宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(2)

1.「大文字の他者の不在」とポストモダン

1-1.

まず、第1章「「ポストモダン的「民意」への欲望と消費:転移空間としてのテレビにおいて上演される「現実的=政治的なもの」」での樫村氏の議論を確認する。この章で樫村氏は、「民意のマクドナルド化」、「政治のポストフォーディズム化」といった用語によって、「大文字の他者の不在」が政治的なものに生じさせた事態を分析している。

「民意のマクドナルド化を端的に示すのは、今日の「緊急世論調査」の乱発であり、それは「世論」のマクドナルド化である。(中略)リアルタイムで審判が下され、消費者調査のように、政治行為の「商品」価値が値踏みされる。(中略)セブンイレブンの商品がリアルタイムの売り上げ情報によって品揃えを変えるように、政治もポストフォーディズム化する。」[39]  

たしかにネットなどを通じて乱発される「民意」の調査が、マスコミ報道のあり方とあいまって、政治を、大衆迎合的なポピュリズムやメディアでのパフォーマンスが支持率を大きく左右するメディア政治のほうへと押し流しているというのは、かなりの程度、そう言えるだろう。しかし、そうした当世流ポピュリズムや、メディア政治がどうしてあえて「民意のマクドナルド化」や「ポストフォーディズム政治」といった言葉で分析される必要があるのだろうか。
「ポストフォーディズム」については「グローバリゼーションとそれに伴う、アメリカンスタンダードの加速する資本主義が、アメリカ以外の様々な国の「規制緩和」をこの間強要し、社会の流動化を押し進めてきたことは、社会変容の正当化手段としての「民意」を多用/濫用させることになった」という説明がある。アメリカンスタンダード=規制緩和=「ポストフォーディズム」として良いのか疑問は残るがここでは問わない。樫村氏によってより詳しく示されているマクドナルド化の方を検討していくことにしたい。
 リッツアの『マクドナルド化する社会』(早稲田大学出版局、1999年)で言われているマクドナルド化の要素とは、「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」であった。一方樫村氏の言う政治のマクドナルド化とは、次のような「政治的なもの」の管理であるという。

「テレビという視覚メディアの受動性は、ハリウッド的スペクタクルの消費に見られるように、安全に出来事を鑑賞する場にオーディエンスを閉じ込めてしまう。 そしてそれは資本主義とテクノクラートにとっても都合の良いものである。彼らは「政治的なもの」の現出の際、それをゆっくりと議論するコストも惜しむ。彼らは、メディアにおける出来事のスペクタクル的消費と、そのつどマクドナルド化された「民意」=「世論」(そもそも「世論」とは新しい社会階級が政治ゲームに加わることを正当化するため、「理性」と「客観性」を担保に使用した手段)を乱発/濫発しながらその現実的なもの=出来事を「政治的なもの」とすることなく、なだめすかしやりすごし同意をとりつけながら、政治社会制度の再編と自らの権力組成へと利用されている。」[38-39]

このように「メディアの上演するスペクタクルなものへの封じ込め」による民意の効率的管理、これは効率性や制御の点でリッツアのいう「マクドナルド化」と樫村氏の言う「マクドナルド化」は無縁とは言えない。だが、問題なのは、昨今(とりわけ「小泉劇場」以後)生じている事態は、リッツァのいう意味でのマクドナルド化とは聊か趣を異にしているのではないかと思われる点だ。
すなわち、マクドナルド化は樫村氏が示唆するようなたんなるテクノクラート的な策動の産物なのではなく、それにもまして「政治的なものの危機」への対応という側面を併せ持っているのではないだろうか?殊にこの国、政官財の癒着に基づく利権構造を基盤とした自民党政権がバブル崩壊後も末期的な状態のまま続いてきた日本では。
もっとも樫村氏もそうした面をてんで無視しているわけではない。
樫村氏によれば政治のマクドナルド化とはまず「テレビ政治/欲動の政治」であるとされる。この「政治の欲動化は、象徴の貧困化や欲望の困難(消失)と連動している」のである(47)。「政治的なものの危機」は「大文字の主体の不在」化として捉えられている。
そしてこの「政治の欲動化」によってジャーナリズム界の、そして民意を背にした政治権力の、専門界への侵犯がなされる。さらに、そこには報道の競争を通じた画一化と、「争点報道型報道」から「政治報道を競馬のように解説していく」「戦略型報道」への報道の転換とそれによる政治的シニシズムの高進が見られる。とはいえオーディエンスはメディアべったりなわけではなく、メディアの「やらせ批判」、「捏造批判」へと向かう。等々。

こうした樫村氏の指摘する事態は興味深いものではある。一方で、メディア政治を通じた政治のネタ化とそれに迎合するポピュリズム政治、そしてそのシニシズムがある。他方では、メディア不信が強くある。
 だが、やはり問わざるを得ないのは、現在生じている事態とは、リッツアの言うような「効率性、計算可能性、予測可能性、制御」といったことよりは、むしろその反対にそうしたことが頗る困難になっている事態ではないだろうか、という点である。
すなわち、戦後日本の自民党支配という「効率的で、計算可能で、予測可能な、制御」が危機に陥ったからこそ、樫村氏の言うような「政治のマクドナルド化」の動向が生じてきたのではないだろうか。代議制を通じた国民の世論の管理が失調していること、それゆえ粗製乱造の「民意」なるものに政治が左右されるという事態こそが現在(樫村氏の論文が最初に発表された2008年の時点においても)生じているのではないだろうか。
そして、こうした「政治的なもの」の危機を樫村氏のようなやり方で「大文字の他者の不在」として理論化することには大きな問題があるのではないか?というのがここでの評者の基本的な見解であるが、この点には後で立ち戻る。

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する