宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(1)

0.はじめに

 この著書は言わずと知れた気鋭のラカン派臨床社会学者の樫村氏が『現代思想』等々で書いた論文を集めた論文集である。宇波彰先生(宇波彰現代哲学研究所 主席フェロー)より、樫村愛子氏の近著『臨床社会学ならこう考える』を「書評せよ」とのご指名があり、早速購入し、読んでみた。
ただし、あらかじめ断っておくが評者は樫村氏の著作の良い読者ではない。『臨床社会学ならこう考える』以外の著作の議論をきちんとフォローしているわけではない。それゆえ、残念ながら評者の理解力と不勉強のせいだろうが、この著作における樫村氏による議論をどこまで理解できたのかといえば心もとないものがある。
いや正直に言えば心もとないどころか端的に何を言っているのかさっぱり理解できないところも数多くあった。だが、こうした点については余計な見栄を張らず浅学菲才の恥を忍んで、評者の素朴極まりない疑問をあえて率直に提示したいと考える(『ネオリベラリズムの精神分析』をきちんと読み直すことは今後の課題としたい)。
この著者の各論文に通底する中心的なテーマを要約すれば、現代社会における「大文字の他者の不在」あるいは「大文字の他者の死」ということになるだろう。「大文字の他者」がポストモダンという時代の特徴として捉えられ、それがいかなる問題を生じさせているのかが様々な事例を通じて、「マクドナルド化」、「ポストフォーディズム」「再帰性」「心理学化」といったイマドキ風の用語をちりばめ、分析されているのである。この著書の副題である「生き延びるための理論と実践」の示すところとは、つまるところ「大文字の他者の不在」という状況を、「生き延びるための理論と実践」である。
ところで、一応確認しておけば、「大文字の他者」とは人間の欲望を構造化する象徴的秩序のことである。ジジェクはこう述べている(『ラカンはこう読め!』紀伊國屋書店、2008年)。

「「人間は<他者>として(qua)欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴的秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範にそむくものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。」[79]

あるいはジジェクはこうも述べている。

「そのしっかりとした力にもかかわらず、<大文字の他者>は脆弱で、実体がなく、本質的に仮想的存在である。つまりそれが占めている地位は、主観的想像の地位である。あたかもそれが存在しているかのように主体が行動するとき、はじめて存在するのだ。その地位は、共産主義とか民族といったイデオロギー的大義と似ている。<大文字の他者>は個人の実質であり、個人はその中に自分自身を見出す。<大文字の他者>は、個人の存在全体の基盤である。それは究極の意味の地平を供給する評価基準であり、個人はそのためだったら生命を投げ出す覚悟ができている。にもかかわらず、実際に存在しているのは個人とその活動だけであって、個人がそれを信じ、それに従って行動する限りにおいてのみ、この<大文字の他者>という実質は現実となるのだ。」[28-29]

樫村氏によれば、このような人間の欲望を構造化する象徴的秩序としての「大文字の他者」の「不在」が生じているのであるが、氏の議論の特徴は「大文字の他者の不在」、「大文字の他者の死」論をネオリベラリズム批判と結びつけ展開している点にある。

「(前略)ネオリベは何ら宿命ではなく宿命(市場の法則)であるかのようにでっち上げられた貧しい政治であるとしても、直ちにそれを破棄できないような、現代社会にそれをはびこらせる条件や情況があるとすれば、それに着目しなければオルタナティヴの成功の条件は作れない。ネオリベを隆盛させている条件や情況を現実にどのように変えうるのか、別のものへと接合できるのかを、特に主体および主体と社会の接合の観点から考えるというのが私の行おうとしている作業である。」[29]

ネオリベ批判とネオリベの蔓延る現状の打破という樫村氏のこのような目論見そのものには全面的に賛同したい。しかし、その目論見には賛同するものの、樫村氏の言う「大文字の他者の不在」がどういった性格の事態であるのかいまひとつ分からないため、悪くするとラカン派臨床社会学は「失われしもの」への郷愁を語る言説、喪失からの癒しを語る言説のように見えてしまうのだ。
もちろん郷愁や癒しの語りであっても、それはそれで、良いのであるが、問題は「大文字の他者の不在」は樫村氏の言うポストモダンという段階においては不可避のものであるのか、それともネオリベによって「不在」にさせられてしまったのか、がはっきりしない点である。またそもそも樫村氏の言う「大文字の他者」が何であるのかもいまひとつ腑に落ちないのであった。こうした点については後で再び述べることとしたい。
ポピュリズムやうつ、アディクション、リアリティショウ、ケア、教育問題、宗教問題など取り上げているテーマはキャッチーなものが多く、すこぶる興味深いものである。しかし、真に遺憾ながら、今回主として論及するのは1章と5章に限定したい。いずれ機会があれば別の章も論じてみたいが今回は主な議論の対象として取り上げることはしない。 このように論及の対象を絞った理由は、評者の力量の問題もさることながら(リアリティショウは一度も見たことがなく、また宗教問題などにも疎い)、対象があまりに多岐にわたるので議論が拡散して、とりとめないものとなってしまうからだ。それよりも、論及の対象を限ることでその分樫村氏の議論の内容をより丹念に検討することを選びたい。
 

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する