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宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

ある詩人の肖像

 「確か 英語を習い始めて間もない頃だ。/ ある夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。」という言葉で始まる詩や、「二人が睦まじくいるためには / 愚かでいるほうがいい / 立派過ぎないほうがいい / 立派過ぎることは / 長持ちしないことだと気付いているほうがいい」という言葉で始まる詩を読んだことはないだろうか。ありふれた些細な出来事が誰にでも判る平易な言葉で物語られた詩。これらの詩の作者である吉野弘の展覧会が桶川市にあるさいたま文学館で10月6日から11月25日まで開催されていた。吉野の詩を初めて読んだのは中学生の頃だったと思う。彼の「夕焼け」という詩が国語の教科書に載っていたのだ。その詩の小さな物語性に私は心を打たれた。小さな物語性。そう、彼の詩にはいつも、日常的なささやかな物語が語られている。彼の詩の物語性は長く記憶に残るものである。
展覧会には吉野の詩集、手紙、写真、愛用の万年筆などが展示してあったが、私をとくに引きつけたものは雑誌『手習帖』昭和63年11月号に載った「“I was born” を作った頃のこと」という肉筆原稿であった。このテクストの冒頭で引用した「I was born」は、吉野の詩の中でも私にとって強く印象深い作品であるが、その詩がどのように生み出されたかということがそこに書かれていたのだ。普段、作品誕生の逸話などに興味を持たない私が几帳面そうに柔らかく書かれた文字に目が留まり、その手書き原稿のタイトルが「“I was born” を作った頃のこと」であることに驚いたのだ。そして、あの詩がどのようにできたのかを知るためにその原稿を夢中で読んだ。
 吉野弘について何か書こうと思ったのはその時であった。家に帰った私は本棚の奥で埃を被っていた吉野の詩集をもう一度手に取り、ページを開いた。それだけでは物足りないと感じた私は近くの市立図書館に行き、彼の著作を何冊か借りて熟読した。吉野弘という詩人について本格的に研究ができると思ったわけではない。だが、彼の詩や詩作に対する姿勢といったものを検討することによって、彼の詩の持つ小さな物語性という問題についてほんの僅かでも理解できるではないかと思ったのだ。 

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香港映画「誰がための日々」を見る

 去る2018年12月12日に、私は黄進(ウォン•ジン)監督の香港映画「誰がための日々」(2016年)を見た(原タイトルは「一念無明」)。香港のある家族の物語である。父親はトラックの運転手をしている。母親は病気であるが、この夫婦は別居生活をしていた。次男は結婚していて、アメリカで働いているので、親の面倒を見ることはできない。長男(彼がこの映画の主人公である)は、献身的に母親の介護をしていたが、彼女の死後、疲労からか鬱病になって一年のあいだ入院していた。退院した彼は父親の家に行くが、家とはいっても、それは香港の裏通りにある、エレヴェーターのない粗末なアパートの一室である。父親は、「二歩しか歩く空間のない」その狭いワンルームの部屋に長男を迎え入れる。
 長男は再就職しようとするが、一年間の「入院歴」のために、なかなか就職先が見つからない。その間に友人の結婚式に出かけて、異様な内容の挨拶をしたり、スーパーの一角にうずくまってチョコレートを多量に食べたりするが、その情景は携帯•スマホで撮影されて、ネット上に広がり、多くの人たちの眼に触れて、たちまち「街の噂」になる。これはきわめて「現代的な」状況である。
 父と長男が住むアパートの住民は、貧しい人たち同士で、一種のコミュニティを作っている。香港の居住証を持たない中国の女性、インド系の青年など、今日のいわゆる「ダイヴァ-シティ」そのものの世界である。その中国人の女性は、隣室に住む運転手の足の痛みを心配して親切なことばをかけたり、また長男も彼女の息子と屋上で遊んだりする。しかし、彼の病気が再発して、その行動のありさまがネットで広がると、アパートの住民たちは、「投票によって」、父と息子をアパートから排除する。
 この映画にはさまざまな問題が含まれている。主人公の青年は、心の病のために、異常な行動を繰り返す。それらの行動は、彼の病気の「症状」であるが、症状とは元来は「私的」なものであり、もしもチョコレートの大量摂取が「病状」であるとしても、それは彼個人の領域、あるいは彼の家族、医師、病院といった狭い範囲で処理する問題のはずである。しかし、いまや時代が「私的なもの」を「私的」な領域に限定しないくなっている。彼の私的•個人的な行動は、ただちにその場にたまたま居合わせて携帯•スマホでそれを撮影した人によって「拡散」し、「衆目」の対象になる。
 デイヴィッド•ライアンとの対談集である『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』(伊藤茂訳、青土社、2013)において、ポーランド生まれのイギリスの社会学者ジクムント•バウマン(1925~2017)は、バンクーヴァーでの暴動を撮った写真に、たまたま写っていたカップルを特定するのに一日しかかからなかったという例をあげて、「すべてのプライベートな事柄が、今では公の場で行われているようなもの」になったと指摘している。これはまさに「誰がための日々」で描かれている現代人の状態である。
 今日の日本には500万台の防犯カメラが設置されているという。しかし、今日では、防犯カメラだけではなく、普通の人びとが持っている携帯•スマホが、同じような機能を発揮している。ミシェル•フーコーが論じた「一望監視装置」(パノプチコン)の概念は、今日でももちろん有効である。しかし、現代のパノプチコンは、権力が上の方から見ているものではなくなっている。私的な行動は、ただちに映像化されて、「公」のものになる。この映画は、そのような現代的パノプチコンの実態をも見せてくれた。
(2018年12月21日)

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