宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

吉林の新しい都市空間

去る5月下旬、都市基本問題研究会は、中国東北の吉林で調査を行なった。吉林省では、長春に次ぐ、第二の大都市である。このような大きな都市については、全体をくまなく調査してその全貌を明らかにするなどということは不可能である。どこかを歩いてみるほかはない。
吉林は松花江を基盤にして成立した都市である。中国の大都市では、いわゆるマンションが次々に建設されているが、この松花江に沿った地域にも、いま高級な高層マンションが林立しつつある。中国の「格差社会化」を示す記号である。道路沿いのいたるところに掲げられている大きな看板にはそうしたマンションの広告があるが、そこにはマンションの広さを示したものがある。正確な調査をしたわけではないが、「80㎡~210㎡」程度の広さのものが多いように感じられた。日本の「マンション」に比べるとかなり広いものがあるように思われるが、あるいはその広さは中国の家族がまだ「核家族化」していないしるしであるかもしれない。
さて、その松花江沿いのマンション群を見て歩いていると、数十棟のマンション群が、いわゆる「門付き集合住宅」になっているのに気付いた。全体が閉じられた構造になっていて、入口は一箇所しかなく、居住者はカードを入口の台のようなものにかざして入るのだが、そこにはガードマンが24時間体制で見張っている。地球温暖化といっても、冬の吉林は酷寒に違いない。そのときのガードマンのつらさを思いやった。
このように住宅群を閉鎖的なものにして、外部からの「侵入」をすべて断ち切ることは、すでにいたるところで進行中である。アメリカではそれを、gated community と呼ぶ。ベルナール・アンリレヴィは、現代アメリカの印象を記した『アメリカの眩暈』において「100歳までの生活の可能な財産のある金持ち老人だけが住める住宅群」がアメリカで増えつつある状況を報告した。私が「門付き集合住宅」と書いたのは、その訳語のつもりである。「門付き集合住宅」は日本でも確実に増えつつある。都市の大きなマンションには「管理人」が常駐しているところが多くなっていて、それはすでに「門付き集合住宅」であるが、複数のマンションをさらにゲートで閉じてしまう形式のものも増えている。さらに、普通の家でも「知人以外の訪問お断り」という掲示が貼ってあるのを見たことがある。人と人との関係が次第に断ち切られつつある。中国でも同じような傾向が進行中だと感じた。
吉林はかつていわゆる「満州国」の都市であった。(中国では「偽満州国」と呼んでいる。)出かける前に何冊か「満州国」に関する本を読んだが、そのうちの一冊である山室信一『キメラ 満州国の肖像』(中公新書、1993)の11ページに、岡田三郎助の作品の写真が収められている。その絵のタイトルも制作年も記されていないが(どなたか教えて下さい)、「民族協和の建国理念を示す絵画(国務院総務庁玄関に掲げられていた)」という説明が付されている。五人の女性が並んでいる作品である。「五人の女性」は、おそらく漢民族・満州族・モンゴル族・朝鮮族、そして日本人を示すものであろう。私は田舎から出てきて大学生になったばかりのころ、岡田三郎助のことを知らなかったので恥かしい思いをしたことがあるが、ブリジストン美術館にある「婦人像」が切手にもなっているほど有名な画家である。しかしこの画家が、「満州国」に協力するような作品を描いていることは知らなかった。「民族共和」、「五族共和」は「満州国」の「建国理念」を示すスローガンであった。岡田三郎助は、このスローガンを反復し、それをイメージ化したのである。たまたまジャック・ラカンの『セミネールIV 対象関係』を読んでいると、「像的相互性」という概念が示されているのに気づいた。「満州国」のスローガンである「五族共和」は、岡田三郎助の作品と相互性の関係にある。ブログで私がかつて記したように、よく知られている「東郷平八郎元帥像」と安田靫彦の「山本五十六元帥像」との関係である「像的相互性」が、「満州国」の建国スローガンと岡田三郎助の作品とのあいだにも存在している。その構造は、鹿島茂や横尾忠則にも受け継がれているのだ。
5月下旬の雨の日、東京の目黒美術館で「上野伊三郎・リチ展」を見た。上野伊三郎は早稲田の建築科を出て、ウィーンで学んだひとである。京都市立芸術大学の教授をしていたことがあり、森村昌泰は彼に教えを受けたこともあるという。人気の展覧会らしく、カタログは完売で入手できなかった。会場に置いてあるカタログを拾い読みすると、上野伊三郎が1939年から1941年にかけて中国東北にいたことがわかった。その部分の記述は、非常に簡単で、詳しいことは書いてないが、上野伊三郎は当時「建技将校」という肩書きで働いていたらしい。(「建技将校」という肩書きが本当にあったのかどうかまだ調べてない。)中国東北には、かつて日本が作った建築がまだ残っている。上野伊三郎はどこまで軍部に協力したのであろうか。東秀紀の『ヒトラーの建築家』によって知ったが、シュペーアに会ったことがありながら、戦争への協力を断ったという谷口吉郎のことが想起された。

(2009年6月4日)

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