宇波彰現代哲学研究所

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(4)

2.うつとアディクションと倒錯と「大文字の他者の死」?    

2-1.  

第5章「ポストモダンにおけるうつと倒錯」ではアディクションやメランコリー、倒錯といったことが「ラカン派臨床社会学的」に扱われており、評者の関心分野である依存・アディクション問題に関わるところであるのでまず読んだが、悲しいかな、はっきり言って、よく理解できないことが多かった。 
 それゆえ己の無知を呪いつつこの章の議論の流れを多少丁寧に辿っていきたいが、取り上げる対象はうつとアディクションに限定したい。その理由は鬱とアディクションをめぐる樫村氏の議論を検討することで、この章の議論に関する評者の素朴な疑問は十分明確になるからである。
この章の冒頭ではベナサヤグの「われわれはスピノザのいう『悲しい情念』に支配された時代を生きている」という言葉への参照がなされ、議論が始められている。

「現代社会における理想や幻想の解体は、現実認識の進化によって自己や世界をあるがままに必然的なものとして冷静に受容することと並行して起こっており、「スピノザ的叡智の態度である、義務論の存在論への還元、禁止の合理的知への還元」として現れている。」[148]

 のっけからこうこられると、どうも丸山真男の「現実主義の陥穽」あたりが思い出されてならないが、それは兎も角として、樫村氏は「社会学ではこのようなスピノザ的態度が社会の中に浸透している現象を、「個人化」「再帰化」「医療化」「心理学化」などの用語で記述している」とする([149])。曰く。
 
「人と人を結合していた社会的倫理は「個人化」の時代では個人を拘束するものではなくなり、人は人の弱さを理解し自身の外傷は自身のセラピーによってケアするしかない。自分をいたずらに傷つけた彼の弱さは彼の心理的困難から来ているのだから。こうしてどこにも悪人はおらず、どこにも不幸を訴える相手またそれを保証する大文字の他者は見えなくなっている。今あえて不幸を訴え大文字の他者を強く希求すれば、そんなことをする人はパラノイアとなってしまう(さらには犯罪者か)。」[149]  

樫村氏は、再帰化・個人化は一部のエリートにのみ可能であり、「現在のようにグローバル資本主義が次々に「周辺者」を生みだす社会では、「例外」が多数者となっていく」とする。そして規律社会から監視社会へという転換(ポストフーコー風の)に言及した上で、「このような監視権力のもとで生産され、生き延びる多数の主体は「マクドナルド化した主体」である」とする。
 すなわち再帰化がマクドナルド化に簒奪されているというのである。またもや「マクドナルド化」だが、ここで言われている「マクドナルド化」とは次のようなものだ。

「「自分探し」と「癒し願望」(さらには心理学ブーム)は、社会規範や制度に頼れなくなった(「個人化」した)主体により現在求められていることであり、それは精神分析にとっては再帰的主体の可能性の条件であるのに、実質的には葛藤の性急な解消を求める「マクドナルド化」へと回収されている。私の精神分析の授業でも、学生が恋人ができるか教えて欲しい(=占って欲しい)といってきたことがあった。」[151]  

ここでは「葛藤の性急な解決」が「マクドナルド化」と呼ばれているのである。精神分析学にあって葛藤は文明人の宿命の如きものとして捉えられていたが、それが別様の態度(すなわち性急な解決)で人々に扱われるようになっているのだ。こうした状況から精神分析が明らかにできることとして次の二つが指摘されている。
マクドナルド化を生みだす社会状況は主体を危機に陥れるので再帰的主体化は困難である。 マクドナルド的主体は「動物化」(東浩紀)した主体や多重人格ではなく、「ポストモダン的ヒステリー」(ジジェク、斉藤環)である。これは単なる退行ではなく、神経症化―文明化を前提にした脱文明化(=大文字の他者の死)という高次の水準で起こっている。
 興味深いのはここでは「大文字の他者」は「文明化」と結び付けられている点である。 だがそれは差し当たって措くとして脱文明化がどう高次なのかについては、ジジェクを参照しつつ、リビドー構造の三つの形態として、プロテスタント的倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的なナルシシスト」があるとされている。

