宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

樫村愛子氏『臨床社会学ならこうかんがえる』(青土社、2009年)を読む(7)

3.終わりに

その死や不在を語る以前に、「大文字の他者」とはそもそも何であるのか?そしてポストを語る前に近代とはそもそも何であるのか?たんに読めていないだけなのかもしれないが『臨床社会学ならこう考える』を読めば読むほど分からなくなってきたのはこの問題である。たんに他の場所で論じたので樫村氏は議論の前提としているだけなのかもしれないが、評者のような無知なる者にはどうもよく呑み込めなかった。
 とても示唆深い論点がいくつも提示されており、その点では頗る刺激的なのであるが、樫村氏が拠り所とする「大文字の他者の不在」なるものがどうにも躓きの石となってしまうのであった。

樫村氏が言うところの「大文字の他者」とは歴史的にどういった水準に位置づけられるのか?それは歴史貫通的な人間存在の本質の水準に位置づけられるべきものなのか?あるいはキリスト教的伝統(「神」=大文字の他者)やそれと結びつく「西欧近代的主体」と対をなすものであるのか?
 前者であるとすれば「大文字の他者」の「不在」や「死」を言うことがそもそもナンセンスとなろう。後者であるとすればあいも変わらず問われなければならないのは、近代的主体とは何か?近代とは如何なる事態であるのか?とりわけ非欧米諸国においてそれらは何である(あるいはあった)のか?ということであろう。そして臨床社会学的には、精神分析学が成立しえた歴史的条件を検討する必要があるのではないだろうか。
第2章で樫村氏は、脱文明化と「大文字の他者の死」を関連付けて論じているアラン・ミレールの議論を参照している。となると後者が樫村氏の立場のようにも思われるがどうなのかは良く分からない。 「大文字の他者の不在」のもたらす諸問題を論じるという構えの中にある樫村氏のラカン派臨床社会学的言説は「不在の過去=楽園」への郷愁のモ(喪)ノ語り以上のものを示しえるのだろうか?門外漢の勝手な印象論に過ぎないが、そうでなくても疎外論的な楽園追放の語りとなりかねないラカン派の議論が、樫村氏にあっては、さらなる喪失の物語としてモ(喪)ノ語られているように見えてしまうのだ。
いずれにしても「政治的なもの」や「社会的なもの」の分析において、重要なのは漠然とした「大文字の他者の欠如」、「大文字の他者の死」なるものを持ち出してきて、現在性を分析することではないだろう。それはむしろ結果=効果に他ならないのだから。
アルチュセール的な観点から言えば、「大文字の他者」とは国家イデオロギー諸装置の結果=効果としてその都度たち現れるものである。社会を分析するに当たっては、「歴史」や「社会」をラカン派臨床社会学的なモ(喪)ノ語りに還元してしまうことではなく、やはり諸装置の分析を愚直に進めることこそ重要なのではないかというのが理解力乏しき評者の差し当たっての読後感であった。

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