宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

ベオグラードで感じたこと

 去る11月上旬にセルビアの首都ベオグラードを訪れた。1999年のNATO軍による爆撃の跡が生々しく残っている。バルカン半島の旧ユーゴスラヴィアのあたりが、かつてオスマントルコの支配下にあったということが、非常に大きな意味を持っていることを改めて感じた。ヨーロッパといっても、バルカン半島の都市にはモスクがあり、どこかから羊の肉を焼く匂いが漂ってきたりするところがある。
 私は1980年代、まだチャウシェスクが支配していたころのルーマニアに行ったことがある。いまになって思い出したのだが、ルーマニアの象徴的存在と見なされるドラキュラ公は、オスマントルコとの戦いで敗れ、その首はトルコ軍が持って行ってしまったのである。マルセル・ドゥ・ヴォスの『ユーゴスラヴィア史』(白水社クセジュ文庫、1973)を探し出して読んでみると、次のように書いてある。「オスマントルコはハンガリーからイェメンまで、ペルシア湾からモロッコの果てまでひろがっていた。黒海とエーゲ海はあたかもオスマン帝国の湖であった」(P.67)。
 私自身の世界史の知識にどうもこのオスマントルコの部分がかなり欠落していることが、ベオグラードに来て少しわかってきた。帰国してから鈴木董の『オスマン帝国』(講談社現代新書、1992)を読んでみると、耳に痛いことが書いてある。「ローマやビザンツの繁栄について語られることは多くても、オスマン帝国について語られることは、我が国ではほとんどない。我々日本人が西欧中心史観になれ親しみすぎているため、イスラム世界に成立したこの帝国が六百数十年にわたって生き続けた超大国であったことすら、忘れられているのである」(P.11)。12月上旬に私は上野の国立西洋美術館で、「古代ローマ帝国の遺産」という催しを見たが、「オスマントルコの遺産」という催しは記憶にない。もちろんイスタンブールのトプカプ宮殿の宝物展は何回か開かれているが、バルカン半島のオスマントルコの遺産については、私の無知を自覚せざるを得ない。たまたま12月5日付の「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」には、エルトゥルグル・オスマン氏の葬儀を伝える記事が載っていた。このオスマン氏は、1923年にアタチュルクによってスルタンの地位を追われたアブドル・ハミド2世の孫であり、「オスマン」という名を継承していたひとである。9月に97歳で亡くなり、その葬儀が盛大に行われた。この記事全体は、かつての強大なオスマントルコの何らかの意味での「反復」を望む一部の現代トルコ人の民族意識の存在を伝えるものであるが、私にとっては、「オスマン」という人物が現代にも存在することが驚きであった。
 「超大国」のオスマントルコの存在を無視して、簡単にヨーロッパとアジアを分けて考えてきた「われわれ日本人」がバルカン半島に出かけてみると、現代の激しい紛争の原因が少しはわかる。非常に根の深い問題である。12月1日にオバマは、アフガニスタンに兵士をさらに増派することを表明したが、外国の新聞をネットで少し読んでみると、2006年にセルビアから独立したばかりのモンテネグロが、40名の兵士の増派を決めたことがわかった。グルジア、イエメン、モンゴルなどの東西に挟まれている国家がアメリカよりの政策をとっている状況がある。その背景には、長い歴史が存在する。
 ベオグラードのホテルのロビーに置いてあった観光案内のパンフレットがある。このパンフレットは70ページ足らずのもので、英語で書かれている。“Belgrade in your pocket”の2009年10-12月号で、表紙はドナウ河の写真である。その9ページが「歴史」になっていて、ベオグラードの過去が1ページに収まっている。そのなかで特筆すべきものは、1389年のコソボの戦いであろう。オスマントルコ軍は、その年にセルビアを中心とするヨーロッパ軍を完敗させた。その「トラウマ」が現代のバルカン半島の紛争の根底にあるといわれる。
 このような「歴史」を見ていくと、1807年にセルビア人がオスマントルコに反抗して、一時ベオグラードを解放したことも注目される。その後またオスマントルコに支配されたりして、ようやく1830年にある程度の自治を認められるようになる。1807年はヘーゲルの『精神現象学』が刊行された年である。そのなかでヘーゲルが示した「主人と奴隷の弁証法」は、ハイチにおける黒人の反抗運動に示唆されたものだと、スーザン・バックモースは論じたことがあるが、ヘーゲルはオスマントルコのことをどう見ていたのか?(ヘーゲルのオリエンタリズムは、かつて子安宣邦も指摘していたことがあったが。)

 ドナウ河はベオグラードでサバ川と合流する。ベオグラードでは、サバ教会という巨大な教会が建てられつつある。このパンフレットの説明によると、サバは12.13世紀のベオグラードの大司教であったが、1594年に、つまり死後300年以上たってから、オスマントルコによってその遺体が改めて「火刑」になった。サバ教会は、その「火刑」の場に建てられつつある。1935年から建築が始まり、第二次大戦中はドイツ軍の兵器庫として使われたという。サバ教会は非常に大きな建築で、完成するのはいつになるのかわからないが、東方正教会としてはサンクト・ペテルブルグにあるものに次ぐ大きなものである。
 トルコ人に遺体を焼かれた聖サバを記念する教会の存在は、少なくとも潜在的にはイスラム教徒に対する敵意の表現である。1389年にオスマントルコに大敗したコソボの記憶は、セルビア人のなかに根強く残っている。1999年のNATO軍によるベオグラード爆撃の跡は生々しいまま残っているが、この破壊された建物は、コソボでの600年前の戦闘とつながっている。
 セルビアはかつて王国であり、歴代の国王の墓がある比較的新しい教会は、聖ゲオルギウス教会と呼ばれている。その正面にはドラゴンを退治する聖ゲオルギウスの姿が描かれ、入口のところで見上げると、ゲオルギウスの殉教の場面(ゲオルギウスは鋸で処刑されたと伝えられている)の、あまり上手ではない絵がある。ジョルジュ・ディディユベルマンによると、ゲオルギウスがドラゴンを退治する図柄は十字軍のころに始まったもので、ゲオルギウスがキリスト教、ドラゴンがイスラム教を示しているという。もしそうだとすれば、セルビアの王家の墓を地下に置く教会にゲオルギウスの名を付けたのも、アンチ・イスラムの思想によるものかもしれない。
 とにかくベオグラードは、さまざまな民族の闘争の舞台だったところである。ふと思い出したのは、「戦争論はあるが、内戦論は存在しない」というアガンベンのことばであった。 (2009年12月5日)

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