「最初の二者は、その底に自我理想を保持しているが、「病的ナルシシスト」では、象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、いかに成功するかの規則、他者を操るためのゲームの規則だけをしっているとする」[318]。

 また、「大文字の他者」の死がもたらす困難の別の例として、スピノザ主義的な善悪の棄却による善の狂信化=根源悪化や、他者との関係の困難による他者恐怖やその一つの帰結としての「新人種主義」があげられている。
そして樫村氏は、再びジジェクに依拠しながら、「スピノザ的認識がマクドナルド的主体の下で不断の同一化の道具(命令)として受けとられるしかた」が「中立的に見える知が権力(主人のシニフィアン)を隠しもち、大学の言説が超自我として機能している」と指摘し、その上で、次のように述べる。

「マクドナルド化の時代において、科学的言説はこうして超自我化した大学の言説として、主人の言説の欠如を埋めて機能する。知と権力を同一視するフーコーの生権力論は大学の言説の超自我化をこうして良く説明するが、そのすり替えという操作は記述できていない。  

「メランコリー」は、マクドナルド化すなわち不断の換愈的な同一化の運動からリタイアし、または最初から排除され、「倒錯」はマクドナルド的主体の外傷に対してオルタナティブな外傷との関係を構築する。「メランコリー」は愛され、「倒錯者」は嫌悪されている。がそれらはホモ・サケルの両面でしかない。」[157]    

実のところ評者には樫村氏の言う再帰性の意味するところ(とりわけ再帰性と葛藤の関係)があまり良くわからないのであるが、その上に不意にホモ・サケルにも言及され、議論がかなりアクロバティックなので追いかけるのが大変である。
 フーコーが「説明できていない」というのは要は、ラカン派精神分析学的説明を受け入れていないという程度のことであるようなので差し当たってここでは措き、ホモ・サケルを問題としたい。

ジジェクに依拠しながら樫村氏は「隣人としての近すぎる距離はコントロールできず、ジジェクのいうように、理解不能な犯罪者も受容可能なヒューマニズム的視線の同一化の対象となる難民も、生権力の同じ対象としての「ホモサケル」として同定される、そして彼らは外傷の異なる加工形式において人々を魅了する」としている。  

ホモ・サケルとはアガンベンによれば主権と対となる殺害可能な人々だった(『ホモ・サケル』以文社、2003年)。
 アガンベンはシュミットの主権に関する有名な定義「主権者とは例外状態において決定を行う者」を踏まえつつ、古代帝政ローマにおける主権の成立期から今日に至る例外状態と主権の関係の系譜を描き出す。
彼の診断によれば、今日主権的権力にとっての例外状態の範例となっているのは収容所である。アガンベンはフーコーが収容所を問題とせず監獄を問題としたことを批判する。というのも法の中に一領域として位置づけられている監獄の系譜学では主権のありようと結びついた「例外状態」の始原には遡りえないからである。
収容所へといたる、主権にとっての例外状態の原初に見出されるのはホモ・サケルと呼ばれる特異な性格(「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生、それが聖なる生である」という)を負わされた人間たちである。ホモ・サケルから収容所へといたる系譜をたどることでアガンベンは、西洋の政治が、ホモ・サケルをその原初形態とする、「剥き出しの生」(=ゾーエでもビオスでもない、文化と自然、人間と獣の間の不分明な生のありよう)の排除によって自らを構成してきたことを明らかにしようとする。
アガンベンによれば、生への配慮を行う生権力的な要素とはそもそも主権の本源的な権能に他ならないのである。

「剥き出しの生を政治の圏域に含みこむということが主権権力の――隠されているとはいえ――そもそもの中核をなしているということである。さらに言えば、生政治的な身体を生産することとは主権権力の本来の権能なのである。」[14]
 
