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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

フラハティの「モアナ」を見る

 去る2018年6月20日に、私は試写でロバート・フラハティの「モアナ」を見た。これはフラハティが数年かけて撮り、1926年に公開したサイレント映画であるが、今回上映されたのは、音声を加えた新版である。1920年代のサモア人の生活を描いたドキュメンタリー映画とされている。しかし、試写の会場でもらったパンフレットに載っている、きわめてわかりやすい金子遊氏の解説によると、この映画は「実在の家族や人物をそのまま記録するのではなく、キャスティングした現地の人々を使って劇化し、昔ながらのサモアの姿を再現して描いた作品」である。
 サモアとはどういうところか?手元にある古い百科事典(1965年版の『アメリカーナ』)などで調べてみると、サモアに最初にやってきたヨーロッパ人は、オランダのロッゲフェーンという人で、1722年である。その後、19世紀末の「帝国主義」の時代に、サモアはドイツとアメリカの植民地になった。1899年のことである。遅れて成立した「国民国家」であった当時のドイツ帝国にとって、征服すべき植民地として残っていたのは、アフリカの一部と、南太平洋の島々だけだった。
 同じころ、サモアでフィールドワークを行なったアメリカの人類学者マーガレット・ミード(1901~1978)は、1928年に『サモアの思春期』(Coming of age in Samoa)を刊行した。(金子遊氏もこの著作に言及している。)彼女はそのあと、ニューギニアでイギリス生まれのアメリカの文化人類学者グレゴリー・ベイトソン(1904~1980)と知り合い、結婚する。二人で書いた『バリ島人の性格』は写真を多用した著作で、映像人類学の先駆的な業績だとされている。
 「モアナ」を見ると、主食であるタロ芋は無尽蔵にあり、魚はいくらでも釣れる。ヤシの実はふんだんにあり、『アメリカーナ』がsemiwild pigとしている、イノシシに近い野豚も罠をかけて捕まえることができる。桑の樹皮から服を作り、ウミガメの甲羅からは装身具を作るであろう。何よりも平和であり、スクリーンに登場する少年はいつも笑っている。「モアナ」のサモアは「楽園」そのものではないか。
 ところで私は、たまたまエンゲルス(1820~1895)の『イギリスにおける労働者階級の状態』(大月書店、国民文庫、1971)を読み直したところである。エンゲルスはロンドンの貧民居住地区について次のように書いている。「完全な窓ガラスなどはほとんど見当たらないし、壁はくだけ、入り口の戸柱や窓枠はこわれてがたがたになり、ドアは古板を寄せ集めてうちつけてあるか、あるいはまったくつけてない。汚物と塵埃の山があたり一面にある。」(p.93)およそ人間の住むところとは到底いえないそのあたりは、「貧民のなかのもっとも貧しい者」、つまり「不潔と貧乏によって堕落した多くのアイルランド人」が住んでいるところである。また英訳で読んだエンゲルス選集では、1844年のマンチェスターの貧民街に住んでいるのも、「アイルランド系の一群の労働者たち」である。(F.Engels,Selected writings,Penguin Books,1967,p.30) エンゲルスが描写する1840年代のロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たちとその家族の生活に比べると、「モアナ」で描かれたサモア人の日常は,極楽そのものである。実際、この映画のサブタイトルは「最後のアルカディア(理想郷)」である。
 アイルランドでは、1845年から1852年にいたる大飢饉があって、多くのアイルランド人が死亡した。すでにその前からアイルランドはイギリスの徹底的な植民地政策によって極度の貧困状態にあったが、主食であったジャガイモの「胴枯れ病」(blight)で、いわゆる「ジャガイモ飢饉」となり、「ウィキペディア」によると、当時のアイルランド人の20%が死亡、10~20%がイギリス、アメリカに移った。しかし、アイルランド人は、この飢饉の前からも、すでにイギリスに職を求めて移住していたのである。エンゲルスが見た、悲惨な生活をしているロンドン、マンチェスターなどのアイルランド人労働者たたちは、はやくからアイルランドに見切りをつけていた。テリー・イーグルトンの『ヒースクリフと大飢饉 アイルランド文化の研究』(Terry Eagleton,Heathcliff and the great hunger ,studies in Irish culture,Verso,1995 )によると、1847年までに、リヴァプールには30万人のアイルランド人が押し寄せた。いまでいう「難民」である。エミリー・ブロンテが『嵐が丘』を書き始めたのはそのころであり、イーグルトンはヒースクリフがアイルランド人であった可能性が高い(quite possibly Irish)と書いている(p.3)。
 Antonio Napolitano,Robert Flahaty,La Nuova Italia,1975によると、フラハティの祖父は、1850年にアメリカに来たアイルランド人であるとしているが、フランスの映画事典によると最初はケベックに来たと記してある。それはおそらく彼がカトリックのアイルランド人であったという宗教的な理由であろう。フラハティは1884年にミシガンで生まれているが、彼には「アイルランドの記憶」が祖父母、両親から与えられていたと見ることができる。
 フラハティが「モアナ」で作った世界は、確かにサモアの現実の描写ではなかったかもしれない。しかし、彼はこの映画で「人工楽園」を作り出したのである。エンゲルスが告発した、19世紀半ばのアイルランド人の極度の窮乏生活とは正反対の世界をスクリーンに描き出したのが「モアナ」である。(2018年6月29日) 

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中村研一の戦争画

 そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
 駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
 このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。 

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