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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

過去の出来事が織りなす声の響き

 先月の上旬、ジョージアのテンギズ・アブラゼ監督の「祈り」、「希望の樹」、「懺悔」という三部作を神保町の岩波ホールで見た。私は初めこの三部作全体についてのテクストを書こうと思った。だが、宗教、政治、社会問題だけではなく、映像的な美やポリフォニー的音楽性などが複雑に絡みあったこれらの映画について短いテクストの中で考察していくことは不可能であると判断し、この計画を中止した。だがその代わりに、三部作最後の作品である「懺悔」と香月泰男のシベリア・シリーズとの連関性について考察していこうと思った。確かに、前者は映像記号によって創作された作品群の一つであり、後者は絵画記号によって制作された作品群であるという大きな相違点がある。しかし用いられている記号の違いにも係わらず、前者と後者には共通する基盤があるように考えられたからだ。それはテーマ的類縁性、連作による作品構築の過程で作られたものという形式上の同一性、過去の出来事に対する倫理的問題設定である。こうした問題設定の探究は用いられている記号の差異を超えて記号学的な地平を広げ、記号間の広がりを横断しながら、アブラゼの作品と香月の作品群とをある方向へ収斂させていくように私には思われたのだ。それゆえ、ここでは今述べた二つのものを比較検討していくが、その探究手順は以下のように行われる。最初に「懺悔」を巡る問題についての考察を、次にシベリア・シリーズに関する問題の考察を行い、三番目に過去の出来事に対する倫理的な責任という問題について考え、最後にこれらの問題を総合化していく。 

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「葡萄畑に帰ろう」を見る

 去る2018年9月27日に、私は試写で、エルダル・シェンゲラヤ監督のジョージア映画「葡萄畑に帰ろう」を見た。シェンゲラヤは、私と同じ1933年生まれのジョージア映画界の長老であるが、むしろ「若さ」を実感させる作品である。いたるところに奇想天外な発想があり、CGを使って現実を超えて行くが、内容はジョージアの現実から離れることがなく、政治的なものもたっぷり含まれている。ひとことでいえば徹底的にジョージア的な映画である。あるいはむしろこの映画がジョージア的なものを創り出している。
 この映画の舞台は現代のジョージアの首都トビリシで、「難民追い出し省」の大臣が主人公である。彼は亡妻の姉、幼い息子、使用人夫婦と豪邸で暮らしている。娘もいるが、ほかのところにいる。彼は「難民追い出し大臣」であるから、首相の命令で難民を追い出そうするが、「追い出し」の現場で難民女性のひとりに惚れ込んでしまい、彼女と結婚する。一方、娘もアフリカ系の男性と結婚する。つまり、この映画では、「非」ジョージア的なものが入り込んでいる。
 映画のなかとはいえ、「難民追い出し省」が存在するのは、ジョージアでも移民・難民の問題が「対岸の火事」ではなくなりつつあるということであろう。しかし、ジョージアがもともと単一民族、単一宗教の国家でないことは、いままで日本で公開されたジョージア映画のいくつかを想起すると、多少はわかる。たとえば、「祈り」では、キリスト教徒とムスリムの対立関係が明白に示されていた。「とうもろこしの島」では、敵対する兵士たちが登場するが、少なくとも三つの民族の兵士であるらしい。「みかんの丘」では、みかん園を経営する男たちは、ふたりともジョージア人ではなく、エストニア人である。なぜエストニア人がジョージアにいたのかは、別の問題であるが、要するにジョージアはさまざまな民族・宗教が混在し、対立したり、共存してきた国である。したがって、「葡萄畑に帰ろう」はそのようなジョージアの歴史的・伝統的なものを十分に踏まえ、それを現代の問題として捉え直して作られた映画である。
 
 この映画を見た直後に、私は若い友人の好意によって、毎号目を通しているイギリスの週刊科学雑誌「Nature」の9月8日号に掲載された「ネアンデルタール人の母と、デニソワ人の父のあいだで生まれた子のゲノム」(The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father) を読んだ。10年ほど前にシベリアのデニソワ洞窟から出土した2センチほどの指の骨片のゲノムを調べたその論文(「Letter」として分類されているから、いわゆる「投稿論文」である)によると、「この骨片はネアンデルタ-ル人の母親と、デニソワ人の父親を持つ個体のもの」であり、またそれは「今から9万~5万年前に死亡した13歳以上の女性の骨片」である。さらにこのデニソワ人の父の祖先にはネアンデルタール人がいた。つまりネアンデルタール人とデニソワ人という「異種」の人間が、早くからmixしていたのである。(私が読む「ネイチャー」は、日本で印刷されたものであり、巻頭に日本語の要約があって有り難いが、そこでは「mix」は「交配」と訳されている。「混血」、「交雑」と訳すひともいる。)つまり、映画「葡萄畑に帰ろう」と、週刊科学雑誌「Nature」の記事がつながっているというのが、私のいいたいことである。
 ついでに書いておくと、ロザリンド・クラウスの『視覚的無意識』(Rosalind Krauss,The optical unconscious,The MIT Press,1993)によると、マックス・エルンストは、「Nature」の挿絵を引用して作品を作っている。たとえば、エルンストの1923年の作品「At the First Clear World」は、1881年の「Nature」の挿絵を引用したものである。
 (2018年10月2日) 

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