宇波彰現代哲学研究所

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アルチュセールの星座へ~読むという行為~(1)

はじめに

このアルチュセール論は、アソシエ21の「アソシエ」19号(2007年8月)に、ゼミ風の研究会「アルチュセールを読む」の紹介文として書かれたものである。しかし、それは同時にアルチュセール論にもなると思い、ここに公開することにした。初出では17枚ほどであったが、この「研究所版」は加筆・訂正をしたので20枚近くになっている。「初出」での誤記・誤植も直した。特に、スピノザの仏訳者としてピエール・マシュレーの名をあげたのは私の思い違いで、ロベール・ミスライであった。ここでお詫びして訂正させていただく。(2007年12月3日)



―・―・―・―・― 以下本文 ―・―・―・―・―



アメリカのラカン研究者ブルース・フィンク(Bruce Fink)はラカンを「研究」しているだけではなく、ラカンの理論を使って、いわゆるセラピー(治療)もしているし、その実践的・臨床的な経験を踏まえ、ラカンについていままでのところ3冊の著作を刊行している。そのうちの一冊『ラカン的主体』(The Lcanian subject,Prinston University Press,1995)の裏表紙にスーザン・バック=モースが推薦文(advance praise)を書いている。「ブルース・フィンクはラカン理論の受容において、あまりにも忘れたれてきたことを想起させてくれる。つまりラカンの理論は、精神分析の実践に由来するものであり、またそれを記述したものだということである。」(スーザン・バック=モースは、ベンヤミンの『パサージュ論』研究である『見ることの弁証法』の著者として著名であり、アドルノ研究でも知られている。)フィンクのラカン論を読むと、彼がアメリカでの精神分析医の養成に大きな不満を抱いていることがわかる。それはアメリカでのラカンの受容の仕方に問題があるということでもある。そうした疑問を提示できるほど、フィンクは自分のラカン解釈に自信をもっている。フィンクのラカン論の出発点は、ラカンがフロイトの読解に使った方法、つまりフロイトのテクストを厳密に読むという方法をラカンに対して用い、『エクリ』『セミネール』を丁寧に読むことであった。「ラカンを精神分析する」ことがフィンクのラカン論の基本的態度である。
またラカンの著作『エクリ』の英訳は、いままでシェリダンによる抄訳と、単発的に雑誌などに掲載されたものしかなく、その抄訳には有名な「盗まれた手紙についてのセミネール」も含まれていなかった。フィンクは英語圏におけるそのような欠如を補うべく、エロイーズ・フィンク(フィンクの夫人であろう)、ラッセル・グリッグの協力を得て全訳を刊行した(J.Lacan,Ecrits, translated by Bruce Fink,W.W,Norton &Company,2006)。その序文には「もし誤訳を発見したならば、出版社気付けで知らせて欲しい」と書いてある。ラカンを徹底的に読むために、フィンクは『エクリ』の翻訳を試みたのである。そのサブタイトルには「最初の完全英訳版」と記されてある。またフィンクが2004年に発表したラカン研究は「文字通りにラカンを読む」という意味のタイトルである(Bruce Fink,Lacan to the letter,reading Lacan closely,University of Minnesota Press,2004)。サブタイトルは「ラカンを厳密に読む」であるが、このラカン論の序文にも、「一行ずつ読む」(a line-to-line reading)という表現を見出すことができる。そしてフィンクは、「ひとつのテクストの読解は、精神分析に似ている」というラカンの見解に同意する(p.43)。フロイトの方法をラカンがフロイトについて用い、それをまたフィンクが使うという構図である。
われわれが2005年5月から始めた「アルチュセールを読む」は、3年目に入った。2007年は、ヘーゲルの『精神現象学』刊行後200年にあたる。フランスで1933年から39年まで『精神現象学』を講じていたアレクサンドル・コジェーヴの仕事は、きわめて影響力の強いものであったとされている。バタイユ、メルロ=ポンティ、ラカンなどが出席していたこの講義の記録の一部は、『ヘーゲル読解入門』(上妻精、今野雅方訳、国文社、1989)によって読むことができる。(この翻訳はきわめてすぐれたものであるが、残念なことに全訳ではない。)ベンヤミンやアドルノもコジェーヴの講義を聴いたことがあるらしいが、『ヘーゲル読解入門』を読むと、コジェーヴがいかにヘーゲルのテクストを慎重に、丁寧に、しかも熱を込めて「読解」しようとしたかがわかる。ヘーゲルの書いたものを一字一句、厳密に読んでゆくだけではない。いわばヘーゲルがコジェーヴにのりうつったかのような、コジェーヴがヘーゲルの「いたこ」になったような気配さえ感じることができる。コジェーヴは「魔術師」とも呼ばれたひとで、彼の講義が終わると、受講者は茫然とするばかりであったという。そこにはコジェーヴの「演劇的な」身振りも一役演じていたらしいが、それにしてもヘーゲルに対する徹底的な敬意、熱中が、彼の「一行ずつの読解」を支えていたことは確かであろう。コジェーヴの仕事の重要性はわが国でも一部では認識されているが、まだ不十分である。ヘーゲルの『精神現象学』刊行200年を記念する論文集に掲載予定の拙稿「コジェーヴからヘーゲルへ」を読んでいただければ幸いである(社会評論社より近刊)。ラカンもコジェーヴから大きな影響を受けたひとりであるが、ルディネスコの『フランス精神分析の100年史』によると、コジェーヴの訃報を聞いたラカンは急いで彼の家に弔問に出かけ、その書斎からコジェーヴの書き込みのある『精神現象学』を持ちだしてきたという。
