宇波彰現代哲学研究所

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(3)

1-2.

ともあれ、「政治のマクドナルド化」の背景に樫村氏は、「大文字の他者の不在」を見る。そして、ジジェクに言及しながら言う。

「主体がナルシズム的になればなるほど、主体はますます激しく大文字の主体を責め立て、その結果として大文字の他者に依存する自分の存在を愁訴する。「不平の文化」とは現代版のヒステリー症のことであり、その基本的特徴は、大文字の他者へ向けて叫び声をあげ、社会的不利益を被っているマイノリティに介入の手を差し伸べ、物事の道理をとりもどすように訴える。  

また大文字の他者なき世界のパラドックスは、このように、大文字の他者と呼びうる何かが、単なる象徴的フィクションではなく、「現実的なもの」のさなかに実際に存在していることの確信を追い求めようとする現象であると指摘する。それは一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存を生む。」[56]

「眼前で上演されているのは、新たな差異による利益を得ようとする人々による利益政治と、大文字の他者を代補しようとするテクノクラートの透明性へのパラノイア的欲望(マーケティング的世論などを生み出していく。社会のマクドナルド化を帰結する)、および自分たちが蚊帳の外に置かれているのではないかと「不平」を表明するパラノイア的メディアとオーディエンス(それはメディアそのものにも向かう)の欲望と消費なのである。」[57]

 この解釈それ自体はなかなか興味深いものである。「大文字の他者」の不在が、むしろそれへの絶望的な渇望をもたらす。それが一方でのシニシズム、他方でのパラノイア的な幻想をもたらしている。
こうした議論は、ネットの中でそこかしこにたむろし、跋扈しているいわゆる「ネットウヨク」あたりの分析にお手軽に使えそうにも思われる。
ちょっとしたニュースにも日本に対する中韓および売国奴の卑劣な陰謀を勘ぐり、その一方で、政治ニュースをあくまでもネタとして「シニカルに」消費しようとするネットウヨクのありようとは、「一方では、大文字の他者(象徴的な秩序)への不信感、物事を真剣に受け止めるのを避けようとするシニカルな態度であり、他方で、どこかに他者の他者が存在しているという――どこかで黒幕が裏で操っているというパラノイア的幻想という二つの態度の共依存」と見えなくはない。
たとえば、最近知ったことだが、ネットの中では「必死だな」というのが他人を揶揄する言葉として広く用いられているらしい。こうした言葉を用いる人々は自らが「必死でない」こと、すなわち対象に対して自らがシニカルであることを示すことに「必死に」なっている、と言えるかもしれない。このように一定の範囲でメディアに関する分析に使えそうな考えではある。 だが、こうした即席の「ネットウヨク」分析(のヨタ話)は兎も角として、 樫村氏は、ジジェクの議論に依拠することに満足するのではなく、ジジェクの問題点(=ランシエール的な政治の美学への「無理解」)を指摘し、ジジェク的な議論を踏み越えていこうとする。

「ジジェクにおいて、現実界は生体から切り離され、構造化された不在となり、最終的には空疎な空無となる。彼において現実界は心的現象として遡及的に生み出され、その構成の外傷的な瞬間は、社会的対立として外部に投影されるため、死の欲動の出現を代表象する。それゆえ彼にとって、現実界の空無を満たす「崇高な対象」は、魅了すると同時に嫌悪感を引き起こすものであり、ラカンが記述する「快感を与えるシニフィアンの力」を無視する。  

ジジェクは、この意味で、ランシエールの政治の美学を意味することはない。ランシエールの政治の美学は、美学が人々に与える力についての記述だからである。テレビと結合したポストモダン的ポピュリズムの隘路において現出する政治的なものをランシエールのいう政治の美学がどうつかまえうるかについて、ここで簡単に述べることはできないが、例えば、ドゥルーズが述べたように、強迫的な(転移)コミュニケーションの回路を断ち、非=コミュニケーション的な空洞や断続器を作るという逆説的な方法もその一つである。」[64]