 『ホモサケル』連作においてアガンベンは確かに今日における生政治の帯びるある特徴をそれなりに説得的に示すことに成功している。
しかし、アガンベンの議論では生権力の問題が主権へと回収されてしまうためにフーコーがこだわり続けた権力の重層性の問題が見過ごされてしまうことになる。それゆえ、アガンベンによるホモ・サケルの系譜学は、アドルノたちによる『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)における野蛮へといたる啓蒙の頽落のごとく、生政治の必然的な顛末とされてしまうのである。評者の考えでは、現在性を捉えるには、アガンベンの議論を権力の重層性の中に今一度位置づけなおす必要がある。

フーコーの生権力論の理解としてアガンベンの考え自体にもこのような見過ごせない飛躍があるのだが、樫村=ジジェクの議論はそれにもまして短絡化された議論ではないだろうか。メランコリーや倒錯者がホモ・サケルであるとは一体どういうことであるのだろうか?
 性犯罪者などが容赦のない排除の対象とされているのは確かである(しかも痴漢取り締まりは数多くの冤罪を作り出している)としても「欝はこころの風邪」などということが語られる今日、それがアガンベンの言うようなホモ・サケルと同一視できるとは思われない。ホモ・サケルのインフレーションを押し進める前に、欝の統治がどのように行われているのかをもっとつぶさに見る必要があるのではないだろうか。
またアガンベンの言う主権と樫村氏の言う「大文字の他者」はどういった関係にあるのだろうか?興味深いテーマであるが樫村氏が論じているわけではないのでここではこれ以上突き詰めないこととしたい。ただし、主権論の確立した絶対王政期が「文明化」を押し進めた時期でもあったこと、は「大文字の他者」の「君臨」や「不在」に関わる諸問題を考える上で頗る重要であると評者は考えている(がこれは別の機会に論じたい)。
ところで、ポストモダンをめぐる議論についてしばしば感じることであるが、どうも歴史的なパースペクティヴを欠いている議論が多いように思われてしまうのだ。
そして、ここでの樫村氏の議論はその典型なのではと強く感じずにはいられないのである。 そして、そもそもモダンの捉え方が一面的なのではないだろうか?という疑念も湧き出て仕方がない。これは自分が歴史学の素人であることを省みずの放言であって、自戒としたいことなのでもあるが。

そもそもポスト(post)という感覚において歴史を捉える考え方というのは度し難くモダンなものだろう。しかし、こうした問題もここでは措いて、第5章における樫村氏の議論をさらに辿ることとしよう。

「「マクドナルド化した主体がポストモダン社会に適応した主体であるとすれば、そこからこぼれ落ちる例外的生が「メランコリー」である。社会学者のエーレンベルグは、ディシプリン、コンフリクト、罪悪感などの特性が見られる神経症の時代から、責任と行動、不十分さと恥といった特性が見られる欝の時代への現在の移行を指摘する。彼は欝とアディクションは、それぞれ未来がなく、モチベーションを求める時代の病であるという。彼によれば欝とアディクションのそれぞれに対応する、「欠損する人間」と「強迫的な人間」はヤヌスの双面である。精神病における欝の隆盛はプロザックのような強力な坑欝剤の出現と期を共にしており、それは、欝が精神分析の対象から離れて「気分の病」として操作されていくことを意味していた。さらに気分の病気は、モチベーションをもたないことによる「行動不能」の病気として社会的に読まれていく。精神分析的に見れば両者のどちらにおいても否定されているのは対象と対象関係である。そして、すべてを関係を持たずに即食べつくすように内化してしまうメランコリーと、即自的な享楽の対象がナルシシズム的な他者の幻影を可能にする(なので実際にはそれは「要求の対象」である)アディクション(後に詳しく見る)のどちらでも他者は否定されている。」[158]  

 ここで言及されている『自己であることの疲労』(La Fatigue d'etre soi:depression et societe, Poches, 1998)におけるエーレンベルグの議論はもう少し興味深いものだ(評者には異論もあるが)。それゆえ以下ではエーレンベルグの『自己であることの疲労』における議論をしばらくフォローしたい。

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