではないかと思ったのだ。
 この探究のために、ここでは「向井潤吉の初期作品」、「向井潤吉の戦争画」、「何故民家のある風景を描くのか?」という三つの探究視点からの考察を行う。この三つの視点による考察だけで十分に向井の戦争画問題について論じられるかどうかは判らない。しかしこうした問題を正面から取り上げた論文がない以上、このテクストを書くことも無駄なことではないと信じ、拙論を展開していく。 

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