 しかし、こう言われてもはたと困ってしまうほかない。というのも、このドゥルーズ的方法が現代の日本のメディア状況においてどういったことであるのか、そして言わずと知れた精神分析学批判の書である『アンチオイディプス』の著者でもあるドゥルーズの議論が樫村のラカン派精神分析学的臨床社会学の立場とどう切り結ぶのかについての言明もないからである。 樫村氏の『ネオリベの精神分析』を読めという注があるのみである(というわけでやはり読まないとダメらしいのでそのうち読みたい)。
それは兎も角として、こうしたことを述べた上で樫村氏は、公論としての「輿論」と私情としての「世論」が混在してしまったのが現在の日本の状況だという佐藤卓巳の議論に言及してこの章の議論をフィニッシュする。

 ここまでの議論を暴力的にまとめれば要するに
大文字の他者が「機能不全」あるいは「不在」になった=ポストモダン的状況 →大文字の他者を強迫的に求める→(1)大文字への不信・シニシズム(2)他者の他者を勘ぐる→政治のマクドナルド化・ポストフォーディズム化=私情と公論の混在 ということになるらしい。
 繰り返しになるがこうした議論が政治をめぐるメディアやオーディエンスの状況をある程度まで浮き彫りにしてくれるものであるのは確かだ。

 しかし、この章で「ラカン派的臨床社会学がこう考えたこと」にかんする評者の素朴な疑問としては以下の点がある。

①樫村氏はポストモダン=大文字の他者の機能不全としているがこの種の「ポスト」な主張を前に留保したくなるのは、例えばデュルケムの『自殺論』をはじめとしてこうした主張が際限なく繰り返されてきたのが近代だったのではないかということがあるからだ。
 アノミーもまた何らかの仕方での大文字の他者の機能不全だったのだとすれば、「大文字の他者」の失調や不在は何もポストモダンにだけ顕著なものではないだろう。
もちろん、ギデンズたちとともに、近代のラディカル化として「後期近代」を捉えることはできるだろう(評者は、いずれにしても単線的に歴史を捉える点で「ポストモダン」論と変わりはない、こうした考えにも懐疑的だがそのことはここでは措く)。
しかし、その際に「ポストモダン」はあまり適した言葉ではないように思われる。そして、いずれにしても樫村氏の言うところの今日の「ポストモダン的」な「大文字の他者の機能不全」、あるいは「大文字の他者の不在」とはどのような種別的な特徴を持っているのか?が問われる必要があろう。
もちろん予想できる答えはある。ポストモダンとは「大文字の他者」の危機が全面化・前面化した時代だ、というわけである。だがそうした場合、例えばエコロジーや平和運動、そして人権といった概念が、そして「欧米的な」ライフスタイルなどが歴史上かつてない規模で人々の間に広く共有されるようになっている事態は一体どう考えることができるのだろうか。
もちろんそうしたグローバルな思潮は場所やそこでの人々の慣習的な生活とはかなりの程度切れたものである。とはいえ、国民国家のイデオロギーにしても国民国家による時空間の編成と無縁で存在していたわけではない。そのことはラカン派臨床社会学的にはどう理論化されているのだろうか。
②「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論にかんする疑問は、例えばマルクスの『ルイボナパルト』における議論などと関連する、民主主義における代表=表象の問題(それが根源的に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題)とも密接に結びつくこととなる。 
改めて言うまでもなく、普通選挙権による代議制制度それ自体が「世論=民意」を汲み取る(それを製造する)装置に他ならない。
そしてこれまた改めて言うまでもなくそれはせいぜい20世紀になって一般化してきた制度に他ならない。それ以前には(またその後もこれ以外にも)別の諸装置が存在してきたのである。 このことは、これまた改めて言うまでもないが、国民国家の下での国民の統合の問題と密接に関連している。どうも樫村氏の言う「大文字の他者」とは国民国家の政治的・経済的・社会的・文化的統合を支える「掟」なるものを言い換えているに過ぎないようにも見えてならないのだ。代議制の問題は、国民の統治、あるいは国民主体の生産と再生産の問題と不可分に結びついている。
こうした観点から樫村氏の議論について感じずにいられないのは、代議制民主主義がその中に抱え込んでいる代表=表象の「無理」の問題と、樫村氏が言及する「大文字の他者」に纏わる諸問題はどう結びついているのであろうか、という疑問である。 もちろんこの疑問への答えとしては、労使の階級的対立あるいは妥協を前提とした代議制民主主義のシステムが、ポストモダン的な個人化の進む中で、失調している、という答えが浮かぶ。だが、であったとしても、こうしたことと「大文字の他者」がどう関わっているのかあまり良くわからないのだ。諸主体を階級に属するものとしてしかるべく配置していた掟が「大文字の他者」なのであろうか?
代議制の危機は、ボナパルティズムやファシズムの問題を取り上げるまでもなく、今に始まったことではない。むしろこう言ってよければ、代議制民主主義とは、その当初から自らの危機を完全には悪魔祓いすることができない制度として存続してきたのである。
したがって、今までのあった危機と現在のそれとの比較を行うことが重要となるし、そもそも代議制システムと「大文字の他者」はどういう関係にあるのかを明確にする必要もあろう。その先にこそ展望も開かれうるのではないか。
そうしたことがなされなければ「大文字の主体の不在」にかんするラカン派臨床社会学的言説は、ネオリベ的主体の貧しさを突き抜けるよりは、漠然と「大文字の主体」への郷愁を語るものとして機能してしまうのではないだろうか?
③また評者の見たところ、ここでの樫村氏のラカン派臨床社会学的議論のより大きな問題点は、日本における戦後政治の問題性に一切切り込んでいない点にある。
近年の代議制の危機そのものは先進諸国に遍く見られるものであったとしても、日本におけるその独自のあり方もまた問われる必要があるはずだ。とりわけ日本の場合樫村氏の言うところの「政治のマクドナルド化」が従来型の自民党政治の断末魔の救急延命措置と結びつく形で導入されてきた経過があるのだからそれを問わなければ不十分と言う他ないだろう。
こうした観点から、小泉以降の自民党の総理たちがスペクタクルを提供しそこなってきたことの意味を考える必要があろう(それは2008年の時点でもある程度までは露になっていたはずだ)。

