宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

現代建築と江戸城天守閣~権力の象徴をかたちにする設計者の意識~(2)

権力者の目で見た「江戸空間」

江戸時代の国家権力が、江戸という都市、あるいはそれを取り巻くもっと広い地域を一望のもとに支配しようとして、そのイデオロギーを確保するためにつくった装置が、江戸城の天守閣である。江戸に江戸城天守閣がることによって、江戸という都市それ自体がパノプチコンとして成立していたのである。しかし、東京都政の責任者たちも、菊竹清訓も、これについて意識していなかったようである。というのは、菊竹清訓の「江戸東京ひろばの模型によるスタディ」(「AT」1993年4月号)に付されたメモでは、江戸城天守閣を「江戸町民文化のシンボル」として規定しているからである。この規定自体に問題があると考えなくてはならない。つまり、天守閣は、つねに権力の象徴であり、そのためにこそ可能な限り高くつくられたからである。「偉大な都市づくり」とは、権力者のための都市づくりにほかならなかった。そうでなければ、都市を見下ろすための天守閣は不要だったはずである。もしも、建築家自身がいうように、江戸東京博物館が、江戸城天守閣を写したものであるとするならば、それは結果としては、江戸という巨大なパノプチコン装置の監視塔としての天守閣を再生産したことになる。もちろんそれは象徴的な意味でいっているのであるが、江戸における江戸城の役割が何であったのかをよく考えた上での発想であったのか、疑わざるをえない。
日本橋を渡ると江戸城の天守閣が見えるという発想が菊竹清訓の「スタディ」のドローイングにも見えているが、天守閣はあくまでも「高さ」によって存在しているのであり、「登城」という日本語はそのことをよく表わしていることばである。『記号の帝国』(邦訳タイトル『表象の帝国』)で述べられているロラン・バルトの東京論では、東京は中心が空虚な都市として考えられている。このバルトの意見は多くのひとによって言及され、引用されているから、いまさら取り上げる必要もないかもしれないが、ヨーロッパの都市では、中心のあたりに広場があって、その周辺に政治の中心である市庁舎、宗教の中心であるカテドラルがある。バルトは、そのようなヨーロッパの都市をモデルに考えているのであるが、江戸にとっての江戸城も、東京にとっての皇居も、ひとびとが集まってくる場所という意味での中心ではありえない。
最近私は、メキシコを訪れる機会があったが、メキシコシティの中心には、リベラの壁画で有名な国立宮殿も、少し傾いている巨大なカテドラルもあり、それらの建築物が広場を取り囲んでいる構造になっている。おそらく、その近くには銀行もあるはずであり、バルトがいうように都市の中心が、同時に政治・経済・宗教などの中心になっていることがよくわかる。そして、この広場にはメキシコ特有の色とりどりのテントが張られているが、それは地方から陳情にやって来たひとたちのものだという。つまり、メキシコのひとたちは、首都であるメキシコシティの中心にあるこの広場に来ることによって、政府への「陳情」ができるのであり、そのような場所がメキシコシティには存在しているのだ。それは、欧米のほかの都市についてもいえることであろう。

監視塔が町民文化のシンボルか

しかし、江戸時代の民衆は、江戸城の天守閣に「陳情」にいくことができたであろうか。江戸城も、皇居も、一般の民衆にとっては接近できない特別な領域であり、バルトのいうとおり空虚な中心にほかならない。私は、子どものころに「少年講談」で読んだある場面を想起する。それは、江戸幕府の転覆をもくろむ由井正雪の仲間が、堀の深さを測ろうとして水に石を投げているシーンである。ここでは、江戸城ははるか遠くにある、秘密の場所にほかならない。したがって、江戸の中心にあった天守閣を、「江戸町民文化のシンボル」と考えること自体に無理がある。江戸東京博物館の発想それ自体に問題があるといわなくてはならないであろう。
江戸城の歴史を調べてみると、このことに関して興味ある事実が浮かび上がってくる。村井益男氏の『江戸城・・将軍家の生活』(中公新書)によると、江戸東京博物館のモデルである江戸城天守閣は、1606年に土台の石垣が築かれ、その翌年に五層の楼閣が完成したあと、何度も修復されたが、1657年のいわゆる振袖火事(江戸東京博物館には、この火事についての資料が展示されている)によって焼失した。天守閣再建の案が議せられたとき、将軍家綱の叔父で、補佐役であった保科正之は、「天守は今やさほど重要ではない、ただ遠くまで見渡すためにだけ莫大な財貨を使うのは無駄だ」と主張したという。江戸東京博物館をつくったひとたちは、この保科正之のことばを知っていたのであろうか。江戸時代の政治家は、江戸城天守閣をパノプチコンの監視塔として使うことに早くから疑問を感じていたのである。

権力のアナロジーがかたちに

枝川公一は、『東京はいつまで東京でありつづけるか』のなかで次のように書いている。「江戸東京博物館は、きわめて政治的な施設であり、時の東京の権力者が、過去の素材を借りて、都市の未来のためのプロパガンダを行なっている」。枝川氏は現実の問題として語っているのであるが、私は、この博物館の発想のなかに、意識としてのパノプチコン的構造への志向があるように考える。実際にこの博物館に入ってみると、高さ62メートルにする必然性はないとしか思えないからである。
私は、本誌9月号で、熊本アートポリスの再春館.製薬女子社員寮(妹島和世設計)が、企業の論理をそのまま生産したパノプチコン的構造を持ったものであることを指摘しておいた。しかし、実をいうと、私はこの再春館製薬女子社員寮のばあいは、建築家が経営者の主張に負けてあのようなものをつくらされた稀なケースであり、責任は建築家よりもむしろあのような建築を依頼した企業の経営者の側にあるように感じていたのであって、日本の建築家たちが、前近代的な企業のロジックに因えられていることなどはありえないと考えていた。しかし、私は江戸東京博物館を見て、日本の建築家たちの意識の底には、どこかでパノプチコンを容認するものがあるのではないかと疑うようになったのである。

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一語で検索 2007年12月23日(Sun) 06:52