宇波彰現代哲学研究所

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(5)

2-2.

 エーレンベルグによれば、うつやアディクションの流行は、性別や階級のような「分類」(classe)に応じてあてがわれた禁止への服従を促すことによって行動を管理する「規律的モデル」から自己責任に基づく管理のモデルへのシフト、と結びついている。これは「分類」間の葛藤を管理するような民主主義社会のありかたから自己責任的主体を前提とする民主主義社会の管理へのシフトと軌を一にしているとされる。

エーレンベルグはこうしたシフトの転機となったのが1960年代であり、このとき言葉の正確な意味での「解放」がなされたのだという。この解放をめぐっては次のような語りがなされることが多い。

「人間を、大文字の君主(Prince)の従順な臣民(sujet)ではなく、自分自身の所有者とする近代の政治的理想が、生活のあらゆる面に拡張した。自分自身にしか似ていない、至高の個人(主権的個人sujet suvraine)は、ニーチェがその到来を告げたように、これ以後、生の共通の形式となった。」[14]

 しかし、エーレンベルグは、まさしくこうしたステレオタイプの考え(生存の個人化と公的生活の衰退)こそ誤解の源であるという。それは個人主義的な幻想に過ぎない。彼が強調するところでは、共和制の共通の準拠枠が、「禁止と許されたものの分割」から「可能なものと不可能なもの」へと変わったのである。

「人(personne)は外部の秩序にしたがって行動する(すなわち法への順応)の代わりに、自分の内的なばねを支えとし、自身の精神的な能力を頼りにしなければならない。今日では、企画、モチベーション、コミュニケーションが規範である。(中略)理想的個人の尺度は、従順さよりもイニチアシブである。」[15-16]

 ここで注意すべきなのは、エーレンベルグは、「大文字の他者の死」という樫村の主張とはややニュアンスの異なることを述べている点である。エーレンベルグは、「大文字の他者」がなくなって、諸個人が「マクドナルド化」したから欝がホモ・サケルとして広まったと述べているわけではない。
すなわち「大文字の主体の不在」というモ(喪)ノ語りがなされているわけではない。個人のイニチアシブや、可能なものと不可能なものの分割が、「共通の規範」となったことの代償として欝の広がりが見られるのだとしているのである(過去の分割の元ではまた別の代償があった)。先に見た、葛藤の後退はこうした「共通の規範」の転換に関わっているのである。

1970年代以降の時代の病として欝の隣人である、アディクションがある。これについてエーレンベルグは言う。

「精神科医はこう教える。アディクションは欝と闘う手段であると。すなわちアディクションは強迫的な行動によってこの紛争(conflits葛藤)を研ぎ澄ませるのであると。(中略)  アディクションは自己が自己を完全に捕獲することの不可能性を体現している。ドラッグ使用者は、自分自身の奴隷である。というのも彼はある製品、ある行動、ある人物に依存しているからである。主体を作る能力、これはまた社会を作る能力ともなる、が問題とされているのである。彼は法との「不可能な」関係の中に身を置く。(中略)欝が見出しえない主体の物語であるとすれば、アディクションは失われた主体へのノスタルジーである。」[19]

 ところで、こうした薬物へのアディクションの位置づけは、ドラッグの個人的使用に対する「寛容化」が進んでいることを前提としている点で、すこぶる西欧的であると言える。 ここで誰もが理解できることとして、のりP事件や押尾事件の大馬鹿騒ぎを見れば分かるように、日本では、アディクションについて、到底そんなことを言えはしないということがある。 日本ではドラッグ使用は、世論によっても取り締まり当局によっても、なお凶悪犯罪のごときものと見なされているのである(その一方で、ギャンブルや買い物、インターネット等々への「(薬物なき)依存」が語られるようになっている)。フランス社会を対象としているエーレンベルグの言葉をそのまま流用して、日本においてドラッグ問題について、禁止―許容が不可能―可能に置き換わったと言うことはできないのである。
合法的なものへのアディクションと非合法なものへのアディクションの違いは執拗に厳格に線引きされているし、それを前提として管理政策が行われている。とはいえこのことは単純に日本社会には「大文字の他者」による禁止が残存しているということを意味しているわけでもない。
たとえば児童ポルノ規制はずっとゆるい。ヨッパライにもまだまだ寛容だ。また人種差別についても「寛容」だ。国際的非難を受けているので児童ポルノなどは今後どうなるかは分からないが。

いずれにしても興味深いのは、アディクション問題を扱っていながら、樫村氏が日本におけるドラッグ問題とフランスにおけるそれを単純に一緒くたにして論じることはできないということにとんと無頓着な点である。そうしたことはラカン派的精神分析学的臨床社会学的にはどうでもよいことなのであろうか?はたまた「大文字の他者の死」ゆえに日本ではドラッグ取締りがあいも変わらず厳格でますます強化されているのだろうか?
 ここではドラッグ問題にこれ以上踏み込むことはしないが、ドラッグ問題の歴史や日本の現状に関わる次元は樫村の議論においては捨象されている。いわばそれを捨象することによって「大文字の他者の不在」後の世界が語られているのである。  

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