 また不思議なことではあるが「大文字の他者のポストモダン的不在」と対をなすはずの、戦後日本の「大文字の他者の現前」とは一体何だったのか?
ここでは何も語られていないのである(『ネオリベ精神分析』には書いてあるのかもしれないが)。自民党政治の存続を支えてきたものが戦後日本の「大文字の他者」なのだろうか?

 メディアの技術的発展ばかりではなく、一定の経済成長を前提とした利権の分配を基本とした自民党政治の失調が現代の日本におけるメディア政治やポピュリズムと密接に結びついているはずだ。それはアメリカの庇護の下で9条を保持したままでの冷戦遂行がなされた冷戦体制からなお流動的なポスト冷戦体制(もちろん東アジアでは冷戦が終結したわけではないがかつてと同じ形で存続しているわけでもないのでここでは「ポスト」という言葉を用いる)への移行とも結びついているだろう。

しかし、少なくともここでの樫村氏の「ラカン派臨床社会学的モノ語り」においては、そうしたことには触れられていない。また低成長時代を向かえながらグローバルな経済競争に曝され、人口減少や少子高齢化、といった難問を抱え、さらに財政悪化のなかで、既存の自民党的土建屋ケインズ主義を転換し、環境問題などにも対応しなければならないといった困難に直面しているなかでのポピュリズムやメディア政治とは一体何であるのかというこの国が直面している問題には触れられていないのであった。
 というわけでそうした一切合財が「大文字の他者の不在」という符丁の下に語られるとき、そうした「ラカン派臨床社会学的モノ語り」がなされること自体が一体何をしているのかということがどうにも気になってならないのである。
やや辛辣な言い方になり恐縮であるのだが、精神分析学的モノ語りによるメディア分析としては面白い部分もあるが、つまるところ、「政治的なるもの」に関わる分析としては、樫村氏はほとんど何も行っていないに等しいのではないだろうか。「大文字の他者の不在」をめぐる樫村氏の議論においては国家諸装置の分析がほとんど不在である。それゆえ、それはラクラウなどへの言及にもかかわらず、頗る非政治的な文化主義的ポストモダン談義にしかなっていないように思われる。

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