また、ジャック・デリダはハイデガー、ベンヤミンのテクストを読み、その報告は、ハイデガーについては『精神について』、ベンヤミンについては『法の力』などで知ることができるが、それらもまたきわめて厳密なテクスト読解である。ベンヤミンの書いたものをフランス語に訳したひとりがモーリス・ド・ガンディヤックであるが、デリダはこの訳者に対する敬意を示しつつ、ベンヤミンの原文と照らして解読している(ガンディヤックは学生のころ、フランスの右翼団体であるアクシオン・フランセーズに属していて、その指導者であったシャルル・モーラスに心酔していたらしいが、エリザベート・ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』(藤野邦夫訳、河出書房新社)には、しばしばラカンとともに登場しいているし、ベンヤミンの仏訳のほかにも、ヘーゲルの『精神哲学』の仏訳などもしているし、新プラトン主義の研究者としてもすぐれた仕事を残したという)。さらにラカンの一連の『セミネール』などを読むと、彼がどれほど綿密にフロイトのテクストのドイツ語原文を読み込んでいたかがわかる。要するに、目の前にあるテクストに価値があるならば、それに対しては一字一句をおろそかにしないで読む作業が必要である。ロベール・ミスライによるスピノザの『エチカ』の翻訳も熱のこもったものである。その序文には、スピノザに対するミスライの敬意が溢れている。もちろんその場合、「木を見て森を見ず」にならないように注意すべきではあるが、一本一本の樹木の存在がどうなっているかをきちんと見ておくことが必要である。
アルチュセールについても私はこの方法をとることにした。それはアルチュセールがマルクスのテクストを読むときに用いた方法である。『資本論を読む』の冒頭でアルチュセールは次のようなきわめて印象的な考えを述べている。「いつかはきっと、『資本論』を文字通りに読まなくてはならない。テクストそのものを、四巻全体を、一行一行読むこと、第二巻の荒寥として平坦な高原から、利潤・利子・地代の約束地に辿り着く前に、第一巻の最初の章、単純再生産と拡大再生産の図式を何度も繰り返し読むこと。いやそれどころか、『資本論』をフランス語版で読むだけですますのではなくて、少なくとも基本的な理論的諸章や、マルクスの鍵概念があふれているすべての章は、ドイツ語のテクストで読まなくてはならない。」(今村仁司訳『資本論を読む』ちくま学芸文庫、1996、p.18)これはきわめて重要な一節である。およそ何らかのテクストを「読む」ときには、可能な限りこのアルチュセールの方法に従うべきであろう。
このアルチュセールのマルクスを読む方法を、アルチュセール自身の著作について使うことが求められる。われわれの「アルチュセールを読む」においては、邦訳を使うのはいうまでもないが、フランス語の原文と、可能なばあいは英訳も参照して、一語一語を検討した。フィンクのいう「一行ごとの読解」(a line –by-line reading)の実践である。
2005年5月からは、アルチュセールの「フロイトとラカン」を読んだ。(ついでながら、「フロイトとラカン」の英訳者は『巨匠たちの聖痕』『革命と反復』などの著者ジェフリー・メールマンである。)アルチュセールには、ラカンの大きな影響があるといわれているが、それが具体的にどういうことなのかを考えようとしたのである。アルチュセールはラカンのテクストを厳密に読んでいるとは思えない。ラカンの具体的なテクストが指示されてはいない。(ラカンの『エクリ』の刊行が1966年であったことが改めて想起される。)それにもかかわらず、アルチュセールの読解には、ラカンの思想の本質をつくものがあることがわかった。そこで論じられたことで、いまもなお重要な論点は、「動物としての人間から人間としての人間へ」という移行の問題である。それは具体的には「言語」の習得にかかわることであり、ラカンの三領域論のなかの「ル・サンボリック」の問題である。この「ル・サンボリック」の問題が、イデオロギー的国家装置論と直接に関連するものであることが、しだいにわかってきた。また、ジジェクがこの問題に関心を持っていることもわかった。
こうした「フロイトとラカン」の解読のあと、2006年度は、「イデオロギーとイデオロギー的国家装置」を読んだ。これは「フロイトとラカン」をある程度まで理解したあとの作業であるということに意味があると思う。ゆっくり丁寧に読んだから、2007年12月になっても、実はまだ半分も来ていない。しかし、これまで読んで来た部分にも、多くの、そして重要な問題がある。ここでは、そのうちのいくつかを次回に取り上げて考えておきたい。

(続く)

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