宇波彰現代哲学研究所

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樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(6)

2-3.

 樫村氏の議論をさらに辿ろう。   

樫村氏は、「メランコリーが現在の症候としてもつ意味について」次の点を指摘している。すなわち、①メランコリーは自我理想の欠如であり、その条件は現代社会における主要な特性であること②メランコリーが女性と関連付けて論じられるように、主体としての弱さを持つ点で、「多くの「例外」的主体を生み出すグローバル資本主義社会において、やはり主要な特性であること。
 後者の点について、「ここでは精神分析における女性の場所をポストコロニアルやグローバル資本主義における「例外」的主体の場所に近いものとして思考する可能性がある」と指摘した上で、しかしバトラーをはじめとするポストモダンの論客たちが安直にロマン化してしまっているのではないかと述べる(一方で「精神分析は女性をも含めた社会的周辺者の主体化については疎い」と指摘してもいるが)。ポストモダンの論者たちは「同一化と社会化を拒否するメランコリーはいまや資本主義に対する抵抗の拠点」だとしている[160]。

「もちろん同一化と社会化についてはすでに堅固な審級があるわけではないため、彼らは主体化そのものの拒否としてより自覚的に退行する。この気分は先のエーレンベルグの指摘のように、自己コントロールを強制される時代(「主体になれ。しかしマクドナルド化として最小限に」)への反抗と呼応したものである。」[160-161]

そこから樫村氏は、バトラーをやっつける前に、その前振りとしてエーレンベルグの誤りを批判する。曰く、
「それは、エーレンベルグがアディクションに見られる強迫性を投影的読解によって欝とは逆向きのものとして考えている(病気としてのアディクションではなく、マクドナルド化的主体のモチベーションへの呼応と同じレベルで、欝に対する躁的防衛として読み込む)ことの誤りと類似のものであると考えられる。」[165]

「アディクションはこのようにアディクション者を支えるが、それはエーレンベルグが考えるようにモチベーションを要求するグローバル資本主義における強迫的代理行為(現実的な目標を失ったただの運動が代理対象を求めて自家撞着的に空回りしている)ではなく、資本主義社会がフレキシビリティを求めるがゆえに安定した自我理想およびその基礎となる母の支えを欠いた主体がそのつど自らを支える、むしろ強迫に対抗する補完的行為(安定した他者をそのつど行為の中で即自に人工的に作り出し、対象そのものは排除)なのである。」[166]  

しかし、こうした指摘は、エーレンベルグの著作が欝にかんする言説の社会史であることからすれ違うことになっている。要するに、樫村氏はここでも、「ラカン派精神分析学的観点から見ると君の解釈は違うのだよ」と述べているわけであるが、エーレンベルグのほうはむしろ精神分析学的言説が後退していったことと、欝が時代病となっていったことのつながりの方に関心を寄せているからである。エーレンベルグは言う。

「1800年において病理的個人の問題は狂気―譫妄の極を伴って姿を現す。1900年においてこの問題は、罪悪感のジレンマ、それから自らを解放しようという試みによって神経症となった人間を引き裂いたジレンマによって変質する。2000年において個人の病理は、父達の掟、外的な規則への服従や順応のシステム、から解放された個人の責任の病理である。欝とアディクションは至高の個人(主権的個人sujet souvrain)の表裏をなしている(後略)」[292]  

樫村氏自身も述べているように、欝の流行は、坑欝剤の進化や普及と密接に結びついている。エーレンベルグは、こうした欝の流行が、精神医学における、病の診断の後退ないし危機をもたらしていると指摘している。すなわち、まず鬱病と診断し、そして坑欝剤を処方するというよりも、坑欝剤が効くから欝と見做すという転倒が生じているという。

似たような指摘は、たとえば、『坑うつ薬の時代:うつ病治療の光と影』(星和書店)のなかでデーヴィッド・ヒーリーが行っている。

「「坑うつ薬」が最初に「発見」あるいは「発明」された当時、うつ病は比較的稀なものと考えられていた。(中略)実のところある意味では、薬物により治療できるうつ病という概念が、坑うつ薬という概念とともに発見されなければならなかった。」[5]  

臨床社会学者として樫村氏が行わなければならなかったのは、たんにラカン派の知見の変わることのない正しさを主張することではなく、こうした「坑うつ薬」の制覇と、アメリカを中心とする、精神分析の後退との連関を、あいまいな「マクドナルド化」、「再帰化」、「ポストモダン」、「大文字の父の死」、といった符丁でもっともらしくモノ語って済ますことでもなく、エーレンベルグのようにきちんと分析することであったのではないか。
 そうしたことを行わずに次のように言うことは、当の樫村氏がバトラーについて批判して述べたメランコリー概念のロマン化をはたしてどれだけ免れているのだろうか?

「ラカンはメランコリー者は象徴界にいるとした。メランコリーにおいては自我の錯覚的性質が暴かれ、同一性の偽の保証がひっくり返され、また分析の過程の中でメランコリー的状態が起こることが指摘されている。この意味で、メランコリーは女性がそうであるように、主体の位置としては、再帰的主体への可能性を最も強くもっている。」[170]

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